カテゴリー「国内旅行(香川)」の記事

2025年4月19日 (土)

石の町・牟礼(香川県高松市)

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屋島の上から見た眺め。高松を訪ねた話の続きです。
正面にたくさんの採石場が見えていますが、このあたりが最高級の花崗岩として知られる「庵治石(あじいし)」の石切場です。
写真中央付近の女体山を中心に、最盛期には約70ヶ所の丁場(石切場)があったそうです。
写真の左側(北側)が旧庵治町、右側が旧牟礼(むれ)町の町域で、丁場は両町にまたがっています。
高松市石の民俗資料館の解説を参照)
私は庵治石という名前から庵治町が産地と思っていたのですが、牟礼町にも多くの加工場があり、石の町といえると思います。

訪問日:2022年9月10日

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前回の牟礼の塩田の話から続きます。
塩田跡を歩いていくと道路脇に花崗岩が野積みになっているのが見られます。

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大きな石材がごろごろと積まれています。

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そういった素材だけでなく、街角アートとして、石の彫刻作品もあちこちに置かれていました。
そんなにかしこまった芸術作品ではなくて、このようにテレビなど身近なものも彫刻されています。
チャンネルがガチャガチャタイプで年季が入っています。

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こちらは宇高連絡船の作品です。
宇高連絡船は1991年に廃止されました。

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視覚的にも石の町を感じながら歩いて行った先にあるのは、今回の目的地、「イサム・ノグチ庭園美術館」です。

予約制で、私も事前に予約して訪問しました。火・木・土の1日3回、夏は1日2回、ガイドの案内で1時間、石積みの塀に囲まれたアトリエのエリアと、住宅および庭園のエリアを見学できます。写真撮影は禁止で、内部はもちろん、道路からの撮影も禁止されています(外から作品等が見えるからでしょうか)。なので詳しくはホームページをご覧ください。

彫刻家のイサム・ノグチは、1969年からここ牟礼にアトリエと住居を構え、NYの拠点と往復しながら制作を続けていました。

アトリエの方は、半円の形に積まれた石垣の内側に屋根のある建物や蔵があり、その内外に彫刻作品が多数展示されています。

自邸は丸亀市にあった江戸時代末期の古民家を移築したもので、掘りごたつのように床を掘り込んだり、和紙の照明を付けたり、大胆な改修が施されています。それを外から眺められるようになっています。庭園はそこから斜面に広がっていて、周辺の石切場や屋島を借景として望むことができます。

全体が石の町に溶け込んだ場になっています。

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見学後はまた牟礼の町を散策しました。
石屋さんも見かけます。石の民俗資料館によると庵治石の加工品は、灯籠が15%、墓石が85%だそうです。

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水路を覗き込むと四角く掘り込んだ部分がありました。
何か作業の都合上作られているのだと思いますが、何かはわかりません。

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こちらも別の石材店。灯籠が並んでいます。

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石を切る丸鋸の歯を溝蓋に再利用しているのは、石の町でよく見かける光景です。

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もう少し高いところに登っていきます。
煉瓦の煙突に気づいて近寄ってみると、「源氏正宗醸造元」の文字があり、造り酒屋の煙突でした。
現在は、「うどん本陣 山田家」といううどん屋になっています。
昼にうどんを食べたのでこの時はパスしました。

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さらに坂道を上がり、「高松市石の民俗資料館」を訪ねました。

ここからは屋島がよく見えます。

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石に特化した民俗資料館ですので、庵治石に関して詳しく知ることができます。
館内には庵治石の丁場での作業の様子が再現されたジオラマがありました。

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掘るための道具のいろいろ。

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石を運ぶための道具のいろいろ。

この他、磨くための道具、彫刻するための道具なども展示されていました。

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庵治石以外に、一部、豊島で採れる豊島石の加工品も展示されています。
こちらは凝灰岩で、火や熱に強い特性を生かして、カンテキ、クド、石風呂などに利用されていました。

資料館の中にはミュージアムショップがあり、庵治石の小さなサンプルを買って帰りました。

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石の民俗資料館の外にあった石柱。
どこかから移設されたのでしょうか。

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ついでに近くの八栗ケーブルの登山口駅にも立ち寄ってみました。
屋島と違って、今も現役の路線です。

八栗寺に参拝するために昭和5年頃にできた路線で、戦時中に金属供出のため休止しますが、戦後の昭和39年12月に復活しました。

(参考:四国ケーブルHPの八栗ケーブル概要

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車両は復活当時のレトロな車両がまだ使われています。
乗ろうか迷いましたが、これから庵治にも行きたかったのでパスしました。

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再び下に降りて見かけた「源平合戦総門跡」の石碑。
九州の太宰府を追われた安徳天皇は、寿永2年(1183年)9月に屋島に迎えられました。正式な内裏が完成するまでの行宮所とされた六万寺に設けられた防御のための門が総門だそうです。今はすっかり内陸化しています。

翌年、一ノ谷の戦いがあって平家の軍勢が屋島に本拠を移し、寿永4年(1185年)2月の屋島の戦いで敗れるまで屋島に拠点を置いていたとのことです。1年半ぐらいですね。壇ノ浦の戦いで平家が敗れるのは同年3月なので直後のことです。
周辺には屋島の戦い関連の史跡が点在しています。

