カテゴリー「海外旅行」の記事

2008年10月 5日 (日)

青島・煙台の旅(30)旅を終えて

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最後に青島で一番大きいという海員広場の書城(書店)に行こうとしましたが、遠すぎるということで断念、そのまま空港に向かいました。

地形の制約でしょうか、青島の空港は市街地のかなり北方にあります。
タクシーで空港に向かう途中、あれだけ深かった霧は晴れ、明るい日差しが見え始めました。タクシーの運転手の話では、霧を避けて(?)郊外に家を買う人も多いそうです。
途中、広幅員道路の開発区もありました。
青島の赤い屋根は郊外にも広がっています。
赤い屋根の余韻が次々と流れ去っていきました。

今回青島で歩いたのは旧市街の一部で、まだまだ見るべきものはあります。
いずれ青島には再訪することになると思います。

たった4日間なのに報告に5ヵ月もかかってしまった青島・煙台の旅をお読みいただきありがとうございました。
ちょっと肩の荷が下りた気がします。
また本来の日常旅行にお付き合いください。

なお、青島・煙台の旅は、
旅行の概要:青島・煙台から戻りました
煙台編:(1)青島から煙台へ 〜(15)煙台から青島へ
青島編:(1)青島から煙台へ と(15)煙台から青島へ 〜(30)旅を終えて
 となっています。
 言い訳ですが、煙台の情報が少ないこともあり、煙台編の方が詳しく書いています。青島については情報が多いので、いろいろ当たってみてください。ヨウタロウさんの中国・青島@建築探訪記は建築の解説が詳しく、写真も美しくお勧めです。

○青島・煙台の旅の記事一覧
 (1)青島から煙台へ
 (2)煙台の近代建築に泊まる
 (3)煙台の近代と建築
 (4)煙台・海岸街の西側
 (5)煙台山の建物−1
 (6)煙台山の建物−2
 (7)煙台を眺める
 (8)煙台山の建物−3
 (9)煙台山の結婚撮影
 (10)煙台の旧金融街−海関街
 (11)煙台・海岸街の東側
 (12)煙台・東太平街
 (13)煙台の旧繁華街−朝陽街
 (14)煙台の旧市街
 (15)煙台から青島へ
 (16)青島の近代建築に泊まる
 (17)青島の桟橋周辺
 (18)青島の広西路
 (19)青島ドイツ総督府と邸宅街
 (20)青島の街を見下ろす公園
 (21)青島の奇怪な官邸
 (22)青島の石畳の街
 (23)青島の家と海を眺める公園
 (24)青島第一海水浴場
 (25)青島の石の別荘
 (26)青島八大関をさまよう
 (27)青島駅から中山路
 (28)青島ドイツ監獄など
 (29)青島湖南路から孔子記念館へ
 (30)旅を終えて

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青島・煙台の旅(29)青島湖南路から孔子記念館へ

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青島のドイツ式監獄博物館を見た後は、ホテルへの道を引き返します。
もとの道を戻っても仕方ないので、江蘇路を通って、湖南路を歩きました。
まず広西路1号にある総督府学校教学楼が目に付きます。1906年の建築。完全に霧にかすんでますが、石で縁取られた五角形の窓に特徴があります。軍関係の学校らしく、制服を着た学生が歩いていました。

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江蘇路と湖南路の角(湖南路4号)に立つ滙豊銀行(今の香港上海銀行)青島支店の支店長宅。青島支店の開設が1912年らしいので、その頃の建築でしょうか。滙豊銀行はイギリス系の有力銀行なので、イギリス企業との取引が多く、支店長は国際倶楽部、英国商会、英国学校などの理事を兼任したそうで、この家にも来客が多かったといいます。
太平洋戦争勃発後は、逃げ遅れた英米人の臨時強制収容所ともなりました。

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このあたりは邸宅地だったようです。

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湖南路6号にはこの重みのある建物があります。
中国式の灰色煉瓦と石で建てられています。
(こちらは正面ではないのですが)

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裏手には「1899」の文字。1899年というと青島の建物の中では最初期のものです。
これはかつての総督府学務委員会(教育委員会)の建物です。委員会は翌1900年にドイツ人子女向けの総督府小学校を設立したのを皮切りに、中国人向けに26ヶ所の小学校、さらには1909年に徳華大学(上海にある同済大学のルーツの一つ)を設立したそうです。たまたま朝つけたTVで徳華大学の歴史を紹介していました。

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その斜め向かいの湖南路11号には、赤い壁面のインパクトが強い旧黒氏飯店があります。1924年建設のフランス式建築です。その後つぶれて1932年には徳華大学を卒業した姜如心が買い取り、如心医院となったそうです。

