カテゴリー「国内旅行(宮崎)」の記事

2022年2月 3日 (木)

宮崎の旅2019(7)宮崎市の気になるもの

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2019年GWの宮崎旅行・宮崎市編の最後に、気になったものをまとめて紹介します。
まずは、まるやまふれあい広場。視線を感じて目をやると、白い人物像がこちらを向いて立っていました。
公園の外なんですが、彫塑家の家なのでしょうか、気になります。

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宮崎神宮に向かう途中、神宮通で見た民家。
全体としては和風なのですが。

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玄関周りが洋風になっています。
パステルブルーのペンキが古い玄関灯に似合っています。
(2020年には解体)

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同じく神宮通の廃業店舗。文字が欠落していて分かりにくいのですが、たぶん京染のお店です。

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ショーウィンドウ下のタイルがきれいです。

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宮崎神宮前の自転車屋さん。昔ながらの建物で営業されていました。
ツバメ自転車の看板が残っています。

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図書館に行くため立ち寄った総合文化公園。
東南角に宮崎大学農学部の正門門柱が残されています。
宮崎大学農学部は大正13年、この地で宮崎高等農林学校として設置され、昭和19年宮崎農林専門学校と改称、戦後の昭和24年宮崎大学農学部となって、昭和60年に学園木花台に移転するまでこの地にありました。

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その向かい辺りにある手作りの店ROPA。古い建物を利用しているようですが、詳細は分かりません。

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宮崎神宮から平和台公園に向かう途中、下北方町で見かけた建物群。
何かの施設っぽい雰囲気もあるのですが。

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市内中心部に戻ってこれは有名な宮崎県庁。
昭和7年、置塩章の設計、大林組の施工で完成した庁舎です。
同年には神戸に国立生糸検査所(KIITO新館)が完成しています。

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休日なので業務は休みですが、玄関ホールまでは入れてもらえました。

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警備員の窓口です。大理石の装飾などを見ることができます。

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県庁前の通りには道を覆うようにクスノキの並木が連なっています。
県庁舎が完成した後、昭和8年に旧知事公舎などに植えられていたクスノキ28本を移植したそうです。
そういう説明をしたプレートが昭和62年に設置されていました。当時で樹齢100年ほどとのことなので、今では樹齢130年ほどでしょうか。
街路樹は安全性を考えて刈り込まれることが多いので、このような堂々たる並木が残されているのは貴重ですね。

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その並びに宮崎県の道路元標もありました。

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ちょっと珍しいタイミングだったのは、宮崎県庁5号館。
昭和元年(1926年)に建てられた旧宮崎農工銀行の建物で、約70mの曳屋が前年初めに終わり、この時はまだ改修工事が続いていました。2021年に登録文化財になっています。

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県庁の向かいにはかつて県の公会堂がありました(大正12〜昭和44年)。
跡地は昭和45年に県庁南庭園となっています。

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ちょっと気になったもの。
擬木のようですが、餌場?

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まちなかに残る蔵。昭和5年の地図を見ると日高三郎さんという方の邸宅のあたりのようです。

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最後に、JR宮崎駅にあった顔ハメ看板。
天照大神、月読命、須佐之男命の三貴人に、皇紀2679年と表示されていて、今も建国神話が観光の核になっていました。

今回は雑多な内容ですが、これで宮崎市編を終わります。
余力があればいずれ延岡編、日向市編、美々津編なども書きたいと思います。

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2021年12月30日 (木)

宮崎の旅2019(6)皇宮屋(宮崎市)

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また間が開きましたが2019年GWの宮崎旅行の記事です。
平和台公園の平和の塔(八紘之基柱)を見た後、皇宮屋(こぐや)跡に向かいました。
のちに神武天皇となる神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)が大和への東征に出発する前に過ごした宮跡として聖蹟観光地の一つでしたが、今も賑わう宮崎神宮や平和台公園と違って、こちらはひっそりとしています。

実際には逆コースで回ったのですが、わかりにくいので巻き戻すように紹介します。
皇宮屋の入り口はこのように住宅地の端で、大きく育った参道の木々の向こうに丘が迫っています。

 

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木々を抜けると見通しが良くなり、階段の登り口に灯籠が並んでいます。
この凝った灯籠は明治40年(1907年)です。

