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2024年2月

2024年2月28日 (水)

四国みぎした旅行(18)白と黒の和食(高知県芸西村)

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高知県東部にある芸西村の和食を訪ねました。
和食(わしょく)ではなくて、和食(わじき)と読みます。

土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線は高架を走る区間が多く、その中でも和食駅はなかなかの景色。
南はすぐ太平洋が広がっています。

訪問日:2023年5月3日

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北側を見ると山に囲まれた平野に住宅が立ち並んでいます。

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線路に並行して旧街道があるのでそこを東に歩いていくと、すぐT字路があり、和食村道路元標が立っています。
てっぺんに窪みがあるのは、何か立てていたのでしょうか。
ここを左に曲がると一直線に和食のメインストリートです。

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国道55号線を歩道橋で渡ります。
並行して建設中の高架橋脚が見えます。
高知東部自動車道の一部、南国安芸道路で、芸西西ICから西は既に開通しています。

来年春には四国横断自動車道と接続するらしく、このあたりの様子も変わってくるのでしょうか(安芸方面はまだ)。

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最初の目的地にしたのは列車から見えて気になっていた洋館です。
メインストリート沿いにありますので難なくたどりつけます。
これは医院兼住居だった「末延医院」で、現地の看板によれば、昭和2年竹中工務店の設計だそうです。南ドイツ風というのは、医院だったことと関連するのでしょうか。鮮やかに塗り直された焦げ茶と白のコントラストが、高知の青空に映えてきれいです。
野良時計に次いで県で2番目の登録文化財とも書かれていました。

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さらにその西側には清酒「土佐しらぎく」の仙頭酒造場の酒蔵群があります。

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ここで気になるのが水切瓦とともに、軒下に残る戦時迷彩らしき墨の跡。
そこここの蔵に残っていました。高知ではよく見かけます。
南の海から米軍がまず到達するのが高知の海岸であることや、土佐漆喰の強さというのがたくさん見られる条件にあるのでしょうか。

(関連)「奈半利の戦時迷彩」9枚目の写真

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たくさんある仙頭酒造場の建物の中でも気に入ったのがこの小さな小屋です。
元はペンキで真っ白に塗られていたのでしょうね。

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和食のまちのあちこちでは木造の小屋を見かけます。
こちらは黒く塗られていたようです。

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再びメインストリートに戻って、これは農協倉庫でしょう。

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下見板張りの建物。今は電気工事会社が入っています。
軒下が白いので、元は全面が白く塗られていたものと思われます。
妻の部分を囲っているのはなぜでしょう。

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ここでも家紋入りの門扉を見かけました。
空よりも鮮やかな青に塗られています。

(関連)「高知市種崎の門扉」

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屋根が二段になった小屋。

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メインストリートを歩いていくと建物が途切れました。
道はまだまっすぐ山に向かっていますが、このあたりで深入りはやめておきます。

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ここから東に進みました。丘の上に上がると見渡す限りのビニールハウスが見えます。
芸西村は施設園芸が盛んなところで、ナスやピーマン、花卉などが栽培されています。

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東に寄り道したのは芸西村伝承館(平成元年開館)を見に行くためです。
が、残念ながら閉まっていました。

主に伝承されているのは、サトウキビを原料とした黒砂糖づくり、竹の皮とひごで縫う「まんじゅう笠(タケノコガサ)」、炭焼きだそうです。
現在は需要期(黒砂糖の製造期11月中旬〜12月)のみ開館していると書かれていました。

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戻る途中、道路脇で気になったもの。
これ道路看板を再利用していますよね。

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丘の上を歩いていると白いビニールハウスの波の向こうに海が見えます。
町中を歩いているとまた違った良さがあります。

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芸西村文化資料館(昭和60年開館)にも立ち寄ってみました。
コンクリートで校倉造を表現したような建物です。

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幕末の坂本龍馬・おりょう関係の展示(写真不可)、民具、地質、和食川河口改修、首相官邸のタイル、企画展示室(この時はベーゴマ)、2階に筒井美術館など様々な展示がありますが、個人的に興味を持ったのは農業関係の展示です。
野菜箱に使うステンシルなども展示されていました。

和食には蔵や下見板の白壁や黒壁、延々と続くビニールハウスの白い波が青空や海とコントラストを描く風景がありました。

<関連記事>
 「四国みぎした旅行(17)夜須の手結内港(香南市)」 前の記事
 「四国みぎした旅行(19)極彩色の5月(芸西村・安芸市他)」 次の記事

 「四国みぎした旅行(1)高知県境の町へ」 シリーズ最初の記事

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2024年2月26日 (月)

四国みぎした旅行(17)夜須の手結内港(高知県香南市)

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2023年GWの高知旅行の続きです。
ネットでも有名なこの風景を見に・・・ではなくて手結(てい)内港を見るため夜須駅で下車しました。

ただ日没も迫っていましたし、手持ち時間は次の列車が来るまでの30分ほどとしました。

ちなみにこの非日常的な道路は、手結港可動橋といって2002年に設置されたそうです。
船が通行するためにこうなっています。
夜間は上がりっぱなしで、昼間はだいたい1時間毎に上がったり(船通行可)、下りたり(車通行可)するそうです。

訪問日:2023年5月2日

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さて、まず向かったのは車窓から気になった夜須川に架かる橋です。

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この橋、やはり古くて、「昭和13年3月架設」と書かれています。
橋名は書かれていませんが、(旧)豊栄橋かと思います。
左岸側にぐぐっと広がる形や、親柱のクランク状に折れる溝がかっこよいデザインです。

向こうの街道筋も気になりますが、先を急ぎます。

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港が見えてきました。
ここは大正時代に完成した手結外港。それ以前の手結内港はあの可動橋の向こうです。

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港の防潮壁は古い石積みで味わいがあります。

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可動橋の向こう側は少し船溜まりになっていて、このさらに向こうが手結内港です。
なかなか奥が深い。右から山が迫っているので、そんなところに港があるの?と思い、焦りながら近づきました。

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港の入口に伸びる堤の上には常夜灯がありました。
これは灯台の役目をするものでしょう。
隣に金毘羅大権現を祀る石柱があります。

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これが手結内港のほぼ全景です。

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港の上には「野中兼山頌徳碑」が立っています。

野中兼山は江戸時代の初め、土佐藩・二代目藩主山内忠義に仕えた執政で、林業、治水、農地開発、港湾開発、漁業振興に腕をふるいました。
この手結港は明暦元年(1655年)に開削された日本最初の掘り込み港湾です。
平成に入ってその野中兼山が手掛けた原形の復元が行われ、平成9年に建てられたのがこの頌徳碑らしいです。(以上、現地の解説より)

詳しい技術的な解説は下記の記事などをご覧ください。
一般社団法人埋立浚渫協会HP「21世紀に伝えたい『港湾遺産』[No.10]高知・手結港(内港)」
 建設コンサルタンツ協会HP「土木遺産の香 第48回 江戸初期の築港技術を示す港湾遺産「手結港(内港)」」

私は、後に野中兼山が手掛けた津呂(後日記事にします)、室津の掘り込み港も見ましたが、ここは一番こじんまりとしていて、海面からの高さもそうありません。

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本来ならぐるっと港を一周していろんな角度から眺めたいところですが、なにぶん時間がないので(この時点で15分前)、帰路につきました。

港のどこかに大正3年の頌徳碑もあるはずです。

 

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帰りは別の道でということで周りを見ると、集落の向こうに放物線アーチのトンネルが見えました。
ちょっと気になるので寄ってみました。

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と現れたのがこの建物。入口が2つあるのでほぼ間違いなくお風呂屋さんです。
両手を広げるような印象的な姿です。

高知県の近代化遺産総合調査報告書では、昭和30年頃の林湯跡となっています。

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トンネルを近くから。いいカーブです。

ところでこれは何のトンネルかというと、上を通るのは実は土佐電気鉄道安芸線の廃線跡です。大正13年に後免(町)から手結まで。手結から安芸の区間は昭和5年にできて、昭和49年まで使われていたようです。

