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2024年6月

2024年6月24日 (月)

眺めて楽しむ屋島神社(香川県高松市)

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屋島ケーブルの屋島登山口駅跡に続き、その東隣にある屋島神社に立ち寄りました。

この神社、視覚を重視しているように見えます。
まず御神体ではないのですが、背後には崖が特徴的な冠ヶ嶽が聳えています。

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逆に参道を振り返るとまっすぐ遠くの山並みまで線が引けそうです。

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屋島神社の解説によれば、別名は讃岐東照宮。
徳川家康公が祀られています。元からここにあったわけではなく、最初は宮脇村の本門寿院境内といいますから、城下南西の山裾にあったようです。遥か東の屋島山麓に移されたのは、江戸時代も後期の文化元年(1802年)。完成したのは10年以上たった文化12年(1815年)です。
屋島神社という名前になったのは明治になってからで、東照宮の名前が憚られたのかもしれません。
残念ながら昭和48年に火災で本殿・拝殿などを焼失しましたが、神門は無事だったそうです。

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その神門がこちらです。
歳月を感じさせる渋い板の上に銅が目立っています。

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左甚五郎の六世、五代目の左利平忠能が客分棟梁と書かれているように、彫刻に力が入っています。
正面上部の鳳凰の彫刻。

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保護ネットで見づらいですが、上り龍。

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こちらは下り龍です。

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獅子も睨みを利かせています。
さっきの龍もそうですが、銅の目はちょっと恐いですね。

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扉には頭が欠損したニワトリ。

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この扉、細かい麻の葉模様がびっしり彫刻されていて、これは魔除けなんでしょうか。
恐いぐらいの密度です。

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正面の扉には葵の御紋があり、こちらの板には網目のような毘沙門亀甲の模様が刻まれています。
将軍のイメージなのかも。

大きく見ても、細かく見ても見どころのある神社でした。

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ここからは蛇足のような余談で、気になったものを。
屋島神社の西側(四国村の反対側)に四国村の石碑が置かれていました。
なぜこんなところにあるのか気になります。
ケーブルカーを降りた人を四国村に誘導する看板だったのでしょうか。

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また屋島山上水族館の色褪せた看板もありました。
これもケーブル利用客向けなのでしょうね。

<関連記事>
 「ジャンボフェリーで屋島へ」
 「屋島に登る」
 「屋島ケーブル跡」

 

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屋島ケーブル跡(香川県高松市)

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2022年9月の屋島への旅行の続きです。
屋島山上の南の端にある屋島ケーブル屋島山上駅跡を訪ねました。
ここはこの時の旅行で一番見たかった場所です。

屋島山上駅跡も無人、駅前の土産物屋や食堂も無人です。「観光地の駅前」がセットで残っていて、昔の様子が想像できるだけに、全てが時間を止めていることに何ともいえない気持ちになります。

訪問日:2022年9月10日

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旧屋島ケーブル屋島山上駅は、屋島登山鉄道のケーブルカーの駅として、昭和4(1929)年に建てられたものです。
長らく山上へのアクセスとして利用されてきましたが、ケーブルカーは2004年に運行を休止しました。(all YASHIMA「旧屋島ケーブル山上駅」

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建物には積層したようなデザインが多用されています。

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こちらは西側。右奥に乗り場があります。
大きく丸く張り出した庇が印象的です。

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ケーブルが動いていた時代の屋島山上案内図もありました。
ホテル甚五郎も描かれています。施設名や観光地名はプレートで貼り付けるようになっています。

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ケーブルの乗り場付近。ロープが張られているので、これ以上は入れません。
レールの上は緑に覆われているようです。

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向かって左側にある古い便所の跡。
屋島山上駅の看板が転がっています。

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駅前は左手に「軽食と喫茶 旅の憩」というお店の跡がありました。
手荷物預所の文字もあります。

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右手には土産物店の跡です。
コニカのフィルムや、「屋島」と書かれた提灯、一休さんの陶人形、石カエル、屋島下駄、瀬戸大橋土鈴、阿波踊り竹人形、万年カレンダーなど昔の土産物がそのまま残されています。

