毛馬桜之宮公園(2)木と煉瓦(大阪市)
桜宮橋(銀橋)を越えて、再び大川敷の公園に降りました。
このあたりは大正12年の当初から公園(淀川公園)だったところです。
傍らに「青湾」という石碑が立っています。
このあたりの淀川の水がきれいだったことから、豊臣秀吉が湾を掘って茶の水を汲ませたことによるそうです。一時よりきれいにはなりましたが、飲めと言われても無理。
これは文久2年(1862年)に立てられた碑です。
やがて板壁の倉庫が見えてきます。
さて何の倉庫でしょう。
土台には煉瓦積みが使われているので古いのでしょう。
ちなみに刻印は大阪窯業。
この倉庫は、ボートの艇庫として使われています。
このあたりの大川は、大学ボート部の練習場になっていますので。
元は何のための倉庫だったんでしょうね。
土手を上がると、このあたりの地名の語源となっている桜宮神社があります。
もともとこの神社は東成郡野田村にあったものが、1620年の洪水で流され、この近くに漂着したのでそこに社殿を建て、宝暦6年(1756年)に高い現在地に移されたそうです。野田村の人はそれで良かったのでしょうか。
静かな参道が確保されていますが、周囲はラブホテル街に囲まれるという特異な場になっています。
再び公園を歩いていくと、池にぶつかります。
これはただの池ではありません。
<大阪中部実測図(大正10年測図)>
大正10年(1921年)の地図を見ると、ここは貯木場。
大阪営林局の貯木場があったのだそうです。
(追記)製紙工場の場所を示すため地図を大きくしました(2009.6.23)
より大きな地図で 近代の公園 を表示 今の地図と比べてみても基本的にはほとんど変わりません。
このあたりの遊歩道がまた素敵なところです。
メタセコイヤでしょうか。
マングローブのようなしっかりした根を張っています。
ここってほんとに大阪?というような光景です。
巨大なユーカリの木もあります。
源八橋をくぐると向こうに環状線。
環状線の内側とは思えません。
環状線までくれば今回の探訪はほとんど終わり。
すぐ右手に桜ノ宮駅があります。
でも最後にひとつお楽しみが残っていました。
環状線の高架の手前に、煉瓦の橋脚が2つあるのが分かりますでしょうか?
恐らく、奥が明治28年(1895年)に大阪鉄道の玉造駅−梅田駅間が開通したときの淀川橋脚、手前が大正3年(1914年)に城東線の玉造駅−天満駅間が複線化されたときの橋脚と思われます。そして現在の橋脚は、昭和8年(1933年)に城東線の桜ノ宮駅−大阪駅間が高架化されたときのものでしょう。
<フランス積み> <イギリス積み>
面白いのが、左の橋脚がフランス積み、右の橋脚がイギリス積みということです。
鉄道のフランス積みはだいたい明治30年代には消えるらしいので、左の方が明治、右の方が大正の橋脚とみていいでしょう。
→小野田滋氏・清水慶一氏・久保田稔男氏
「鉄道構造物におけるフランス積み煉瓦の地域性とその特徴」
フランス積みとイギリス積みが見比べられるところって珍しいのでは?
大正3年の橋脚の方は、上に登ってみると刻印が確認できました。
べたべたとほとんどの煉瓦に刻印があります。
「壹」はすぐ分かりますが、その右は何でしょう。
<四弁花の中に何か><岸和田煉瓦?><○の2ヶ所欠け?>
岸和田煉瓦以外は分かりにくいです。
煉瓦は、刻印が分かってもいつのものなん?ということが多いので、こうやって年代が特定できるのはいいですね。
木と煉瓦の観察できる毛馬桜之宮公園でした。
景色も良くてお勧めできます。
この日の探訪は桜ノ宮駅で終了しましたが、残りの区間についても改めて歩いてみたいと思います。
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コメント
見知った場所ですが
へぇ~貯木場があったんですか!?
それも営林所直轄の?
どこから切り出した木がおいてあったのか?
それとも輸入木やったのか・・・
おもろいですねー知りませんでしたわ!!