今は幼稚園となり、基壇の石積や階段などがカラフルにペイントされてしまっています。案外、幼稚園にも似合う気がします。

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湖南路で見かけた飾りの多い扉。

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総督府の前まで戻ってきました。
これは前日に撮った写真ですが、青島路1号の旧ドイツ領事館、今は南園孔子記念館となっている建物です。木が茂っていてかなり見づらいですね。
この建物はもともと1900年に建てられたドイツ人の住宅だったようです。ドイツ撤退後、日本の第一次占領期をへて青島が中国に返還されるとドイツ人が戻り始め、1926年から1945年までドイツ領事館として使われました。その後、孔子の末裔が住み、1986年に青島市に寄贈されて孔子記念館となりました。

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南園というのは、孔子の末裔がこの住宅に付けた名前です。門は花崗岩で固められています。

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孔子記念館の玄関。
入館料は1元(15円)です。

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中に入ると飾り気は少ないのですが、広い吹き抜けがあります。

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2階への階段。残念ながら孔子記念館は1階の一部だけで、他は事務所として使われています。2階へは上がれません。

記念館には孔子に関する文物がいろいろと展示されています。係の方も丁寧に説明をしてくださいます。実はそんなに関心がないのですが、さすがに建物が目的で来ましたとも言えず、ふんふんと説明を聞いていたのは係の方には内緒です。

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再び広西路に戻ってきました。
オリンピックに向けてか、通常の業務なのか、古い建物の改修工事が行われています。

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このように補修されて、青島では今も古い建物が使い続けられています。

霧のためにまち歩きは少なめ。それでもたくさんの近代建築を見ることができました。名残惜しいのですが、青島の探訪はここまで。
最後に近くの新華書店で資料を買い込み、チェックアウトのためにホテルに戻りました。

○参考資料
 竇世強・李明『画説 青島老建築』、2004年、青島出版社
 魯海『老楼故事』、2003年、青島出版社 
『中国近代建築総覧 青島篇』、1992年、中国建築工業出版社

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2008年10月 2日 (木)

青島・煙台の旅(28)青島ドイツ監獄など

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旅行4日目の朝。最終日です。
前に書きましたが、桟橋・王子飯店に泊まっています。
霧は昨日以上に深く、目の前の壁が霞んでいます。
これではまち歩きどころではありませんので、屋内を見られるところを目指すことにしました。
海岸通りの太平路を東へ。

写真の建物は太平路と江蘇路の角です。
1902年に建設された(山東鉄道会社と)鉱務会社の事務所だそうです。

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江蘇路の対面、太平路23号には旧坂井貞一宅があります。
1929年に建てられたそうですが、坂井貞一という人物については、日本商人であること以外分かりません。(「中国近代建築総覧・青島編」にはM.高橋宅となっていますが、2003年に青島市が設置したプレートが坂井宅になっているのでそちらを採ります)

なかなか素敵な建物ですが、開放されているわけではなさそうなので、門のところから眺めるだけです。

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その隣には青島天后宮。かなり古くて、明の成化3年(1467年)の建物です。航海の神様、媽祖を祀っています。天后宮(あるいは媽祖廟)は中国や台湾などの沿岸部によくあります。日本でいうと住吉神社みたいなものでしょうか。
恥ずかしながら、媽祖が実在の人物だと初めて知りました。宋代(10世紀)に生まれ、病を治すなど奇跡を起こした女性だそうです。

極彩色の伝統建築です。

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そしてこれが目的地の青島ドイツ式監獄博物館です。入場料は25元(375円)(閑散期はなんと5元)。
ここは欧州人の囚人を収容する監獄として、1900年に建てられたようです。
中国人を収容する監獄は公安局の近くにありました。

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これが博物館の配置図です。
仁・義・礼・智・信の5つの監房と工場、浴室、事務棟、裁判所があります。
上の3つの建物はレストランなどに使われているようですが、そこも監獄の一部とは気付きませんでした。

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裏から撮ると素っ気ないこの建物は、旧ドイツ膠澳帝国裁判所です。
内部には「青島司法歴史沿革陳列展(1897-1949)」が展示されていて、ドイツ租借時代、第1次日本占領時代、北洋政府・国民党政府時代、第2次日本占領時代、中華民国時代(アメリカ軍駐留時代)、中華人民共和国時代へと目まぐるしく支配者の入れ替わる青島の司法の歴史が展示されています。

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いよいよ監獄へ。
円錐屋根を載せた丸い塔が印象的な「仁」字監房。

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側面から見たらこんな感じです。
塔の部分が取って付けたような感じでもありますが。

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展示室は上から順に見ていきます。
鉄扉をくぐって囚人房へ。

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囚人房の扉。この博物館の開館は昨年の4月と新しく、のぞき窓からのぞくと、ドイツ人囚人の様子が写し出されるなど映像的な演出があります。

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開放されている囚人房。波打つ天井になっています。
壁は冷たいですが、そんなに居心地が悪そうでもない?