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<戦前の絵葉書・営業時代の屋島ケーブル>

「探勝の第一歩・・
 八百米の「ケーブルカー」は青松を縦断して一筋に屋島台上の急ぐ
 いざや訪ねん源平興亡の跡。国立公園 瀬戸の美を。談古嶺に」

と書かれています。観光の目玉は「源平」と「瀬戸内海」だったのですね。

私はそのまま降りていく訳にいかず、帰りもまた遍路道を下って、途中から屋島神社に抜ける道に入りました。 

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山裾をたどっていくと旧屋島ケーブル屋島登山口駅跡にたどりつきました。

ここには車両2両が留め置かれています。駅舎は解体されました。
この車両はケーブルカーが戦後昭和25(1950)年に復活した際に作られたものだそうですので、絵葉書に出てくる車両とは異なります。
また塗装も廃止後に塗り直されています。

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屋島ケーブルの看板。

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屋島ケーブルの義経号を側面から。

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乗車位置にはタイルで矢印が描かれていました。

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扉が開放されているので、車内にも入ることができます。
車内には車両の部材なども置かれていました。

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こちらは弁慶号。

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軌道の滑車。

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見上げると線路の先は草木で覆われ、見通せません。

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駅の横には白い下身板張りの小さな建物がありました。
「変電室」の文字が見えます。

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中を覗くと、変電施設が残っていました。

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屋島登山口駅前は、この先にも線路を伸ばす計画があったためか、広い道となっていて、両側の旅館や店舗跡などがかつての賑わいをかすかに感じさせています。

<関連記事>
 「ジャンボフェリーで屋島へ」
 「屋島に登る」

 

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2024年6月22日 (土)

屋島に登る(香川県高松市)

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2022年の高松旅行、「ジャンボフェリーで屋島へ」の続きです。
いよいよ屋島に登ります。
屋島山上シャトルバスを利用する方法もあるのですが、この時は途中に何があるのか見たいこともあり、徒歩で登りました。
いくつかある登山道のうち一番登りやすそうな遍路道を登ります。

四国は各所に遍路道が整備されていて、お遍路をしていない私も恩恵を受けることが多いです(とくに山道)。

訪問日:2022年9月10日

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登り始めると加持水と呼ばれる旧跡がありました。
弘法大師が仏天を供養し、誦呪加持(呪文を読み、仏の加護保持を祈祷すること)をした水と言われるそうです。

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少し歩くと今度は「不喰梨」(くわずなし)という旧跡があります。
弘法大師が屋島に登った時に梨がおいしそうなので所望したところ、持ち主は「うまそうに見えても食べられない不喰の梨です」と嘘を言って断ったところ、後にこの梨が石のように固く、本当に食べられないようになってしまったという話が書かれていました。

このように遍路道を歩くと、時々弘法大師ゆかりの旧跡があって飽きさせません。

右側の石碑は折れた石碑に「やすみ所」と書かれています。よく分かりません。

帰り道、上に欠けた部分を含む石碑があってようやく意味が分かりました。
「東宮殿下御やすみ所」
皇太子殿下が屋島に登った折、休憩された場所ということのようです。

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私は途中で遍路道を離れ、屋島城に登っていくショートカットの道に入りました。
というのは屋島ケーブルの山上駅跡に立ち寄りたかったからです。
屋島ケーブルについては、次回の記事にします。

階段の続く、私にはきつい道です。

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階段を登り切ると石垣が現れました。
これは2007年から復原された屋嶋城(やしまのき)の城壁です。
説明によると淡い茶色の石がもともと城壁に使われていた安山岩で、黒や灰色の石は復原工事の際に補われた石だそうです。

屋嶋城というのは日本書紀に出てくる城で、663年の白村江での敗戦の後、倭国防衛のため中大兄皇子が築かせた山城の一つとのことです。
長らく幻の城で、再発見されたのはつい最近の1998年です。

