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2023年1月

2023年1月30日 (月)

四国みぎした旅行(6)蔵空間蔵宿に泊まる(高知県室戸市)

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2022年GWの四国旅行の続きです。

室戸岬からはまた高知東部交通バスに乗り、吉良川傍士のバス停で降りました。
この日の宿は吉良川に取っています。行けばすぐ分かると思っていたのですが、やや甘い考えでした。
午後7時ぐらいでもこんな感じで、青いLEDライトが誘導灯のようです。
宿は古民家の宿なので、一体どれなのか。みな古民家ではないか。

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ようやく宿に着きましたが、ホテルや旅館のようにフロントがあるわけではないので、宿の方は一体どこにおられるのか。
今夜はほんとに泊まれるのか。不安に思いつつ探しているとようやく宿のおかみさんにお会いすることができ、無事チェックインしました。

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朝になってみるとこんなに分かりやすい建物です。
角に水切瓦のある蔵が建っていて、その並びにもさらに蔵があります。

 

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門を入ると看板が出ていて、ここは蔵空間蔵宿という宿です。
築120年の古民家を改修して宿泊施設にされています。

正面は目隠しの塀になっています。半割の丸石が並ぶ塀はここ吉良川や後で訪ねた奈半利(なはり)などでよく見かけました。

カフェはこの時はお休み中のようでした。

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門の脇にはなかなか大きなレンガ積みの貯水槽。
今は使われてなくて、取り外されたものか、鬼瓦が並んでいました。

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目隠しの塀を回り込むように入ります。

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家の中がまた通りのようです。

元々の設えもあるのでしょうが、改修時にオーナーさんのセンスで整えられているようです。
中庭の右側に並ぶ蔵などの中に共有スペース(カフェ、キッチン、お風呂など)が入り、左側に宿泊棟があります。

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奥の蔵はオーナーさんの住まい。

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母屋は明治時代の築120年の建物。
2018年に改修されたそうです。
こちらが1つめの宿泊棟。

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こちらは大正初期の離れ棟
私はこちらに泊まりました。
1棟貸しなんですが、1人でも1人分の料金なので申し訳ないような。

ここから離れ棟の写真が続きます。

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庭側の手すり。手すりや床下の通風孔にも装飾が入っています。

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玄関。正面に丸窓があって明かりを取っています。

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仕事もできるようにデスクがあったり、和紙の灯が吊るされていたり、リノベーションで現代的な要素も調和するように加えられています。

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座敷の床の間と床脇。青い壁が特徴です。

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床の間と床脇の間の開口部。何と呼ぶんでしょう。
かなり写実的な竹の細工が施されています。

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書院の欄間には、竹と雀の図案。
動きもあり、ハイライトのみ透かしたおしゃれなデザインです。

床の間は竹がモチーフなのでしょうか。

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また座敷と次の間の間の欄間は扇流し。
扇面には桜、菖蒲、菊、紅葉などが描かれていて、四季を表しているようです。

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次の間と廊下の間の欄間は、梅、竹、

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続いて、菊、蘭

ということで四君子です。
吉祥模様といっても松竹梅や財宝などではなく、文人趣味で品が良いですね。

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ふすまの引手も竹と菊でした。

全体に品のある装飾の選択になっています。

こんな離れで一人、ぜいたくに過ごさせていただきました。

<関連記事>

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 (1)高知県境の町へ

 

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2023年1月27日 (金)

四国みぎした旅行(5)室戸岬灯台(高知県室戸市)

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2022年GWの高知への旅行の続きです。

室戸岬の海岸を見た後、岬の丘の上にある室戸岬(ざき)灯台にも行ってみました。
写真で丘の天辺に見えている白いものが灯台で、標高は151mです。
右側の斜面を登っていくのですが、見ての通り、結構きついです。

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灯台への登り口。
「へんろ道」の指差し道標が立っています。
山上には四国八十八ヶ所の最御崎寺があり、灯台へはその遍路道を通らせていただくことになります。
四国ではこういうケースがよくあって、道が整備されているのがありがたいことです。

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登り口にはまた忠霊塔(昭和40年)がありました。
隣にあった共同墓地の戦没者のお墓を集約する形で建てられたそうです。

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登り口には、「一夜建立の岩屋」もあります。
解説板によると、空海が一夜で建立したと伝えられる岩屋。ここは現在、最御崎寺の奥の院となっています(奥の院と言いながら行きやすい)。明治初年まで女性の納経所はここにあり、本堂には登らなかったそうです。

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遍路道はこんな道です。曇り空だと一人で歩いていると心細くなるような道です。

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捻岩。空海が修行している時、その身を案じてご母堂が訪ねてきたところ、にわかに暴風雨となったので、空海が岩をねじって避難させたという伝承があります。遍路道を歩くと、このような伝承の場所が次々現れて退屈しないのがよくできているなと思います。

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息を切らしながら上がっていくと、灯台への迂回路の分岐に出ました。
灯台の表の道は工事で通れないので、裏門に続く迂回路が用意されていました。

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室戸岬灯台の裏門と石塀。これはこれで面白いアプローチです。

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「室戸埼燈台」という表札がかかっています。
「埼」の字を使うこともあるのですね。

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急にぱっと開けて灯台の敷地に出ます。

室戸岬灯台は、明治32年に点灯した歴史ある灯台です。

公益社団法人燈光会HPの室戸岬灯台の項によると、灯塔は鉄製で、建設には資材を帆船で岬の先端に運び、浜から山頂まで敷設したレールで蒸気機関によって運び上げたとのことです。

中央の石造の建物は吏員退息所(灯台職員の官舎、明治32年)で、右の小さな建物は倉庫です。
窓は板で塞がれていて入れません。

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かわいらしい倉庫です。

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灯台の特徴としては、灯台として日本最大級のレンズ(2.6m)を使っているということらしいです。
灯台には普段は入れませんが、毎年11月1日の灯台の日に近い土日に公開されているそうです。

