9ヶ月ぶりにブログを更新します。
2022年GWの高知県田野町の旅の後なのですが、ここからさらに時間を遡って話は2018年GWの高知旅に合流します。(ややこしくてすみません)
2018年の旅は徳島から列車で高知に入り、高知市内を見て回りました。
この時に初めて高知公園を訪ねました。
高知公園は明治6年5月に許可が下りて、明治8年に開園したという早い時期の県立公園です。
上の地図を見てわかるように、高知公園は高知城跡が公園になったものです。
2018年に高知公園碑を確認したものの解読に苦心し、2022年に再訪して写真も追加しました。
そのため、以下の記事は2回の旅行の写真・記録が混ざっています。また公園に注目した記事なので高知城自体にはそれほど触れません。
(高知公園に関する記述は、主に佐藤昌著『日本公園緑地発達史』に拠っています)
まずは東正面の追手門から入って、左手の丸ノ内緑地を確認します。
北東部に煉瓦積みの門柱が残っていました。
丸ノ内緑地には明治11年に女子師範学校の校舎を建設、以後明治期に警察本署、武徳館、高知県公会堂、農業会館などが建てられました。
これらの建物は昭和20年7月4日の戦災を受け、全て取り壊されました。(参考:『史跡高知城跡 丸ノ内緑地試掘確認調査報告書』(2006年、高知県教育委員会・(財)高知県文化財団埋蔵文化財センター))
この塀はその数少ない遺構だと思います。
2022年に丸ノ内緑地は再整備の工事中でした。
片隅には「高知県殉職警察官之碑」(昭和2年)がありました。
その右手には気になるコンクリートの柱。
井戸跡の隣にあるので、水飲み場でしょうか。
デンティル(歯状装飾)が付いているので、戦前のものっぽいなと思います。
この時はラジオ塔の痕跡を探していたので特に気になりました。
さてお城の登り口には円形の石垣があって、その上に板垣退助像が立っています。
横の石碑及び背面の銅板、高知市HPによると、銅像は大正12年に除幕されたものの、昭和18年に金属供出され、昭和31年に再建されたものだそうです。
高知城の石垣には「石樋(いしどい)」という設備があり、排水が石垣を傷めないようになっています。
降水量の多い高知ならではです。
s
公園として、注目したいのは杉ノ段です。
ここは江戸時代には杉の巨木が並んでいたそうなのですが、明治以降刈り払われてすっきりしています。
左に十字の池があるのが見えますでしょうか。
高知城天守で展示されていた写真に、この場所の古い写真(真ん中)がありました。
撮影時期は書かれていませんが、現在ある大きな木がまだ見当たりませんので、戦前または戦後間もない時期かと思います。
モダンを通り越して前衛的な公園に見えます。
もう少し拡大して、現在もこのように十字の池は残っています。
ただ柵が後で追加されたようです。
L字型のベンチ。時期は不明です。
これはベンチなのか何なのかよく分からないもの。
花壇なのかもしれません。
杉ノ段には「清水源井君記念碑」(大正14年)があります。
碑文を読むと高知の水力発電事業に功績のあった方らしいです。
高知公園には他にも記念碑がありますが、多すぎるので省略します。
杉ノ段の上が三ノ丸、そしてその上の二ノ丸に気になる建物がありました。
売店のようで、裏の窓の上にギザギザの装飾があり、もしかすると戦前物件なのかもしれません。
そして公園として重要なのが二ノ丸にある「高知公園碑」(明治10年)です。
直方体の石碑の四面に碑文が刻まれています。
かなり読み取りに苦心しましたが、『日本公園緑地発達史』に掲載の碑文も参考にすると概略下記の通り。
