カテゴリー「国内旅行(石川)」の記事

2019年2月11日 (月)

加賀石の里めぐり(7)滝ヶ原の石橋群

170505takigahara0 勢いで続けます。
小松市の滝ヶ原町では、滝ヶ原石という凝灰岩の石材が採れ、その石を使ったアーチ石橋群があるということで、見に行きました。
交通手段を調べたところ、滝ヶ原町に直接行くバスはなく、地図を見ると、那谷寺から低い峠越えの道を2kmほど歩けば着くということで、加賀周遊バス「キャン・バス」で那谷寺まで行き、そこから歩くことにしました。

 

実際、この写真ぐらい緩やかな峠で、「熊に注意」の看板さえ気にしなければ楽な道です。

 

訪問日:2017年5月5日

 

※今回の分も、カメラの設定がずれていて解像度が低いです。見づらくてすみません。

 

170505takigahara1 滝ヶ原町の谷に降りると、観光案内地図がありました。
滝ヶ原のアーチ石橋群はこの地域の観光の目玉なので、5つの石橋をめぐるウォーキングルート(約6km・3時間)というのが示されています。結果を先に言ってしまいますが、バスの時間の都合で、ルートを短縮して約1時間で回りました。

 

170505takigahara2 案内板の近くには、鞍掛山アーチ型石橋由来碑というものが建っています。つい最近立てられたものです。

 

170505takigahara3 目指す石橋はあの山の麓。
広い谷で、歩く道はほとんど平坦です。

 

170505takigahara4 川を覗いてみると、岩盤が露出しています。
見慣れた川の風景ではありません。

 

170505takigahara5 川に沿って歩いて行くと、さっそく最初の石橋、西山橋が現れました。
シダなどに覆われていて、見た目はきれいです。橋本体は見にくいですが。

 

170505takigahara6 橋を保護するためか、欄干は設置されていなくて、注意看板が置かれています。
上から見たら道路が川を渡っているだけに見えます。
横から眺めないといけません。

 

170505takigahara7 分かれ道に建っていた下見板張りの建物。
倉庫でしょうか。

 

170505takigahara8 川の左岸を歩いて行くと、道の脇に石材が置かれているのが目に入りました。
この上に石切場跡があります。最後に紹介します。

 

170505takigahara9 我山橋に到着。
この橋が一番さりげないかもしれません。
よく見ないと見落としそうです。

 

170505takigahara10 我山橋が架かる川とは別の流れの川に残りの橋は架かっています。
丸竹橋は一番きれいに整えられた橋です。
かつ、平行して新しい橋が架かっていますので、よく観察できます。
この写真も隣の橋から撮りました。
アーチ部分は青い石、本体は赤っぽい石で組まれていて、コントラストがきれいです。
5橋の中でもこの橋がメインと言えるでしょう。

 

170505takigahara11 この橋の所に、小松市指定文化財「滝ヶ原アーチ石橋群」の説明板がありました。
解説を読むと、架橋年代は明治後期から昭和初期にかけて、地元石工により建設されたそうです。かつては11橋があったと書かれています。

 

170505takigahara14 先に進むと、石材店の看板がありました。
ここは現在も滝ヶ原石を採掘されている荒谷商店さんです。

 

東京のブルーボトルコーヒー品川カフェで、滝ヶ原石が使用されていると紹介されています。興味のある方はどうぞ。

 

170505takigahara15 道の脇に石材が積まれていて、滝ヶ原石を観察できます。
青みがかった上品な色合いですね。

 

170505takigahara12 この奥に現役の本山採石丁場があるようです。

 

170505takigahara13 また近くの「石の里水と緑のふれあい公園」には、小松市により「珠玉と石の里」滝ヶ原の案内板が立てられています。

 

170505takigahara17 さらに一番奥の東口橋に行きました。
省略しましたが、ここまでの石橋も橋名を記した柱が設置されています。
上から見るとこれだけ?という感じですが。

 

