宮崎の旅2019(4)八紘之基柱と平和台公園(宮崎市)
宮崎神宮の後は、その裏の丘にある平和台公園に向かいました。
ここに昭和15年の八紘之基柱(あめつちのもとはしら)が、平和の塔と名前を変えて残されているということで、それを見学するためです。
平和台公園に向かう道は大きな木を目印に、そこから参道のように分岐しています。
そして入り口にある灯籠のような一対。
これは!
塔があること自体は分かっていましたが、入り口からこのようなオブジェがあるとは思いませんでした。
役割としては参道の灯籠と同じだと思います。
アールデコ高層ビルのようなデザインの上に家型はにわ。
しばらく歩くとまた一対あります。
同じようなデザインです。
歩いていくと何か見えたので、右手の道を上がってみると銅像がありました。
「相川勝六先生像」と書かれています。
横にあった説明文を読むと、相川氏は明治24年、佐賀県嬉野市に生まれ、宮崎・広島・愛知・愛媛県知事を歴任され、昭和19年に厚生大臣、戦後は宮崎市に本籍を移し、衆議院議員を20年余り務められたられたそうです。とくに宮崎県の振興に力を注ぎ、県営電気の創業、細島臨海工業地帯の造成、宮崎港の開築、宮崎神宮の神域拡張などに関わられたと記されています。
この銅像は亡くなられた直後の昭和49年に建てられていますが、ここに建てられた理由は、相川氏が宮崎県知事時代、紀元二六〇〇年記念事業として八紘之基柱を建てられたというのがその理由となっています。
さらに進むと階段になっています。その手前にひときわ大きな灯籠があります。
先程のものと違って前後にも屋根が伸びています。
階段の途中の斜面にはこんな小さな灯籠もありました。最小?
階段を登って丘の上に出ると、今度は大きな家型埴輪風の東屋。
これは手水舎です。実は昭和15年、八紘之基柱と同時に整備されたもので、当時の写真もレストハウスに展示されていました。
中には神武天皇が船出したと伝えられる美々津の上流から採られた石が、手水鉢に加工されて据えられています。
かなり大きな石で、正面に「美々津」と刻まれています。
いよいよ平和の塔(八紘之基柱)のある広場。
古代遺跡のような、独特の存在感があります。
平和の塔(八紘之基柱)を正面から。
八紘之基柱(あめつちのもとはしら)が建設された経緯はこのようです。
国の紀元二千六百年奉祝事業で宮崎神宮に予算がつき、神域拡張と徴古館の改築などが行われました。
これに呼応して宮崎県の奉祝事業も企画され、県内全神社の祭典執行、上代日向研究所の設立、県内20余ヶ所の神武天皇御聖蹟の顕彰と紹介、遠祖慰霊祭の執行などが行われました。その際、記念物として作られたのがこの塔です。相川知事の案としては世界中の同胞から集めた石を使い、日本一の石塔を作るというものでした。
ただし、県だけでなく、大阪毎日新聞、東京日々新聞(現・毎日新聞東京本社)の協賛を得、献石には陸軍も協力しています。
高さは37mあります。この塔の製作・設計者は彫刻家の日名子実三氏です。
日本サッカー協会のシンボルマーク「八咫烏(やたがらす)」の制作者でもあるそうです。
宮崎県にある他の軍関係の記念碑もデザインしています。
日名子氏は塔のデザインにあたって、相川知事の要望により、宮崎県内を巡って構想しました。
高さは当時日本一だった東京丸ビルの30mを上回り、海からも見えることが条件でした。
塔全体の形は宮崎神宮の御幣の形、部分的には御楯の形、段々の形は高千穂町の段々畑や美々津の立磐神社にある天皇腰掛石、高原町の皇子原の玉垣などが取り入れられているそうです。
塔は昭和14年5月20日に着工しました。整地作業に宮崎県民を中心とする奉仕団が参加するなど、作業員はのべ66,500人、総工費は67万円で、昭和15年11月15日に竣工しました。
(参考)三又たかし著『ある塔の物語 甦る日名子実三の世界ー』(2002年)
平和台公園レストハウスの解説
この塔の持つ意味がいくらか伝わりますでしょうか。
塔は完成後、神都観光の重要なスポットとなり、記念切手や記念紙幣にもなっているそうです。