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現在はこのように高知安芸自転車道になっています。
これをたどれば絶対駅に着きますし、この道を通っていくことにしました。

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線路跡は高くなっていて、周囲がよく見えます。
この下見板張、白ペンキ塗りの建物が古そうで気になりました。
報告書には載ってないようですが。

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玄関周り。玄関庇の持ち送りも凝っています。

近づいている時間はないので、遠目に見ただけです。

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集落の中をカーブして楽しい道です。

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ネコが横断するのを待ったりもしつつ。

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夜須川も単独の橋で越えていきます。右上に鉄道、その右に国道の(新)豊栄橋が見えています。

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夜須駅に到着して無事列車に乗れました。
日が高ければもっとゆっくりしたいところでした。

こうして高知に向かったのですが、話としては翌日の芸西村和食に続きます。

<関連記事>
 「四国みぎした旅行(10)隆起する室津港」 同じく野中兼山が手掛けた室津港です

 「四国みぎした旅行(1)高知県境の町へ」 シリーズの最初

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2024年2月25日 (日)

四国みぎした旅行(16)高知市の東側を歩く

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再び高知の話に戻ります。ここからは2023年GWの旅の記録です。
ブログでは「高知の旅2018(10)沢田マンション」の続きになります。
高知県の東に向かって紹介していきます。

さてこの時の旅でも、高知市に宿泊しました。
東に戻っていく前に、歩いたことのない高知市の東側を少し歩きました。

まず気になったのが、宿の近くのはりまや町の住宅です。

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洋風が混ざっており、玄関周りを見ても、このように戦前の住宅っぽさがあります。

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建物の影になる側面には下見板張の壁面や木製の小屋裏換気口が残っていました。

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そのまま東に進むと現れるのが百足屋産業株式会社です。
昭和26年の建築らしいです。

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その名の通り、ムカデをリアルに図案化した社章です。
足袋を作っていた会社なのでムカデを選んだらしいです。
玄関周りに戦前建築からの連続性を感じます。

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左の車庫も同時期の建物に見えますね。

と百足屋産業について調べていたところ、昨年の10月中旬までに解体されたらしいことが分かりました・・・
これが見納めになるとは。

建通新聞「百足屋のはりまや町事務所跡地は賃貸へ」(2023.10.5)

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さらに東に進むと新堀川を渡ります。
この時、新堀川の水面を利用した道路拡幅の工事が行われていました。

新堀川は江戸時代の初めにできた運河かつ、お城の堀だったようです。

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工事の案内です。令和7年3月31日までと書かれているので、現在も進行中です。

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この新堀川の東側に「桜井」跡の碑がありました。
新堀川の東は新たに開かれた町なのですが、水質が悪かったため、1800年になって町奉行が近江から職人を招き、「もみぬき」により井戸掘りに成功したことを記念したものです。もみぬきというのは錐のように岩盤を打ち抜いて、その下の帯水層から水を得る、当時の最新技術だったようです。
(石碑は戦災で失われ、現在の石碑は戦後復元されたものとのこと)
高知市HP「文化財情報 史跡 桜井跡」

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隣には秋葉神社の祠もありました。
火除の神様で、もともと北新町・中新町・南新町の新堀川沿いにあった3社を、道路拡幅のため1社に合祀したものらしいです。

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ここから先、この地図で見ると右の黄色く塗られた部分が江戸時代、新たに開かれた街です。
この地域は国立公文書館の「戦災概況図高知」を見ると戦災を免れた地域です。

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残された壁。少し袖壁のデザインが残っています。

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不思議な階段。物置の屋根に向かって階段が伸びています。
元は右側に建物があって、そこに登るものだったのでしょうか。

 

 

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住宅地は今よくあるような区画で、何かありそうな印象は受けませんが、その中にも古そうな住宅がありました。

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表の妻壁には小屋裏換気口の脇に装飾があります。

 

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奥の妻壁にも装飾レリーフが入っています

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歩いていると自由民権運動の結社の一つ、共行社跡の碑(昭和12年)がありました。
高知市内には自由民権運動の史跡が散在しているようです。(「民権史跡案内図」

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散髪屋さんのモザイクタイル柱。

この日は適当なところで引き返してしまいましたが、戦災を免れた地域であり、見ていくとまだ何かあるのかなと思います。

<関連記事>
 「近代の高知公園」
 「高知城周辺の近代建築など」

 四国みぎした旅行の最初
 「(1)高知県境の町へ」

 

 

 

 

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2024年2月21日 (水)

モダンベンチの紫野宮西公園(京都市北区)

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睦児童公園の後は、北上して紫野宮西公園(宮西児童公園)を見に行きました。

紫野宮西公園は、昭和10年に開設された公園です。
土地区画整理事業で整備された初期の公園で、昭和8年に設計案が作成され、昭和10年1月都市計画児童公園として認可、5月に開園したそうです。ほぼ同時に整備された公園に下鴨森ケ前、下鴨膳部、紫野柳公園があります。(土井勉「京都市の公園形成史-第二次大戦前まで-」

これら公園には当初のデザインが残っていて、土木学会関西支部の土木遺産「戦前竣工の京都市児童公園群」に認定された公園に含まれています。

訪問日:2019年9月29日

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敷地の北東側から。境界がヒマラヤスギに囲まれています。

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西の方はカイズカイブキが植わっています。

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公園の中央には広場が取られています。
南西隅には木々に囲まれて藤棚や地蔵堂。

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そして北東隅にはこちらも木々に囲まれて、ベンチがあります。

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このベンチ!デザインや質感からみて昭和戦前期のものではないでしょうか。
4分の1の円弧のような形をしています。

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それに背面を等分するように水平のスリットが5段。

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スリットの下から2段目・3段目の幅で座面が設置されているのでしょうか。
いいベンチです。

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この公園はコンクリート遊具が充実しています。
これは幅広い人研ぎのすべり台と砂場を持つプレイマウント。

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裏にも回ると土管も付いています。
穴が山を貫通しているのはよく見ますが、ここの場合は山の斜面に乗っけた土管です。

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他にもレーシングカー型のコンクリート遊具。
タイヤが本来のものとして使われています。
これ、ハンドルが背中合わせに付いてますが、どういう想定なんでしょう。

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こちらはオーソドックスにゾウの遊具。

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座面の凹んだタイプのコンクリートベンチ。昭和中期でしょうか。

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藤棚は古くはなさそうです。

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この公園でもう一つ見ていただきたいのがタイルの地蔵堂です。
縁取るような市松のモザイクタイルが鮮やかです。
タイルの柱が立っているのも面白い。

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卍もモザイクタイルで描いています。

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クリーム色の地のタイルは、普通に貼っている部分と四半張りになっている部分があり、凝っています。

公園施設とは言いにくいですけどね。(京都の公園では多いけど)

デザインに見どころの多い公園でした。

ちなみに紫野宮西公園の近くには紫式部・小野篁の墓所があるようです。

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本題は以上なんですが、ちょっとおまけ。
止まれの足型のある風景が好きで、見かけると記録しています。

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京都のこのあたりにはいい雰囲気の止まれの足型がたくさんありました。

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こういうのも味わいがあります。

この日の公園めぐりはここまで。

次回から2023年の高知旅に戻ります。

<関連記事>
 ※同時期の公園
 「下鴨森ケ前児童公園」
 「紫野柳児童公園」
 「あおい公園/旧下鴨膳部公園」

  目次・近代の公園

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2024年2月19日 (月)

代用公園だった睦児童公園(京都市上京区)

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玄武公園の後は、近くの睦(むつみ)児童公園を訪ねました。
ここはやや特殊で、代用公園だった公園です。土井勉氏の「京都市の公園形成史-第二次大戦前まで-」によれば、代用公園とはまだ公園の設置が進まなかった時期に、寺院などの境内地を借用したり、道路の残余地を利用するなどして遊具を置く代用公園が設置されたそうです。ここの場合は道の向かいに寺院入口があるので、お寺の土地だったのでしょうか。昭和期に設置されますが、後に買収されて正式な公園になっています。

