カテゴリー「国内旅行(三重)」の記事

2009年12月13日 (日)

街道の交差点・相可(三重県多気町)

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松阪市の射和(いざわ)とは櫛田川をはさんで対岸に、多気町相可(おうか)の町があります。
2つの町は両郡橋で結ばれ、今は一つの町のようです。
まさに2つの郡(飯野郡と多気郡)を結ぶ重要な橋ということでしょうね。
向こうが相可の町です。

 

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相可の町は、伊勢本街道と射和から渡ってくる熊野街道バイパスルート(たぶん)との交差点でした。
そのため、宿場町の雰囲気が色濃く残っています。

 

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両郡橋を渡る途中、相可側50m上流に見える煉瓦の橋脚が気になりました。
現在の両郡橋は3代目で、1代目は明治21年に、渡し船があった100mほど上流に架けられたといいます。明治41年に2代目、昭和32年に現在の橋が架けられました。
やや距離が近く思えますが、2代目両郡橋の橋脚でしょうか。

 

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川の中程にも倒れた橋脚のようなもの、対岸の射和にも煉瓦の橋脚が見えます。

 

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橋脚には階段が付いています。
これでは歩く人しか無理?

 

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ちょうど街道の交差点には道標が2つと井戸があります。
左右が伊勢本街道で、奥が熊野街道。

 

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こちらは同じ辻で伊勢本街道の奈良側を向いたところです。
街道らしい町並みが残っています。
「まつかさ餅」の看板が見えますでしょう。

 

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きれいに撮れてませんが、これがまつかさ餅です。
餅の表面に米粒が付いていてユニーク。
こしあんに黒砂糖が入っていて、やさしい味です。
相可を訪問された方はぜひ。1日しかもちません。

 

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さて、相可の伊勢本街道筋を奈良方面に歩いていくと、木造の古い医院がありました。
古い医院は残して、向かいに新築されたようです。

 

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軒先の瓦には透かしの玉が。
もとは獅子がいたんでしょうか。
鬼瓦も立派です。

 

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伊勢風の押し縁下見板の蔵です。

 

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この蔵も瓦を見ると軒に凝った飾りが入っています。
菊水でしょうか。

 

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食物調理科の高校生レストランで有名な相可高校を過ぎて、小川の手前で大きな椋の木が立っています。
宿場の目印になっていたのでしょうね。
こういう風景にはとくに心ひかれます。

 

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この橋を下から覗き込んでみました。
大正10年代の橋です。
こんな小さな橋ですけど、存在感がありますね。
町の境ということで、このあたりで引き返しました。

 

簡単な紹介にとどめましたが、伊勢本街道の街道筋はいい雰囲気の町並みです。

 

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ついでに近代建築ということでは、ちょっと離れた多気町行政ゾーンに、多気町郷土史料館として、昔の多気郡役所が移築(おそらく)されています。かなりきれいな状態です。

 

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てっぺんに獅子でしょうか、瓦の動物がいます。
瓦の飾りを見るのも、古い建物では楽しみのひとつです。

 

中万(ちゅうま)・射和・相可の訪問記は以上です。
それぞれに違う町並みが味わえました。この一帯から江戸に店を構える大商人が生まれたという背景を知るには、もう少し丹念に調べないといけないようです。

 

 

 

 

 

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2009年12月 8日 (火)

伊勢白粉の町・射和(三重県松阪市)

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松阪市の中万(ちゅうま)から射和(いざわ)に入ります。
射和は伊勢白粉(おしろい)または射和軽粉の生産で知られていた町です。
白粉の原料は水銀を含む土。上流の丹生では昔から水銀を産出していました。奈良の大仏に金めっきをするとき使われたのも丹生の水銀だそうです。

 

伊勢白粉は室町末期にピークを迎えたのち、薬用としての活路を見いだしますが、次第に衰退していきます。伊勢白粉で蓄積した富を元に、伊勢商人としていち早く江戸に進出したのが中万・射和の商人で、呉服商、味噌・醤油商、両替商などとして活躍したとのこと。多くの豪商を輩出しました。

