2019年3月11日 (月)

宮の腰公園と浄水場(名古屋市千種区)

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前回の記事に出てきた鍋屋上野浄水場の北側に、宮の腰公園という昭和15年に開設された小さな公園があります。
細長い公園の四辺が全て道に接していて、見通しの利く公園です。

この公園、附近の他の公園と違うのは、三菱から(県に?)寄附を受けてできた公園ということです。
工場地帯の防空公園として運動場・児童公園等が整備され、昭和19年に市に移管されましたが、空襲により完全破壊されてしまったそうです。(名古屋都市センター『戦前の名古屋都市計画史について』)

訪問日:2018年10月8日

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宮の腰公園の入口です。
現在、宮の腰公園という表記ですが、元々は宮ノ腰公園だったようです。

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公園内、あちこちトラフェンスで囲われていて、何が改修されているのか気になりました。

ストリートビューで確認すると、ここは雲梯とジャングルジムを組み合わせたような遊具があったようです。

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反対側から見るとこんな感じです。
ちょうど台風21号・24号の後でしたのでその復旧関係かなとは思いましたが。

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公園敷地の一番北側の囲い。

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砕かれた基礎のようなものが積まれています。

ストリートビューを見ると、時計の柱が立っていたようです。

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他にはよく見かけるグッドデザインの水飲み場。

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回転するジャングルジム。

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木製(脚は鉄製)のベンチなどがありました。

やはり空襲で完全破壊と言われる通り、戦前のものらしきものは確認できませんでした。

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公園に見どころがなかったので、ついでに鍋屋上野浄水場の写真も載せておきます。
この写真は浄水場南側の歩道橋からで、ここからは敷地内の様子がよく見えます。

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奥には緩速濾過池が見えます。
木曽川から引いた水を砂の層にゆっくり通す間に、池に住み着いた藻類や微生物などによって水を浄化します。

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緩速濾過池はもともとこのような姿でした。

大正3年に8つの池ができ、昭和3年に6つの池が追加されて、近年まで使われてきましたが、平成26年に新しい池に更新されました。

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敷地内に大正3年にできた旧第一ポンプ場。

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その浄水場の南西角に、平成6年(1994年)に水道通水80周年で整備された水道公園「水の丘」という公園があります。
この時は噴水は動いてませんでした。

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こんな感じで段々になっていて、水が流れ落ちていくので水の丘ということなんでしょうね。

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この丸いの気になりますでしょう?
陶丸=「鍋屋上野浄水場の急速ろ過池の下部集水装置に使用されていた磁器質の球」とのこと。

他にもこの公園には、浄水場の石積や沈殿で取り除かれた砂や泥を利用した煉瓦が使われているそうです。


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浄水場から東山配水場までの送水管の上は天満緑道になっていて、このルートは水の歴史プロムナードとして、案内板や小川などが整備され、所々にかつて水道施設で使われていたものが屋外展示されています。

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例えばこれは仕切弁。
イギリス製で、明治44年から約70年、鳥居松沈殿地で使われていたものだそうです。

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こちらはY字管。
昭和6年から鳥居松沈殿地で使われてきたものです。
水を2方向に分けるものだそうです。

こんな感じで水道の歴史にも触れながら歩けるようになっています。

公園を求めて行った訳ですが、思いがけず水道の歴史をたどることになりました。

<関連記事>
 日常旅行日記「近代の公園目次」

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2019年2月21日 (木)

千種区の近代公園(名古屋市)

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<「大名古屋新区制地図」(昭和13年)より加工>

次は名古屋市の近代の公園を紹介します。
昨年の秋、名古屋市千種区の昭和戦前期の公園を見て回りました。
先にばらしてしまうと、これといった近代の遺構らしきものは見つけられませんでした。

昭和13年の地図では、このあたりです。
(場所は厳密ではありません)

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<「大名古屋市街地図」(昭和11年)>

ところが、わずか2年前はこんな状況で、鍋屋上野町には、旧村集落が残り、未開発地が広がっていました。
周辺には名古屋兵器廠、(三菱重工)名古屋機器製作所、名古屋製陶所、鐘ヶ淵紡績工場(鐘紡)、三菱電機製作所といった大工場が並び、相当多くの労働者が働き、住んでいたことが伺えます。

公園に割り当てられた場所は、だいたい旧村の周囲だったことが分かります。

(追記)地図に記載した公園のうち、弁天公園、下方公園の開設年は、『日本公園百年史・附表』から拾いましたが、それ以外の資料で確認できないので保留します。名古屋都市センター『名古屋都市計画公園緑地等の歴史(戦後〜S44)』によれば、下方公園は昭和40年、弁天公園は茶屋ヶ坂公園(昭和26年)から昭和42年に分離となっています。(2019.3.16記)

