カテゴリー「日常旅行(大阪)」の記事

2022年1月 2日 (日)

2022年もよろしくお願いします(2022年初歩き)

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皆さま、明けましておめでとうございます。
本年も当ブログをよろしくお願いします。

さて新年早々、初歩きに行ってきました。

メインの目的は別にあってそれはまた記事にしようと思っていますが、それ以外に大阪市港区の市岡のあたりをとくに目標なくぶらぶらと歩いてみました。
このあたり貨物線の廃線跡があって、そこに沿って古い建物などが残っていました。中でもハッとしたのがこれです。

古い事務所のようです。

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反対側から。

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ちょっとコントラストがきつくて分かりにくいのですが。
おたふく窓の上げ下げ窓のようです。違うかな。

 

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玄関には立派な持ち送りが付いていました。少し装飾が入っています。

やはり歩いていると(自分にとっては)思いがけない出会いがあります。
今年も行動できる範囲で歩き回り、できるだけ投稿も増やしていきたいと思います。

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2021年8月 2日 (月)

トンガリ屋根の市営住宅(東大阪市)

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宮崎の旅の話の途中ですが、最近の話題をはさみます。
このところ、家から自転車で出かけることが多いのですが、それは唐突に現れました。

トンガリ屋根の市営住宅。
今改めて検索すると11年前、2010年のことなのですが、同様のトンガリ屋根の市営住宅を山本龍造さんが大阪アホげな小発見。とか「東大阪市高井田中・トンガリ屋根の住宅群」(2009年の記事)で紹介されていて、そこに「ぜひ見に行ってみたいと思います」と調子よくコメントしておきながら、探すこともなく、自転車で走っていてたまたま出会ったのでした。

コメントに出てくる「柏田東町の住宅」というのがここです。

あれから10年、よく残っていたこと。
この先も残っている保証はないので早く記事にしておこうと思った次第です。

最初の写真は南側の列。

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北側にもう一列あります。
高井田中の住宅とよく似ていますが違うのは、道路に平側を向けていることです。
屋根がトタンに葺き替えられているのも違いますが、それは後日の変化でしょうか。

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この並びは壮観です。

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2階部分まで下見板張りになっているこちらの建物がオリジナルに近いのでしょうか。
2階は屋根裏部屋ですよね。

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西北角からの眺め。
残念ながらフェンスに囲まれていて、解体を待つようです。

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真ん中の通りはこのようになっています。

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面白いのは南側の西端の建物です。
同じ住宅に見えますが、そうではなく・・・

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「柏田東町集会所」と書かれていて、地区の集会所です。

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見た目には全く同じです。
元は集会所ではなかった?

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この市営住宅、ちゃんと庭があります。

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地区南側からの遠景。
空き地になっている場所にも以前は住宅があったようです。

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なお、この市営住宅はトンガリ屋根の住宅だけでなく、平屋二戸一の住宅も4棟あります。

『東大阪市公営住宅等長寿命化計画』(平成31年)によると、この市営住宅は昭和27年に建設された「柏田住宅」のようです。
15棟・19戸という記載なので数もちょうど合います。風呂は付属していないとのこと。
そうすると山本龍造さんの紹介されている高井田中の住宅は「高井田3丁目住宅」(昭和27年)でしょうか。「上小阪西住宅」(昭和25,26年)も1・2階建てになっています。
いずれも用途廃止住宅に指定されています。建替と違ってすぐに壊す必要もないのかもしれませんが、予算がつき次第、順次解体されていくでしょうから、この風景が見られるのも今のうちですね。

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2021年7月25日 (日)

野里を歩く(大阪市西淀川区)

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姫島の記事を書きましたのでついでに野里のことも。
姫島を歩く少し前に、隣の旧集落である野里を歩きました。
野里のメインの通りには昨年(2020年)中頃までアーケードがあったそうですが、この時には撤去されていました。
最近アーケードを撤去するケースが多いですね。

