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2025年4月

2025年4月19日 (土)

石の町・牟礼(香川県高松市)

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屋島の上から見た眺め。高松を訪ねた話の続きです。
正面にたくさんの採石場が見えていますが、このあたりが最高級の花崗岩として知られる「庵治石(あじいし)」の石切場です。
写真中央付近の女体山を中心に、最盛期には約70ヶ所の丁場(石切場)があったそうです。
写真の左側(北側)が旧庵治町、右側が旧牟礼(むれ)町の町域で、丁場は両町にまたがっています。
高松市石の民俗資料館の解説を参照)
私は庵治石という名前から庵治町が産地と思っていたのですが、牟礼町にも多くの加工場があり、石の町といえると思います。

訪問日:2022年9月10日

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前回の牟礼の塩田の話から続きます。
塩田跡を歩いていくと道路脇に花崗岩が野積みになっているのが見られます。

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大きな石材がごろごろと積まれています。

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そういった素材だけでなく、街角アートとして、石の彫刻作品もあちこちに置かれていました。
そんなにかしこまった芸術作品ではなくて、このようにテレビなど身近なものも彫刻されています。
チャンネルがガチャガチャタイプで年季が入っています。

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こちらは宇高連絡船の作品です。
宇高連絡船は1991年に廃止されました。

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視覚的にも石の町を感じながら歩いて行った先にあるのは、今回の目的地、「イサム・ノグチ庭園美術館」です。

予約制で、私も事前に予約して訪問しました。火・木・土の1日3回、夏は1日2回、ガイドの案内で1時間、石積みの塀に囲まれたアトリエのエリアと、住宅および庭園のエリアを見学できます。写真撮影は禁止で、内部はもちろん、道路からの撮影も禁止されています(外から作品等が見えるからでしょうか)。なので詳しくはホームページをご覧ください。

彫刻家のイサム・ノグチは、1969年からここ牟礼にアトリエと住居を構え、NYの拠点と往復しながら制作を続けていました。

アトリエの方は、半円の形に積まれた石垣の内側に屋根のある建物や蔵があり、その内外に彫刻作品が多数展示されています。

自邸は丸亀市にあった江戸時代末期の古民家を移築したもので、掘りごたつのように床を掘り込んだり、和紙の照明を付けたり、大胆な改修が施されています。それを外から眺められるようになっています。庭園はそこから斜面に広がっていて、周辺の石切場や屋島を借景として望むことができます。

全体が石の町に溶け込んだ場になっています。

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見学後はまた牟礼の町を散策しました。
石屋さんも見かけます。石の民俗資料館によると庵治石の加工品は、灯籠が15%、墓石が85%だそうです。

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水路を覗き込むと四角く掘り込んだ部分がありました。
何か作業の都合上作られているのだと思いますが、何かはわかりません。

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こちらも別の石材店。灯籠が並んでいます。

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石を切る丸鋸の歯を溝蓋に再利用しているのは、石の町でよく見かける光景です。

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もう少し高いところに登っていきます。
煉瓦の煙突に気づいて近寄ってみると、「源氏正宗醸造元」の文字があり、造り酒屋の煙突でした。
現在は、「うどん本陣 山田家」といううどん屋になっています。
昼にうどんを食べたのでこの時はパスしました。

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さらに坂道を上がり、「高松市石の民俗資料館」を訪ねました。

ここからは屋島がよく見えます。

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石に特化した民俗資料館ですので、庵治石に関して詳しく知ることができます。
館内には庵治石の丁場での作業の様子が再現されたジオラマがありました。

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掘るための道具のいろいろ。

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石を運ぶための道具のいろいろ。

この他、磨くための道具、彫刻するための道具なども展示されていました。

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庵治石以外に、一部、豊島で採れる豊島石の加工品も展示されています。
こちらは凝灰岩で、火や熱に強い特性を生かして、カンテキ、クド、石風呂などに利用されていました。

資料館の中にはミュージアムショップがあり、庵治石の小さなサンプルを買って帰りました。

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石の民俗資料館の外にあった石柱。
どこかから移設されたのでしょうか。

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ついでに近くの八栗ケーブルの登山口駅にも立ち寄ってみました。
屋島と違って、今も現役の路線です。

八栗寺に参拝するために昭和5年頃にできた路線で、戦時中に金属供出のため休止しますが、戦後の昭和39年12月に復活しました。

(参考:四国ケーブルHPの八栗ケーブル概要

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車両は復活当時のレトロな車両がまだ使われています。
乗ろうか迷いましたが、これから庵治にも行きたかったのでパスしました。

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再び下に降りて見かけた「源平合戦総門跡」の石碑。
九州の太宰府を追われた安徳天皇は、寿永2年(1183年)9月に屋島に迎えられました。正式な内裏が完成するまでの行宮所とされた六万寺に設けられた防御のための門が総門だそうです。今はすっかり内陸化しています。

翌年、一ノ谷の戦いがあって平家の軍勢が屋島に本拠を移し、寿永4年(1185年)2月の屋島の戦いで敗れるまで屋島に拠点を置いていたとのことです。1年半ぐらいですね。壇ノ浦の戦いで平家が敗れるのは同年3月なので直後のことです。
周辺には屋島の戦い関連の史跡が点在しています。

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昔の絵葉書でこういうものありました。
右側に総門跡の碑が立っています。周囲は今よりのどかに見えます。

戦前は屋島の史跡ももっと観光地として知られていたようで、絵葉書などもたくさん出回っています。

最後はちょっと話がそれましたが、牟礼は石の町としても魅力があるところだと思います。

<関連記事>
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 「眺めて楽しむ屋島神社」
 「野外博物館・四国村」
 「牟礼の塩田跡」