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まずは赤坂公園から。

「名古屋の公園」(昭和18年)によれば、鍋屋上野土地区画整理組合から寄附され、昭和12年に開園した公園です。
園内には松など165本、ブランコ、滑り台などがあると記されています。

現在の公園の表示は比較的新しいものです。

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公園は丘陵地に接するような場所にあります。
この写真は北東側から撮っています。
現在、東側にこのグラウンド、西側に遊具が配置されています。

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逆に南西側からの写真。
各種の遊具があります。大阪では使用禁止になっていることが多い回転するジャングルジムなども現役です。

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まんじゅう型の滑り台遊具。
板状のものの意味は不明。

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藤棚もありますが、新しいものでした。

国旗掲揚台などないかと思いましたが、確認できませんでした。

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西に歩いて、上野公園に移動します。
途中、緑道を越えて。

「名古屋の公園」(昭和18年)によれば、赤坂公園と同じく、鍋屋上野土地区画整理組合から寄附され、昭和12年に開園した公園です。園内には松など350本の木があり、滑り台、ブランコ2台、併用シーソー等の運動器具の他、パーゴラがあったと記されています。赤坂公園より設備が充実しています。

上野公園の表示はさらに新しい表示です。

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公園の北東側から見たところ。周囲を木々で縁取って、中央に広場があります。

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まんじゅう型の滑り台というのか、ヨーロッパの砦風の遊具がありました。

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公園の東側には高い区画があります。

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公園の中で変わった遊具として、これがありました。
タグボートのようなデザインの砂場、台です。

公園内に、近代のものらしきものは確認できませんでした。
周辺は戦災復興の都市計画で再整備されていますので、この公園も何か影響を受けているかもしれません。

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ここで次の公園に移動しても良かったのですが、水の道が気になって、少し寄り道しました。
周辺には古そうな長屋などもありました。

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洋館付き住宅。

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南に歩いて行くと、有名な東山配水塔(昭和5年)の下に出ました。
この屋根って、昭和58年に取り付けられたものなんですね。
もう少し古いものかと思っていました。

斜面に意味ありげに幅を取ってあります。
この下に水道管があるのでしょう。
この背中側に後で出てくる振甫プールなどがありました。

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逆に登っていきます。
東山配水場5号配水池(昭和9年)に出ました。
近代のデザインが残っています。

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そしてその近くに水の歴史資料館があったので、覗いてみました。

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展示物にあった、このあたりの水道施設の青焼き図面。
この水は遠く、犬山のあたりから引かれています。

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振甫プールの展示もありました。
水道の関連事業として、昭和8年に名古屋市で最初の市営プールとして建設されたそうです。
ずいぶん立派な飛び込み台、そして観覧席ですね。

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振甫プールの平面図。
本格的なプールであることがよく分かります。

もしかして、上に描かれているものが振甫公園なのでしょうか。

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残念ながら、現在プールはなく、区の施設などが建っています。

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現在、鍋屋上野浄水場と東山配水場を結ぶ水道の上は緑道になっていて、ちょうど赤坂公園と上野公園の間を横断しています。

両公園の周辺は水道に関わりの深い場所でもある訳です。

<関連記事>
 日常旅行日記「近代の公園目次」

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2019年2月11日 (月)

加賀石の里めぐり(7)滝ヶ原の石橋群

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勢いで続けます。
小松市の滝ヶ原町では、滝ヶ原石という凝灰岩の石材が採れ、その石を使ったアーチ石橋群があるということで、見に行きました。
交通手段を調べたところ、滝ヶ原町に直接行くバスはなく、地図を見ると、那谷寺から低い峠越えの道を2kmほど歩けば着くということで、加賀周遊バス「キャン・バス」で那谷寺まで行き、そこから歩くことにしました。

実際、この写真ぐらい緩やかな峠で、「熊に注意」の看板さえ気にしなければ楽な道です。

訪問日:2017年5月5日

※今回の分も、カメラの設定がずれていて解像度が低いです。見づらくてすみません。

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滝ヶ原町の谷に降りると、観光案内地図がありました。
滝ヶ原のアーチ石橋群はこの地域の観光の目玉なので、5つの石橋をめぐるウォーキングルート(約6km・3時間)というのが示されています。結果を先に言ってしまいますが、バスの時間の都合で、ルートを短縮して約1時間で回りました。

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案内板の近くには、鞍掛山アーチ型石橋由来碑というものが建っています。つい最近立てられたものです。

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目指す石橋はあの山の麓。
広い谷で、歩く道はほとんど平坦です。

