長谷屋さんを探して(4)上六へ
大正時代に世界一周旅行をした大阪の長谷屋為五郎さんを訪ねる旅、その4です。
(「(3)長谷屋さんの世界旅行」は今のところ未完成。最初の記事はこちら。)
昨年6月、まず現在の上本町六丁目の交差点に行ってました。
この写真は北西側から南東方向を撮っています。
交差点の南東には近鉄の上本町ターミナル、南西にはハイハイタウンがあります。
「長谷屋」という屋号は周りを見渡してもありません。
まずは何か知っていそうな人ということで、近くの喫茶プランタンでお話を伺いました。
この喫茶プランタンは、プランタングループの一員で・・・という話は今回の話に関係ないので端折りますが、この地で喫茶店をされて30周年です。ただ、マスターはよそから来たので、昔のことは分からないそうです。
それでもいろいろと親切に教えていただけました。
「長谷さんという名前に心当たりはない」
「付近で長く商売をされている方はあまりいない。
マルマツ(株)さん、町会長のチャンピオンスポーツさんなどが古い。」
「町会に当たったり、無量寺さんや西海寺さんに聞いてみてはどうか。」
アドバイスに従って、この日、開いていた西海寺さんに伺いました。
ただ、このときは昔を知るお母様がご不在だったため、1ヶ月後に再訪しました。
7月、西海寺の奥様(お母様)にお話を伺うことができました。
「昔から住んでいるのはうちぐらい」
「父は大正元年生まれで、大正8年に寺に入った。既に亡くなっているが、父なら知っていたはず。」
「昭和20年3月11日の空襲で寺は燃えてしまった」
といった話だったのですが、
いろいろお話するうち「長谷屋さん」という名前に反応されて、
「そういえば、安田薬局の東隣に、構えの大きい長谷さんという洋服屋さんがあった。長谷という名前が珍しくて「はせ」と読むんやでと聞いたのを覚えている。」とのこと。
「建物は2階建てぐらいだったが洋風だったと思う」
「生魂小学校に行く途中にあったので覚えている。昭和27、28年頃のこと。」
これはきっとそう!
また付近で古いことを知っていそうな方として、
料亭天繁の奥さんを挙げていただきました。
安田薬局さんにも聞いてみましたが、さすがにご存じないようでした。
この左隣にあったということです。
反対側から。アパマンショップから手前のあたりです。
ハンコ屋さんがあります。
より大きな地図で 長谷屋為五郎さん関連地図 を表示
ここで現在の地図に位置関係を落としてみました。
ここを上本町交差点というには苦しい気がするので、移転されたのでしょうか。
昔の地図でも位置を確認してみます。
<「大阪市パノラマ地図」(大正13年)より>
長谷屋為五郎さんが世界旅行に出た頃の上六交差点付近です。
この時点で長谷屋さんがどこにおられたのかは分かりません。
もともと近鉄(この頃は大阪電気軌道)は右上の道路部分を走っていて、大正13年時点ではまだ上六交差点はT字路だったのではと思うのですが、計画を先取りしていたのでしょうか。
<「大大阪市街図」(昭和5年改正)より>
長谷屋為五郎さんが本を出版したころの上六交差点です。
本に貼られていた広告がいつのものか分かりませんが、博覧会の開かれた昭和3年から出版された昭和5年の間ではないでしょうか。
この頃には店はあったはずです。
<「最新大阪市街地図」(昭和26年)>
そして、西海寺の奥さんが長谷屋洋服店を見かけた頃の上六交差点です。
地図にはそんなに詳しい情報がありませんが、位置をプロットしてみました。
最後に料亭天繁さんへ。
老舗の天ぷら料理屋さんです。
ここでも奥様から貴重な情報を伺えました。
「長谷屋さんは学生服などを売っておられて、店は昭和40年代まであった。」
「姉妹が店を継いでおられたが、店を売った後は宝塚に移られた。」
「その後に店を買った人は喫茶店をされていた。」
残念ながら、もう長谷屋さんの御子孫は地元にはおられないようです。
その後、図書館で調べて若干の追加情報もありますが、
今のところ、調査の進展はこれぐらいです。
今後の進め方としては、
○さらに上六で聞き込みをする
○生國魂神社で話を伺う
○関西大学で話を伺う(大学の派遣なら記録が残っている可能性があるので)
○当時の新聞にあたる
といったことが考えられるなあとは思っています。
また続報がありましたら記事にしていきます。
| 固定リンク
「日常旅行(大阪)」カテゴリの記事
- 2022年もよろしくお願いします(2022年初歩き)(2022.01.02)
- トンガリ屋根の市営住宅(東大阪市)(2021.08.02)
- 野里を歩く(大阪市西淀川区)(2021.07.25)
- 姫島を歩く(大阪市西淀川区)(2021.06.13)
- 住吉大社門前の道(大阪市住之江区)(2020.01.03)
コメント
現地取材!!本格的ですなぁ〜
40年代まであったのか・・・
私が子どもの頃、上六で市電に乗り換えた時に
まだここにあったんですね〜
しかし、民間でこれだけの偉業をなしえたのに
歴史から消えているのも不思議ですね???
投稿: 路爺 | 2012年1月 5日 (木) 12:25
路爺さん、たびたびありがとうございます。
今回、思い切って訪ねてみました。
もしかして前を通ったかもしれないと思うとより身近に感じられますね。
ほんと、もうちょっと記録に残っていてもいいのにと思います。
投稿: びんみん | 2012年1月 5日 (木) 20:37
今朝 ティーカップのことで検索していて、偶然にこの記事を発見しました。
ビックリです。為五郎さんを調べている方がおられたとは、、。
為五郎さんは、亡き祖父の母の弟です。
祖父のおじさんです。
四天王寺境内にお墓があるようです。
直接祖父母から為五郎さんの話を聞いたことはありませんが。。
為五郎さんの世界一周の本(大阪市立図書館にある)は見たことがあります。いまは祖父の長女が持っています。
祖父母宅にあったHASEYA TEA ROOMのLogo
カップ底にNagoya Seitosha とあります。
このカップについて検索していて、長谷屋さんを探して、、を見つけました。
祖父の兄と祖父が関大の制服の仕事をしていました。ティールーム、ポテトもやっていたようです。
投稿: | 2022年10月23日 (日) 12:05
ありがとうございます!
ご親族の方に情報をいただけるとは。
(コメントに気付くのが遅れて申し訳ありません)
HASEYA TEAROOMのカップが残っているのですね。
名古屋製陶所のカップが使われていたのですか。
そして為五郎さんのお墓が四天王寺にあるのですか。
ご商売のこともありがとうございます。
記事にした後、新しい情報はなかったので、10年ぶりに進展して興奮しています。
投稿: びんみん | 2022年10月29日 (土) 20:13