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昔の絵葉書でこういうものありました。
右側に総門跡の碑が立っています。周囲は今よりのどかに見えます。

戦前は屋島の史跡ももっと観光地として知られていたようで、絵葉書などもたくさん出回っています。

最後はちょっと話がそれましたが、牟礼は石の町としても魅力があるところだと思います。

<関連記事>
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 「屋島に登る」
 「屋島ケーブル跡」
 「眺めて楽しむ屋島神社」
 「野外博物館・四国村」
 「牟礼の塩田跡」

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2025年4月11日 (金)

牟礼の塩田跡(香川県高松市)

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<屋島から見た牟礼の塩田跡>

 四国村を見学した後は、相引川に沿って屋島の東側にある牟礼(むれ)に向かいました。
 フェリーターミナルから屋島までの間も塩田跡でしたが、こちらも塩田跡です。

 上の写真は屋島の山上から見た眺めです。
 この埋立地はほぼ塩田跡です。

 訪問日:2022年9月10日

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<地理院地図をベースに兒玉洋一氏「高松地区塩田の史的研究」より塩田の位置を落としたもの。数字は築造年代>

 塩田の位置を地図に落とすとこうなります。屋島の東側・西側両方に江戸時代以来の塩田がありました。本来屋島はもっと島らしかったことが分かります。その間をつなぐのが相引川で、両端に河口がある珍しい川です。川というより海峡のようです。

 

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相引川に沿って歩いて行きました。
ちょっと珍しい木造の橋。通行止めになっていました。

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両端が海なので、潮位の変化が川の流れに影響します。
水位調整のための可動堰が設けられていました。

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細かく補修しながら使い続けられている橋。

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相引川は屋島の東から北へと流れを変えます。
この右側は塩田の跡です。

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牟礼の町に入っていくと、気になる建物がありました。
住宅になっていますが、元は住宅ではなさそうな古い建物です。

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右の神社は塩釜神社。塩田らしい風景です。

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そしてそこにあるのは源平合戦史跡の駒立石。
屋島の戦いで源氏方の那須与一が、漕ぎ寄せた平家方の船の扇を射落としたという有名な逸話で、この岩を足場に矢を射たという史跡です。

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<1947年米軍撮影空中写真より>

ここで古い空中写真を確認してみます。赤く印をつけたところです。
最初の地図でいうと明治の初めに築造された久通浜の入り口に当たります。

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<1947年米軍撮影空中写真より赤丸が上記の建物と思われる>

もう少し拡大するとこのようになっています。
現在と位置や屋根の形が変わらず、この建物は塩田時代から建っていた建物ではないかと思われます。

また昭和13年に設立された牟礼塩業組合事務所の住所がまさにこの場所で、組合事務所であった時期があるのかもしれません。
(『牟礼町史』p426)昭和36年に塩田施設は撤去されたようです。

ここに限らず四国の海岸では塩田でできた土地の形が、土地利用を転換して残っていることがよくあるように思います。

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2025年4月 6日 (日)

四国村の灯台エリア(香川県高松市)

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長らく更新が止まっていましたが、高松への旅行、「野外博物館・四国村」の続きです。
前回、四国村(ミウゼアム)全体について紹介しましたが、今回はその敷地の中でも一番高いところにある灯台エリアについての紹介です。

このエリアには明治時代の3ヶ所の灯台の退息所(灯台守の宿舎)と1基の灯台が移築されています。

訪問日:2022年9月10日

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こんな風に時代も場所も違う宿舎が一列に並んでいます。

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古い方から順に紹介しようと思います。
こちらは江埼灯台退息所(明治4年)です。四国ではなくて、淡路島北端にあった灯台です。
日本の灯台の父・英国人技師のブラントンによるもので、外国人の灯台守が入ることを想定して内部も洋風です。

石造ですが、阪神淡路大震災の震源に近く、倒壊してしまったものを移築したそうです。

公式の解説と内部写真

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暖炉のある部屋。壁も天井も白く塗られています。

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廊下も全く洋風です。

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もう少し時代が下って、鍋島灯台退息所(明治6年)。
鍋島は坂出沖の島です。

こちらもブラントンの設計。屋根は和風です。
すぐ隣の与島の花崗岩が使われているそうです。

公式の解説と内部写真

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壁が白く、洋風の家具や暖炉がありますが、天井は竿縁天井で、和洋折衷になっています。

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玄関前のベランダ。
円柱が並んで軒下の空間を作っています。
風通しのよさそうな天井。

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建物横に石造の貯水槽もあります。
小さな島なので水が得にくいのでしょう。

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続いては大久野島灯台(明治26年)です。
花崗岩石造の灯台です。

公式の解説と内部写真

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初点(灯)・明治27年5月のプレートが掲示されています。

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内部は狭くて、灯火部分に上がるひねりの効いた螺旋階段がありました。

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<2022年10月8日>

ちなみにたまたま翌月に大久野島を訪ねる機会があり、二代目の大久野島灯台を見に行きました。
ここに建っていた訳です。
古そうに見えますが、1992年の建築です。

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最後に松山沖にあったクダコ島灯台退息所(明治36年)です。
前2つの退息所に比べて無機的な感じがします。
構造は煉瓦造のモルタル仕上げ。屋根は日本風です。

