北の玄関・伏木港(3)伏木気象資料館
伏木の近代を語る上で欠かせない場所が、高岡市伏木気象資料館(旧伏木測候所)です。
駅から真っ直ぐ歩いて行くと、崖の上にコンクリートの塔屋が見えます。昔は階段も使われていたようですが、今は坂の上から回ります。
門は凝灰岩でできているようです。
庭には「越中国守館址」の碑が建っていて、万葉時代の史跡でもあります。ここから船の出入りを見ていたのでしょうね。750年に大伴家持もここに赴任してきました。
これが伏木気象資料館(旧伏木測候所)の全景です。
本体は明治42年に建てられたので明治風ですが、塔(測風塔)は昭和13年です。
旧伏木測候所を最初に設立したのは国や県ではなく、民間人の藤井能三という人です。
能三は江戸時代の弘化3年(1846年)、伏木の廻船問屋能登屋三右衛門の長男として生まれました。明治2年、加賀藩の仕事で神戸に出た際、蒸気船で賑わう神戸港を見て衝撃を受け、近代化しないと伏木は取り残されてしまうと危機感を持ちます。
伏木に戻った能三がまず手がけたのは伏木小学校の設立でした。明治6年のことで、富山県初です。
続いて藤井女児小学校も開きました。
次に手がけたのが伏木港の近代化です。
三菱汽船の岩崎弥太郎に掛け合い、伏木に寄港してもらえるよう頼むのですが、積み荷を集めること、積み荷が半分に満たない場合の補償、燈台の整備の3条件を提示されました。燈台は間に合いませんでしたが(明治10年完成)、明治8年、三菱汽船の船が伏木と北海道、東京、大阪などを結びました。
それにとどまらず能三は明治14年、地元の船問屋とともに北陸通船会社を設立します。
この会社は三菱汽船との激しい競争の末、明治18年に倒産しましたが、能三はその後も伏木港の近代化に力を尽くし、のちに外国航路が開かれるきっかけになります。
伏木測候所については、明治16年、伏木燈台の一室に「私立伏木測候所」を置いたのが始まりです。
のち県営に移管し、明治25年には大字臥浦町字亨田に移転、海に近すぎたため、明治42年に現在地に移転しました。
非常に大きな功績があった人なのですね。
(参考)
(社)日本埋立浚渫協会「海拓者たち 日本海洋偉人列伝 藤井能三」
さて、玄関です。
軒下のひらひら(飾り)や透かし彫りなど、車寄せ部分には装飾がたくさん入っています。
階段や柱の基礎には緑色の凝灰岩らしきものが使われています。福井の笏谷石でしょうか。もっと地元の石かもしれませんが。
床下換気口の面格子を見ると、唐草模様が使われています。
入館料210円を払って中に入ります。
館内も凝っていて、玄関ホールと廊下の間にはアーチが掛けられています。
現在、各室は気象観測機器の展示などに使われています。
表には今も使われている観測機器があります。
天井には空気穴が。
きれいですが、こんな色使いだったのでしょうか。
2階は公開されていませんが、階段を上ることはできます。
階段の親柱。
階段の踊り場。
階段の手すり。花のような模様が透かし彫りされています。
ドアノブはいつのものか分かりません。
こういう真鍮のドアノブ、懐かしいですね。
旧伏木測候所には当初、望楼があったのですが、昭和13年に測風塔が建設された際に取り壊されました。
その望楼の復元工事が2013〜2014年度に行われるそうです。楽しみですね。
>北日本新聞「伏木気象館「望楼」復元へ」(2011.5.12)
また見に来る機会があればと思います。
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<関連ブログ>
まちかど逍遙「伏木の近代建築」
<関連記事>
○2012富山旅行の記事の目次
北の玄関・伏木港
(1)伏木駅
(2)北前船資料館
(3)伏木気象資料館
(4)港の風景
(5)メインストリート
(6)看板建築など
(7)工場建築
(8)気になるもの
(9)六渡寺へ(完)
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