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2012年5月13日 (日)

豊岡のロータリーと水路

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豊岡にはこういうロータリー交差点があります。
それも大正時代にできたもので、「寿ロータリー」といいます。


より大きな地図で 豊岡 を表示

地図で見るととても目立ちますね。
私はロータリーも好きなので、見に行ってみました。
6本の道が合流していて、左下の道が豊岡駅に、下の道が市役所に向かっています。

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<1909年に作られたレッチワースのラウンドアバウト(98年撮影)>

円形交差点は19世紀後半から景観的な意味でヨーロッパで作られるようになったようですが、交通システムとしては20世紀に入ってからのようです(wikipedia情報)。イギリスのレッチワースのラウンドアバウト(ロータリー)も初期のもの。

日本の場合、大美野田園都市など昔の設計で使われていますが、流行らなかったので、むしろロータリーを見るとレトロに思えます。

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さてロータリーの中心は、寿公園という公園になっていて、真ん中にはおじいさんの銅像が座っています。

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後ろから見るとこんな感じ。
椅子までちゃんと作ってあります。

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誰だろうと思いますが、隣に大正13年に建てられた「頌徳記」という記念碑があり、明治・大正期に活躍した中江種造という実業家の銅像だと分かりました。

生野鉱山でフランス人技師に採鉱・冶金を学び、古河財閥の古河市兵衛の顧問として全国の鉱山を視察し、独立して各地の鉱山を経営、高知で杉檜を植林するなど実業に活躍した方のようです。
また社会事業として、明治35年に中江済学会(育英基金)の設立、大正10年に豊岡の上水道建設費36万円を全額寄付したそうで、上水道建設への感謝がこの銅像です。

詳しくは下記に全文を掲載しますのでお時間のある方はどうぞ。

 →関連 但馬の百科事典「中江種造」




           頌徳記

寿山・中江種造翁は豊岡藩士・河本筑右衛門氏の第六子
なり。弘化三年二月十五日その藩邸に生る。出て同藩・
中江晨吉氏を継ぐ。明治元年京都付近兵乱に際し、豊岡
藩士として京都御所警衛の任に当たり、たまたま大垣藩
士久世治作氏と知り、同氏に就いて理化学の教授を受け
得る処あり。明治元年、官業生野鉱山に勤務して、仏人
コワニー、セボースの両氏に就て採鉱冶金の学術と実地
を修め、益得る処あり。明治四年二月、病気のため休暇
を請け、帰国の上、辞職す。同年八月造幣局御用召に付
き上阪。九月病気のため出仕を辞す。同八年八月古河市
兵衛氏の嘱託となり、同二十年、これを辞す。その間、
全国の鉱山を視察し、明治十八年以来、岡山県国盛鉱山
徳島県東山鉱山、熊本県五木鉱山、和歌山県飯盛鉱山、
愛媛県千原鉱山を経営す。経営みなその宜しきに適い、
かつ勤倹力行を以てして、鉅富を得、而て之を国家の有
用に資せんことを思い、或いは高知県土佐郡及び長岡郡
に於いて杉檜三千余町歩を造林●●は明治三十五年、金
十万円を投じ、中江済学会を創め、学生を養い学士を出
すこと三十五人なり。その他、公共の事に資材投じたる
こと挙げて数うべからず。大正十年予が懇請を容れ、豊
岡上水道費全額金三十六万円を寄付し、以て豊岡町民の
保健と町将来の繁栄の素地を作らる。町民歓喜して翁の
徳を頌く●所に翁の像を作り、永くその徳を伝う。

大正十三年八月銅像原型成るの日


 ※旧字体は新字体に、句読点や送りがなを入れ、
  難しい漢字は平仮名にしています。
  読み間違いがあるかと思いますので、
  おおまかに意味を取る程度でお願いします。

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 もう一つ記念碑があって、洪益(多くの人々にゆきわたる利益)とありますが、これは豊岡町地区整理碑といって、耕地整理事業を記念した碑です。

 地主や県の説得に随分苦労がありつつ、町長・助役の意思、町民の後押しで成し遂げられた事業のようです。大正10年に始まって、昭和6年に完成したとのことです。その間、北但大震災をはさんでいます。

