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2023年2月

2023年2月18日 (土)

四国みぎした旅行(12)室津のいろいろ(高知県室戸市)

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2022年GWの四国旅行の続きです。

室津編の最後に、歩いていて他に気になったディテールなどを脈絡なく取り上げます。

まず水切瓦の建物は室津でも見かけました。吉良川や奈半利に比べるとそれほど目立つことはありませんが。
これは室津内港の奥にあるタバコ屋さんです。

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こちらは浮津の水切瓦。

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これも浮津の水切瓦。

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とくにこちらは瓦のように燻した煉瓦?が積まれた塀もあります。
土の色が白いので耐火レンガを燻しているのでしょうか。
風雨にさらされて黒い被膜が剥げてまだらになっているのも味となっています。

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室津川河口付近の欄干。アーチ状の開口部をもつコンクリートです。
昭和初期っぽいデザイン。

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市松に並べられた透かしブロック。
高知では他の町でも見かけました。

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このタイプの表面に模様を描いた透かしていないブロックは何と呼ぶのでしょう。
兵庫県以西でよく見かける気がします。
組み合わせることで大きな図柄になっています。

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路地の奥の、味のある勝手口と窓の格子。

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戦前のデザインに思える門柱。

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面格子風の門扉。
同様のものを高知市近郊でよく見かけました。

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浮津の国道55号線を渡った山手にて、廃医院です。
植栽は剪定されていますし、車庫には新しい車が止まっていましたので、管理はされているよう。

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医院名が面格子風の直線的なデザインです。

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その隣にも廃墟の建物がありました。

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四国八十八ヶ所札所の津照寺。
港に近い丘の所にあります。
時間の関係で参拝はパスしました。

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室戸火力発電所跡の碑。
四国電力送配電(株)高知支社室戸サービスセンター敷地の一角にありました。
大正12年に建設され、昭和9年まで稼働した火力発電所を記念した石碑です(昭和47年に有志が設置)。
植栽で隠れて一部読めませんが、大正時代に初めて電灯が灯されたなどとも書かれています。

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室津港のあたりを歩いていると車の移動パン屋さんがやってきました。
パン屋きしゃぽっぽという名前で徳島ナンバーです。
遠いところまで売りに来るんですね。
どんなものを売っていたのか確認まではできず。

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歩き回るのに時間を使いすぎ、昼ごはんはお惣菜屋さんで買って食べました。
これはぶりのこの煮付けです。高知ではぶりのこを食べるんですね。初めて食べました。

この後、バスで奈半利に向かいました。

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2023年2月15日 (水)

四国みぎした旅行(11)室津の煉瓦塀(高知県室戸市)

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2022年GWの四国旅行の続きです。
前回に続き、室戸市の室津です。

今回は室津の煉瓦塀を取り上げます。

話が戻りますが、バスを降りて最初に気になった物件がこれでした。
井戸があって、その周りを煉瓦塀やコンクリートブロック塀が囲んでいます。

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近づいてみると石碑があって、右から「室津旭井戸」また「大正十二年旧四(?)月竣工」、そして世話人のお名前が列挙されています。
大正時代に掘られた井戸のようです。煉瓦塀も大正時代なのでしょうか。

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室津旭井戸の裏側から。

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この煉瓦塀の上には煉瓦が平で乗せてあり、日本煉瓦(堺)の四弁花の刻印がいくつか見られました。同社は明治創業で昭和22年まで煉瓦を製造しているらしいので、時期的にも合います。「関西地方の煉瓦刻印」の日本煉瓦の項によると「古い構造物に見られる印ほど数字を内包していることが多いようである」と書かれています。
刻印が見やすいので、雨は少しだけありがたいです。

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さらにその通りを港に向かって歩いていくとまた煉瓦塀が現れました。
上の方が広がっていく積み方で、こういう積み方は実はありがたいです。

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というのは、下から覗き込むと平面にある刻印が確認できるからです。
果たしてここにも日本煉瓦(堺)の四弁花の刻印、それも真ん中に数字の「17」が入った刻印が確認できました。
この後、行く先々に煉瓦塀が現れました。しかも結論を先に言うと、日本煉瓦(堺)の刻印がほとんどです。

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港の奥の階段脇にも低い煉瓦塀がありました。
菱形の刻印のようでしたが、不明瞭だったので保留。

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港の奥付近の民家の煉瓦塀。
このように塀の上部に斜めに煉瓦を並べ、その上に幅広く煉瓦を並べて屋根のようにした装飾的な塀は、室津のあちこちで見かけました。

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上に平面が出ているので観察しやすいです。
ここでも日本煉瓦(堺)の四弁花の刻印がありました。