通りを歩いていると四角い洋館付き住宅がありました。

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この角の店舗兼住宅も昔からのもののようです。
ここからアーケードが始まっていました。

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その向かいにあるのが野里住吉神社。
この右側の石垣、存在感があります。
実は淀川が改修される前、中津川の右岸堤防だったそうです。

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この石垣や玉垣は大正9年に堤下茂兵衛という方によって寄進されています。
明治18年の大水害をきっかけに明治29年から始まった淀川の改修工事は明治43年に完了しますが、記録によると大正6年にも大きな水害があったようです。その復旧時の工事なのかもしれません。

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石垣を北側から。

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北の端にもまた石垣と玉垣の改修を示す石柱が。
こちらも同じく堤下茂兵衛さんによるものです。

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神社の北側には各町の神輿庫と太鼓の蔵が並んでいました。
結構サイズがまちまちですね。

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西側には御大典記念の玉垣記念碑。

 

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力石もありました。

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家を低い塀で囲っているのも浸水対策でしょうか。

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野里住吉神社の西側を北上すると近代建築っぽいデザインの建物が。
医院でしょうか。右側の入口は増築のようにも見えます。

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看板建築風で存在感があります。

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野里住吉神社の北側に出ました。
右にある石には「槲(かしわ)の橋跡 野里の渡し」と書かれています。
この標石自体は近年のものですが、ここから先が中津川で、橋が架かっていたり、渡しがあったようです。

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戦後っぽいですが、シュロの並ぶ住宅。

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旧中津川の向こう側には板張りの住宅がありました。

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そしてこちら、蔵がその幅の石垣の上に乗っています。

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ここに案内板が掲示されていて、ちょうど野里住吉神社の対岸、旧中津川の左岸堤防が残っているということです。
面白いですね。

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これが全景です。
お屋敷が一軒乗っかっています。

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(おまけ)鼻川神社の裏で見かけた石像。鼻川神社は淀川改修工事で河川敷となるために明治30年、姫島神社に合祀されますが、大正13年に分離を果たして、昭和9年、現社地に社殿を建てたそうです。左は鯱でしょうか、その時のもの?と思うぐらい少しアールデコの入ったデザインです。

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2021年6月13日 (日)

姫島を歩く(大阪市西淀川区)

かなり久しぶりの更新です。
時間もあって、撮りためた写真もあるからどんどん書けるはずですのにね。
コメントをいただいたので姫島のことを載せておこうと思います。

数ヶ月前、姫島を歩いてきました。
といっても大分ではなくて、大阪市西淀川区の姫島です。新淀川のすぐ側にある集落です。かつては中洲の島で、大正14年まで長らく稗島と呼ばれていましたが、大阪湾に広がっていた浪速八十島のひとつ姫島に当たるのではないかということで、姫島の名前に戻されました。

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集落の中を大和田街道が通っていたということで、集落の端に案内の石標が立っています。
大和田街道(梅田街道)は難波橋北詰から大和田を通って尼崎の大物につながっていた、かつての幹線ルートです。

大和田街道や姫島の変遷については、十三のいま昔を歩こう「姫島と大和田街道」に紹介されています。

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大和田街道を歩いていくと、接骨院の看板が出ている古い町屋がありました。

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さらに進むときれいに整えられた近代建築に気付きます。
登録文化財のプレートがはまっていて、調べてみると昭和3年に建てられた奥山家住宅でした。
燃料店を営んでいた店舗・倉庫兼住宅だそうです。

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遠目に見ると2階に丸窓があることもわかります。

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近くにある立派な2階建て洋館付き住宅。

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大きなお屋敷で、表には蔵もありました。

 

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低地らしく、古い家では石垣で嵩上げして階段などもあります。
こちらは勝手口側。

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平屋で板張りの古い住宅などもありました。

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こちらは和風住宅に四角い洋館?や蔵が組み合わされた住宅。

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新淀川べりにあったお寺。お寺ながら洋風の看板建築っぽさがあります。