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城門を通して見る高松方面。
さっき歩いてきたルートが眺められます。

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屋島はテーブル状の地形で、南嶺と北嶺に分かれています。
この時に歩いたのは南嶺のみです。

テーブル状なので上がってしまえば平坦で歩き回りやすい道です。

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まず東側から回りました。
源平の戦いで有名な屋島の戦場は、東側の入江の奥です(現地に行って初めて知りました)。

屋島に登るとその古戦場が一望できます。
(粗いつなぎのパノラマですみません)
この写真は談古嶺からのもの。景色を眺めながら「昔はあそこであれやこれや」と語り合う場所ということでしょう。

左が北です。瀬戸内の島や庵治の採石場など、見どころがたくさんあります。この後、向こう側に行きましたのでまた紹介します。
写真では視界が開けていますが、この日は霧がたびたび上がってきて、視界が白く覆われました。

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同じエリアの古いパノラマ絵葉書がありますので見比べてください。
源平の史跡が紹介されています(右の方に固まっています)。
源義経は徳島方面から山を越えて攻め込んだんですね。

右側の湾の奥には塩田があり、そこが現在では宅地化していることがわかります。
この時点でも既に採石場が広がっているようです。

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昔の絵葉書の瞰蹟亭。談古嶺より南にあります。
「史跡を見下ろす場所」ということなのでしょう。

この建物ではないですが、今も展望台があり、ここからの眺めも良いです。

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屋島山上の東側には廃墟や空き地となった旅館が目立ちました。
賑わいの中心は西に移ったようです。

これは元ホテル甚五郎です。1階の窓は割れていて、アーケードゲームなどが見えました。

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談古嶺の標石柱。
裏には「香川縣國立公園協會」と書かれています。
いつのものかは記されていませんが、旧字体なので古そうです。

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屋島山上の西側に回りました。
ここからは高松の港や市街、瀬戸内の海が眺められます。

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山上には新屋島水族館もあります。
沿革を見ると、屋島山上水族館ができたのは昭和44(1969)年のこと。
令和元(2019)年に新屋島水族館の第1期リニューアルオープンとなっています。

山の上に水族館というだけでも意外性がありますが、右の説明によると回遊魚のハマチを展示するため「世界初となるアクリル製ドーナツ型回遊水槽が誕生」、その後、世界の水族館でアクリルを使った水槽展示が行われるようになったと書かれています。
そんな画期的な水族館だったのですね(でも入らなかった)。

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この変わった建物は「やしまーる」(高松市屋島山上交流拠点施設)という展望台を兼ねた施設です。設計者は周防貴之氏。
開業は2022年8月5日なので、訪問時は開業してまだ1ヶ月でした。

次々新しい施設ができている西側エリアは、廃墟の目立つ東側エリアや使われなくなった屋島ケーブル山上駅のある南側エリアとは対照的です。

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でも自分は古いものに興味があるので、こういうものを見に行きます。
「東宮登臨之地碑」というものがありました。

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隣に説明を書いた石碑があります(大正15年)。

碑文によると、大正11年11月、摂政宮殿下(のちの昭和天皇)が陸軍特別大演習を統監するため四国に巡啓し、20日に屋島に登られた際、官民挙げて山上で奉迎したそうです。そのできごとを記念した石碑です。

恐らく「やすみ所」の記念碑もその時のものなのでしょう。

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なお、「東宮登臨之地碑」の先に西尾根展望台があります。
ここからの展望は高松平野を見渡す開放的な眺めでおすすめです。
他の展望台に比べて訪れる人は少ない気がします。

屋島は各方面で全く違った展望があるのが楽しいですね。

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屋島寺も訪ねました。四国八十八か所霊場の第84番札所です。
ここだけは創建が鑑真和上で、唐から渡ってきた鑑真和上が奈良に向かう途中の754年、北嶺に普賢堂を建て、これを815年に訪れた弘法大師が今の南嶺に移したそうです。