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階段を上がっていくと、脇に変わった形の石碑がありました。
昭和9年(1934年)、宮崎神宮などで行われた「神武天皇御東遷二千六百年記念祭」の際に設置された「聖蹟皇宮屋」という記念碑です。
出発から6年後に即位することになるので、記念行事も6年の時間差があります。


        聖蹟皇宮屋

恭しく惟うに
神武天皇肇国の大業を恢弘し給わんが
為めに日向国を御進発あらせられしより、
正に二千六百年茲にその当日十月五日
宮崎神宮に於て記念の大祭を奉修す。此の
皇宮屋の地は天皇御進発以前、天下を知し
○し給いし所と伝えらるる霊域なり。今之を祓浄し、
施設新に成る。乃ち碑を立て其の由を記す。

 昭和九年十月五日

  宮崎県知事           君島清吉
  神武天皇御東遷記念 
  二千六百年祭全国協賛会長 伯爵 松平頼壽

 ※旧字体は可能な限り新字体に変更しました。
  送りがなはカタカナをひらがなに改めました。
  適宜、改行や句読点を追加しています。
  不正確かもしれませんので参考程度にご利用下さい。

 「祓浄」とありますので草木が茂っていたのでしょう。昭和9年の大祭を機に境域が整備されたことが分かります。

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階段の途中から振り返ったところ。

 

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脇を見ると立派な石垣が築かれています。

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進んでいくとまた石碑があります。
草書なので私には読めませんが、隣にちゃんと解説板があり、設立経緯や背面の碑文の書き起こしまで示されていました。
表面に書かれているのは和歌です。

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宗教法人国柱会の設立者・田中智学氏が昭和4年に久しく荒廃した皇宮屋跡を訪ねて詠んだ歌だそうです。
この訪問を機にこの聖蹟を顕彰することを勧め、神武天皇東遷二千六百年祭の際に皇宮屋も整備されることにつながったという経緯が記されています。記念碑自体は昭和10年に完成しています。

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その先には高さ12mの大きな記念碑があります。
写真で分かりにくいかもしれませんが、積み上げた石が矛の形に凹ませてあり、そこに「皇軍発祥之地」という文字が刻まれています。
紀元二千六百年記念事業で建てられた「皇軍発祥之地碑」(昭和16年起工、昭和17年末頃完成)です。
(出典:宮崎神宮公式HP

八紘之基柱と同じく、日名子実三氏による造形だそうです。
また「海軍発祥之地」碑も同じく日名子実三氏の造形で、船出の地である美々津の立磐神社に置かれています。
こちらは陸路での出発点ということでいわば陸軍の発祥地ということなのでしょう。

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背面には木の扉があります。
中には何か納められているのでしょうか。

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前面にはコンクリートの柱があって、何も書かれてはいませんが、国旗掲揚台かと思われます。

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さらに進んでいくと、現在の皇宮神社(明治10年に宮崎神宮の摂社という位置づけになった)の社殿が見えてきます。
ちなみに現在の社殿は、伊勢神宮の昭和48年の式年遷宮の際に出た外宮外幣殿の材をいただいて昭和51年に改築したということですので、元は昭和28年の建物ということになるかと思います。

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なお、もともとの社殿は少し離れた所にある、こちらの小さな場所でした。
昭和9年の神武天皇御東遷二千六百年記念祭の時に境域が拡張されたということです。

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この旧社地には「経壟記」と書かれた石碑が立っています。
これは、江戸時代の弘化3年(1846年)、下北方代官所に赴任した代官・瀧口常裕がこの地の由来を刻んだものだとのことです。
神武天皇ゆかりの地が荒れ果てて、土地の人もその由来を忘れていることを嘆いています。

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・・・ということが隣の看板で説明されていました。

翌弘化4年(1847年)藩費で社殿が再建されました。

荒廃と再建が繰り返されてきたということになります。

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皇宮神社を抜けると住宅地ですが、所々に案内の道標が立っています。
聖蹟めぐりの便のために設置されたのでしょう。

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こういう道標がまちなかにひっそりと残っています。

宮崎市での聖蹟観光の話はここまでです。

それ以外の宮崎市内のあれこれをもう一回で紹介します。

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2021年9月12日 (日)

宮崎の旅2019(5)八紘之基柱の石材

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八紘之基柱(あめつちのもとはしら・現在は平和の塔)について、もう一つ紹介することがあります。
塔の概要については前回の記事で。

