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2021年8月

2021年8月22日 (日)

宮崎の旅2019(4)八紘之基柱と平和台公園(宮崎市)

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宮崎神宮の後は、その裏の丘にある平和台公園に向かいました。
ここに昭和15年の八紘之基柱(あめつちのもとはしら)が、平和の塔と名前を変えて残されているということで、それを見学するためです。
平和台公園に向かう道は大きな木を目印に、そこから参道のように分岐しています。
そして入り口にある灯籠のような一対。

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これは!
塔があること自体は分かっていましたが、入り口からこのようなオブジェがあるとは思いませんでした。
役割としては参道の灯籠と同じだと思います。
アールデコ高層ビルのようなデザインの上に家型はにわ。

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しばらく歩くとまた一対あります。
同じようなデザインです。

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歩いていくと何か見えたので、右手の道を上がってみると銅像がありました。
「相川勝六先生像」と書かれています。
横にあった説明文を読むと、相川氏は明治24年、佐賀県嬉野市に生まれ、宮崎・広島・愛知・愛媛県知事を歴任され、昭和19年に厚生大臣、戦後は宮崎市に本籍を移し、衆議院議員を20年余り務められたられたそうです。とくに宮崎県の振興に力を注ぎ、県営電気の創業、細島臨海工業地帯の造成、宮崎港の開築、宮崎神宮の神域拡張などに関わられたと記されています。
この銅像は亡くなられた直後の昭和49年に建てられていますが、ここに建てられた理由は、相川氏が宮崎県知事時代、紀元二六〇〇年記念事業として八紘之基柱を建てられたというのがその理由となっています。

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さらに進むと階段になっています。その手前にひときわ大きな灯籠があります。
先程のものと違って前後にも屋根が伸びています。

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階段の途中の斜面にはこんな小さな灯籠もありました。最小?

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階段を登って丘の上に出ると、今度は大きな家型埴輪風の東屋。
これは手水舎です。実は昭和15年、八紘之基柱と同時に整備されたもので、当時の写真もレストハウスに展示されていました。

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中には神武天皇が船出したと伝えられる美々津の上流から採られた石が、手水鉢に加工されて据えられています。
かなり大きな石で、正面に「美々津」と刻まれています。

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いよいよ平和の塔(八紘之基柱)のある広場。
古代遺跡のような、独特の存在感があります。

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平和の塔(八紘之基柱)を正面から。

八紘之基柱(あめつちのもとはしら)が建設された経緯はこのようです。
国の紀元二千六百年奉祝事業で宮崎神宮に予算がつき、神域拡張と徴古館の改築などが行われました。
これに呼応して宮崎県の奉祝事業も企画され、県内全神社の祭典執行、上代日向研究所の設立、県内20余ヶ所の神武天皇御聖蹟の顕彰と紹介、遠祖慰霊祭の執行などが行われました。その際、記念物として作られたのがこの塔です。相川知事の案としては世界中の同胞から集めた石を使い、日本一の石塔を作るというものでした。
ただし、県だけでなく、大阪毎日新聞、東京日々新聞(現・毎日新聞東京本社)の協賛を得、献石には陸軍も協力しています。

高さは37mあります。この塔の製作・設計者は彫刻家の日名子実三氏です。
日本サッカー協会のシンボルマーク「八咫烏(やたがらす)」の制作者でもあるそうです。
宮崎県にある他の軍関係の記念碑もデザインしています。

日名子氏は塔のデザインにあたって、相川知事の要望により、宮崎県内を巡って構想しました。
高さは当時日本一だった東京丸ビルの30mを上回り、海からも見えることが条件でした。
塔全体の形は宮崎神宮の御幣の形、部分的には御楯の形、段々の形は高千穂町の段々畑や美々津の立磐神社にある天皇腰掛石、高原町の皇子原の玉垣などが取り入れられているそうです。

塔は昭和14年5月20日に着工しました。整地作業に宮崎県民を中心とする奉仕団が参加するなど、作業員はのべ66,500人、総工費は67万円で、昭和15年11月15日に竣工しました。

(参考)三又たかし著『ある塔の物語 甦る日名子実三の世界ー』(2002年)
    平和台公園レストハウスの解説

この塔の持つ意味がいくらか伝わりますでしょうか。
塔は完成後、神都観光の重要なスポットとなり、記念切手や記念紙幣にもなっているそうです。

この塔の前面にも一対の灯籠があります。

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この灯籠はひときわ大きく、立派です。
日名子氏の作成した模型写真にも入っています。