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その屋島寺の門前に屋島村道路元標がありました。
道路元標は大概、町の中心地や入り口に立っているので、こんな山の上にあるのは珍しい気がします。
この場所の重要性を示しているようです。

今回の記事はかなり端折っていて、屋島山上には他にも興味深いものがたくさんありました。
一般的な観光地については、屋島の公式観光情報サイト「all YASHIMA」などをご覧ください。
次の機会があれば、北嶺にも行ってみたいと思います。

次回は屋島ケーブルについてです。

<関連記事>
 「ジャンボフェリーで屋島へ」 前の記事
 

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2024年6月19日 (水)

ジャンボフェリーで屋島へ(香川県高松市)

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2022年9月に屋島を訪ねた時の話を書きます。

この時は神戸からジャンボフェリーを利用しました。
ジャンボフェリーの会社案内を見ると、明治10年に高松で代々米問屋を営んでいた加藤彌太郎が旧高松藩の船2隻を船頭家ごと譲り受け、大阪〜香川の貨物輸送を始めたことから書き起こされていますが、直接的には昭和44年に加藤汽船と関西汽船の共同運航で、阪神〜高松のカーフェリー「ジャンボフェリー」を就航させたのが始まりです。その後、加藤汽船の単独運航を経て、平成15(2003)年、元社員に事業譲渡する形でジャンボフェリー株式会社に航路が移管されました。

「ジャンボフェリー」会社案内

たまたまでしたが、この時、ジャンボフェリーに乗ったのは四国村の話につながって良かったと思います(後日記事にします)。

訪問日:2022年9月10日

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何か思い入れがあって乗ったわけではなくて、船が好きなのと高松に行くのに便利だからという選択です。
深夜便で午前1時に出発して、朝5時15分に到着する便があります。
通常1990円のところ、深夜料金+500円、土休日料金+500円で2,990円でした。

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乗船するとキラキラのロビー。
ひと昔前の船はこんな感じですね。やたらと明るい。

この時の船は「こんぴら2」。平成元(1989)年就航の船です。
この船は私が乗った3ヶ月後の2022年12月17日、新造船あおいと入れ替わりで引退しました。

神戸港への入港回数がフェリーで国内最多、明石海峡航路の通過回数が世界最多などの記録を持っていたそうです。

→引退についての記事 ジャンボフェリーHP「「こんぴら2」、延期後の引退日が12月17日(土)に決定」
 (その後、2023年2月20日にバングラデシュのチッタゴンで解体されたそうです(あまがみさんのブログ記事「こんぴら2」

図らずも記念となる乗船になりました。

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乗船するとこんなものがありました。
フードコートの呼び出しベルみたいなもので(というよりそのもの?)、左が高松行き用、右が小豆島行き用です。
とくに高松行きは午前5時15分に下船し損ねると小豆島まで連れて行かれます。

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この機会なので、もちろん使ってみました。
雑魚寝のカーペット席で、4時間後に下船では寝られません。
とくにこれを使わなくても船内放送が入ります。

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フェリーの後部甲板。使い込まれた甲板の風合いがいとおしい。

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薄明の高松東港に到着しました。
右に屋島の影が見えます。

まだ朝の5時。時間はたっぷりありますし、こんなに近いのならと歩いていくことにしました。

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フェリーターミナルの外には「加藤汽船」の文字がありました。

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普通は徒歩ならリムジンバスで高松駅に向かうところで、歩いて出ようとすると迷ってなかなか出られません。

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「ようこそ香川県へ」の看板。
到着した感があります。

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港にあったコンクリートの謎の構造物。
分かりませんが、とりあえず記録しておきます。

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まず詰田川大橋を渡り、高松パブリックゴルフ場(塩田跡地)を右に見て、今度は屋島大橋を渡ります。
屋島がだんだん近付いてきます。

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だんだん明るくなる空。
海の向こうに豊島や瀬戸内の島が見えます。

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そろそろ渡り終わる頃、相引川と新川を隔てる長い石の堤がありました。
延々と続いています。