 

その活躍は今に至っており、食品卸の国分株式会社のルーツは射和の国分家、ちくま味噌のルーツは中万の竹川家だそうです。

 

上の写真は少し洋風の入った、おそらく近代の町家です。

 

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懐かしい自転車やさんのある通りは駅前通の雰囲気。

 

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この道を歩いていくと、バス停に出ます。
ひょっとしてと思った通り、昔、射和駅があった場所らしいです。

 

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射和駅は、昭和39年に廃止された三重電気鉄道(三重交通)松阪線の駅で、大正元年に三重軽便鉄道大石線として開業したものです。大石の材木を、櫛田川に丸太を流していたのに代えて、松阪の大口港まで輸送する路線だったようです。
今よりずっと交通が便利だったことが分かります。

 

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再び射和の中心部へ。
このあたり、旧家が並んでいます。
右奥が国分家、左がいわば私設図書館の射和文庫をもつ竹川家。

 

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射和の町は櫛田川の水面よりかなり高いところにあります。
射和にとっては舟運が重要で、川に降りていく石畳の道が残っていました。

 

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対岸には多気町の相可の町があり、両郡橋で結ばれているのですが、その一本西側の道に道標が立っています。
左は「まつ坂みち」(松阪道)、右は「久ま野ミち」(熊野道)と書かれていて、ここが昔の大きな交差点だったように見えます。

 

今は静かな町ですが、かつての賑わいはそこここに感じられます。

 

 

 

 

 

 

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2009年12月 6日 (日)

豪商の中万(三重県松阪市)

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櫛田可動堰を渡った後、櫛田川左岸堤防の道を上流へ歩いていきました。
中万(ちゅうま)の集落に入り、最初に目にしたのは丸石積みの石垣でした。
川の側なので、それはそうでしょう。
建物は伊勢でよく見る、押し縁下見板(横板を縦の角材で押さえている)の壁です。

 

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集落の中央を貫く道を歩きます。蔵が現れてきました。
ここで注目したいのは、蔵本体より、土台の石垣です。

 

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亀甲に近い積み方をしています。
石垣の中でも亀甲積みは高価だと聞きます。

 

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こちらは伊勢風の美しい蔵。
やはり亀甲積みです。

 

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この蔵はT字路の突き当たりに建っているのですが、その向かいの道に洋風下見板の離れ(?)を見つけました。

 

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出窓もあり、デザインは戦前のものに見えます。

 

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元の道をさらに進むと道がクランク状になっていて、灯籠が立っていました。灯台のような灯籠です。大正7年建立の字が彫られていました。
ここでも切石の土台です。

 

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土壁がむき出しになった蔵。
それにしても蔵が多い。

 

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このあたりが中万の中心地でしょうか。
美しい伝統的街並みです。

 

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すぐ裏手は櫛田川の堤防です。

 

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この中万の中心地に富山家住宅があります。
この規模の大きいこと。

 

富山家は江戸にも呉服の店を出していた豪商だそうです。
「伊勢の射和(いざわ)の富山さまは、四方白壁八棟造り、前は切石切戸の御門、裏は大川船が着く」と江戸のわらべ唄に歌われたほどらしい。その雰囲気は十分感じられます。切石も歌い込まれているのが面白いところです。

 

射和と中万は、上流にある丹生の水銀を原料とした伊勢白粉(おしろい)の産地で、そこで蓄積された富が豪商を育てたようです。

 

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その勢いが明治にも続いていたことを感じさせるものがあります。
集会所の庭に保存されている古い鬼瓦です。
こちらは役場の鬼瓦。明治22年までは「中万村」でした。

 

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こちらは中万学校の鬼瓦。
なんとこの学校は、明治初年の開校です。

 

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最後に地図を示しておきます。
中万にも櫛田川の川港がありました。
中万も射和も町は川沿いに長く伸びて、ほとんど接しています。

 

次は射和に向かいます。

 

 

 

 

 

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2009年12月 3日 (木)

櫛田可動堰を渡る(三重県松阪市)