 

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この塔の台座には、国内外各地から寄贈を受けた石材が使われています。
見た目にも、バラバラなのが分かると思います。
まるで石のカタログのようです。

『ある塔の物語』によれば、「この計画は新聞のキャンペーンや、その他のマスコミを通じて、国内はもとより、世界各国へ広く発信された。(中略)縦四十五センチ、横六十センチ、幅十五センチ切石は、団体からに限られたが、県内市町村をはじめ、国内各地、朝鮮半島、台湾、中国、さらには、ペルー、シンガポール、ハワイ、ドイツ、イタリアなどの日本人会から続々と集まり、全部で千七百八十九個が寄せられた。これらの切石には、それぞれの寄贈者名が刻み込まれた。」とのことです。規格化されていたのですね。

その一部を紹介します。

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左下に「栃木県農会」
左下に寄贈者名を書くのが決まりだったようです。

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「西米良村青年団」
県内からのものです。サイズが規格と異なりますね。

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「福井県織物組合」
斜めに刻まれた線は織物をイメージしているのでしょうか。

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「信濃教育会」

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「東京市役所」

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「福岡県神社協会」

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「岐阜県町村長会」

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「愛知県土木協会」

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「和歌山学校歯医会」
 学校担当の歯医者さんの組合というのもあったのですね。

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「台北台湾石材会社」?
 大理石のようです。

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「朝鮮総督府」

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「カナダ日本人会」
かなり変わった模様の石です。

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「南京日本居留民会」
細かいレリーフが刻まれていて、建物から切り取られたように見えます。

 この石と南京産の石あと2つについては、2015年に中国側から文化財として返還要求がありましたが、県が断ったというできごとがあったようです。

 →宮崎日日新聞「南京市民ら、平和の塔石材返還要望 宮崎県「応じられない」」(2015.10.27)

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「南支志賀中山隊」
中国方面の軍によるものも結構多いです。
これもレリーフが刻まれています。

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「綏遠省黒田石田隊」
これもうっすらレリーフが入っているようです。

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「青島宮崎県人会」

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「中支第四水輪隊」

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「上海宮崎県人会」

宮崎県人会などの宮崎関係が多いといえば多いですが、それを超えて全国的な運動になっていたことが窺えます。

実はこの石材の出所については、「八紘一宇」の塔を考える会が全て調べて本にされています。
「新編 石の証言 「八紘一宇」の塔[平和の塔]の真実 改訂版」

また1999年にテレビ宮崎が『石の証言〜平和の塔の真実〜』というドキュメンタリー番組を制作しています。
この中で重要な証言として、中国に展開していた陸軍部隊に対し、部隊司令部付近と最前線の石各1個を送るよう指示が出ていたという話があります。それで中国からの石が多いのですね。

番組内容についてはこちらに詳しく書かれています。
番組構成師[izumatsu]の部屋「石の証言〜平和の塔の真実〜」

結果として、この塔はほとんど建設された当時のままの姿ですが、そのために、この塔をじっくり眺めていくと、その当時の状況がよく分かり、意味があるように思います。

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2021年8月22日 (日)

宮崎の旅2019(4)八紘之基柱と平和台公園(宮崎市)

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宮崎神宮の後は、その裏の丘にある平和台公園に向かいました。
ここに昭和15年の八紘之基柱(あめつちのもとはしら)が、平和の塔と名前を変えて残されているということで、それを見学するためです。
平和台公園に向かう道は大きな木を目印に、そこから参道のように分岐しています。
そして入り口にある灯籠のような一対。

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これは!
塔があること自体は分かっていましたが、入り口からこのようなオブジェがあるとは思いませんでした。
役割としては参道の灯籠と同じだと思います。
アールデコ高層ビルのようなデザインの上に家型はにわ。

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しばらく歩くとまた一対あります。
同じようなデザインです。

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歩いていくと何か見えたので、右手の道を上がってみると銅像がありました。
「相川勝六先生像」と書かれています。
横にあった説明文を読むと、相川氏は明治24年、佐賀県嬉野市に生まれ、宮崎・広島・愛知・愛媛県知事を歴任され、昭和19年に厚生大臣、戦後は宮崎市に本籍を移し、衆議院議員を20年余り務められたられたそうです。とくに宮崎県の振興に力を注ぎ、県営電気の創業、細島臨海工業地帯の造成、宮崎港の開築、宮崎神宮の神域拡張などに関わられたと記されています。
この銅像は亡くなられた直後の昭和49年に建てられていますが、ここに建てられた理由は、相川氏が宮崎県知事時代、紀元二六〇〇年記念事業として八紘之基柱を建てられたというのがその理由となっています。

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さらに進むと階段になっています。その手前にひときわ大きな灯籠があります。
先程のものと違って前後にも屋根が伸びています。

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階段の途中の斜面にはこんな小さな灯籠もありました。最小?

