カテゴリー「日常旅行(兵庫)」の記事

2024年5月 8日 (水)

廃をたどる(兵庫県播磨町)

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2年前になりますが、JR土山駅の近くのギャラリーに伺う機会があり、播磨町が初めてだったので少し歩いてみました。
播磨町ってご存知ですか? 明石市と加古川市に挟まれ、海に面した小さな町です。

JR土山駅の西にゲートがあって、ここから遊歩道が始まっています。
「であいの道」とか「歴史とのであいミュージアムロード」とかいろんな名前が付いていますが、この道はかつて別府(べふ)鉄道土山線が走っていた廃線跡です。

訪問日:2022年3月27日

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遊歩道の脇を見ると線路を柱に「1984年 別府鉄道土山線廃線」と書かれています。
これがなかなか面白い趣向で、歩いていくと歴史を遡ってできごとが記されています。

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遊歩道=廃線跡は緩やかにカーブしながら住宅の間を抜けています。

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廃線跡(遊歩道)をたどっていくと、大中遺跡公園に着きました。
つまり時代を遡って古代に辿り着くわけです。
廃線跡は遺跡跡を突っ切ってまだまだ続きますが、私はここまで。

大中遺跡は昭和37年に播磨中学校の生徒3人が発見したと書かれています。
弥生時代後期を中心とした時代の集落の遺跡です。

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遺跡は集落跡を「跡」のまま見せている部分と、このように建物を復元している部分とがあります。
中に入れるものもあります。

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公園内には兵庫県立考古博物館もあるのですが、そちらは今回パスして、播磨町郷土資料館の方を見に行きました。

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入り口には阿閇(あえ)村道路元標が置いてありました。
当時の阿閇村役場横(本荘2丁目)にあったそうです。

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展示は私に興味深い内容がいろいろと。
こちらは江戸時代の初め、新井用水を開削した今里傳兵衛のコーナー。
逆サイホンの埋樋の模型もあります。

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こちらは江戸時代後期の廻船「栄力丸」の模型。
ユニークなのが漂流にポジティブに注目していることです。
栄力丸の漂流者の一人、ジョセフ・ヒコという人はアメリカ商船に救助され、サンフランシスコに渡ります。これが運命の転機となり、日本人として初めてアメリカの市民権を取得、通訳や貿易商として活躍しました。のちに日本で初めて海外新聞を発行し、高島炭鉱や大阪造幣局の設立にも関わったらしく、播磨町では郷土の偉人として大きく取り上げています。

播磨町HPの紹介ページ「新聞の父・ジョセフ・ヒコ」

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そしてもちろん別府鉄道の紹介コーナーも。
別府鉄道は加古川市別府町にある多木製肥所(現多木化学)が、製造した肥料製品などを官設鉄道まで輸送するために自前で建設した軽便鉄道です。大正10年に西へ向かう野口線が開通しました。続いて大正12年にこの東に向かう土山線が開通しました。
どちらかというと野口線が旅客中心、土山線が貨物中心だったそうです。

展示は結構詳しかったんですけど、ここではあまり深入りしません。

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館内の展示だけでなく、資料館の裏に回ると実際にディーゼル機関車(昭和28年製造)と客車(昭和5年頃製造)が里帰りして屋外展示されています。

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客車は中に入ることもでき、乗車気分が味わえます。

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ところで廃線跡の遊歩道を歩いていた時、大中遺跡公園の手前で気になるものがありました。
この古そうな工場です。

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帰りに表側に回ってみると古い小屋の前に「昭和フェルト株式会社」と書かれた看板が立っていました。
これが会社の名前のようです。

ネットで調べても断片的な情報しかないですが、『兵庫県工場名鑑1972年版』によれば、創業は昭和28年、業種は牛毛、粗毛フェルトの製造です。

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正面の門の前に来ました。木造の工場や蔵などが建ち並んでいます。
どうも操業はされていないようです。

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広場を囲むように様々な建物があります。

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<国土地理院HPより昭和22年米軍撮影空中写真(赤丸は筆者追加)>

なお、創業は昭和28年とのことですが、奥の2棟の大きな木造工場などは昭和22年の時点で既にあるようです。

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帰り道は廃線跡を外れて東の方を歩いたのですが、印象深い建物に出会いました。
要塞のような、というと適切ではないのでしょうか、コンクリートの存在感が強い建物です。
これは南から見たところです。

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土山共同センターという名前で、覗き込むと商店が並んでおり、1階が店舗、2・3階が住居の複合施設のようです。
不動産情報では昭和45(1970)年の建築という情報が出ていました。

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東側はまた違った表情を見せます。
住戸にはバルコニーの他、中庭も用意しているようです。
商店の関係者が上に住むことを想定していたのでしょうか。