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先日、三重県の多気町に出かけました。
松阪市の南東にある町。シャープの多気工場があり、伊勢芋が特産です。伊勢に向かう街道の町でもありますが、それは改めて紹介します。

 

前日は松阪に泊まり、朝の列車でJR紀勢本線の多気駅まで行きました。ほんとは相可駅まで行きたかったのですけど、列車がなかったのです。

 

多気駅では地方の駅前らしいゲートが迎えてくれます。

 

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駅前通りには、こういういい感じの建物もあります。
昭和初期でしょうか。

 

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このまま進んでも面白くなさそうなので、櫛田川を北に渡ることにしました。
一歩、商店街を外れると田んぼが広がっています。
正面に見えるのは神山で、ここに一乗寺や神山神社、神山城址があります。
その手前を櫛田川が流れています。

 

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櫛田川左岸にある中万(ちゅうま)、射和(いざわ)、そして右岸の相可(おうか)を訪ねるつもりです。(揃って読みにくい)
しかし、橋があまり架かっていません。
地図を頼りに少し下流側に戻り、渡れるものか、堰を見に行きました。

 

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見えてきたのは、後で調べたところ、「櫛田可動堰」です。

 

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櫛田川の本流から、農業用水路である祓川(はらいがわ)が分かれています。

 

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櫛田可動堰はその狭さと長さで、わくわくするような堰です。
幸いなことに上を渡れるようです。

 

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非常に楽しい歩道です。

 

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ゲートが見えてきました。

 

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「ローリングゲート 昭和29年製造 東京・田原製作所」というプレートが頭上に掲げられていました。
櫛田可動堰の前身は、水を祓川に分水する櫛田頭首工で、1964〜69年に可動堰になりました。

 

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これがローリングゲート、だったものです。
平成16年から18年かけて、ローリングゲートをシェル構造ローラゲートに変える工事が行われたそうです。ちなみに田原製作所は、水門やダムを手がけてきた伝統ある会社でしたが、平成17年にダム・水門事業を豊国工業に譲って、解散してしまいました。

 

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歩道は曲がりながら、先へ先へ伸びています。

 

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さらに続く。

 

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上流をJRの列車が渡っていきます。

 

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最後もさらに屈曲して櫛田川左岸に着きます。

 

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川の左岸には櫛田川祓川堰碑が立っていました。

 

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振り返れば、櫛田可動堰は船が並んでいるみたい。
見ているとバイクが渡ってきました。バイク・自転車は通れます。

 

もう一度渡りたいぐらい。
遠回りでしたが、歩いた甲斐のある回り道でした。

 

次は中万(ちゅうま)を紹介します。

 

 

 

 

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2009年8月12日 (水)

東海(愛知、三重、岐阜)

<愛知探訪>  ■名古屋編  ○東山動物園の旧モノレール(2012年春)
 ○東山動物園の恐竜像(2012年春)
 ○東山公園・動物園(2012年春)
 ○東山植物園の温室(2012年春)
 ○名古屋のレジャーランド跡・道徳(2014年夏)
 ○道徳公園のクジラ像(2014年夏)
 ○七里の渡しの宿場町(2014年夏)
 ○鶴舞公園 明治編大正編(2015年冬)
 ○西町公園・白鳥西公園(2018年秋)
 ○港北公園と博覧会(2018年秋)
 ○配水塔の稲葉地公園(2018年末)
 ○里山公園(2018年末)
 ○日吉公園と茶ノ木島公園(2018年末)

 ■犬山編 ○明治村の換気口面格子 問題編解答編(2010年夏)

 ■岡崎編 
 ○家康ゆかりの岡崎公園(2016年夏)
 ○岡崎旧市街西部の建物(2016年夏)
 ○岡崎旧市街中心部の建物(2016年夏、一部2023年夏)
 ○岡崎旧市街東部の建物(2016年夏)
 ○県立農業大学校から東公園へ(2017年春)
 ○志賀重昂氏ゆかりの東公園(2017年春)
 ○六社神社の彫刻(2019年夏)
 ○岡ビルから南の建物(2019年夏、一部2016年夏、2017年春)
 ○再整備前の南公園へ(2023年夏)
 ○南公園の交通広場(2023年夏)
 ○柱公園とその周辺の建物(2023年夏)
 ○西尾鉄道の軌道跡など(2023年夏)

