カテゴリー「建築」の記事

2024年7月14日 (日)

野外博物館・四国村(香川県高松市)

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屋島神社の後は、その隣にある四国村(四国村ミウゼアム)を訪ねました。
訪ねる前は、県や市の運営する民家園と思ってたんですが、民営(現在は公益財団法人)です。
それに展示も民家よりかなり幅広いものでした。

四国村は2022年4月にリニューアルしたばかりで、左に見える建物は新たに建てられたエントランスの「おやねさん」です。

右下に見える茅葺き屋根は、徳島県祖谷地方から移築された古民家を利用して昭和50年(1975年)に開業したうどん店「わら家」の屋根です。
(その写真は撮り忘れていました)

訪問日:2022年9月10日

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入り口を入るとすぐ出会うのは、再現された徳島祖谷地方のかずら橋。
4年に1回架け替えられているそうです。
実際に渡れます。本物と違って高さは全然ないのですが(本物は見たことないけど)、結構隙間があって、すぐ下が池なので緊張感があります。

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その先にあるのは、小豆島農村歌舞伎舞台(江戸末期)です。舞台を扇状に囲んで階段状の客席があります。

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そのまま進むと丸亀藩御用蔵(江戸後期)。
ここには四国村についての展示があり、四国村がどういうものなのか知ることができました。

四国村はカトーレック(株)創業者の加藤達雄氏が開いた野外博物館です。
カトーレックは元々加藤海運の陸運部門が独立した加藤陸運が始まりということで、グループの加藤汽船をルーツに持つジャンボフェリーに乗ってきたのも何かの縁のようです。

始まりは先ほどの古民家うどん店「わら家」でした。
実は陸運会社でドライバーとして働いてきた高齢社員のために、第二の職場として用意したお店なのだそうです。
昭和50年(1975年)のことです。

そこで加藤氏は古民家に魅了され、滅びゆく建築物の収集を始めました。
これに「わら家」に隣接する土地の地主さんが賛同して無償で土地を提供し、16棟の建物を移築して昭和51年(1976年)に四国村がオープンしました。何というスピードでしょう。

建物は徐々に増え、現在は江戸時代から大正時代にかけて建てられた33棟の建物が移築復元されています。
全部を紹介するのは大変なので、とくに気になったものだけ紹介します。

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丸亀藩御用蔵の前には川島町道路元標や道標など。
川島町は今は高松市の一部になっています。
毎回言ってますけれど、道路元標は元の場所の近くに置いてほしい。

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このように四国村には建物以外にも暮らしに関する構造物や物が多数展示されています。

この猪垣もそうです。四国村内には3種類の猪垣があり、1つはこの小豆島の猪垣を再現したものです。
粘土に松葉を混ぜた土で作られています。

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こちらは徳島県の旧脇町(現美馬市)にあった猪垣を再現したものです。
ただイノシシの侵入を防ぐだけでなく、壁に所々隙間を開けて落とし穴を掘り(上の写真)、イノシシを捕らえていたというので積極的です。

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最後は徳島県の旧一宇村(現つるぎ町)の猪垣を再現したものです。
阿波青石の板を並べています。それぞれ地元の素材を使って地域色があることが分かります。

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建物も、様々な産業・用途に使われた建物があります。
これは内子町の民家の内部で、和紙の原料である楮(こうぞ)を蒸す釜とそこにかぶせる巨大な桶です。
「道成寺」の鐘みたい。

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砂糖しめ小屋はとくに特徴のある建物で、四国村内に3棟あります。
これは坂出市にあった宮崎家砂糖しめ小屋(1865年頃)。

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丸い形には意味があって、中央に石臼が3つあり、そこから伸びる腕木を牛に引かせてぐるぐる回転させていたそうです。
冬の搾汁の時期だけ使われるので組み立て式になっているというのもユニークです。

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六車家釜屋(1800年代末頃)。東かがわ市湊にあったもの。
絞ったサトウキビの汁を煮詰めるための釜です。

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異色な展示物に左甚五郎の墓碑があります。
彫刻が動き出したなどの逸話で知られる江戸時代初期の彫物の名手です。
実在した人物かどうか定かでないものの、日本歴史辞典には高松で没したと記されていると説明に書かれています。
高松市番町の地蔵寺から移設したそうです。

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高松市国分寺町新名の金毘羅街道沿いにあったアーチ型橋(明治34(1901)年)で、旧国分寺町の鷲ノ山産の石材を使っていると説明にありました。石材の町には興味があるのでいつか訪ねてみたいと思います。

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楔石の片面には唐獅子牡丹、もう片面には鯉の滝登りの彫刻があって凝っています。
当初は彩色もされていたそうです。

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これは志度町の消防団で使われていた警鐘台です。
元から警鐘台として作られたものではなく、元は護衛空母「しまね丸」の無線マストだったそうです。
しまね丸は、航空母艦兼用で設計された大型タンカーで、終戦間際に神戸の川崎重工で完成後、実際に使われることはないまま、志度湾長浜沖に隠されていたのですが、英軍の攻撃を受けて沈没。終戦後に解体引き上げされる際、マストを地元有志が貰い受けたという話です。

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これはすぐ近くの屋島神社参道にあった消防屯所(大正8年)だそうです。
内部に手押しポンプ(大正8年)と小型動力ポンプ(昭和37年)も収められています。