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室津の堤防側の集落の煉瓦塀。

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ここでは「菱形にS字」の下野煉化(シモレン)のものとされる刻印がありました。
甲浦に続いての出現。なぜこんな遠くにと思います。

(追記)「関西地方の煉瓦刻印」に四国産業の煉瓦刻印として、この菱形にSの刻印が掲載されています。地域的にもこちらの方が妥当だと考えますので、訂正いたします。(2023.5.27記)

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これもその近くの煉瓦塀。
やはり上部に斜めに並べた煉瓦をはさんでいます。

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こちらは「港の上」の隅切りのある煉瓦塀です。

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下から覗き込むと日本煉瓦(堺)の四弁花の刻印があります。
見つかった写真だけ載せていますが、そう都合よく見えるものでもないので、この動作を繰り返しているうちにだんだん頭がクラクラしてきました。
だんだん裏面の確認はおろそかになっていきました。

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こちらも「港の上」の港に面する通りの煉瓦塀。

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お屋敷の奥に煉瓦蔵も見えました。

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その裏手の煉瓦塀。

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一木神社の近くでも崖の上に煉瓦塀が残っていました。

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両栄橋を渡って浮津の方へ。
ここでもいくつか煉瓦塀を見たのですが、その中でも大規模だったのがこの敷地です。
医院の駐車場で、もしかして元々医院の敷地だったのでしょうか。

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ここでも塀の上に、日本煉瓦(堺)の四弁花の刻印を確認できました。

吉良川では、阪神方面に備長炭などを運んだ帰り荷として煉瓦が運ばれたという話がありました。
室津の場合は何が運ばれていたのでしょう。魚を運んだ船で煉瓦を積んで帰るというのはイメージしにくいですけど。

またなぜこんなに日本煉瓦(堺)がほとんどなのか、下野煉化らしきものがあるのか(甲浦にもあったのでたまたまではなさそう)も今後の課題にしたいと思います。

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2023年2月13日 (月)

四国みぎした旅行(10)隆起する室津港(高知県室戸市)

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2022年GWの四国旅行の続きです。

吉良川からはバスで少し後戻り、室戸市役所のある中心部、室津(狭い意味での室戸)を目指しました。
吉良川の海岸からは室戸岬に向かってカーブしていく海岸とそこにかかる暗い雲が望めました。これからそこに突っ込んでいくのかとややためらいはありましたが、果たしてポツポツと雨が降り出します。
室戸バス停を降りた後、なんとなく室津港に向かいました。

歩いて出たところは室津港の一番奥で、船を引き上げるレールが海中に突っ込んでいます。
右が室津の市街、左は港に覆いかぶさるような森です。
結構高さがあるのが分かると思います。

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港の奥はこんな風に崖になっています。

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港の奥の左手には小さな住吉神社がありました。

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入口付近から見た室津港。
逆L字に折れ曲がっています。

非常に角ばっていることが分かると思いますが、ここの港は実は天然の港ではありません。
このあたりに天然の良港がないためにわざわざ荒磯を掘り込んで作られた人工の港なんです。
江戸時代、土佐藩の家老・野中兼山により、手結港(香南市)、津呂港(室戸市)に次いで3番目に手掛けた掘込港だそうです。
平安時代には土佐に赴任していた紀貫之が京に帰るとき、「室戸の津」に10日間足止めされたことが「土佐日記」に書かれているそうなので小さな港はあったようですが、江戸時代の1629年(寛永6年)、最蔵坊という僧侶が初めて港を掘ったそうです。ただ工事は難航し、工事を引き継いだ野中兼山も途中で失脚させられたため、最終的に一木権兵衛が後を継いで1667年(延宝7年)に完成させたそうです。40年近くかかっていることになります。港が整備されたことで室津が捕鯨基地、カツオ・マグロ基地となる礎となりました。(参考:国土交通省・高知港湾・空港整備事務所「室津港のあれこれ」

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一木権兵衛は工事の障害になっていた岩が除かれることを神に祈り、無事に工事を終えたので、人柱として身を捧げたという話が伝わっています。港を望む奥の丘、四国八十八ヶ所の津照寺がある丘の一角に一木神社として祀られています。写真の中央に見えている建物がそうです。

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室津港にはジオパークの案内看板が立っていました。
これはその一部分です。
ここに「隆起を記録した港」と書かれていますが、やっかいなことに室津港は作っておしまいというわけにいかず、南海地震があるたびに1mほども隆起してきたそうなんです。隆起するたびに港は使い物にならなくなるので、再び底を掘るということを繰り返して、掘った土砂を周囲に積んでいった結果、このように海面から高い港町になりました。この港町は「港の上」と呼ばれています。大変な苦労ですね。