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矢印のような変わった戸袋。

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再び姫島通に戻ってきました。
ガードレールか橋の欄干のようなコンクリート構造物があります。
昔は川があったのでしょうか。あるいは嵩上げしたのか。

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低まったところに建つ住宅に2つの階段が降りています。
専用階段という感じ。煉瓦が使われているのも良いです。

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最後に姫嶋神社に立ち寄りました。
歴史あるかなり個性的な神社です。新羅の王子、天之日矛に嫁いだものの、慢心した彼に日々罵られたことからここに逃げてきたアカルヒメを祀ったというのが由緒らしく、やり直しの神社となっているそうです。(大分の姫島ともこの伝説でつながっています)

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これは貝殻に願い事を書いたもの。アカルヒメが風に恵まれてこの地にたどり着いたことから、他にも願い事を風で送る(風車を回す)とか、ユニークなものがあります。

この神社は戦災にあっているため古いものは少ないですが、かつて大阪湾の島だったという「海の香り」が強く感じられます。

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2020年1月 3日 (金)

住吉大社門前の道(大阪市住之江区)

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昨年のこと、大阪市住之江区の姫松温泉に行く途中、気になる建物を見かけました。ただ、夜中だったのでよく見えません。
住吉大社に続く道沿いにあるということで、他にも何かないか、後日、住吉大社から出発して歩いて行くことにしました。
スタートはここ住吉大社です。

訪問日:2019年12月8日

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振り返って歩き出すとすぐ南海本線の住吉大社駅です。
高架駅をくぐって灯籠が続いています。

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線路の向こうは住吉公園。
公園の中を真っ直ぐ参道が貫いていて、ここにも灯籠が並んでいます。

住吉公園については、以前記事にしたことがあります。
「大阪で最初の住吉公園」2007.8.19

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灯籠をのぞき込むとパイプが出ていて、もしかしてガス灯が仕込まれていたのでしょうか。

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公園を抜けた所には、昭和49年に復元された住吉の高灯籠があります。
とはいえ、この場所ではなくて約200m西側にあったそうです。

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元あった場所の近くに住吉高灯籠跡の石碑が建っています。
灯籠は江戸時代には既にあり、寛政年間(1789-1801)の摂津名所図会にも描かれているそうです。
明治まで度々改修を受けていましたが、戦後、台風被害により木造の上部を解体、基壇石積みも昭和47年に道路拡張により撤去されたと先ほどの説明板には書かれていました。

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左のシャッターの影に石碑があり、現在の高灯籠は突き当たりに見える森の左手前です。

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そのすぐ近くには「剣先船濱口村 立葭場請所 従是北四十五間」と書かれた天保3年の石碑があります。
ぴったりくっついて見えないので、ネットで確認しました。
このあたり、木津川と新大和川を連絡する十三軒堀川の船着き場があったようです。剣先船による物資輸送が主ですが、明治まで住吉詣での船も通っていたそうです。船で来た場合は、高灯籠のあたりから住吉大社に向かったのでしょうか。

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この阪神高速の下が十三軒堀川です。
ここから先(左)は江戸時代の新田、近代の新しい市街地ということになります。

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すぐにあるのが洋館付き住宅。
これは以前にも見たことがあります。

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さらに行くと半分改修された長屋。
左側が古い形を留めています。換気口の形が面白いですね。

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隣の建物を見ると同じ換気口が側面に付いています。
ここも元は一つながりの長屋だったのかもしれません。

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これが確認したかった建物です。
戦前からある住宅らしいです。

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丸窓のステンドグラスは外国の田園風景でしょうか。

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その並びには洋館付き住宅。洋館部が白基調、和館部が黒基調の鮮やかなコントラストです。

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その向かいには印刷工場の建物。
戦前とまではいいませんが、木製サッシで寄せ棟の屋根ですので、1950年代とか60年代ではあるかと思います。