室戸岬灯台について調べていると、
室戸市・室戸市教育委員会による「名勝室戸岬、天然記念物室戸岬 亜熱帯性樹林および海岸植物群落保存活用計画」(2019年3月)に比較的最近の状況が出ていました。その中でも「第3章(4)近現代施設及びその周辺」が私には興味深く、巻末資料に「灯台官舎図面」が載っています。昭和初期の写真を見ると、吏員退息所の玄関前には屋根が突出してポーチがあったのですね。

「この官舎は現在利用されていないが、灯台本体とともに景観上重要である。室戸市が所有者となり観光等への活用策が検討されているほか、国の登録有形文化財への登録に向けた取組も進められている。」と書かれています。

その後、令和2年6月には室戸市長と隈研吾氏がここを視察したり、今年に入っては、燈の守り人プロジェクトで室戸岬灯台が擬人化されて室戸市に贈呈式が行われたりと、これから賑わっていくのかなという動きがあります。

私が行った時は誰もいませんでした。

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排水路でしょうか。

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海に向かって石の階段が降りており、その先は植物に埋もれています。

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灯台の表側は工事中でした。

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ここまで来たので四国八十八ヶ所の最御崎寺にも立ち寄ります。
こちらは仁王門。

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大師堂(左)、鐘楼堂(右)、多宝塔(右奥)、本堂(正面奥)など様々なタイプの建物が立ち並んでいます。
時間が遅めだったためか、ほとんど参拝者はいませんでした。

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斑レイ岩で、叩くと鐘のような音がなるという鐘石。
丸い石の形に摩耗しているのは、多くの人の手によるものなのでしょうか。

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くわずいも。土地の人が芋を洗っていると弘法大師が通りがかり、その芋を乞うたところ「これは食えない芋だ」と言って与えなかったところ、本当に食べられなくなったという伝承があるそうです。こういう話もちょくちょくありますね。でも胃腸薬にはなるとか。

そろそろ薄暗くなってきたので、また室戸岬の海岸に下りました。

<関連記事>

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 (1)高知県境の町へ

 

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2023年1月26日 (木)

四国みぎした旅行(4)室戸岬(高知県室戸市)

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2022年GWの高知旅行の続きです。

今回、ピンぼけやブレの写真など多いです。見にくくてすみません。

道の駅東洋町からは、高知東部交通バスで室戸岬を目指しました。
乗り降り自由のチケットではありますが、降りてしまうと次のバスまでかなり時間がありますので、日没までにどこに立ち寄るかはかなり迷いました。この「むろと廃校水族館」も最後まで寄ろうか悩んだ場所です。
名前の通り、廃校となった旧椎名小学校の校舎やプールを水族館にしてしまったもので、どんな転用の仕方なのかすごく気になります。
ただ、そんなに古い校舎ではないのと、集落や室戸岬を歩く方が良いとの結論でパスしました。

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室戸世界ジオパークセンターも立ち寄ろうか迷った場所です。
地学好きな人は立ち寄った方がいい場所でしょう。

なお、このあたりから室戸岬に向かうバス路線と半島をショートカットして室戸市役所のある室戸に向かう路線に分岐するので、ここが乗り継ぎのバス停になっています。私もここでバスを乗り継ぎました。

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室戸岬の東側はよほど風が激しいのか、このあたりの家は要塞のような高いコンクリートの塀に囲まれていました。
西側の集落はそこまでではなかったと思います。
(ピンぼけですみません)

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室戸岬のバス停に到着。観光地らしい雰囲気です。
この建物は室戸市観光協会事務所(旧民宿飛巌荘)。
丸いポストがあります。

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海岸に降りて振り返ると岬の丘の上に室戸岬の灯台が見えます。
後で灯台まで上がりました。これは別記事にします。

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逆に海の方を見ると荒々しい岩場です。

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足元を見ると黒い石が転がっていました。

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室戸岬は日本に9ヶ所あるユネスコ世界ジオパークの1つ、「室戸ユネスコ世界ジオパーク」として2011年に認定されています。
その拠点施設となっているのが先ほどの室戸世界ジオパークセンターです。

現地の案内板によればこのようにエリア区分されているそうですが、特徴的なポイントに解説板が設置されているので、それを見て回るだけでかなり様々なことが実地に学べるようになっています。

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たとえばこんな感じ。
左の白っぽい岩が砂岩で、そこから右の黒っぽい岩はマグマがゆっくり冷えて固まった斑レイ岩とのことで、「マグマと大地がふれた場所」という説明がされています。

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岬の麓には中岡慎太郎像(昭和10年)が立っています。
右上に見えている円盤状のものは展望台です。
この中岡慎太郎像については台座も要注目で・・・

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とくに結晶の大きな斑レイ岩が使われているそうです。

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近くで見るとこんな感じです。
黒い斑点が散らばっているように見えます。

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先ほどの展望台から見るとこういう眺め。
右下に中岡慎太郎像が見えています。

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またこんな掲示もありました。
崖が崩れて道路に流れ込むのを防ぐために立てられていたコンクリートの塀を撤去して、平成13(2001)年度に擬岩を使った自然に見える擁壁に取り替えたとのことです。

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こんな感じです。これは言われないと分からない。
言われれば、所々水抜きの穴が開いているなと思うのですが。

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そして私が一番興味を持ったのがこれです。
大阪旅行クラブが設置した「日本八景 室戸岬」の標柱。

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「昭和六年八月廿五日」に設置されています。

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天辺には方位が示されています。
周りの丸いのは何でしょう。