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一部、装飾的な部分も見られます。暖房装置?

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表から見た円筒部分は、らせん階段の階段室です。
ぐるぐる降ります。

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下の階は第二次日本占領時代の展示です。
これは水牢。拷問室もありました。凄みがあります。
つらい展示です。

前にハノイのホアロー務所博物館を見たときもそうでしたが、植民地の監獄というとどうしてもそんな展示になります。

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一通り見ると運動場に出ます。
裏側から眺める監獄。
眉毛のような窓の上部が単調さを救っています。

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右が「義」字監房、左が「礼」字監房。「礼」字監房は1924年に建てられました。
右手前の見張り室は戦後のものです。
実は1995年までこの監獄は現役でした。それはそれですごい。

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手前の赤い花崗岩張りの監房は「智」字監房で、1931年に建てられています。
こちらの方が古いのかと思いました。

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最後に監獄浴室です。
監獄本体と同じ1900年に建てられています。

監獄を見るのは気分のいいものではありませんが、歴史の一面がよく分かる場所ではあります。
霧に包まれて、いっそう厳かな雰囲気が漂っていました。

○参考資料
 竇世強・李明『画説 青島老建築』、2004年、青島出版社
 魯海『老楼故事』、2003年、青島出版社 

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2008年9月29日 (月)

青島・煙台の旅(27)青島駅から中山路

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青島旅行記のつづきです。
八大関を歩き回ったあと、歩き疲れたので東海国際大厦発の214路(系統)のバスに乗りました。終点の雲南路はどこか分からなかったんですが、途中の地名で西に行くことは分かったので深く考えずに乗り込みました。

ここで困ったのがバス料金が分からないこと。
とりあえず乗り込んで他の人が払うのを見よう、と思ったのですが、みなICカードで支払うので分からない・・・。

バスはそう混むこともありません。八大関をひとめぐり、海沿いの道を走り、江蘇路から弧を描くように上海路、小港をへて、結局、青島駅の裏手(西側)にある雲南路に到着しました。ここならホテルから徒歩圏です。
結局、到着すると女性運転手はさっさと出ていってしまうし、適当に払ってバスを降りました。

青島駅はオリンピックに向けて大改修中(この日は5月25日)。上の写真がそうです。
随分大がかりやなあと感心して工事中の写真を撮っていると、地元のおばさんに声を掛けられました。この方、青島駅の拡張工事で立ち退きさせられた方で、工事中の写真を撮っている私も同じ境遇と思われたようです。「せっかく持ち家だったのに移転させられて・・・」とご不満そうでした。
旅行者なんですというと、中山公園と小青島公園を勧めてくださいました。理由は「タダだから」。高い公園料金にやはり市民は不満のようです。時間があったら行くのですが、残りは半日です。「案内しましょうか」ともおっしゃってくださいましたが、お礼を言って辞退しました。

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行きたいところは線路の向こう側です。
幸い、この場所に鉄道をくぐる地下通路がありました。
通路の両側は小商店街になっています。

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線路の東側の通りを歩いていると、お茶屋さんがありました。
青島東泰茶葉有限公司という名前です。
品揃えの半分は地元の嶗山茶、後の半分は鉄観音、ジャスミン茶、龍井茶など全国ブランド。嶗山というのは青島の東にある観光地です。中国の茶産地としてはかなり北の方。もしかしたら青島の霧が茶に良いのかも。嶗山茶の2番目ぐらいのを買いました。50gで36元(540円)。

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新しい青島駅の駅舎はほぼ完成しているようでした。
やはりドイツ風で、かなり長い建物。駅前のホテルも建設中です。
それにしても霧がひどい。全景が分かりません。

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東に向かうと、湖北路にある青島市公安局が霧の向こうに見えてきました。もとは警察署と地方裁判所の建物です。時計塔の目立つ変わった建物。ネオ・ニュルンベルグ派とのこと。1904年から1905年にかけて建てられました。この街区は六角形をしていて、いかにも重要な場所という印象を受けます。警察署以前は清軍の兵営があったそうです。