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門前の道に平行して住吉川が流れています。
川とはいいながら、大正10年の地図には「住吉浦」と表記されていますので、むしろ埋め立てられて残った海といった方がいいかもしれません。

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住之江公園の近くの古い文化住宅。
以前、住之江公園を見に来たときに気になった建物がまだ残っていました。

住之江公園についても以前、記事にしています。
「代わりにできた住之江公園」2012.6.1

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この門前の道は新なにわ筋にぶつかって終わります。

門前と言えるのは旧高灯籠までにしても、その先の近代の住宅も参道を意識して飾っていたのかなとも思いました。

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2018年12月24日 (月)

淡輪遊園(大阪府岬町)

181216tannnowa_1 先日、大阪の岬町に大正時代に開かれた淡輪遊園(あたご山公園)があると知り、現地を確認しに行きました。
*淡輪は「たんのわ」と読みます。
かつて淡輪にラジオ塔があったという記録があり、その場所を確認したかったのもあります。設置場所として、淡輪遊園の可能性が高いのではないかということで。

 

淡輪駅に降り立ったのは初めて。
大正14年に建てられた洋風の駅舎で、観光地らしい雰囲気です。

 

181216tannnowa_1_2 駅前の道を歩いて行くと、海のそばに丘が見えます。
この丘上に淡輪遊園(あたご山公園)はあります。

 

181216tannnowa_1_3 丘の入口にはあたご山の観光看板。
つつじが咲き誇る季節の公園が描かれています。
この赤い橋は後で出てきます。

 

181216tannnowa_1_4 丘を登っていくと、木々に隠れて煉瓦造の円形の貯水槽がありました。
いつ頃のものなんでしょう。色むらが少なく、新しめに見えましたが。

 

181216tannnowa_1_5 また、煉瓦貯水槽の下には愛宕祠がありました。
おそらく、これがあたご山の由来なんでしょう。
この雰囲気、夜は怖そう。

 

181216tannnowa_1_6 淡輪聖書教会もあります。
1959年にキャンプ場兼教会としてスタートしたそうです。
1980年にキャンプ場は閉鎖されました。

 

 

181216tannnowa_1_7 栗本鐵工所の研修センターの横を抜けて、海の方へ歩いて行くと、海に向かって開けた丘に出ました。
至るところにコンクリート製のベンチが置かれていました。
このあたりが淡輪遊園です。
(ベンチの脚がかなり浮き上がっていて、施工時から土が流出したようですね)

 

南海鉄道の「開通五十周年」(昭和11年)、「南海鉄道株式会社大観」(昭和12年)、「南海沿線厚生施設編」(昭和16年)によれば、淡輪遊園の開発は、明治36年に大阪朝日新聞の西村天囚氏が山内愚僲画伯とともにこの丘に遊び、大阪朝日新聞紙上に「海風」と題して十数日にわたってこの地を賞賛する記事を掲載したことがきっかけだそうです。

 

有名になり、来訪客が増えたため、翌明治37年に黒崎海岸に海水浴場ができ、村営の案内所を設置、民家を開放(民泊ですね)しました。当初は駅がなく、箱作駅から村営連絡船で客を運んでいたそうです。

 

明治39年には淡輪の臨時停車場ができ、黒崎館・龍宮館など旅館がオープン、翌明治40・41年には海水を使った人工滝や汽車ホテル、菖蒲園などもできました。明治44年には駅側にスロープを付け、全山が一大遊園地に。また駅舎をスイス風に改築するとともに、上水道を通し、全山に電灯を灯しました。

 

大正時代、南海は地元とともに海水浴場を改修し、釣り舟料金を統一して釣り客を誘致するなど、積極的に来遊者を増やす取り組みをしていたようです。

 

また明治43年頃から数千本の桜、大正14年に数万本のツツジを植えて、季節の行楽地となり、休憩所や東屋、ベンチ等を整備しました。
対岸の淡路島の洲本との間には摂陽商船の定期船が毎日2時間で結んでいたそうです。
昭和12年にはたんのわ温泉がオープンしています。