<三重探訪>

 

 三重県(とお隣の奈良、新宮)を探訪した記録。訪問時期はばらばらです。

 

 ■桑名編   ○つぶぞろいの石垣(木曽岬町、2007年夏)

 

 ■四日市編   ○諏訪公園と旧四日市市立図書館(四日市市、2008年秋)
  ○紡績で建った旧四郷村役場(四日市市、2008年秋)
  ○近代産業発祥の村(四日市市、2008年秋)
  ○四日市の鍾馗さん(四日市市、2006年秋)

 

 ■鈴鹿編   ○型紙の町・白子(鈴鹿市、2005年冬)
  ○芸術的な消耗品(鈴鹿市、2006年冬)

 

 ■津編   ○津偕楽公園(津市、2007年冬)−明治10年の公園
  ○伊勢竹原の駅前セット(津市、2008年秋)

 

 ■伊賀編   ○屋根の上の忍者たち(伊賀市、2007年冬)−瓦
  ○伊賀の持ち送り(伊賀市、2007年冬)

 

 ■初瀬街道・伊勢街道編   ○初瀬街道の近代−桜井(桜井市、2008年秋)
  ○初瀬街道の近代−大和朝倉〜長谷寺(桜井市、2008年秋)
  ○初瀬街道の近代−長谷寺(桜井市、2008年秋)
  ○初瀬街道の近代−榛原(榛原市、2008年秋)
  ○名張の水路(名張市、2007年夏)
  ○名張の街並み(名張市、2007年夏)
  ○名張のお店はもてなし好き?(名張市、2007年夏)
  ○初瀬街道の近代(津市、2006年春)
  ○止まれのある風景(津市、2008年秋)
  ○櫛田可動堰を渡る(松阪市、2009年秋)
  ○豪商の中万(松阪市、2009年秋)
  ○伊勢白粉の町・射和(松阪市、2009年秋)
  ○街道の交差点・相可(多気町、2009年秋)
  
 ■伊勢編   ○格子へのこだわり(伊勢市、2006年秋)

 

 ■離島編   ○答志島・答志の路地(鳥羽市、2009年春)
  ○潮騒の神島(鳥羽市、2009年春)

 

 ■東紀州編   ○オープンガーデンがいっぱい(熊野市、2007年春)
  ○木本・本町通り散歩(熊野市、2007年春)−近代建築
  ○寄らされて新宮、西村伊作邸(新宮市、2007年春)

 

<岐阜探訪>

 

 ■飛騨編   ○高山の昭和9年(高山市、2007年冬)
  ○下呂温泉のタンク(下呂市、2007年冬)
  ○下呂の鉄橋(下呂市、2007年冬)

 

 ■東濃の陶都編   ○多治見60年代(多治見市、2008年秋)
  ○多治見の昭和町(多治見市、2009年2月)
  ○多治見散歩(多治見市、2009年2月)
  ○懐かしの土岐(土岐市、2008年冬)
  ○瑞浪の近代建築など(瑞浪市、2016年夏)

 

 ■岐阜市内編   ○岐阜の小さな公民館(岐阜市、2008年8月)
  ○中山道・加納宿のあたり(岐阜市、2008年8月)

 

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2009年5月23日 (土)

潮騒の神島(鳥羽市)

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答志島から船で20分、さらに先の神島に向かいました。
神島は、「歌島は人口千四百、周囲一里に充たない小島である。」で始まる三島由紀夫の小説「潮騒」の舞台として知られています。

 

島の大きさは変わりませんが、今は人口500人ほど。
海の向こうに渥美半島・知多半島が見える三重県の端の島です。名古屋港や四日市港に出入りする船が目の前を行き交っているので、寂しい離島ではありません。
(カメラの電池がなくなったので、携帯で撮った写真も混じってます。しかも携帯カメラの調子が悪い)