なお、ここでの日本八景について、文献はいろいろあるようですが、
例えばこういう論文がありました。

新田太郎氏「「日本八景」の選定:1920年代の日本におけるメディア・イベントと観光」,慶應義塾大学アート・センターBooklet18,2010

昭和2年に『東京日日新聞』と『大阪毎日新聞』の読者投票と専門家の審査により、昭和の新時代にふさわしい日本の風景を選ぶという企画で、分野は日本全国の山岳、溪谷、湖沼、海岸、河川、平原、瀑布、温泉の八景ということです。
ただし、既に有名な日本三景や山岳の富士山、庭園など人工的景観は対象から除かれています。

その中で「海岸」部門の一位に選ばれたのが室戸岬ということです。
日本八景以外に二十五景、百景も選ばれています。

(参考)環境省 H15.12.08自然公園のあり方検討懇談会(第7回)資料4-3「日本八景(昭和2年)の選定内容」

大阪旅行クラブは、当時の大阪の旅行愛好家団体かと思いますが、よく分かりません。

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室戸岬の周辺で気になるものとして、「東京大学地震研究所 室戸地殻変動観測所」などもありました。

また水掛地蔵というものがあって、たくさんお地蔵さんが並んでいるのですが、その1つ1つが遭難した船に対応して、亡くなった方の名前が書かれていたので、あまりに生々しくて写真を撮れませんでした。

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最後に岬観光ホテル(昭和9年)

見えているのが本館で、海側に新館が建っています。
宿泊はここも検討したのですが、満室で諦めました。また機会があれば。

ここまでが室戸岬の海岸部です。
次は丘の上にある室戸岬灯台などを紹介します

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2023年1月25日 (水)

四国みぎした旅行(3)白い街並みの白浜(高知県東洋町)

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2022年GWの高知への旅行の続きです。

甲浦を回った後、今度は西股の奥にある切通しの街道から白浜に戻りました(こちらが近道)。
途中、船越という地名があります。これは地震の津波で船が越えてきたという伝承から来ているようです。
白いペンキ塗りの洋風部分を持つ、気になる建物がありました。

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角に作られた窓。木製サッシの窓です。

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さらに家の前には低い煉瓦塀があり、菱形にSの刻印が確認できました。
これは栃木県の下野煉化(シモレン)の刻印のようです。なぜこんな所にと思いますが、翌日はずっと先の室戸でも見かけました。

(追記)「関西地方の煉瓦刻印」に四国産業の煉瓦刻印として、この菱形にSの刻印が掲載されています。地域的にもこちらの方が妥当だと考えますので、訂正いたします。(2023.5.27記)

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その向かいには甲浦小学校があり、門の前に二宮尊徳像が置かれていました。
外なので見やすくてありがたいです。台座のプレートには「昭和十二年六月建設」と書かれていましたが、タイル張りは明らかに新しいですし、銅像自体も金属供出を免れられたのか不明です。

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少し進むと古い石の門が現れます。
門の表面には「嗚呼日露大戦役」「陣亡烈士不朽碑」、裏面には「明治三十九年四月」などと書かれていました。

そして奥に見えるのは平和塔(昭和28年)。明らかに元々は日露戦役の戦没者記念碑のための場所です。
あるいは墓地だったのかも。

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この園内にはいくつもの石碑があり、例えば、こちらの「江藤新平・甲浦遭厄の標」(大正6年)があります。
江藤新平は佐賀の人で新政府に参画して司法制度を整備しますが、征韓論争に破れて下野、明治7年に佐賀の乱を起こし、敗れて土佐に逃れたものの、ここ甲浦で捕縛されて処刑されたということらしいです。「遭厄」という言葉に同情を感じます。

この園内には他に「忠魂碑」(昭和四年?)、「吉松先生墓碑銘」(大正九年)があります。
吉松先生というのは軍人の吉松正幹氏のことで、松山公会堂収容所で軍刀領置に抵抗していたロシア兵捕虜の説得に当たったというエピソードなどが見つかりました。碑文にも松山での話などが書かれているようです。

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さらに進むと白浜の集落を囲むように流れる小池川を越えます。
その橋に並んでコンクリートの重量感ある橋がありました。
昭和22年の空中写真では見えず、昭和43年の空中写真には写っています。

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白浜の街並みは街道に沿って直線的に伸びています。
それも白く塗られた建物をあちこちで見かけました。
白浜という地名に対応しているかのようです。

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これはブルーに塗られた窓の桟がおしゃれ。

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こちらの建物にも洋風を感じます。

甲浦と白浜はいろんな意味で対照的です。
曲線と直線、起伏と平坦。
こんな近くで全く違ったタイプの街歩きが楽しめます。

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またこんな建物もありました。
元々お店だったのでしょうか。ショーウィンドウのような部屋があり、それを今も活用されています。

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海洋町の街並みで紹介されているのが蔀帳(ぶっちょう)造りです。
京都のバッタリ床几と同じように見えますが、下から跳ね上げるだけでなくて、上からも蔀戸が下りてきて、雨戸となります。
徳島や香川でも見られるそうです。この先の旅程で、徳島県海陽町の鞆浦でも見かけました。

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白浜の集落にあった津波避難タワー。
この後、行く先々で見かけることになりました。

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気になったもの。甲浦中学校に置かれていた石柱。
橋脚とかでしょうか?