この建物は有名物件らしく、ネット上でもいろいろと書かれているのが見つかりました。

この日は廃線跡、集落跡、工場跡と最後は廃にはなってませんが、期せずして廃をたどったようでした。歩いたのは播磨町北西のほんの一部ですので、別府鉄道跡の続きや新井用水などを歩いてみても面白いかもしれません。

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2024年3月17日 (日)

4月から改修の西宮中央運動公園(兵庫県西宮市)

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高知の旅の話の途中ではありますが、急いだ方がよい記事がありますので、先に取り上げます。
先日、近代の公園の探訪で西宮中央運動公園を訪ねました。
西宮運動中央公園(西宮市民運動場)は、昭和17年の開設です。

上の写真は公園東南側の歩道橋から撮ったもので、右に見えるグラウンドは野球場です。
左奥にスポーツセンターや体育館が見えます。

訪問日:2024年3月9日

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<国土地理院空中写真・米軍1948年撮影>

元々公園エリアの真ん中を江戸時代には西国街道が突っ切っていました。
街道は明治時代にはもう少し東寄りのルートに変わったようですが。
これを見ると現在の公園の範囲は(戦後の食糧難で?)ほとんど田畑になっているように見えます。
現在のテニスコートの場所には小さな建物が立ち並んでいます。
これが1949年になると現在の陸上競技場の原型となるトラックが確認できます。

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公園に行って初めて知ったのですが、4月から公園を通り抜けられなくなるという張り紙がありました。
期間はなんと5年間。

西宮市のHPに情報がありました。

西宮市HP「西宮中央運動公園再整備事業について」

リンク先を見ていただくとわかるのですが、第1期として陸上競技場・野球場・遊具広場が解体されます。
その後、新体育館・新武道館、新陸上競技場(これは現位置に)が建設され、完成後に第2期の現中央体育館・西宮スポーツセンター解体工事が始まります。野球場はなくなるようです。公園の様相が大幅に変わりますので、今のうちにお伝えしておく必要があると感じました。気になるものがありましたら、3月中に見に行ってください。

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現在の様子を紹介します。
まずは南側にある門。丸石を貼り付けた門柱が立っています。
両脇にも小ぶりな門柱が添えられています。

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右側の門柱を拡大しました。
いつ頃のものかは分かりません。少なくとも昭和40年代以前だろうなとは思います。

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南門から続く中央の通路には屋根のないアーケードのようなモニュメントがあります。
この通路は西国街道の代替ルートという趣きもあります。

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北門には片側の門柱だけ残っていました。
南門の脇の柱ぐらいのサイズです。

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北門の近くにコンクリートの手洗い場がありました。
木材で芯が作られています。
時期は分かりません。

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遊具エリアを見てみます。
円形の砂場と円弧状の藤棚がありました。

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藤棚の真ん中には寄り添う幼児の像。
尼崎市の公園でも似たような像を見ます。

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遊具で異彩を放っていたのはこの宇宙船のような滑り台です。
この近未来感は1960〜70年代の遊具でしょうか。

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土管型遊具の発展形もありました。

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砂場には擬木の遊具。

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遊具公園脇には別のデザインの水飲み場がありました。
なんとなく1960〜70年代を思わせる人研ぎの水飲み場です。

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こちらは陸上競技場です。

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西宮市立中央体育館(昭和40年(1965年))。
上から見ると八角形の屋根の形をしています。

令和9年からの第2期工事で解体されます。

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隣には西宮スポーツセンター(昭和45年(1970年))。
これも令和9年から第2期工事で解体予定です。

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大きめの木としてはこの松の木がありました。
外周にはサクラやキョウチクトウなどが植えられています。

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公園の北西にある壁打ちテニスコート。
壁打ちのテニスコートは残りますが、このままなのかは不明です。

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テニスコートのクラブハウス。
戦前とまではいかないかもしれませんが、そこそこ古いと思われる下見板張りの建物です。
色遣いにもレトロ感があります。

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屋根から大きな木製のひさしが伸びていて、その下が通路になっています。

テニスコートは工事の計画に入っていないようです。
個人的にはこのクラブハウスは残ってほしいなと思います。

最終的にどう変わるのか、確認できるのはまだ先のことになります。

<関連記事>
 「再整備前の南公園へ」(愛知県岡崎市)※同様に2024年4月から大規模改修

 近代公園のインデックス

 

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2020年8月 2日 (日)

須磨離宮公園(神戸市須磨区)

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昨年春、神戸の須磨離宮公園を訪ねました。
名前に「離宮」と入っているように、終戦まであった武庫離宮の跡地を公園化したものです。
その来歴や見どころなどについては公園自身の紹介などもありますのでここでは簡単に紹介します。