 

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神島という名前から聖なる印象を受けますが、実際、このように祭られている石の神様を見ると、古い信仰が息づいているのを感じます。

 

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神島の集落は一ヶ所に密集しています。
島の斜面にへばりつくようにぎゅうぎゅうと家が建っています。

 

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ですから集落の中でも階段が非常に多くみられます。
車の走れるような道は海沿いの1本だけでしょうか。
自転車やバイクですらほとんど入れないところです。
街あるきの旅人には魅力的な階段ですが。

 

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非常に狭い路地に下見板の住宅が建っています。
自転車は島の裏側にある小中学校に通うためでしょうか。

 

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味のある店構えの商店。
ここも狭い路地にあります。

 

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店の裏側。

 

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このような下見板の建物がたくさんあります。
もう一つ特徴はカラフルにペイントされていること。
こちらはライトグリーン。

 

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こちらは青・青・青。

 

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この島でも鍾馗さんを見かけました。
京都文化はここまで及んでいます。

 

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多くの離島同様、神島でも水が貴重で、こんなに立派な六角形の煉瓦の井戸がありました。

 

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この階段は眺めの良い八代神社まで続いています。
残念ながら集落内だけで携帯の電池もなくなりました。

 

この日はいいお天気で、神島灯台や観的哨(かんてきしょう)から眺める伊良湖水道は、観光パンフレットのようだったのですが、写真には収められませんでした。観的哨(監的哨)は、対岸の伊良湖岬の向こうから試射した砲弾の着水点を観測するために陸軍が昭和4年に建てた建物で、「潮騒」の重要な舞台です。
 →伊勢志摩きらり千選「監的哨」

 

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集落内にあるユニークな形の時計台跡は、観的哨の完成記念に、同じ昭和4年、建てられたものだそうです。もしかして砲弾の形?

 

狭い島ですが、絵になる光景がたくさん見られる島です。

 

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2009年5月17日 (日)

答志島・答志の路地(鳥羽市)

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4月、とあるツアーで、三重県鳥羽市の答志島に出かけました。
答志島というのは、鳥羽の沖合2.5kmに浮かぶ周囲26.3km、面積約7平方kmの細長い離島です。島には答志、和具、桃取の3つの集落があり、鳥羽港から市営の定期船で、近い桃取・和具なら15分、今回出かけた答志でも30分の手軽な船旅です。
この日は天気に恵まれ穏やかな旅でした。

 

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答志の港に入ると、小高い丘と松が目に入ります。
こんなに小さくても、もとは離れ島だったようです。
昭和初期に島を訪れた砂田代議士がこの松を惜しんだことで残され、「砂田松」と呼ばれています。規模は違いますが、浜寺の松は大久保利通が惜しんで残されましたので、そういう時代もあったのですね。

 

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そして、この丘には港を見つめる石像があります。
観音様でしょうか。いい風景だなと思います。

 

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答志島は漁業の島です。観光の島でもあります。

 

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答志地区の中心部。
答志島の人口は約3000人で、そのうち半分は答志地区に住んでおられます。
平地は少ないので密集して暮らすことになります。
この日は春霞がかかっていますが、お天気はよく、遠くに神島が見えていました。

 

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近づいてみると密集具合がよく分かります。

 

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このような狭い路地が縦横に。
旅人には魅力的です。
路地裏を「島の旅社」のガイドさんに案内していただきました。

 

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狭い路地で活躍するのがこの手押し車。
「じんじろ車」というそうです。ほんとにたくさん見かけます。
鉄工所のオーダーメイドなので、1台3万円ぐらいするそうですよ。
収納スペースにぴったりサイズ。

 

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答志島は伊勢と同じく注連縄を1年中飾るそうです。

 

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集落には銭湯もありました。
旅館にはもちろんお風呂がありますが、こういうところで入るのもいいかもしれません。

 