 詳しくは、これも全文を載せておきますので、お時間がありましたら。




        豊岡町地区整理碑

豊岡の地たる山陰山陽の要衝に当たり、海陸の形勝(景
勝)を占め、古来侯国の治所たり。然れども水災頻至や
やもすれば漂没を免れず。廃藩以来百事革新、世態とみ
に変じ、鉄路大に開け修河の議決し、事業興り、戸口殖
じ、殆将に県下小都市を凌駕せんとす。恨むらくは市区
狭隘、東南円山川に割られ、西北卑湿居るべからず。故
を以て鬱屈伸ぶる能はず。町長・佐川恒太郎すこぶる新
道開発に志あり。未だ成すに及ばず。任満ち、職を去り
由利三左衛門これに代わる。即時勢を達観し、市区を拡
張せんと欲す。而して工鉅費大にわかに変じ難きを思い
躊躇、未だ決せず。助役・伊地智三郎右衛門おもえらく
此を実に当今の急務なり、百年の長計なり、宜しく耕地
整理法を利用し、以て工を起こすべしと。町長、その策
を用い、地主を会し、之を謀る。衆皆左袒(味方)せざ
るなし。是において市区改正の意を寓し、以て設計を定
む。地主これを非とし、県また法にもとると為し敢えて
許さず。事まさに壊裂せんとす。町民これを聞き、みな
曰く我が町隆替(盛衰)の繋がるところなり。以て成立
せしめざるべからず。宜しく自ら奮って資を納れ、費を
助け、地主をして釈然たらしめ、協力以て請うべし。県
いまだ必ずしも聴納(聞き入れる)せずんばあらずと、
町長・助役とその間に周旋し、遂に町において新道市街
接続の衝に当たる人家移転費負担の議を決し、大正十年
五月十日、申請允可(許可)を得たり。すなわち、耕地
整理組合を組織し、町長を組合長とし、組合副長二名、
評議員九名を置き、部署以て事に従うより三年、功まさ
に就らんとす。而して組合長にわかに没し、助役推され
て町長となり、組合長に任じ、以てその緒を継ぎ、昭和
六年一月十三日成を告ぐ。費やしたる十四万八百余円、
整理面積九十三町六反余歩、鴻路四通、畦畔整斉、卑湿
の悪土ことごとく美田良圃に化す。衆皆額手相慶し、
その地主はすなわち曰く、区画井を潅すべきなりと。是
より先、大正十四年五月、地大に震い、家倒れ、火起こ
り、市街十の七強を失い、死傷またすくなからず(北但
大震災)。雨時難を新道に避け、仮屋を構じ、生命財産
を保全せるものすこぶる多し。以て耕地整理・市区改正
の余恵と為し、益々望を将来に属し、鋭意興復、以て今
日の盛を致せし。顧うに地要衝によるといえども、交通
開け、而して治水功畢るといえども、市区狭隘、昔日の
ごとくならば、安ぞ能くこのごとくなるを得ん。すなわ
ち斯挙の利するところ既に多し。その後、昆に益すると
ころ推して知るべきなり。頃者(近頃)碑を寿公園に建
て、文を余に嘱す。因ってその梗概を叙する。このごと
くもし夫を組合副長以下諸役員の氏名に至っては之を碑
背に勒し、以て不朽を期すという。

 昭和六年六月中浣(中旬)
 枢密院顧問官従二位勲一等男爵 久保田譲題額
                木村發撰並びに書


 ※旧字体は新字体に、句読点や送りがなを入れ、
  難しい漢字は平仮名にしています。

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寿公園は石柱で囲まれていて、これももしかすると古いかもしれません。

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さて、寿ロータリーの少し西に南北の水路があります。
第二壽橋という小さな橋があって、昭和11年の架設です。

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水路はまっすぐ延びていて、これも耕地整理事業でできたものでしょうか。

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ずっとたどっていくと、駅前通りのあたりで暗渠となり、ここにも古い橋の親柱が残っています。

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大正15年の文字がある新橋という橋です。
アールデコのデザインですね。

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建物の下を暗渠がくぐっていて、その先にもやはり橋の欄干が残っています。

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その先は「あおぞら市場」になっています
こういう川の上に市場というパターン、時々見かけます。

震災復興以前から取り組まれていた都市計画の記録として、ロータリーや水路(及び橋)が残っていて興味深く思います。


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コメント

びんみんさん、お久しぶりです。豊岡シリーズ拝見していて、なんだか時代錯誤(良い意味に取ってください)に陥りました。懐かしいとか風情があるという言葉だけでは勿体ないような感じです。さまざまなロータリーは良いですね。こちらのロータリー前の花時計の植え替えが先週行われました。

公設市場にしても、今は若者の街として有名ですが吉祥寺の昔々を思い出しました。きっと自分の背丈が小さかったから、とても凄い活気のある場所にも思えたのでしょう。

白状しますと、豊岡ってどこら辺だろうと辞書で調べました。

次なる旅を楽しみにしています。ちなみに私は来週の今頃は東京上空におります。お墓参りが主たる目的で後先生の画集を携えて宣伝活動です。

投稿: まあちゃん | 2012年5月16日 (水) 11:51

まあちゃんさま、おひさしぶりです。

豊岡は特徴的な建物が残っている街でした。
そういえば、釧路もロータリーがあるのでしたね。
北海道には多いような気もします。

公設市場のにぎわい、私も記憶にあります。
その熱気と湿気とともに。

東京に出かけられるのですね。
お気を付けてお出かけ下さい。

投稿: びんみん | 2012年5月17日 (木) 01:32

 なんかここって昔、日立金属の工場があったところでもあるんですよね。

投稿: メタラジスト | 2015年1月10日 (土) 21:45

メタラジストさま、はじめまして。
コメントありがとうございます。
お名前からすると、金属関係に詳しい方でしょうか。
日立金属の工場があったのですね。
生野鉱山に近いのと関連がある?(あちらは三菱ですが)

投稿: びんみん | 2015年1月10日 (土) 23:40

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