橋の反対側の歩道を歩けば何本もの堤が見えたかも。

相引川は両端が海という珍しい河川で、屋島を四国から切り離している川です(そうは見えませんが)。

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渡った先にあるのは東部下水処理場です。
実はこの下水処理場のある場所は屋島浜と言って、明治39年から工事が始まって明治末年までに完成した、比較的新しい塩田跡地らしいです。
敷地の境界には土手が続いています。塩田の頃からあるものなのでしょうか。
高松市HP「東部下水処理場内の塩田跡地の紹介」

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東部下水処理場の地図です。
営業時間なら構内に入って塩田遺構など眺められるんですが、朝早すぎたので通過しました。

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東部下水処理場の東の境界。
この水路の左が屋島浜の塩田(1907〜1910年築造)で、右が亥浜の塩田(1755〜56年築造)、奥が潟元新浜の塩田(1842年築造)なので、かつては全て塩田でした。(児玉洋一著「高松地区塩田の史的研究」(1955年)より)

またこの地域の塩田については、屋島に行こうHP「屋島の塩田」に紹介されています。

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塩田を隔てる川。
水路の両側に杭のようなものが打ってあるのはどんな目的があるのでしょう。
気になります。

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コンクリート橋ですが、橋脚の部分が石積みで、古い橋のように思われます。

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八坂神社の鳥居の向こうには屋島の峰が見えていました。
次の記事では屋島に登ります。

ところで今回歩いた道は塩田跡の間を抜けるような道でした。屋島の東側にも塩田があります。
瀬戸内の海岸を歩くとかなりの頻度で塩田跡に出会いますし、そこが工業地帯になっていたりします。塩田は土地の改変に(しばしば新しい土地を生み出すこともあり)大きく影響してきました。もっと塩田について知っておくべきかなと思っています。

<関連記事>
 ⚪︎ジャンボフェリー
  「夏の香川・島めぐり(14)小豆島へ」 この時は「りつりん2」に乗ったようです

 ⚪︎塩田関連
  「赤穂の塩の役所」(赤穂市・2008年4月)
  「大毛島から高島へ」(鳴門市・2016年9月)

 

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2024年6月14日 (金)

元代用公園の耳塚児童公園(京都市東山区)

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元代用公園の松原橋児童公園の後、同じく元代用公園の耳塚児童公園を訪ねました。
東には豊臣秀吉を祀る豊国神社があり、西側に耳塚(鼻塚)といって秀吉の朝鮮出兵の際に、戦功の証として首級の代わりに持ち帰った耳や鼻を埋め、供養するために作られた塚があります。秀吉関連の歴史エリアですが、この公園自体は耳塚の隣にあるというだけで、とくに関係はなさそうです。

12月のことなので5時の時点で既に薄暗くなっていました。
写真が見にくくてすみません。東側の門からです。

松原橋児童公園ほどではないですが、小さな公園です。
代用公園というのは、土地取得予算の制約などがあり、京都の街中で皇太子御誕生記念公園に続く児童公園の整備が進まない中、正式な公園の代用として寺院境内や道路の残余地などに遊具などを置いて公園化したものです。(参考:土井勉氏「京都市の公園形成史ー第二次大戦前までー」

代用公園としては早く、昭和12年度に試みとして整備された2つの代用公園(もう一つは西本願寺前児童公園)の一つです。
この2つの公園の評価が高かったため、翌年から代用公園が追加で指定されていくことになります。

訪問日:2021年12月25日

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公園のほぼ全景。

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公園の西側境界。低い柵で囲まれています。
ここから見るといかにも道路の残余地という感じがします。右に耳塚があります。

2つの記念碑が気になりますので確認してみます。

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右の記念碑は「明治天皇御小休所下京第廿七区小学校趾」「明治五年五月三十日御小休」と書かれていて、明治5年に明治天皇が小学校で小休止されたことを記念しています。この時は西国巡幸の途上で、明治2年に京都を離れて以来、3年ぶりとなる京都訪問で、地元の思いは強かったようです。