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こちらは小豆島の石蔵(大正4年)。
小豆島から大阪に出て事業を成功させた藤原兵太郎が、故郷の北浦村に寄付した公債1万4000円が保管されていたそうです。金庫ですね。
石材は茨城県稲田産の花崗岩を取り寄せて作られたとのこと。小豆島は花崗岩の産地なのに、わざわざ遠い茨城県から取り寄せるあたりにこだわりを感じます。

このほか灯台関連の建物も見ましたが、それは別記事にします。

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四国村の外に出たところに洋館が建っています。
今は四国村カフェとして使われているワサ・ダウン住宅(明治38(1905)年)です。
元は神戸の北野にあった異人館で、1944年から1965年まで日本郵船の社員寮として使われ、役目を終えた際にこちらに移築されたそうです。
加藤陸運の神戸とのつながりによるものでしょうか。

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ちょうど昼時でしたし、四国村につながる逸話を知ったらやはりここで食べなければと「わら家」でうどんをいただきました。
店内は結構広くて賑わっています。お手頃でおいしいうどんでした。

<関連記事>
 「ジャンボフェリーで屋島へ」
 「屋島に登る」
 「屋島ケーブル跡」
 「眺めて楽しむ屋島神社」
 

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2024年6月24日 (月)

屋島ケーブル跡(香川県高松市)

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2022年9月の屋島への旅行の続きです。
屋島山上の南の端にある屋島ケーブル屋島山上駅跡を訪ねました。
ここはこの時の旅行で一番見たかった場所です。

屋島山上駅跡も無人、駅前の土産物屋や食堂も無人です。「観光地の駅前」がセットで残っていて、昔の様子が想像できるだけに、全てが時間を止めていることに何ともいえない気持ちになります。

訪問日:2022年9月10日

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旧屋島ケーブル屋島山上駅は、屋島登山鉄道のケーブルカーの駅として、昭和4(1929)年に建てられたものです。
長らく山上へのアクセスとして利用されてきましたが、ケーブルカーは2004年に運行を休止しました。(all YASHIMA「旧屋島ケーブル山上駅」

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建物には積層したようなデザインが多用されています。

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こちらは西側。右奥に乗り場があります。
大きく丸く張り出した庇が印象的です。

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ケーブルが動いていた時代の屋島山上案内図もありました。
ホテル甚五郎も描かれています。施設名や観光地名はプレートで貼り付けるようになっています。

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ケーブルの乗り場付近。ロープが張られているので、これ以上は入れません。
レールの上は緑に覆われているようです。

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向かって左側にある古い便所の跡。
屋島山上駅の看板が転がっています。

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駅前は左手に「軽食と喫茶 旅の憩」というお店の跡がありました。
手荷物預所の文字もあります。

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右手には土産物店の跡です。
コニカのフィルムや、「屋島」と書かれた提灯、一休さんの陶人形、石カエル、屋島下駄、瀬戸大橋土鈴、阿波踊り竹人形、万年カレンダーなど昔の土産物がそのまま残されています。

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<戦前の絵葉書・営業時代の屋島ケーブル>

「探勝の第一歩・・
 八百米の「ケーブルカー」は青松を縦断して一筋に屋島台上の急ぐ
 いざや訪ねん源平興亡の跡。国立公園 瀬戸の美を。談古嶺に」

と書かれています。観光の目玉は「源平」と「瀬戸内海」だったのですね。

私はそのまま降りていく訳にいかず、帰りもまた遍路道を下って、途中から屋島神社に抜ける道に入りました。 

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山裾をたどっていくと旧屋島ケーブル屋島登山口駅跡にたどりつきました。

ここには車両2両が留め置かれています。駅舎は解体されました。
この車両はケーブルカーが戦後昭和25(1950)年に復活した際に作られたものだそうですので、絵葉書に出てくる車両とは異なります。
また塗装も廃止後に塗り直されています。

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屋島ケーブルの看板。

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屋島ケーブルの義経号を側面から。

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乗車位置にはタイルで矢印が描かれていました。

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扉が開放されているので、車内にも入ることができます。
車内には車両の部材なども置かれていました。

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こちらは弁慶号。

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軌道の滑車。

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見上げると線路の先は草木で覆われ、見通せません。

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駅の横には白い下身板張りの小さな建物がありました。
「変電室」の文字が見えます。

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中を覗くと、変電施設が残っていました。

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屋島登山口駅前は、この先にも線路を伸ばす計画があったためか、広い道となっていて、両側の旅館や店舗跡などがかつての賑わいをかすかに感じさせています。

<関連記事>
 「ジャンボフェリーで屋島へ」
 「屋島に登る」

 

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2024年6月 6日 (木)

北白川の住宅地を歩く(京都市左京区)

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2021年12月、京都の高原児童公園を見た後、北白川の住宅地を通って吉田山まで歩いた話を書いておきます。

今回の記事はさらっと見た建物を紹介するだけにしますね。
近代化遺産の調査や近代和風建築の調査と照合するなどして、後日補足していくかもしれません。

以前、「北白川・小倉町住宅地」という記事を書いたことがあります(2009年)。
その記事と一部建物は重複します。

このあたりの住宅地には近代の住宅がたくさんありますので、もっとじっくり回った方が良いのですが、この時は白川疏水に並行して直線的に歩きました。

前置きはそれぐらいにして、最初の写真は北白川平井町の近代和風と思われる住宅です。

訪問日:2021年12月4日

 

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少し洋風が感じられる住宅。年々、以前だったら反応しなかったような住宅にも反応するようになります。
きれいに改修されています。