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河南路と中山路には古い銀行の建物がたくさんあります。
河南路にあるこの建物、右は旧中国実業銀行、大きなアーチのある真ん中は旧青島銀行同業公会、左は旧金城銀行です。青島銀行同業公会とは、1931年に中国系8銀行で成立した同業組織だそうです。1932年に青島市政府は第四公園の土地を売却することを決め、中国系7銀行が共同でこの土地を買い取りました。当時館淘路にあった外国金融区に対抗するため、1934年に中国金融区として中国系7銀行と銀行公会が集まり、青島のウォール街と呼ばれました。それがこのブロックです。

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そのまま中山路側に出ました。
中山路は古い繁華街です。
ここには旧大陸銀行があります。右隣は先ほどの旧金城銀行です。大陸銀行も1934年に建設されました。設計者は中国人の羅邦傑、施工は新慎記営造廠です。角を正面として階段状に高くなる装飾がありますが、全体にシンプルなデザインです。
ちなみに大陸銀行は1919年に天津で設立された銀行で、青島には1923年、最初は天津路に進出したそうです。青島支店は預金・信託・外貨兌換・貸付など商業銀行の一切の機能を持っていました。

さらに大陸銀行の左に旧上海商業貯蓄銀行(1934年)、旧山左銀行(1934年)、旧中国銀行(1932年)と並んでいます。上海商業貯蓄銀行は中低所得者を顧客としていたので、お客さんが入りやすいようにものものしい入り口は避けたそうです(一方で外国大企業の預金獲得にも頑張ったようですが)。左端の旧中国銀行だけ3階建てなのは、当時の建築規制によります。設計者は中国人の陸謙受・呉景奇です。中国銀行青島支店はこう見えて、1936年の預金額第一位の銀行で、貨幣も発行していました。

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同じく中山路にある旧大清銀行(のちの中国銀行)青島支店。今は中信銀行。こちらはもっと古くて、ドイツ時代の1906年から1909年にかけて建設されました。イオニア式石柱、メダリオン、軒蛇腹など装飾はいろいろ付いていますが、小ぶりなので親しみやすい感じがします。

大清銀行青島支店は、関税の一部代収と、公金の出し入れをしていました。大清銀行の消滅後、1928年には預金・貸出・為替業務を主とする義聚合銭荘がここに開業し、1938年には華北臨時政府の中央銀行青島支店となり、戦後、中央銀行に接収されました。

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同じく中山路の旧交通銀行です。今は中国建設銀行になっています。コリント式の列柱が6本並ぶ、いかにも銀行建築という建物。1929年から1931年にかけて建設されました。設計者は庄俊で、中国で最も早期の建築留学生かつ中国建築師学会の創始者・会長だった人だそうです。
交通銀行は紙幣を発行し、膠済鉄道のお金を収納し、一般の預金・貸付業務も行いました。

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中山路には中国電影院(旧山東大戯院)という古い映画館もあります。
青島では映画は最初、ホテルの音楽ホールなどで上映されていましたが、専門の映画館として1921年、中山路に福禄寿電影院、1931年にこの山東大戯院がオープンしました。山東大戯院は中国資本、上海の建築家による設計の映画館で、750〜800席あり、主に国産映画を上映しました。京劇やスペイン歌舞団、上海女子歌舞団も上演されたそうです。
山東大戯院は1938年、日本人により国際劇場と改称され、日本映画専用の上映館となりました。さらに1945年には青島保安隊に接収され、中国劇院となりました。

劇場の上部の装飾はラジエーターを思わせます。
この写真では見えませんが、突起の間や玄関上の半円部には細かな模様が描き込まれています。

せっかくなので、ここで映画を観ることにします。
現在は3スクリーンあり、「功夫之王」(「ドラゴン・キングダム」)が上映中でした。チケットは25元(375円)です。

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上映まで時間があるので周辺を散策しました。
裏手に回ると映画セットのような街並みです。石畳の坂を登ってゆくと、丘の上には霧に霞む双塔の聖ミハエル大教会がそびえ、ぞくぞくするような光景です。

○関連ブログ
 ヨウタロウさんの中国・青島@建築探訪記「チンタオの天主教堂」

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こちらは博山路3号にある旧天主堂医院です。1907年に建設されました。ここでいう天主堂はカトリックの教会ですが、聖ミハエル大教会が完成するのは1934年なので、それより前のものです。
この医院は中国人向けのもので、修道女によって担われました。医薬品はドイツから輸入し、経費は主に教会が出して、医院は無料で診療を行っていたそうです。

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坂のある街はいいものです。
街中でも生活感があります。

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さて「功夫之王」(ドラゴン・キングダム)は、ジャッキー・チェン、リー・リンチェイ、アメリカ人の少年が主演のカンフー映画です。アメリカ映画なんですが、ジャッキー・チェンが酔拳を披露したり、リー・リンチェイが僧の姿で登場したり、カンフー映画に対する愛を感じます。神話時代の中国にタイムスリップしたアメリカ人の少年が、ジャッキー・チェンらの助けを借りながらカンフーの腕を磨き、悪逆非道を尽くす将軍のもとに乗り込んでいくという、分かりやすい映画でした。