この頃には吏員が日本人になっていたので、建物も日本化が進んでいるようです。

公式の解説と内部写真

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玄関はとてもシンプル。
玄関前に池があるのは元々そうなんでしょうか。

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玄関を入ると土間になっていて、沓脱石があります。
かなり和風です。

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土間の天井を見ると風通しのよさそうな天井。
照明器具かなにかが付いていました。

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建物の脇には付属屋があります。

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こちらには煉瓦を積んだ五右衛門風呂がありました。

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前にはクダコ島灯台の日時計も移設されていました。

時代の違う灯台の退息所の違いが見比べられるのが面白いところです。
見晴らしの良い高台に灯台施設を配置するというのもふさわしい配置だと思います。

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2024年7月14日 (日)

野外博物館・四国村(香川県高松市)

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屋島神社の後は、その隣にある四国村(四国村ミウゼアム)を訪ねました。
訪ねる前は、県や市の運営する民家園と思ってたんですが、民営(現在は公益財団法人)です。
それに展示も民家よりかなり幅広いものでした。

四国村は2022年4月にリニューアルしたばかりで、左に見える建物は新たに建てられたエントランスの「おやねさん」です。

右下に見える茅葺き屋根は、徳島県祖谷地方から移築された古民家を利用して昭和50年(1975年)に開業したうどん店「わら家」の屋根です。
(その写真は撮り忘れていました)

訪問日:2022年9月10日

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入り口を入るとすぐ出会うのは、再現された徳島祖谷地方のかずら橋。
4年に1回架け替えられているそうです。
実際に渡れます。本物と違って高さは全然ないのですが(本物は見たことないけど)、結構隙間があって、すぐ下が池なので緊張感があります。

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その先にあるのは、小豆島農村歌舞伎舞台(江戸末期)です。舞台を扇状に囲んで階段状の客席があります。

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そのまま進むと丸亀藩御用蔵(江戸後期)。
ここには四国村についての展示があり、四国村がどういうものなのか知ることができました。

四国村はカトーレック(株)創業者の加藤達雄氏が開いた野外博物館です。
カトーレックは元々加藤海運の陸運部門が独立した加藤陸運が始まりということで、グループの加藤汽船をルーツに持つジャンボフェリーに乗ってきたのも何かの縁のようです。

始まりは先ほどの古民家うどん店「わら家」でした。
実は陸運会社でドライバーとして働いてきた高齢社員のために、第二の職場として用意したお店なのだそうです。
昭和50年(1975年)のことです。

そこで加藤氏は古民家に魅了され、滅びゆく建築物の収集を始めました。
これに「わら家」に隣接する土地の地主さんが賛同して無償で土地を提供し、16棟の建物を移築して昭和51年(1976年)に四国村がオープンしました。何というスピードでしょう。

建物は徐々に増え、現在は江戸時代から大正時代にかけて建てられた33棟の建物が移築復元されています。
全部を紹介するのは大変なので、とくに気になったものだけ紹介します。

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丸亀藩御用蔵の前には川島町道路元標や道標など。
川島町は今は高松市の一部になっています。
毎回言ってますけれど、道路元標は元の場所の近くに置いてほしい。

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このように四国村には建物以外にも暮らしに関する構造物や物が多数展示されています。

この猪垣もそうです。四国村内には3種類の猪垣があり、1つはこの小豆島の猪垣を再現したものです。
粘土に松葉を混ぜた土で作られています。

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こちらは徳島県の旧脇町(現美馬市)にあった猪垣を再現したものです。
ただイノシシの侵入を防ぐだけでなく、壁に所々隙間を開けて落とし穴を掘り(上の写真)、イノシシを捕らえていたというので積極的です。

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最後は徳島県の旧一宇村(現つるぎ町)の猪垣を再現したものです。
阿波青石の板を並べています。それぞれ地元の素材を使って地域色があることが分かります。

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建物も、様々な産業・用途に使われた建物があります。
これは内子町の民家の内部で、和紙の原料である楮(こうぞ)を蒸す釜とそこにかぶせる巨大な桶です。
「道成寺」の鐘みたい。

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砂糖しめ小屋はとくに特徴のある建物で、四国村内に3棟あります。
これは坂出市にあった宮崎家砂糖しめ小屋(1865年頃)。

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丸い形には意味があって、中央に石臼が3つあり、そこから伸びる腕木を牛に引かせてぐるぐる回転させていたそうです。
冬の搾汁の時期だけ使われるので組み立て式になっているというのもユニークです。

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六車家釜屋(1800年代末頃)。東かがわ市湊にあったもの。
絞ったサトウキビの汁を煮詰めるための釜です。

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異色な展示物に左甚五郎の墓碑があります。
彫刻が動き出したなどの逸話で知られる江戸時代初期の彫物の名手です。
実在した人物かどうか定かでないものの、日本歴史辞典には高松で没したと記されていると説明に書かれています。
高松市番町の地蔵寺から移設したそうです。

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高松市国分寺町新名の金毘羅街道沿いにあったアーチ型橋(明治34(1901)年)で、旧国分寺町の鷲ノ山産の石材を使っていると説明にありました。石材の町には興味があるのでいつか訪ねてみたいと思います。