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この建物は和風の中に洋風の要素があります。
門柱はコンクリートにボーダータイルを散らして、洒落ています。

よく見ると玄関扉に丸窓があったり、窓の上にも窓があり、採光を意識しているようです。

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こちらは藤井厚二設計の旧喜多邸(大正15年)。
左隣がヴォーリズ設計の駒井邸(昭和2年)ですが、今回はパスします。
手前が白川疏水です。

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白川疏水を渡って南へ。
二階建ての洋館付き住宅。

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北白川小倉町に入ります。
赤い屋根の洋館付き住宅。

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これも控えめながら洋館付き住宅。
屋根が日本瓦だけれど。

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ほぼ和風なんですが、角でつなげて窓を広く取るのは近代の和風建築ですよね。

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洋館付き住宅。

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これも二階建ての洋館付き住宅といって良いのでしょうか。
窓の桟の入れ方が変わっています。
道路側のは中華風にも見えます。

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極端に窓の少ない2階建て洋館付き?住宅。
なぜここまで窓が少ないのか気になります。

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これは住宅ではなく、京都大学 人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター(旧東方文化学院京都研究所・昭和5年)。
設計者は武田五一・東畑謙三。
いつか見学してみたい建物です。

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2009年の記事にも書いた、その向かいの邸宅も健在でした。
庭の木がますます育って、一層見えなくなっています。

その後も疏水に沿って進みます。
2009年の記事に書いた「小倉町 久保田町 西部 公同組合」の国旗掲揚台らしきもの(昭和13年)も確認しました。

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今出川通りを渡って神楽岡通りへ。
入り口に天皇陵への道標が立っていました。
昭和4年に大阪の皇陵巡拝会が立てたものです。

同様のものは大阪の古市古墳群でも見たことがあります。
団体名はちょっと違ったかもしれません。

皇陵巡拝会がどんな団体かについては、下記資料に詳しく書かれています。大正6年に設立され、皇陵巡拝を普及させる活動の一環として、各地に石柱を寄進したらしいです。現存するもので70本ほどあると書かれています。

徳田誠志氏「本山彦一と『歴代帝陵巡拝図』について」(関西大学学術レポジトリより)

 

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神楽岡通りの医院。壁は新しく塗り直されていますが、古い医院のように思われます。

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通りにあるスパニッシュ様式の上西家住宅(昭和9年)。
登録有形文化財です。

文化遺産オンライン

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ここから神楽岡の住宅地に入って行きました。
京都市京セラ美術館で開催された「モダン建築の京都展」(2021年)で吉田神楽岡旧谷川住宅群として紹介されていて気になっていたところです。大正後期から昭和初期にかけて開発された住宅地です。

→(参考)京町家まちづくりファンド「吉田神楽岡旧谷川住宅群プロジェクト」

ゲートのように石の門柱が立っています。

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住宅地は階段状になって東に開けており、大文字山がよく見えます。

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大きめの住宅。通路の脇には低いコンクリートの塀があります。
住宅からだけでなく、通路からの眺めも良いです。

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登りきったところにカフェの茂庵。元々は谷川運輸倉庫を興した谷川茂次郎氏が大正時代、吉田山山頂に作った8つの茶室(今は2つが残る)などからなる広い茶苑だそうです。カフェとして使われているのは旧食堂棟です。
この時は普通に入れるカフェでした。行っておいて良かったと思います。
その後、一時閉店を経て、現在は予約制のカフェ・お茶会などのイベントスペースとして営業されています。

この日のゴールはここでお茶をして帰りました。

<関連記事>
 「北白川・小倉町住宅地」(2009年)
 「洛北土地区画整理地区」(2009年)

 「高原児童公園の改修前と後」(2021年、2023年)

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2024年2月16日 (金)

岡ビルから南の建物(愛知県岡崎市)

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<2017年5月14日>

岡崎市の手持ち最後は、名鉄の東岡崎駅から南へ、JR岡崎駅にかけての建物を紹介します。

まず東岡崎駅の駅ビルは岡ビルという名前で、昭和33年(1958年)に完成すると同時に岡ビル百貨店が開業しました。
以来、長らく岡ビルの2階・3階で営業してきましたが、2021年5月31日をもって閉店しました。

岡ビル百貨店のブログ 2018年から2021年の閉店まで
名古屋渋ビル研究会「さよなら岡ビル百貨店」

ということで上の写真はまだ営業中の写真です。
現在も岡ビルはありますが、看板が取り払われたビルは急に老けてしまったように見えます。

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<ここから2016年8月14日>

2016年には岡ビルもあいちトリエンナーレの会場の一つで、私はこの時初めて訪ねました。
最後の最後に訪ねたので既に日没しています。
左側にはバス乗り場があります。

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ビルの外側やもちろん駅の部分は今も見ることができます。

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せっかくなので中の様子なども上げておきます。
レストランのこもさん。昭和42年(1967年)開店で50年以上営業されていました。

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喫茶室凡さん。この場所は当初から喫茶店だったらしい。
実は訪問のすぐ後、2016年8月末に閉店されたらしく、その後喫茶室和笑が入って百貨店の閉店を迎えたらしいです。

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何のスペースか覚えていませんが、通路から外を見たところ。