しかし、それにしても・・・
観客が私1人だったんです。上映期間の最後だったのかもしれませんけど、そんなので大丈夫かと思いました。第3スクリーンは全席ペアシートで営業努力は感じましたが。

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夜に入ってもまだ霧。
街灯がにじむ幻想的な道をホテルまで歩いて帰りました。

○参考資料
 竇世強・李明『画説 青島老建築』、2004年、青島出版社
 魯海『老楼故事』、2003年、青島出版社
 魯海『老街故事』、2003年、青島出版社

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2008年9月15日 (月)

青島・煙台の旅(26)青島八大関をさまよう

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青島の八大関にある花石楼を見た後は、八大関を散歩、というより行き当たりばったり、さまよいました。

八大関の中には、このように美しく整備された池のある公園もあります。そしてそこはやはり撮影スポットです。

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<八大関の街路・建物配置図>
八大関の説明がまだでした。
八大関は1930年代初めから開発された高級別荘地です。1922年から1937年までは、青島が中国に返還されていた時期だったので、領事館関係者や外国企業の支店長などが住んだようです。

八大関という名前は、中国の有名な関所の名にちなんだ8つの道路(例えば函谷関路、山海関路など)があるためです。今は10関に増えているそうです。

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たとえばこんな住宅。塀には青島の花崗岩が使われ、多少の幾何学的装飾もありますが、基本的に直線・曲線で構成されたモダン建築です。

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交差点の角地なども無理に宅地化せず、緑地にされていたりします。ほんとにゆったり。

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松林の中にあるこの建物は、今は療養施設になっています。いくつか療養施設の看板を掲げている建物がありました。レストランになっている建物もあります。『青島と山東半島』によれば、この地区にあるホテル「八大関賓館」が11の建物を運営していて、予約すれば泊まることができるそうです。交通は不便ですが、そういう過ごし方もいいかもしれません。

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この建物は栄成路と武勝関路の角地にあります(栄成路19号(番地))。山小屋みたいでいかにも別荘です。1931年に、王節堯の設計で建てられました。門柱のてっぺんに家が乗ってるのがかわいい。

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先ほどの写真では木に隠れていましたが、ヨーロッパのお城風の石塔が隅に立っています。

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このまま栄成路を海に向かって歩いていきました。
栄成路は「関」が付いていません。1920年代に道が開かれて、1930年代に建築が始まり、八大関開発の端緒となった通りなのだそうです。「建築博覧会」の称号もある通りなのだとか。

同じ並びの住宅です。シンプルで、丸窓があるのが1930年代ぽいかな。

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栄成路33号。鉄の門飾り、テラスが軽やかです。
(ちなみに中国の地番の付け方は道路が基準で、片方が奇数、もう片方が偶数です)

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栄成路34号のこのお宅は、1930年代後半に三菱株式会社青島支社の青山喜一支社長が住んでおられたそうです。窓枠のブルーとくに楕円形の窓と、モダンデザインの門扉が印象的です。

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フェンスのデザインは摩天楼をかたどっているのか、面白いデザインです。

いくつか住宅を紹介しましたが、八大関の代表的な建物というわけではなくて(八大関を外れてそうだし)、むしろもっと他に有名な建物があります。なにしろ樹木に隠れて見通しがきかないので、どこに魅力的な建物があるか分かりにくい状況です。下調べして住所を手がかりに回った方がよさそうです。反省を込めて。

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八大関をさまよったあと、海岸にも出てみました。
海からやってくる霧でほとんど先が見えません。

磯遊びしている中年カップルに思い切って声を掛けてみると、地元青島の人でした。ビニール袋の中の「獲物」は、小魚やカニ、ヤドカリなどでした。童心に帰って楽しそうです。
高級別荘地の八大関も今は気軽な遊び場になっているようでした。
そしてもちろん結婚写真の撮影地にも。

○参考資料
 『青島と山東半島』(旅名人ブックス)、2007年、日経BP企画 
 『中国近代建築総覧 青島篇』、1992年、中国建築工業出版社
 魯海『老楼故事』、2003年、青島出版社

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青島・煙台の旅(25)青島の石の別荘

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青島の別荘地、八大関に入りました。
八大関は岬を利用した海辺の別荘地です。街路樹と庭園の緑、海岸緑地の緑が一帯となり、圧倒的な緑に埋もれています。そのため住宅の姿はよく見えません。