公園名は大理石に行書体で彫られています。昭和戦後期でしょうか。

訪問日:2019年9月29日

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ひっそりした道に面したこじんまりした公園です。
道に面してヒマラヤスギが並ぶので、木々が多い印象を受けます。

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これでほぼ公園全体。遊具はいろいろと揃っています。

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超コンパクトな藤棚。ベンチ一つ分です。

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サクラの木などもあります。
お花見にはこういうサイズ感も良いかもしれません。

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こちらはプラタナスでしょうか。

 

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遊具としては京都らしい人研ぎのすべり台(ただし柵などは新しそうなデザイン)やブランコがあります。

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こちらは四角い砂場。

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これはスピーカーなんでしょうか。

(追記)Tさんにこれはガーデンバリアといって、猫よけの装置だと教えていただきました(2024.2.20記)

小さなひっそりとした公園ですが、予算の関係でまだ公園の行き渡らない時代に、何とか子どもたちに遊び場を確保しようとした思いを想像すると、感慨深さがあります。

<関連記事>
 「玄武公園」
 「上柏野児童公園」同じく代用公園です

 目次・近代の公園

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2024年2月18日 (日)

玄武公園(京都市上京区)

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京都市の近代の公園を訪ねるシリーズです。
2019年の訪問記録を飛ばしていましたのでそれを投稿します。

この日は「京の夏の旅」で藤野家住宅など何ヶ所か訪ねた流れでの訪問でした。

まずは上京区の玄武公園からです。
玄武公園は昭和12年に皇太子殿下御誕生記念公園として整備された、京都でも古い児童公園です。
この時の公園は整備水準が高く、全てプールを併設していたそうで、この玄武公園にもかつてはプールがありました。今は改修により、なくなっています。元々この場所は「町工場の買収と三井家屋敷の一部寄付」によると書かれていたので、近代京都オーバーレイマップで確認すると、大部分が近藤染織工場の敷地で、西側の三井家屋敷との境界の道を少し西に動かしたようです。
(以上、土井勉「京都市の公園形成史-第二次大戦前まで-」(「土木史研究」第11号,1991年)を参照)

なお、三井家屋敷跡は現在、アークレイの敷地になっていて、庭園が擁翠園として残っています。

訪問日:2019年9月29日

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公園の南側から入っていくと、よく木々が育っています。
戦後すぐの空中写真を見ると、南側はグラウンドを四角く囲むように木を植え、北側はプールというわかりやすい配置でしたが、現在は複雑な配置になっています。

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公園の真ん中にぽっかり空いたグラウンド。

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公園の北側入口から見たところ。
こちら側にプールがあって撤去後に再整備されたので、南側ほど樹木が育っていません。

 

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手押しポンプがあり、汲み出した井戸水が川になって流れるようになっています。

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東側の遊歩道

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同じく遊歩道

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遊歩道に松なども植わっています。

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プール跡のあたりですが、岩がごろごろしていました。
こういう岩はどういう経緯でこうなっているのかいつも気になります。

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敷地東側にも岩がごろごろ。

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コンクリートの動物遊具。
ウミガメとかこのタイプの犬はちょっと珍しい気がします。
たいがいリクガメですよね。

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公園に関してはこれぐらいなのですが、
この公園を歩いていると必然的に気になる隣の建物があります。

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それは京都大学室町寮です。
私はこの時初めてその存在を知りました。

室町寮のHPによると、昭和17年に建てられた上京保健所の建物を転用しているそうです。
内部の様子もHPに写真が載せられています。

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押縁下見板の黒っぽい建物ですが、玄関だけは白く塗られています。

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玄関部分をアップ。瀟洒な雰囲気がありますね。

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建物の東側は板塀や庭木で覆われています。

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また、公園に室町通から公園の北側に入ってくる路地には入口に国旗掲揚台が据えられています。
国威宣揚と書かれたタイルが貼られています。

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おまけ。次の睦公園に向かう途中で見かけたタイル。
タイルのサンドイッチになっています。

玄武公園は(いい雰囲気の公園なんですが)改修によってかなり雰囲気が変わっていることが確認できました。
この後、近くの睦公園に向かいました。

<関連記事>
 *京都の他の皇太子殿下御誕生記念公園
 「六条院公園」
 「富小路殿公園」
 「南部児童公園」
 「橘児童公園」
  ※小坂公園も訪ねましたがまだ記事にできていません

  目次・近代の公園

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2024年2月17日 (土)

石ヶ坪児童公園ほか(京都市下京区)

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京都の近代の公園めぐり、千石荘公園の続きです。
これといった近代の痕跡を見つけられなかったので簡単にまとめます。

まずは西院公園。昭和16年に防空緑地として計画決定された公園です。

訪問日:2020年6月21日

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通路を挟んで両側がテニスコート。
公園のほとんどがテニスコートという特殊な公園です。
敷地の南部に一部遊具があります。

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続いては名倉児童公園。昭和16年にできた公園です。
隣にはロームの本社があります。
小さい公園なのにややこしいのは北半分が右京区で、南半分が下京区です。

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中央に円形の藤棚があり、そこから十字に園路が作られています。

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遊具としてはジャングルジム、京都でよく見る人研ぎの滑り台、砂場などがありました。
しかし、近代らしいものは確認できませんでした。

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ここからは西高瀬川に沿って東に進みます。
掛越橋(昭和11年)
花崗岩でできた丸いデザインです。

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西高瀬川の石ヶ坪橋(昭和11年)
こちらは欄干を新しくして(といっても最近ではないですが)、親柱を残したように見えます。

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その側に石ヶ坪児童公園(昭和13年)があります。
ここは公園の門柱が開設当初のものを残しているように思います。

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公園名の表示が右書きの「石ヶ坪児童公園」で花崗岩に刻まれています。

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公園の門柱を裏側から。
直線的であまり装飾的ではありません。

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公園の柵はコンクリートの柱を鉄のパイプでつないでいくタイプ。
時期は分かりません。

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公園の南半分。
藤棚のベンチ、人研ぎの滑り台、砂場、鉄棒などが見えます。

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コンクリート枠の砂場。設置時期は分かりません。

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藤棚。四角い敷地の対角線上にはみ出す形で四角い枠を作り、藤を植えています。
定型のパターンのように見えます。

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隣接する七条第三小学校につながる門があります。

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続いては壬生檜公園(昭和12年)を訪ねました。
2010年、ワークショップにより再整備を行ったそうです。

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現在の公園名標石の一部にかつての檜児童公園・昭和十二年三月竣功のプレートが埋め込まれています。

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賑わっていた公園ですが、公園名標示の他に近代のものは確認できませんでした。

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帰り道、京都リベラルアートという会社が入った建物。(2022年5月現存)
近代建築に見えます。

この日、阪急西院駅からスタートした公園めぐりは、反時計回りにぐるっと回って再び西院駅に戻りました。

<関連記事>

 近代の公園目次

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2024年2月16日 (金)

岡ビルから南の建物(愛知県岡崎市)

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<2017年5月14日>

岡崎市の手持ち最後は、名鉄の東岡崎駅から南へ、JR岡崎駅にかけての建物を紹介します。

まず東岡崎駅の駅ビルは岡ビルという名前で、昭和33年(1958年)に完成すると同時に岡ビル百貨店が開業しました。
以来、長らく岡ビルの2階・3階で営業してきましたが、2021年5月31日をもって閉店しました。

岡ビル百貨店のブログ 2018年から2021年の閉店まで
名古屋渋ビル研究会「さよなら岡ビル百貨店」

ということで上の写真はまだ営業中の写真です。
現在も岡ビルはありますが、看板が取り払われたビルは急に老けてしまったように見えます。

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<ここから2016年8月14日>

2016年には岡ビルもあいちトリエンナーレの会場の一つで、私はこの時初めて訪ねました。
最後の最後に訪ねたので既に日没しています。
左側にはバス乗り場があります。

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ビルの外側やもちろん駅の部分は今も見ることができます。

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せっかくなので中の様子なども上げておきます。
レストランのこもさん。昭和42年(1967年)開店で50年以上営業されていました。