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階段を登って丘の上に出ると、今度は大きな家型埴輪風の東屋。
これは手水舎です。実は昭和15年、八紘之基柱と同時に整備されたもので、当時の写真もレストハウスに展示されていました。

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中には神武天皇が船出したと伝えられる美々津の上流から採られた石が、手水鉢に加工されて据えられています。
かなり大きな石で、正面に「美々津」と刻まれています。

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いよいよ平和の塔(八紘之基柱)のある広場。
古代遺跡のような、独特の存在感があります。

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平和の塔(八紘之基柱)を正面から。

八紘之基柱(あめつちのもとはしら)が建設された経緯はこのようです。
国の紀元二千六百年奉祝事業で宮崎神宮に予算がつき、神域拡張と徴古館の改築などが行われました。
これに呼応して宮崎県の奉祝事業も企画され、県内全神社の祭典執行、上代日向研究所の設立、県内20余ヶ所の神武天皇御聖蹟の顕彰と紹介、遠祖慰霊祭の執行などが行われました。その際、記念物として作られたのがこの塔です。相川知事の案としては世界中の同胞から集めた石を使い、日本一の石塔を作るというものでした。
ただし、県だけでなく、大阪毎日新聞、東京日々新聞(現・毎日新聞東京本社)の協賛を得、献石には陸軍も協力しています。

高さは37mあります。この塔の製作・設計者は彫刻家の日名子実三氏です。
日本サッカー協会のシンボルマーク「八咫烏(やたがらす)」の制作者でもあるそうです。
宮崎県にある他の軍関係の記念碑もデザインしています。

日名子氏は塔のデザインにあたって、相川知事の要望により、宮崎県内を巡って構想しました。
高さは当時日本一だった東京丸ビルの30mを上回り、海からも見えることが条件でした。
塔全体の形は宮崎神宮の御幣の形、部分的には御楯の形、段々の形は高千穂町の段々畑や美々津の立磐神社にある天皇腰掛石、高原町の皇子原の玉垣などが取り入れられているそうです。

塔は昭和14年5月20日に着工しました。整地作業に宮崎県民を中心とする奉仕団が参加するなど、作業員はのべ66,500人、総工費は67万円で、昭和15年11月15日に竣工しました。

(参考)三又たかし著『ある塔の物語 甦る日名子実三の世界ー』(2002年)
    平和台公園レストハウスの解説

この塔の持つ意味がいくらか伝わりますでしょうか。
塔は完成後、神都観光の重要なスポットとなり、記念切手や記念紙幣にもなっているそうです。

この塔の前面にも一対の灯籠があります。

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この灯籠はひときわ大きく、立派です。
日名子氏の作成した模型写真にも入っています。

ここまで見てきた灯籠の本体のデザインは、八紘之基柱のミニチュアであることが分かります。

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この向かって左の灯籠には気になるものがあります。
裏側に開口部があり、奥に電極のようなものが見えるのです。
もしかしてスピーカーの機能も持っていたのではないのでしょうか。

向かって右側の灯籠には背後の開口部は見当たりません。
もし電灯であれば、両方にないと不自然です。

また、レストハウスに展示されている写真では灯籠の左側に国旗掲揚柱があり、左側の灯籠にスピーカーがあるのも自然に思われます。
文書としての証拠などは見つけられていませんが。

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さて、塔で目立つのは正面に刻まれた「八紘一宇」の文字です。
戦前のアジア進出を正当化するスローガンであり、終戦後の昭和21年8月、GHQの指導により削除され、「平和の塔」となりましたが、昭和40年に復元されました。復元には反対もありましたが、当初の姿であることが、教訓の上でも意味があるように思います。