170505takigahara16 この橋は下に降りやすく、近くから観察できるのでお勧めです。なんならくぐることも可能。
5つの橋の中でも野性的な雰囲気。丸竹橋の看板にあった「壁石上部に方柱状の石を等間隔に突出させて地覆石を支える「貫石構造」を持つもの」の例になっています。

 

170505takigahara18 東口橋が一番奥なので引き返し、帰りに大門橋を見ました。
ここは隣の丸竹橋同様、整った橋です。
これで5つ全部回れました。
隣の菩提町にもう1つあるらしいですが、それは離れているのでまたの機会に。

 

170505takigahara19 帰り道、川の右岸を歩くと、西山石切場跡がよく見えます。
実際のスケール感は写真で見るよりもっと大きく感じられます。
この柱でよく支えていますね。

 

狭い地域に新旧の石切場と石橋が固まっているので、石を見に行くにはいい場所だと思います。

 

 

<関連記事>
 「加賀石の里めぐり(1)鵜川石切場跡」  「加賀石の里めぐり(2)ハニベ巌窟院」  「加賀石の里めぐり(3)遊泉寺銅山跡」  「加賀石の里めぐり(4)大聖寺の近代建築など」  「加賀石の里めぐり(5)那谷寺」  「加賀石の里めぐり(6)那谷の建物など」

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2019年2月10日 (日)

加賀石の里めぐり(6)那谷の建物など

170505nata0 2017年5月5日の記事です。
那谷寺に行ったのは那谷寺自体を見たかったこともありますが、ここを起点に石橋や石材で知られる滝ヶ原に歩くのも目的でした。その途中、気になる建物がありました。

 

こちらの建物。那谷校下公民館と呼ばれています。
「校下公民館」という言葉は耳慣れないですが、小松市の説明によると
「小松市の「 校下公民館」とは施設のことではなく、各地域の文化や地域特性に応じて住民が主体的かつ独自に運営・活動を行っている団体です。市内の小学校校下ごとに、 校下公民館25館、各町分館(校下公民館の分館)228館が存在します。」(小松市HP

 

※今回、デジカメの設定がずれていて、低解像度です。すみません。

 

170505nata1 2階建て、ほぼ左右対称の建物で、正面は縦板張り、側面は下見板張りになっています。

 

170505nata2 中央の車寄せと垂直方向の突出部分。

 

170505nata3 窓越しに見える階段は木造で、親柱はシンプルながら装飾が入っています。

 

170505nata4 すぐ横にも物置っぽい、下見板張りの建物もありました。

 

170505nata5 扉のガラスの桟の入れ方が洋風ですね。

 

今のところ、私には詳しいことは調べられていません。

 

170505nata6 つづいて、那谷小学校。
校門の門柱が古く見えます。

 

170505nata7 石材の土台は花崗岩のようですが、本体には凝灰岩を使っているように見えます。

 

170505nata8 その隣には御大典記念の何かがありました。
昭和3年と書かれています。

 

170505nata9 この小屋も気になります。

 

 

170505nata10 校庭には二宮金次郎像が立っていました。

 

170505nata11 あと全く違うのですが、那谷の建物で気になる点として、このタイプの平らな瓦(巴瓦で合ってますでしょうか)をよく見かけました。この場合は波乗りうさぎです。

 

たまたま滝ヶ原に歩いて行ったためにこれらに出会うことができ、拾いものだったと思います。

 

 

<関連記事>
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2019年2月 8日 (金)

加賀石の里めぐり(5)那谷寺

170505natadera0 2017年5月の加賀旅行の続きです。
まだ終わってなかったのかという感じですが。

 

かなり以前から行ってみたかった那谷寺に行きました。
加賀の山手で、粟津温泉と山代温泉の間にあります。

 

那谷寺自身の紹介によれば、このあたりは弥生時代からの碧玉の産地です。養老元年(717年)、白山を開いた泰澄大師が同年秋にここに岩屋寺(那谷寺)を開きました。その頃から白山信仰の地の一つとして神仏習合しています。
平安時代になって、花山法皇が西国三十三番観音霊場の最初の那(智山)と最後の谷(汲山)から一字ずつ取って、那谷寺と命名したそうです。もともと那谷という地名ではないのですね。
その後、安土桃山時代に兵火によって焼失しますが、江戸時代になって小松に隠居していた前田利常公が復興して、現在に至っています。

