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2021年8月15日 (日)

宮崎の旅2019(3)宮崎神宮(宮崎市)

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2019年GWの宮崎旅行の記事です。「宮崎の蔵など」の続きです。
旅行4日目。宮崎市内に泊まった私は宮崎神宮に向かいました。

幹線道路から分かれた道をまたいで一の鳥居が立ち、ナギ並木の一直線の先に宮崎神宮があります。

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宮崎に行こうと思ったのは、行ったことがないからというのも多分にありますが、ケネス・ルオフさんの『紀元二千六百年 消費と観光のナショナリズム』を読んだのもきっかけでした。
紀元二千六百年というのは昭和15年です。神武天皇が日本を建国したとされる年から2600年の節目の年ということで、様々な記念行事が行われました。
まちあるきをする人なら、至るところで紀元二千六百年記念と刻まれた記念物(国旗掲揚台や灯籠など)に出会うと思います。
この本ではその記念事業がどのようなものであったかが紹介されています。
中でも観光面で中心となっていたのが、神武天皇関連の史跡が多い奈良と宮崎でした。

宮崎でその痕跡を見ることができるだろうかというのが旅行の一つの動機です。
右の地図は、昭和9年頃に宮崎市役所が発行した「観光の神都 宮崎」という観光パンフレットです。
建国神話の世界をめぐる観光がPRされていました。

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こちらは昭和16年前後に宮崎バス(株)が発行した「宮崎の参宮と観光の栞」という観光パンフレットに載っている地図です。
宮崎神宮の存在感が大きく、その参道が都市の主要な軸になっていることが分かります。


(今昔マップより)

宮崎は江戸時代には小さな町場で、近代になって発展した新興都市です。

宮崎神宮は江戸時代までは神武天皇社と呼ばれる小さな神社でしたが、明治維新後に神武天皇への評価が高まるとともに、村社から出発して宮崎宮へと改称、明治18年には社格最高位の官幣大社に昇格しました。さらに伊東忠太の関わる壮大な社殿・境域整備が行われ明治40年に完成しました。初代の一の鳥居もこのときの設置です。大正2年に宮崎神宮に改称されました。

一方、宮崎市は大正2年に日豊本線の宮崎駅が開業したことで本格的な発展を始めました。大正13年に町村合併により宮崎市が誕生、大正14年から昭和3年にかけての耕地整理で高千穂通り(駅前通り)など主要街路が整備され、昭和7年に大淀川に架かる橘橋が完成するなど都市整備が進みます。その過程で宮崎神宮は主要な施設として位置づけられ、昭和6年には表参道の拡幅とナギの植樹、昭和9年には「神武東遷二六〇〇年祭」に伴う境域拡張と皇宮屋の整備、昭和15年の「紀元二千六百年奉祝記念事業」に合わせてさらに境域拡張と神宮前広場、神宮東側の整備が進められました。
この宮崎神宮関連の整備は観光振興も意識したものでした。
その祖国を打ち出した観光振興のピークである「紀元二千六百年奉祝記念事業」では、宮崎神宮北西の海が見える丘の上に、神武天皇の建国の理想を表現した「八紘之基柱」(現在の「平和の塔」)が建設されました。


 ー以上は、永瀬 節治さん「昭和前期の宮崎都市計画の特色とその地域的・社会的文脈- 「神都宮崎」の観光振興と近代都市形成との関わりに着目して」(都市計画論文集Vol50.No.3)より

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参道を進むとやがて見えてくる宮崎神宮の杜。
この広場は昭和15年に整備されたものです。

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入り口には、昭和9年の事業を記念する「神武天皇御東遷記念二六〇〇年祭之処」の石碑が立っています。

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宮崎神宮の二の鳥居。ここからは鬱蒼とした森のトンネルです。