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楔石の片面には唐獅子牡丹、もう片面には鯉の滝登りの彫刻があって凝っています。
当初は彩色もされていたそうです。

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これは志度町の消防団で使われていた警鐘台です。
元から警鐘台として作られたものではなく、元は護衛空母「しまね丸」の無線マストだったそうです。
しまね丸は、航空母艦兼用で設計された大型タンカーで、終戦間際に神戸の川崎重工で完成後、実際に使われることはないまま、志度湾長浜沖に隠されていたのですが、英軍の攻撃を受けて沈没。終戦後に解体引き上げされる際、マストを地元有志が貰い受けたという話です。

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これはすぐ近くの屋島神社参道にあった消防屯所(大正8年)だそうです。
内部に手押しポンプ(大正8年)と小型動力ポンプ(昭和37年)も収められています。

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こちらは小豆島の石蔵(大正4年)。
小豆島から大阪に出て事業を成功させた藤原兵太郎が、故郷の北浦村に寄付した公債1万4000円が保管されていたそうです。金庫ですね。
石材は茨城県稲田産の花崗岩を取り寄せて作られたとのこと。小豆島は花崗岩の産地なのに、わざわざ遠い茨城県から取り寄せるあたりにこだわりを感じます。

このほか灯台関連の建物も見ましたが、それは別記事にします。

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四国村の外に出たところに洋館が建っています。
今は四国村カフェとして使われているワサ・ダウン住宅(明治38(1905)年)です。
元は神戸の北野にあった異人館で、1944年から1965年まで日本郵船の社員寮として使われ、役目を終えた際にこちらに移築されたそうです。
加藤陸運の神戸とのつながりによるものでしょうか。

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ちょうど昼時でしたし、四国村につながる逸話を知ったらやはりここで食べなければと「わら家」でうどんをいただきました。
店内は結構広くて賑わっています。お手頃でおいしいうどんでした。

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2024年6月24日 (月)

眺めて楽しむ屋島神社(香川県高松市)

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屋島ケーブルの屋島登山口駅跡に続き、その東隣にある屋島神社に立ち寄りました。

この神社、視覚を重視しているように見えます。
まず御神体ではないのですが、背後には崖が特徴的な冠ヶ嶽が聳えています。

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逆に参道を振り返るとまっすぐ遠くの山並みまで線が引けそうです。

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屋島神社の解説によれば、別名は讃岐東照宮。
徳川家康公が祀られています。元からここにあったわけではなく、最初は宮脇村の本門寿院境内といいますから、城下南西の山裾にあったようです。遥か東の屋島山麓に移されたのは、江戸時代も後期の文化元年(1802年)。完成したのは10年以上たった文化12年(1815年)です。
屋島神社という名前になったのは明治になってからで、東照宮の名前が憚られたのかもしれません。
残念ながら昭和48年に火災で本殿・拝殿などを焼失しましたが、神門は無事だったそうです。

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その神門がこちらです。
歳月を感じさせる渋い板の上に銅が目立っています。

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左甚五郎の六世、五代目の左利平忠能が客分棟梁と書かれているように、彫刻に力が入っています。
正面上部の鳳凰の彫刻。

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保護ネットで見づらいですが、上り龍。

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こちらは下り龍です。

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獅子も睨みを利かせています。
さっきの龍もそうですが、銅の目はちょっと恐いですね。

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扉には頭が欠損したニワトリ。

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この扉、細かい麻の葉模様がびっしり彫刻されていて、これは魔除けなんでしょうか。
恐いぐらいの密度です。

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正面の扉には葵の御紋があり、こちらの板には網目のような毘沙門亀甲の模様が刻まれています。
将軍のイメージなのかも。

大きく見ても、細かく見ても見どころのある神社でした。

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ここからは蛇足のような余談で、気になったものを。
屋島神社の西側(四国村の反対側)に四国村の石碑が置かれていました。
なぜこんなところにあるのか気になります。
ケーブルカーを降りた人を四国村に誘導する看板だったのでしょうか。

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また屋島山上水族館の色褪せた看板もありました。
これもケーブル利用客向けなのでしょうね。

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屋島ケーブル跡(香川県高松市)

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2022年9月の屋島への旅行の続きです。
屋島山上の南の端にある屋島ケーブル屋島山上駅跡を訪ねました。
ここはこの時の旅行で一番見たかった場所です。

屋島山上駅跡も無人、駅前の土産物屋や食堂も無人です。「観光地の駅前」がセットで残っていて、昔の様子が想像できるだけに、全てが時間を止めていることに何ともいえない気持ちになります。

訪問日:2022年9月10日

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旧屋島ケーブル屋島山上駅は、屋島登山鉄道のケーブルカーの駅として、昭和4(1929)年に建てられたものです。
長らく山上へのアクセスとして利用されてきましたが、ケーブルカーは2004年に運行を休止しました。(all YASHIMA「旧屋島ケーブル山上駅」

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建物には積層したようなデザインが多用されています。

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こちらは西側。右奥に乗り場があります。
大きく丸く張り出した庇が印象的です。

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ケーブルが動いていた時代の屋島山上案内図もありました。
ホテル甚五郎も描かれています。施設名や観光地名はプレートで貼り付けるようになっています。