向こうからぞろぞろと歩いてくるのは結婚写真撮影の皆さん。海あり、森あり、洋館ありの八大関は結婚写真のメッカになっているようなのです。(中国や韓国では結婚の際に、新郎新婦の写真アルバムをつくります。撮影には非常に力を入れます)

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まず八大関で一番の観光スポットである花石楼に向かいました。
八大関でも一番端の海沿いに建っています。
花崗岩で固められた姿はヨーロッパの古城のような重々しさです。

花石楼は1930年から1931年にかけて建てられました。設計者は劉耀宸、施工者は王雲飛です。もとはロシア貴族レイビッチの別荘で、1936年頃にレイビッチが亡くなったのち、イギリス人保険商の手に渡りました。イギリス領事も利用したようです。1949年には青島駐留の米軍を頼ってきた蒋介石が一時滞在したこともあります。新中国になってからは接待施設として使われていました。

今は入場料6.5元(約100円)で公開されています。

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裏側はこんな感じ。こちら側にも丸い塔が立っています。

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花石楼の名前は、室内の壁に滑石(ロウ石)が張られていること、外壁に花崗岩が使われていることから、中国語で滑石と同音の花石を当てて、花石楼と呼ばれるそうです。

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暖炉までが石の塊。室内にまで石を使っているとやや重苦しい気がします。

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表の円筒部は階段室になっています。
らせん階段にほっとします。

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階段室の窓には色ガラスが使われています。
階段室だけ妙に明るい。

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階段は途中から、室内に入っていきます。
うねるようなカーブに引きつけられます。

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円筒の塔の最上部は展望室になっています。
まるで見張り塔のよう。ここからは第2海水浴場が見渡せます、が今日はこの霧です。

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第2海水浴場は、磯場へと続いています。
白い点がたくさん見えるのは、結婚撮影のカップルです。幻想的といえば幻想的なんですけど、この霧で写真が撮れるんでしょうか。

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実は花石楼も、結婚写真の撮影用に道具立てを用意しています。
どんな写真を撮るのか分かります。
新郎新婦のドレスはほとんど白(純白あるいはクリーム色)なのですが、花石楼内では青いドレスの美しい新婦さんが撮影していました。

煙台の煙台山と全く同じ状況です。
人数でいうと煙台以上です。

○参考資料
 竇世強・李明『画説 青島老建築』、2004年、青島出版社
 『青島と山東半島』(旅名人ブックス)、2007年、日経BP企画

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2008年9月12日 (金)

青島・煙台の旅(24)青島第一海水浴場

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さて、青島の小魚山公園で霧に巻かれた後、山を下りて再び別荘地の八大関をめざしました。
そこは滙泉湾(ドイツ時代はヴィクトリア湾)に面する第一海水浴場と呼ばれるビーチです。海に向かって、堂々たる旧海浜旅館が建っています。プリンツ・ハインリッヒホテルと同じ会社の経営だったそうです。1903年から1904年(一説には1907年)に建てられたといわれる、青島初のリゾートホテルです。

ドイツ時代、南側の海岸はヨーロッパ人の遊泳区で、中国各地在住のイギリス人、アメリカ人、ロシア人、フランス人がこのホテルに泊まり、海水浴や日光浴、オープンカフェでの休息を楽しみました。

それにしても随分ゆったりと海岸との距離をとったものです。こちら側には海を眺めるベランダが並んでいます。逆にホテルの裏側には競馬場があったそうです。

今もホテルだったら良いのですが、今は建設会社が入っています。

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同じ写真を拡大してみました。
面や手すりは幾何学模様で構成されています。線の目立つデザインです。

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第一海水浴場には多くの人が遊びに来ていました。
ビーチバレー、潮干狩り、海藻拾い、砂遊びなどなど。
それほど透明感のある海ではありません。
5月なのでまだ泳ぐには早い季節です。

なお、第一海水浴場のあるのは滙泉湾です。太平湾には第二海水浴場、浮山湾には第三海水浴場と湾ごとに海水浴場があります。

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海岸沿いにはボードウォークも整備されていて、そぞろ歩きもできます。

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海岸沿いに住宅が並んでいて、何棟かは修復工事中でした。
こうして青島の景観は維持されています。

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この海岸通りは南海路と呼ばれます。このあたりの建物は海に向かって建ち、ゆったりした雰囲気があります。

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海岸では新婚さんの結婚写真撮影が行われていました。
これは序の口だとすぐに知ることになります。
滙泉角の岬を越えると、もうそこは別荘地・八大関です。