この時はJR須磨駅から坂を登りましたが、最寄り駅は山陽電鉄の須磨寺駅か月見山駅です。

この写真は歩道橋の上から。
正門の向こうに見える森が須磨離宮公園です。

訪問日は2019年4月28日。
間もなく令和を迎えようという時でした。

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正門の門柱。亀甲積み(六角形に切った石をぴったり積む積み方)の石垣とともに、離宮時代からあるものらしいです。

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須磨離宮公園の案内図。本園は元武庫離宮ですが、植物園は岡崎財閥の旧岡崎邸跡です。
この時は時間がなくて植物園までは回れませんでした。

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公園内の要所要所には、このように解説板が立っています。
離宮100年を記念して立てられたもののよう。

もともとこの場所は西本願寺月見山別邸があった場所です。
月見山別邸は明治35年から37年(36年?)にかけて造成・建設されましたが、神戸周辺で離宮適地を探していた皇室の目に止まり、明治40年に売却、代替地として紹介された岡本に建てられたのが有名な二楽荘という流れです。3、4年しか使われなかったんですね。

明治40年に隣接地とともに買収後、離宮の建築設計には片山東熊ら、庭園設計には福羽逸人らという錚々たる顔ぶれで建設が進められ、大正3年に完成しました。その後、大正天皇や満州国皇帝溥儀の宿泊などに利用されましたが、昭和20年の空襲で焼失しました。そのため、現在残っている遺構はほとんど福羽逸人が手がけた庭園関連です。

戦後神戸市に下賜されましたが、昭和21年から31年まで進駐軍に接収され、射撃演習場として使われていたそうです。
神戸市への返還後、当時の皇太子御成婚事業として整備が進められ、昭和42年に須磨離宮公園として開園しました。ですので、公園としてはそれほど古い公園ではありません。

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公園の正門を入ると直線的な馬車道が伸びています。
奥で右に折り返して中門広場まで続いています。
解説板によると、この道の縁石も左側のカイヅカイブキ並木も、鉄筋コンクリートの壁も、右側の石積も武庫離宮当時のものだそうです。

以下、主に解説板に従って説明していきます。

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このあたりの石は自然の露頭に見えますが、フランスの庭園にならって人工的に石を配置した装石(ロカイユ)というものらしいです。

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庭園の名残らしき石塔がありました。

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中門広場。この大きなクスノキは、離宮造営前からあったものだそうです。
写真に写っていませんが、オリーブ栽培を導入した福羽逸人にちなんで、オリーブの木なども植えられています。

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中国風の獅子が迎える中門。
中門は建物としては唯一焼け残ったものです。

この左手にはかつて玄関口の車寄せがありました。

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中門の奥は潮見台(当時は物見台)という広場になっています。
この石垣風の手すりは当時のもの。柱の石材は小豆島産花崗岩です。

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潮見台(物見台)は、海に向かって弧状にベンチが設えられています。
遠くに紀淡海峡・友ヶ島まで見えていました。

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ベンチも小豆島産花崗岩でできています。

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休憩所では「よみがえる武庫離宮展」という展示が行われていました。
離宮時代の写真などが展示されていて、展示品の一つはかつての武庫離宮の配置図です。この図で赤で記された施設等が現存しているとのこと(推定)。結構いろいろなものが残されています。この図は公園のHPでも見ることができます。

他に植栽略図などもありました。

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遺構である鞍馬産自然石の灯籠。

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月見台にある四阿「傘亭」。
屋根は戦災で焼失して柱だけになっていましたが、平成23年に復元されました。

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この柱、立木に似せた青銅製の擬木(松?)でなかなかリアルです。

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他の遺構として、天皇の階段という園路があります。
天皇陛下が歩みやすいように踏み石を互い違いに組んだという「噂」です。
園路はいくつも残っています。

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見逃せないのが煉瓦の隧道。
一説には有事の避難路とか。
今はこのトンネルを抜けると長い滑り台になっています。

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そして敷地の上の方にはかつて浄水場だった広場。
階段はかつての遺構だそうです。

さらに1km上流に「天王の池」という水源地があるそうです。

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かつて離宮の館が建っていた場所は、噴水のある洋風庭園になっています。
竜巻型の面白い剪定の植木がありました。

公園としては古いわけではありませんが、離宮時代の見どころは多いですし、変化に富んで良い公園だと思います。

<参考>
 ・須磨離宮公園公式HP「離宮公園の歴史」

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2020年5月26日 (火)

橘土地区画整理事業と立花駅(尼崎市)

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昨年夏から今年にかけて、以前から気になっていたJR立花駅(尼崎市)のあたりを探索しに行きました。
このあたりは昭和初期、橘土地区画整理事業によって開発された地域が、立花駅を中心に広がっています。

