柴島の集落(大阪市東淀川区)

以前、柴島浄水場を紹介したことがありますが、そのときに柴島(くにじま)の集落も歩きました。
写真は柴島神社の東の鳥居から。
柴島の話は、新之介さんの十三のいま昔を歩こう「囲まれた柴島」に詳しく紹介されています。
重複するところも多々ありますが、簡単に紹介します。

<大正12年 1万分の1「大阪」>
※クリックすると拡大します。
柴島は、明治29年から43年までの淀川改良工事により新淀川が開削され、大正3年に柴島浄水場ができると、これらに囲い込まれてしまいました。
集落は柴島と濱の2つがあり、周辺を見回しても大きな集落だと分かります。
この時点では阪急千里線(大正14年開通の新京阪鉄道)もなく、一見陸の孤島です。
現在の柴島周辺。
囲まれたまま、古いものも残っています。

まず柴島神社から見ていきます。
柴島神社は、柴島の地名の由来のひとつだそうです。

元々、柴島の地には標高3mほどの丘があり、仲哀天皇が祭られていた森があったそうです。
低い土地ですので、水が来ると村人はこの丘に避難します。
すると柴の束に乗った祠が流れ着いたのでお祭りしたというのが伝承です。
鎌倉時代の貞永元年(1232年)のこと。
右の白い鳥居が摂社の仲哀天皇社で、左の赤い鳥居は末社の住吉神社。
こういう元々あって祭られている摂社ってとても興味があります。

ただ、その柴島神社の場所というのは、今の淀川河川敷で、改良工事の際に現在地に移されたのだそうです。昔の神社の写真が掲げてありました。

また柴島晒(さらし)ゆかりの地の記念碑と解説板。
晒というのは、12mほどの木綿の布を水で洗い、日光に当てて白くしたもの。
柴島浄水場ができるまで柴島は晒の特産地だったそうです。
(参考)大阪市立図書館「柴島晒について」

境内には国旗掲揚台もあり、木の柱の根元が残っています。
昭和10年に柴島の一部である調布の青年団が寄進したもの。
調布という地名に柴島晒の歴史がうかがえます。

公園の西半分は柴島西公園となっているのですが、そこに面白いモニュメントがあります。
「この公園は
辻善之助さんがお母さんの生れた
この町のよい子たちのために寄付された。
昭和39年1月 大阪市」
この文章自体が童話のようで、気持ちが温かくなります。
辻善之助さん(1877-1955)は、日本の歴史学者で、日本仏教史を専門とされていたそうです。
ご本人は姫路生まれなのですが。

このモニュメントはもう一つ、柴島東公園にもあります。
この2つの公園は辻善之助さんの寄付でできたということですね。

さて、もう一つ歴史ものでは、柴島城址の碑があります。
昭和3年に建てられたものです。奥は白龍を祭る碑。
新之介さんの写真と見比べて、木が切られてしまっています。

大きなスペースの祠があって、薬師堂村の薬師如来と書かれています。
柴島を歩いていると祠がとても多く見られます。
それは一つには柴島村が狭められたときに移動してきたでしょうし、柴の束に乗った祠に限らず、いろんなものが流れ着いていたのではないでしょうか。

柴島は囲まれているためか、古い街がよく残っていて、懐かしさを感じさせます。
パーマ屋さんのある並び。

木の壁の家。

井戸のポンプ。

最後に柴島湯に入って帰りました。

建物も古そうです。

建築廃材の薪が山積み。
古いやり方を守っているというよりも、今は薪で焚かないと、高騰した石油を使っていては割に合わないという事情も聞きます。
解体された長屋など古い建物の廃材が銭湯の火をつないでいると思うと、感傷的な気分になります。
ちょうど訪れたとき、阪急広報誌の「TOKKに紹介されたんですよ」と見せていただきました。
記事によると明治27年創業で118年の歴史がある銭湯なのだそうです。
応対もとても暖かい、いいお風呂屋さんでした。
>TOKKの記事「柴島」(PDF)
(関連記事)
「近代化遺産の柴島浄水場(1)水道記念館が一時休館」
「近代化遺産の柴島浄水場(2)柵の外から」
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