この室津港で隆起を繰り返したサイクルが実は、次の南海トラフ地震が何年後に起こるかの確率計算の根拠になっているらしいです。

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室津港の一角にはこのように煉瓦積みの擁壁がありました。
ここも元々の設置位置から上昇していると思われます。

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港の上には陶器製の繋留杭がいくつかありました。
ロープの食い込んだ跡があります。

向こうの海面と比べるとかなり高い位置にあることが分かります。

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港の上の向かいには桜の並木が覆いかぶさっています。
実はこの背後の堤防の上にも住宅があります。

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現在の海面の高さにある係留用ボラード。5tと書かれています。

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室津港の入り口に気になる構造物がありました。
石垣の上に丸い台座があります。

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近くに見に行ってみるとこのように回り階段が付いています。
石の質感からみて、そこそこ古そうな構造物です。

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上から見るとドーム型にコンクリートの覆いがありました。
小さな灯台のようなものが乗っていたのでしょうか。

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少し離れたところには四角いコンクリート台座もありました。
これも何でしょう。クレーン台座とかでしょうか。

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なお明治以降、海運と漁業の発展による船舶の増加と大型化で、それまでの港が手狭になったため、大正13年から港の拡張工事が始まり、昭和19年、東側に現在の前港が完成しました。それまでの港は「内港」と呼ばれています。(参考:国土交通省・高知港湾・空港整備事務所「室津港のあれこれ」)上の写真が前港です。

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魚市場は内港の外側にあります。

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ところで漁協の建物の裏に気になる建物がありました。
表から見るとこんな建物ですが、

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裏から見るとこんな感じです。港の裏側の斜面上に建っています。
表は改修されているかもしれませんが、裏側はどうも古そうです。
窓が縦長の木製上げ下げ窓ですし、

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柱の頂部は2段になっていて、屋上隅の柱にはリベット状の装飾が入っています。

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遠くから見るとこんな感じ。右隣は「鰹鮪会館」です。

漁協の前に漁師さんらしき方がおられたので尋ねてみると、この建物は以前は漁協の婦人部が使っていたそうです。その後はインドネシア(?)からの漁業研修生の研修施設として使われていましたが、現在は使われていないようです。その方は戦前の建物ではないとおっしゃっていました。

いずれいつの何のための建物か判明すると良いなと思います。

港を訪ね歩くと「天然の良港」と呼ばれる港に出会うことが多いですが、この「人工の良港」も度々隆起してきた歴史も含めて味わい深いものだと思えました。

もう少し室津の話を続けます

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2023年2月 7日 (火)

四国みぎした旅行(9)吉良川の2つの橋(高知県室戸市)

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2022年GWの四国旅行の続きです。

話は前後するのですが、吉良川の町を歩くのに、端から端まで歩いてみようと、まずは東の端に行ってみました。
集落の東の端は東ノ川になっていて、国道のあたりから見ると上流にもう一本の橋が見えます。
行ってみると傾いた古い親柱がありました。これは期待できます。

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傾いた親柱。「東ノ川橋」と書かれています。
結構大型ですし、装飾的です。

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橋を渡って、吉良川の町の方を見てみます。

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こちらの方は草が刈られていて親柱全体がよく見えます。
こちらには「昭和十一年五月架設」と書かれています。
左側に伸びる柵もあります。

時代的にはアールデコなんですが、なんとなく日本では大正時代のセセッションを感じるんですよね。
ここに限らず、四隅が突き出して半球が乗ったデザインは、ウィーンの分離派会館を思わせるなあと思っているのですが(思っているだけ)。

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凹みにラジエーター風の装飾が入るのはアールデコか。

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架設年のプレート。

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ただ、この橋に感心して眺めながらも、こういう看板が立っていました。
「東ノ川橋仮橋設置工事」「令和4年3月5日から令和5年1月1日まで」
今頃はもう終わってますね。

こういう記事も出ていました。

建通新聞電子版「室戸市 東ノ川橋架け替え」(2019/10/31)

迂回路の大平バイパス線新設が完了した後の2021年度に架替えを発注予定と書かれています。
現在の東ノ川橋は橋長約60m、全幅約5mの5径間鉄筋コンクリート橋とのこと。

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橋の欄干は、下流側では既に撤去され、上流側もかなりカットされて、ガードレールが設置済でした。
少し遅かったみたいです。

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欄干の鉄筋コンクリートの断面。4本通った鉄筋は芯まで錆びてますね。
コンクリートには白い石がゴロゴロ入っているみたい。