 

181216tannnowa_1_8 この日はお天気が悪かったのですが、天気が良ければかなりの眺めのはず。
海岸には大阪府立青少年海洋センターが見えています(昔泊まったことがあります)。

 

181216tannnowa_1_9 テラスには藤棚も2つありました。

 

181216tannnowa_1_11 丘上にはこれらいくつもの建物がありますが、以前は何らかの営業をしていた建物ではないかなと思います。

 

181216tannnowa_1_12 歩いて行くと、谷間に看板で見た朱塗りの橋がありました。この両側がツツジです。

 

181216tannnowa_1_13 この橋の名前は京橋でしょうか。

 

181216tannnowa_1_14 下の方にももう一つ朱塗りの橋がありました。

 

181216tannnowa_1_15 また別の丘に登って、こちらにもベンチが固まって置いてあります。
とにかくたくさんのベンチが散らばっています。

 

181216tannnowa_1_16 ここちょっと変わっているのが、鉄筋の出たコンクリートの遺構があります。
休憩所か何か、建物が建っていたのではないかと思われます。

 

181216tannnowa_1_17 歩き回ってもラジオ塔らしきものは見つけられないので、こちらの旅館・龍宮館でお話を聞いてみることにしました。
龍宮館、先ほど名前が出てきましたね。そう明治時代、この地に最初にできた旅館の1つです。
今も営業されています。一度泊まってみたいですね。

 

さて、最初奧さんが出てこられて、昭和一桁のお生まれのご主人も呼んでいただいたのですが、ラジオ塔は記憶にないそうです。
戦時中にレーダーの研究者がずっと泊まり込んでいたことはあったけれどもという話もあって、それはそれで貴重な話ですね(軍関係者では?)。

 

どこか近くでラジオ体操をしていた場所はないですか?と尋ねると、今は太陽光発電所になっている下の広場に集まってラジオ体操をしていたとのこと。
そこが可能性が高いのではないでしょうか?

 

181216tannnowa_1_18 行ってみると、こんな感じ南海電鉄の南海淡輪発電所となっています。

 

181216tannnowa_1_19 金網の隙間から見てみると、こんな感じ。
石柱がぽつんと立っていて、気になります。

 

グーグルストリートビューで見ると、2010年の画像しかなくて、その頃の広場の様子が分かります。
来るのが遅すぎました。
さっき見たのと似たような看板と、その右側に石柱があるのが見えますでしょうか。

 

181223tannnowa 1961年撮影、MKK613-C24-43

 

また国土地理院の空中写真を見ると、この矢印の先のものが何だろうと思います。
とはいえ、全然違う場所なのかもしれませんが。
場所としては、このあたりにあるのが一番自然に思えます。

 

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今回の探索はここまで。
民家カフェのひろしげ珈琲倶楽部さんというのが気になって入りました。
ここ民家の土間や座敷を使って営業されていて、本格的なコーヒーをハンドドリップで入れてもらうこともできれば、手軽に飲みたい人にはセルフでコーヒーマシンで淹れてもいい(その場合は250円)という融通のきいた運営をされています。お菓子は障害者作業所のクッキーを一袋100円で販売。

 

私がいる間でも、若い人が来たり、おばあちゃんが土間で話し込んでいたり、子どもが座敷で勉強していたり、東南アジア系の外国人の方が豆を買いに来たりと、人が行き交ういい空間になっていました。
また次も行ってみたいと思います。

 

今回、淡輪遊園だけで終わってしまったので、集落の方も見てみたいというのと、淡輪遊園もまたツツジの時に見に来たいと思いました。

 

 

<関連記事>
 日常旅行日記「近代公園目次」

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2018年3月 6日 (火)