公園記 維時 明治皇帝臨御之六年一月公園設 置之令既頒府県矣而本県則以旧 藩城之為県下中央人民会集之衝 上請以為公園乃毀宮殿之可毀伐 樹木可伐斬其榛莽荊棘而植以 嘉卉美草目其牙域以為懐徳館 名其楼櫓以為咸臨閣東南置忘
帰宜休二亭西南有櫻山涼風亭曰 獅子壇壇隅有老梅一樹古来有勇 獅子之称?曰鉄門曰杦壇井曰熊野社 各所楼亭名目為十有一景於是◯ 風趣一変萬状改観凡目之所触境之 所遇無不新且奇雖山童野叟不 解山水之趣者使躊躇顧瞻愛玩 而不忍去可不謂佳園哉唯以其在 南維僻陬之郷名雖不甚著若使之
在通邑大都之間則所謂嵐山上野之 諸園亦将不能壇勝於天下矣此園也 興切於明治七年三月告成于翌年五月 自園之成毎逢嘉辰令節貴賤之士 女絡繹携遄欣欣然遊楽于其中謳 歌維新之今日不止鳴呼古之人無 此園之以遊楽今之人有此園之以遊 楽抑何古之人之不幸而今之人之幸福 也夫使今之人獲此幸福者不可謂非
天皇陛下至仁徳澤之深則於此園設置 之顛末安得不勒諸貞珉以垂不朽哉 若夫四面山川之秀遠覧遙矚之美 遊観者自能得之則姑置而不記云
明治十年九月吉辰 松村如蘭撰 前○○ 北岡了阿誌
秋山村石工 廣瀬吾助 廣瀬久太良
|
さらに口語に直してみるとこんな感じ(間違いもあると思います)
「明治6年1月、公園設置の政令が府県に公布された。本県は旧藩城(高知城)が県下の中央で人々が集まる重要な場所であることをもって、上請して公園とした。
すなわち御殿のうち取り壊すべきものを取り壊し、樹木の伐採すべきものを伐採して、榛莽荊棘(生い茂った草木やいばら)を刈り、嘉卉美草(美しい草花)を植えた。
そして本丸御殿を懐徳館とした。その楼櫓(天守閣)の名を咸臨閣とした。東南に忘帰亭・宜休亭の二亭を置き、西南に桜山・涼風亭がある。獅子壇の隅に老梅が一本あり、古来勇獅子の称号がある。鉄門、杦壇井、熊野社など各所の楼亭は十一景をなす。
これによって趣きは一変し、全てが見違えるようになった。およそ目に触れる所、出会う場所、新奇でないものはない。たとえ山の子や田舎のおやじのような山水の風趣を理解しない者でも気になって振り返り、愛おしく思って立ち去り難くさせる。佳園といわざるをえない。
この公園が(国の)南の端の辺鄙な土地にあってあまり名を知られないとしても、もしこれが大都会にあれば、いわゆる嵐山や上野公園など諸園にも負けないであろう。
公園が明治7年3月に着工して、翌年5月に完成すると、めでたい日には貴賤の男女が絶え間なく集い、嬉々としてその中に遊び、維新の今日を謳歌して止まない。昔の人はこの園で遊楽することはなく、今の人はこの園で遊楽をしている。そもそも何で昔の人が不幸で、今の人が幸福であるのか。今の人にこの幸福を得させたものは天皇陛下の仁徳の深さでないとは言えないだろう。すなわちここに公園設置の顛末を石碑に刻んで不朽に残さずにいられようか。もしそれ四面山川の優秀さ、遠く望む美しさ、遊覧するものが自らこれを得れば、しばらくおいて記さずという。
明治十年九月吉日 松村如蘭撰 前◯◯北村了阿誌す
秋山村石工 廣瀬吾助、廣瀬久太良」
公園設置の経緯が記されています。
このように公園の申請は早かったものの、整備に時間がかかって開園が明治8年になっています。
その先は天守閣で別名が咸臨閣です。
天守閣からの東方面の眺め。
手持ちの絵葉書で似たような方向のもの。
遠くの山並みを参考に位置関係が把握できると思います。
右手の丸ノ内緑地に結構建物が立ち並んでいることが分かります。
公園の裏側にも回ってみました。
北西側入り口の門柱。切石貼りの門柱です。
同様の門柱が桜山近くの門にありました。
最後におまけ。
石垣の石を抜く人がいるんですね。
花見の時期に備えてでしょうか、置石が用意されていました。
<関連記事>
「(2)リゾート地種崎と種崎千松公園」に続く
◇目次◇ 近代の公園
最近のコメント