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ここで改めて町並みの地図を見ると、西側にも橋が二重に架かっているのが分かります。
気になります。西側は集落が途切れたまだ先なのですが、足を伸ばしてみました。

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行ってみると果たして古い橋がありました。
それもさっきのよりかなり長い。

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「昭和十一年七月架設」と書かれています。
ということは東ノ川橋とわずか2ヶ月違いです。

何かきっかけがあったのか調べてみると、室戸台風が昭和9年9月21日に襲来しています。

四国災害アーカイブスより 「室戸市史上巻」p619に吉良川の被害状況が記されています。
高潮により180棟の住家と190棟の非住家が倒壊、道路・橋梁が破壊され、船が流出したということです。

おそらくその被害を踏まえて、翌々年の台風シーズン前に頑丈な鉄筋コンクリート橋を完成させたのでしょう。

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長さは約200mもあります。道幅が狭くて欄干も低いので、余計に長く見えます。

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欄干越しに上流側の風景。
西ノ川が流れています。

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上流側にはパイプも通っています。
水道管なんでしょうか。

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下流・海側はこのようにすっきりしています。

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橋の西側の親柱。「吉良川橋」と書かれています。

ここに通学路見守りボランティアの方が立っておられて少しお話しました。

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橋の西側から吉良川の町の方を見たところ。

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橋の西側に吉良川中学校があるので、こうやって生徒さんたちが自転車で登校してきていました。

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車は海寄りの国道55号を走りますので、吉良川橋は安全な通学路また徒歩や自転車の高齢者の通り道になっていました。

この長さの橋を架けかえるのはたぶん東ノ川橋のようにはいかなくて、不本意なのかもしれないけれど、もうしばらくはこのままかもしれません。ただこの趣きある橋が残ってくれたらいいなとよそ者としては思うのでした。

この2つの橋については、「まちかど逍遥」でも紹介されていました。

まちかど逍遥「吉良川の2つの橋」

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2023年2月 3日 (金)

四国みぎした旅行(8)吉良川の石塀・いしぐろ(高知県室戸市)

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2022年GWの四国旅行の続きです。

前回は吉良川の町並みについて紹介しましたが、今回はもう少し細部に特化して「いしぐろ」を取り上げます。
高知県東部の吉良川や奈半利(なはり)などでは、台風に備えた石塀が家を囲んでいて「いしぐろ」と呼ばれています。
積み方にはいくつかのパターンがあります。

その一つはこのように玉石を半割にして断面を見せながら積み上げているもので、私はこのタイプが色のバリエーションのある丸が連続してきれいだなと思います。下段はおおよそ四角い切石を積み上げて変化を付けています。

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引いたところから。おそらく丸い割石は装飾性が強いもので、土台の他、隅は四角い石で補強されています。
上には瓦も乗っています。

このいしぐろもそうですが、表の街道筋よりは、裏の山寄りの道で多く見かけました。

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荒々しい石をそのまま積み上げたような石塀。

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両側がいしぐろの道を歩くと、堀の中を歩いているようです。

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こちらはラフに整形した石垣の上に、丸石が割らずに積まれています。

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崩れているところで見るとこういう断面です。
ここでは石2個分ほどの厚みのようです。

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右の塀が目地を埋めてがっちり積んでいるのに対して、左は石を積み上げているだけに見えて対照的です。

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最初の例にも似て、大振りな石垣の上に丸い割石が乗っています。
ちょっとしたバランスの違いで違って見えるのが面白いところです。

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隣の塀は土台が亀甲積みでよりきっちり積まれています。
割石の高さもあります。やはり割石のグラデーションが美しい。

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引いたところからはこんな感じです。

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最後にこちらは明治時代の建築らしいです。2段に分かれず、地面から上まで一様に積まれています。
ラフに四角く整形された石があったり、丸い石があったり。
こちらのタイプの方が古いのかもしれませんね。

一口に台風に備えた石塀と言っても変化があって、歩きながら楽しめました

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2023年2月 1日 (水)

四国みぎした旅行(7)吉良川の街並みと近代建築(高知県室戸市)

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2022年GWの高知旅行の2日目です。

重伝建地区の吉良川に泊まった朝、初訪問なので、まずは周囲を歩き回りました。
吉良川の集落は海沿いの街道に沿って長く伸びています。そのメインストリートに直交する道で一番重要度が高そうなのが、この御田八幡宮に向かう道でした。この道の脇にまちなみ拠点施設があります。