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喫茶室凡さん。この場所は当初から喫茶店だったらしい。
実は訪問のすぐ後、2016年8月末に閉店されたらしく、その後喫茶室和笑が入って百貨店の閉店を迎えたらしいです。

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何のスペースか覚えていませんが、通路から外を見たところ。

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<ここまで2016年8月14日>

ちょっとレトロな雰囲気が漂う階段手すり。
あまりたくさんの写真は撮っていませんでした。

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<ここから2019年8月12日>

ここからは六所神社を訪ねた後のことです。
JR岡崎駅に向かって建物を見ながら歩いていきました。

まず六所神社近くにある洋館付き住宅です。(2023年7月現存)
岡崎には本当に多い。

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下見板張りの住宅。(2022年9月現存)
明大寺町西郷中。

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ここから電車通りを進みます。

洋風の離れ。古そうな気もしますが年代不詳。(2023年5月現存)
明大寺町狐塚

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板塀の住宅。元は商家のようにも見えます。一部下見板張り。(※現存せず。2019年9月〜2020年10月の間に解体)
明大寺町池下

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これは前からバスで通る度に印象に残っていた洋風屋根の工場です。(2023年5月現存)
太陽綿機製作所と書かれています。綿繊維関係の製造機械工場なのでしょうか。今はタクシー会社の構内です。
明大寺町野畔

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左は元杉正建材店※現存せず。2020年解体)、1950年代ぐらいでしょうか。
右は近代の和風住宅に見えます(2023年5月現存)
明大寺町沖折戸

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最後に洋館付きの杉浦医院(2022年10月現存)。羽根町前田。
ここまで来るとJR岡崎駅はすぐそばです。

この通りは空襲を受けているのでそれほど古い建物はないですが、それでも気になる建物はちらほらありました。

これでひとまず記事化できていなかった岡崎市の記録はまとめられました。
岡崎でまだ歩いていないエリアがありますので、また機会あれば歩いてみたいと思います。

<関連記事>
 「再整備前の南公園へ」 ※岡崎編の最初の記事

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2024年2月11日 (日)

六所神社の彫刻(愛知県岡崎市)

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2019年8月、あいちトリエンナーレを見に行くのに関連して、岡崎市に宿泊しました。
このブログで江戸時代のことに特化して紹介するのは珍しいのですが、宿の近くにあった六所神社の彫刻が見事だったので紹介したいと思います。

六社神社は社記によれば飛鳥時代、奥州塩竈の六所大明神を勧請して創建されたそうで、その後、松平家の産土神として、徳川家康公の誕生の際も拝礼されたそうです。そのため、徳川家の保護も厚く、現在の本殿・幣殿・拝殿は、三代将軍家光が寛永11〜13年(1634〜1636年)に造営させたもので、神供所も同時期と考えられるそうです。また楼門は貞享5年(1688年)の墨書があります。(案内板より)

これらの建物は重要文化財に指定されていて、昭和51年および平成26〜29年(2014〜2017年)にかけて大修理が行われ、往時の鮮やかさが再現されました。修理後2年ということで、この時もかなり鮮やかな彫刻が見られました。

とくに説明することはありません。見ていただければ分かると思います。

訪問日:2019年8月12日

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まずは楼門の彫刻から紹介します。
彫刻はだいたい建物の外側、梁の中央上に施されています。

九尾の狐が瓜を食べているようです。
かじられた跡まで表現されていて、非常に細やかです。
このように動物と植物の組み合わせが多いようです。

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これは鳳凰でしょうか。
鳳凰とよく組み合わせられる植物は桐ですが、これは何か分かりません。

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これはマガモのつがいです。
水面も描かれています。

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これはウソのオスが2羽?

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緋鯉と真鯉。こちらも水面の表現です。

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なお拝殿の屋根の下は青鬼が支えていました。

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続いて神供所です。
こちらは朱塗りの楼門や拝殿・幣殿・本殿と比べて地味です。

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ただし、彫刻の部分だけは鮮やかに彩色されています。
こちらは孔雀です。

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唐獅子と牡丹。

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ヒエとカモ?

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これは定番のスズメと竹。

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キジとアジサイでしょうか。

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続いては拝殿です。
ブドウを食べるキツネです。

酸っぱいブドウを思い出します。
既にイソップ物語の邦訳「伊曾保物語」が出ていましたからそのものかもしれません。

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サルがビワを取っているところです。

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定番のシカと紅葉です。

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ツルと、何の花でしょう。

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カケスでしょうか。キクの花と。

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ウズラ?とボタンでしょうか。

 

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最後に本殿。こんなにきらびやかです。
これはキリンでしょうか。梁に龍のレリーフも入っています。
またボタンなどの植物も描かれています。

歴史に興味がなくても彫刻を見るだけでも楽しめると思います。
名鉄の東岡崎駅からはすぐ近くです。

描かれている動植物の種類が多いのにも驚きました。
上に書いたことは間違っているかもしれないので、分かる方は教えてください。

<関連記事>
 「日牟禮八幡宮の動物彫刻」(2014年10月)

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2024年2月10日 (土)

志賀重昂氏ゆかりの東公園(愛知県岡崎市)

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2017年春、岡崎市の東公園を訪ねました。
前年に訪ねた旧本多忠次邸もこの東公園の一角にあります。

この日最後に訪ねたので、閉園までの時間がなく、公園の東半分は回れなかったことを先にお伝えしておきます。

訪問日:2017年5月14日

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<岡崎市街全図(昭和12年頃?)>

昭和12年頃の地図にも東公園の文字があり、戦前から存在したことが分かります。
ただ、そこに描かれているのは、世尊寺とため池で公園に取り込まれた3つの池ぐらいです。

タイトルにある志賀重昂(しげたか)氏の発願でできたのがこの世尊寺です。
志賀重昂氏は積極的に海外に学術旅行に出かけた地理学者です。その3回目にタイ、インド、セイロン、ビルマの仏跡を巡り、仏像・仏具・仏石等を収集して大正13年(1924年)に持ち帰り、釈迦牟尼世尊の祭祀と祭殿建立の企画案とともに岡崎市に寄付されたそうです。これに従って釈迦堂建設計画が進んだのですが、昭和2年(1927年)に彼が亡くなったことで計画が中断、しかし賛同者の尽力で昭和4年(1929年)無事仮堂が完成したそうです(岡崎おでかけナビ「志賀重昂ゆかりのスポット 東公園」より)

志賀重昂氏ゆかりの記念碑は岡崎公園にもありました。

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<国土地理院・空中写真 1948年12月8日>

戦後間もない時期の写真を見ても、現在の公園域では、3つのため池のほか、白く光る世尊寺ぐらいしか目立ちません。
既に後で触れる南北亭も移築されているはずですがよく分かりません。

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訪問時の世尊寺です。
時間の関係で中には入っていません。

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世尊寺前あたりから眺めたため池。

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同じくため池。向こうに噴水や浮御堂が見えます。

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対岸からの写真。木々がよく育って気持ちの良い散歩道になっています。

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浮御堂です。1960年代に作られたようです。

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移築された南北亭。
もとは「四松庵」といって、明治44年、東京代々木の志賀重昂邸内に茶室を兼ねて建てられたものです。
面白いのが、世界各地で収集した木、竹、石を用いて建てられていることで、例えば柱には南大東島のビンロウジュ、天井にはサハリンのトド松、床柱には台湾産の大竹、壁砂には上部にサハラ砂漠、下部にエジプト砂漠の砂を使っているという、地理学者が趣味に走った建築です。中を見てみたいなと思います。
昭和4年(1929年)、世尊寺ができたと同時に移築され、「南北亭」と改名されました。(以上、現地の解説板より)

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南北亭を裏側から。

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南北亭の下には、茶室の等澍庵があります。
これは天保2年(1831年)、茶道宗偏流の再興者である不蔵庵龍渓の設計により伝馬町の商家、大黒屋の庭に建てられたものです。
昭和58年(1983年)、市に寄付されてここに移築されました。(現地の解説板より)

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公園内には志賀重昂氏の墓まであります。
昭和5年にインドのストゥーパ様式で建てられました。
遺骨は分骨されてもう一か所、生前に氏が選定した青梅街道沿いの北澤村宗元寺にも埋葬されているそうです。(現地の解説板より)

