廃をたどる(兵庫県播磨町)
2年前になりますが、JR土山駅の近くのギャラリーに伺う機会があり、播磨町が初めてだったので少し歩いてみました。
播磨町ってご存知ですか? 明石市と加古川市に挟まれ、海に面した小さな町です。
JR土山駅の西にゲートがあって、ここから遊歩道が始まっています。
「であいの道」とか「歴史とのであいミュージアムロード」とかいろんな名前が付いていますが、この道はかつて別府(べふ)鉄道土山線が走っていた廃線跡です。
訪問日:2022年3月27日
遊歩道の脇を見ると線路を柱に「1984年 別府鉄道土山線廃線」と書かれています。
これがなかなか面白い趣向で、歩いていくと歴史を遡ってできごとが記されています。
遊歩道=廃線跡は緩やかにカーブしながら住宅の間を抜けています。
廃線跡(遊歩道)をたどっていくと、大中遺跡公園に着きました。
つまり時代を遡って古代に辿り着くわけです。
廃線跡は遺跡跡を突っ切ってまだまだ続きますが、私はここまで。
大中遺跡は昭和37年に播磨中学校の生徒3人が発見したと書かれています。
弥生時代後期を中心とした時代の集落の遺跡です。
遺跡は集落跡を「跡」のまま見せている部分と、このように建物を復元している部分とがあります。
中に入れるものもあります。
公園内には兵庫県立考古博物館もあるのですが、そちらは今回パスして、播磨町郷土資料館の方を見に行きました。
入り口には阿閇(あえ)村道路元標が置いてありました。
当時の阿閇村役場横(本荘2丁目)にあったそうです。
展示は私に興味深い内容がいろいろと。
こちらは江戸時代の初め、新井用水を開削した今里傳兵衛のコーナー。
逆サイホンの埋樋の模型もあります。
こちらは江戸時代後期の廻船「栄力丸」の模型。
ユニークなのが漂流にポジティブに注目していることです。
栄力丸の漂流者の一人、ジョセフ・ヒコという人はアメリカ商船に救助され、サンフランシスコに渡ります。これが運命の転機となり、日本人として初めてアメリカの市民権を取得、通訳や貿易商として活躍しました。のちに日本で初めて海外新聞を発行し、高島炭鉱や大阪造幣局の設立にも関わったらしく、播磨町では郷土の偉人として大きく取り上げています。
そしてもちろん別府鉄道の紹介コーナーも。
別府鉄道は加古川市別府町にある多木製肥所(現多木化学)が、製造した肥料製品などを官設鉄道まで輸送するために自前で建設した軽便鉄道です。大正10年に西へ向かう野口線が開通しました。続いて大正12年にこの東に向かう土山線が開通しました。
どちらかというと野口線が旅客中心、土山線が貨物中心だったそうです。
展示は結構詳しかったんですけど、ここではあまり深入りしません。
館内の展示だけでなく、資料館の裏に回ると実際にディーゼル機関車(昭和28年製造)と客車(昭和5年頃製造)が里帰りして屋外展示されています。
客車は中に入ることもでき、乗車気分が味わえます。
ところで廃線跡の遊歩道を歩いていた時、大中遺跡公園の手前で気になるものがありました。
この古そうな工場です。
帰りに表側に回ってみると古い小屋の前に「昭和フェルト株式会社」と書かれた看板が立っていました。
これが会社の名前のようです。
ネットで調べても断片的な情報しかないですが、『兵庫県工場名鑑1972年版』によれば、創業は昭和28年、業種は牛毛、粗毛フェルトの製造です。
正面の門の前に来ました。木造の工場や蔵などが建ち並んでいます。
どうも操業はされていないようです。
広場を囲むように様々な建物があります。
<国土地理院HPより昭和22年米軍撮影空中写真(赤丸は筆者追加)>
なお、創業は昭和28年とのことですが、奥の2棟の大きな木造工場などは昭和22年の時点で既にあるようです。
帰り道は廃線跡を外れて東の方を歩いたのですが、印象深い建物に出会いました。
要塞のような、というと適切ではないのでしょうか、コンクリートの存在感が強い建物です。
これは南から見たところです。
土山共同センターという名前で、覗き込むと商店が並んでおり、1階が店舗、2・3階が住居の複合施設のようです。
不動産情報では昭和45(1970)年の建築という情報が出ていました。
東側はまた違った表情を見せます。
住戸にはバルコニーの他、中庭も用意しているようです。
商店の関係者が上に住むことを想定していたのでしょうか。
この建物は有名物件らしく、ネット上でもいろいろと書かれているのが見つかりました。
この日は廃線跡、集落跡、工場跡と最後は廃にはなってませんが、期せずして廃をたどったようでした。歩いたのは播磨町北西のほんの一部ですので、別府鉄道跡の続きや新井用水などを歩いてみても面白いかもしれません。
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