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2009年7月14日 (火)

外山公園(堺市)

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日本伸銅堺工場の前の道を歩いていくと、すぐに(南海本線・七道駅から寄り道なしなら15分ほどで)、外山公園に着きます。どうやら電気工事中のようです。

 

外山公園(松屋町公園ともいうらしい)は、昭和17年に区画整理事業でできた公園です。南にある三宝公園とは同様の公園だと思います。つまりは室戸台風(昭和9年)の災害復興事業かと。

 

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東南の入口はアート風で左右非対称の門柱(?)でした。
工事のため、ここからは入れません。

 

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南側に回るとカナリーヤシ(フェニックス)があります。
公園を入ったここぞという場所にカナリーヤシを置くのは、戦後すぐの流行なのかなと思っていますが、まだ確証はありません。

 

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藤棚もあります。

 

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藤棚の下にはドーナツ型のベンチ。

 

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公園は緑陰部分と野球場部分に分かれています。
2つの部分を分かつように遊歩道があって、小さい割にいい雰囲気です。

 

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緑に囲まれて野球のできる野球グランドです。
気持ちよさそう。

 

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そんな公園の片隅の目立たないところに、小さな小西行長供養塔跡碑がありました。
小西行長は堺出身で、関ヶ原の戦いに敗れて斬首されたキリシタン大名です。
「南島墓地内にあった供養塔を昭和三十○年大和川工事の為三宝慰霊塔の場所に移○す」などと書かれています。ということは、ここは南島墓地だったということでしょうか。
死してなお、という感じでなんだか気の毒です。

 

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公園のすぐ北は大和川の堤防です。

 


より大きな地図で 近代の公園 を表示 この公園の周辺は、こうなっています。
江戸時代にはここは南島新田、大和川の北側には加賀屋新田会所のある北島新田がありました。

 

ついでに田守神社まで足を伸ばします。

 

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神社の前で出会った野良ニワトリ。驚きました。
いや放し飼いでしょうか。

 

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田守神社は延享2年(1745年)、松屋新田を開発した松屋作右衛門が勧請した神社です。
まさに田を守るために。

 

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奥の祠は波除明神です。海岸に近いので高潮がくると大きな被害が出るという、まさに切実な願いが感じられます。

 

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境内の片隅に「竹中作右衛門君碑」という碑が建っています。
碑文には簡単にしか書いてありませんが、明治5年から地主が転々とする中で小作争議が続き、大正4年にようやく村内の和解が図られたことを記念した碑(大正5年)のようです。その後も室戸台風の被害を受けますし、いろいろあった土地のようです。
今後、この地下を阪神高速大和川線が通るようです。

 

後で知ったのですが、この神社には力石15個があるらしい。見落として残念です。

 

 

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コメント

なんやら保存に困ったら、
とりあえず公園に移設ちゅーのが多いような?
一度、京都でも試してみますわ~

投稿: 路爺 | 2009年7月17日 (金) 00:22

小西行長供養塔跡碑の場合は、元あった場所の証拠として立てているようですよ。
もっとも保存に困ったら、とりあえず公園移設というのはよくありますね。あとは神社か小学校か。
なぜか橋の親柱がよく残されています。

京都の公園の場合、ラジオ塔が何カ所か残っているらしいので、お試し下さい。(この場合は原位置ですが)

投稿: びんみん | 2009年7月17日 (金) 01:57

 びんみんさん お早うございます(笑)

昨日松屋・南島・鉄砲町・北旅籠町と歩いて来ました。
此の辺り、以前あった工場の移転や阪高大和川線進捗で随分変わりましたネ(驚き)。
先ず田守神社、高速敷設で南に移転の掲示が(汗)。
外山公園も工事の影響か規模縮小、雑然としていました。
月洲神社や高須神社がある事から、河口の中州だったんでしょうか。

この夏は公園シリーズを参考に彼方此方と歩こうと考えています(感謝)

投稿: 難波のやっちゃん | 2012年6月15日 (金) 08:43

難波のやっちゃんさま、こんばんは。
行ってこられましたか!
こうして近況を教えていただけると非常にうれしいです。
地下だから関係ないと思っていたら、思った以上に阪神高速大和川線工事の影響が大きいようで残念。
地名から河口の中州だろうとのこと、たしかに。大和川の付け替え後、たくさんの州が生まれたのですね。

ブログ記事をご活用いただいてありがとうございます。

投稿: びんみん | 2012年6月16日 (土) 00:25

「外山公園に何故、フェニックスが」ということですね。
堺市は、第二次世界大戦時に大規模な空襲を受け、大きな被害を受けました。
昭和23年頃から始まった戦災復興事業が、28年におよそ終り、それをを記念して一条通から大浜北町まで約1.5キロの間に、フェニックス(別名、不死鳥にちなんで)を植えることになりました。
しかし、もともと亜熱帯性の植物であり、堺の気候に順応させる必要から、三宝公園(山本町)にて苗木から養育した後、植えられました。
その通りを「フェニックス通り(愛称)」と今でも呼ばれています。
そのとき枯れることを心配して、余分に養育し、余った分をいくつかの市立公園に植えられました。たとえば土居川公園(フェニックス通りの南側だけで)には約20本ほど植えられています。
ちなみに昭和30年頃には、大人の膝くらいの高さ(50センチほど)しかありませんでした。そんな写真(阪堺線の宿院あたり)を見た記憶があります。
「聞きかじり」のため年代、数字などあまり自信はありません。
正確を期すなら「戦災復興事業記念誌」が図書館にあるはずです。

投稿: 聞きかじりの「ナカゼン」 | 2014年1月18日 (土) 22:37

ナカゼンさま、情報ありがとうございます。
堺市の公園のフェニックスは枯れた場合のバックアップの意味があったのですね。興味深いです。
そして、三宝公園から巣立っていったことも。
大阪市内の公園でもフェニックスが植わっていたりするのですが、それはまた事情があるのかも。
ありがとうございました。

投稿: びんみん | 2014年1月19日 (日) 00:45

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