元代用公園の耳塚児童公園(京都市東山区)
元代用公園の松原橋児童公園の後、同じく元代用公園の耳塚児童公園を訪ねました。
東には豊臣秀吉を祀る豊国神社があり、西側に耳塚(鼻塚)といって秀吉の朝鮮出兵の際に、戦功の証として首級の代わりに持ち帰った耳や鼻を埋め、供養するために作られた塚があります。秀吉関連の歴史エリアですが、この公園自体は耳塚の隣にあるというだけで、とくに関係はなさそうです。
12月のことなので5時の時点で既に薄暗くなっていました。
写真が見にくくてすみません。東側の門からです。
松原橋児童公園ほどではないですが、小さな公園です。
代用公園というのは、土地取得予算の制約などがあり、京都の街中で皇太子御誕生記念公園に続く児童公園の整備が進まない中、正式な公園の代用として寺院境内や道路の残余地などに遊具などを置いて公園化したものです。(参考:土井勉氏「京都市の公園形成史ー第二次大戦前までー」)
代用公園としては早く、昭和12年度に試みとして整備された2つの代用公園(もう一つは西本願寺前児童公園)の一つです。
この2つの公園の評価が高かったため、翌年から代用公園が追加で指定されていくことになります。
訪問日:2021年12月25日
公園のほぼ全景。
公園の西側境界。低い柵で囲まれています。
ここから見るといかにも道路の残余地という感じがします。右に耳塚があります。
2つの記念碑が気になりますので確認してみます。
右の記念碑は「明治天皇御小休所下京第廿七区小学校趾」「明治五年五月三十日御小休」と書かれていて、明治5年に明治天皇が小学校で小休止されたことを記念しています。この時は西国巡幸の途上で、明治2年に京都を離れて以来、3年ぶりとなる京都訪問で、地元の思いは強かったようです。
裏には「昭和十六年五月三十日 京都府 建之」と書かれています。
小休止から69年後の同日です。
もう一つの石碑は上記の記念碑と同時期に建てられたもので、建碑の経緯が記されています。
まず明治天皇の足跡が書かれています。西国巡幸の途上、大阪の行在所をたって川船「紅梅丸」で淀川を遡り、伏見に上陸して乗馬で伏見街道を北上し、京都御所に向かう途中、藤森と大仏前で小休止をしたそうです。その大仏前の小休止場所が耳塚の北側にあった下京第廿七区小学校です。70年ほどが経過し、人々が集まって感激した当時の記憶が薄れることを恐れ、この碑を建てたと書かれています。
裏には「昭和十六年六月 貞教学区民建之」と書かれています。
柵はシンプルな四角いコンクリートの柱を鉄棒でつないでいます。
敷地の片隅に鬼瓦が置かれていました。
学校の屋根瓦でしょうか。
藤棚は四角い床の対角上にはみ出すように四角い藤の花壇が付くという、京都の古い公園でよく見る設計です。
碁盤のようなテーブルとベンチの組み合わせは京都でよく見かけるもの。
人研ぎの滑り台もありました。
これは古くないと思いますが、ユーモラスなカバの遊具。
代用公園だったことを特に意識する必要もないのですが、今では通常の公園となっています。
<関連記事>
⚪︎他の代用公園
「上柏野児童公園」(京都市北区)
「睦児童公園」(京都市上京区)
「松原橋公園」(京都市東山区)
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