日比谷公園の明治(東京都千代田区)
東京での研修の際、帰りを一日延ばして日比谷公園を歩きました。
日比谷公園は、明治32年に工事が始まり、明治36年6月1日に開園した公園です。この公園は大名屋敷跡の陸軍練兵場を東京市が公園化したものですが、明治22年に構想が生まれてから実現まで紆余曲折あり、最終的に、安寧健康上の設計は医学の石黒忠悳博士、樹木・道路・築山の配置は林学の本多静六博士、園芸花卉は農学の福羽逸人博士、水道・噴水は斉藤久進、設計総括は渡瀬寅次郎の分担で、全体総括は本多博士が担当したそうです。結果として、ドイツの公園を参考とした、日本初の近代式洋風公園となりました。(『日本公園緑地発達史・下巻』、p341〜344より)
今でも幅6間の大園路など、園路や池、庭園などの形に当初の名残を残しています。
この日比谷公園を数回に分けて紹介したいと思います。
まずこれが幅6間の大園路、そして明治36年の開園時に植えられたイチョウ並木です。都内でも最も古いイチョウ並木の一つだそうです。
雲形池も明治36年からのもの。
ここは和風の雰囲気です。鶴の噴水の向こうに東屋があります。
これは戦前の絵葉書ですが、やはり鶴の噴水の向こうに東屋があります。
鶴の噴水は明治38年頃、東京美術学校(今の東京芸大)の津田信夫・岡崎雪声両氏に依頼製作したものだそうです。公園等での装飾用噴水としては、長崎諏訪神社、大阪箕面公園についで3番目です。戦時中の金属供出により、銅の台座が石に変わりました。鶴は銅製でオリジナルということでしょう。(公園の説明板より)
雲形池の東屋。いつのものかはよく分かりません。
東屋の構造はこうなっています。
もう一つの心字池も明治36年の開園当初のものです。
もっと遡ると、江戸のお堀の名残です。
第一花壇も開園時の形式を踏襲しています。
福羽逸人博士のパートでしょうか。
北側にあるペリカンの噴水です。
さすがに当初のものではないと思いますが。
花壇は幾何学的で、広々とした芝生に園路が巡り、芝生がところどころぽこっと盛り上がっています。ちょっと今は見かけない感じ。
園路と芝生の境目に石を積んで、深めの溝が切ってあります。
もう少し細かく見ていきます。
公園の北西に明治36年当時の鋳鉄製の水飲場があります。
馬も水を飲めるデザインになっているそうです。
公園を馬車が走っていた時代だからですね。
ちなみに背後の丘は三笠山で、池を掘った土で作られました。
当初とは山の形が変わったそうですが、開園当初からあります。
アールヌーヴォー?
装飾豊かで植物文の凝った水飲場です。
すぐ近くにあるアーク灯も開園当時に10基設置されたうちの1基で唯一残るもの。ロウソク1200本分の明るさだったそう。他にガス灯が70基あったそうです。
デザインは水飲場と似てますね。
水飲場は雲形池の近くにももう1基あります。
頂部が欠けて不完全ですが。
日比谷公園内には旧公園事務所が残っています。
明治43年に竣工したドイツ・バンガロー風の建物。
昭和51年に内部を改造して公園資料館となっていましたが、今は結婚式場のフェリーチェガーデン日比谷になっています。なのでちょっと入りにくい。でも入れないことはないです。
日比谷公園に関する資料が今も少し展示されていて、とくに明治36年、昭和29年、平成15年の公園配置図があるのはとても参考になります。年表や写真などもあります。
まずここで公園の概要をつかんでから回られることをお勧めします。
事務所の南面。素敵ですね。
気持ちの良いヴェランダがあります。
ここから第一花壇がよく眺められました。
(第一花壇の最初の写真はここから撮ったもの)
次は日比谷公園の昭和戦前期の名残を紹介します。
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