 

境内は谷間を利用して作られていて、参道は鬱蒼と湿気が感じられます。

 

※この時、カメラの設定がずれていて、解像度が低い写真が多いです。すみません。

 

170505natadera1 まず名勝の庭園から見学しました。
これは三尊石といって、阿弥陀三尊になぞらえられた天然石の岩面です。
このように地形を活かした庭園が作られています。
この山は凝灰岩のかたまりで、境内のあちらこちらで露出しています。

 

170505natadera2 岩肌と一体化した岩の祠。
弁財天像が祀られているようです。

 

170505natadera3 ここから金堂に向かってトンネル通路が掘られています。

 

170505natadera4 こんな風に素堀ですので、大きな岩のかたまりであるのが分かります。

 

170505natadera5 次に奇岩遊仙境へ。
自然の岩を彫って、階段や岩屋を作っています。
昔は中に入って歩けたようですが、この時点で既に立入禁止。

 

170505natadera6 奇岩遊仙境の説明。
「自然智を象徴する自然景観」と説明されていて、自然崇拝の、仏教らしからぬ世界です。

 

170505natadera7 本堂に上がって行って、振り返った所です。
境内は緑に埋もれています。

 

170505natadera8 こちらが本殿。大悲閣といって、岩に掛けられた舞台のような建築になっています。
本殿内部では胎内くぐりができるようになっていました。

 

170505natadera9 本堂から先、岩をくぐって外に出ます。
谷の高い所をめぐるように参道がつながれていますので、上がってしまえば楽です。

 

170505natadera10 谷の奥にはため池がありました。

 

170505natadera11 谷の反対側に回り込むと、奇岩遊仙境を舞台から見下ろせるようになっています。

 

170505natadera12 参道は地盤から直接削り出された階段が彫られていて、面白い眺めです。

 

170505natadera13 鐘楼など、江戸時代の建築も残っています。

 

奇岩に、眺めるルートも整備されていて、体感する要素の強いお寺でした。

 

 

<関連記事>
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2017年8月14日 (月)

加賀石の里めぐり(4)大聖寺の近代建築など

170504daishoji02_1 2017年5月の加賀旅行の記事です。
今回は石はあまり関係ありません。

 

金沢に行く途中に大聖寺という駅があるのは知っていましたが、降りたのは初めてです。
かつてあった大聖寺という白山信仰のお寺が地名の由来であるものの、その存在感はあまりなくて、大聖寺城の城下町という性格が強いようです。江戸時代は加賀藩の支藩・大聖寺藩でした。

 

大聖寺駅のホームに降りると、古い工場建築が目に付きます。
チェーンを作っている大同工業の大きな工場が駅の南側一帯を占めています。

 

170504daishoji0_1 このようにノコギリ屋根が連なっているのが壮観です。

 

170504daishoji03_1 本社事務所も近代建築です。

 

170504daishoji04_1 町は駅の北側に広がっていて、歩いて行くと塔屋のある建物があります。
現在はヘアーサロンオダです。
あまり古そうに見えないながら、写真に撮って後で確認すると、近代建築総覧にも載っていて、大正4年に建てられた旧物産館となっています。最初は旧八十四銀行としているページもありますが、未確認です。

 

170504daishoji05_1 明るい色の蔵。
色合いからすると観音下石(日華石)でしょうか。

 

170504daishoji06_1 やや行き過ぎて、旧市街に戻ってくると、旧大聖寺川に趣きのある橋が架かっていました。
福田橋という名前で、親柱には昭和11年と書かれています。鋼ボーストリングトラス橋という形で、大聖寺にはもう一つ同じ形の二天橋(昭和6年)があるそうです。私は未確認です。

 

170504daishoji07_1 真横から見たところ。
美しくて、渡ったり、くぐったり、ぐるぐる回って眺めてしまいました。

 

170504daishoji08_1 こちらは水口製材所さん。
小さな事務所があって、母屋から渡り廊下でつながっているのが面白いなと思いました。

 

