中甲子園経営地から七番町経営地とその周辺(西宮市)
武庫川支流の枝川跡を開発した住宅地を歩くシリーズ2回目。
今回は国道2号線から阪神甲子園駅までの区間を歩きます。
最初におわびしておきますが、内容は「その周辺」がほとんどです。
「甲子園住宅地の境目を歩く」もあわせてご覧下さい。
以前紹介したように、大正の終わりに枝川が埋め立てられると、阪神が跡地をリゾート地や住宅地に開発しました。中甲子園経営地は昭和3年から5年にかけて開発されています。
歩いていると上甲子園米穀店という昔ながらのお米屋さんを見かけました。
木造下見板張りの店舗です。
東に外れますが、アパートを発見。
さくら荘といいます。
玄関のところに擬木が使われているのが面白い。
大きなお屋敷で立派な門が残っています。
住宅地の中央を貫く道沿いに北郷公園がありました。
少し高くなっていて、位置から考えると、昔の枝川堤防が残っているのだと思います。
「西門」という渋い門柱。
枝川跡の開発にあたっては元々堤防に植わっていた松の木は活かして開発されたそうですので、この公園の松もその流れではないでしょうか。
堤防跡の向こう側に義民塚というものがあります。
安土桃山時代の天正3年(1591年)、旱魃に苦しむ鳴尾村の住民は、天井川だった枝川の向こう、瓦林村側からこっそり水を引く水路をつくりました。当然、両村の争いになり、関係者25人の命と引き換えにこの北郷用水が認められました。
このときの義民を称えて昭和18年、取水口跡に建てられたのがこの義民碑です。
かつては半夏生(7月初め)に法要が営まれ、前日には瓦林村に用水料として酒と蛸が送られていたそうです。
<昭和7年修正測量 仮製版1万分の1地形図「西宮首部」陸地測量部発行>
※クリックすると拡大します。薄く水色に塗った部分が旧河道・堤防です。
既に旧河道を阪神甲子園線が走っていますが、昭和7年時点でも堤防が原型を留めていて、そんなに建物が建っているわけではないですね。
さて、この区間に古そうな住宅は少ないのですが、東側に1つは確認できました。
裏から見た方がよく分かるのですが、大きな屋根の住宅です。
阪神甲子園駅の東側に、旧河道の外側ではありますが、古い住宅がありました。
逆から。ちょっと分かりにくくてすみません。
空き家っぽかったのが残念です。
最後に阪神甲子園駅北側にある住宅。
古いタイプの門があり、なぜか手前にスクラッチタイルの低い壁があります。
門脇の部屋も用途が不明ですし、気になる建物です。
門や塀などは古いものも見られるのですが、この区間の建物に関してはあまり古いものが残っていないようでした。
<関連記事>
「上甲子園経営地を歩く」
「甲子園住宅地の境目を歩く」(2008年11月)
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コメント
小・中・高等学校時代の友人が多数住んでました…北郷公園は悪がきの集まり場所でした(汗)。
敗戦後10年位は大邸宅が焼け跡の儘で残ってました。
昭和30年代には野村克也邸(サッチーと出逢う前)や島倉千代子・藤本勝巳邸が建ちました。
親父の話では七番町には過って森繁久弥や佐藤紅緑(ハチローや愛子の父)も住んでたらしい。
相続ですっかり細分化、建替えされました。
投稿: 難波のやっちゃん | 2013年2月27日 (水) 10:09
難波のやっちゃんさま、こんばんは。
このあたりも空襲の被害を受けているのですね。
随分有名人も住んでいたようで。
島倉千代子さんは私には関西のイメージがないのですが。
興味深いお話ありがとうございます。
投稿: びんみん | 2013年2月28日 (木) 01:28