投稿: 路爺 | 2009年6月22日 (月) 14:11
路爺さん、こんばんは。
私も今回初めて知りました。
貯木場というと、南港の平林が思い浮かびます。今はどこの貯木場も木が浮かんでなくて、再活用を考える必要があるようですね。
深く調べたわけではないので、この貯木場がいつからいつまで使われたのか、どんな目的に使われたのか現時点で分かりません。
投稿: びんみん | 2009年6月22日 (月) 19:51
製紙工場でもあったんでしょうか?
そうそう、日本最初の製紙工場って旧淀川の河口にあったと
住友生命病院やったか、あそこの横に石碑が
立ってましたわ・・・関係あるのかね~?
投稿: 路爺 | 2009年6月23日 (火) 00:23
路爺さん
なるほど、製紙工場!
そういう発想はありませんでした。
地図を見ると、大川の1.5kmほど上流に、向かい合うように製紙工場があります。北長柄に東洋製紙の淀川工場(明治41年操業開始。大正14年、初代・王子製紙に合併)、都島に帝国製紙の大阪工場(都島工場。大正3年操業開始。大正5年に初代・王子製紙に合併)。
大阪市東北部に集積する印刷業との関係など探ればなにか浮かんできそうです。
検索すると、路爺さんがご覧になった碑は、「近代製紙業発祥の地碑」のようですね。明治8年。
ちょっと異論もありそうですが。
他に大阪では、福島区の大開に明治30年にできた西成製紙(のち浪速製紙、三菱製紙)というのもあったようです。
追究すれば面白そう。
ありがとうございます。
投稿: びんみん | 2009年6月23日 (火) 01:27
ほぉーありましたか、製紙工場!!
ちなみに新聞社は、朝日新聞、毎日新聞(移転)が大川沿いに
印刷会社では、凸版印刷(紙幣を刷っていた)が福島に・・・
それらをカバーするには、貯木場が小さすぎる?・・・
新しい発見は、新たな謎を呼びますなー。。。
投稿: 路爺 | 2009年6月23日 (火) 12:18
路爺さん、こんばんは。
製紙工場の場所が分かるように地図を拡大してみました。
この右の地図は持っていませんので、王子製紙は切れてしまっていますが。また境界は、図上での判読なのでもう少し広いかもしれません。
紙を大量に使う新聞社との関係も気になりますね。
また貯木場は他にもあったのか?
今まで紡績工場の方が気になっていましたが、製紙工場を追ってみるのも面白いかもしれません。
投稿: びんみん | 2009年6月24日 (水) 01:33
地図拡大感謝です。
よく見たら流れ方向の逆に人工(?)の入り江が
作られてますね。
木材をここから陸揚げしたんでしょうね、きっと?
製紙には大量の水を使うと聞いたことがありますが
当時は、淀川から取水していたんでしょうかね?
投稿: 路爺 | 2009年6月24日 (水) 13:01
路爺さん、こんばんは。
入り江は人工のものでしょうか。
ワンドが人工的なもの(意図的ではないかもしれないけど)と最近知りました。
東洋製紙会社の方は、木材を陸揚げしていたように見えますね。
製紙にはきれいな水を大量に必要としたと聞きます。
桜ノ宮駅の北側に、柴島ができるまで使われていた水源地跡が見えます。工場も淀川から取水していたのでしょうね。その後は、地下水を使ったようですが。
投稿: びんみん | 2009年6月25日 (木) 00:10
建物のレンガに刻印が彫られているとは知りませんでした、勉強になります。
姫路や網干の建物にもあるかな?また見てみます。
投稿: 英ちゃん | 2009年6月30日 (火) 00:03
英ちゃんさま、こんばんは。
古いものであれば、姫路や網干の建物にもあると思いますよ。煉瓦の「平」の面に押されていることが多いので、煉瓦塀のてっぺん、段差になっているところ、崩れているところ、敷かれているところを見ると見つけやすいです。
「六光星を追って津守へ」に大阪で見られる主な刻印をまとめましたので、ご参考まで。
まいづるネットさんのページにはもっと幅広く紹介されています。
投稿: びんみん | 2009年6月30日 (火) 00:32