また塔の四隅には信楽焼の像が立っています。
写真ではわからないかもしれませんが、高さ6mの巨大な像です。
右前面は和御魂(にぎみたま・商工人)の像。

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右後ろは幸御魂(さちみたま・農耕人)像。
手前の子どもは、日名子氏の娘さんがモデルだそうです。

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左後ろの奇御魂(くしみたま・漁人)像。

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そして右前方の荒御魂(あらみたま・武人)像。
この像については、GHQから軍国主義の象徴として撤去が命ぜられましたが、昭和37年に復元されました。

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塔の正面には中央に神武天皇の船出の様子を描いた青銅の扉があります。その周りには日本書紀・古事記から採られた62の事物が描かれています。この扉の製作にあたっては、当時金属が不足していたため、県民の家庭にある銅製品の供出をお願いして作られたとされています。

欄間は三種の神器と榊です。

この奥の厳室には普段は入れませんが、八点のレリーフ(天孫降臨、鵜戸産屋、紀元元年(神武天皇即位)、国土奉還、明治維新、太平洋半球地図、大西洋半球地図、紀元二千六百年)が銅不足のため石膏のままで架けられているそうです。また地下には設計図などのタイムカプセルが埋められているとのことです。

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塔の台座の上からは太平洋を望むことができます。

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床面には丸石が敷き詰めてありました。

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平和の塔のある広場は平和台公園の中のほんの一部です。その背後には古墳群があるなど、かなり広い公園です。
私はこの時は塔までだけで戻りました。

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当時、八紘之基柱の建設を記念して作られた『鳥瞰 八紘之基柱』というパンフレットの一部。
この図から位置関係がうかがえると思います。

平和の塔(八紘之基柱)は、元の姿に復元されたために、昭和15年当時の熱狂が直に感じ取れる記念物となっています。
当時のことを忘れないためにも大事なものではないかと思います。

この塔に関しては、石材についても触れないわけにもいきません。
次の記事で石について書いておこうと思います。

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2021年8月15日 (日)

宮崎の旅2019(3)宮崎神宮(宮崎市)

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2019年GWの宮崎旅行の記事です。「宮崎の蔵など」の続きです。
旅行4日目。宮崎市内に泊まった私は宮崎神宮に向かいました。

幹線道路から分かれた道をまたいで一の鳥居が立ち、ナギ並木の一直線の先に宮崎神宮があります。

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宮崎に行こうと思ったのは、行ったことがないからというのも多分にありますが、ケネス・ルオフさんの『紀元二千六百年 消費と観光のナショナリズム』を読んだのもきっかけでした。
紀元二千六百年というのは昭和15年です。神武天皇が日本を建国したとされる年から2600年の節目の年ということで、様々な記念行事が行われました。
まちあるきをする人なら、至るところで紀元二千六百年記念と刻まれた記念物(国旗掲揚台や灯籠など)に出会うと思います。
この本ではその記念事業がどのようなものであったかが紹介されています。
中でも観光面で中心となっていたのが、神武天皇関連の史跡が多い奈良と宮崎でした。

宮崎でその痕跡を見ることができるだろうかというのが旅行の一つの動機です。
右の地図は、昭和9年頃に宮崎市役所が発行した「観光の神都 宮崎」という観光パンフレットです。
建国神話の世界をめぐる観光がPRされていました。

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こちらは昭和16年前後に宮崎バス(株)が発行した「宮崎の参宮と観光の栞」という観光パンフレットに載っている地図です。
宮崎神宮の存在感が大きく、その参道が都市の主要な軸になっていることが分かります。


(今昔マップより)

宮崎は江戸時代には小さな町場で、近代になって発展した新興都市です。

宮崎神宮は江戸時代までは神武天皇社と呼ばれる小さな神社でしたが、明治維新後に神武天皇への評価が高まるとともに、村社から出発して宮崎宮へと改称、明治18年には社格最高位の官幣大社に昇格しました。さらに伊東忠太の関わる壮大な社殿・境域整備が行われ明治40年に完成しました。初代の一の鳥居もこのときの設置です。大正2年に宮崎神宮に改称されました。