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ケーブルの乗り場付近。ロープが張られているので、これ以上は入れません。
レールの上は緑に覆われているようです。

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向かって左側にある古い便所の跡。
屋島山上駅の看板が転がっています。

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駅前は左手に「軽食と喫茶 旅の憩」というお店の跡がありました。
手荷物預所の文字もあります。

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右手には土産物店の跡です。
コニカのフィルムや、「屋島」と書かれた提灯、一休さんの陶人形、石カエル、屋島下駄、瀬戸大橋土鈴、阿波踊り竹人形、万年カレンダーなど昔の土産物がそのまま残されています。

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<戦前の絵葉書・営業時代の屋島ケーブル>

「探勝の第一歩・・
 八百米の「ケーブルカー」は青松を縦断して一筋に屋島台上の急ぐ
 いざや訪ねん源平興亡の跡。国立公園 瀬戸の美を。談古嶺に」

と書かれています。観光の目玉は「源平」と「瀬戸内海」だったのですね。

私はそのまま降りていく訳にいかず、帰りもまた遍路道を下って、途中から屋島神社に抜ける道に入りました。 

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山裾をたどっていくと旧屋島ケーブル屋島登山口駅跡にたどりつきました。

ここには車両2両が留め置かれています。駅舎は解体されました。
この車両はケーブルカーが戦後昭和25(1950)年に復活した際に作られたものだそうですので、絵葉書に出てくる車両とは異なります。
また塗装も廃止後に塗り直されています。

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屋島ケーブルの看板。

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屋島ケーブルの義経号を側面から。

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乗車位置にはタイルで矢印が描かれていました。

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扉が開放されているので、車内にも入ることができます。
車内には車両の部材なども置かれていました。

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こちらは弁慶号。

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軌道の滑車。

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見上げると線路の先は草木で覆われ、見通せません。

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駅の横には白い下身板張りの小さな建物がありました。
「変電室」の文字が見えます。

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中を覗くと、変電施設が残っていました。

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屋島登山口駅前は、この先にも線路を伸ばす計画があったためか、広い道となっていて、両側の旅館や店舗跡などがかつての賑わいをかすかに感じさせています。

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2024年6月22日 (土)

屋島に登る(香川県高松市)

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2022年の高松旅行、「ジャンボフェリーで屋島へ」の続きです。
いよいよ屋島に登ります。
屋島山上シャトルバスを利用する方法もあるのですが、この時は途中に何があるのか見たいこともあり、徒歩で登りました。
いくつかある登山道のうち一番登りやすそうな遍路道を登ります。

四国は各所に遍路道が整備されていて、お遍路をしていない私も恩恵を受けることが多いです(とくに山道)。

訪問日:2022年9月10日

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登り始めると加持水と呼ばれる旧跡がありました。
弘法大師が仏天を供養し、誦呪加持(呪文を読み、仏の加護保持を祈祷すること)をした水と言われるそうです。

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少し歩くと今度は「不喰梨」(くわずなし)という旧跡があります。
弘法大師が屋島に登った時に梨がおいしそうなので所望したところ、持ち主は「うまそうに見えても食べられない不喰の梨です」と嘘を言って断ったところ、後にこの梨が石のように固く、本当に食べられないようになってしまったという話が書かれていました。

このように遍路道を歩くと、時々弘法大師ゆかりの旧跡があって飽きさせません。

右側の石碑は折れた石碑に「やすみ所」と書かれています。よく分かりません。

帰り道、上に欠けた部分を含む石碑があってようやく意味が分かりました。
「東宮殿下御やすみ所」
皇太子殿下が屋島に登った折、休憩された場所ということのようです。

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私は途中で遍路道を離れ、屋島城に登っていくショートカットの道に入りました。
というのは屋島ケーブルの山上駅跡に立ち寄りたかったからです。
屋島ケーブルについては、次回の記事にします。

階段の続く、私にはきつい道です。

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階段を登り切ると石垣が現れました。
これは2007年から復原された屋嶋城(やしまのき)の城壁です。
説明によると淡い茶色の石がもともと城壁に使われていた安山岩で、黒や灰色の石は復原工事の際に補われた石だそうです。

屋嶋城というのは日本書紀に出てくる城で、663年の白村江での敗戦の後、倭国防衛のため中大兄皇子が築かせた山城の一つとのことです。
長らく幻の城で、再発見されたのはつい最近の1998年です。

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城門を通して見る高松方面。
さっき歩いてきたルートが眺められます。

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屋島はテーブル状の地形で、南嶺と北嶺に分かれています。
この時に歩いたのは南嶺のみです。

テーブル状なので上がってしまえば平坦で歩き回りやすい道です。

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まず東側から回りました。
源平の戦いで有名な屋島の戦場は、東側の入江の奥です(現地に行って初めて知りました)。

屋島に登るとその古戦場が一望できます。
(粗いつなぎのパノラマですみません)
この写真は談古嶺からのもの。景色を眺めながら「昔はあそこであれやこれや」と語り合う場所ということでしょう。

左が北です。瀬戸内の島や庵治の採石場など、見どころがたくさんあります。この後、向こう側に行きましたのでまた紹介します。
写真では視界が開けていますが、この日は霧がたびたび上がってきて、視界が白く覆われました。