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公園内には志賀重昂氏関連意外にも興味深いものがあります。
こちらは「消防記念館」と書かれた建物です。古そうですが、説明はなく、来歴が分かりません。

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その前に「滅私奉公」と書かれた紀元二千六百年(昭和15年)の記念碑があります。
岡崎市警防団連尺分団によるものなので、あるいは消防記念館の建物とセットで移築されたのかもしれません。

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その隣には本多光太郎資料館があります。
これは地球物理学・磁気学等の研究者、本多光太郎博士の少年時代の勉強部屋を昭和44年(1969年)に移築したものです。
私は知らなかったのですが、博士はKS磁石鋼や新KS鋼を発明し、「鋼鉄の父」とうたわれる方だそうです。
生家は新堀町にありました。
岡崎おでかけナビ「本多光太郎資料館」より)

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資料館の展示案内図です。
見てみたかったのですが、既に閉館時間を過ぎていたので入れませんでした。

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こんなものもあります。
「三景艦主砲砲弾」
日清戦争(1894〜95年)の黄海海戦において日本艦隊の三景艦「松島」「橋立」「厳島」の主砲に使われた砲弾だそうです。

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海の記念碑(昭和52年)
この錨は戦艦長門の副錨で、戦後まもなくアメリカがビキニ環礁で行った原爆実験の標的にされた時の唯一の遺品という説明がありました。

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公園内には無料の動物園もあります。ここはニホンジカ舎。
閉園時間が近いので、このあたりは駆け足で回りました。

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園内には恐竜広場もあります。
恐竜モニュメントが11体もあります。私が訪ねた後の2018年にも追加されているようです。
そういえば東山動植物園にも、岡崎市南公園の交通広場にも恐竜像があったなと思い出しました。

東公園は志賀重昂氏ゆかりの世尊寺とその境内が出発点になっていますが、それにとどまらず様々な歴史的、娯楽的な施設が持ち込まれて、近年には旧本多忠次邸が移築されるなど多世代に魅力的な公園になっています。

<関連記事>
 「再整備前の南公園へ」
 「家康ゆかりの岡崎公園」
 「東山動物園の恐竜像」

 目次「近代の公園」

 

 

 

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2024年2月 9日 (金)

県立農業大学校から東公園へ(愛知県岡崎市)

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2017年5月、愛知県立農業大学校の追進館が2017年中に解体されるという中日新聞の報道を知り、岡崎市の美合(みあい)を訪ねました。
美合は岡崎市街の東の方にあり、最寄りは名鉄名古屋本線の美合駅です。
先に書いておくと、今も解体されたと聞かないので保留された状態のよう。計画が見直されたのなら良いのですが。

上の写真は追進館ではなく、同じ構内にある追進資料室(昭和16年)です。元は教室らしいです。
木々に囲まれた佇まいの美しいこと。(追記)※現存せず。スギヨシさんの情報によれば既に解体されたそうです(2024.2.12時点)

訪問日:2017年5月14日

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<岡崎市街全図(昭和12年頃)>

この当時は愛知県種畜場です。
愛知県立農業大学校は、農商務省愛知種馬所(明治43年)に始まり、愛知県種畜場(大正13年)を経て、昭和9年に追進農場として創設されました(土屋明彦氏「愛知県立農業大学校について」(『畜産の研究』63巻1号、2009年1月))

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現在の愛知県立農業大学校の案内図。
もちろん農地が広くて、総面積38.99haと書かれています。
追進館や資料室があるのは中心あたりです。

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林の中にはいろいろとモニュメントがあって、
例えばこれは「加藤正市君像」(昭和18年)です。
裏の説明によれば、彼は愛知県農林技師兼種畜場技師で、ここ追進農場において中堅農業青年を育成し、有畜農業を進めたそうなのですが、昭和5年に若くして亡くなり(46歳ぐらい)、そのことを悼んだ仲間が立てた碑のようです。

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こちらは「第九回実習生修了◯◯」と書かれた記念碑。
昭和九年三月二十六日と書かれています。

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こちらが追進館(昭和10年)です。
追進農場の講堂として建てられました。(2024.2.12現在現存(スギヨシさんより))

日本建築学会東海支部による「保存活用に関する要望書」(2017年)

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向こう側に玄関が張り出しています。

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窓から中の様子をうかがってみました。
しっかりした梁に支えられています。

中には貴賓室もあるとのこと。

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敷地の中央を貫く道の両側には木々が立派に育っています。
地図には「馬頭道」と表示されています。

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追進館を見た後は、歩いて東公園を目指しました。
ちょっと古そうな和風住宅。(2022年10月現存)
美合町平地

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段丘の緩やかな坂を下っていくとタカギ理容室。かっこいいフォントです。ウルトラマンっぽい。
タイルも油彩風のモザイクタイルが使われていました。(2022年10月現存)

この先で旧東海道と交差します。

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岡崎市立美合小学校の二宮尊徳像。美しいお顔です。
二宮尊徳の石像を昭和初期、全国に広めたのは岡崎の石工なんだそうです。
青銅製、備前焼製等とそれぞれに産地が広めていったのは興味深いです。

岡崎ルネサンス「岡崎発祥!石の二宮金次郎像オンパレード」

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その近く、美合消防団第三部の火の見櫓。(2023年6月現存)
「火の用心」の文字を金属板で切り抜いています。

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銘板を見ると昭和四年四月と書かれています。
製作は福岡町(JR岡崎駅の南、相見駅の近く)の矢藤鉄工所。今もあります。

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日露戦役忠魂之碑(明治38年)
東金山

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乙川に行き着きましたが、河原に馬!
どういうことで飼われている馬なのでしょうか。

国道1号線の乙川の橋を渡ります。

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しばらく旧東海道を歩いていくと少し脇道に入ったところにタイル張りの看板建築・近藤商店がありました。
たくさんある窓は木製サッシのモールガラスで、回転窓かと思われます。(2023年7月現存)
大平町中道

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しばらく歩くと東海道の大平一里塚。
片側の塚が残っています。

ここで右に折れて旧東海道と別れました。

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ここで小さな川を越えるのですが、昭和初期っぽいデザインの橋がありました。
橋名などは残っていません。
大平町天神前

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親柱の装飾といい、欄干の窓といい、アールデコのデザインが感じられます。

ここまで来ると東公園はあと1kmほどです。
次は東公園を取り上げます。

<関連記事>
 「岡崎旧市街西部の建物」(2016年8月)
 「岡崎旧市街中心部の建物」(2016年8月)
 「岡崎旧市街東部の建物」(2016年8月)
 「柱公園とその周辺の建物」(2023年8月)

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2024年2月 7日 (水)

岡崎旧市街東部の建物(愛知県岡崎市)

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2016年夏の旅、「岡崎旧市街中心部の建物」の続きです。
さらに東に向かって歩いていきました。
訳あって一週間後の再訪です。

スタートはこの林弓具店から。(現在も営業中)
両脇に太い柱を立てたようなデザインの看板建築です。

訪問日:2016年8月21日

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<岡崎市街全図(昭和12年頃)>

昭和12年頃の東部はこんな感じです。
立ち寄っていませんが、東遊町のあたりは遊郭らしい町割りになっていますね。

この地図の左端あたりからスタートしています。
左端に右から「花崗町」と書かれているのが分かりますでしょうか。
これは花崗石を加工する石屋が集まっていたかららしいです。
岡崎は岡崎型狛犬でも有名です。付近にお寺が多いのも立地に関連がありそうです。
現在このあたりを通る道は石屋通りとなっています。

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花崗町には現在も何軒か石材店があります。(2023年1月現存)

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近くにあった灯籠を見ると、鯉の鱗やひれまで繊細に表現されていて、彫刻技術の高さを感じます。

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久右衛門町で印象に残った建物。理髪店(理容ヤマモト)、薬局(キクヤ薬品)、たばこ屋、切手販売所が一体化しています。
残念ながら、2020年11月〜2021年11月の間に解体されて現存しません。

