花苑都市・藤井寺経営地(前編)
近鉄南大阪線・藤井寺駅の南に、大鉄(のち近鉄)が開発した郊外住宅地・藤井寺経営地があります。
藤井寺駅ができたのは大正12年。そして、大正14年から昭和3年にかけて藤井寺経営地が開発されました。設計者は関西で活躍した造園家である大屋霊城です。
エリアの南には辛國神社(上の写真)があります。
なぜか郊外住宅地に古い神社は付きもの。
求める立地条件が似ているのか、神社の杜を計画に取り込もうとしたのか。
辛國神社は格式ある神社で、由緒によれば、約1500年前の雄略天皇時代に物部氏がこの地を賜り、氏神である饒速日命(にぎはやひのみこと)を祀ったのが始まりとのことです。渡来系氏族との関係も伺えるとのことで、興味深い神社です。室町時代に河内国守護の畠山氏が現在地に神社を造営し、春日大社から天児屋根命を懇請して合祀したので、春日大社との縁もあります。
藤井寺経営地で特徴的なのは、藤井寺教材園という庭園があったことです。敷地は2.2万坪。小中学校の生徒に自然科学の資料を提供する目的で、中央には自然の松林、周囲に水中動植物養殖池、果樹園、蔬菜園、温室、動物舎などが配されていました。大屋霊城の先進的な取り組みです。しかし残念ながら早くも昭和8年には廃されています。(吉田高子「近代住宅地と関連の建築」、p68〜69、『大阪府の近代化遺産』所収。wikipedia「藤井寺教材園」)
跡地は大阪女子短期大学とURの春日丘団地になっています。
上の写真では高い松のあるあたりから向こうが教材園跡です。
高い建物は大阪女子短期大学の建物です。
もう一つ特徴的なのは藤井寺球場があったことです。
藤井寺経営地の計画に入っていて、阪神甲子園球場に対抗する形で昭和3年にできました。ちなみに甲子園の計画にも大屋霊城が関わっているそうです。残念ながら2005年に取り壊され、このモニュメントが立っています。かつてのバファローズファン(熱心なファンではありませんでしたが)としてはさびしさを感じる場所です。向こうに見えるマンションが外野席のあたりで、そこから手前に球場がありました。右に見えるのは四天王寺学園小学校です。
前置きが長くなりましたが、住宅地を歩いてみましょう。
前編では春日丘1丁目・2丁目を紹介します。
球場跡のすぐ脇に、和風の春日丘会館が建っています。
住宅地に会館は付きもの。
門の脇に「皇紀2600年記念 春日丘会」(昭和15年)の国旗掲揚台が立っているので、古くからの会館かと思います。
場所が飛んで辛國神社の南側。
このあたりが住宅地の境界(右側が住宅地)で、ここに下見板の倉庫が建っています。
この境界をたどっていくと段差があります。
低い方が住宅地で、ゆるい丘陵地の地形になっているようです。丘の上には古墳などがあります。
スパニッシュの入った敷地の大きな住宅。
スパニッシュと和風の折衷なのでちょっと変わった感じです。
近くにもう一軒。こちらもかなり大きな洋風のお屋敷です。
こちら裏側なんですが、大きな木造の小屋のようなものがあります。
洋風の蔵。蔵で洋風っぽいのでちょっと変わっています。
洋館付き住宅もあります。
ユッカもセットで。
この住宅地は全体にゆったりしています。
生け垣も手入れが行き届いていて、環境良好です。
とくに2丁目のあたりはゆったり。
洋館付き住宅の変則パターン。
洋館付き住宅の洋館部ダブル。
この洋館付き住宅の車庫には鍾馗さんがおられました。
踏まれている鬼がとってもリアル。
杉皮壁の和風住宅もあります。
これも洋館付き住宅。隅の部屋も三角の出窓が一風変わっています。
写真を見ても分かると思いますが、春日丘1丁目・2丁目、とくに2丁目のあたりは敷地がゆったりしていて、その分、建て替えられていないようです。ここで紹介した以外にも「本体は古いのでは?」と思える住宅はたくさんありました。思った以上に古い建物が残っている印象です。
藤井寺経営地の後編に続きます。
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