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<ここまで2016年8月14日>

ちょっとレトロな雰囲気が漂う階段手すり。
あまりたくさんの写真は撮っていませんでした。

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<ここから2019年8月12日>

ここからは六所神社を訪ねた後のことです。
JR岡崎駅に向かって建物を見ながら歩いていきました。

まず六所神社近くにある洋館付き住宅です。(2023年7月現存)
岡崎には本当に多い。

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下見板張りの住宅。(2022年9月現存)
明大寺町西郷中。

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ここから電車通りを進みます。

洋風の離れ。古そうな気もしますが年代不詳。(2023年5月現存)
明大寺町狐塚

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板塀の住宅。元は商家のようにも見えます。一部下見板張り。(※現存せず。2019年9月〜2020年10月の間に解体)
明大寺町池下

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これは前からバスで通る度に印象に残っていた洋風屋根の工場です。(2023年5月現存)
太陽綿機製作所と書かれています。綿繊維関係の製造機械工場なのでしょうか。今はタクシー会社の構内です。
明大寺町野畔

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左は元杉正建材店※現存せず。2020年解体)、1950年代ぐらいでしょうか。
右は近代の和風住宅に見えます(2023年5月現存)
明大寺町沖折戸

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最後に洋館付きの杉浦医院(2022年10月現存)。羽根町前田。
ここまで来るとJR岡崎駅はすぐそばです。

この通りは空襲を受けているのでそれほど古い建物はないですが、それでも気になる建物はちらほらありました。

これでひとまず記事化できていなかった岡崎市の記録はまとめられました。
岡崎でまだ歩いていないエリアがありますので、また機会あれば歩いてみたいと思います。

<関連記事>
 「再整備前の南公園へ」 ※岡崎編の最初の記事

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2024年2月11日 (日)

六所神社の彫刻(愛知県岡崎市)

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2019年8月、あいちトリエンナーレを見に行くのに関連して、岡崎市に宿泊しました。
このブログで江戸時代のことに特化して紹介するのは珍しいのですが、宿の近くにあった六所神社の彫刻が見事だったので紹介したいと思います。

六社神社は社記によれば飛鳥時代、奥州塩竈の六所大明神を勧請して創建されたそうで、その後、松平家の産土神として、徳川家康公の誕生の際も拝礼されたそうです。そのため、徳川家の保護も厚く、現在の本殿・幣殿・拝殿は、三代将軍家光が寛永11〜13年(1634〜1636年)に造営させたもので、神供所も同時期と考えられるそうです。また楼門は貞享5年(1688年)の墨書があります。(案内板より)

これらの建物は重要文化財に指定されていて、昭和51年および平成26〜29年(2014〜2017年)にかけて大修理が行われ、往時の鮮やかさが再現されました。修理後2年ということで、この時もかなり鮮やかな彫刻が見られました。

とくに説明することはありません。見ていただければ分かると思います。

訪問日:2019年8月12日

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まずは楼門の彫刻から紹介します。
彫刻はだいたい建物の外側、梁の中央上に施されています。

九尾の狐が瓜を食べているようです。
かじられた跡まで表現されていて、非常に細やかです。
このように動物と植物の組み合わせが多いようです。

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これは鳳凰でしょうか。
鳳凰とよく組み合わせられる植物は桐ですが、これは何か分かりません。

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これはマガモのつがいです。
水面も描かれています。

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これはウソのオスが2羽?

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緋鯉と真鯉。こちらも水面の表現です。

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なお拝殿の屋根の下は青鬼が支えていました。

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続いて神供所です。
こちらは朱塗りの楼門や拝殿・幣殿・本殿と比べて地味です。

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ただし、彫刻の部分だけは鮮やかに彩色されています。
こちらは孔雀です。

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唐獅子と牡丹。

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ヒエとカモ?

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これは定番のスズメと竹。

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キジとアジサイでしょうか。

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続いては拝殿です。
ブドウを食べるキツネです。

酸っぱいブドウを思い出します。
既にイソップ物語の邦訳「伊曾保物語」が出ていましたからそのものかもしれません。

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サルがビワを取っているところです。

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定番のシカと紅葉です。

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ツルと、何の花でしょう。

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カケスでしょうか。キクの花と。

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ウズラ?とボタンでしょうか。

 

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最後に本殿。こんなにきらびやかです。
これはキリンでしょうか。梁に龍のレリーフも入っています。
またボタンなどの植物も描かれています。

歴史に興味がなくても彫刻を見るだけでも楽しめると思います。
名鉄の東岡崎駅からはすぐ近くです。

描かれている動植物の種類が多いのにも驚きました。
上に書いたことは間違っているかもしれないので、分かる方は教えてください。

<関連記事>
 「日牟禮八幡宮の動物彫刻」(2014年10月)

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2024年2月 9日 (金)

県立農業大学校から東公園へ(愛知県岡崎市)

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2017年5月、愛知県立農業大学校の追進館が2017年中に解体されるという中日新聞の報道を知り、岡崎市の美合(みあい)を訪ねました。
美合は岡崎市街の東の方にあり、最寄りは名鉄名古屋本線の美合駅です。
先に書いておくと、今も解体されたと聞かないので保留された状態のよう。計画が見直されたのなら良いのですが。

上の写真は追進館ではなく、同じ構内にある追進資料室(昭和16年)です。元は教室らしいです。
木々に囲まれた佇まいの美しいこと。(追記)※現存せず。スギヨシさんの情報によれば既に解体されたそうです(2024.2.12時点)