170504daishoji09_1 西に進むと大聖寺流し舟八間道船乗場。
左に電車が見えますでしょうか。待合室に使われています。
今回、舟には乗っていません。

 

170504daishoji10_1 また旧大聖寺川を渡った先に、深田久弥山の文化館として使われている、旧山長織物会社の事務所がありました。
新緑の銀杏の大木との取り合わせが絶妙です。樹齢650年とか。

 

山長織物会社事務所は明治43年に建てられ、昭和50年代半ばに工場が移転した後も、平成10年までは住居として使われていました。その後、加賀市が取得して現在に至っています。

 

170504daishoji11_1 敷地の端には、生糸保管庫として使われていた石蔵があります。
ここが展示室です。明るい石は観音下石(日華石)? でもちょっと時代が合わないかも。

 

170504daishoji13 蔵の内扉には、打出の小槌の鍵穴隠しが付いていて、チャリンと小判の蓋を動かして鍵を差し込むという遊び心ある仕掛けになっています。

 

170505daishoji14 深田久弥は山長織物会社とは関係なくて、もう少し南に行ったところに深田紙店という実家が残っています。
日本百名山の著者として知られています。
白山を眺めながら育ったのですね。

 

170504daishoji15_1 大聖寺には立派な商家がたくさんあり、その一例として大野保平商店。
今も現役のようです。

 

170504daishoji16_1 ちょっと面白い蔵の換気口金物。
泣いているみたいです。

 

170505daishoji20_1 大聖寺中新道の西野縫製工場も古い工場のようです。

 

170504daishoji17_1 そして大聖寺に行くなら訪ねて見たかったのが、彫金工房「月」・カフェサロン「銀」となっているこの建物。
昭和10年に建てられた牧野歯科医院をリノベーションしたものだそうです。
インスタグラムなどで見かけていて、ぜひ行ってみたいなと。
帰る日にお茶しに寄りました。

 

170505daishoji18_1 廊下には長い栗材が使われていて、ほとんど狂いがないそうです。

 

170505daishoji19_1 シャンデリアの根元の飾りも透かしの入ったモダンなもの。

 

今は彫金工房とカフェになっていますが、歯科医院時代の道具なども壁にオブジェのように飾っていて、うまく継承されているという印象を受けました。

 

170505daishoji21_1 最後に帰る間際、たまたま通りがかった旧那谷医院。
小さくてとてもかわいらしい診療所です。
今はなんとタビト學舎という塾になっているそうです。
この時は写真の設定を失敗したので、改めて撮りに行きたいと思います。

 

 

大聖寺はゴールデンウィークというのが嘘のように静かでした。
街並みも美しく、もっと評価されていい街のように思いました。

 

 

 

<関連記事>
 「加賀石の里めぐり(1)鵜川石切場跡」  「加賀石の里めぐり(2)ハニベ巌窟院」  「加賀石の里めぐり(3)遊泉寺銅山跡」

 

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2017年6月25日 (日)

加賀石の里めぐり(3)遊泉寺銅山跡

170503dozan_1_2 ※クリックすると拡大します(以下同様)

 

鵜川・遊泉寺地区で3ヶ所目、遊泉寺銅山跡を見に行きました。
ここには江戸時代から銅山もあったんです。
鵜川石切場跡を案内してくださった鵜遊立活性化委員会の方など地元の皆さんがこつこつと遊歩道を整備して、2006年から銅山の遺構を見て回れるようになりました。

 

 

170503dozan_1_1

 

現状はというとこんな感じの森。
まさかここに銅山町があったなんてイメージできません。

 

170503dozan03_1 案内板によるとこんなに大きな町があったそうなんです。
大正5年頃には従業員1600人、人口5000人に達していたとか。

 

江戸時代の安永元年(1772年)に開坑し、盛衰はあったものの、加賀藩の有力な財源だったようです。

 

明治になると採掘権は、土佐藩の竹内綱のち長男の竹内明太郎氏に渡りました。
竹内明太郎氏は鉱山の近代化につとめ、明治40年には鉱山から小松までの軽便鉄道を敷設、神子清水発電所を建設して機械化を進めました。