○参考資料
 竇世強・李明『画説 青島老建築』、2004年、青島出版社
 魯海『老楼故事』、2003年、青島出版社

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2008年8月31日 (日)

青島・煙台の旅(23)青島の家と海を眺める公園

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再び八大関の別荘地に向かって歩いていきます。
まず魚山路を歩いていきます。

道の左手に大きな建物が見えました。(木が邪魔で見にくいけど)
1934年から1940年にかけて建てられた旧世界紅卍字会青島支部です。世界紅卍字会は、赤十字と似ていますが、道院という宗教の慈善団体だそうです。山東省発祥なので、本拠地に近く、煙台にも支部がありました。

今は青島市美術館ですが、残念ながらこの日は休館日。開いてたら絶対に入ってます。

建物は前後に分かれていて、後方は1933年に建てられた中国宮殿風建築(未確認)、写真が前方に1937年から1940年にかけて建てられた洋風建築部分です。前方部分の建築家は王翰で、施工は公和興営造廠ですので、中国人の手になる建物です。

世界紅卍字会はここを拠点に、救済院、慈善医院、職業学校、女子小学校、救済隊などの慈善活動を行っていました。

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中国風の塀越しに正面を見ることができました。
古典建築+アール・デコという感じ?

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このあたりは小魚山と呼ばれる丘の住宅地で、著名人の住宅がたくさんあるところです。

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やがて、立派すぎる門が見えてきました。
中国海洋大学の門です。

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木々の上から赤い屋根と塔屋が顔を出しています。
実は日本の青島中学校だった建物です。第一次青島占領期の1920年に建てられました。もともとは清の広武中営という兵営があった場所だそうです。
ドイツ風の建築ですが、設計者は日本人の三上貞で、施工は公和興営造廠です。

当時は日本の男子学生だけを受け入れていました。建設費は19万元余りが投じられ、当時の中国の日本人学校では最も設備が良かったそうです。旧制とはいえ、大学の校舎に使えるほどの中学とはすごいものです。

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魚山路を歩いていくと、切り通しで岩盤の露頭を見かけました。上に同じ色の石垣が積まれていて、生えてきたみたいです。やはり赤い石は地元の石材を使っているのですね。煙台で見た花崗岩の毛鼓石にも似ています。

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小さな峠を越え、ふと覗き込んだ敷地の奥に気になる建物が見えました。
左手には入場券売り場があります。この建物を近くで見たくて、小魚山公園の入場料15元(225円)を払って入りました。しかし、実はそこは公園の外なのでした・・・しまった。

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膠海関(税関)所長のエルンスト・オルマー(中国名:阿里文)の邸宅という掲示が出ています。多才な人だったらしく、設計者も本人です。1899年に建てられました。

オルマーは、1847年、ドイツのヒルデスハイム生まれ。1868年に中国で税関の仕事に就きました。1898年に税関設立準備のために青島に来て、1899年から青島の初代税務所長を務めています。1914年の日本による青島占領の直前にドイツに帰国しました。中国文化にも造詣が深く、多くの陶磁器を故郷に持ち帰ったそうです。

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出窓からは海が眺められたでしょう。

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せっかくですので、小魚山公園の中にも入りました。
頂上には中国風の塔の形をした展望台があります。

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この公園も眺めがよく、西にはさっき登った信号山が見えます。

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南にはドイツ風住宅のコンクリートの躯体ができあがろうとしていました。
中身は鉄筋コンクリートの塊なんですね。

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東は海水浴場の砂浜海岸があります。
青島はぼこぼこした半島に広がる街ですが、南海岸はさらに岬と浜辺が交互に繰り返して変化があります。これから向かう八大関は、左右のビルの間にある緑の岬です。

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展望台を降りて、一息ついていたところ、にわかに海霧が来襲してすっかり周りが真っ白になってしまいました。頭も真っ白です・・・

○参考資料
 竇世強・李明『画説 青島老建築』、2004年、青島出版社
 魯海『老楼故事』、2003年、青島出版社

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2008年8月30日 (土)

青島・煙台の旅(22)青島の石畳の街

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青島迎賓館を出た後は、別荘地の八大関をめざしました。
といっても途中の道も見落とせません。
青島迎賓館の下は、坂の多い丘陵地で、古くから庭付きの住宅地です。
黄県路の角でこの家を見かけました。

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植物模様の入った古そうな門扉です。

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向かいの角の雑貨店。狭いところで頑張っています。

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黄県路は石畳の味のある道なので、少し遠回りですがこちらの道を下りました。
1984年、リー・リンチェイ主演の映画「中華英雄」(ファイナル・ファイター/鉄拳英雄)がこの通りで撮影されたそうです。私は見たことがありませんが。