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左手の西神苑にそれると、古代船「おきよ丸」という大きな木の船が展示されていました。
神武天皇が美々津から船で東征に出発したという伝説にちなみ、西都原古墳から出土した舟形埴輪を原型に復元された木造船です。
平成17年に建造され、その年の秋から神武大祭で行列を先導しているそうです。

おきよ丸は紀元二千六百年記念事業で昭和15年にも復元されており、その時はなんと大阪まで再現航海されたらしいです。

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また参道を右手に抜けると芝生の開けた広場がありました。
明治以降の神社にはこういう公園のような空間があったりしますね。

2本並び立つシュロ(ヤシ?)の向こうにはご神田があります。
左奥と右側には立派な藤棚がありました。
ここはどういうスペースなんでしょう。園遊会ができそうですが。

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藤棚の下にあったテーブルと椅子。
テーブルの脚がひねっていて藤を表現しています。

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庭園の名残のように石橋もありました。
「かさはし」?

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さらに森の中には宮崎神宮徴古館があります。
全面なまこ壁2階建ての印象的な建物です。
大規模な境域整備が行われた時期の明治42年に、宮崎神宮の宝物や書籍を陳列・保存する建物として建設されました。社殿造営を監督した佐々木岩次郎によるものだそうです。登録有形文化財。収蔵物は現在、宮崎神宮北側にある宮崎県総合博物館に移されています。

近代文化遺産見学案内所さんのブログの「【登録有形文化財】 宮崎神宮 徴古館 (宮崎県 宮崎市) 行き方、見学のしかた」という記事で2020年1月の情報として、内部の写真を載せておられますので、公開されることもあるようです。

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宮崎神宮徴古館の近くに変わった形の記念碑がありました。
東の海から上る太陽でしょうか。
裏面には「電燈建設寄附者記念」と書かれていて、発起人は「株式会社宮崎呉服店」、京都・大阪などの寄附者の名前が並んでいます。

近くに灯籠がありましたので、灯籠を電燈化していたのかもしれません。

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宮崎神宮拝所、その奥に幣殿があります。
一連の社殿群は明治40年に伊東忠太により設計されたとのことです。

参拝の後、裏手に回ってみました。

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宮崎神宮の森の中には、宮崎県総合博物館があり、併設して県内から移築した4つの建物からなる民家園があります。
せっかくなので見学しました。

こちらは高原町にあった郷士の建物・旧黒木家住宅です。
天保5年(1834年)から2年がかりで建てられたそうです。

美しい建物ですね。

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内部にも真向兎(火除の意味があるよう)の釘隠しがあったり、凝った引手があったりしました。
地域の名士だからでしょうか。

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こちらは椎葉村の農家・清田家住宅です。
元治元年(1864年)の建築です。

他に西米良村の民家・黒木家住宅(伝文政4年(1821年))、県内で確認されたものでは最古という五ヶ瀬町の民家・旧藤田家住宅(天明7年(1787年))もありました。

これらの古民家は昭和40〜50年代にかけて移築されています。

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博物館の屋外展示の一つとして、都農町の道路元標がありました。
こういうのは場所に意味があるので、できれば現地に置いてほしいなと思うのですが。

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宮崎県総合博物館はこのすっきりした建物。
今調べて初めて知ったのですが(遅い!)、1971年、坂倉準三の設計です。
もっとよく見ておくべきだったか。

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すごく渋いタイルが使われています。
この時はそんなにタイルを気にしていなくて、たまたま解説を撮った写真ですが、今見てほしいのはタイル。

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総合博物館というだけあって自然史・歴史・民俗と様々な展示があります。
昭和30年代の宮崎市で一般的だった文化住宅を再現したという展示があって、私にはこれが気になりました。

最後、話がそれてしまいましたが、宮崎神宮は広い森の中に建物・記念碑・遺構が点在しているので、じっくり見るといろいろ発見があると思います。

この後、平和台公園の平和の塔(八紘之基柱)に向かいました。

 

 

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