ここまで見てきた灯籠の本体のデザインは、八紘之基柱のミニチュアであることが分かります。

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この向かって左の灯籠には気になるものがあります。
裏側に開口部があり、奥に電極のようなものが見えるのです。
もしかしてスピーカーの機能も持っていたのではないのでしょうか。

向かって右側の灯籠には背後の開口部は見当たりません。
もし電灯であれば、両方にないと不自然です。

また、レストハウスに展示されている写真では灯籠の左側に国旗掲揚柱があり、左側の灯籠にスピーカーがあるのも自然に思われます。
文書としての証拠などは見つけられていませんが。

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さて、塔で目立つのは正面に刻まれた「八紘一宇」の文字です。
戦前のアジア進出を正当化するスローガンであり、終戦後の昭和21年8月、GHQの指導により削除され、「平和の塔」となりましたが、昭和40年に復元されました。復元には反対もありましたが、当初の姿であることが、教訓の上でも意味があるように思います。

また塔の四隅には信楽焼の像が立っています。
写真ではわからないかもしれませんが、高さ6mの巨大な像です。
右前面は和御魂(にぎみたま・商工人)の像。

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右後ろは幸御魂(さちみたま・農耕人)像。
手前の子どもは、日名子氏の娘さんがモデルだそうです。

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左後ろの奇御魂(くしみたま・漁人)像。

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そして右前方の荒御魂(あらみたま・武人)像。
この像については、GHQから軍国主義の象徴として撤去が命ぜられましたが、昭和37年に復元されました。

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塔の正面には中央に神武天皇の船出の様子を描いた青銅の扉があります。その周りには日本書紀・古事記から採られた62の事物が描かれています。この扉の製作にあたっては、当時金属が不足していたため、県民の家庭にある銅製品の供出をお願いして作られたとされています。

欄間は三種の神器と榊です。

この奥の厳室には普段は入れませんが、八点のレリーフ(天孫降臨、鵜戸産屋、紀元元年(神武天皇即位)、国土奉還、明治維新、太平洋半球地図、大西洋半球地図、紀元二千六百年)が銅不足のため石膏のままで架けられているそうです。また地下には設計図などのタイムカプセルが埋められているとのことです。

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塔の台座の上からは太平洋を望むことができます。

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床面には丸石が敷き詰めてありました。

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平和の塔のある広場は平和台公園の中のほんの一部です。その背後には古墳群があるなど、かなり広い公園です。
私はこの時は塔までだけで戻りました。

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当時、八紘之基柱の建設を記念して作られた『鳥瞰 八紘之基柱』というパンフレットの一部。
この図から位置関係がうかがえると思います。

平和の塔(八紘之基柱)は、元の姿に復元されたために、昭和15年当時の熱狂が直に感じ取れる記念物となっています。
当時のことを忘れないためにも大事なものではないかと思います。

この塔に関しては、石材についても触れないわけにもいきません。
次の記事で石について書いておこうと思います。

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2021年8月15日 (日)

宮崎の旅2019(3)宮崎神宮(宮崎市)

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2019年GWの宮崎旅行の記事です。「宮崎の蔵など」の続きです。
旅行4日目。宮崎市内に泊まった私は宮崎神宮に向かいました。

幹線道路から分かれた道をまたいで一の鳥居が立ち、ナギ並木の一直線の先に宮崎神宮があります。

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宮崎に行こうと思ったのは、行ったことがないからというのも多分にありますが、ケネス・ルオフさんの『紀元二千六百年 消費と観光のナショナリズム』を読んだのもきっかけでした。
紀元二千六百年というのは昭和15年です。神武天皇が日本を建国したとされる年から2600年の節目の年ということで、様々な記念行事が行われました。
まちあるきをする人なら、至るところで紀元二千六百年記念と刻まれた記念物(国旗掲揚台や灯籠など)に出会うと思います。
この本ではその記念事業がどのようなものであったかが紹介されています。
中でも観光面で中心となっていたのが、神武天皇関連の史跡が多い奈良と宮崎でした。

宮崎でその痕跡を見ることができるだろうかというのが旅行の一つの動機です。
右の地図は、昭和9年頃に宮崎市役所が発行した「観光の神都 宮崎」という観光パンフレットです。
建国神話の世界をめぐる観光がPRされていました。

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こちらは昭和16年前後に宮崎バス(株)が発行した「宮崎の参宮と観光の栞」という観光パンフレットに載っている地図です。
宮崎神宮の存在感が大きく、その参道が都市の主要な軸になっていることが分かります。