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旧東海道の伝馬通りには2軒(3軒?)並びの看板建築がありました。
曲面にタイルを貼ってみたり、奥行きをもたせたりしています。
左の学生服のアサヒヤさんは現在も営業されています。(ともに2023年1月現存)

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向かいにある中根佛壇店東店も面白い壁面です。
正方形で埋め尽くしているよう。(2023年1月現存)
伝馬町。

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門前通りの中根太郎八商店は近代建築っぽい建物です。
繊維原料商の事務所です。(2022年9月現存)

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同じ門前通りの後藤内科。(2022年9月現存)
こちらは戦後建築と思われます。面格子なども面白いデザインです。
サッシが木製なので1950〜60年代でしょうか。

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日本福音ルーテル岡崎教会は、1953年(昭和28年)の建築で登録有形文化財です。

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十王町にある岡崎市役所を通り過ぎて、これも岡崎市の近代建築として有名な旧額田郡公会堂に到着しました。
大正2年(1913年)に現在地に建てられ、大正5年の市政施行によって岡崎市に譲渡されました。国の重要文化財です。
昭和44年からは岡崎市郷土館本館棟として活用されてきましたが、耐震の問題で平成22年度(2010年度)から内部非公開になっています。

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裏側には同年に建設された旧額田郡物産陳列所があります。
可愛らしいデザインですね。同じく重要文化財です。
元々はせきれいホールの位置に南向きに(ということは公会堂と向かい合って)建てられていました。
上の地図にも公会堂として3つの建物が描かれています。

昭和36年に県勤労会館(現せきれいホール)を建設するのに際して、現在地に北向きに移築されました。
岡崎市郷土館時代は収蔵庫棟として使われていたので、こちらは元々非公開だったのでしょうか。

以上の情報は、岡崎市HPの紹介ページを参照しました。

互いに近すぎて全体が見づらくなっているのが惜しい。

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物産陳列所玄関の持ち送り。

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旧額田郡物産陳列所看守人室(大正2年)

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また東に向かって歩きます。

すぐ近くの若宮町に、グリーンの洋館付き住宅がありました。(2023年1月現存)
物産陳列所のグリーンに触発されたのかと思うような。
四つ割菱の換気口もユニークです。

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三河染色整理加工協同組合事務所?※現存せず。2016年8月〜2019年9月に解体。左側の門柱のみ残る)
若宮八幡宮の西側。本来の目的地をかなり外れていて、今思い返しても、なぜここに行ったのか思い出せません。建物に呼ばれたのでしょうか。

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その手前にはのこぎり屋根2連の小さな工場もありました。※現存せず。2016年8月〜2019年9月に解体)

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最後は東公園内の旧本多忠次邸にゴール。
元々は昭和7年(1932年)、東京の世田谷区に建てられた住宅です。
なぜここに移築されたのかというと、建てたのが旧岡崎藩主の末裔だから。

岡崎市が整備して無料公開しています。

参考:おかざきおでかけナビ「旧本多忠次邸」

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壁泉の一部も移築されています。

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内部も素晴らしくて、この海中にいるような浴室も面白いでしょう?
他の部屋も素晴らしいので、上記のリンクや他の方の発信をご覧ください。

今回見にくい写真が多かったような気がします。すみません。

東公園については翌年再訪しましたので、改めて記事にします。

<関連記事>
 「岡崎旧市街西部の建物」(2016年8月)
 「岡崎旧市街中心部の建物」(2016年8月)
 「柱公園とその周辺の建物」(2023年8月)

 

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2024年2月 5日 (月)

岡崎旧市街中心部の建物(愛知県岡崎市)

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2016年の夏、あいちトリエンナーレの岡崎会場を見学がてら、岡崎市の建物なども見て回りました。
時系列では岡崎公園を見た後です。この記事では中心部(岡崎城の東側)の近代建築などを紹介します。

まず乙川沿いの古い小児科医院の建物が気になりました。和風の住宅に洋風の診療所が付属する形です。
もう診療されていない様子でしたので大丈夫かなあと気がかりでした。

訪問日:2016年8月14日

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<2023年8月27日撮影>

それがSNSの友人情報で、2023年3月にカフェになったと聞き、南公園を訪ねるついでに訪ねてきました。
喫茶スモーコというお店です。→お店のInstagramアカウント
内部は白く明るい空間にリノベーションされていますが、病院時代のものも残されています。大きな鉄の扉の奥が何の部屋なのか、聞きそびれてしまいました。嬉しい変化です。

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喫茶スモーコの窓辺からは、乙川とそこに架かる殿橋が眺められます。
とても良いロケーションです。ここからまた2016年に戻ります。

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殿橋の立派な親柱。
昭和2年に完成していますのでアールデコのデザインが入っています。

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<岡崎市街地図 昭和12年頃>

またまたこの地図を出します。今回紹介するエリアはこのあたりです。
中央下にあるのが殿橋、東隣に昭和12年に架設された明代橋が描かれています。

殿橋を通る道に市電が通って、メインストリートであることが分かります。
この道は岡崎駅につながっています。

 

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この道を北上し、繁華街である康生通に入ると目を引く銅板の看板建築がありました。
とても見事です。竹村屋と書かれています。※現存せず。2022年解体)

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向かいにも看板建築があります。
履物屋さんのさくらや本店です。(2022年10月営業中)
探す楽しみがありそう。

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あいちトリエンナーレ2016の会場のひとつ、岡崎表屋。(2023年1月営業中)
戦後間もなくの建物で、以前はここでガソリンスタンドを営業していたそうです。今は事務所のみ。
1階が事務所、2・3階が家族や従業員の宿舎だったとのこと。
この使われていない2・3階で、インド人作家のシュレヤス・カルレが内部に残っていたものを活かしてどこまでが作品か分からないような空間を作っていました。

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見学が終わったらまた街へ。
岡崎の近代建築では一番有名かもしれない、岡崎信用金庫資料館(旧岡崎銀行本店)です。
設計は鈴木禎次で、大正6年の建築です。
前の道は旧東海道。

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無料で内部見学できます。

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その裏にある加藤洋服店さん。(2022年10月現存)
看板建築です。

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並びには2軒幅の洋風店舗。屋上があるみたいです。(2022年10月現存)

 

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もう少し中心よりの連尺通に、こんな個性的なビルがありました。(2023年1月現存)
銅板を貼った付け柱が6本、両端には太い煙突のような柱で、工場のようです。
足元には数色のスクラッチタイルが貼られています。

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北上して、あいちトリエンナーレの会場となっていた旧石原家住宅
安政6年(1859年)に建てられたお屋敷です。
秋のあいたて博などの機会に公開されています。

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ついでに周りを歩くと坂道に洋館付き住宅がありました。※現存せず。2020年11月〜2021年11月に解体)
六供町杉本

 

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亀井町の加藤左官店。看板建築です。(2023年1月現存)
建築関係なのでまさに「看板」を兼ねているのかも。

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八幡町の洋風住宅。(2023年1月現存)
換気口を建物の角に付けていたりして独特です。

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ここから山手(六供町甲西)の方を目指してみました。
近代の山手の住宅地の雰囲気があります。
この塀など洋風で面白いデザインでしょう?(2023年1月現存)

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同じく六供町甲西の住宅。(衛星写真で現存)
近代のものっぽく見えるのですがどうでしょう。

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そしてこちらは文句なしの洋館。(衛星写真で現存)
雁行する複雑な配置をしています。どれもが正面に見えます。
ショッピングセンター・シビコの窓から見えて、ここに行ってみたいなと思ったのでした。
ここからの眺めは良いはずです。

最後は中心部とはいいがたい所まで行っていますが、さすがは中心というか、商業系の看板建築や立派な銀行建築などがあります。
今回確認して、小規模な物件が2つなくなっていたのは残念でした。

 

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2024年2月 4日 (日)

岡崎旧市街西部の建物(愛知県岡崎市)

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2016年夏、あいちトリエンナーレに合わせて岡崎を訪ねた時の記録です。
今回は岡崎公園(岡崎城)より西側エリアの建物について。