「まちかどの近代建築写真展 in 大阪XIII」開催中

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今年も恒例の、まちかどの近代建築写真展・大阪展の季節になりました。
今回で大阪港・天満屋ビルカフェハaハaハaさんで開催される大阪展も13回目、全体では72回目だそうです。
毎年、大阪展で新たなテーマの展示が行われ、その後、一年かけて各地を巡回していきます(会場に合わせて、過去の展示の再構成・追加の場合もあり)。

今年のテーマは宗教建築で、大阪展では主に各地の近代の教会の写真が展示されています。
私も一枚だけ出しました。

以下、ハaハaハaさんのブログから引用

「まちかどの近代建築写真展in大阪XIII」(通算第72回)
テーマ「信仰の場 教会からモダンなお寺まで」

会期 2017年3月3日(土)~4月7日(土)15時まで

会場:ハヤシライスと雑貨の店 ハaハaハa
〒552-0022 大阪府大阪市港区海岸通1-5-28 2F
Tel 06-6576-0880 アクセス

月・木・金曜日 11:00〜17:00
土・日・祝日 11:00〜18:00
CLOSE  火曜日,水曜日

主催:まちかどの近代建築写真展実行委員会
協力:ハヤシライスと雑貨の店 ハaハaハa
近代建築探訪メーリングリスト

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こんなとこまで!という場所に貼り巡らされた写真展示も見もの(?)
見落としそうな場所にも貼っていますので、よく見て下さい。

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4月には天満屋ビル3階にオールドコールマンミュージアムがオープンするそうですよ。

<関連ページ>
 ハハハな一日「今年もやってきます!まちかどの近代建築写真展」
 まちかど逍遙「まちかどの近代建築写真展 in 大阪XIII」

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2017年12月20日 (水)

恵我之荘住宅地(大阪府羽曳野市)

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もう1年以上前になってしまいますが、羽曳野市の恵我之荘住宅地を見に行きました。
恵我之荘住宅地は、大阪鉄道(現在の近鉄南大阪線)の恵我ノ荘駅開業(大正13年)に合わせて、大阪鉄道によって開発された郊外住宅地です。むしろ住宅地開発のために駅を作ったというべきか。
住宅地は駅前からすぐ広がっています。

撮影日:2016年9月4日

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駅から北は商店街が続いていて、古いお店らしきものもあります。

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その前には古い防火用水。

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駅前のこの建物も古そうです。

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住宅地に入っていって、古そうな住宅を見つけました。
こちら、切妻屋根を組み合わせた平屋の建物です。

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玄関まわりの桟や扉、玄関灯など見どころがあります。

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北東側から。

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こちらの建物も屋根が改修されていますが、建物は古そうです。
門扉の桟も美しい。

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またこちらは生け垣に遮られて見えにくいですが、古い建物のようです。

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同じ建物。腰壁までが下見板張りになっています。

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和風の住宅が多く見られます。

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もう少しディテールに注目していくと、こちらは籠を編んだような玄関灯。

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門扉や門柱が古そうな住宅はいくつもありました。

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こちらの門は立派です。

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生け垣から流れるように連続する門扉。矢羽根模様が刻まれています。

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左側の門柱の方はオリジナルでしょうか。

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門柱と石垣、石敷きが一体的です。

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駅の南に回ると、かなり改装していますが、元お医者さんぽい古い建物がありました。

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この部分、新しくなっていますが、本体は古いのではないでしょうか。

恵我之荘住宅地は、とくに目立つ洋風建築などはないものの、生け垣などにも高級な住宅地の雰囲気が残っています。
朝日新聞大阪地方版の週刊まちぶら(2009年5月17日)によれば、昔は住宅地にポプラ並木があったそうです。

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なお、興味深いものとして、駅南側の池の側に辻本善三郎翁の碑というものがあります。
大正14年に建てられたものです。