訪問日:2017年5月14日

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<岡崎市街全図(昭和12年頃)>

この当時は愛知県種畜場です。
愛知県立農業大学校は、農商務省愛知種馬所(明治43年)に始まり、愛知県種畜場(大正13年)を経て、昭和9年に追進農場として創設されました(土屋明彦氏「愛知県立農業大学校について」(『畜産の研究』63巻1号、2009年1月))

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現在の愛知県立農業大学校の案内図。
もちろん農地が広くて、総面積38.99haと書かれています。
追進館や資料室があるのは中心あたりです。

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林の中にはいろいろとモニュメントがあって、
例えばこれは「加藤正市君像」(昭和18年)です。
裏の説明によれば、彼は愛知県農林技師兼種畜場技師で、ここ追進農場において中堅農業青年を育成し、有畜農業を進めたそうなのですが、昭和5年に若くして亡くなり(46歳ぐらい)、そのことを悼んだ仲間が立てた碑のようです。

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こちらは「第九回実習生修了◯◯」と書かれた記念碑。
昭和九年三月二十六日と書かれています。

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こちらが追進館(昭和10年)です。
追進農場の講堂として建てられました。(2024.2.12現在現存(スギヨシさんより))

日本建築学会東海支部による「保存活用に関する要望書」(2017年)

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向こう側に玄関が張り出しています。

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窓から中の様子をうかがってみました。
しっかりした梁に支えられています。

中には貴賓室もあるとのこと。

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敷地の中央を貫く道の両側には木々が立派に育っています。
地図には「馬頭道」と表示されています。

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追進館を見た後は、歩いて東公園を目指しました。
ちょっと古そうな和風住宅。(2022年10月現存)
美合町平地

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段丘の緩やかな坂を下っていくとタカギ理容室。かっこいいフォントです。ウルトラマンっぽい。
タイルも油彩風のモザイクタイルが使われていました。(2022年10月現存)

この先で旧東海道と交差します。

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岡崎市立美合小学校の二宮尊徳像。美しいお顔です。
二宮尊徳の石像を昭和初期、全国に広めたのは岡崎の石工なんだそうです。
青銅製、備前焼製等とそれぞれに産地が広めていったのは興味深いです。

岡崎ルネサンス「岡崎発祥!石の二宮金次郎像オンパレード」

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その近く、美合消防団第三部の火の見櫓。(2023年6月現存)
「火の用心」の文字を金属板で切り抜いています。

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銘板を見ると昭和四年四月と書かれています。
製作は福岡町(JR岡崎駅の南、相見駅の近く)の矢藤鉄工所。今もあります。

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日露戦役忠魂之碑(明治38年)
東金山

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乙川に行き着きましたが、河原に馬!
どういうことで飼われている馬なのでしょうか。

国道1号線の乙川の橋を渡ります。

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しばらく旧東海道を歩いていくと少し脇道に入ったところにタイル張りの看板建築・近藤商店がありました。
たくさんある窓は木製サッシのモールガラスで、回転窓かと思われます。(2023年7月現存)
大平町中道

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しばらく歩くと東海道の大平一里塚。
片側の塚が残っています。

ここで右に折れて旧東海道と別れました。

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ここで小さな川を越えるのですが、昭和初期っぽいデザインの橋がありました。
橋名などは残っていません。
大平町天神前

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親柱の装飾といい、欄干の窓といい、アールデコのデザインが感じられます。

ここまで来ると東公園はあと1kmほどです。
次は東公園を取り上げます。

<関連記事>
 「岡崎旧市街西部の建物」(2016年8月)
 「岡崎旧市街中心部の建物」(2016年8月)
 「岡崎旧市街東部の建物」(2016年8月)
 「柱公園とその周辺の建物」(2023年8月)

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2024年2月 7日 (水)

岡崎旧市街東部の建物(愛知県岡崎市)

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2016年夏の旅、「岡崎旧市街中心部の建物」の続きです。
さらに東に向かって歩いていきました。
訳あって一週間後の再訪です。

スタートはこの林弓具店から。(現在も営業中)
両脇に太い柱を立てたようなデザインの看板建築です。

訪問日:2016年8月21日

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<岡崎市街全図(昭和12年頃)>

昭和12年頃の東部はこんな感じです。
立ち寄っていませんが、東遊町のあたりは遊郭らしい町割りになっていますね。

この地図の左端あたりからスタートしています。
左端に右から「花崗町」と書かれているのが分かりますでしょうか。
これは花崗石を加工する石屋が集まっていたかららしいです。
岡崎は岡崎型狛犬でも有名です。付近にお寺が多いのも立地に関連がありそうです。
現在このあたりを通る道は石屋通りとなっています。

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花崗町には現在も何軒か石材店があります。(2023年1月現存)

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近くにあった灯籠を見ると、鯉の鱗やひれまで繊細に表現されていて、彫刻技術の高さを感じます。

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久右衛門町で印象に残った建物。理髪店(理容ヤマモト)、薬局(キクヤ薬品)、たばこ屋、切手販売所が一体化しています。
残念ながら、2020年11月〜2021年11月の間に解体されて現存しません。

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旧東海道の伝馬通りには2軒(3軒?)並びの看板建築がありました。
曲面にタイルを貼ってみたり、奥行きをもたせたりしています。
左の学生服のアサヒヤさんは現在も営業されています。(ともに2023年1月現存)

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向かいにある中根佛壇店東店も面白い壁面です。
正方形で埋め尽くしているよう。(2023年1月現存)
伝馬町。

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門前通りの中根太郎八商店は近代建築っぽい建物です。
繊維原料商の事務所です。(2022年9月現存)