駅南側の広場には大きな楠(?)があり、その足元に記念碑が立っています。

訪問日:2019年8月31日、9月16日、2020年1月4日

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こちらの「土地區劃整理整理記念碑」と書かれた石碑です。

 

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 裏側には「事業の経過」として橘土地区画整理事業の経過が書かれていて、昭和15年に建てられたことが分かります。
 せっかくなので全文を記しておきます。

 


        事業之経過

昭和八年八月二十五日 立花駅設置請願採択
同  年十一月十五日 土地区画整理組合設立認可
同 九年七月一日   工事着手
同  年七月二十日  立花駅旅客取扱開始
昭和十年十月十日   工事完了
同十四年五月三日   土地区画整理換地処分認可
同  年七月二十四日 同 賃貸価格配賦済
同  年十月十一日  同 登記完了

本事業は省線立花駅の開設を主眼とし、駅の周囲部
十八万五千坪に亘り土地区画整理を施行せしものに
にして祖先伝来より耕耘し来りたる農耕の地を利用
方法を変じて宅地となす画期的事業なりしも、幸い
所期の目的を達成し得たり。茲に事業経過概要を録
して記念とす。

昭和十五年七月吉日 橘土地区画整理組合
             


 ※旧字体は可能な限り新字体に変更しました。
  送りがなはカタカナをひらがなに改めました。
  適宜、改行や句読点を追加しています。
  不正確かもしれませんので参考程度にご利用下さい。

ここに概略が書かれていますが、新駅を誘致して周辺を宅地化する開発方法を戦前に実施したということです。

Web版「図説 尼崎の歴史-近代編」の「新しい住宅地の形成」には、もう少し詳しい経緯とともに、図版などが紹介されています。

また、尼崎市立地域研究史料館の第37巻第1号(2007年)には、巻頭グラビアとして「立花駅の新設と橘土地区画整理事業」の記事があり、そこに開発当初の写真がたくさん出ています。

とくに橋の写っている写真に添えて「当時の住宅地販売パンフレット『橘案内』には「モダン小橋を架設して風致を添えた」と記されている。このとき架設されたものは現在も区画整理地区内に見ることができる。」とのキャプションがあり、実際、この橋は現地で見ることができます。

水路にかかる小橋は3タイプ確認できました。

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まず最初はこちら。道路側から見ると家形の凹みに穴が開いたデザインです。

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水路側から見ると凹みは五角形と三角の組み合わせになっていて、むしろこちらの方が正面のようです。

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2番目は分割されたアーチ型のデザインです。

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これも水路側から見ると、より凝ったデザインになっています。

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三つ目はシンプルに、四角い凹みに三角の開口部があるデザイン。
これが写真で紹介されていた小橋のデザインです。
なお、親柱のデザインは、全て同じデザインのようでした。

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ほとんどは1つの橋に1つのデザインですが、1ヶ所、水路が分岐している所で、L字に2つのデザインが併用されている所がありました(地域の北西)。

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<Web版「図説 尼崎の歴史-近代編」に引用されている『立花駅30年のあゆみ』の区画整理後の図版をもとに加工>

確認されたデザインを地図にプロットするとこんな風になります。
アーチになっているタイプ(赤丸)が最も多くて9ヶ所。五角形(青四角)が5ヶ所。三角(黄三角)が3ヶ所でした。
合計17ヶ所。

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それ以外に気になったものとして、水路脇の国旗掲揚台のようなものがあります。
地区の西南部にありました。

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地区内で見かける古い住宅では、平屋の二戸一長屋が多いように思いました。
例えばこれなど。

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これも同じく。

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これも。石張りの門柱の造りや板塀のデザインなど古いもののように思います。
それに郵便新聞受が右書きになっていました。

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こちらは小松公園南側の住宅。
平屋の一戸建てに見えますが、二戸一住宅です。
下見板張りですし、古そう。

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地区内で最も本格的な近代建築はこちら。
地区の南側にあります。元は医院ではないでしょうか。

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煉瓦塀の大きなお屋敷もあります。
住宅自体は建て替えられているようでした。

 

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駅南側にはスクラッチ風パターンのタイル貼り二階建て長屋もあります。中央に奥の住宅への門があって、大家さんでは?と思えました。

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地区南西の住宅。こちらも屋根など改修されていますが、古そうです。

 

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こちらも地区南西側の大きめの平屋一戸建て。

こんな風に、とくに地区の南側に古そうな住宅が多く思えました。

地区北側の放射状街路パターンや公園配置なども開発当初の形を引き継いでいる訳ですが、やはり小橋のデザインが最も開発時の雰囲気を感じられると思います。

 

<関連記事>
 目次「近代の郊外住宅地と別荘地、社宅」  

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2015年11月 9日 (月)