 

170503dozan04_1 この方が竹内明太郎氏です。
氏はまた機械工業の重要性を認識し、諸外国を視察して、遊泉寺銅山の私設鉄工所として小松鉄工所を設置しました。

 

鉱脈の不足や第一次世界大戦後の不況を受けて、遊泉寺銅山は大正9年に閉山に追い込まれますが、小松鉄工所は銅山の施設・物資と人員を引き継いで、大正10年に小松製作所として分離独立しました。これが今のコマツにつながっています。
ー以上、遊泉寺銅山跡記念碑より。

 

あのコマツはここから出発したんですね。
今回初めて知りました。

 

 

170503dozan05_1
銅山跡の入口には立派なトイレが整備されています。
また駐車場もあります。
駐車場はもっと奥にもあります。

 

170503dozan06_1 このあたりは公園になっていて、遊泉寺銅山のカラミ石も展示されていました。
ここのは四角柱になっているのが特徴だそうです。
他の鉱山では大型の煉瓦の形だったり、尾小屋鉱山の場合は六角柱だと聞きました。

 

170503dozan07_1 最初に現れる遺構は真吹炉です。
銅鉱質の分析炉と説明されています。

 

170503dozan19_1 周辺にはシャガが群生していて、ちょうど花の季節だったため、写真を撮りに来られている方もいました。

 

170503dozan08_1 銅山町の跡は、石垣で階段状になっています。

 

 

170503dozan09_1 次に現れるのは、この銅山跡のシンボルともいえる、巨大煙突と煙道窓です。
煙突は高さ20mあるそうです。

 

170503dozan10_1
あちこちに立入禁止看板が立っています。
鉱山跡なのであちこち穴が開いていたりして、危険があるようです。

 

170503dozan11_1 例えば、これは分かりにくいですが、窪地になっています。

 

170503dozan12_1 遊歩道の足元には煉瓦やカラミ煉瓦が落ちていたりします。

 

 

170503dozan13_1 これは何か分かりにくいですが、鍛冶屋の炉跡です。

 

170503dozan14_1 竪坑跡。深さは150mあったそうですが、危険なため、今はコンクリートで覆われています。

 

170503dozan15_1
ここから遊歩道は上りになります。
急な登り坂です。

 

170503dozan16_1_1 登り切れば、平坦な尾根道になります。
精錬所から出るノロ(不純物)を引き揚げた巻き上げ装置の台座が残っています。

 

170503dozan17_1 尾根筋からは小松市街と海が見えます。

 

170503dozan18_1 今度は谷筋を下っていくと、水源地跡があります。
ちょっと分かりにくいでしょうか。
谷が堰堤で堰き止められています。

 

 

170503dozan20_1 解説のないところにも、斜面に穴が開いていたりしましたので、まだ遺構は埋もれているかもしれませんね。

 

遊歩道は一周1.5kmで、所要時間1時間程度です。

 

なお、小松市ではこの6月に5000万円の予算を盛り込み、今後5年かけて遊歩道を整備するそうです。
北国新聞社「遊泉寺鉱山跡を整備 小松市、煙突や炉巡る遊歩道」 今でも見て回るのに不都合はないので、こういう森の中の遺跡の雰囲気が好きな方でしたら、今のうちに行っておいた方が良いかも。

 

 

<関連記事>
 「加賀石の里めぐり(1)鵜川石切場跡」  「加賀石の里めぐり(2)ハニベ巌窟院」

 

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2017年6月24日 (土)

加賀石の里めぐり(2)ハニベ巌窟院

170503hanibe01_1

 

鵜川石切場跡の案内人の方を紹介していただいたお礼もあり、この地域一番の観光地であるハニベ巌窟院も見学しました。
入口の正面に立つ仏頭のインパクトが大きいです。私は詳しくないのですが、北陸随一の珍スポット、B級スポットとして有名なんだそうです。

 