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川を覗いてみると、岩盤が露出しています。
見慣れた川の風景ではありません。

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川に沿って歩いて行くと、さっそく最初の石橋、西山橋が現れました。
シダなどに覆われていて、見た目はきれいです。橋本体は見にくいですが。

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橋を保護するためか、欄干は設置されていなくて、注意看板が置かれています。
上から見たら道路が川を渡っているだけに見えます。
横から眺めないといけません。

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分かれ道に建っていた下見板張りの建物。
倉庫でしょうか。

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川の左岸を歩いて行くと、道の脇に石材が置かれているのが目に入りました。
この上に石切場跡があります。最後に紹介します。

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我山橋に到着。
この橋が一番さりげないかもしれません。
よく見ないと見落としそうです。

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我山橋が架かる川とは別の流れの川に残りの橋は架かっています。
丸竹橋は一番きれいに整えられた橋です。
かつ、平行して新しい橋が架かっていますので、よく観察できます。
この写真も隣の橋から撮りました。
アーチ部分は青い石、本体は赤っぽい石で組まれていて、コントラストがきれいです。
5橋の中でもこの橋がメインと言えるでしょう。

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この橋の所に、小松市指定文化財「滝ヶ原アーチ石橋群」の説明板がありました。
解説を読むと、架橋年代は明治後期から昭和初期にかけて、地元石工により建設されたそうです。かつては11橋があったと書かれています。

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先に進むと、石材店の看板がありました。
ここは現在も滝ヶ原石を採掘されている荒谷商店さんです。

東京のブルーボトルコーヒー品川カフェで、滝ヶ原石が使用されていると紹介されています。興味のある方はどうぞ。

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道の脇に石材が積まれていて、滝ヶ原石を観察できます。
青みがかった上品な色合いですね。

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この奥に現役の本山採石丁場があるようです。

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また近くの「石の里水と緑のふれあい公園」には、小松市により「珠玉と石の里」滝ヶ原の案内板が立てられています。

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さらに一番奥の東口橋に行きました。
省略しましたが、ここまでの石橋も橋名を記した柱が設置されています。
上から見るとこれだけ?という感じですが。

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この橋は下に降りやすく、近くから観察できるのでお勧めです。なんならくぐることも可能。
5つの橋の中でも野性的な雰囲気。丸竹橋の看板にあった「壁石上部に方柱状の石を等間隔に突出させて地覆石を支える「貫石構造」を持つもの」の例になっています。

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東口橋が一番奥なので引き返し、帰りに大門橋を見ました。
ここは隣の丸竹橋同様、整った橋です。
これで5つ全部回れました。
隣の菩提町にもう1つあるらしいですが、それは離れているのでまたの機会に。

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帰り道、川の右岸を歩くと、西山石切場跡がよく見えます。
実際のスケール感は写真で見るよりもっと大きく感じられます。
この柱でよく支えていますね。

狭い地域に新旧の石切場と石橋が固まっているので、石を見に行くにはいい場所だと思います。

<関連記事>
 「加賀石の里めぐり(1)鵜川石切場跡」
 「加賀石の里めぐり(2)ハニベ巌窟院」
 「加賀石の里めぐり(3)遊泉寺銅山跡」
 「加賀石の里めぐり(4)大聖寺の近代建築など」
 「加賀石の里めぐり(5)那谷寺」
 「加賀石の里めぐり(6)那谷の建物など」

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2019年2月10日 (日)

加賀石の里めぐり(6)那谷の建物など

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2017年5月5日の記事です。
那谷寺に行ったのは那谷寺自体を見たかったこともありますが、ここを起点に石橋や石材で知られる滝ヶ原に歩くのも目的でした。その途中、気になる建物がありました。

こちらの建物。那谷校下公民館と呼ばれています。
「校下公民館」という言葉は耳慣れないですが、小松市の説明によると
「小松市の「 校下公民館」とは施設のことではなく、各地域の文化や地域特性に応じて住民が主体的かつ独自に運営・活動を行っている団体です。市内の小学校校下ごとに、 校下公民館25館、各町分館(校下公民館の分館)228館が存在します。」(小松市HP

※今回、デジカメの設定がずれていて、低解像度です。すみません。

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2階建て、ほぼ左右対称の建物で、正面は縦板張り、側面は下見板張りになっています。

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中央の車寄せと垂直方向の突出部分。

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窓越しに見える階段は木造で、親柱はシンプルながら装飾が入っています。

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すぐ横にも物置っぽい、下見板張りの建物もありました。

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扉のガラスの桟の入れ方が洋風ですね。

今のところ、私には詳しいことは調べられていません。

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つづいて、那谷小学校。
校門の門柱が古く見えます。

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石材の土台は花崗岩のようですが、本体には凝灰岩を使っているように見えます。