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土佐らしく、凝った鏝絵も見かけました。
鶴亀に松でしょうか。

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恵比須神社の鯛と七福神・宝船の鏝絵。

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白浜の集落と砂浜の間はこのように高い防風林でしっかり隔てられています。

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その名の通りの白浜の海岸ではハマヒルガオが咲いていました。

再び道の駅東洋町からバスで室戸岬を目指します

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2023年1月23日 (月)

四国みぎした旅行(2)箱庭みたいな甲浦(高知県東洋町)

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高知への旅行の続きです。

DMVで到着した道の駅東洋町は、白浜という地区にあります。
ここから隣にある港町・甲浦(かんのうら)に歩いていきました。

ところがここで道を間違え、国道の方に入ってしまいました。
最初の写真はその時、橋の上から撮った甲浦です。大回りにはなってしまいましたが、ここから甲浦を眺めることができたのは良かったと思います。

正面に見えるクスノキが異彩を放っています。ここから右に伸びる入り江が東股、左に伸びる入り江が西股と言うそうで、複雑な入り江をなす天然の良港です。昔から阿波や上方への玄関口となっており、土佐藩の番所、船蔵などが置かれていたそうです。参勤交代に使われることもあったとのこと。

明治時代には捕鯨基地、のちには沿岸漁業の町になりました。

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同じく国道の橋の上から反対を見ると、浅宇津外港が見えます。
かつてここには神戸・大阪からのフェリーが寄港して、高知や足摺港などに向かっていたらしいのですが、2005年に廃止されてしまいました。
フェリーがあればもっと来やすかったのに。言い換えればかつてはもっと近い存在だったとも言えます。

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再び内港側。手前に古そうな石垣があったり、海岸に地層が走っているのが見えたりと興味深い眺めです。

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もう少し東股側の眺め。右に見える小山も元は島だったのではと思えるぐらい、向こう側では低くなっています。
ちょうど船が入ってきました。箱庭のような愛おしい風景です。

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さて遠回りになりましたが、甲浦の東奥から坂を下って集落に入ります。
見ると古そうな煉瓦塀がありました。階段まで続いています。

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東股の奥。この正面のあたりに東股の番所があったらしいです。

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漁業の町らしく、据え付けの作業場がありました。

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車輪のようなユニークなレリーフ。

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造船所の横にあった気になる建物。
何か関係があるのでしょうか。

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同じ建物です。台風や高潮に備えてか、玄関にはシャッターが降りるようになっています。

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東股から国道側を見たところ。
近くに造船所裏という地名があったので、奥の背の高い建物は造船所だったのかなと思いますが、海から船を上げ下ろしするレールがいくつも敷かれています。その隣がさっきの建物です。

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改めてランドマークのクスノキ。熊野神社の大楠というそうです。
ピロティのある建物は(昔の?)漁協です。
何とも絵になる風景です。

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熊野神社に上がってみました。
結構な石段です。
熊野神社は熊野権現十二社のうち1社が飛んできたという伝説があるらしいです。

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熊野神社には鐘楼があって、屋根を支える鬼?の装飾が面白いです。
欄間に描かれる波の透かし彫りもとてもダイナミック。瀬戸内とは波の捉え方が違うような。

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この熊野神社もそうですが、津波からの避難場所に指定されています。
甲浦は台風の風には強いのですが、リアス海岸のため津波被害を受けやすく、江戸時代や昭和21年の南海地震でも津波が到達した記録があるそうです。

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避難経路にはこんなものもありました。
お年寄りが避難の時に使う杖が備えられており、「あきらめないで!!」とか「弱音を吐くな!ここからや」という避難時の状況を想定したメッセージまで書かれています。

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その階段を登って振り返るとこんな眺めです。
正面に見えているのが熊野神社の大楠です。

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西股に入ります。甲浦にも、高知らしい水切瓦(台風などの強い雨から壁面を保護するため壁面に数段の屋根を付ける)のある建物があります。

なお、今茶色い建物があるところには少なくとも2014年までは洋風建築が建っていたようです。
間に合わなくて残念。

<グーグルストリートビューより2014年の同じ場所>

 

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西股の対岸にはJF甲●冷蔵と書かれたコンクリートの建物があります。
四国水産冷蔵と書いてある資料もあり、また高知県の近代化遺産リストに「甲浦水産冷蔵」が載っています。
同じ建物でしょうか。
このあたりに参勤交代の時の土佐藩の御殿があったそうです。

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最後に可愛らしい建物。

近くにおられた方に尋ねると散髪屋さんだったそうです。

写真は一部しか載せませんでしたが、入り江に沿った街並みは歩くごとに景色が変わっていって見飽きませんでした。
ランドマークになっている熊野神社の大楠も含めて箱庭のような町でした

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 (1)高知県境の町へ

 

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2023年1月22日 (日)

四国みぎした旅行(1)高知県境の町へ

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2022年のGWに高知まで旅行に出かけた記録です。
大阪からだと南海本線と南海フェリーがセットで2200円で徳島まで行けるとくしま好きっぷというチケットがあります。
便利なのでこれは何度か使ったことがあります。

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さらに「四国みぎした55フリーきっぷ」というのがあって、徳島から列車、DMV(後で出てきます)、バス、列車を乗り継いで高知まで行ける、3日間乗り降り自由のチケットがあると知り、これを組み合わせれば大阪から高知まで、あちこち寄り道しながら行ける、ということで試してみたのでした。なかなか行きにくいところですので。しかも(今年4月以降は分かりませんが)通年販売で、当日購入も可能、1人でもOKということで使い勝手が良いです。

最初に全体の旅程を書いておくと

1日目 大阪(なんば)〜和歌山港〜徳島港〜徳島駅〜阿波海南駅〜甲浦〜室戸岬〜吉良川(泊)

2日目 吉良川〜室戸〜奈半利〜田野町〜高知(泊)

3日目 高知〜宍喰〜鞆浦〜徳島(泊)

4日目 徳島津田〜徳島港〜和歌山港〜大阪(なんば)

という移動でした。

なお、高知には2018年にも訪問していて記事にしていないので、この際、その話も盛り込もうと思っています。
全く別の記事(京都の公園とか)もはさみつつになると思いますが、書いていきたいと思います。