ハニベ巌窟院は、昭和26年、鵜川石の石切場跡をアトリエとして、初代院主・都賀田勇馬氏によって開洞され、二代にわたってひたすら作り続けられた仏像などで満たされた空間です。ハニベとは、埴輪を焼く人、彫塑家のことだとか。

 

入口にある仏頭は二代目によって制作途中の大仏で、完成すると高さ33mになる予定だそうです。

 

巌窟院自体はここではなくて、右手にあります。

 

170503hanibe02_1 洞窟に至るまでも彫像などが並んでいます。
これは金沢市金石浜に立つ銭屋五兵衛の銅像の原型で、昭和8年、初代によるものだそうです。

 

170503hanibe03_1 洞窟は丘の中腹にあるので、階段をあがっていきます。
途中、斜面を利用したかっこいい建物も。

 

170503hanibe04_1 メインの洞窟の他にも周囲に小さな洞窟があって(こちらも採石場跡)、塑像などが祀られています。

 

170503hanibe05 ここがメインの洞窟の入口です。
仁王様が門番です。

 

170503hanibe06_1 入ると石切場跡というのがよく分かる通路で、壁や天井など、そのまま使われています。
洞窟の全長は約150mです。

 

170503hanibe07_1 床に耐火煉瓦が敷き詰められている場所もありました。
窯に使ったものの再利用でしょうね、たぶん。

 

170503hanibe08_1 洞窟はいくつかのパートに分かれていますが、たぶん一番人気のあるのが地獄を再現したパートでしょう。
この地獄門から始まります。

 

170503hanibe09_1 鬼たちの食事風景。
食べているのは人間の目玉とか耳とか血とか。
洞窟の中という状況がぴったりですね。

 

洞窟の様子をレポートしておられる方はたくさんおられますので、そちらをご覧下さい。
悪いことをすると地獄でこうなりますよという教訓で、面白いといえば面白いです。

 

 

170503hanibe10_1
こういう通路があちこちにつながっていて、所々、柱として石が残されています。

 

 

170503hanibe11_1
最後は切り出された階段を登って地上へ。

 

170503hanibe12_1 丘の上に上がると広場になっていて、涅槃仏がおられます。
後から来た若い女性が「これが見たかったんです」と駆け寄っていたので、有名なものみたい。

 

170503hanibe13_1 私はこちらの方が気になりました。
天神牛の台座だけ残っているもの。
上野公園に代表作の天神牛があったとのことなので、そのレプリカなのか、もしかすると金属供出されて台座だけが戻ってきたのか。

 

170503hanibe14_1 台座の下段はひときわ大きな煉瓦で、半分隠れているので刻印が読めませんが、HASEGAWAと書いてるのかなと推測します。

 

他にもたくさん紹介記事があるので、簡単にはしょりましたが、多くの彫像・塑像があって、見応えがある施設です。
石切場跡の見学としても良いと思います。

 

 

<関連記事>
 「加賀石の里めぐり(1)鵜川石切場跡」

 

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2017年6月22日 (木)

加賀石の里めぐり(1)鵜川石切場跡

170503ugawa01_1 ※クリックすると拡大します

 

ゴールデンウィークの3日間、石川県の小松市・加賀市を、石をメインテーマ、北前船の里をサブテーマに巡ってきました。
どれだけ紹介できるか分かりませんが、ランダムに紹介します。

 

今回訪問した先は、
小松市の東酒造(神泉)、遊泉寺町・鵜川町、観音下、尾小屋、那谷寺、滝ヶ原、
加賀市の大聖寺、吉崎、塩屋町、瀬越、橋立、片山津温泉、動橋などです。

 

今回の旅行では一日だけ珍しくレンタカーを使いました。
回る場所が散在していたためです。

 

石切場跡や鉱山跡が集まる鵜川・遊泉寺・立明寺地区(鵜遊立地区)をめざして、その中でも観光地になっているハニベ巌窟院に車を停めました。
そこで目にしたのが、上の看板。
「珠玉と歩む物語」小松 〜時の流れの中で磨き上げた石の文化〜というストーリーで、平成28年度に日本遺産の認定を受けています。

 

170503ugawa02 ※クリックすると拡大します

 