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その隣には御大典記念の何かがありました。
昭和3年と書かれています。

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この小屋も気になります。


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校庭には二宮金次郎像が立っていました。

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あと全く違うのですが、那谷の建物で気になる点として、このタイプの平らな瓦(巴瓦で合ってますでしょうか)をよく見かけました。この場合は波乗りうさぎです。

たまたま滝ヶ原に歩いて行ったためにこれらに出会うことができ、拾いものだったと思います。

<関連記事>
 「加賀石の里めぐり(1)鵜川石切場跡」
 「加賀石の里めぐり(2)ハニベ巌窟院」
 「加賀石の里めぐり(3)遊泉寺銅山跡」
 「加賀石の里めぐり(4)大聖寺の近代建築など」
 「加賀石の里めぐり(5)那谷寺」

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2019年2月 8日 (金)

加賀石の里めぐり(5)那谷寺

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2017年5月の加賀旅行の続きです。
まだ終わってなかったのかという感じですが。

かなり以前から行ってみたかった那谷寺に行きました。
加賀の山手で、粟津温泉と山代温泉の間にあります。

那谷寺自身の紹介によれば、このあたりは弥生時代からの碧玉の産地です。養老元年(717年)、白山を開いた泰澄大師が同年秋にここに岩屋寺(那谷寺)を開きました。その頃から白山信仰の地の一つとして神仏習合しています。
平安時代になって、花山法皇が西国三十三番観音霊場の最初の那(智山)と最後の谷(汲山)から一字ずつ取って、那谷寺と命名したそうです。もともと那谷という地名ではないのですね。
その後、安土桃山時代に兵火によって焼失しますが、江戸時代になって小松に隠居していた前田利常公が復興して、現在に至っています。

境内は谷間を利用して作られていて、参道は鬱蒼と湿気が感じられます。

※この時、カメラの設定がずれていて、解像度が低い写真が多いです。すみません。

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まず名勝の庭園から見学しました。
これは三尊石といって、阿弥陀三尊になぞらえられた天然石の岩面です。
このように地形を活かした庭園が作られています。
この山は凝灰岩のかたまりで、境内のあちらこちらで露出しています。

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岩肌と一体化した岩の祠。
弁財天像が祀られているようです。

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ここから金堂に向かってトンネル通路が掘られています。

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こんな風に素堀ですので、大きな岩のかたまりであるのが分かります。

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次に奇岩遊仙境へ。
自然の岩を彫って、階段や岩屋を作っています。
昔は中に入って歩けたようですが、この時点で既に立入禁止。

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奇岩遊仙境の説明。
「自然智を象徴する自然景観」と説明されていて、自然崇拝の、仏教らしからぬ世界です。

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本堂に上がって行って、振り返った所です。
境内は緑に埋もれています。

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こちらが本殿。大悲閣といって、岩に掛けられた舞台のような建築になっています。
本殿内部では胎内くぐりができるようになっていました。

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本堂から先、岩をくぐって外に出ます。
谷の高い所をめぐるように参道がつながれていますので、上がってしまえば楽です。

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谷の奥にはため池がありました。

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谷の反対側に回り込むと、奇岩遊仙境を舞台から見下ろせるようになっています。

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参道は地盤から直接削り出された階段が彫られていて、面白い眺めです。

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鐘楼など、江戸時代の建築も残っています。

奇岩に、眺めるルートも整備されていて、体感する要素の強いお寺でした。

<関連記事>
 「加賀石の里めぐり(1)鵜川石切場跡」
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2018年12月29日 (土)

公会堂跡のときわ台公園(北海道根室市)

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『ラヂオ塔大百科2017』の情報によれば、根室にもラジオ塔があったという記録があります。
その場所は根室町公会堂前(または公会堂構内)となっています。
公会堂が現在どうなっているか調べると、公会堂跡がときわ台公園として整備されていることが分かりました。
根室まで来る機会もそうそうないので、見に行ってみました。

ときわ台公園のある場所は駅前通りを歩いて右に折れたあたりで、ここから元官庁街が東に続いています。

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落葉しているこの季節は、公園らしさはないですが、捜しものには最適。
公園の南側は林になっています。そこに古そうな石碑が2つ立っていました。

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一つは昭和十年のもの。タイトルに記念碑とだけ書かれていて、内容は根室は発展させてきた先人たちを顕彰しています。

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側面には「粗粒玄武岩 此碑石ハ根室国花咲郡歯舞村大字モシリ島産」と書かれていて、現在は北方領土の歯舞諸島で採れた玄武岩ということが分かります。

