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2024年5月

2024年5月30日 (木)

高原児童公園の改修前と後(京都市左京区)

 

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飛鳥井児童公園の後、高原児童公園を訪ねて愕然としたのは、工事中!

まさに大掛かりな改修工事中で、一足遅かったようです。
既に園内には入れませんが、外から見られるところは見ておこうと気を取り直しました。

工事は令和4年の3月31日までと書かれています。

訪問日:2021年12月4日

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高原児童公園も飛鳥井児童公園と同じ昭和13年の開園です。

工事中とはいえ、囲いは高くないので、工事の様子も分かります。

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工事の囲いには丁寧に再整備工事の完成イメージ図まで掲示されていました。

ワークショップで出た意見と、それに対応する整備内容が分かりやすく説明されています。
また、のちにやむなく変更された部分は朱書きで訂正が入っています。

その中でも個人的に気になったのは右に書いてある「土木遺産」という項目。
意見として「日時計・噴泉を復活してほしい」。それに対して「現位置で保存します」とあり、ほっとしました。

また外周部の「コンクリート壁の立ち上がり部分は撤去し」は朱で消されて、「現在のままを基本とし」に変更されていました。

他に気になるのは「ヒマラヤスギは伐採してほしい」という意見。
最近、根が浅くて倒れやすいという理由で、ヒマラヤスギの伐採が増えているようですね。仕方ないとはいえ、近代を感じさせる樹種なので、惜しむ気持ちがあります。

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公園南西の入り口。オリジナルのデザインかと思います。

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石の銘板に「高原児童公園」と右書きで書かれています。

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フェンス越しに見る工事風景。
中央のケヤキは残されます。

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日時計も見えました。噴泉はよく分かりません。

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公園南東の入り口。こちらもオリジナルの門柱が残っているようです。

そして記事にしないままに時は過ぎ、工事は終わりました。
左京区に行く機会があったので、雨の日でしたが、ふと思い出して立ち寄って見ました。

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ここからは訪問日:2023年5月13日

公園はすっきりしましたが、ケヤキやクスノキが残ったために寂しい感じもなく、予想以上にうまく改修されているなという印象を受けました。

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コンクリート部分はきれいにグレーに塗られています。公園名表示はそのまま。
私はあのざらざらした渋い感じのコンクリートの質感が好きなんですが、まあ少数意見でしょう。

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門柱に新たに「土木学会選奨土木遺産 2019 戦前竣工の京都市児童公園群」のプレートがはめられていました。
お墨付きです。このように評価されたことも日時計や噴泉、門柱などが残された要因だったのでしょう。

この土木学会の選奨については、近大の岡田昌彰教授の解説的な文章があります。
「戦前竣工の京都市児童公園群」(土木学会誌Vol.105 No.12、2020年)

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手前は土の広場。

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まず日時計。
表には下記の文章が書いてあります。
「平井高原土地区画整理組合は昭和六年八月、田中及北白川の両学区に跨る約五万七千坪の地域整理のため設立し、市当局の援助と組合員の協力により工費五万三千余円を以て昭和七年二月起工、同年八月竣工す。惟うに本地区は規模小なりと雖も近代都市構成に寄与する所、少ならざるものあり。茲に碑を建て、以て事業の完成を記念す」
 ※旧字体は新字体に直し、適宜句読点を追加しました。

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上部には新たに日時計が設置されています。

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もう一方の噴泉の方には、大きく「竣工記念」そして両脇に「平井高原土地区画整理」「昭和六年八月十八日組合設立 昭和七年八月廿九日工事竣功」と書かれています。(設立からわずか1年、早い)

日時計とセットで竣工記念碑になっているようです。

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また噴泉の正面には、組合関係者の名前(たぶん)が刻まれていました。

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土木学会選奨土木遺産の公園であるという解説までありました。
単に日時計や噴泉を残すというだけでなく、シンメトリーな公園設計も残しているのはありがたいことだと思います。

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中心軸上から噴泉を見通してみました。
噴泉の両脇の花壇はヒマラヤスギこそ伐採されましたが、花壇の形を保った上で、サクラに植え替えられています。
こういう花壇や園路の形を残すというのは遊具を残すような安全性の問題が少ないので、他でもやってもらえると良いなと思います。