その右側には、鵜川・遊泉寺・立明寺地区の真新しい案内板があります。
この鵜川石切場跡を見てみたいなと思って、ハニベ巌窟院の売店のお姉さんに「ここを見学できませんか?」と聞いてみました。すると案内人の方に連絡を取って下さって、すぐに来ていただけました。急にお呼び立てすることになってしまって申し訳なかったのですが、せっかく来てくれたのだからと歓迎して下さいました。
鵜遊立地区の活性化委員をされている方だそうです。

 

170503ugawa03_1

 

ヘルメットと懐中電灯を用意したら、軽トラに乗せていただいて、数百m東にある近くの石切場跡へ。
この擁壁の向こう、森の中にあります。ぱっと見には分かりません。

 

170503ugawa04_1

 

上に上がるとこのこの坑口。
冒険活劇映画のシーンのような。
案内者の方は子供の頃によく遊びに来たそうです。
松明をたいて洞窟探検をしたり、この崖にロープをかけて登ったり、地下水でスイカを冷やして食べたり。
夏は涼しく、冬は暖かいようですし、私がここの子でも絶対入り浸ります。

 

 

170503ugawa05_1
入口付近の空間。人工の洞窟なので、広々としています。

 

170503ugawa06_1 ※クリックすると拡大します

 

何よりいいのが、採石跡の四角い穴に澄んだブルーの水が湛えられていること。
ほんときれいです。

 

170503ugawa07_1
こちらは土砂が流れ込んでいます。
ぐるっと一回りしたのですが、未整備なので、足を滑らせたら水没です。
どきどきしながら、進みました。

 

170503ugawa08_1 ※クリックすると拡大します

 

水中に没していく石の階段。
どこから水中なのかよく分からないぐらいで、底まではっきり見えています。
ここが一番気に入りました。

 

170503ugawa09_1
あと洞窟にはコウモリがいます。
固まってぶら下がっているので、シャンデリアみたいです。
昼間なので全く動きません。

 

170503ugawa10_1
ここの湧き水は飲めるぐらいきれいな水らしくて、ここから水道が引かれています。
また、水を引いてワサビの栽培などもしていたそうです。

 

鵜川で採れる石材は鵜川石という角礫凝灰岩で、飛鳥時代の古墳の石室から小松城の石垣、近代建築に至るまで、長い期間にわたって利用されてきました。
この石切場が現役だった時代には、集落の中まで長いスロープが作ってあって、切り出した石を引っ張り降ろしたそうです。

 

昔の様子や遊んだ思い出なども語っていただいて、とても興味深い見学になりました。
大変お世話になり、ありがとうございました。
一般の観光利用のためには転落防止対策をしたり、照明をつけたりしないといけませんが、やりすぎるとつまらなくなるので、どの程度にするか考えておられるところだそうです。

 

ぜひ宣伝してくださいとのことでしたので宣伝します。
何といっても地下水のプールがきれいです。

 

直接ハニベ巌窟院に来てもらっても、空いていたら案内するけれど、できれば小松市の観光交流課に「鵜川の石切場跡が見たい」と申し込んでください、とのことでした。

 

なお、鵜川の集落の下にも坑道が走っていて、何度か小学校のグラウンドが陥没したことがあるそうです。
ハニベ巌窟院も石切場跡ですし、向かいの山には遊泉寺の石切場跡といって、戦時中は中島飛行機が地下工場として使っていた総延長10kmに及ぶ坑道があるそうで、そちらも見てみたかったのですが、天井が崩落している場所などもあり、危険なので観光客には勧められないとのことでした。(ネットではいくつかレポートなども上がっています)

 

170503ugawa11_1 ※クリックすると拡大します

 

鵜川の集落内にも石の蔵がありました。
地元だから鵜川石なんでしょうか。よく分かりません。

 

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2012年7月 1日 (日)

旧石川四高と旧石川県庁(金沢市)

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金沢の尾山神社を過ぎて、赤煉瓦の美しい建物の前を通りがかりました。
石川四高記念文化交流館という建物で、旧第四高等学校本館です。明治24年にできた建物。
(とか後で調べて書いているのですが)
のちの金沢大学です。