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お風呂屋さんの戸の脇に炭で書かれた丸八の印。
これは答志の風習で、八幡神社の祭りで炭を奪い合い、その炭を使って家などに丸八の印を書いて魔除けにするそうです。至る所にあります。

 

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玄関の両脇に木製の部材が取り付けてあります。
これは省スペースのために、門松を取り付ける器具だそうです。
いろいろ工夫されていますね。

 

ちなみに上の旗立てからぴょこんと飛びだしているのは2本のめざし。
これも魔除けで、窓の数に応じて立てておくそうです。
古い慣習がいろいろと残っています。

 

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離島で切実なのが水の確保です。
今は鳥羽市から海底の水道管で送水されているようですが、以前は水が貴重でした。

 

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ですから、あちこちに井戸が掘られています。
面白いのが陶器製の井戸枠。
どこで作られているんでしょうね。

 

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煉瓦製の井戸枠もあります。

 

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また歩いていて気になったのが、青石の石積です。
地図で確認すると答志島は中央構造線のすぐ南で、青石を産するようです。

 

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路地裏ツアーの後は漁港の方へ。
ワカメ漁の季節で、ワカメやメカブ(ワカメの付け根)がたくさん干されていました。

 

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奥にある青い小屋は、海女小屋だそうです。
海女さんが休憩などに使うスペースです。
今は観光用の海女小屋なども作られていて、ツアーに参加すれば中で食事ができるようになっています。

 

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こちらは、天日干しのひじき。

 

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港に並んだタコ壺。
タコ壺漁は年中行われているそうです。

 

生業が活き活きと行われているのを見るのはうれしいものです。
とくに答志島は漁業がまだ元気なようで、季節ごとに多様な漁が見られます。
いつもは「昔、○○が盛んだった」という過去の記憶を追う旅が多いので、今回はその意味でも新鮮でした。

 

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2008年11月28日 (金)

伊勢竹原の駅前セット

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三重の津市美杉町(旧美杉村)に出かけた帰り、コミュニティバスで伊勢竹原駅に降り立ちました。この駅前は、「懐かしの駅前」のセットのようです。

 

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駅舎はこじんまりしています。
昭和10年に開業したときの駅舎で、「伊勢竹原驛」と右→左に書かれたタイル、洋風長屋でよく見る丸窓に二本の手すり状金具といったものが残っています。トイレも古い。

 

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待合室から駅前通りを眺めると、ここが自分の田舎ではないのに、田舎に帰ってきた感覚があります。

 

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駅前には総2階建ての大きな商家。

 

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2階の戸袋に壺の絵が残っています。
昔はお茶を商っていたのでは?

 

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タバコのショーケースには、木格子でアールデコ調のデザインがありました。
こういうデザインを何というのか知らないのですが、歯車などが読み込まれて、「工業万歳」の気分が感じられます。

 

懐かし気分に浸っても乗り遅れにはご注意。
次は2時間後です。

 

 

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2008年11月20日 (木)

止まれのある風景(三重県津市一志町)

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まちかどのいろんなものに興味を持つ人がいます。
飛び出し坊やであったり、マンホールであったり、禁止表示であったり。
私の場合は、足形などで示される、歩行者用の「止まれ」表示です。
所によって表現やタイミングが違う、テンプレート・手描きの味わいが好きです。

 

 →出雲市の場合  →大阪狭山市の場合

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2008年11月18日 (火)

近代産業発祥の村(四日市市室山地区)

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四日市市の四郷地区は近代産業発祥の地のひとつだそうです。
四郷の4つの集落の中でも、産業は室山地区に集中しています。
室山地区には小さな集落には不釣り合いなほど大きな酒蔵、工場が建ち並んでいます。

 

産業の源流は、江戸時代の明和元年(1764年)に味噌・醤油の醸造業を始めた初代伊藤小左衛門にたどれるようです。伊藤家の醸造業から様々な業種が派生しますが、醤油は享和元年(1801年)に創業したヤマコ醤油(旧株式会社伊藤醤油部)に引き継がれて、今も製造されています。

 