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出発は南海のなんば駅から。

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和歌山港駅に到着。
既に何回目かですが、いつも乗換ばかりで降りることがありません。
この周辺も歩いてみたいものです。

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とても良いお天気で、淡路島の南岸を眺めながらの船旅です。

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今回の船はフェリーかつらぎでした。2隻あるうちの古い方の船。
なぜかタイミングが合わなくて、新しい方のフェリーあいには乗ったことがありません(帰りも)。

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徳島港に入港すると向かいに津田地区が見えます。
あのあたりに行ってみたいなといつも船上から見ていて、ようやく今回、帰りに寄ることができました。

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徳島港のフェリーターミナルからはバスで徳島駅へ。
この区間のバス代210円は別料金です。

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徳島駅に到着しました。
あまり時間の余裕がなくて、四国みぎした55きっぷを購入したり、お弁当を買ったりと慌ただしく。
55きっぷの購入者はアンケートに答えると何か当たるということで、回答すると後日、記念品が送られてきました。

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徳島駅からJRで阿波海南駅まで。
GWとはいえ、ここまで来ると混んではいません。
途中お弁当を食べつつ。

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途中の日和佐。山の上にお城が見えます。
ここも未訪問ですので、また来てみたいところです。
今の所、模擬天守は屋根瓦が傷んでいて休業中だそうです。

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阿波海南駅に到着。
奥が駅舎で、緑の車が阿佐海岸鉄道のDMV(Dual Mode Vehicle)です。
元々は鉄道だったのですが、2021年12月25日からこの線路と道路の両方を走れる車両DMVを使って世界初の本格営業運転をしているとのことでした。私はそんなに興味があったわけではないのですが。

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既に開業から半年たっているのですが、これを見に来ている人たちがいました。
車輪を引っ込めてタイヤで走るモードチェンジ中。

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右奥の線路が道路につながっているのが分かりますでしょうか。

DMVへの地元の期待は大きいようで、様々なポスターが貼られていましたし、モナカだとかいろいろな関連商品を見かけました。

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阿波海南駅で少し乗換時間があったので、周りを見ていると「四方原開拓の碑」(昭和60年)がありました。

内容は、寛永14年(1637年)にこの地の開墾が始まって350年になることを記念するものでした。
元々このあたりは礫石原と沼沢の地でしたが、寛永13年、視察に来た阿波第3代藩主・蜂須賀忠英が翌年お触れを出し、「どの国の者でもこの地を開拓する者には居屋敷を与え、公事を免除する」と伝えたところ、牟岐でそれを知った土佐の野村氏が香美郡小川村(現在はいの町)の同志郎党36人を率いて入植し、20年をかけた開墾の結果、明暦3年(1657年)には60町(約60ha)の田畑が開かれたとのことです。

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駅前を見るとこのようになっています。

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私の乗るDMVが来て乗車しました。
車内はバス寄りですね。四国みぎした55きっぷでDMVの自由席に乗れるのですが、もし満員だったら乗れず、旅程が大きく狂ってしまうので、安全策としてこの区間は指定席を取りました。予約しなくても席は空いていた模様。

ここから鉄道に変わるので、お囃子の賑やかな音楽が流れて車輪にモードチェンジします。

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途中、左の車窓には深い入り江が見えました。
レールを走る時は結構ガタンガタンします。

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高知県に入り、海の駅東洋町でDMVを降りました。
大きな駐車場を持つ道の駅で、現在は鉄道の甲浦駅に代わってここが交通の結節点になっています。

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道の駅東洋町の目の前には海水浴場が広がっていました。

ここからようやく歩く旅が始まります

<四国みぎした旅行・高知編の目次>

 ■高知市編(高知の旅2018)
 (1)近代の高知公園 (2)リゾート地種崎と種崎千松公園 (3)渡船で御畳瀬へ 
 (4)種崎の門扉 (5)五台山に登る (6)高知城周辺の近代建築など
 (7)高知あたご劇場で映画を (8)喫茶店でモーニング (9)比島交通公園 (10)沢田マンション ※ここまで2018年
 (16)高知市の東側を歩く ※2023年

 ■東洋町編
 (1)高知県境の町へ (2)箱庭みたいな甲浦 (3)白い街並みの白浜 ※2022年

 ■室戸市編
 (4)室戸岬 (5)室戸岬灯台 
 (6)蔵空間蔵宿に泊まる (7)吉良川の街並みと近代建築
 (8)吉良川の石塀・石黒 (9)吉良川の2つの橋 
 (10)隆起する室津港 (11)室津の煉瓦塀 (12)室津のいろいろ ※ここまで2022年
 (25)津呂の港 (26)津呂の煉瓦塀 (27)津呂の白い町  
 (28)むろと廃校水族館 ※ここまで2023年

 ■奈半利町編
 (13)奈半利の南側 (14)奈半利の北側 ※2022年

 ■田野町編
 (15)田野町の街道を歩く ※2022年

 ■安田町編
 (24)安田中心部を歩く ※2023年

 ■安芸市編
 (20)野良時計と土居廓中 (21)岩崎彌太郎生家と旧街道の建物 ※2023年
 (22)安芸の旧市街を歩く (23)昔話のような伊尾木洞

 ■芸西村編
 (18)白と黒の和食 (19)極彩色の5月 ※2023年

 ■香南市編
 (17)夜須の手結内港 ※2023年

 

 

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2023年1月21日 (土)

千石荘児童公園(京都市右京区)

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京都市の近代の公園めぐりの続き、春栄児童公園の後は太秦公園に寄って千石荘児童公園を訪ねました。
記録によると昭和14年にできた公園です。現地に行くまでは詳しいことを知らず、「立派なお屋敷があったのかな」ぐらいの感覚でした。
しかし、「千石荘」にはそれ以上の意味があったのです。