のせでんアートライン開催中

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先日、知人に誘われて、「のせでんアートライン妙見の森2015」というアートイベントに出かけてきました。(11/23まで開催中)
今回は2回目の開催で、私は前回は見ていません。
他の地域型アートイベントとどのように違うのか、そしてどんな建物に入れるのかが私の関心事です。

開催地域は非常に広く、北は妙見山頂から南は川西能勢口まで分散しています。能勢電鉄に乗って巡ってくださいという趣旨なのでしょう。能勢妙見・里山ぐるっとパスという、阪急・能勢電・ケーブル・リフトが乗り放題になる切符(1500円)が出ていて、これを利用しました。
ただ結論から言うと、一日で回るのは無理があります。

大阪に住んでいても、私は南の人間なので、能勢まで出かけたのは初めてです。
まずは妙見口駅から。

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歩いて行くと、オリジナルのかかしが並んでいます。
これはアーティストではなくて、学生が作っていたりするのですが、とにかく数が多くて楽しめます。

この向かいに大きな作品がありました。

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さらに歩いて行くと旧吉川中学校の建物。(今はオイスカ関西研修センター)
下見板張りの建物で、昭和20年代の雰囲気です。
ここの体育館に、作品「花子」があって、かなりのインパクトがあります。
ぜひ体験を。

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妙見口駅からケーブルの黒川駅までは、普通に歩いても15分はかかるハイキングコースです。
もっと簡単に乗り換えられるのかと思っていました。
途中、参詣の街道と、穏やかな里山の風景が眺められます。

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ケーブルの黒川駅。
まっすぐ見通せるのですが、随分急な角度です。

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黒川駅の隣には洋風建築の黒川公民館があります。
ここも会場で、プラネタ・ルームという展示が行われていました。

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黒川駅は改修されていますが、どうも古い建物のようです。
ケーブルは大正14年開業で、戦時中に廃止、昭和35年に再開されています。

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ケーブルカーは、途中で角度が急になるので、下ではかなり傾いています。

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ケーブルで山上に上がって、きつい坂道を上り、さらにリフトに乗り換えます。
この季節、コスモス畑の上を走る楽しいリフトです。
片道12分ののんびりした移動。区間によってあじさいの続く所もありましたし、季節によっていろんな花が楽しめるようにしているのでしょうね。

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リフトを降りてからさらに数百メートル登りがあって、妙見山頂に到着します。
ここに100年前の茶室を改造した展示がありました。
この中に入っての、体験型の作品です。
一番のお勧め。

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さらに元旅館での展示もあります。
ここも楽しい展示です。

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妙見山はさすがに妙見信仰で賑わった歴史があり、趣きある建物が残っています。
今は裏手になってしまったこの建物、とても味があります。

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妙見山は十字の紋で溢れています。妙見山は日蓮宗のお寺ですが、江戸時代、能勢氏の庇護を受けており、この紋は能勢氏の家紋と共通だとのこと。キリシタンとの関係が噂されたり、妙見の星辰信仰の北極星を示しているようでもあり、興味深いところです。洋風の要素もあったのが面白いところでした。

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山を下りて、黒川駅から谷を進みます。(これは別の日)
秋が深まって、紅葉しています。

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このクヌギの木、台場クヌギというそうです。
炭を焼くのに、木を地上1〜2mのところで刈って、そこから伸びてくる枝を利用したそうです。
なのでこんな不思議な形になります。

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黒川駅から15〜20分ほど歩くと、黒川公民館に着きます。
休校中の黒川小学校の建物です。この北校舎は明治37年に建てられました。
こういうのが残っているんですね。
ここには4つの作品が展示されています。

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窓から眺める風景は、里山の観察小屋みたいです。

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これも別の日なのですが、山下会場にも行きました。
山下駅から徒歩15分ぐらいです。
ここの多田銀銅山の精錬所を中心とした鉱山町だったんですね。
坂を登った一番奥に、精錬所の跡を利用した川西市郷土館があります。
この建物は、大正7〜8年頃に建てられた旧平安家住宅で、主屋に離れ、蔵が並び、見応えのある近代和風住宅でした。別途記事にしたいと思います。

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また、敷地内には、川西市の小戸から移築された、これも大正7年の旧平賀家住宅洋館があります。
平賀氏は化学者だったので、裏にちらっと見えているのが研究棟で、他に四阿、門、小さな橋が移築されています。

前に鶴之荘住宅地について書いたことがありますが、そこで小戸3丁目にあった洋館の隣に、この建物はあったようです。図面を見ると、移築されていませんが、この洋館以上に大きな和館も併置されていたようです。