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外周はこのようになっています。
グレーに塗り直されてはいますが、形はそのままです。

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最後に南東側の入り口も確認しました。
ここも門柱の形はそのままで、電話ボックスもそのままの位置にあります。
トイレなどは新しく和風の建物に変わっています。

この改修方法が他の公園でも行われると良いなあと思いましたが、ストリートビューで他の公園の改修状況を見る限り、高原児童公園は特異な例なのかもしれません。ストリートビューでは細かいところは確認できないので、以前訪ねた南部公園や北町公園、北白川公園、内野公園など他の改修済公園がどうなったのか実地に確認してみたいと思います。

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 「近代の公園 目次」

 ⚪︎近隣の公園
  「飛鳥井児童公園」(京都市左京区)

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2024年5月28日 (火)

飛鳥井児童公園(京都市左京区)

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しばらくぶりに公園の記事です。

2021年12月、京都市左京区の公園を2つ回りました。
まずは飛鳥井児童公園です。京都の公園の中でも比較的早く、昭和13年にできました。
大正時代まで田んぼで、昭和初期に宅地化しています。近代京都オーバーレイマップを見ると、公園の東1/3には田中変電所が建っていたようです。

まずは南側の門から。近代のデザインの門です。

訪問日:2021年12月4日

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もう少し近づいて見ます。
丸みを帯びたデザインで、曲線部に短い3本のスリット、足元も少し削っています。

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公園名は銅板で、右から「飛鳥井児童公園」と書かれています。

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西側の門にも同じ書体の公園名表示がありますが、傷もなくきれいで何だか作り直したみたいです。

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右側の門柱は後から同じデザインで作り直したものに見えます。
このあたり京都の公園は元のデザインを踏まえた改修をしていて良いなあと思います。

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外周の柵は、低いコンクリートの柵の上部に何か取っ払ったような痕跡があります。
鉄パイプの柵は後付けのもので(それでも結構年数経ってそうですが)、元々はコンクリートの上に何らかの柵がついていたものと思います。

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外周にはヒマラヤスギが植っています。

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園内の西側にはプラタナスなど。
昭和25年のジェーン台風の被害で、ヒマラヤスギやプラタナスの倒木が記録されていますので、当時からある樹種のようです(『昭和二十五年九月三日ジェーン台風災害誌』(昭和26年))

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園内の北東側にはジャングルジムなどがあります。

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園内の南側は広場になっています。

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園内の北西側。ベンチや遊具があります。
ただ、この公園には藤棚がなくて、古い公園では珍しいなと思います。元々はあったのかも。

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砂場は将棋の駒の形です。

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京都でよく見る人研ぎの滑り台もあります。

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抽象化された汽車の遊具も。

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公園の北西隅には地蔵祠もありました。
京都の公園ではよく見かけます。

と一通り見たかなと思ってふと見ると。

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スチール製の倉庫の裏に石柱が建っていました。
危うく見逃しそうでした。
「中飛鳥井町」と書かれています。

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側面には「紀元二千六百年記念」の文字も見えます。
昭和15年ごろに立てられた国旗掲揚台でしょう。

まだ紅葉が残っていて、良いタイミングでの訪問でした。

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続いては高原児童公園に向かいました。その途中にある瓦屋さん。

この後、高原児童公園を見て愕然とすることになります。

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 「近代の公園 目次」

 

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2024年5月25日 (土)

児島味野の近代建築など(岡山県倉敷市)

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倉敷駅でレンタサイクルを返した後、まだ日没まで時間がありましたので、児島の街(地名で言うとほぼ味野)を散策しました。
まずは下津井電鉄の児島駅跡のあたりに引き返します。

児島といえば、今はデニム・ジーンズの街として有名です。

繊維の町ですので、あちこちでノコギリ屋根の工場が見られます。

訪問日:2023年1月5日

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下津井電鉄跡に並行して北側に旧道が通っています。
旧道沿いの看板建築。