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同じエリアの古いパノラマ絵葉書がありますので見比べてください。
源平の史跡が紹介されています(右の方に固まっています)。
源義経は徳島方面から山を越えて攻め込んだんですね。

右側の湾の奥には塩田があり、そこが現在では宅地化していることがわかります。
この時点でも既に採石場が広がっているようです。

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昔の絵葉書の瞰蹟亭。談古嶺より南にあります。
「史跡を見下ろす場所」ということなのでしょう。

この建物ではないですが、今も展望台があり、ここからの眺めも良いです。

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屋島山上の東側には廃墟や空き地となった旅館が目立ちました。
賑わいの中心は西に移ったようです。

これは元ホテル甚五郎です。1階の窓は割れていて、アーケードゲームなどが見えました。

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談古嶺の標石柱。
裏には「香川縣國立公園協會」と書かれています。
いつのものかは記されていませんが、旧字体なので古そうです。

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屋島山上の西側に回りました。
ここからは高松の港や市街、瀬戸内の海が眺められます。

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山上には新屋島水族館もあります。
沿革を見ると、屋島山上水族館ができたのは昭和44(1969)年のこと。
令和元(2019)年に新屋島水族館の第1期リニューアルオープンとなっています。

山の上に水族館というだけでも意外性がありますが、右の説明によると回遊魚のハマチを展示するため「世界初となるアクリル製ドーナツ型回遊水槽が誕生」、その後、世界の水族館でアクリルを使った水槽展示が行われるようになったと書かれています。
そんな画期的な水族館だったのですね(でも入らなかった)。

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この変わった建物は「やしまーる」(高松市屋島山上交流拠点施設)という展望台を兼ねた施設です。設計者は周防貴之氏。
開業は2022年8月5日なので、訪問時は開業してまだ1ヶ月でした。

次々新しい施設ができている西側エリアは、廃墟の目立つ東側エリアや使われなくなった屋島ケーブル山上駅のある南側エリアとは対照的です。

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でも自分は古いものに興味があるので、こういうものを見に行きます。
「東宮登臨之地碑」というものがありました。

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隣に説明を書いた石碑があります(大正15年)。

碑文によると、大正11年11月、摂政宮殿下(のちの昭和天皇)が陸軍特別大演習を統監するため四国に巡啓し、20日に屋島に登られた際、官民挙げて山上で奉迎したそうです。そのできごとを記念した石碑です。

恐らく「やすみ所」の記念碑もその時のものなのでしょう。

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なお、「東宮登臨之地碑」の先に西尾根展望台があります。
ここからの展望は高松平野を見渡す開放的な眺めでおすすめです。
他の展望台に比べて訪れる人は少ない気がします。

屋島は各方面で全く違った展望があるのが楽しいですね。

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屋島寺も訪ねました。四国八十八か所霊場の第84番札所です。
ここだけは創建が鑑真和上で、唐から渡ってきた鑑真和上が奈良に向かう途中の754年、北嶺に普賢堂を建て、これを815年に訪れた弘法大師が今の南嶺に移したそうです。

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その屋島寺の門前に屋島村道路元標がありました。
道路元標は大概、町の中心地や入り口に立っているので、こんな山の上にあるのは珍しい気がします。
この場所の重要性を示しているようです。

今回の記事はかなり端折っていて、屋島山上には他にも興味深いものがたくさんありました。
一般的な観光地については、屋島の公式観光情報サイト「all YASHIMA」などをご覧ください。
次の機会があれば、北嶺にも行ってみたいと思います。

次回は屋島ケーブルについてです。

<関連記事>
 「ジャンボフェリーで屋島へ」 前の記事
 

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2024年6月19日 (水)

ジャンボフェリーで屋島へ(香川県高松市)

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2022年9月に屋島を訪ねた時の話を書きます。

この時は神戸からジャンボフェリーを利用しました。
ジャンボフェリーの会社案内を見ると、明治10年に高松で代々米問屋を営んでいた加藤彌太郎が旧高松藩の船2隻を船頭家ごと譲り受け、大阪〜香川の貨物輸送を始めたことから書き起こされていますが、直接的には昭和44年に加藤汽船と関西汽船の共同運航で、阪神〜高松のカーフェリー「ジャンボフェリー」を就航させたのが始まりです。その後、加藤汽船の単独運航を経て、平成15(2003)年、元社員に事業譲渡する形でジャンボフェリー株式会社に航路が移管されました。

「ジャンボフェリー」会社案内

たまたまでしたが、この時、ジャンボフェリーに乗ったのは四国村の話につながって良かったと思います(後日記事にします)。

訪問日:2022年9月10日

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何か思い入れがあって乗ったわけではなくて、船が好きなのと高松に行くのに便利だからという選択です。
深夜便で午前1時に出発して、朝5時15分に到着する便があります。
通常1990円のところ、深夜料金+500円、土休日料金+500円で2,990円でした。

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乗船するとキラキラのロビー。
ひと昔前の船はこんな感じですね。やたらと明るい。