(今昔マップより)

宮崎は江戸時代には小さな町場で、近代になって発展した新興都市です。

宮崎神宮は江戸時代までは神武天皇社と呼ばれる小さな神社でしたが、明治維新後に神武天皇への評価が高まるとともに、村社から出発して宮崎宮へと改称、明治18年には社格最高位の官幣大社に昇格しました。さらに伊東忠太の関わる壮大な社殿・境域整備が行われ明治40年に完成しました。初代の一の鳥居もこのときの設置です。大正2年に宮崎神宮に改称されました。

一方、宮崎市は大正2年に日豊本線の宮崎駅が開業したことで本格的な発展を始めました。大正13年に町村合併により宮崎市が誕生、大正14年から昭和3年にかけての耕地整理で高千穂通り(駅前通り)など主要街路が整備され、昭和7年に大淀川に架かる橘橋が完成するなど都市整備が進みます。その過程で宮崎神宮は主要な施設として位置づけられ、昭和6年には表参道の拡幅とナギの植樹、昭和9年には「神武東遷二六〇〇年祭」に伴う境域拡張と皇宮屋の整備、昭和15年の「紀元二千六百年奉祝記念事業」に合わせてさらに境域拡張と神宮前広場、神宮東側の整備が進められました。
この宮崎神宮関連の整備は観光振興も意識したものでした。
その祖国を打ち出した観光振興のピークである「紀元二千六百年奉祝記念事業」では、宮崎神宮北西の海が見える丘の上に、神武天皇の建国の理想を表現した「八紘之基柱」(現在の「平和の塔」)が建設されました。


 ー以上は、永瀬 節治さん「昭和前期の宮崎都市計画の特色とその地域的・社会的文脈- 「神都宮崎」の観光振興と近代都市形成との関わりに着目して」(都市計画論文集Vol50.No.3)より

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参道を進むとやがて見えてくる宮崎神宮の杜。
この広場は昭和15年に整備されたものです。

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入り口には、昭和9年の事業を記念する「神武天皇御東遷記念二六〇〇年祭之処」の石碑が立っています。

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宮崎神宮の二の鳥居。ここからは鬱蒼とした森のトンネルです。

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左手の西神苑にそれると、古代船「おきよ丸」という大きな木の船が展示されていました。
神武天皇が美々津から船で東征に出発したという伝説にちなみ、西都原古墳から出土した舟形埴輪を原型に復元された木造船です。
平成17年に建造され、その年の秋から神武大祭で行列を先導しているそうです。

おきよ丸は紀元二千六百年記念事業で昭和15年にも復元されており、その時はなんと大阪まで再現航海されたらしいです。

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また参道を右手に抜けると芝生の開けた広場がありました。
明治以降の神社にはこういう公園のような空間があったりしますね。

2本並び立つシュロ(ヤシ?)の向こうにはご神田があります。
左奥と右側には立派な藤棚がありました。
ここはどういうスペースなんでしょう。園遊会ができそうですが。

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藤棚の下にあったテーブルと椅子。
テーブルの脚がひねっていて藤を表現しています。

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庭園の名残のように石橋もありました。
「かさはし」?

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さらに森の中には宮崎神宮徴古館があります。
全面なまこ壁2階建ての印象的な建物です。
大規模な境域整備が行われた時期の明治42年に、宮崎神宮の宝物や書籍を陳列・保存する建物として建設されました。社殿造営を監督した佐々木岩次郎によるものだそうです。登録有形文化財。収蔵物は現在、宮崎神宮北側にある宮崎県総合博物館に移されています。

近代文化遺産見学案内所さんのブログの「【登録有形文化財】 宮崎神宮 徴古館 (宮崎県 宮崎市) 行き方、見学のしかた」という記事で2020年1月の情報として、内部の写真を載せておられますので、公開されることもあるようです。

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宮崎神宮徴古館の近くに変わった形の記念碑がありました。
東の海から上る太陽でしょうか。
裏面には「電燈建設寄附者記念」と書かれていて、発起人は「株式会社宮崎呉服店」、京都・大阪などの寄附者の名前が並んでいます。

近くに灯籠がありましたので、灯籠を電燈化していたのかもしれません。

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宮崎神宮拝所、その奥に幣殿があります。
一連の社殿群は明治40年に伊東忠太により設計されたとのことです。