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もう一つは行幸記念碑。
昭和11年9月28日に昭和天皇が根室公会堂に行幸されたことを記念して建てられたものです。

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公園の中には案内板があり、ときわ台公園の来歴が説明されています。
大正15年に碓氷勝三郎氏(前回少し触れた酒・缶詰・味噌の製造、タクシー会社運営などをしていた実業家)から土地の寄附を受け、公会堂は昭和6年に完成。解体時期は分かりませんが、昭和52年にこのときわ台公園が整備されています。
公共用地として寄附者の趣意を尊重し、っていい言葉ですね。

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公園の北半分は芝生の広場になっています。
ここは昭和10年の地図を見ると町役場となっています。
年表を見ると根室町役場は明治41年(1908年)にできて、昭和48年(1973年)に市役所が新築されていますので、その間、65年にわたって町役場・市役所があったのでしょうか。

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公園の北の端は崖になっていて、その下に碓氷勝三郎商店の倉庫の屋根が連なっています。
町役場の土地も含めて一体が碓氷氏の土地だったのでしょうか。

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公園の中にはいろんなものが置かれています。
例えば、根室女工節の碑。缶詰工場の女工の労働が歌われています。

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モニュメント「ラクスマン 歴史の然」(1994年)。
1792年、ロシアから根室に来訪したアダム・ラクスマンの記念碑です。日露外交の始まりとして。
制作は池田良二さん。

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今は水がないですが、池と噴水の中にアントワーヌ・ブールデル氏の「力の胸像」(昭和58年(1983年)設置)があります。
アルゼンチンに解放と勝利をもたらしたアルヴェアル将軍の勇者の一人を描いているそうです。
市民と企業の寄附により設置されたとのことです。

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こういう動物の遊具なども。

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いろんな記念碑はあるのですが、結局、ラジオ塔の痕跡らしきものは確認できませんでした。
それでも、ここは根室市民早朝ラジオ体操会の会場になっているようです。歴史のつながりを感じます。

<関連記事>
 日常旅行日記「釧路湿原美術館を訪問」
       「根室の建物」

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2018年12月28日 (金)

根室の建物(北海道根室市)

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釧路湿原美術館を見に行った翌日(もうそれで今回の旅の目的は果たしたのですが)、丸々一日あったので、前回は行かなかった根室まで足を伸ばしました。

外を歩くと寒いだろうし、列車に乗って暖かい車内から景色を眺めるのも良かろうという考えもありました。
実際その通りで、釧路から根室までは列車で約2時間半、途中、小さな谷や湿原、海、丘陵と移り変わる景色、シカや丹頂鶴などの動物など、景色の素晴らしい路線でした。私と地元の人以外に、乗っていたのはほとんど鉄道ファンだったと思います。
あまりいい写真が撮れなかったので、そこの話は思い切ってカットします。
でもかなりお勧めです。

さて、根室駅到着です。
ここで到着した観光客は、駅で記念グッズを買い求めたり、記念写真を撮ったり、納沙布岬行きのバスに乗ったりするのですが、私は街を見に行きます。あとラジオ塔の確認と(それは別記事で)。

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駅前にはさっそく古そうな商店がありました。
サイディングで覆われていますが、たぶん下見板張りだったのではないかと思います。

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訪れた街がイメージしていたものと違うというのはあることで、根室の場合、まさにそうでした。
もう少し暗い街をイメージしていたのですが(すみません)、何より、街が高台にあって、至るところから青い海が見え、さらにその向こうには雪をかぶった知床半島と国後島の山並みが延々と連なるスケール感。建物も思ったより低く、開放感があります。

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大きな通りに面したこちらの建物、Mさんによると元郵便局らしいです。
現在は選挙事務所と天理教教会に使われています。

この向かいにかつてラジオ塔があったという、ときわ台公園があります。

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ときわ台公園をめぐった後は、その横の坂を下っていくことにしました。
すると見えてきたのがこちらの立派な赤煉瓦の倉庫。
明治20年創業の酒造メーカー、碓氷勝三郎商店です。ブランド名は「北の勝」。
今は酒造だけですが、昔の地図を見ると建物は缶詰工場や味噌工場などにも分かれています。

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逆光ですが、広がりは分かりますでしょうか。

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倉庫の上部はこのように連続的な装飾になっています。

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さらに下って海辺の段丘のへりに出ます。
大きな倉庫付きの古そうな建物があります。

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さらに段丘の崖をくだって、赤煉瓦の倉庫。
かなり煉瓦の摩耗が進んでいますが、青空に映えてきれいです。
漁業倉庫とかなんでしょうか。

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再び段丘の上へ。
本町の通りにあたります。
このあたり、古そうな建物が固まっています。昔は海産物問屋が軒を連ねていた通りらしいです。