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同じ門前通りの後藤内科。(2022年9月現存)
こちらは戦後建築と思われます。面格子なども面白いデザインです。
サッシが木製なので1950〜60年代でしょうか。

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日本福音ルーテル岡崎教会は、1953年(昭和28年)の建築で登録有形文化財です。

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十王町にある岡崎市役所を通り過ぎて、これも岡崎市の近代建築として有名な旧額田郡公会堂に到着しました。
大正2年(1913年)に現在地に建てられ、大正5年の市政施行によって岡崎市に譲渡されました。国の重要文化財です。
昭和44年からは岡崎市郷土館本館棟として活用されてきましたが、耐震の問題で平成22年度(2010年度)から内部非公開になっています。

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裏側には同年に建設された旧額田郡物産陳列所があります。
可愛らしいデザインですね。同じく重要文化財です。
元々はせきれいホールの位置に南向きに(ということは公会堂と向かい合って)建てられていました。
上の地図にも公会堂として3つの建物が描かれています。

昭和36年に県勤労会館(現せきれいホール)を建設するのに際して、現在地に北向きに移築されました。
岡崎市郷土館時代は収蔵庫棟として使われていたので、こちらは元々非公開だったのでしょうか。

以上の情報は、岡崎市HPの紹介ページを参照しました。

互いに近すぎて全体が見づらくなっているのが惜しい。

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物産陳列所玄関の持ち送り。

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旧額田郡物産陳列所看守人室(大正2年)

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また東に向かって歩きます。

すぐ近くの若宮町に、グリーンの洋館付き住宅がありました。(2023年1月現存)
物産陳列所のグリーンに触発されたのかと思うような。
四つ割菱の換気口もユニークです。

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三河染色整理加工協同組合事務所?※現存せず。2016年8月〜2019年9月に解体。左側の門柱のみ残る)
若宮八幡宮の西側。本来の目的地をかなり外れていて、今思い返しても、なぜここに行ったのか思い出せません。建物に呼ばれたのでしょうか。

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その手前にはのこぎり屋根2連の小さな工場もありました。※現存せず。2016年8月〜2019年9月に解体)

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最後は東公園内の旧本多忠次邸にゴール。
元々は昭和7年(1932年)、東京の世田谷区に建てられた住宅です。
なぜここに移築されたのかというと、建てたのが旧岡崎藩主の末裔だから。

岡崎市が整備して無料公開しています。

参考:おかざきおでかけナビ「旧本多忠次邸」

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壁泉の一部も移築されています。

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内部も素晴らしくて、この海中にいるような浴室も面白いでしょう?
他の部屋も素晴らしいので、上記のリンクや他の方の発信をご覧ください。

今回見にくい写真が多かったような気がします。すみません。

東公園については翌年再訪しましたので、改めて記事にします。

<関連記事>
 「岡崎旧市街西部の建物」(2016年8月)
 「岡崎旧市街中心部の建物」(2016年8月)
 「柱公園とその周辺の建物」(2023年8月)

 

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2024年2月 5日 (月)

岡崎旧市街中心部の建物(愛知県岡崎市)

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2016年の夏、あいちトリエンナーレの岡崎会場を見学がてら、岡崎市の建物なども見て回りました。
時系列では岡崎公園を見た後です。この記事では中心部(岡崎城の東側)の近代建築などを紹介します。

まず乙川沿いの古い小児科医院の建物が気になりました。和風の住宅に洋風の診療所が付属する形です。
もう診療されていない様子でしたので大丈夫かなあと気がかりでした。

訪問日:2016年8月14日

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<2023年8月27日撮影>

それがSNSの友人情報で、2023年3月にカフェになったと聞き、南公園を訪ねるついでに訪ねてきました。
喫茶スモーコというお店です。→お店のInstagramアカウント
内部は白く明るい空間にリノベーションされていますが、病院時代のものも残されています。大きな鉄の扉の奥が何の部屋なのか、聞きそびれてしまいました。嬉しい変化です。

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喫茶スモーコの窓辺からは、乙川とそこに架かる殿橋が眺められます。
とても良いロケーションです。ここからまた2016年に戻ります。

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殿橋の立派な親柱。
昭和2年に完成していますのでアールデコのデザインが入っています。

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<岡崎市街地図 昭和12年頃>

またまたこの地図を出します。今回紹介するエリアはこのあたりです。
中央下にあるのが殿橋、東隣に昭和12年に架設された明代橋が描かれています。

殿橋を通る道に市電が通って、メインストリートであることが分かります。
この道は岡崎駅につながっています。

 

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この道を北上し、繁華街である康生通に入ると目を引く銅板の看板建築がありました。
とても見事です。竹村屋と書かれています。※現存せず。2022年解体)

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向かいにも看板建築があります。
履物屋さんのさくらや本店です。(2022年10月営業中)
探す楽しみがありそう。

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あいちトリエンナーレ2016の会場のひとつ、岡崎表屋。(2023年1月営業中)
戦後間もなくの建物で、以前はここでガソリンスタンドを営業していたそうです。今は事務所のみ。
1階が事務所、2・3階が家族や従業員の宿舎だったとのこと。
この使われていない2・3階で、インド人作家のシュレヤス・カルレが内部に残っていたものを活かしてどこまでが作品か分からないような空間を作っていました。

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見学が終わったらまた街へ。
岡崎の近代建築では一番有名かもしれない、岡崎信用金庫資料館(旧岡崎銀行本店)です。
設計は鈴木禎次で、大正6年の建築です。
前の道は旧東海道。