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建物はありませんが、古い門柱が残っていました。

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これもノコギリ屋根の工場。

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旧道を辿っていくと、庭園がありました。
看板が立っていて「野崎の記念碑」と書かれています。
解説によれば、この庭園は明治25年、野崎武左衛門の功徳を偲ぶ多くの人々により作られたものだそうです。

正面に見えるのが武左衛門翁旌徳碑(明治25年)。
石材は下津井沖の六口島六の谷から採石された花崗岩とのこと。設計者は土木技師の山田寅吉。
野崎武左衛門という人は、幕末の児島で塩田や新田を開き、塩田王と呼ばれた人物だそうです。
江戸時代までここから先、JR児島駅のあるあたりは海でした。そこを干拓していったわけです。

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庭園には一際高くそびえるビロウ樹。
野崎武吉郎(武左衛門の孫)が大正10年、知人からハワイ土産としてもらったものを植えたそうです。
ビロウ樹自体は九州・四国にも自生するようなのですが・・・

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かつてはここまで海水が来ていたという、庭園周囲の堀。

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旧道をさらに進むと変わった建物がありました。
旧片岡書店です。付け柱のコリント式円柱が華やか。

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さらに駒のような形で立ち上げて、書店の商標らしきものがあります。
デザインに楽譜が描かれているのは、楽譜も扱っていたのでしょうか。

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この旧道沿いには近代建築らしき建物が次々に現れます。
生地メーカーのアパレルブランドショップ、 BLUXE児島店。
看板建築のようです。

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旧安田銀行(のち富士銀行)児島支店。
いかにもな銀行建築。
今はWOMB BROCANTEというアンティークショップになっているようです。
この時は閉まっていましたが。お正月休み?
お店なのに看板とか取り付けていないのは、美意識なのでしょうか。

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Z-JEANSというアパレルショップの入っている看板建築。
尖頭アーチのような連続模様が付いています。
右隣も看板建築っぽい。

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ジーンズショップ「ダニア・ジャパン」の入る旧第一合同銀行味野支店。
ダニア・ジャパンというと以前、商船三井築港ビル(現中谷運輸築港ビル)に大阪店がありましたね。
こちらも近代建築だったことに感慨を覚えました。

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その向かいには旧野崎家住宅があります。
先ほど出てきた野崎武左衛門の建てた邸宅です。重要文化財。
野崎家や塩田についての展示がある公開施設ですが、残念ながら閉館時間を過ぎていました。
またの機会に。

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桃太郎ジーンズ味野本店は、旧味野郵便局。
陽も傾いてきたので、旧道歩きもこのあたりで引き返して駅に戻り始めました。

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旧野崎家別邸・迨暇堂(たいかどう)。
先ほどの野崎家の別邸です。本邸のすぐ近くにあります。
毎年ひな祭りの時期に公開されているみたい。

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大正橋。昭和7年頃に架設された2代目大正橋らしいです(初代は大正2年)。右隣に3代目の大正橋(昭和41年)もあります。(岡山デジタル大百科掲載の倉敷市立図書館回答より)

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名残惜しく、路地に入って行ったりします。
近代を感じさせるおたふく窓があちこちに付いています。

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3階建ての町屋も。表は散髪屋さんでした。

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これは新しいものですが、インパクトのあった建物。
屋根が太鼓橋になっているという斬新なデザインです。
旧瀬戸大橋架橋記念館(昭和63(1988)年)で、内部は改装されて児島市民交流センターの交流棟になっています。

外観のモデルは住吉神社の太鼓橋らしいです(設計者の上田篤オフィシャルサイトより)。

今回、児島の街並みはついでで、旧野崎家住宅には入れませんでしたし、東の方も回ってないので、改めて訪ねてみたいと思います。

<関連記事>
 「大畠の路地」(岡山県倉敷市)
 「下津井のアーケード」(岡山県倉敷市)
 「廃線跡の自転車道」(岡山県倉敷市)

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2024年5月24日 (金)

廃線跡の自転車道(岡山県倉敷市)