なお、近くの鳴海公園に根室市平和祈念の碑」というものがあり、根室空襲というものがあったことを知りました。
1945年の7月14日・15日に空襲を受け、発生した火災により、市街地の約8割が焼失。現在の北方領土に向かうために停泊していた船を含め、被害者は355人、行方不明者39人という被害だったそうです。

このあたりの建物は火災を免れたのでしょうか。
それともその後の建物なのでしょうか。
この建物は軒下の飾りなど古そうですし、正面の窓や壁面は更新されていますが、側面の窓は縦長の古そうなものです。

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隣にある玄関上がハーフティンバーの住宅。

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こちらはかなり原型を留めているようです。
下見板張りの建物。

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持ち送りのような木製の軒下飾りもあります。

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また隣にモルタルの倉庫・・・と思ったのですが、所々破損した部分から煉瓦が顔を出しているので、煉瓦の倉庫の上からモルタルを塗ったものみたいです。

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この建物、分かりにくいですが、奥の窓に格子がはまっています。

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またこの建物も複雑な屋根の構成で、隣の駐車場に医院の札がかかっていたので、診療所っぽいのかなと思うのですが、どうでしょう。この左手前に、花咲学校跡の碑が立っていました。

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根室市立花咲小学校のドット画のような校門門柱。
花咲小学校は明治9年、道内で3番目にできたという歴史ある小学校らしいです。当初の名称は花咲学校。

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ほとんど下調べなく歩いたのですが、ここは調べていきました。
ここ明治公園には、開拓使根室牧畜場跡のサイロが3基残っています。
中央が第一サイロ(昭和11年)、右が第二サイロ(昭和7年)、左が第三サイロ(昭和11年)だそうです。

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手前の柱の説明文。
このような標柱は根室のあちこちに立っていて、これを読んで回るだけでも、かつての根室の街の様子がイメージできてきます。これは文章だけですが、かつて建っていた建物の古写真も入っています。

明治公園は柵外にももこもこした丘陵が続いていて、とても広々した公園です。

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最後にスケールの大きなY字路。
左のY字路の先にはアイストップに教会、そして遠くに海と知床の山々が見えています。

冬の入口とはいいつつ、昼間は比較的暖かく、見通しがきくので歩いて気持ちの良い街でした。

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 日常旅行日記「釧路湿原美術館を訪問」

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2018年12月23日 (日)

釧路湿原美術館を訪問(北海道釧路市)

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かなり久しぶりの更新になります。

11月の終わりに釧路に行ってきました。
釧路には2009年の6月に訪ねて以来、9年ぶりです。
目的は釧路湿原美術館を訪ねること。その経緯は後ほど触れます。

今年ピーチの関空ー釧路便が就航したのも大きなきっかけで、かなり行きやすくなりました。
本当は9月に行くはずだったのですが、台風の直撃を受けて延期、ようやくこの日を迎えました。

この日の大阪は風がありますがよいお天気。
LCCも初めて、第2ターミナルも初めて。いろいろ初めてです。
連休の初日ということで、ほぼ満席でした。

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大阪から岐阜・長野までは晴れ間がありましたが、そこから先は延々と曇り空で、青森の三沢を過ぎて、ようやく晴れてきました。
北海道の端、襟裳岬をかすめます。岬の先は見えず。

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大樹町のあたり。
一面の雪景色です。

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そして無事、たんちょう釧路空港に到着しました。
前回は列車で来ましたので、この空港は初めてです。
ここで現地のまあちゃんさんが迎えてくださいました。

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目的の釧路湿原美術館は、空港から市街地とは逆方向(阿寒湖の方)に向かいます。
途中、吹雪いてきて、やはり北海道だと感じさせられました。
数日前に初雪が降ったところだそうで、どうせ寒いのなら、雪が降っていた方が良いかもと前向きに考えました。

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釧路湿原美術館に到着。
(指が写っていてすみません)
美術館の高野理事長が迎えてくださいました。

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この釧路湿原美術館、館内を北緯43度線が通っていて、その線に沿って建物が設計されています。
かつて北緯43度美術館として、世界の北緯43度の地域の美術などを紹介していたようですが、閉館後、故佐々木栄松さんの作品を展示する美術館として再出発しています。

佐々木栄松さんは、大正2年、北海道の置戸町に生まれ、釧路で働いていました。
釧路の空襲で奥さんと幼い娘さんを亡くしています。
1960年代、50代の時に釣り竿を持って世界旅行に出かけ、帰国後、独自の作風を開花させたようです。
釣り師としても有名で、釧路湿原に釣りに出かけたり、絵を描き続けました。
開高健さんがイトウ釣りに来られた時に案内されたのも佐々木栄松さんだそうです。
孤高の画家として釧路に住み続け、2012年、98歳で亡くなりました。