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2025年4月11日 (金)

牟礼の塩田跡(香川県高松市)

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<屋島から見た牟礼の塩田跡>

 四国村を見学した後は、相引川に沿って屋島の東側にある牟礼(むれ)に向かいました。
 フェリーターミナルから屋島までの間も塩田跡でしたが、こちらも塩田跡です。

 上の写真は屋島の山上から見た眺めです。
 この埋立地はほぼ塩田跡です。

 訪問日:2022年9月10日

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<地理院地図をベースに兒玉洋一氏「高松地区塩田の史的研究」より塩田の位置を落としたもの。数字は築造年代>

 塩田の位置を地図に落とすとこうなります。屋島の東側・西側両方に江戸時代以来の塩田がありました。本来屋島はもっと島らしかったことが分かります。その間をつなぐのが相引川で、両端に河口がある珍しい川です。川というより海峡のようです。

 

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相引川に沿って歩いて行きました。
ちょっと珍しい木造の橋。通行止めになっていました。

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両端が海なので、潮位の変化が川の流れに影響します。
水位調整のための可動堰が設けられていました。

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細かく補修しながら使い続けられている橋。

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相引川は屋島の東から北へと流れを変えます。
この右側は塩田の跡です。

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牟礼の町に入っていくと、気になる建物がありました。
住宅になっていますが、元は住宅ではなさそうな古い建物です。

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右の神社は塩釜神社。塩田らしい風景です。

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そしてそこにあるのは源平合戦史跡の駒立石。
屋島の戦いで源氏方の那須与一が、漕ぎ寄せた平家方の船の扇を射落としたという有名な逸話で、この岩を足場に矢を射たという史跡です。

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<1947年米軍撮影空中写真より>

ここで古い空中写真を確認してみます。赤く印をつけたところです。
最初の地図でいうと明治の初めに築造された久通浜の入り口に当たります。

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<1947年米軍撮影空中写真より赤丸が上記の建物と思われる>

もう少し拡大するとこのようになっています。
現在と位置や屋根の形が変わらず、この建物は塩田時代から建っていた建物ではないかと思われます。

また昭和13年に設立された牟礼塩業組合事務所の住所がまさにこの場所で、組合事務所であった時期があるのかもしれません。
(『牟礼町史』p426)昭和36年に塩田施設は撤去されたようです。

ここに限らず四国の海岸では塩田でできた土地の形が、土地利用を転換して残っていることがよくあるように思います。

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2025年4月 6日 (日)

四国村の灯台エリア(香川県高松市)

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長らく更新が止まっていましたが、高松への旅行、「野外博物館・四国村」の続きです。
前回、四国村(ミウゼアム)全体について紹介しましたが、今回はその敷地の中でも一番高いところにある灯台エリアについての紹介です。

このエリアには明治時代の3ヶ所の灯台の退息所(灯台守の宿舎)と1基の灯台が移築されています。

訪問日:2022年9月10日

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こんな風に時代も場所も違う宿舎が一列に並んでいます。

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古い方から順に紹介しようと思います。
こちらは江埼灯台退息所(明治4年)です。四国ではなくて、淡路島北端にあった灯台です。
日本の灯台の父・英国人技師のブラントンによるもので、外国人の灯台守が入ることを想定して内部も洋風です。

石造ですが、阪神淡路大震災の震源に近く、倒壊してしまったものを移築したそうです。

公式の解説と内部写真

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暖炉のある部屋。壁も天井も白く塗られています。

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廊下も全く洋風です。

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もう少し時代が下って、鍋島灯台退息所(明治6年)。
鍋島は坂出沖の島です。

こちらもブラントンの設計。屋根は和風です。
すぐ隣の与島の花崗岩が使われているそうです。

公式の解説と内部写真

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壁が白く、洋風の家具や暖炉がありますが、天井は竿縁天井で、和洋折衷になっています。

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玄関前のベランダ。
円柱が並んで軒下の空間を作っています。
風通しのよさそうな天井。

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建物横に石造の貯水槽もあります。
小さな島なので水が得にくいのでしょう。

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続いては大久野島灯台(明治26年)です。
花崗岩石造の灯台です。

公式の解説と内部写真

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初点(灯)・明治27年5月のプレートが掲示されています。

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内部は狭くて、灯火部分に上がるひねりの効いた螺旋階段がありました。

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<2022年10月8日>

ちなみにたまたま翌月に大久野島を訪ねる機会があり、二代目の大久野島灯台を見に行きました。
ここに建っていた訳です。
古そうに見えますが、1992年の建築です。

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最後に松山沖にあったクダコ島灯台退息所(明治36年)です。
前2つの退息所に比べて無機的な感じがします。
構造は煉瓦造のモルタル仕上げ。屋根は日本風です。

この頃には吏員が日本人になっていたので、建物も日本化が進んでいるようです。

公式の解説と内部写真

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玄関はとてもシンプル。
玄関前に池があるのは元々そうなんでしょうか。

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玄関を入ると土間になっていて、沓脱石があります。
かなり和風です。

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土間の天井を見ると風通しのよさそうな天井。
照明器具かなにかが付いていました。

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建物の脇には付属屋があります。

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こちらには煉瓦を積んだ五右衛門風呂がありました。

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前にはクダコ島灯台の日時計も移設されていました。

時代の違う灯台の退息所の違いが見比べられるのが面白いところです。
見晴らしの良い高台に灯台施設を配置するというのもふさわしい配置だと思います。

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