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2023年1月の岡山旅行の続きです。
この時は児島駅の観光案内所で電動自転車を借りて下津井を回りました。
通常の自転車は1日300円、電動自転車でも500円ととても手軽でした。

下津井を目指すときに利用できるのが下津井電鉄の廃線跡を利用した歩行者・自転車専用道、通称「風の道」です。
児島から下津井の間の鉄道は大正3年(1914年)に開通し、平成2年(1990年)末に廃線となりました。
廃線跡は他所でも自転車道になっていることが多いですが、勾配もカーブも緩いので走りやすいです。
ただ意外なほど高い場所を走っていました。

上の写真は風の道ではなく、鷲羽山下電ホテルの前に保存されている車両です。
鉄道ブログではないので、詳しい解説はできません。

訪問日:2023年1月5日

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16時30分までに自転車を返却する必要があるので、下津井駅跡には行く時間がありません。坂道を登り、ショートカットして出たところは東下津井駅跡でした。

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ここから下津井駅跡に向かって緩やかな下り坂になっています。
(そちらには行ってません)

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鷲羽山駅跡の近くからは、同じ高さで瀬戸大橋が見えました。
その下に下津井の集落があります。

ここからなら鷲羽山に登るのも楽そうです。

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少し走ると、午前中に立ち寄った大畠の集落も眼下に見えます。

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途中は切り通しの道になっています。

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旧琴海駅もしっかりプラットホームの石積みが残っています。

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児島ボートレース場を見下ろす。こんな海の一部のような会場なんですね。
住之江のボートレース場とは随分違います。

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そこから先はだんだん高度が下がっていきます。
所々架線の柱が残されていました。

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すっかり低くなり、街中に入ってきました。
木の柵が鉄道跡らしさを感じさせます。

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なぜかここに来て未舗装。
阿津駅跡です。

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阿津の集落にはノコギリ屋根の元工場の建物がありました。
現在は駐車場になっています。

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阿津のアーケードのある売店。

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途中、大きな道を渡れなくて迂回。
和風の住宅なのに洋風の門柱が立つお屋敷がありました。

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隣のブロックには白いペンキ塗りの洋風の建物。

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玄関の上をよく見ると、ガラスに白いペンキで右から「児島赤崎郵便局」と書かれています。

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ここは郵便局と言いつつ、大きなお屋敷の一部のようで、裏には蔵がありました。
見ると剥落した部分が墨塗りに見えます。

これはひょっとして戦時中に戦時迷彩が施され、戦後に漆喰で塗りつぶされたのではないのでしょうか。乾いてからの重ね塗りなので密着度が低くて剥落しているとか。あくまで想像ですが。

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再び鉄道跡に戻ります。街中とは思えない未舗装の道がまっすぐ伸びていて、備前赤崎駅跡のプラットホームがあります。

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やがて児島駅跡に到着。
ここは上屋が掛かっています。
自転車道はここで終了。

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ホームの中に夕陽が射し込んでいました。

<関連記事>
 「大畠の路地」(岡山県倉敷市)
 「下津井のアーケード」(岡山県倉敷市)

 ⚪︎廃線跡の出てくる記事
 「廃をたどる」(兵庫県播磨町)
 「夜須の手結内港」(高知県香南市)
 「飾磨の物流風景」(兵庫県姫路市)

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2024年5月21日 (火)

下津井のアーケード(岡山県倉敷市)

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2023年1月の岡山旅行の続きです。大畠の後、電動自転車で岬を回り、瀬戸大橋をくぐって下津井の町に入りました。
鷲羽山をはさんで、大畠の反対側に当たります。

下津井は北前船の寄港地として知られていますので、以前から行ってみたい町でした。
『北前船 寄港地と交易の物語』では、下津井では廻船問屋が争いを仲裁するための一種の自治制度があったと紹介しています。また下津井の問屋は積極的に迎えに行くスタイルで、西は白石島(笠岡市)まで出迎えたそうです。競争が激しかったのでしょう。下津井の賑わいはとくに江戸時代中期以降、備前・備中で干拓が進んで、棉・菜種・イグサなど商品作物の栽培が盛んになり、中でも棉には大量の肥料が求められたことが一因だそうです。