一方、宮崎市は大正2年に日豊本線の宮崎駅が開業したことで本格的な発展を始めました。大正13年に町村合併により宮崎市が誕生、大正14年から昭和3年にかけての耕地整理で高千穂通り(駅前通り)など主要街路が整備され、昭和7年に大淀川に架かる橘橋が完成するなど都市整備が進みます。その過程で宮崎神宮は主要な施設として位置づけられ、昭和6年には表参道の拡幅とナギの植樹、昭和9年には「神武東遷二六〇〇年祭」に伴う境域拡張と皇宮屋の整備、昭和15年の「紀元二千六百年奉祝記念事業」に合わせてさらに境域拡張と神宮前広場、神宮東側の整備が進められました。
この宮崎神宮関連の整備は観光振興も意識したものでした。
その祖国を打ち出した観光振興のピークである「紀元二千六百年奉祝記念事業」では、宮崎神宮北西の海が見える丘の上に、神武天皇の建国の理想を表現した「八紘之基柱」(現在の「平和の塔」)が建設されました。


 ー以上は、永瀬 節治さん「昭和前期の宮崎都市計画の特色とその地域的・社会的文脈- 「神都宮崎」の観光振興と近代都市形成との関わりに着目して」(都市計画論文集Vol50.No.3)より

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参道を進むとやがて見えてくる宮崎神宮の杜。
この広場は昭和15年に整備されたものです。

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入り口には、昭和9年の事業を記念する「神武天皇御東遷記念二六〇〇年祭之処」の石碑が立っています。

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宮崎神宮の二の鳥居。ここからは鬱蒼とした森のトンネルです。

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左手の西神苑にそれると、古代船「おきよ丸」という大きな木の船が展示されていました。
神武天皇が美々津から船で東征に出発したという伝説にちなみ、西都原古墳から出土した舟形埴輪を原型に復元された木造船です。
平成17年に建造され、その年の秋から神武大祭で行列を先導しているそうです。

おきよ丸は紀元二千六百年記念事業で昭和15年にも復元されており、その時はなんと大阪まで再現航海されたらしいです。

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また参道を右手に抜けると芝生の開けた広場がありました。
明治以降の神社にはこういう公園のような空間があったりしますね。

2本並び立つシュロ(ヤシ?)の向こうにはご神田があります。
左奥と右側には立派な藤棚がありました。
ここはどういうスペースなんでしょう。園遊会ができそうですが。

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藤棚の下にあったテーブルと椅子。
テーブルの脚がひねっていて藤を表現しています。

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庭園の名残のように石橋もありました。
「かさはし」?

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さらに森の中には宮崎神宮徴古館があります。
全面なまこ壁2階建ての印象的な建物です。
大規模な境域整備が行われた時期の明治42年に、宮崎神宮の宝物や書籍を陳列・保存する建物として建設されました。社殿造営を監督した佐々木岩次郎によるものだそうです。登録有形文化財。収蔵物は現在、宮崎神宮北側にある宮崎県総合博物館に移されています。

近代文化遺産見学案内所さんのブログの「【登録有形文化財】 宮崎神宮 徴古館 (宮崎県 宮崎市) 行き方、見学のしかた」という記事で2020年1月の情報として、内部の写真を載せておられますので、公開されることもあるようです。

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宮崎神宮徴古館の近くに変わった形の記念碑がありました。
東の海から上る太陽でしょうか。
裏面には「電燈建設寄附者記念」と書かれていて、発起人は「株式会社宮崎呉服店」、京都・大阪などの寄附者の名前が並んでいます。

近くに灯籠がありましたので、灯籠を電燈化していたのかもしれません。

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宮崎神宮拝所、その奥に幣殿があります。
一連の社殿群は明治40年に伊東忠太により設計されたとのことです。

参拝の後、裏手に回ってみました。

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宮崎神宮の森の中には、宮崎県総合博物館があり、併設して県内から移築した4つの建物からなる民家園があります。
せっかくなので見学しました。

こちらは高原町にあった郷士の建物・旧黒木家住宅です。
天保5年(1834年)から2年がかりで建てられたそうです。

美しい建物ですね。

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内部にも真向兎(火除の意味があるよう)の釘隠しがあったり、凝った引手があったりしました。
地域の名士だからでしょうか。

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こちらは椎葉村の農家・清田家住宅です。
元治元年(1864年)の建築です。

他に西米良村の民家・黒木家住宅(伝文政4年(1821年))、県内で確認されたものでは最古という五ヶ瀬町の民家・旧藤田家住宅(天明7年(1787年))もありました。