八帖町では江戸時代初期から八丁味噌づくりが行われていて、カクキュー、まるやの2つの工場が営業しており、どちらも見学を受け入れています。
この日はカクキューさんを見学しました。
これは本社事務所(昭和2年)です。(建物名称や年代などは『愛知県の近代化遺産総合調査報告書』を参考にしました)

訪問日:2016年8月14日、21日(龍城温泉周辺)

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<岡崎市全図(昭和12年頃)>

 昭和12年頃の岡崎公園の西側はこうなっていました。
 東海道が矢作橋から南へ、八帖町から東へ板屋町、また北上して田町へと岡崎城下27曲がりの一部を成している古い街です。

 この公園前駅は、今も名鉄の岡崎公園前駅としてあります。

 カクキューのある八帖町は、名古屋城から西へ約八丁(870m)の距離にあるのが由来です。
 矢作川の水を利用する立地であることも分かります。

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カクキューの敷地内は大きな蔵が立ち並んでいました。
左は史料館となっている本社蔵(明治40年)

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昔ながらの製法で作られる八丁味噌の樽。

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古い住宅もちらっと見えました。

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旧東海道筋で、周辺は古い町並みが残っています。

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一通り見学したら東へ。
八丁橋で早川を渡ります。
八丁橋の親柱には昭和十五年十一月改築と平成三年二月竣功の文字。
昭和十五年の時の親柱を再利用したのかなと思いますが、場合によっては再再利用なのかも。

川の上の高架は愛知環状鉄道です。

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昭和12年頃の板屋町のあたり、今では中岡崎町のあたりには古い住宅が残っています。
これは洋館付き住宅。洋館部が独立しています。(2022年10月現存)

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名鉄の線路の南北は所々トンネルでつながれています。
向こう(南側)の方が一段下がっています。

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中央が突出する洋館付き住宅。(現存せず。2020年11月〜2022年10月の間に解体された模様)

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近代の和風建築と思われます。飲食系かも。(2022年10月現存)

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四角いコンクリートの箱で構成された住宅。
木製サッシや持ち送りに古さを感じさせます。空き家のようです。
(2022年9月現存)

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 これは戦後の洋館付き住宅でしょうか。(2022年9月現存)

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これも洋館付き住宅。(2022年9月現存)

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縁あって翌週も岡崎を訪ねました。
街歩きの最後に田町の龍城(たつき)温泉に入りました。
龍城=岡崎城のことです。大正14年開業で、木造の昔ながらの建物で営業されていました。

地図を見ているとこの前の道が旧東海道のようです。

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玄関を入ってから男湯・女湯に分かれます。

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内装も創業時とは言わないまでも昭和の昔の様子を留めています。
右にちょっと写っていますが、驚いたのが一人用サウナ。

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マジョリカタイルやモザイクタイルなど各種タイルも楽しめます。

龍城温泉はその後2021年から長期の休業に入り、一時は解体の話もあったのですが、龍城温泉を愛する人たちがファンクラブを作って熱心な働きかけを行い、清掃や見学会が行われるうち、サウナ施設として営業したいという方が現れ、2024年2月からサウナ化に向けた改修が行われているというのが現在の動きです。改装後も建物の雰囲気や設備、内装の一部は残る予定とのことです。

参考:中日新聞「大正開業の銭湯、改装前に最後の見学会 岡崎・龍城温泉でファンクラブが企画」(2024.1.27)

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周辺にも古そうな建物がありました。こちらは白十材木店。
材木屋さんの建物ってふんだんに木を使っていて魅力的です。
(現存せず。2017年5月〜2018年6月の間に集合住宅に建て替えられています)

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龍城温泉の向かいにも志貴小児科医院(昭和3年)だった住宅が建っています。
元は住宅ではなかったのかもという雰囲気です。(2023年1月現存)

2015年9月までは同じ敷地内に別棟が建っていたらしいのですが2016年8月時点ではなくなっていました。
惜しいタイミングでした。

この時歩いたエリアは、商業系よりも製造業、住宅系の建物が多く見られるエリアでした。
カクキューさんにはこのまま公開しながらの営業を続けていただきたいですし、龍城温泉にはサウナ施設としてうまく継承された事例となってほしいなと思います。

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2024年2月 3日 (土)

家康ゆかりの岡崎公園(愛知県岡崎市)

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岡崎のことを書いたので、この際、まだ書けていなかった岡崎の記事をまとめて書いておこうと思います。
2016年夏、あいちトリエンナーレの見学のため、会場の一つだった岡崎市を訪問しました。

岡崎公園は岡崎城址を公園としたものです。
岡崎城は徳川家康公の生まれた城として江戸時代は大切にされていましたが、明治になり、明治6、7年に取り壊されてしまいました。
この跡地に明治8年、岡崎公園が開園しました。

現在の天守閣は昭和35年(1960年)に復元されたものです。隣には昔から龍城神社があります。

訪問日:2016年8月14日

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岡崎公園の案内図。左が北です。
城は乙川と伊賀川が合流する場所にあり、細かく何重にも堀に囲まれています。
さらに西(この地図では下)にもっと大きな矢作川が流れています。

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岡崎公園の施設として注目されるのが公園碑です。
あちこちで◯◯公園碑を見てきましたが、「公園」としか書いていないのは初めてです。しかも「園」が大きいですね。
裏面の記載では、明治12年に設置されています。

岡崎公園はその後、大正6年に造園家の本多静六氏・田村剛氏の設計で改修計画が作られます。

参考:『岡崎城跡の整備基本計画-平成28年度改訂版- 資料編』p9 に図面を記載

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<昭和12年頃の岡崎市全図>

 昭和12年頃の岡崎公園には龍城神社の他に、市立図書館、県立岡崎病院、市下水道事務所が描かれています。

 県立病院(明治13年〜)と図書館(大正11年〜)はともに戦災で全焼し、戦後、県立病院は移転後、市に移管されて現在は「岡崎市民病院」、図書館も場所を変えて「岡崎市立中央図書館」となっています。

 参考:「岡崎市民病院の沿革」 、 『岡崎市の図書館概要』

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岡崎城は城の近くに船で着けるということで有名だったらしいです。
このあたりということで花崗岩の帆掛け船の石像と舟着場の碑が立っています。

向こうに見える水面が乙川です。

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その内側に龍城堀。

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手前が晴海堀で、向こうに見えるのが廊下橋。
元々屋根付きの橋だったそうです。
大正9年にこのような石のアーチ橋に架け替えられていて、これはこれで良いなと思います。

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天守閣の脇にある亀趺。碑文の頂部には宝珠を抱く龍が刻まれています。
東照公遺訓碑(昭和11年)で、横の解説によると岡崎銀行を創立した加藤賢次郎翁が寄贈したものだそうです。
翁は「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとく・・・」で始まる徳川家康公の遺訓を座右の銘としており、これを市民にも広めるために碑を製作したそうです。
岡崎は岡崎型狛犬で有名な石材加工の産地で、この石碑の施工は岡崎石工研究所長の池上年氏に依頼されたと書かれています。

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家康公ゆかりでは他に「産湯の井戸」があります。
この井戸の水を産湯に使ったという伝承があるようです。

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隣に「東照公産湯井」の屋根付きの碑も立っています。

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こちらはえな塚といって、家康公の胞衣を埋めた塚で、本丸南から移されたとのことです。

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ちょっと変わったところで「アラモの碑」(大正3年)

岡崎出身の地理学者・志賀重昂氏が、テキサス独立戦争のアラモの戦いと日本の長篠城の戦いで、ともに援兵を求めて脱出した青年の使命感がよく似ているとして感動し、アラモと岡崎にそれぞれ自作の漢詩を刻んだ碑を建てたそうです。

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また杉浦君銀蔵頌徳碑(大正11年)も志賀重昂氏の撰文です。
杉浦銀蔵氏(二代目)は明治17年に桑畑を開いて養蚕に取り組み、明治18年には織物工場、明治19年に洋瓦の製造工場、明治28年には水力発電所の工事に着手しましたが、電力事業がこれからという明治32年に亡くなったということで、その功績を顕彰する碑を建てたということです。