そういう港町のイメージに浸ろうとしつつも、否応なく目に入るのは瀬戸大橋(下津井瀬戸大橋)の存在です。

訪問日:2023年1月5日

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メインの通りは、港のカーブに沿って、くるんくるんくるんと何度も曲がりながら続いています。
下津井はただ1つの港があるのではなくて、東から田ノ浦、吹上、下津井、下津井西と4つの港が連なっています。

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途中気になったのはこの洋風の建物です。
中央にYとNを組み合わせたロゴマークが入っていて、事業所のようです。

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こちらの建物もちょっと変わっていて、蔵のような作りにアーチの窓が付いています。

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彫刻の入った持ち送り。

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海鼠壁の蔵も見られます。

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通り過ぎてないか不安になりかけた頃に、むかし下津井回船問屋に着きました。
館内の説明によれば、ここは江戸時代に廻船問屋への金融業と倉庫業で財を成した荻野家の分家、西荻野家に始まり、それを明治9年に廻船問屋の高松屋(中西家)が購入したものです。大正時代に入って廻船が廃れると足袋製造業に転業、昭和になると学生服の製造・販売業を営んだそうです。

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建物は明治時代のもので、資料館になる際に廻船問屋時代の形に可能な限り復元されています。

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床は土間ではなくて石敷き。

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ぐるっと回って帰ろうとした時に、「あれ、ぷにょさんが『日本全国タイル遊覧』でタイルを紹介してなかったっけ?」と思い出し、回り込んで確認できました。本業タイルに染付便器。縁側の先にあったので危うく見逃すところでした。

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むかし下津井回船問屋は、広い敷地を生かして、展示施設の他、レストラン、土産物店、貸館もある複合施設になっています。
なお私はランチタイムを逃して、レストランで食べ損ねました。

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裏側に出ると昔の海岸線を示す防潮堤の跡が残っています。

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むかし下津井回船問屋の展示によると、下津井は四国の金比羅さんと児島の瑜伽さんを結ぶ信仰のルート上でもありました。
私は初めて知ったのですが、この2ヶ所を対で回る風習があったらしいです。
また児島八十八ヶ所霊場(島四国の一種なのでしょう)の古い看板もあり、多様な目的の人が行き交う場所だったようです。

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さてようやくタイトルのアーケードの話になります。
海岸から一本入ったメインの道から直交して何本もの道が背後の山に伸びています。その道ではあちこちに建物ごとのアーケードが見られました。

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このように右から左からそれぞれに差し掛けられるアーケードが変化に富んだトンネルを作っています。

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こちらはタバコ屋さんのアーケード。

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このように大掛かりなものもあります。

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アーケードはここで尽きていました。

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集落の中にある共同井戸のある広場。

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何に使われたのか大型の倉庫もありました。

こういたところを彷徨っていると、陽も傾いてきました。
レンタサイクルは便利なのですが、時間内に返さないといけないのは制約です。
旧下津井駅まで足を伸ばす時間はなくなり、まっすぐ丘の上のサイクリング道を目指しました。

<関連記事>
 「大畠の路地」(岡山県倉敷市) 前の記事

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2024年5月16日 (木)

大畠の路地(岡山県倉敷市)

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山口県ではなくて、岡山県の大畠です。
2023年の年明け早々に訪ねた時のことを書きます。

この日、児島の観光案内所で電動自転車を借り、下津井を目指して下津井電鉄跡の自転車道を走っていました(この自転車道については別記事にします)。廃線跡は結構高いところを通っているので、海辺の大畠は通りません。
昔の空中写真を見た時、大きな集落である大畠が気になりました。
せっかく電動自転車なんだしと、道を外れ、海岸への坂道を下っていきました。

最初に入ったのが、この階段のある路地です。
階段の上にはお寺があり、路地の向こうに海が見えます。

集落の道は狭いので、邪魔にならない場所に自転車を停めて歩き始めました。

訪問日:2023年1月5日

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階段のある路地。通りにはバッタリ床机(京都などで見られる、作り付けの畳める腰掛け)があります。
集落は2階建の住宅が建ち並んでいて、時にベランダが迫り出しているので、谷底を歩いているようです。