晩年、身の回りのお世話をされていたのが理事長の高野範子さんなのですが、この作品群を散逸させてはならないとNPO法人を立ち上げ、2013年に開館したのが現在の釧路湿原美術館です。

美術館開館に当たって募金を募っているという話を、ブログのコメント欄でやりとりしていた、まあちゃんさんから聞き、私も少しだけご協力したことから、一度訪ねないとと思っていました。
開館から5年がたっており、かなり遅くなりました。

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作品を見ないと言葉では分からないと思います。
作品は撮影禁止だったので、代わりにこれを。
釧路湿原国立公園の三十周年で使われた釧路湿原の絵です。

非常に鮮やかで、赤、黒、青、黄、白といった色が入り混じりつつも、濁らない描かれ方をされています。
素直に美しいと思います。

作品を高野さんは丁寧に解説してくださいました。
まず、作品は釧路湿原を観察し尽くした知識(例えば丹頂はどう眠るのか、イトウはいつ浮かんでくるのか、どの季節にどの渡り鳥がいるのか、水辺にはどんな植物が生えているのかなど)をベースにしながらも、心象風景を描いていて、決して現実ではないこと。例えば、あえて丹頂の頭の赤を描かなかったり、いくつかの季節を混在させたり。

また、作品にはたびたび空襲で失った娘さんが、大人になった姿で描かれていたり、海外旅行で出会った人物が描きこまれていたりもします。
そしてどんな絵にもどこかに生き物が描かれているのが特徴だそうです。

ぱっと見た目にもきれいなのですが、解説を伺うことで、描かれているものの奥深さを知ることができました。

作品は大きなものが多く、引き込まれますので、皆さまもぜひ機会を作って見に行っていただければと思います。

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さて、ゆっくり見せていただいた後、外に出ると青空が覗き始めていました。
道東の冬は寒くても青空が続くのが特徴だそうです。

美術館の前にあるこれは、丹頂鶴を寄せるための餌場だそうです。

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館長の高野さん(旦那さん)に、電線の黄色いカバーは、丹頂鶴がぶつからないための目印ということを教えていただきました。

美術館の裏には、阿寒国際ツルセンタータンチョウ観察センターがあり、冬場の給餌場として、このあたりには冬になると多くのタンチョウが飛来します。

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この後、宿泊地の釧路へ。
途中、写真には収められませんでしたが、間近に数羽の丹頂鶴や鹿の群れを見ることができ、印象深い訪問になりました。

高野ご夫妻とまあちゃんさんには大変お世話になりました。

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 日常旅行日記「2006年の北海道旅行目次」

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2017年8月14日 (月)

加賀石の里めぐり(4)大聖寺の近代建築など

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2017年5月の加賀旅行の記事です。
今回は石はあまり関係ありません。

金沢に行く途中に大聖寺という駅があるのは知っていましたが、降りたのは初めてです。
かつてあった大聖寺という白山信仰のお寺が地名の由来であるものの、その存在感はあまりなくて、大聖寺城の城下町という性格が強いようです。江戸時代は加賀藩の支藩・大聖寺藩でした。

大聖寺駅のホームに降りると、古い工場建築が目に付きます。
チェーンを作っている大同工業の大きな工場が駅の南側一帯を占めています。

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このようにノコギリ屋根が連なっているのが壮観です。

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本社事務所も近代建築です。

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町は駅の北側に広がっていて、歩いて行くと塔屋のある建物があります。
現在はヘアーサロンオダです。
あまり古そうに見えないながら、写真に撮って後で確認すると、近代建築総覧にも載っていて、大正4年に建てられた旧物産館となっています。最初は旧八十四銀行としているページもありますが、未確認です。

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明るい色の蔵。
色合いからすると観音下石(日華石)でしょうか。

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やや行き過ぎて、旧市街に戻ってくると、旧大聖寺川に趣きのある橋が架かっていました。
福田橋という名前で、親柱には昭和11年と書かれています。鋼ボーストリングトラス橋という形で、大聖寺にはもう一つ同じ形の二天橋(昭和6年)があるそうです。私は未確認です。

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真横から見たところ。
美しくて、渡ったり、くぐったり、ぐるぐる回って眺めてしまいました。

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こちらは水口製材所さん。
小さな事務所があって、母屋から渡り廊下でつながっているのが面白いなと思いました。

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西に進むと大聖寺流し舟八間道船乗場。
左に電車が見えますでしょうか。待合室に使われています。
今回、舟には乗っていません。

