野外博物館・四国村(香川県高松市)
屋島神社の後は、その隣にある四国村(四国村ミウゼアム)を訪ねました。
訪ねる前は、県や市の運営する民家園と思ってたんですが、民営(現在は公益財団法人)です。
それに展示も民家よりかなり幅広いものでした。
四国村は2022年4月にリニューアルしたばかりで、左に見える建物は新たに建てられたエントランスの「おやねさん」です。
右下に見える茅葺き屋根は、徳島県祖谷地方から移築された古民家を利用して昭和50年(1975年)に開業したうどん店「わら家」の屋根です。
(その写真は撮り忘れていました)
訪問日:2022年9月10日
入り口を入るとすぐ出会うのは、再現された徳島祖谷地方のかずら橋。
4年に1回架け替えられているそうです。
実際に渡れます。本物と違って高さは全然ないのですが(本物は見たことないけど)、結構隙間があって、すぐ下が池なので緊張感があります。
その先にあるのは、小豆島農村歌舞伎舞台(江戸末期)です。舞台を扇状に囲んで階段状の客席があります。
そのまま進むと丸亀藩御用蔵(江戸後期)。
ここには四国村についての展示があり、四国村がどういうものなのか知ることができました。
四国村はカトーレック(株)創業者の加藤達雄氏が開いた野外博物館です。
カトーレックは元々加藤海運の陸運部門が独立した加藤陸運が始まりということで、グループの加藤汽船をルーツに持つジャンボフェリーに乗ってきたのも何かの縁のようです。
始まりは先ほどの古民家うどん店「わら家」でした。
実は陸運会社でドライバーとして働いてきた高齢社員のために、第二の職場として用意したお店なのだそうです。
昭和50年(1975年)のことです。
そこで加藤氏は古民家に魅了され、滅びゆく建築物の収集を始めました。
これに「わら家」に隣接する土地の地主さんが賛同して無償で土地を提供し、16棟の建物を移築して昭和51年(1976年)に四国村がオープンしました。何というスピードでしょう。
建物は徐々に増え、現在は江戸時代から大正時代にかけて建てられた33棟の建物が移築復元されています。
全部を紹介するのは大変なので、とくに気になったものだけ紹介します。
丸亀藩御用蔵の前には川島町道路元標や道標など。
川島町は今は高松市の一部になっています。
毎回言ってますけれど、道路元標は元の場所の近くに置いてほしい。
このように四国村には建物以外にも暮らしに関する構造物や物が多数展示されています。
この猪垣もそうです。四国村内には3種類の猪垣があり、1つはこの小豆島の猪垣を再現したものです。
粘土に松葉を混ぜた土で作られています。
こちらは徳島県の旧脇町(現美馬市)にあった猪垣を再現したものです。
ただイノシシの侵入を防ぐだけでなく、壁に所々隙間を開けて落とし穴を掘り(上の写真)、イノシシを捕らえていたというので積極的です。
最後は徳島県の旧一宇村(現つるぎ町)の猪垣を再現したものです。
阿波青石の板を並べています。それぞれ地元の素材を使って地域色があることが分かります。
建物も、様々な産業・用途に使われた建物があります。
これは内子町の民家の内部で、和紙の原料である楮(こうぞ)を蒸す釜とそこにかぶせる巨大な桶です。
「道成寺」の鐘みたい。
砂糖しめ小屋はとくに特徴のある建物で、四国村内に3棟あります。
これは坂出市にあった宮崎家砂糖しめ小屋(1865年頃)。
丸い形には意味があって、中央に石臼が3つあり、そこから伸びる腕木を牛に引かせてぐるぐる回転させていたそうです。
冬の搾汁の時期だけ使われるので組み立て式になっているというのもユニークです。
六車家釜屋(1800年代末頃)。東かがわ市湊にあったもの。
絞ったサトウキビの汁を煮詰めるための釜です。
異色な展示物に左甚五郎の墓碑があります。
彫刻が動き出したなどの逸話で知られる江戸時代初期の彫物の名手です。
実在した人物かどうか定かでないものの、日本歴史辞典には高松で没したと記されていると説明に書かれています。
高松市番町の地蔵寺から移設したそうです。
高松市国分寺町新名の金毘羅街道沿いにあったアーチ型橋(明治34(1901)年)で、旧国分寺町の鷲ノ山産の石材を使っていると説明にありました。石材の町には興味があるのでいつか訪ねてみたいと思います。
楔石の片面には唐獅子牡丹、もう片面には鯉の滝登りの彫刻があって凝っています。
当初は彩色もされていたそうです。
これは志度町の消防団で使われていた警鐘台です。
元から警鐘台として作られたものではなく、元は護衛空母「しまね丸」の無線マストだったそうです。
しまね丸は、航空母艦兼用で設計された大型タンカーで、終戦間際に神戸の川崎重工で完成後、実際に使われることはないまま、志度湾長浜沖に隠されていたのですが、英軍の攻撃を受けて沈没。終戦後に解体引き上げされる際、マストを地元有志が貰い受けたという話です。
これはすぐ近くの屋島神社参道にあった消防屯所(大正8年)だそうです。
内部に手押しポンプ(大正8年)と小型動力ポンプ(昭和37年)も収められています。
こちらは小豆島の石蔵(大正4年)。
小豆島から大阪に出て事業を成功させた藤原兵太郎が、故郷の北浦村に寄付した公債1万4000円が保管されていたそうです。金庫ですね。
石材は茨城県稲田産の花崗岩を取り寄せて作られたとのこと。小豆島は花崗岩の産地なのに、わざわざ遠い茨城県から取り寄せるあたりにこだわりを感じます。
このほか灯台関連の建物も見ましたが、それは別記事にします。
四国村の外に出たところに洋館が建っています。
今は四国村カフェとして使われているワサ・ダウン住宅(明治38(1905)年)です。
元は神戸の北野にあった異人館で、1944年から1965年まで日本郵船の社員寮として使われ、役目を終えた際にこちらに移築されたそうです。
加藤陸運の神戸とのつながりによるものでしょうか。
ちょうど昼時でしたし、四国村につながる逸話を知ったらやはりここで食べなければと「わら家」でうどんをいただきました。
店内は結構広くて賑わっています。お手頃でおいしいうどんでした。
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