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2012年4月15日 (日)

講座「第四回内国勧業博覧会と京都」、京都会館にて

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先月のことになりますが、京都岡崎公園の疎水のほとりにある京都会館に歴史文化講座を聴きに行きました。
テーマは「第四回内国勧業博覧会と京都」です。

以前、岡崎公園の記事を書いた際に、京都会館の担当の方からご案内いただいたことがあり、出かけたものです。もちろん第四回内国勧業博覧会に興味があったからですが。

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会場の京都会館は、1960年に前川國男の設計で建てられたホールです。
第一ホールを建て替える計画で全館閉館に入る前のタイミングでしたので、建物も紹介しておきます。

 >京都会館再整備(京都市)

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ものすごく大きな建物なので、なかなか写真に収まりません。
かなり力強い建物です。

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ピロティの向こうに今回建て替えになる第一ホールが見えています。

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京都会館の表示。

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今回の会場は、向かって右手の「会議場」でした。
かなりゆったりと空間を取っています。

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いったん階段で上がってから、また階段を下りて会議場、という動線になっています。
入口を入ると、ぱっと会場全体が目に入ります。

今回の講座は、京都会館主催の歴史文化講座の第4回です。
「第四回内国勧業博覧会と京都」のテーマで、首都大学教授の國雄行准教授のご講演です。

國先生は、第1回内国勧業博覧会から順に博覧会の研究を進められているそうです。
以下、講演内容を簡単に説明します。

明治維新で東京遷都が行われ、意気消沈した京都では元気を取り戻すため、早くも明治4年に西本願寺で京都博覧会が開かれました。この後も度々博覧会が開催されることになります。

第1回の内国勧業博覧会は明治10年に東京上野公園で開催されました。
なぜ「内国」なのかというと当時、日本の地位は外国と不平等。「外国人を呼んで何かあったら困る」から。真面目な産業の展示会でしたが、周辺の店はもうかったそうです。

第2回の内国勧業博覧会に京都が手を挙げますが、誘致失敗。再び東京・上野で開催。
第3回の誘致にも失敗。今度も東京・上野で開催されました。

では第4回はというと、今度こそ京都かと思いきや、真っ先に堺商業会議所が手を挙げ、これに大阪も乗ったらしいです。東京も立候補して京都は出遅れてしまいました。面白いのは、堺の案には大阪のほか熊本・広島も乗り、京都開催案には大津が乗り、神戸は神戸開催を主張し、仙台は東京以外でやろうと言ったらしいのですね。結局、第4回は京都、第5回は大阪、第6回は東京という形で回り持ち開催にしましょうということになりました。

しかし、京都市会と京都商業会議所は誘致に熱心だったのですが、京都市民は冷めていたらしいです。(なんとなく大阪のオリンピック誘致を思い出します)

第4回内国勧業博覧会の準備として、荒廃した寺社の整備(平安神宮の建設も)や悪質な旅館・人力車の取締強化、道路・橋梁などの整備、そして平安遷都千百年記念で二府八県聯合事業という広域の協賛事業が行われました。近畿だけでなく、岡山・広島・琴平・岐阜・名古屋でも開催されています。このときに神戸で遊園地整備、岡山や岐阜で公園整備・改修が行われたとのことです。

明治28年、悲願の内国勧業博覧会が京都で開催されました。
会場はここ岡崎公園です。
京都なので出展は工芸が多く、時代の特徴として電気関係の展示が増えたようです。黒田清輝の裸体画「朝妝」が物議を醸しました。
ただタイミングの悪いことに、開幕当初は日清戦争による自粛ムード、講和後も帰還兵からのコレラの蔓延などで盛り上がらず、既に博覧会が飽きられていたこともあり、来場者数100万人余りで前回より微増ながら、不振に終わってしまったそうです。

この不振を目の当たりにした大阪は、明治33年のパリ万博を視察、遊園地のような見世物を呼び込むことで、第5回内国勧業博覧会(明治36年)で来場者数500万人超の集客に成功したそうです。

・・・概略、講演内容は以上です。
順番に研究を進められているということでしたら、次は第5回内国勧業博覧会のご講演も聴いてみたいなと思いました。

 なお、京都岡崎魅力づくり推進協議会からの告知として『地図で読む 京都・岡崎年代史』(仮)がこの春刊行予定だそうです。

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もう少し、京都会館を紹介しておきます。
2階の渡り廊下です。

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ここからは京都会館の第一ホールと京都市美術館別館(右)が並び立っているのが見えます。
京都市美術館別館は、もと昭和5年に建てられた京都市公会堂東館です。

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第一ホールの全景です。

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第二ホールです。

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ところで、今回、向かいの京都府立図書館の前にある記念碑が気になりました。
今までなぜか見過ごしていたのですが。

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外国人のレリーフがはまっています。

読んでみるとだいたい次のように書かれています。
(読みやすくしています)

「ドクトル・ゴッドフリード・ワグネル君はドイツ国ハノーヴェル州の人なり。維新の初、我邦に来り、科学を啓導し工芸を掖進すること二十余年。殊に本市においてもっとも恩徳あり。明治11年、君本府の聘に応じ来て理化学を医学校に、化学工芸を舎密(化学)局に教授し、かたわら陶磁・七宝の著彩、ホーロー、ガラス、石鹸、薬物、飲料の製造、色染の改善に及び、講演・実習並び施し、人才の造成、産業の指導功効彰著、官民永く頼る。大正十三年、本市「東宮殿下御成婚奉祝万国博覧会参加五十年記念博覧会」を岡崎公園に開く。初め本邦斯会に参加するや君顧問の任を帯びて本市に来り、頗る斡旋する所あり。是に至って市民益々君の功徳を思い、遂に遺容を鋳て貞石に嵌し、之を会場の一隅に建つ。庶幾はくは後昆瞻仰(子孫まで敬い慕う)して長に旧徳を記念せんことを京都市長従三位勲二等馬淵鋭太郎誌す」

大正13年の博覧会は、昭和天皇(当時皇太子)の御成婚と日本が初めてウィーン万国博覧会に出品して50年を記念する博覧会で、その万博の際にもお世話になったワグネル博士を顕彰する碑を会場の片隅に建てたということのようです。

これも博覧会の記念物なのですね。

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裏面。右下に「請負人 石工 吉村小右衛門 京都千丸角」と刻まれています。

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囲いの石も未来派のデザイン?

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帰りに疎水の西側にこんな洋風建築があるのを見かけました。
何度も近くを通っているはずなのに初めて気付きました。

<関連記事>
 「博覧会跡の岡崎公園」
 「中から京都市美術館」

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