参拝の後、裏手に回ってみました。

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宮崎神宮の森の中には、宮崎県総合博物館があり、併設して県内から移築した4つの建物からなる民家園があります。
せっかくなので見学しました。

こちらは高原町にあった郷士の建物・旧黒木家住宅です。
天保5年(1834年)から2年がかりで建てられたそうです。

美しい建物ですね。

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内部にも真向兎(火除の意味があるよう)の釘隠しがあったり、凝った引手があったりしました。
地域の名士だからでしょうか。

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こちらは椎葉村の農家・清田家住宅です。
元治元年(1864年)の建築です。

他に西米良村の民家・黒木家住宅(伝文政4年(1821年))、県内で確認されたものでは最古という五ヶ瀬町の民家・旧藤田家住宅(天明7年(1787年))もありました。

これらの古民家は昭和40〜50年代にかけて移築されています。

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博物館の屋外展示の一つとして、都農町の道路元標がありました。
こういうのは場所に意味があるので、できれば現地に置いてほしいなと思うのですが。

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宮崎県総合博物館はこのすっきりした建物。
今調べて初めて知ったのですが(遅い!)、1971年、坂倉準三の設計です。
もっとよく見ておくべきだったか。

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すごく渋いタイルが使われています。
この時はそんなにタイルを気にしていなくて、たまたま解説を撮った写真ですが、今見てほしいのはタイル。

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総合博物館というだけあって自然史・歴史・民俗と様々な展示があります。
昭和30年代の宮崎市で一般的だった文化住宅を再現したという展示があって、私にはこれが気になりました。

最後、話がそれてしまいましたが、宮崎神宮は広い森の中に建物・記念碑・遺構が点在しているので、じっくり見るといろいろ発見があると思います。

この後、平和台公園の平和の塔(八紘之基柱)に向かいました。

 

 

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2021年8月 2日 (月)

トンガリ屋根の市営住宅(東大阪市)

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宮崎の旅の話の途中ですが、最近の話題をはさみます。
このところ、家から自転車で出かけることが多いのですが、それは唐突に現れました。

トンガリ屋根の市営住宅。
今改めて検索すると11年前、2010年のことなのですが、同様のトンガリ屋根の市営住宅を山本龍造さんが大阪アホげな小発見。とか「東大阪市高井田中・トンガリ屋根の住宅群」(2009年の記事)で紹介されていて、そこに「ぜひ見に行ってみたいと思います」と調子よくコメントしておきながら、探すこともなく、自転車で走っていてたまたま出会ったのでした。

コメントに出てくる「柏田東町の住宅」というのがここです。

あれから10年、よく残っていたこと。
この先も残っている保証はないので早く記事にしておこうと思った次第です。

最初の写真は南側の列。

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北側にもう一列あります。
高井田中の住宅とよく似ていますが違うのは、道路に平側を向けていることです。
屋根がトタンに葺き替えられているのも違いますが、それは後日の変化でしょうか。

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この並びは壮観です。

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2階部分まで下見板張りになっているこちらの建物がオリジナルに近いのでしょうか。
2階は屋根裏部屋ですよね。

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西北角からの眺め。
残念ながらフェンスに囲まれていて、解体を待つようです。

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真ん中の通りはこのようになっています。

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面白いのは南側の西端の建物です。
同じ住宅に見えますが、そうではなく・・・

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「柏田東町集会所」と書かれていて、地区の集会所です。

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見た目には全く同じです。
元は集会所ではなかった?

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この市営住宅、ちゃんと庭があります。

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地区南側からの遠景。
空き地になっている場所にも以前は住宅があったようです。

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なお、この市営住宅はトンガリ屋根の住宅だけでなく、平屋二戸一の住宅も4棟あります。

『東大阪市公営住宅等長寿命化計画』(平成31年)によると、この市営住宅は昭和27年に建設された「柏田住宅」のようです。
15棟・19戸という記載なので数もちょうど合います。風呂は付属していないとのこと。
そうすると山本龍造さんの紹介されている高井田中の住宅は「高井田3丁目住宅」(昭和27年)でしょうか。「上小阪西住宅」(昭和25,26年)も1・2階建てになっています。
いずれも用途廃止住宅に指定されています。建替と違ってすぐに壊す必要もないのかもしれませんが、予算がつき次第、順次解体されていくでしょうから、この風景が見られるのも今のうちですね。

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2021年8月 1日 (日)

宮崎の旅2019(2)宮崎の蔵など(宮崎市)

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2019年GWの宮崎の旅の続きです。
神戸からのフェリーを宮崎港で降りた後、徒歩で宮崎駅を目指しました。
お天気も良く、平坦な道です。

屋敷森が見えたので、近寄ってみました。
そこには和洋折衷の石造の蔵が!