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路地に水路をまたぐ石橋が架かっていました。
水路の分岐点にはたぶん水神さんなんでしょう、とてもかわいらしい祠が置かれていました。

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細い道には蔵なども建っています。それほど多くはないのですが。

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ハッとしたのはこのお風呂屋さん跡です。
既に営業はされていませんが、正月飾りがあって、管理されていることが分かります。
タイルにガラスに歯飾りなどと、あれこれ装飾的で中もきっとすごいはずととても気になります。

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玄関上の型板ガラスの格子。
色付きのガラスもあり、模様もバラなど様々。
左上の等高線のような模様は初めて見た気がします。

輸入品でしょうか。

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お風呂屋さんの建物は側面から見るとこうなっています。

この先で買い物帰りの地元のおばあさんに出会い、長い時間話し込むことになりました。
どうも最初私のことをお店の物件探しに来た人と思われたようです。
その方は長らく大阪に出ていて、昨年数十年ぶりに戻ってこられたそうで、昔のことなどいろいろ教えていただきました。
ここと海寄りにももう一軒お風呂屋さんがあったそうです。このお風呂は中が広かったというお話でした。

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集落には洋風を感じさせる建物もあり、例えばこの建物です。
木製の上げ下げ窓が付いています。
敷地に合わせて曲げた建て方は船大工の手によるものでしょうか。

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四角い2階建洋館付きの住宅もあります。
控えめながら、連続模様の装飾もあります。
2階からは海が見えたのでしょう。

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大畠で中心性を感じたのはこの三角の小さな広場です。
井戸があり、よろず屋さんがあります。

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逆の方向から。向こうが海です。
秤りは何用なんでしょうね。

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よろず屋さんはもう一軒あり、こちらは生鮮品の野菜や果物を扱っています。
表通りにはいけすのある魚屋さんもありました。
基本的な食材は集落で買えるようです。

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路地に置かれていたタイル張りシンク。

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井戸は先ほどの三角広場以外にも何ヶ所か公共のものがあり、歴史を感じさせます。

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集落最上部のこちらにも井戸があります。
覗き込むと金魚が泳いでいました。

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集落の上の方には広場があります。
広場の一角に記念碑がありました。明治22年、大畠村・田ノ浦村が合併して長浜村が誕生し、初代村長の永山久平氏が当時の30円を寄付して、この地に長浜尋常小学校を設置したことが記されています。

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集落の上の方まで行くと開けていて、車道も通っています。
瀬戸内の島々も眺められます。

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海辺にも行ってみました。
この建物どこかで見たようなと思うと、『岡山懐古紀行』で紹介されていた映画館跡の一つでした。

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県道沿いにある木造工場は昭和24年創業のユニフォームを作っている会社らしいです。

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岬に向かう道から振り返ると大畠の集落と港が一望できました。
手前のクレーンは造船所です。中央右の人工島はガザミやクルマエビなどの中間育成施設らしいです。

いろいろお話を聴かせていただいたこともあり、下津井に行く前にかなり時間を使ってしまいましたが、下津井とはまた違った魅力のある集落でした。

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2024年5月 8日 (水)

廃をたどる(兵庫県播磨町)

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2年前になりますが、JR土山駅の近くのギャラリーに伺う機会があり、播磨町が初めてだったので少し歩いてみました。
播磨町ってご存知ですか? 明石市と加古川市に挟まれ、海に面した小さな町です。

JR土山駅の西にゲートがあって、ここから遊歩道が始まっています。
「であいの道」とか「歴史とのであいミュージアムロード」とかいろんな名前が付いていますが、この道はかつて別府(べふ)鉄道土山線が走っていた廃線跡です。

訪問日:2022年3月27日

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遊歩道の脇を見ると線路を柱に「1984年 別府鉄道土山線廃線」と書かれています。
これがなかなか面白い趣向で、歩いていくと歴史を遡ってできごとが記されています。

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遊歩道=廃線跡は緩やかにカーブしながら住宅の間を抜けています。