この塔の前面にも一対の灯籠があります。
この灯籠はひときわ大きく、立派です。
日名子氏の作成した模型写真にも入っています。
ここまで見てきた灯籠の本体のデザインは、八紘之基柱のミニチュアであることが分かります。
この向かって左の灯籠には気になるものがあります。
裏側に開口部があり、奥に電極のようなものが見えるのです。
もしかしてスピーカーの機能も持っていたのではないのでしょうか。
向かって右側の灯籠には背後の開口部は見当たりません。
もし電灯であれば、両方にないと不自然です。
また、レストハウスに展示されている写真では灯籠の左側に国旗掲揚柱があり、左側の灯籠にスピーカーがあるのも自然に思われます。
文書としての証拠などは見つけられていませんが。
さて、塔で目立つのは正面に刻まれた「八紘一宇」の文字です。
戦前のアジア進出を正当化するスローガンであり、終戦後の昭和21年8月、GHQの指導により削除され、「平和の塔」となりましたが、昭和40年に復元されました。復元には反対もありましたが、当初の姿であることが、教訓の上でも意味があるように思います。
また塔の四隅には信楽焼の像が立っています。
写真ではわからないかもしれませんが、高さ6mの巨大な像です。
右前面は和御魂(にぎみたま・商工人)の像。
右後ろは幸御魂(さちみたま・農耕人)像。
手前の子どもは、日名子氏の娘さんがモデルだそうです。
左後ろの奇御魂(くしみたま・漁人)像。
そして右前方の荒御魂(あらみたま・武人)像。
この像については、GHQから軍国主義の象徴として撤去が命ぜられましたが、昭和37年に復元されました。
塔の正面には中央に神武天皇の船出の様子を描いた青銅の扉があります。その周りには日本書紀・古事記から採られた62の事物が描かれています。この扉の製作にあたっては、当時金属が不足していたため、県民の家庭にある銅製品の供出をお願いして作られたとされています。
欄間は三種の神器と榊です。
この奥の厳室には普段は入れませんが、八点のレリーフ(天孫降臨、鵜戸産屋、紀元元年(神武天皇即位)、国土奉還、明治維新、太平洋半球地図、大西洋半球地図、紀元二千六百年)が銅不足のため石膏のままで架けられているそうです。また地下には設計図などのタイムカプセルが埋められているとのことです。
塔の台座の上からは太平洋を望むことができます。
床面には丸石が敷き詰めてありました。
平和の塔のある広場は平和台公園の中のほんの一部です。その背後には古墳群があるなど、かなり広い公園です。
私はこの時は塔までだけで戻りました。
当時、八紘之基柱の建設を記念して作られた『鳥瞰 八紘之基柱』というパンフレットの一部。
この図から位置関係がうかがえると思います。
平和の塔(八紘之基柱)は、元の姿に復元されたために、昭和15年当時の熱狂が直に感じ取れる記念物となっています。
当時のことを忘れないためにも大事なものではないかと思います。
この塔に関しては、石材についても触れないわけにもいきません。
次の記事で石について書いておこうと思います。
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コメント
初めまして、コメント失礼いたします。
ハニワの家?が乗っている灯篭ですが、もしかしたらラジオ塔ではないでしょうか?
ラジオ塔には国旗掲揚台が付属していることが多いらしいです。
wikipediaにラジオ塔一覧がありますが、いずれかでしょうか? でも当てはまるものがないようにも思います。
投稿: たま | 2022年6月10日 (金) 12:44
たまさま
コメントありがとうございます。
長らくコメントを見落としていました。
申し訳ありません。
ラジオ塔である期待もちょっとあります。
時期や場所的にあってもおかしくないので。
ただそれにはまだ証拠がないので、取り敢えずスピーカーの可能性としています。
何か資料が見つかると良いのですが。
投稿: びんみん | 2022年8月 8日 (月) 00:54