イギリス風の美しい洋館なので、映画『繕い裁つ人』、ドラマ『マッサン』のロケ地にもなったそうです。
内部も見事です。

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さらには精錬所跡の遺構も残されていて、美術館やアトリエもありという、かなり盛りだくさんな施設です。
前から行きたいとは思っていたのですが、いい機会になりました。

今回はお誘いする意味でダイジェストでお伝えしました。
ネタバレになりますので、ほとんど作品内容には触れていません。

最初に書きましたが広域に散らばっているので、絞って回らないと仕方ありません。参考になるかどうか私から独断でぜひ見ていただきたい作品を書いておきます。

1.妙見山頂・旧茶室 梅田哲也さん「なくならない室」
 ・静かで美しい体験
2.妙見山・旧よろづや旅館 松村泰三さん「虹をつくる」
 ・楽しい体験型。旅館も見物。
3.妙見の森リフト 淀川テクニック「リフトに乗ってる能勢頼次」
 ・作品がリフトに乗って回っています。見逃さないように。
4.関西オイスカ研修センター Yottaさん「花子」
 ・インパクトとしては最大。夢に見るかも。
5吉川自治会館向かいの空き地 勝木繁昌さん「夢のせて能勢電鉄プロジェクト-未来・心・風景」
 ・楽しいです。鉄好きな人にも。
6.妙見口駅〜黒川駅沿いの田んぼ 地域協働プロジェクト「SATOYAMA”かかし”つながり」
 ・かなりの数の個性的なかかしたち
7.ときわ台駅前空き店舗 ±±±(さささ)さん「記憶/鼓動/蘇生」
 ・鉄好きな人へ。能勢電のお宝があります。映像もマニアック。

なお、日生中央、川西能勢口の会場には行けなかったので、分かりません。

楽しまれますように。

<関連サイト>
 のせでんアートライン妙見の森2015公式HP
 ※公式アプリもあります

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2015年3月12日 (木)

園田住宅地(兵庫県尼崎市)

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※クリックすると拡大します。

尼崎の園田住宅地の紹介です(昨年6月訪問)。
前回も書きましたが、昭和11年に園田駅開設とともに開発された住宅地です。
面積は70892坪。180戸。

住宅地の象徴のような水路沿いに古い住宅がありました。
六ノ橋の隣です。

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煙突はシンプルな角形ですが、王冠のようなデザインが入っています。

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後ろから。窓が無くて、蔵みたいですね。

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住宅地は猪名川から分かれた藻川の側にあります。
高い堤防の上から住宅地を眺めることができます。
それだけ土地が低いということ。

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住宅地内の公園。当初からあります。
区画の角がアールになっているのに注目。

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住宅地の東南部ですが、アールの石垣がきれいです。

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こちらにもアールの石垣。

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アールの凸型ブロック塀。
角を丸めるのが流行りだした頃なんでしょうか。

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住宅地の中でも特徴的な場所として、街路樹のある斜行道路があります。

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その側に平屋の住宅。
懐かしい路地があります。

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別の方向から。
市営住宅っぽいなと思ったのですが、そういう表示はありません。

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またこれも古いかも?という住宅。
いかにも古いデザインではないですが、古そうな匂いがします。

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とくに門柱と扉が素敵です。

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和風の住宅もあります。

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こちらにも和風住宅。

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最後に駅前にあるアールのきれいな美容室。
写真なのにパースみたい。
古い建物がごろごろしているわけではないですが、こんな建物が所々にあります。

<関連記事>
 「目次:近代の郊外住宅地と別荘地、社宅」
 「園田住宅地の十二橋」

<関連サイト>
 「図説 尼崎の歴史−近代編」

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2015年3月 1日 (日)

園田住宅地の十二橋(兵庫県尼崎市)

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昨年6月のことなのですが、阪急神戸線の園田駅周辺にある園田住宅地を歩きました。
昭和11年の園田駅開設に併せて阪急が地元とともに開発した住宅地です。
阪急は低湿な土地を買収して土盛りをし、水路を整備する工事を行ったそうです。

そういうことは後から知ったのですが、歩いていると水路があり、面白い橋がありました。筆文字で「十ノ橋」と書かれています。水路は南北に流れていて、橋は東西の道に架かっています。西にハの字に開き、親柱の上には何かの残骸があります。

(参考)「図説 尼崎の歴史-近代編」

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興味をひかれて水路沿いに歩いてみました。
すると「十一ノ橋」がありました。

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面白いと思ってさらに進むと「十二ノ橋」があります。
片側しか残っていなくて、この先、水路は暗渠になっています。
この先は阪急にぶつかりますので、ここまでで終わりでしょうか。
せっかくなので、逆方向にどこまで橋が残っているのか、たどってみることにしました。