書かれている内容をかいつまんで紹介すると、辻本善三郎翁は、この丹下地域が度々旱害に見舞われることを憂いていたところ、大阪鉄道会社が設立されて線路敷設工事用に土砂を求めていると聞き、大阪鉄道に持ちかけて野登りヶ池堤防の一部、池床の浚え、あら池中央築島、中堤防の土砂を大正10年11月下旬から提供したそうです。これによりため池は大きくなり、鉄道会社は土砂を入手でき、お互いにメリットのある取引だったようです。
この記念碑は長年、墓地の片隅にひっそりと置かれていたのを、平成9年に池の側に移設したとのこと。
どのように土地の改変が行われてきたかの一端が分かる説明で、興味深い記念碑です。

<関連記事>
 目次「近代の郊外住宅地と別荘地、社宅」
 

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2017年10月10日 (火)

朝潮橋にもこだわり貸家(大阪市港区)

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以前、西九条で、六角形の装飾にこだわった貸家を見ましたが、久しぶりに3例目を確認しました。
六角形の金属の枠に石をはめています。
今度は大阪市港区の三先1丁目です。

まず南側に6軒並び。

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そして背中合わせの北側に3軒並びです。
北側も6軒あったものが縮小されているかもしれません。

久しぶりに新たなものを見かけて、改めて分布が気になりました。
今回も環状線の西側です。

皆さんもどこかで見かけたらぜひ教えて下さい。

<関連記事>
 「西九条のこだわり貸家」
 「佃にもあったこだわり貸家」

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2017年6月26日 (月)

ラジオ塔のある大曽公園(豊中市)

170211ooso_1_2 半年前のことですが、「ラジオ塔大百科」で紹介されていた豊中市の大曽(おおそ)公園に行ってきました。
訪問日は2017年2月11日です。

 

 

170211ooso02_1 大曽公園のメインの入口は南西角にあります。

 

170211ooso03_1 公園の配置図。
広場が大きな面積を占めていて、東側が一段高くなり、遊具コーナーなどがあります。

 

170211ooso04_1 広場とはこれぐらいの段差があります。
雨水の貯留施設にするために掘り下げられたのかは不明。

 

170211ooso05_1 古い雰囲気を残している場所です。
緩い大階段で一段上がったところに、藤棚とベンチがあります。

 

170211ooso06_1
この手前に大曽公園建設記念碑が建っていました。
裏側に説明があって、この公園が昭和16年に建設されたことが分かります。

 

書き起こすと(送りがなはひらがなに直しました)、
「本公園は本市連合町内会隣組の結成を記念し、之が敷地を大字桜塚よりの寄付に求め、其の資金は市民の篤志に俟ちて建設したるものなり。
 昭和十六年十一月十四日
 大阪府豊中市長 従五位勲六等 中川種治郎」

 

地域と市民の寄付で出来たんですね。

 

 

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そしてこれがラジオ塔。
表には「豊中市大曽公園」と書かれています。

 

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裏側には「大阪中央放送局」と書いてあります。
恐らく上にラジオの収納部分があったのでしょうが、欠損しています。

 

 

170211ooso09_1 また隣には国旗掲揚台らしき御影石の柱があります。

 

170211ooso10_1 つまり全体としてはこういう配置です。
国旗が揚がり、ラジオ塔からラジオ体操が流れ、右側に集まって体操するという位置関係ですね。
戦前の公園の様子が分かります。

 

170211ooso11_1 藤棚については、いつの時代のものかは分かりませんが、六角形のコンクリートのベンチがあります。

 

170211ooso12_1 また、現在の藤棚とは別に柱の跡がありますので、こちらがもともと藤棚のあった位置ではないでしょうか。

 

170211ooso13_1 何かの基準点らしきものもありました。

 

 

170211ooso14_1 たぶん戦後の整備ですが、砂場があります。
周囲にはよく見るラクダやキリンの遊具。

 

170211ooso15_1 象やカタツムリのコンクリート製遊具もあります。

 

170211ooso16_1 周辺は古い住宅地で、こんな木造住宅もありました。
うろこ状の戸袋がユニーク。

 

 

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*全国の近代公園
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