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また旧大聖寺川を渡った先に、深田久弥山の文化館として使われている、旧山長織物会社の事務所がありました。
新緑の銀杏の大木との取り合わせが絶妙です。樹齢650年とか。

山長織物会社事務所は明治43年に建てられ、昭和50年代半ばに工場が移転した後も、平成10年までは住居として使われていました。その後、加賀市が取得して現在に至っています。

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敷地の端には、生糸保管庫として使われていた石蔵があります。
ここが展示室です。明るい石は観音下石(日華石)? でもちょっと時代が合わないかも。

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蔵の内扉には、打出の小槌の鍵穴隠しが付いていて、チャリンと小判の蓋を動かして鍵を差し込むという遊び心ある仕掛けになっています。

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深田久弥は山長織物会社とは関係なくて、もう少し南に行ったところに深田紙店という実家が残っています。
日本百名山の著者として知られています。
白山を眺めながら育ったのですね。

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大聖寺には立派な商家がたくさんあり、その一例として大野保平商店。
今も現役のようです。

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ちょっと面白い蔵の換気口金物。
泣いているみたいです。

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大聖寺中新道の西野縫製工場も古い工場のようです。

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そして大聖寺に行くなら訪ねて見たかったのが、彫金工房「月」・カフェサロン「銀」となっているこの建物。
昭和10年に建てられた牧野歯科医院をリノベーションしたものだそうです。
インスタグラムなどで見かけていて、ぜひ行ってみたいなと。
帰る日にお茶しに寄りました。

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廊下には長い栗材が使われていて、ほとんど狂いがないそうです。

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シャンデリアの根元の飾りも透かしの入ったモダンなもの。

今は彫金工房とカフェになっていますが、歯科医院時代の道具なども壁にオブジェのように飾っていて、うまく継承されているという印象を受けました。

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最後に帰る間際、たまたま通りがかった旧那谷医院。
小さくてとてもかわいらしい診療所です。
今はなんとタビト學舎という塾になっているそうです。
この時は写真の設定を失敗したので、改めて撮りに行きたいと思います。


大聖寺はゴールデンウィークというのが嘘のように静かでした。
街並みも美しく、もっと評価されていい街のように思いました。


<関連記事>
 「加賀石の里めぐり(1)鵜川石切場跡」
 「加賀石の里めぐり(2)ハニベ巌窟院」
 「加賀石の里めぐり(3)遊泉寺銅山跡」

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2017年7月 3日 (月)

鳴門の石材

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鳴門の記事の(たぶん)最後に鳴門で見かけた石を紹介します。
鳴門を歩いていると、緑がかった石をよく見かけました。
上の写真は撫養町斎田にあるお寺の裏の石垣です。

「和泉砂岩ではないか」と教えていただいて調べてみると、和泉砂岩系の撫養石(むやいし)ということが分かりました。


(日本シームレス地質図より)

凡例が被さってて見にくいですが、
鳴門周辺の地質をみると、グリーンのところが和泉砂岩ということになると思います。
撫養石の産地は大毛島の真ん中辺りにある三ツ石だとのことです。

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撫養石の石垣がよく見られたのが、撫養街道から一本南側の通りです。

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撫養街道側が高くて、裏通りには勝手口から階段を下りる形になります。
昔は水路が流れていたのではないでしょうか?

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こちらも同じく。
石垣が表面がきれいに揃っています。
階段の色が違うのは耐久性重視で花崗岩を使っているのかもしれません。

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同じ並びに市杵島姫神社があって、ここの石垣も撫養石。

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一方、県立の鳴門高校の校門では阿波青石(緑泥片岩)が使われていました。
徳島=阿波青石ということで、地域の素材として使ったのだと思いますが、どのスケールで考えるかですね。現在撫養石は入手しにくいのかもしれませんが。


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他に、撫養川の東側(林崎のあたり)で、こういうカラフルな石垣がありました。
赤い石はチャートでしょうか。

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さらに塩田の町、鳴門町高島に行くとこんな美しい石垣がありました。
絵画作品みたいです。

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同じく高島の撫養石の石垣。
塀のカーブがきれいです。

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撫養町小桑島のあたりでしょうか。
石造のお地蔵さんの祠で、これも撫養石だと思います。

地元の石材が使われていると、町の色合いが出て良いですね。


<関連記事>
 「鳴門の近代建築など(1)」
 「鳴門の近代建築など(2)」
 「鳴門の渡船に乗る」
 
「大毛島から高島へ」
 「隠れた名所・小鳴門公園」

 「加賀石の里めぐり(1)鵜川石切場跡」
 「来待石の町」
 「竜山石を訪ねて(1)石切場めぐり」

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