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「九ノ橋」があります。

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ややっ? 植木鉢のようなものが親柱の上に乗っています。
どうもこれが残骸の元の形のようです。
もしかして花でも植えられていたのでしょうか?
橋のデザインとしてはユニークです。

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「八ノ橋」

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こちらは実際に鉢植えになっていました。
たぶん、この家の人がやっているのでしょうね。

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たどっていくと小さな水門があります。
東西の水路と分かれています。

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「七ノ橋」。ここまで全く同じ橋です。

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「六ノ橋」の手前に堰があります。

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よく見ると穴太区用水と書かれています。
区は旧字体です。
元は穴太という地区だったんですね。

ちなみに「六ノ橋」は東西の幅広い道路に架かっていて、住宅地内でも計画上のポイントになる場所のようです。奥に近代建築っぽい住宅が建っていましたが、それは次回にでも。

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さらに進みます。
「五ノ橋」があります。

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「四ノ橋」。これぐらいハの字に開いています。

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「三ノ橋」には以前の橋名表示が残っていました。
これも筆文字ですが、太めの字体です。
ここもきれいに鉢が残っています。

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「二ノ橋」

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そして「一ノ橋」
ということで全部揃っていました。
ここで水路が折れていて、「一ノ橋」だけが南北の道に架かっています。
また、上に乗っているオブジェ?も丸いようなのですが、これは復元の仕方でそうなっているのか、元々そうだったのかどうなんでしょう。カーブが鉢のカーブではないような気するので、これで良いのかも。

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これで終わりかと思いきや、その先にも同じような橋がありました。名前はありません。
ここで水路がまた南北に折れ曲がります。

ちなみにこちらが上流側で、上流から順に一から十二までの橋が架かっていることになります。
開発時に水路の整備が鍵だったので、修景の際、特に意識されたのかもしれませんね。面白いです。

>地元の自然と文化の森協会のHPに、この住宅地と水路、橋のことが紹介されていました。
 やはり橋は開発当初からのもので、植木鉢らしきものは花生けだとか。
 自然と文化の森協会HP「園田の昔」

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さて、水路の東側の家は水路越しに出入りするため、この十二橋以外にも水路にはたくさんの橋が架かっていました。面白いものを紹介します。
まずこれはトマソン化した橋。
奥の駐車場に建っていた家に出入りするための橋だったのでしょう。

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瓦屋根が乗って竹垣がある和風の橋。

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丸太が架かっているのもありました。
どう使っていたのでしょう。

弱点の水を逆に積極的に活かす、面白い住宅地計画だと思います。
次回は建物を紹介します。

<関連記事>
 「目次:近代の郊外住宅地と別荘地、社宅」
 「園田住宅地」

<関連サイト>
 「図説 尼崎の歴史−近代編」

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2015年2月18日 (水)

高砂の近代建築など

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高砂編、最後は高砂市中心部の近代建築などです。
山陽電車の高砂駅の東に三菱製紙(株)高砂工場があります。
工場は明治34年操業開始で、明治・大正期の煉瓦建築がたくさん残っているらしいのですが、表からうかがえるのはごく一部です。
この建物は正門の奥に見える建物。

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西側の塀越しに確認できる建物。

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本町の通りを歩いて行きます。
看板建築っぽいお店。
「カフェ デラコンチャ」
廃業しています。

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レトロ感溢れる銀座商店街のゲート。
マツバ煉炭のネオン広告が効いています。

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この銀座商店街には、江戸時代の染物屋を改修した多目的スペース「高砂や」があります。

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さらに先へ。
元理髪店っぽい看板建築。

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高砂商工会議所は、旧高砂銀行本店(昭和7年)。
いかにも銀行という建物ですね。

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4連の蔵。
高砂は江戸時代、加古川の舟運を利用した物資の集散地として栄えたそうで、その名残を感じさせる風景です。

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こちらは高砂道場。

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蔵が建ち並ぶ今津町。
空き家が多そうです。

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これも今津町にある板張りの蔵です。

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高砂神社の裏手に、立派な煉瓦倉庫があります。
旧横田工業倉庫で、豊田工業という工場が入っています。

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煉瓦積みの美しい倉庫です。

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再び本町の通りへ。
高砂市消防署高砂分署。
昭和10年に建てられた旧高砂町消防会館です。
ミニチュアの建物がくっついているみたいです。

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三菱製紙(株)高砂工場の魚町倶楽部。
明治37年、外国人技師のために建てられた下見板張りの洋館で、元々は最初に紹介した工場内にあったのが、明治38年に現在地に移築されています。

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鐘紡社宅の近くにある住宅。
門から家まで非常に長いアプローチです。どうしてこうなったんでしょうね。

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片岡医院。
古そうな建物です。

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鍛治屋町にある立派な洋館付き住宅。
三星化学合資会社の事務所が入っています。
昭和5年頃の建物との情報があります。