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無料で内部見学できます。

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その裏にある加藤洋服店さん。(2022年10月現存)
看板建築です。

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並びには2軒幅の洋風店舗。屋上があるみたいです。(2022年10月現存)

 

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もう少し中心よりの連尺通に、こんな個性的なビルがありました。(2023年1月現存)
銅板を貼った付け柱が6本、両端には太い煙突のような柱で、工場のようです。
足元には数色のスクラッチタイルが貼られています。

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北上して、あいちトリエンナーレの会場となっていた旧石原家住宅
安政6年(1859年)に建てられたお屋敷です。
秋のあいたて博などの機会に公開されています。

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ついでに周りを歩くと坂道に洋館付き住宅がありました。※現存せず。2020年11月〜2021年11月に解体)
六供町杉本

 

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亀井町の加藤左官店。看板建築です。(2023年1月現存)
建築関係なのでまさに「看板」を兼ねているのかも。

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八幡町の洋風住宅。(2023年1月現存)
換気口を建物の角に付けていたりして独特です。

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ここから山手(六供町甲西)の方を目指してみました。
近代の山手の住宅地の雰囲気があります。
この塀など洋風で面白いデザインでしょう?(2023年1月現存)

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同じく六供町甲西の住宅。(衛星写真で現存)
近代のものっぽく見えるのですがどうでしょう。

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そしてこちらは文句なしの洋館。(衛星写真で現存)
雁行する複雑な配置をしています。どれもが正面に見えます。
ショッピングセンター・シビコの窓から見えて、ここに行ってみたいなと思ったのでした。
ここからの眺めは良いはずです。

最後は中心部とはいいがたい所まで行っていますが、さすがは中心というか、商業系の看板建築や立派な銀行建築などがあります。
今回確認して、小規模な物件が2つなくなっていたのは残念でした。

 

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2024年2月 4日 (日)

岡崎旧市街西部の建物(愛知県岡崎市)

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2016年夏、あいちトリエンナーレに合わせて岡崎を訪ねた時の記録です。
今回は岡崎公園(岡崎城)より西側エリアの建物について。

八帖町では江戸時代初期から八丁味噌づくりが行われていて、カクキュー、まるやの2つの工場が営業しており、どちらも見学を受け入れています。
この日はカクキューさんを見学しました。
これは本社事務所(昭和2年)です。(建物名称や年代などは『愛知県の近代化遺産総合調査報告書』を参考にしました)

訪問日:2016年8月14日、21日(龍城温泉周辺)

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<岡崎市全図(昭和12年頃)>

 昭和12年頃の岡崎公園の西側はこうなっていました。
 東海道が矢作橋から南へ、八帖町から東へ板屋町、また北上して田町へと岡崎城下27曲がりの一部を成している古い街です。

 この公園前駅は、今も名鉄の岡崎公園前駅としてあります。

 カクキューのある八帖町は、名古屋城から西へ約八丁(870m)の距離にあるのが由来です。
 矢作川の水を利用する立地であることも分かります。

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カクキューの敷地内は大きな蔵が立ち並んでいました。
左は史料館となっている本社蔵(明治40年)

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昔ながらの製法で作られる八丁味噌の樽。

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古い住宅もちらっと見えました。

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旧東海道筋で、周辺は古い町並みが残っています。

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一通り見学したら東へ。
八丁橋で早川を渡ります。
八丁橋の親柱には昭和十五年十一月改築と平成三年二月竣功の文字。
昭和十五年の時の親柱を再利用したのかなと思いますが、場合によっては再再利用なのかも。

川の上の高架は愛知環状鉄道です。

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昭和12年頃の板屋町のあたり、今では中岡崎町のあたりには古い住宅が残っています。
これは洋館付き住宅。洋館部が独立しています。(2022年10月現存)

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名鉄の線路の南北は所々トンネルでつながれています。
向こう(南側)の方が一段下がっています。

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中央が突出する洋館付き住宅。(現存せず。2020年11月〜2022年10月の間に解体された模様)

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近代の和風建築と思われます。飲食系かも。(2022年10月現存)

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四角いコンクリートの箱で構成された住宅。
木製サッシや持ち送りに古さを感じさせます。空き家のようです。
(2022年9月現存)

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 これは戦後の洋館付き住宅でしょうか。(2022年9月現存)

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これも洋館付き住宅。(2022年9月現存)

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縁あって翌週も岡崎を訪ねました。
街歩きの最後に田町の龍城(たつき)温泉に入りました。
龍城=岡崎城のことです。大正14年開業で、木造の昔ながらの建物で営業されていました。

地図を見ているとこの前の道が旧東海道のようです。

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玄関を入ってから男湯・女湯に分かれます。

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内装も創業時とは言わないまでも昭和の昔の様子を留めています。
右にちょっと写っていますが、驚いたのが一人用サウナ。

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マジョリカタイルやモザイクタイルなど各種タイルも楽しめます。

龍城温泉はその後2021年から長期の休業に入り、一時は解体の話もあったのですが、龍城温泉を愛する人たちがファンクラブを作って熱心な働きかけを行い、清掃や見学会が行われるうち、サウナ施設として営業したいという方が現れ、2024年2月からサウナ化に向けた改修が行われているというのが現在の動きです。改装後も建物の雰囲気や設備、内装の一部は残る予定とのことです。