 

今は石川四高記念館と石川近代文学館が入っています。
今回はあまり寄り道する時間がなく、簡単に見て回りました。

 

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入口の門衛所は下見板張りのきれいな建物です。明治26年築。
昔はもっと校舎の前に余裕があり、この門衛所は大正時代に市電を通す道路拡幅の際に移築、昭和42年に現在地に再移築されたそうです。

 

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車寄せのひさしを支えるのは細身の鉄柱。

 

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建物の周りには多数のモニュメントが並んでいて、例えば溝淵先生像。
第7代の校長先生だそうです。

 

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建物の中も一応覗いてみました。
石川四高記念館も面白そうで、また改めて来ることにします。

 

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どこから見ても格調があります。

 

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新緑が美しい季節で、赤煉瓦によく映えています。

 

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裏側は中央公園になっています。
昭和38年に校舎が移転した後に整備された公園なので開設は遅いですが、こんなに美しい公園はなかなかない気がします。

 

120503yonko14 ※クリックすると拡大します

 

全体としてはこのような配置です。

 

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旧石川四高の隣にも近代建築があって、旧石川県庁です。
大正13年に建てられた鉄筋コンクリートの建物。スクラッチタイル張りです。
平成15年まで県庁として使われていて、現在は石川県政記念しいのき迎賓館となっています。
裏側から見ると全く違うガラスの表情らしいのですが、裏までは回っていません。

 

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「しいのき」というのは、正面にある2本のシイノキのこと。
樹齢三百年といいますから、江戸時代からある木です。

 

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それがこのように維持されているというのは素晴らしいことですね。

 

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正面玄関を見上げたところ。
堂々とした建築です。

 

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文様を拡大してみました。
植物文様と幾何学紋様の組み合わせになっています。

 

今回はついでに寄っただけなので、外観しか見ていませんが、またゆっくり金沢の建物も見て回りたいものです。

 

 

 

 

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2012年6月26日 (火)

尾山神社神門の石(金沢市)

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先月、富山旅行のついでに、金沢に立ち寄りました。
目的は金沢21世紀美術館を見ることで、後の予定もあるので脇目もふらず、のつもりが、道すがらの建物に寄り道しましたので紹介します。

 

まずは尾山神社の神門。明治8年の建築です。
第三層に五色のギヤマンがはまり、灯台として使われたとか。
避雷針は日本最古という豆知識もあります。

 

でも見たかったのはその石です。
「まちかど逍遙」で以前、尾山神社神門のカラフルな石材が紹介されていて、金沢に行ったときにはぜひと思っていました。

 

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神門に上がる階段もまたカラフル。

 

このカラフルな石は「まちかど逍遙」のぷにょさんによれば、戸室石(医王石)だそうです。
戸室石は金沢市の南東8kmにある旧火山・戸室山で産する角閃石安山岩だとのこと。赤っぽい赤戸室、青っぽい青戸室、そのバリエーションがあります。一度山が崩壊を起こし、石材は点々と土に埋まった状態であるので、石切場というより、石を掘り起こしてはその場で加工していたようです。
その現場、見に行ってみたい。
金沢城の石垣にも使われています。

 

(参考)
 >石川県「金沢城の石垣に用いられている「戸室石」について」(PDF)
  金沢大学理学部・石渡明助教授「戸室火山の大崩壊について」(防災市民講座)

 

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神門の真下にはもう少し堅そうな丸い大きな石がはまっています。

 

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もう一つ境内で気になったのは石の導水管。
江戸時代、この尾山神社の場所にあった金谷御殿の庭に、兼六園から水を引く仕掛けがあり、当初は木管だったのが、天保15年(1844年)に金屋石に取り替えられたそうです。

 

金屋石は庄川上流で、今の砺波市に産する緑色凝灰岩。
わざわざそんなところから運んだんですね。
ここで近くの戸室石を使わなかったのは、耐久性の問題なんでしょうか。

 

・・・マニアックな記事ですみません。

 

<関連ブログ>
 まちかど逍遙「金沢の石垣」

 

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