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裏には「昭和十六年五月三十日 京都府 建之」と書かれています。
小休止から69年後の同日です。

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もう一つの石碑は上記の記念碑と同時期に建てられたもので、建碑の経緯が記されています。

まず明治天皇の足跡が書かれています。西国巡幸の途上、大阪の行在所をたって川船「紅梅丸」で淀川を遡り、伏見に上陸して乗馬で伏見街道を北上し、京都御所に向かう途中、藤森と大仏前で小休止をしたそうです。その大仏前の小休止場所が耳塚の北側にあった下京第廿七区小学校です。70年ほどが経過し、人々が集まって感激した当時の記憶が薄れることを恐れ、この碑を建てたと書かれています。

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裏には「昭和十六年六月 貞教学区民建之」と書かれています。

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柵はシンプルな四角いコンクリートの柱を鉄棒でつないでいます。

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敷地の片隅に鬼瓦が置かれていました。
学校の屋根瓦でしょうか。

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藤棚は四角い床の対角上にはみ出すように四角い藤の花壇が付くという、京都の古い公園でよく見る設計です。

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碁盤のようなテーブルとベンチの組み合わせは京都でよく見かけるもの。

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人研ぎの滑り台もありました。

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これは古くないと思いますが、ユーモラスなカバの遊具。

代用公園だったことを特に意識する必要もないのですが、今では通常の公園となっています。

<関連記事>
 ⚪︎他の代用公園
  「上柏野児童公園」(京都市北区)
  「睦児童公園」(京都市上京区)
  「松原橋公園」(京都市東山区)

 近代の公園目次

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2024年6月12日 (水)

元代用公園の松原橋児童公園(京都市東山区)

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2021年の年末、鴨川に架かる松原橋の東詰にある松原橋児童公園(松原橋公園)を訪ねました。
この公園は当初、代用公園で、昭和27年4月1日に正式に公園として指定されました。

代用公園というのは、京都市街の中心部に児童公園が不足する中、正式な公園を設置するには用地買収費用など市の予算が足りないため、社寺・道路・広場などを求めて代用としたものです。昭和13年6月に、まず耳塚と西本願寺前に開設し、非常によく利用されたため、昭和13年度に追加で10ヶ所が指定されました。(『(京都)市政概要 昭和14年』)追加で指定されたうちの1つが松原橋児童公園のようです。

代用公園については、土井勉氏の「京都市の公園形成史ー第二次大戦前までー」で知りました。
松原橋児童公園は買収によって用地確保されたらしいです。

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全景がこれだけという非常に小さな公園です。
それでも子どもたちによく利用されていました(写真はできるだけ子どもたちを避けて撮っています)。

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公園の北側から。京都でよく見かける人研ぎの滑り台があります。

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砂場。こんなに縁が太い砂場は見たことがないので、理由が気になります。

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藤棚は小さなものです。
藤棚でよく見かけるテーブル&ベンチはありません。

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コンクリートのベンチ。質感が滑り台に似ています。

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ジャングルジムとぐねぐねした雲梯。
パステルカラーで一体感があります。

とくに古い遺構などは確認できませんでしたが、昭和の公園の雰囲気はとどめています。

<関連記事>
 ⚪︎他の代用公園
  「上柏野児童公園」(京都市北区)
  「睦児童公園」(京都市上京区)
  「耳塚児童公園」(京都市東山区)

  近代の公園目次

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2024年6月 6日 (木)

北白川の住宅地を歩く(京都市左京区)

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2021年12月、京都の高原児童公園を見た後、北白川の住宅地を通って吉田山まで歩いた話を書いておきます。

今回の記事はさらっと見た建物を紹介するだけにしますね。
近代化遺産の調査や近代和風建築の調査と照合するなどして、後日補足していくかもしれません。

以前、「北白川・小倉町住宅地」という記事を書いたことがあります(2009年)。
その記事と一部建物は重複します。

このあたりの住宅地には近代の住宅がたくさんありますので、もっとじっくり回った方が良いのですが、この時は白川疏水に並行して直線的に歩きました。

前置きはそれぐらいにして、最初の写真は北白川平井町の近代和風と思われる住宅です。

訪問日:2021年12月4日

 

