春日出町住宅地(大阪市此花区)
先日、此花区に大正時代の貸家経営地があったと、和田康由氏の「戦前期関西における土地会社の活躍−大阪北港(株)の場合−」(日本建築学会大会学術講演梗概集、2003年)で知りました。この土地会社が異色で、住友家が大阪市に「政府低利資金で中流階級向住宅を経営せよ」と言われて作った社会事業的な会社らしいのです。しかも、設計したのが建築家の小笠原祥光(住友出身)と知り、かなり興味を持ちました。以下、記事は和田氏の梗概を参考にしています。
酉島町住宅地(酉島3丁目)と春日出町住宅地(春日出北2丁目)の2ヶ所で、戦災地図で見るといずれも全焼の表示。しかし、戦後すぐの米軍撮影写真では、春日出町住宅地の北半分は焼け残っているようにも見えましたので、だめもとで見に行ってみました。最寄り駅は阪神なんば線の千鳥橋駅または伝法駅です。(私は西九条駅から歩きました)
春日出町住宅地の何本目かの筋にあったのが冒頭の写真です。
たぶんこの建物が一番古いと思われます。
下見板の壁、木製の窓の桟と2階の手すり、昔ながらの雰囲気を残しています。
春日出町住宅地は大正11年6月に197戸が落成しました。
中産階級のサラリーマン向けで、貸家は2階建て、2戸建か4戸建、建坪は8〜13坪、延坪15〜20坪、外観は大壁仕上の西洋館風、門塀を設けず開放的な前庭が特徴だそうです。
図面や写真など、詳しくは、雑誌「建築と社会」のVol.5 No.1pp.56〜63(1922年)とVol.12No.8pp.14〜22(1929年)に小笠原祥光自身が解説しています。
上の写真について、2階の窓で、上1本、下2本の桟を覚えておいてください。
同じ通りには他にも、改修されてはいるものの古そうな住宅があります。
しかも、なぜか右半分だけの住宅が多い。
2戸建を半分に割ったのでしょうが、左側には何か問題があったのでしょうか(西日の問題とか)。この窓の桟を見てください。1階も2階も、上1本、下2本の桟です。明らかに共通するデザインです。
もっと新しいですけど、シルエットは似てますね。
こちらもまた然り。
これは2戸建を1戸建に改造したような。
中央の継ぎ目がそう感じさせます。
こういうのも看板建築というのでしょうか。
むしろ塀が大きくなったようです。
後ろには木製建具の建物が控えています。
春日出町住宅地としては以上です。
これはよく分かりませんが、リズムが面白いので。
デザイン性を意識しているような文化住宅。
この入ってすぐ90度曲がる階段がユニークです。どうしても真ん中に入口を置きたかったんでしょうね。
戸袋と壁面の浅い溝も、たぶんデザイン的こだわりでしょう。
地区の東側には春日出商店街があります。
青蓮寺川に向かって登る坂道が逆に、土地の低さを思い出させます。
青蓮寺川は改修の真っ最中。
説明を読んでもどういう工事なのかよく理解できませんでした。
非常に不思議な光景です。
このあと酉島町住宅地跡も見に行きましたが、過去の痕跡はよく分かりませんでした。
<参考>
参考までに、小笠原祥光設計の作品をあげておきます。
昭和3年の原田商事(株)本店(大阪市中央区)。
これが一番有名かと思います。私も好きな建物です。
○関連リンク
植松清志氏「建築家小笠原祥光の経歴について(建築史・建築意匠・建築論)」
植松清志氏「建築家小笠原祥光の設計活動について」…作品リスト
植松清志氏「建築家小笠原祥光の作品の意匠について(建築史・建築意匠・建築論)」
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コメント
友人が公団のニコイチに住んでます。
隣と壁が共有なんですよね。
私の実家は元長屋で、やはり壁が共有でした。
なので自分の家だけを取り壊して立て直す時が大変
解体中に業者さんが誤って隣の壁をぶち抜いて・・・(^^;;;
ツインタワー同様、右と左で同じ規格の材料を使えるので
費用が安くつくと思いますが、なんで右側のみ
旧来の形を残しているんでしょうね?
投稿: 路爺 | 2009年7月18日 (土) 16:36
路爺さん、こんばんは。
何で右側だけか不思議ですよね。
壁を残しての取り壊し、実体験されてましたか。
長屋やニコイチの一部だけ建て替えを見るといつも、器用やなあと感心します。
投稿: びんみん | 2009年7月19日 (日) 01:23