訪問は2020年の6月です。

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千石荘児童公園はすぐ脇を西高瀬川が流れています。
元はというと桂川から取水する運河です。

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西側から公園内を見ると公園の南縁に松などが植わっています。

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反対の東側から。公園の縁に松並木の遊歩道があるようなちょっと変わった公園です。

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なぜ千石荘なのかの答えは公園に説明板がありました。
なんとこの公園には千石船が置かれていたとのこと。京都市内で千石船とは。
昭和16年に地元婦人会で見学会が行われた時の写真が掲示されています。
残念ながら昭和25年といいますからジェーン台風で破壊され、撤去されたそうです。

千石船の由緒を示す石碑があるとのことなのでそちらも見てみます。

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これです。いつもならここで解読してみるところですが、京都市は石碑をアーカイブ化してくれていますので、それを引用させていただきます。

京都市歴史資料館情報提供システム「フィールド・ミュージアム京都」より「長栄丸移据の由来」

 長栄丸移据の由来
此船は長栄丸と称して籍を若州遠敷郡に有し表
高八百七十五石実際は千石則ち四万貫目を積載
し日本海の怒濤を蹴つて遠く北海道に定期航海
をなし其都度万円以上の収益を上げたる功労抜
群の船なり
 抑我徳川幕府の治世には千石積以上の造船を
厳禁したれば物資供給交通利便の権威者として
は千石船を以て最となしたり明治の中興に至り
和船航海の不利に鑒み三百石以上の和船建造を
禁ぜられたれば大和大型の船は自然廃滅に委す
るの姿となり当時彼尨大を以て誇りし千石船も
近き将来に於ては全く其影を没するに至るべし
想ふに我京都の如き四方皆山の地にありては船
舶を見ることすら罕なるをまして千石船の如き
其実際を知ること最も難し余適々長栄丸を見其
雅趣の津々なるを愛す而して其船主の他に移ら
んとするを聞き若し此船を陸に上げ其命を保た
しめば一は船の偉績を存し一は市人の参考に資
するを得んと終に進んでこれを求め此地に移据
することゝはなりぬ乞ふ曳*の士よ余が徴衷を
酌み船を山に登せし愚挙をして徒為たらざらし
め賜はんことを
大正丙寅仲春
清水庵の主人誌す

 

HPには「長栄丸は若狭国と北海道との間を定期運航していた千石船であったが,転売されて大正14年に地元の実業家篠田幸二郎の邸内の庭園に移された。昭和14年に庭園と千石船は京都市に寄附され,庭園は児童公園となり,千石船は一般に公開された。」とも説明されています。

千石船が置かれていた別荘なので「千石荘」なのですね。
大正時代の地図を見ると、公園の西側道路をはさんだ向こう側に千石荘の建物はあったようです。
船の名前は長栄丸で、若狭国遠敷郡といえば小浜のあたりを拠点とする船だったようです。
石碑の建てられたのは大正丙寅ですので大正15年です。

またリンク先には、2012年に公園が再整備された際に石碑も移動されたという説明がありますので、その時点で公園の姿も変わってしまったのでしょう。

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その横にあるのが同時期の大正15年に建てられた明治天皇御製の歌の歌碑です。
これも京都市でアーカイブ化されています。

「明治天皇歌碑」

千石船にちなんだ歌ということで置かれているようです。

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さらにもう一つ、スウェーデン国皇太子夫妻が千石船を見学した時の記念碑というのもあります。
これもアーカイブ化されています。

「瑞典皇太子同妃殿下千石船御台覧記念碑」

この記念碑も同時期の大正15年に建てられています。
千石船を見る目的ではなくて、近くの天塚古墳を見に来られたついでとはいえ、興味津々で見学された様子が伺えます。

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改めて公園を見渡すとあちこちに庭園の名残りの石らしいものがあります。

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それぞれに個性的な石ですよね。

改修されたためか、それ以外ではあまり昔の公園らしさは感じられませんでした。

ところで、千石荘公園に来る途中、太秦公園に寄ったと書きました。

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太秦公園はこんな場所にあります。
御室川(左)と付け替えられた天神川(右)が合流する三角地という変わった立地です。
石段を下りていくような合流の仕方も面白い。

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太秦公園は名前から受ける印象に反して、これぐらいの小さな公園です。

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 <京都市情報館「第6回京都市都市計画施設等見直し検討委員会」(2013.1.9)資料3より>

元々太秦公園は、上記資料によれば「昭和16年に防空緑地として決定し,一度は用地が確保されたが,戦時中,食料事情により耕作地としていたため,戦後,自作農創設特別措置法(農地改革,昭和21年)の対象となり,政府が買収して耕作者に売り渡されたと推定される。その後宅地化が進行し,開園区域(0.05ha)は開発行為により設置されている。」
と説明されています。ですので、実際の公園設置は平成12年です。それにしては人研ぎの滑り台もありますが・・・。
本来はもっと広い公園(上図の赤枠内)になる予定だったのですね。既に宅地化していますのでそれはなくなりました。

防空緑地起源の公園として訪ねてみましたが、このような状況なので簡単に触れるだけにとどめました。

<関連記事>
 日常旅行日記「近代の公園目次」

 

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2023年1月17日 (火)

春栄児童公園(京都市右京区)

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京都市の近代の公園をめぐるシリーズの続きです。
2020年の緊急事態が解除された後で、西院周辺の公園を回りました。

阪急の西院駅から出発して北西方向へ。最初は春栄児童公園からです。「しゅんえい」と読むのでしょうか。
昭和13年に開設された公園です。

この公園の特徴は、道路を挟んで東西に分かれていることです。
上の写真は南側から公園を見たところです。

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まず西側から。南門は古いデザインの門柱と壁を残しているようです。

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このように流線型の柱に凹みが入っています。
縦に公園名の標示があった痕跡もあります。