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吉良川まちなみ拠点施設「まちなみ館」です。
手前が明治後期に建てられた旧長田家住宅で、昭和初期には豆腐やこんにゃく屋を始めたそうです。台風に備えて軒を低く押さえた建て方がこの地域の特徴と説明されていました(南が太平洋に開けた海岸なので台風の風をまともに受けます)。
ここで街のパンフレットやマップをもらったり、まちなみ解説や収集物を見せてもらったりしました。

吉良川町は江戸時代から林業が盛んでしたが、明治になると木炭の生産が始まり、大正に入ると紀州から伝えられた技術で良質な備長炭を産出するようになり、この備長炭を京阪神方面に販売することで栄えたそうです。

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「まちなみ館」は旧長田家住宅とこの旧松本家住宅を中庭でつなぐ形で構成されています。
旧松本家住宅は昭和初期の建築で、生業は木挽職人と農業だったそうです。
表の街道(下町地区)から内側に入ったこのあたりは上町地区と言って職人が多く住んでいたと説明されていました。

べっぴんさんの家と言って食事も提供されているのですが、この日はあいにくお休みでした。

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また同じ並びには「おまつり館」もあって、祭り関係の展示がありました。

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観光地だけあって、あちこちに案内板が立っています。

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裏通りにもまた水切瓦の蔵が建っています。
水切瓦は、台風などによる多量の降水から壁面を保護するため壁面に何段ものひさしを取り付けているもので、景観的に強い印象を与えます。

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こちらは旧街道です。商家が集まっています。

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この通りに目立つ近代建築があります。
大正15年に建てられて、昭和40年頃まで現役だった旧吉良川郵便局(熊懐家住宅)です。

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郵便マークの鬼瓦という説明を読んで見上げると、ちょんまげのように突き出した先に郵便マークが入ったユニークな鬼瓦でした。

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こちらは特に説明はなかったのですが、消防団のマークが入った建物です。
今は民家になっています。

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玄関部分。人の出入りはこちらからで、左はポンプ車の車庫になっていたのかななどと想像します。

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白いタイル張りの散髪屋さん。

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近代を思わせる門柱と水切瓦の建物、そしてレンガ壁の建物の並び。

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こちらは明治44年の武井家住宅。
米穀商と遠洋漁業を生業としていたそうです。
壁一面のレンガ積みが印象的。

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こちらも煉瓦塀の続く路地。
角が丸くなっています。

吉良川の町のあちこちで煉瓦を見かけますが、これは京阪神との交易の帰り荷として船底に積んで持ち帰られたという説明がありました。
備長炭を運んで、煉瓦を持ち帰ったという流れなのでしょうか。
ということは関西系の煉瓦ですが、ここでは刻印は見つけられませんでした。

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近代のものということでは、町外れに忠霊塔がありました。
門柱の裏には「昭和八年参(3)月改修」と刻まれています。

結構広い敷地なのは、元々個々の墓標が立ち並んでいたのを昭和49年に忠霊塔として集約したのだそうです。

 

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敷地内には忠魂碑(大正11年)も建っています。

 

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集落の北側に吉良川小学校があります。
ここに「二宮尊徳先生幼時之像」があります。
これは昭和12年の建立らしいです。台座が立派ですね。

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吉良川小学校では、この体育館の入口が気になりました。
新しい建物に見えるものの、3連アーチに付け柱とか、浅いヒップゲーブルとか、持ち送りとか、デザインは明らかに近代建築。
何でこんな建て方なんだろうと思い、ネットで調べてみますが、探し方が悪いのか見つけられません。

そんな時、さっきの写真を拡大してみると・・・

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ここに答えがありました。(ほんとにさっき気付いた)

「昭和十七年、井上長栄翁が寄付した吉良川小学校の旧講堂」という言葉とともに、あの近代建築が(ついでに二宮尊徳像も)イラストで描かれています。昭和17年という物資統制の厳しい時代によくこれだけの洋風デザインで建てましたね。

この銅像になっている井上長栄氏とは、井上特殊鋼株式会社(現(株)ISSリアライズ)の創始者だそうです。

→(参考)好奇心いっぱいこころ旅「室戸市立吉良川小学校(高知県室戸市)」

また、寄贈を受けた講堂のデザインを一部とはいえ継承しているのはありがたいことと思います。
もちろんそのまま残してもらえるにこしたことはないのですが、こうして惜しむ気持ち、感謝する気持ちが目に見えてあるのは好ましく感じます。

吉良川は、水切瓦、煉瓦、石積塀のいしぐろ(次回紹介します)など、見た目に特色のある街並みでした。
観光地でありつつも、騒々しさはなく、落ち着いて歩き回れる街です。
NPO法人吉良川町並み保存会では、ボランティアガイドも実施されているそうです。

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