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門の上のレリーフ。
唐獅子牡丹でしょうか。

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道も塀も建物も同じ材料でできているような色合いです。(もちろん建物は違いますけど)

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塔屋のある家。

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同じ家です。
ゲーム盤を連想してしまいました。

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そろそろお昼なので、坂を下りきった龍口路のあたりで、流行ってそうな店に入りました。
この店はサンプルとして、セットされた材料を並べています。面白いやりかたです。これなら、知らない料理を頼んでも失敗が少なそう。

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私はインゲン豆のエビソース炒め(蝦醤芸豆)を頼みました。1皿12元(180円)
見た目よりおいしいのですが、一人で食べるといろいろ頼めません。1皿でいろいろ材料を使っている料理を・・・と考えてしまいます。
やっぱり青島ビールもいただきました。

青島迎賓館は素晴らしいのですが、私にはこれぐらいのまち歩きが合っている気がします。

○参考資料
 魯海『老街故事』、2003年、青島出版社

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2008年8月29日 (金)

青島・煙台の旅(21)青島の奇怪な官邸

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<信号山から見た青島迎賓館>
東西の建築を寄せ集めて粘土で固めたような、何とも奇っ怪な建物。

青島迎賓館は、青島を代表するドイツ建築です。
信号山の南山麓に、ドイツ総督官邸として建てられました。
1905年着工で、1908年竣工。設計者はドイツ人のラツァロヴィッツ、建築監督はシュトラッサーです。

1914年に日本が青島を占領すると駐青島守備軍指令官邸となりました。1922年に青島が返還されると膠澳督弁官舎、1934年に国民党が青島を接収すると迎賓館と改称され、日本再占領期の1942年から45年までは国際倶楽部が一時移ってきました。新中国となってからは再び迎賓館として、国家指導者と外国賓客を接待するホテルとして使われました。1999年から博物館として公開されています。目まぐるしい変遷です。

ちなみに入場料は15元(冬の閑散期は10元)でした。

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まずは正面(西面)から。
細部に至るまで、いろんな要素が詰まっています。花崗岩の壁面は生物のようです。
ユーゲント・シュティールの影響を受けているといいますが、ここまで自由奔放とは。
ドイツの総督官邸という権威的な建物がこんなに奇抜な形で中国に残されたというのは時の綾といえるでしょうか。

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中央に見えるちょこっとした出っ張りは、ドラゴンの彫像です。

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北面は食堂の外壁。
ここはまだシンプルな方。

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東面は花崗岩の荒々しさが目立っています。
ある意味、遊園地的です。

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最も整った南面。
ベランダを挟んで塔がいくつも立っているようです。

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一周して東の正面に戻りました。
こちらにも小さなベランダがあって、そこは総督の部屋です。

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外観だけで、もう十分という感じですが、これから中に入ります。
ユーゲント・シュティール風アーチの玄関です。

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中に入ると大ホールに出ます。2階まで吹き抜けの大空間。他の部屋はこの大ホールを囲んで配置されています。そして壁を巻くように2階に上がる階段があります。
1階奥の窓にはマリア様の描かれたステンドグラスがあります。残念ながら近くから撮り忘れていました。

ヨウタロウさんが中国・青島@建築探訪記で紹介されていますので、ご覧ください。

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振り返るとこんな感じ。ふんだんに使われた木と白い壁の落ち着いた空間です。
右下に暖炉が見えますが・・・

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近くで見るとこんな思い切ったデザインです。
緑釉のタイルが渋めの色合い。

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こちらは別の部屋の暖炉で、花の模様が繊細です。

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1957年に毛沢東が滞在したという喫煙室のステンドグラス。
青島の海なのでしょうか。

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ディナールーム。もう一つ小さなダイニングルームもあります。

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東面には温室がつくられています。
打って変わって鉄骨とガラスの空間です。

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1階を1巡したら2階へ。
布でできたような柔らかな表現の階段手すりです。

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2階にはL字型に回廊が巡っています。内にもベランダのアーチ。

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総督夫妻の寝室です。

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北西隅にある林彪の部屋。他の2階の部屋から1段下がっています。

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室内装飾の数々を集めてみました。
左から林彪の部屋の漆喰細工、2階廊下の照明、非公開の部屋の内側出窓です。

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2階の南側ベランダからは広い庭越しに青島の住宅地が見えます。
ベランダに出る部屋は子供部屋というのですからなんともぜいたく。

とことん凝った総督官邸でした。
青島で建物を見るなら、ここは外せません。

○参考資料
 「青島迎賓館解説リーフレット」
 竇世強・李明『画説 青島老建築』、2004年、青島出版社

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