これらの古民家は昭和40〜50年代にかけて移築されています。

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博物館の屋外展示の一つとして、都農町の道路元標がありました。
こういうのは場所に意味があるので、できれば現地に置いてほしいなと思うのですが。

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宮崎県総合博物館はこのすっきりした建物。
今調べて初めて知ったのですが(遅い!)、1971年、坂倉準三の設計です。
もっとよく見ておくべきだったか。

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すごく渋いタイルが使われています。
この時はそんなにタイルを気にしていなくて、たまたま解説を撮った写真ですが、今見てほしいのはタイル。

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総合博物館というだけあって自然史・歴史・民俗と様々な展示があります。
昭和30年代の宮崎市で一般的だった文化住宅を再現したという展示があって、私にはこれが気になりました。

最後、話がそれてしまいましたが、宮崎神宮は広い森の中に建物・記念碑・遺構が点在しているので、じっくり見るといろいろ発見があると思います。

この後、平和台公園の平和の塔(八紘之基柱)に向かいました。

 

 

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2021年8月 1日 (日)

宮崎の旅2019(2)宮崎の蔵など(宮崎市)

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2019年GWの宮崎の旅の続きです。
神戸からのフェリーを宮崎港で降りた後、徒歩で宮崎駅を目指しました。
お天気も良く、平坦な道です。

屋敷森が見えたので、近寄ってみました。
そこには和洋折衷の石造の蔵が!

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窓の両脇には松竹梅のレリーフ、下には菊水(?)のレリーフ。
装飾的な屋根も架かっていますし。
瓦屋根の下にはコーニスとロンバルディア帯風の装飾も入っています。
柔らかそうな石は凝灰岩でしょうか。

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さらに1階と2階の間は帯状に出していて、角には植物風の装飾が入っています。

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拡大するとこんな感じです。
表面の仕上げを変えることで、数種類の石材を使っているかのような変化を付けていますね。
角の石材は手前に出ています。

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母屋脇の馬小屋?も腰壁までは石を積んでいます。

後で宮崎の図書館に行って『宮崎県の近代化遺産-宮崎県近代化遺産総合調査報告書-』(平成29年)を見たのですが、そこに宮崎県の石造倉庫について、かなり大きく取り上げられていました。

「宮崎県を含む南九州(鹿児島県全域、熊本県球磨地方)には、溶結凝灰岩(本県では「ハイ石」と呼ぶ)を利用した石造倉庫が数多く見られる。(中略)宮崎県内には、住宅の附属屋としての石造倉庫が残されている。この石造倉庫は、基礎部分から軒部分までを石造りで建築したもので、約170棟の石造倉庫が残されている。」(p19)

 この蔵もそのうちの一つなのでしょう。

 また年代の分かるものでは、明治8年から昭和40年建築のものまで、約90年にわたっているそうです。

 さらに宮崎地区の石造倉庫について、
「宮崎地区は石造倉庫の建築数が最も多く、構造的にも意匠的にも完成度の高いものが多く見られる。この地区の石造倉庫の殆どが寄棟屋根2階建て造りで、小屋組の構造材、2階床の構造材を支えるために蛇腹(西洋では「コーニス」と呼ぶ)が軒部分と壁面中央部分に施されている。(中略)石材は、高岡町浦之名と清武町黒北から調達しており、石工もこの石材産地に居住して石造倉庫の建築に関わっていた。」(p29)

 と書かれています。全く特徴が一致しています。

 改めて自転車を借りて石造倉庫を見て回りたいなと思っていますが、まだ実現していません。

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 さてまた歩きはじめます。
 木造下見板の市営住宅っぽいものがありました。

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 このあたりは低湿地で、ところどころ暗渠の通路がありました。

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これはセメントでしょうか。
古そうな門柱です。

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コンクリート基礎杭を逆さに使った門柱。

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もう一つ石造倉庫を見かけました。
こちらは木々に覆われていて、ほとんど見えません。

2019年末か2020年に解体されたようです。グーグルストリートビューに解体直前、周囲が刈られて全体が見えるようになった姿が残っていました。

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石を積んだ塀。屋根部分も石でできています。
屋根部分は石造倉庫と同様の石材に見えます。

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次に見えてきた森は吉村八幡神社でした。
文明8年(1476年)に宇佐八幡宮から勧請された神社だそうです。