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コンクリートの欠けた部分からは煉瓦が露出していました。

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こちらは古いタイプと思われるコンクリートの砂場。
頂部と角が丸く、内側に平らな縁が回っています。

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六条院公園など京都の古い公園で時々見かける謎の土管遊具もありました。

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京都でおなじみの人研ぎ滑り台もあります。

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北側部分は緑が豊か。
こちら側の公園は西院幼稚園と一体化していて、公園の柵は全体をぐるっと取り囲んでいます。
西院幼稚園の沿革によると、昭和5年開園で公園よりも古いようです(建物は新しい)。

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公園の北門。
西院幼稚園とグラウンドに挟まれた通路が公園に続いています。

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続いて、東側の公園について見ます。
こちらの南門門柱は西側の公園よりシンプルです。

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こちらにも砂場がありますが、頂部はフラットで内側の縁もなくシンプルです。

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東側の公園には木々が多いのですが、そのうちの1本には脇に御影石の石柱があり、「皇太子殿下御降誕記念」と書かれています。

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裏側には「昭和八年十二月二十三日」と刻まれていて、明仁上皇の御生誕時のものと分かります。

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真っ直ぐ育っていますね。

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東側の公園には地蔵堂もありました。

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また幼児用プール(ちびっこプール)もあります。
こういう形式が残っているのは嬉しいところ。

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春栄公園については以上ですが、後は阪急西院駅から公園に来るまでに気になったものなど。
京都市農業協同組合西院支部の建物は木造で古そうです。

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その南側は西院春日神社です。平安時代の天長十年(833年)、淳和天皇が譲位して淳和院(西院)に移られた時に奈良の春日神社から勧請されたというのが由緒らしいです。

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西院春日神社の境内に西院村道路元標がありました。
元々は神社の前にあったのでしょうか。

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またその南に和洋を接続したような2階建ての町家がありました。

公園めぐりは、太秦児童公園に続きます

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 日常旅行日記「近代の公園目次」

 

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2023年1月 5日 (木)

西ノ京児童公園(京都市中京区)

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京都市の公園めぐりの続きです。
朱雀公園の後は、すぐ近くの西ノ京児童公園に向かいました。
昭和14年に開設された公園ですので期待できます。

公園を北西角から見たところ。木々の豊かな公園です。

訪問日:2019年7月7日

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外周道路との間は低い塀で区切られています。
角柱と四角い凹みのある塀が交互にリズムを作っています。
デザインから見てオリジナルじゃないかなと期待します。

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各入り口はカーブを描いてすぼまっていて、そのカーブの部分が植栽になっています。

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公園の標示は「西ノ京兒童公園」と書かれています。
右から書いてありますし、オリジナルでしょう。

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植栽のなくなっている門でデザインを確認すると、花壇のカーブから門塀のカーブへとつながっています。

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北東側から公園を見たところ。
北側のグラウンド部分と南側の遊具部分に分かれ、間にフェンスがあります。
グラウンドの中にも木が植わっているのが古い公園らしいでしょうか。

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周囲を見ていくと、北東のあたりにありました!
国旗掲揚台です。流線型デザインで、当初のものではないかと思います。

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裏に凹みがあり、金具が残っているので、国旗掲揚台で間違いないでしょう。

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もう一つ気になったのはこちらのベンチ。ベンチも角丸で脚も端が丸まっています。

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真横から見ると、座面の底は斜めに脚につながっています。
美しいシルエットです。

脚にアーチが入ったベンチとはまた違ったタイプですが、シンプルながら美しいベンチだと思います。

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もう一種類、たぶん時代は下るコンクリートのベンチもありました。
こちらは座面が凹んでいて、二本脚で支えられています。

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公園の遊具のある部分。
結構盛り沢山です。

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まず藤棚。一段高くなって、ここから保護者の方がグラウンドや遊具で遊んでいる子どもを見守れるようになっています。

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厚みのある四角いテーブルにベンチ。
ちょっと一組だけだと少ない気もしますが。

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小さな砂場。角は丸いですが、上部はフラットなタイプです。

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京都でおなじみ、人研ぎの滑り台。

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口を開けたカバと馬の椅子、汽車の遊具もあります。

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シーソーはちょっと減ってませんか。

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端には地蔵堂もありました。

この日最後に訪れた西ノ京児童公園は、昔のものが比較的残っている公園で、満足して帰路につきました。

なお、現地で見てもよくわからないのですが、西ノ京児童公園の東側部分は御土居(秀吉が築いた土塁)の遺構と重なっています。円町児童公園からの延長上にあると言えます。古い京都の町の境界部分にこうして近代の公園が散らばっているというのは面白く思います。

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 日常旅行日記「近代の公園目次」

 円町児童公園(京都市中京区)

 朱雀公園(京都市中京区)

 

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2023年1月 3日 (火)

朱雀公園(京都市中京区)

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北町児童公園の後は、南下して朱雀公園を目指しました。
途中、御前通を下っていると、気になる換気口面格子が。ヒナギクでしょうか。京都は繊細なものが多いですね。

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途中、アメリカンケーキを売っているシーシーズさんに立ち寄りました。
アメリカンなのに店内はなぜか民芸風。喫茶もできます。

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旧丸太町通と七本松通の角、古そうな住宅です。

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窓の上にオーナメントのような装飾があるのが良いです。

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山陰線をくぐってさらに下り、旧二条通。
長屋の一部を改修して四角い洋館風になっていますが、改修自体、昭和初期ぐらいではないのでしょうか。クリーム色のタイルの質感からして。

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こちら四角い洋館付きの長屋。西ノ京内畑町のあたり。
洋館部の扉に逆三角の窓が付いているのがおしゃれです。

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これはどこか忘れてしまいましたが、このあたり四角い洋館付きの長屋が多いんでしょうか。