参考:中日新聞「大正開業の銭湯、改装前に最後の見学会 岡崎・龍城温泉でファンクラブが企画」(2024.1.27)

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周辺にも古そうな建物がありました。こちらは白十材木店。
材木屋さんの建物ってふんだんに木を使っていて魅力的です。
(現存せず。2017年5月〜2018年6月の間に集合住宅に建て替えられています)

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龍城温泉の向かいにも志貴小児科医院(昭和3年)だった住宅が建っています。
元は住宅ではなかったのかもという雰囲気です。(2023年1月現存)

2015年9月までは同じ敷地内に別棟が建っていたらしいのですが2016年8月時点ではなくなっていました。
惜しいタイミングでした。

この時歩いたエリアは、商業系よりも製造業、住宅系の建物が多く見られるエリアでした。
カクキューさんにはこのまま公開しながらの営業を続けていただきたいですし、龍城温泉にはサウナ施設としてうまく継承された事例となってほしいなと思います。

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2024年2月 1日 (木)

柱公園とその周辺の建物(愛知県岡崎市)

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JR岡崎駅から南公園に向かう途中、気の向くままに歩いていくと柱公園にたどり着きました。
入り口には粗削りの(でも角は整えている)石の門柱が建っていて、古い公園のように見えます。

訪問日:2023年8月27日

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階段を上がっていくと丘の上に記念碑や灯籠などがありました。

正面にあるのは誠忠碑(明治43年。日露戦争関係?)、右は岡崎・羽根学区の昭和30年の慰霊碑です。

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その脇には立太子禮記念樹の碑(大正5年)があります。
昭和天皇が皇太子になった時ということになります。

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また園内には「柱町耕地整理記念碑」(昭和8年11月)があります。
裏面に柱町耕地整理事業の概要が刻まれていて、
昭和6年3月21日設立、9月11日工事着手、昭和8年4月18日工事完了と分かります。
整理前の民有地面積は十四町一段二畝二十三歩、国有地面積は二段八畝十一歩ですから、施行面積は14ha余りでしょうか。

個人的にはこの記念碑に一番興味があります。
この公園自体が耕地整理で生み出されたのかもしれません。

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他にも皇紀二千六百年記念樹の碑(=昭和15年)もあります。
この小さな公園内に記念碑だらけです。

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園内を見ていくと、長〜いベンチ。
同じタイプのベンチは南公園にもいくつかありました。

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記念碑のある広場から一段下りた広場には遊具や先ほどのベンチがあります。
秋葉神社の祠などもあり、どういう経緯でいつ頃できた公園なのか気になりました。

このあたりは昭和初期に開発が進んだのかなということを踏まえて、この周辺に古い建物がいくつもあるので紹介していきます。

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岡崎駅の近くに服部工業株式会社の服部記念館(旧事務所/大正15年)があります。
同社は明治18年に鋳物業で創業(当時は康生町)、明治42年にこの場所に移転し、戦前には三州釜を開発するなど、厨房機器を製造するメーカーです。

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洋館付き住宅もありました。
(柱町字東荒子)

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これも古そうな住宅。洋館付きまでは行かないけれど、突出部に洋風の要素もあります。
(柱町字東荒子)

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柱公園の南側、かなり大きな敷地で古そうな住宅ですが崩れていました。
(柱町字東荒子)

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唐突に茅葺きの民家があります。

ここは産婦人科の吉村医院で、この古民家は吉村正院長の趣味が高じて(そう書かれています)裏庭に移築したものらしいです。
古典的労働体験の場として利用されていたと書かれています。
以前は病院の建物に隠れていたのですが、解体されて見えるようになりました。

参考:「吉村医院あさひ産婦人科 これまでの歩み」

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洋館付きと言っていいのか、可愛らしい付属屋付きの住宅。
(柱町字東荒子)

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歩いていると珍しい花火店「佐野花火店」がありました。
花火の季節なので賑わっていました。
(柱町字福部池)

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これも花火店の関係でしょうか。
裏手に木造の工場らしき建物がありました。
(柱町字福部池)

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庭の松が茂っていてよく見えませんが、洋館付き住宅です。
(柱町字福部池)

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所々に古い木造建築が混ざります。
もしかすると用途は住宅ではないかも。
(柱町字福部池)

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南公園を目指すのにグーグルマップを確認しながら歩いていて、
「旧愛知県第二尋常中学校講堂」という表示があったので寄ってみました。
「ん?こんなところに?」

現地の解説によれば、第二尋常中学校というのは現在の岡崎高等学校で、明治29年、愛知県で二番目に開校しました。講堂は翌明治30年の完成です。中学校は手狭となり明大寺町に移転しますが、講堂だけはその際に日清紡績針崎工場内の現在地に移築されて、工場の講堂となりました。昭和23年には針崎工場内にあった龍城実科高等女学校の講堂になりました。貴重な建物です。

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日清紡績針崎工場は2008年に閉鎖された後、跡地は三菱地所の開発で「岡崎プライムパーク 春咲の丘」という住宅地等になりましたので、面的に新しい戸建住宅が立ち並んでいます。講堂はまたもや取り残された形です。

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近くの大樹は住宅地の側で講堂とともに、昔からの風景を留めているようです。

柱公園の周辺は、岡崎の旧市街から離れていて、近代に工場や住宅地として開発が進んだ場所のようです。
多様な建物を見ることができました。

<関連記事>

 「再整備前の南公園へ」
 「南公園の交通広場」

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