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窓の両脇には松竹梅のレリーフ、下には菊水(?)のレリーフ。
装飾的な屋根も架かっていますし。
瓦屋根の下にはコーニスとロンバルディア帯風の装飾も入っています。
柔らかそうな石は凝灰岩でしょうか。

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さらに1階と2階の間は帯状に出していて、角には植物風の装飾が入っています。

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拡大するとこんな感じです。
表面の仕上げを変えることで、数種類の石材を使っているかのような変化を付けていますね。
角の石材は手前に出ています。

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母屋脇の馬小屋?も腰壁までは石を積んでいます。

後で宮崎の図書館に行って『宮崎県の近代化遺産-宮崎県近代化遺産総合調査報告書-』(平成29年)を見たのですが、そこに宮崎県の石造倉庫について、かなり大きく取り上げられていました。

「宮崎県を含む南九州(鹿児島県全域、熊本県球磨地方)には、溶結凝灰岩(本県では「ハイ石」と呼ぶ)を利用した石造倉庫が数多く見られる。(中略)宮崎県内には、住宅の附属屋としての石造倉庫が残されている。この石造倉庫は、基礎部分から軒部分までを石造りで建築したもので、約170棟の石造倉庫が残されている。」(p19)

 この蔵もそのうちの一つなのでしょう。

 また年代の分かるものでは、明治8年から昭和40年建築のものまで、約90年にわたっているそうです。

 さらに宮崎地区の石造倉庫について、
「宮崎地区は石造倉庫の建築数が最も多く、構造的にも意匠的にも完成度の高いものが多く見られる。この地区の石造倉庫の殆どが寄棟屋根2階建て造りで、小屋組の構造材、2階床の構造材を支えるために蛇腹(西洋では「コーニス」と呼ぶ)が軒部分と壁面中央部分に施されている。(中略)石材は、高岡町浦之名と清武町黒北から調達しており、石工もこの石材産地に居住して石造倉庫の建築に関わっていた。」(p29)

 と書かれています。全く特徴が一致しています。

 改めて自転車を借りて石造倉庫を見て回りたいなと思っていますが、まだ実現していません。

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 さてまた歩きはじめます。
 木造下見板の市営住宅っぽいものがありました。

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 このあたりは低湿地で、ところどころ暗渠の通路がありました。

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これはセメントでしょうか。
古そうな門柱です。

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コンクリート基礎杭を逆さに使った門柱。

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もう一つ石造倉庫を見かけました。
こちらは木々に覆われていて、ほとんど見えません。

2019年末か2020年に解体されたようです。グーグルストリートビューに解体直前、周囲が刈られて全体が見えるようになった姿が残っていました。

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石を積んだ塀。屋根部分も石でできています。
屋根部分は石造倉庫と同様の石材に見えます。

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次に見えてきた森は吉村八幡神社でした。
文明8年(1476年)に宇佐八幡宮から勧請された神社だそうです。

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周囲の石垣にも同様の石材が見られます。

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興味深かったのが折れた鳥居を使ったモニュメント。
裏に「昭和六年十一月二日午後七時ノ大地震ノ為前石鳥居破壊シタルニ付今度鉄筋コンクリートニテ改築ス」
と書かれています。知らなかったのですが、日向灘地震(M7.1)というのがあったそうです。

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玉乗りでポーズを取っているような狛犬。
皇紀2600年(昭和15年)に、四国21回参拝記念として地元の68歳の男性から奉納されています。

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宮崎の中心地が近づいてきました。
宮崎中央公園。滑り台が植物のようなデザインです。

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宮崎中央公園にある宮崎科学技術館の前には、H-Ⅰロケットの実物大模型が置かれていて目立っていました。

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宮崎駅に到着。新しいデザインです。
列車の待ち時間があったので、駅を抜けて、西側に少し離れた繁華街の方にも行ってみました。

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文化ストリート商店街という場所があり、昔の雰囲気が残っていました。
表に出れば繁華街なので、ほんとに隙間のような場所です。

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こちら看板建築風の建物。
かき氷屋さんがオープンしたばかりのようでした。
この日はこれぐらいで、宮崎駅から列車に乗って延岡に向かいました。

宮崎市街については戻ってから改めて歩き回りました。
そちらを先に紹介しようと思います。

宮崎神宮の記事に続く。

 

 

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