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そうこうしながら朱雀公園に着きました。
朱雀公園は昭和19年に防空緑地として指定された3.07haの一部として昭和19年24年に開園しました。
昭和19年というと公園のデザインに凝れるような時期でないので期待薄ではあります。
広いグラウンドの南東端に小さく、遊具が置かれたスペースがあります。

(追記)京都市の資料により開園年を訂正しました。本来は西ノ京中学校及びその間の住宅地も防空緑地として指定されていました。しかしながら、その部分については長年未着手で既に利用されているため、2013年3月末にその部分の公園計画の廃止が決定しました。
 京都市情報館HP「都市計画施設等の見直し」

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「朱雀公園」と達筆な文字で刻まれています。
門柱とそれに続く塀は非常にシンプルです。

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遊園部分のほぼ全景。

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ベンチは木製で昭和中〜後期でしょうか。

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四角い砂場もあります。面取りはしてますが、アールは入ってません。

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人研ぎの滑り台。京都に非常に多いタイプです。

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藤棚はそんなに古いタイプではありません。

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トイレはかまぼこ屋根のデザイン性のあるもの。
かなり開放的。

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遊園部分からグラウンドを見た所。
公園のほとんどはグラウンドです。

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グラウンドの周りを一周してみました。
南側の門の痕跡。この部分だけはアールが入って古そうです。

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グラウンドの中を覗き込むと四角いコンクリートベンチがありました。

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グラウンドの北側の門。

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グラウンドの北側に沿ってヒマラヤスギが植わっています。

朱雀公園についてはこれといったものは見つけられませんでした。

ちなみに公園のすぐ北側には花の湯さんがあります。

この後は西ノ京児童公園に向かいました。

<関連記事>
 日常旅行日記「近代の公園目次」

 円町児童公園(京都市中京区)

 鹿垣児童公園(京都市中京区)

 内野児童公園(大極殿公園)(京都市中京区)

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2023年1月 2日 (月)

北町児童公園(京都市中京区)

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京都の近代の公園めぐりの続きです。

円町児童公園の後は、北町児童公園に行きました。
こちらも昭和15年に開設された公園です。
近づくと鬱蒼とした木々が見えてきました。
ちょうど花が咲いていて、アオギリでしょうか。

訪問日:2019年7月7日

なお、北町児童公園は2020年に改修工事が行われ、グーグルストリートビューで見る限りは、すっかり見通しの良い公園になりました。
ですので、この記事は既にありし日の公園の姿ということになります。
改修後は未訪問ですので、変化したところは分かる範囲で触れながら話を進めます。

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西側の中央の門は木々をくぐって公園に入るようになっています。
治安上はよろしくないので改修されるのでしょうが、こういうのいいなと思ってしまいます。

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北町児童公園の公園標示は御影石に彫られています。
「児」の字が「兒」でないので戦後のものかと思います。
これは改修後も残っているみたい。

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公園の全景。
本当はもう少し遊んでいる子どもたちがいたのですが、視界から消えた時に写真を撮っています。
寂しいわけではないです。

鬱蒼とした樹林も道路側だけで、中に入れば比較的すっきりしています。
ちなみにコンクリート製のすべり台は改修後に撤去され、公園中央に新しいすべり台が設置されたようです。

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公園の北西部は少し高くなっていて、一部金網が設置されています。
砂場などがあり、どちらかというとこちらが小さい子どもたちのスペースで、ボールなどが飛んでこないための金網なんでしょうか。
この金網は改修後、撤去されたようです。

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段差部分、低い階段があります。

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北東隅にコンクリート製の砂場がありました。

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縁が丸くて二重になっています。さらに角もアールに。
古いタイプの砂場かなと思いますが、確認は取っていません。

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重量感のあるコンクリートのベンチ。
京都の古い公園で見かけるタイプです。
シンプルながら、脚がアーチになっていて好きなデザインです。

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古い公園はこんな風に公園に出入りできる裏口があるのが面白いです。
裏に抜ける通路もあります。

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ちょっと気になった石の痕跡。
水飲み場の跡でしょうか。

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トイレと水飲み場は昭和中〜後期といった感じ。
改修後にトイレは京都風の新しいものに変わったようです。

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最後に植物に埋もれていた掲示板。
屋根が木の板なので古めのものだったかと思います。
改修後は撤去されたようです。

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公園の近くには「西之京瑞饋(ずいき)神輿保存会 集会所」というものがありました。
周辺農家で作られるズイキ・米・千日紅などで飾られた神輿を毎年作っているそうで、祭りとしては平安時代から五穀豊穣を感謝して、菅原道真公の神前に新穀・野菜などを奉納していたことに始まるそうです。神輿の形になったのは1607年からとか。

京都の中心部とはまた違う、郊外らしい文化伝統があるのですね。

詳しくはこちら
(公財)京都市文化観光資源保護財団HP「京都の文化遺産を守り継ぐために 「西之京瑞饋神輿 ~野菜神輿の不思議な魅力~」」

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また公園の西向かいには、旧御典医だった奥溪家住宅長屋門があります。享保11年(1726年)に再建されたものだそうで茅葺きです。江戸時代の主屋もあります。

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 円町児童公園(京都市中京区)

 西町児童公園(京都市上京区)

 鹿垣児童公園(京都市中京区)

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2023年1月 1日 (日)

2023年もよろしくお願いします

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皆さま、本年もよろしくお願いいたします。

写真は地下鉄動物園前駅のうさぎのタイル。
たまたまこの真ん前でドアが開きました。
この工事も長らく続いていますが、いつ終了して、またどんな形になるのでしょうね。

今年も、いつなくなるか分からない建物たちを訪ねつつ、昨日も書きましたが、たくさんのストックをなんとか記事にしていきたいと思います。

 

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