この時の船は「こんぴら2」。平成元(1989)年就航の船です。
この船は私が乗った3ヶ月後の2022年12月17日、新造船あおいと入れ替わりで引退しました。

神戸港への入港回数がフェリーで国内最多、明石海峡航路の通過回数が世界最多などの記録を持っていたそうです。

→引退についての記事 ジャンボフェリーHP「「こんぴら2」、延期後の引退日が12月17日(土)に決定」
 (その後、2023年2月20日にバングラデシュのチッタゴンで解体されたそうです(あまがみさんのブログ記事「こんぴら2」

図らずも記念となる乗船になりました。

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乗船するとこんなものがありました。
フードコートの呼び出しベルみたいなもので(というよりそのもの?)、左が高松行き用、右が小豆島行き用です。
とくに高松行きは午前5時15分に下船し損ねると小豆島まで連れて行かれます。

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この機会なので、もちろん使ってみました。
雑魚寝のカーペット席で、4時間後に下船では寝られません。
とくにこれを使わなくても船内放送が入ります。

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フェリーの後部甲板。使い込まれた甲板の風合いがいとおしい。

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薄明の高松東港に到着しました。
右に屋島の影が見えます。

まだ朝の5時。時間はたっぷりありますし、こんなに近いのならと歩いていくことにしました。

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フェリーターミナルの外には「加藤汽船」の文字がありました。

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普通は徒歩ならリムジンバスで高松駅に向かうところで、歩いて出ようとすると迷ってなかなか出られません。

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「ようこそ香川県へ」の看板。
到着した感があります。

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港にあったコンクリートの謎の構造物。
分かりませんが、とりあえず記録しておきます。

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まず詰田川大橋を渡り、高松パブリックゴルフ場(塩田跡地)を右に見て、今度は屋島大橋を渡ります。
屋島がだんだん近付いてきます。

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だんだん明るくなる空。
海の向こうに豊島や瀬戸内の島が見えます。

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そろそろ渡り終わる頃、相引川と新川を隔てる長い石の堤がありました。
延々と続いています。

橋の反対側の歩道を歩けば何本もの堤が見えたかも。

相引川は両端が海という珍しい河川で、屋島を四国から切り離している川です(そうは見えませんが)。

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渡った先にあるのは東部下水処理場です。
実はこの下水処理場のある場所は屋島浜と言って、明治39年から工事が始まって明治末年までに完成した、比較的新しい塩田跡地らしいです。
敷地の境界には土手が続いています。塩田の頃からあるものなのでしょうか。
高松市HP「東部下水処理場内の塩田跡地の紹介」

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東部下水処理場の地図です。
営業時間なら構内に入って塩田遺構など眺められるんですが、朝早すぎたので通過しました。

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東部下水処理場の東の境界。
この水路の左が屋島浜の塩田(1907〜1910年築造)で、右が亥浜の塩田(1755〜56年築造)、奥が潟元新浜の塩田(1842年築造)なので、かつては全て塩田でした。(児玉洋一著「高松地区塩田の史的研究」(1955年)より)

またこの地域の塩田については、屋島に行こうHP「屋島の塩田」に紹介されています。

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塩田を隔てる川。
水路の両側に杭のようなものが打ってあるのはどんな目的があるのでしょう。
気になります。

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コンクリート橋ですが、橋脚の部分が石積みで、古い橋のように思われます。

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八坂神社の鳥居の向こうには屋島の峰が見えていました。
次の記事では屋島に登ります。

ところで今回歩いた道は塩田跡の間を抜けるような道でした。屋島の東側にも塩田があります。
瀬戸内の海岸を歩くとかなりの頻度で塩田跡に出会いますし、そこが工業地帯になっていたりします。塩田は土地の改変に(しばしば新しい土地を生み出すこともあり)大きく影響してきました。もっと塩田について知っておくべきかなと思っています。

<関連記事>
 ⚪︎ジャンボフェリー
  「夏の香川・島めぐり(14)小豆島へ」 この時は「りつりん2」に乗ったようです

 ⚪︎塩田関連
  「赤穂の塩の役所」(赤穂市・2008年4月)
  「大毛島から高島へ」(鳴門市・2016年9月)

 

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2019年9月 1日 (日)

宇多津の波千鳥再訪(香川県宇多津町)

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今年の秋に「小さな千鳥展」を開催しようとしていることもあり、2013年に訪ねてとても気に入っていた波千鳥の瓦を見に、香川県の宇多津を再訪しました。宇多津は中世以来の港町でしたが、塩田が発達してその後市街化したため、海は遥か遠くになり、古来の町は古街と呼ばれています。

訪問日:2019年7月28日

波千鳥の瓦の家はその中にあります。

が、近づいて見てみるとなんだかおかしい。
波千鳥の瓦はありますが、真新しく銀色に光っているんです。
改修された?混乱しながら見ているとちょうど家の奧さんが出てこられました。

「この瓦を見に来たんです」とお伝えするといろいろ教えていただけました。
屋根の傷みがひどくなってきて、落下すると危険ということで、3年前に改修されたそうです。ただ、この波に千鳥の瓦はとても気に入っておられたので、費用はかかったけれど、全く同じ形で焼き直してもらったそうなんです。(元の瓦は処分されたとのこと・・・)

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この写真で2階の一番下の部分、端から端までですので、10mはあります。
なかなかそこまではしませんよね。