志賀重昂氏の関連史跡は東公園にもいくつかあります。

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公園内には飲食店、売店がいくつもあり、いつからとは分からないものの、明治期の公園らしいなと思います。
これは八千代本店といって田楽と菜飯の老舗。

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こちらは桜茶屋。他にもいくつかの店があります。

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昭和35年(1960年)に高野精密工業(現リコーエレメックス)が寄贈したという花時計。
年4回花の植え替えが続けられているそうで、昨年は初めて小学生対象にデザインの公募が行われたそうです。

 

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この花時計で気になったのが壁泉の吐水口。
古めかしいような気もするのですが、そうでもないでしょうか。
何かの再利用だったら面白いなと。

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岡崎公園の東にある多目的広場。
お城の時代は菅生曲輪で、公園になってからは運動場でした。

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多目的広場の階段状の観覧席。

公園内には他にも多様な施設や記念碑などが集積していて、消化するのは大変です。
まだ見落としているものがあるかもしれません。

 

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2024年2月 2日 (金)

西尾鉄道の軌道跡など(愛知県岡崎市)

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「柱公園とその周辺の建物」の続きです。

南公園の後、若松町の方に寄り道してみました。
そこに向かう道が素敵な散歩道でした。

県道483号岡崎幸田線と東海道本線をフラットにつなぐ高い土手道があって、歩行者しか通れないような道です。
その間、ゆるくカーブする細道を橋で越えるのですが、これはかつての西尾鉄道の軌道跡なんだそうです。

訪問日:2023年8月27日

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単純に西尾鉄道と書きましたが、明治44年に岡崎駅の東側にあった岡崎新駅と西尾駅を結び開通した西三軌道(軽便鉄道)が最初で、翌年西尾鉄道となり、名鉄に合併されて西尾線、戦後は岡崎市内福岡線となり、1962年(昭和37年)に鉄道が廃止された後も名鉄バス専用道として使われていた(2016年3月末廃止)というので、何の軌道跡と言えば良いのでしょう。

ここは鉄道ブログではないので深入りはしません。

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軌道跡を渡った橋の両側には幟を立てるような石柱があって、昭和二年の文字が見えます。
参道としての性格があったようです。

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東海道本線に沿って少しだけ南に歩くと小さなトンネルがありました。
暗渠化していますが、元々は水路用のトンネルだったと思われます。

地元では「マルガタ」と呼ばれているそうです。

→参考:岡崎ルネサンス「地元の人しか知らない散歩道、明治の遺産「マルガタ」探索」

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小さなトンネルながら、土台が石でアーチは赤煉瓦で組まれたしっかりしたものです。
人も通れます、というより今は人が通るために使われています。

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反対側から見たところ。

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東側の煉瓦の小口を見ると丸にDとかHとかIの刻印が押されています。
西側の煉瓦は白いペンキで塗られているのでよく分かりません。

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若松町の集落にも入ってみました。
春日神社には狛犬ならぬ狛鹿が一対ありました。
全国に春日神社は多数あって、春日神社と鹿は縁が深いですが、狛鹿は珍しいと思います。
裏に大正2年の文字があります。

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春日神社のモザイクタイル洗い場。
洗ったら鮮やかになりそうですが。

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岡崎駅への帰りも所々、軌道跡を見ながら歩きました。
残念ながら名鉄バスの土地で通行止めになっていますので、ここを歩いて変える訳にはいきません。

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農道のようになりつつも軌道跡は続きます。

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まっすぐにと。

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最終的には普通のアスファルト道路になって、JR岡崎駅の東側に出ました。
このあたりに岡崎新駅があったようです。

この日はこれで帰ったのですが、この機会なので岡崎の記事を続けたいと思います。

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2024年2月 1日 (木)

柱公園とその周辺の建物(愛知県岡崎市)

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JR岡崎駅から南公園に向かう途中、気の向くままに歩いていくと柱公園にたどり着きました。
入り口には粗削りの(でも角は整えている)石の門柱が建っていて、古い公園のように見えます。

訪問日:2023年8月27日

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階段を上がっていくと丘の上に記念碑や灯籠などがありました。

正面にあるのは誠忠碑(明治43年。日露戦争関係?)、右は岡崎・羽根学区の昭和30年の慰霊碑です。

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その脇には立太子禮記念樹の碑(大正5年)があります。
昭和天皇が皇太子になった時ということになります。

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また園内には「柱町耕地整理記念碑」(昭和8年11月)があります。
裏面に柱町耕地整理事業の概要が刻まれていて、
昭和6年3月21日設立、9月11日工事着手、昭和8年4月18日工事完了と分かります。
整理前の民有地面積は十四町一段二畝二十三歩、国有地面積は二段八畝十一歩ですから、施行面積は14ha余りでしょうか。

個人的にはこの記念碑に一番興味があります。
この公園自体が耕地整理で生み出されたのかもしれません。

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他にも皇紀二千六百年記念樹の碑(=昭和15年)もあります。
この小さな公園内に記念碑だらけです。

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園内を見ていくと、長〜いベンチ。
同じタイプのベンチは南公園にもいくつかありました。

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記念碑のある広場から一段下りた広場には遊具や先ほどのベンチがあります。
秋葉神社の祠などもあり、どういう経緯でいつ頃できた公園なのか気になりました。

このあたりは昭和初期に開発が進んだのかなということを踏まえて、この周辺に古い建物がいくつもあるので紹介していきます。

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岡崎駅の近くに服部工業株式会社の服部記念館(旧事務所/大正15年)があります。
同社は明治18年に鋳物業で創業(当時は康生町)、明治42年にこの場所に移転し、戦前には三州釜を開発するなど、厨房機器を製造するメーカーです。

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洋館付き住宅もありました。
(柱町字東荒子)

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これも古そうな住宅。洋館付きまでは行かないけれど、突出部に洋風の要素もあります。
(柱町字東荒子)

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柱公園の南側、かなり大きな敷地で古そうな住宅ですが崩れていました。
(柱町字東荒子)

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唐突に茅葺きの民家があります。

ここは産婦人科の吉村医院で、この古民家は吉村正院長の趣味が高じて(そう書かれています)裏庭に移築したものらしいです。
古典的労働体験の場として利用されていたと書かれています。
以前は病院の建物に隠れていたのですが、解体されて見えるようになりました。

参考:「吉村医院あさひ産婦人科 これまでの歩み」

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洋館付きと言っていいのか、可愛らしい付属屋付きの住宅。
(柱町字東荒子)

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歩いていると珍しい花火店「佐野花火店」がありました。
花火の季節なので賑わっていました。
(柱町字福部池)

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これも花火店の関係でしょうか。
裏手に木造の工場らしき建物がありました。
(柱町字福部池)

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庭の松が茂っていてよく見えませんが、洋館付き住宅です。
(柱町字福部池)

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所々に古い木造建築が混ざります。
もしかすると用途は住宅ではないかも。
(柱町字福部池)

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南公園を目指すのにグーグルマップを確認しながら歩いていて、
「旧愛知県第二尋常中学校講堂」という表示があったので寄ってみました。
「ん?こんなところに?」

現地の解説によれば、第二尋常中学校というのは現在の岡崎高等学校で、明治29年、愛知県で二番目に開校しました。講堂は翌明治30年の完成です。中学校は手狭となり明大寺町に移転しますが、講堂だけはその際に日清紡績針崎工場内の現在地に移築されて、工場の講堂となりました。昭和23年には針崎工場内にあった龍城実科高等女学校の講堂になりました。貴重な建物です。

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日清紡績針崎工場は2008年に閉鎖された後、跡地は三菱地所の開発で「岡崎プライムパーク 春咲の丘」という住宅地等になりましたので、面的に新しい戸建住宅が立ち並んでいます。講堂はまたもや取り残された形です。

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近くの大樹は住宅地の側で講堂とともに、昔からの風景を留めているようです。

柱公園の周辺は、岡崎の旧市街から離れていて、近代に工場や住宅地として開発が進んだ場所のようです。
多様な建物を見ることができました。

<関連記事>

 「再整備前の南公園へ」
 「南公園の交通広場」

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