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廃線跡(遊歩道)をたどっていくと、大中遺跡公園に着きました。
つまり時代を遡って古代に辿り着くわけです。
廃線跡は遺跡跡を突っ切ってまだまだ続きますが、私はここまで。

大中遺跡は昭和37年に播磨中学校の生徒3人が発見したと書かれています。
弥生時代後期を中心とした時代の集落の遺跡です。

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遺跡は集落跡を「跡」のまま見せている部分と、このように建物を復元している部分とがあります。
中に入れるものもあります。

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公園内には兵庫県立考古博物館もあるのですが、そちらは今回パスして、播磨町郷土資料館の方を見に行きました。

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入り口には阿閇(あえ)村道路元標が置いてありました。
当時の阿閇村役場横(本荘2丁目)にあったそうです。

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展示は私に興味深い内容がいろいろと。
こちらは江戸時代の初め、新井用水を開削した今里傳兵衛のコーナー。
逆サイホンの埋樋の模型もあります。

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こちらは江戸時代後期の廻船「栄力丸」の模型。
ユニークなのが漂流にポジティブに注目していることです。
栄力丸の漂流者の一人、ジョセフ・ヒコという人はアメリカ商船に救助され、サンフランシスコに渡ります。これが運命の転機となり、日本人として初めてアメリカの市民権を取得、通訳や貿易商として活躍しました。のちに日本で初めて海外新聞を発行し、高島炭鉱や大阪造幣局の設立にも関わったらしく、播磨町では郷土の偉人として大きく取り上げています。

播磨町HPの紹介ページ「新聞の父・ジョセフ・ヒコ」

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そしてもちろん別府鉄道の紹介コーナーも。
別府鉄道は加古川市別府町にある多木製肥所(現多木化学)が、製造した肥料製品などを官設鉄道まで輸送するために自前で建設した軽便鉄道です。大正10年に西へ向かう野口線が開通しました。続いて大正12年にこの東に向かう土山線が開通しました。
どちらかというと野口線が旅客中心、土山線が貨物中心だったそうです。

展示は結構詳しかったんですけど、ここではあまり深入りしません。

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館内の展示だけでなく、資料館の裏に回ると実際にディーゼル機関車(昭和28年製造)と客車(昭和5年頃製造)が里帰りして屋外展示されています。

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客車は中に入ることもでき、乗車気分が味わえます。

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ところで廃線跡の遊歩道を歩いていた時、大中遺跡公園の手前で気になるものがありました。
この古そうな工場です。

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帰りに表側に回ってみると古い小屋の前に「昭和フェルト株式会社」と書かれた看板が立っていました。
これが会社の名前のようです。

ネットで調べても断片的な情報しかないですが、『兵庫県工場名鑑1972年版』によれば、創業は昭和28年、業種は牛毛、粗毛フェルトの製造です。

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正面の門の前に来ました。木造の工場や蔵などが建ち並んでいます。
どうも操業はされていないようです。

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広場を囲むように様々な建物があります。

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<国土地理院HPより昭和22年米軍撮影空中写真(赤丸は筆者追加)>

なお、創業は昭和28年とのことですが、奥の2棟の大きな木造工場などは昭和22年の時点で既にあるようです。

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帰り道は廃線跡を外れて東の方を歩いたのですが、印象深い建物に出会いました。
要塞のような、というと適切ではないのでしょうか、コンクリートの存在感が強い建物です。
これは南から見たところです。

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土山共同センターという名前で、覗き込むと商店が並んでおり、1階が店舗、2・3階が住居の複合施設のようです。
不動産情報では昭和45(1970)年の建築という情報が出ていました。

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東側はまた違った表情を見せます。
住戸にはバルコニーの他、中庭も用意しているようです。
商店の関係者が上に住むことを想定していたのでしょうか。

この建物は有名物件らしく、ネット上でもいろいろと書かれているのが見つかりました。

この日は廃線跡、集落跡、工場跡と最後は廃にはなってませんが、期せずして廃をたどったようでした。歩いたのは播磨町北西のほんの一部ですので、別府鉄道跡の続きや新井用水などを歩いてみても面白いかもしれません。

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