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2013年の様子。てっぺんにあった帆掛け船の瓦は降ろされました。
隅にあった戎・大黒の瓦はそのまま残されています。

新旧の波に千鳥の瓦を比較してみます。

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<2013年>

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<2019年>

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<2013年>

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<2019年>

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<2013年>

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<2019年>

オリジナルの方がやはり良いのではとは思いましたが、よく再現されています。

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また北側の波に鯉の瓦に

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南側の松の瓦も再現されています。

仕上がりが白っぽくなったのは予想外だったそうです。
年月を経れば落ち着いてくるでしょうか。

このお宅はこれでも分家で、明治20年頃に建てられたそうです。
見せていただいた資料によれば、問屋(肥料、醤油、味噌)を営んでいたとのこと。
大学の先生が訪ねてきたり、見学会が開催されたこともあるそうです。私も見せていただきましたが、石畳の敷かれた中庭があったり、モダンなデザインの家具があったり、2階から大戸が降りてくる仕掛けがあったりと、素敵なお宅でした。

突然の訪問にも関わらず、暖かく対応していただいてありがとうございました。

また、宇多津で前回見落としていたものも今回見ましたので紹介しておきます。

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竹薮のトラ。右手を挙げて威嚇する迫力ある姿です。
竹もタケノコが混ざっていたり、生き生きした表現です。

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同じ家の鷹の瓦。こちらも威嚇してきています。
松と竹も添えられています。

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こちらは別の家ですが、天女の瓦。
香川県の瓦は細工が見事です。
高見島の瓦を思い出しました。

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こちらは坂出で見たのと同タイプの面格子。

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出窓下の持ち送り。こちらは松・竹です。

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同じ出窓のもう一方には梅。
これで松竹梅になります。

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前回も見た新町水門(昭和30年)を越えて、今回は坂出まで歩くことにしました。
そんなに距離はありません。

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途中で見かけたお風呂屋さんの跡。
うっすら宇多津温泉の文字が見えます。

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少し寄り道したところにあった消防団の車庫。

千鳥の瓦については思わぬ結果でしたが、宇多津についてはまた今後も訪ねたいと思います。

 


より大きな地図で 瀬戸内国際芸術祭2013 を表示

 

<関連記事>
 日常旅行日記「夏の香川・島めぐり(11)宇多津の旧市街」
       「夏の香川・島めぐり(12)宇多津の波千鳥」
       「夏の香川・島めぐり(13)宇多津のディテール」
 以上、2013年の記事



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2016年10月22日 (土)

小豆島・草壁本町から安田へ

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小豆島の草壁本町の近くで見かけた持ち送り。
よく見ると花とトゲのある茎が表現されていて、工芸的です。ノイバラでしょうか。

 

草壁本町を歩いた後は、バスで小豆島北東部の港町・福田に向かおうとしたのですが、ここでハプニング発生。腕時計の時間がずれていて、バスに乗り遅れてしまったんです。
幸い、瀬戸芸期間ということでバスが増発されていて、2時間待ちぼうけということにはなりませんでしたが、それでも次のバスは1時間後です。
せっかくなので次のバス停まで旧道を歩くことにしました。

 

これが意外な収穫になりました。

 

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まず出会ったのが片城橋。
別の親柱に昭和2年と書かれています。

 

160731kusakabe12 ※クリックすると拡大します

 

全体として、こんな風に親柱と一部欄干が残っています。
もう少し先に新しい片城橋があったので、移設されたのかと思いましたが、地図をよく見ると旧片城橋を通る旧河道が確認できます。おそらく河川改修によって河道が直線になり、新たに橋が架けられたのですね。

 

160731kusakabe13 ※クリックすると拡大します

 

佃煮工場の島乃香(株)片城工場の通用門跡?
大正風なデザインです。

 

160731kusakabe14 ※クリックすると拡大します

 

さらに進むと大きな敷地が見えてきました。
歯科医院です。

 

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下見板張りの建物があって、旧診療所かなと思いました。
戦後っぽい質感です。

 

160731kusakabe15 ※クリックすると拡大します

 

カラフルな石で門柱が作られています。

 

160731kusakabe16 ※クリックすると拡大します

 

破損した部分から煉瓦が顔を見せていて、壁が煉瓦造であることが分かります。

 

160731kusakabe17 ※クリックすると拡大します

 

さらに不思議な建物が。
「内海町片城車庫」と書かれています。
何の車庫なんでしょう。ボンネットバス?

 

160731kusakabe18 ※クリックすると拡大します

 

車庫本体の前に、かわいらしい建物が附属していて、こちらは事務所でしょうか。

 

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斜向かいにはロープウェイの車両を転用した集会室がありました。
寒霞渓ロープウェイの車体らしいです。
オリーブ畑の中に置かれた車体は、窓が大きくて眺めが良さそうですね。

 

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安田の町に入ったところで、洋館+和洋折衷住宅がありました。
好みの住宅です。

 

バスに乗り遅れたおかげで、得る物の多い時間になったと思います。

 

 

<関連記事>
 「小豆島・草壁本町を歩く」  「夏の香川・島めぐり(14)小豆島へ」  「夏の香川・島めぐり(15)小豆島の醤油工場」  「夏の香川・島めぐり(16)小豆島の洋館付き住宅・煉瓦」

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