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周囲の石垣にも同様の石材が見られます。

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興味深かったのが折れた鳥居を使ったモニュメント。
裏に「昭和六年十一月二日午後七時ノ大地震ノ為前石鳥居破壊シタルニ付今度鉄筋コンクリートニテ改築ス」
と書かれています。知らなかったのですが、日向灘地震(M7.1)というのがあったそうです。

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玉乗りでポーズを取っているような狛犬。
皇紀2600年(昭和15年)に、四国21回参拝記念として地元の68歳の男性から奉納されています。

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宮崎の中心地が近づいてきました。
宮崎中央公園。滑り台が植物のようなデザインです。

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宮崎中央公園にある宮崎科学技術館の前には、H-Ⅰロケットの実物大模型が置かれていて目立っていました。

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宮崎駅に到着。新しいデザインです。
列車の待ち時間があったので、駅を抜けて、西側に少し離れた繁華街の方にも行ってみました。

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文化ストリート商店街という場所があり、昔の雰囲気が残っていました。
表に出れば繁華街なので、ほんとに隙間のような場所です。

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こちら看板建築風の建物。
かき氷屋さんがオープンしたばかりのようでした。
この日はこれぐらいで、宮崎駅から列車に乗って延岡に向かいました。

宮崎市街については戻ってから改めて歩き回りました。
そちらを先に紹介しようと思います。

宮崎神宮の記事に続く。

 

 

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2021年7月29日 (木)

宮崎の旅2019(1)船で宮崎へ

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2年前の旅行の記事を書いておこうと思います。
2019年5月のゴールデンウィーク、宮崎への旅行に出かけました。
旅のきっかけは紀元2600年(昭和15年)の観光地を訪ねてみようと思ったことです。
(今回の記事にはその話は出てきません)

幸い、宮崎には神戸からのフェリーが出ていますので、これを利用しました(GWでもチケットが取りやすいのもメリット)。
乗り場は神戸税関のちょっと先にある、神戸三宮フェリーターミナルなので便利です。前にジャンボフェリーで小豆島に行ったことはありますが、今回は宮崎カーフェリーです。
船は「こうべエキスプレス」でした。(帰りも同じく)

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出発までの時間は、甲板で暮れゆく神戸の街を眺めます。
海側から眺める港町というのは良いものです。

反対側には上海行きの新鑑真号が停まっていました。
昔、大阪南港のフェリーターミナルでアルバイトしていたこともあって、港の雰囲気は大好きです。

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さっそく船内も探検。船のデータを確認しておきます。
全長170mで11931トン。平成8年8月に進水した船です。
瀬戸内海ではなく、外海を走るので、スタビライザー(安定装置)が付いています。

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19時過ぎ、まだほのかに夕焼けが残る神戸から出航。

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こういうルートを通ります。宮崎までは500kmぐらい。
瀬戸内海を走ると途中、明石海峡大橋や瀬戸大橋などをくぐるイベントがありますが、四国の南側を回るので、まして夜なのであまりイベントはありません。

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今回は2等寝台にしました。
2等室(大広間)は安いですが、周囲が気になってどうも寝付けないので、このところ少なくとも2等寝台にしています。

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反対側には棚があるぐらい。2段ベッドが4台か6台入る8人または12人部屋です。
狭いですが、夜行バスと違って寝るまでは動き回れるのでそんなに気になりません。

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翌朝。晩は持ち込んだおにぎりで簡単に済ませましたが、朝は船のレストランで。

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こちら洋セットです。これにコーヒーが付きます。

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船内のお風呂。

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通路はこんな感じです。
船旅らしいスペース。早いものがちだけど。

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甲板にも出てみます。
実際には出たり入ったり。

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宮崎港内に入ると、狭いのでタグボートに押してもらって方向転換。
結構なスピードでした。

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初めて目にする宮崎の町。フェリーターミナルの周りにはヤシの木やらシュロやらフェニックスやらが並んで南国らしい雰囲気です。遠くにビル街と山並みが見えます。

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8時20分頃、接岸。繋留作業を見学します。

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宮崎港に到着しました。
市街地から少し離れているので、普通はここでバスに乗って市街に向かうのですが、お天気も良いですし、今回は初めての宮崎を体感するために歩いていくことにしました。

続きます。

 

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