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歩き回って駅に向かう途中、梅ヶ枝湯という銭湯がありました。
入口の木製桟などに年季を感じさせる建物なので入ってみましたが、中も期待に違わぬレトロぶりでした。
建物の古さに反して、中は部活帰りの中学生たちでいっぱいで、これならしばらく安泰かも。

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裏に回ると薪で風呂を沸かしている様子が見られて面白い。
建物もモルタル、煉瓦、下見板張りのパッチワークでユニークです。
すっかり満足して高砂を後にしました。

高砂編、ようやく完了です。

<関連サイト>
 MANAZOUの近代建築・看板建築レトロ探訪
 「兵庫県高砂市探訪その1」
 「兵庫県高砂市探訪その2」
 まちかど逍遙「梅ヶ枝湯」
       「高砂の双璧」
       「憂鬱なGW、高砂を歩く」

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2015年2月 8日 (日)

旧鐘紡社宅と迎賓館(高砂市)

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高砂市の木造市営住宅を巡った後、高砂の街に戦前の旧鐘淵紡績社宅が残っているとのことで見に行ってきました。旧市街からやや西に外れるので、ここを目的にしないとたどりつかないと思います。
赤い屋根の戸建て住宅が整然と並んでいるので、一目瞭然です。

鐘淵紡績の高砂工場の創業は明治41年。
社宅が建設されたのは昭和11年で、終戦直後にあった一戸建て社宅12棟のうち11棟が残っています。壁面がサイディングになったり、サッシを変えたりしているので、そんなに古そうには見えません。
恐らく幹部向けの住宅で、その周囲には長屋の一般社員向けの社宅が連なっていましたが、そちらはなくなっています。

1947年の米軍撮影写真(国土地理院)

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グラウンドをはさんで、南側には大きめの社宅。

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北側には小さめの社宅が並んでいます。
役職の違いでしょうか。

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こちらは小さい方の社宅です。
といっても十分大きいですが。

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未舗装の道路をはさんで板塀が続き、庭の松が枝を伸ばしていて、風情があります。

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大きめの社宅の間にも未舗装の道路。

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ちょっと横長なのが分かりますでしょう?
今は関連会社のカネカ社宅になっています。

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敷地の南側、工場との間には、同じ昭和11年に迎賓施設として建てられた出汐館が残っています。
階段室にアールの入ったモダンなデザインです。
今はカネカのクラブになっています。

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周囲を囲む柵も、柱がアーチになっています。

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出汐館の裏側から。
出窓が傾けてあるのがおしゃれな感じです。

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出汐館に連なる長屋は、戦後すぐの空中写真には写っていないので、戦後のものかも。

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西側に工場の浄水施設があって、この建物もそこそこ古そうです。

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大きな道路をはさんで現在はカネカの工場と社宅。
電信柱がミニ鉄塔です。

このように工場、社宅、迎賓施設が一体となって残っているのは貴重だと思います。

<関連記事>
 インデックス「近代の郊外住宅地と別荘地、社宅」
 「新居浜の山田社宅」(2009年10月)
 「加古川のニッケ社宅街」(2012年2月)

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2015年2月 4日 (水)

荒井の宝めぐり(高砂市)

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高砂市営住宅を2つ回った後、とくに目当てはないのですが、旧集落の荒井を見に行ってみました。
荒井は法華山谷川の左岸三角州に位置する集落です。農業のほか塩田の塩業が盛んだったそうですが、江戸時代後期には廃れ、代わって棉作が盛んになりました。港町でもあります。近代に入ると塩田跡には野田醤油(キッコーマン)などが進出して海岸部は工場地帯になりました。

旧道の入口にあるアーケード。こういう一店だけでやっているアーケード、時々見ますね。

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まちなかに「ふるさと宝の地図」というものが掲示されていて、探訪のヒントになります。以下、かなり参考にさせていただきました。

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寛政12年の道標。読めない。

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元茅葺きらしき家。

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その隣に荒井村道路元標がありました。
このあたりが村の中心ということか。

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銅の雨樋です。
屋根にぴったり沿わせて曲げているところが見どころ。

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波を思わせるブロック塀。
2種類のブロックを使っているだけですが、センスを感じます。

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荒井神社の門。

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洋風の住宅もありました。
玄関回りも良い感じでした。

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高砂でよく見かけるカラス?鷹?の瓦。
羽根の一枚ずつまで表現して芸が細かい。

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若干ポーズが違う。
身体を翻しています。

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反対側にももう一羽。
素晴らしい瓦です。

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最後に石臼を再利用した塀。
こういう再利用はたまに見ますね。
これでもかとばかりに使っています。

旧集落は宝がいっぱいあって、興味が尽きません。

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