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少し洋風が感じられる住宅。年々、以前だったら反応しなかったような住宅にも反応するようになります。
きれいに改修されています。

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この建物は和風の中に洋風の要素があります。
門柱はコンクリートにボーダータイルを散らして、洒落ています。

よく見ると玄関扉に丸窓があったり、窓の上にも窓があり、採光を意識しているようです。

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こちらは藤井厚二設計の旧喜多邸(大正15年)。
左隣がヴォーリズ設計の駒井邸(昭和2年)ですが、今回はパスします。
手前が白川疏水です。

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白川疏水を渡って南へ。
二階建ての洋館付き住宅。

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北白川小倉町に入ります。
赤い屋根の洋館付き住宅。

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これも控えめながら洋館付き住宅。
屋根が日本瓦だけれど。

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ほぼ和風なんですが、角でつなげて窓を広く取るのは近代の和風建築ですよね。

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洋館付き住宅。

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これも二階建ての洋館付き住宅といって良いのでしょうか。
窓の桟の入れ方が変わっています。
道路側のは中華風にも見えます。

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極端に窓の少ない2階建て洋館付き?住宅。
なぜここまで窓が少ないのか気になります。

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これは住宅ではなく、京都大学 人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター(旧東方文化学院京都研究所・昭和5年)。
設計者は武田五一・東畑謙三。
いつか見学してみたい建物です。

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2009年の記事にも書いた、その向かいの邸宅も健在でした。
庭の木がますます育って、一層見えなくなっています。

その後も疏水に沿って進みます。
2009年の記事に書いた「小倉町 久保田町 西部 公同組合」の国旗掲揚台らしきもの(昭和13年)も確認しました。

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今出川通りを渡って神楽岡通りへ。
入り口に天皇陵への道標が立っていました。
昭和4年に大阪の皇陵巡拝会が立てたものです。

同様のものは大阪の古市古墳群でも見たことがあります。
団体名はちょっと違ったかもしれません。

皇陵巡拝会がどんな団体かについては、下記資料に詳しく書かれています。大正6年に設立され、皇陵巡拝を普及させる活動の一環として、各地に石柱を寄進したらしいです。現存するもので70本ほどあると書かれています。

徳田誠志氏「本山彦一と『歴代帝陵巡拝図』について」(関西大学学術レポジトリより)

 

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神楽岡通りの医院。壁は新しく塗り直されていますが、古い医院のように思われます。

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通りにあるスパニッシュ様式の上西家住宅(昭和9年)。
登録有形文化財です。

文化遺産オンライン

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ここから神楽岡の住宅地に入って行きました。
京都市京セラ美術館で開催された「モダン建築の京都展」(2021年)で吉田神楽岡旧谷川住宅群として紹介されていて気になっていたところです。大正後期から昭和初期にかけて開発された住宅地です。

→(参考)京町家まちづくりファンド「吉田神楽岡旧谷川住宅群プロジェクト」

ゲートのように石の門柱が立っています。

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住宅地は階段状になって東に開けており、大文字山がよく見えます。

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大きめの住宅。通路の脇には低いコンクリートの塀があります。
住宅からだけでなく、通路からの眺めも良いです。

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登りきったところにカフェの茂庵。元々は谷川運輸倉庫を興した谷川茂次郎氏が大正時代、吉田山山頂に作った8つの茶室(今は2つが残る)などからなる広い茶苑だそうです。カフェとして使われているのは旧食堂棟です。
この時は普通に入れるカフェでした。行っておいて良かったと思います。
その後、一時閉店を経て、現在は予約制のカフェ・お茶会などのイベントスペースとして営業されています。

この日のゴールはここでお茶をして帰りました。

<関連記事>
 「北白川・小倉町住宅地」(2009年)
 「洛北土地区画整理地区」(2009年)

 「高原児童公園の改修前と後」(2021年、2023年)

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