多いのは造り酒屋で、上の写真はその一つ、天保3年(1832年)に創業した合資会社笹野酒造部「白梅」です。道になだれ込んでくるような大屋根が見事です。残念ながら2008年3月31日に廃業されました。近くに「ザ白梅クラシックガーデン」という広い敷地の結婚式場がありますが、関連しているのでしょうか。

 

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こちらは山手にある神楽酒造で、安政5年(1858年)の創業。清酒「神楽」をつくっています。隣では昭和30年に酒造権を復活させた(株)ナカムラが、清酒「三瀧川」などをつくっています。

 

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同じ醸造で、田中酢店というお酢屋さんもあります。少なくとも明治にはさかのぼれるようです。

 

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でもやはり地区で目立つのは製糸業です。
文久2年(1862年)に五世伊藤小左衛門が始めた家内の手繰り製糸は、明治7年(1874年)に工場となり、後を継いだ六世小左衛門と甥の小十郎が器械製糸を完成、明治16年(1883年)に蒸気機関化しました。伊藤製糸場は明治33年に焼失してしまいますが、その後、明治36年(1903年)に建てられたのが上の伊藤製糸場新工場です。のち昭和16年に亀山製絲と合併して亀山製絲(株)室山工場となり、平成7年に操業停止するまで現役でした。壊される計画もありましたが、幸いまだ残されています。白い下見板の擬洋風の工場です。正門も当時のもの。

 

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旧伊藤製糸場の南側玄関の三角破風には、華やかな植物のような装飾が入っています。

 

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同じく南面の2階の軒には、ブックエンドのような持ち送りが並び、軒下には透かしなど、工場なのに(?)凝っています。2階屋根から飛び出た部分は通風用でしょうか。

 

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南側から見ると建て込んで見えるこの工場も、北側から見ると広々した空き地が広がっています。文化財の工場以外が取り壊されてしまったためです。

 

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一部煉瓦の構造物が残されていました。
旧伊藤製糸場は、おそらく傷みが激しくて大幅に補修しないと中が利用できないのではと推測しますが、せっかく残ったので活用していただければと思います。

 

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工場はまだあります。集落の遊歩道を歩いている見えてくるノコギリ屋根。

 

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東洋紡績グループのトーヨーニットの倉庫です。
十世伊藤傳七が明治13年(1880年)に北隣の川島村で始めた三重紡績所(川島紡績)は苦しい経営でしたが、明治19年(1886年)に渋沢栄一の援助を受けて三重紡績(株)として再出発、明治21年に四日市の浜町工場、明治23年に第2工場を立ち上げ、経営が軌道に乗ると周辺の紡績会社を次々買収、大正3年(1914年)には、大阪紡績(株)と合併して東洋紡績(株)になりました。

 

このトーヨーニットの倉庫は、もとをたどると十世伊藤傳七が創設した伊藤メリヤスの第1工場です。大正12年(1923年)に建てられました。下部は煉瓦で、上部は鉄筋コンクリートという、時代の過渡期を表すような構造です。
名古屋で設立された伊藤メリヤス商会は、明治37年(1904年)にここ室山工場を新設、明治39年にはこちらに本店を移して伊藤メリヤス合資会社となりました。

 

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隣に立つ第2工場(大正13年(1924年))の下部です。
周辺の民家と同じ川石の石垣が積まれ、花崗岩の切石、煉瓦、そして鉄筋コンクリートが重なっています。地層のようです。

 

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この道は第1・第2工場から続く構内道路で、右手に古そうな下見板張りの建物が並んでいます。この先にかつて室山駅がありました。明治44年(1910年)に村の有志の出資により軽便鉄道(三重軌道(株))の工事が開始され、翌大正元年に八王子〜室山〜日永間が完成。大正5年には四日市まで線路がつながりました。貨物主体の鉄道だったようです。

 

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再び西日野駅から帰りの電車に乗り込むと、今度は学校帰りの高校生で賑やかでした。
四日市駅では入れ替わりに四日市の高校生が乗り込んできて、今は高校生がこの電車の主役になっているようでした。

 

 

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