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2009年3月 7日 (土)

新潟ふゆ歩き(4)港の方へ

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朝の怪しい雲行きはどこかに去り、いいお天気になりました。
沼垂を自転車でさまよった後は、かつての栗の木川跡に沿って河口まで出ました。

 

そこには万国橋という地名と片方の欄干が残っています。しかし、もはや橋ではありません。
名前からして、昔は港に向かう重要な橋だったんでしょうね。
欄干には鉄の幾何学模様が入っています。

 

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河口部には漁船がつながれ、冷蔵倉庫があり、漁港の様相です。

 

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ここから東は新潟西港の港湾地区です。このような港らしい雰囲気の事務所も建っています。ちょっと覆面をかぶったような派手な見た目ですが。

 

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港には倉庫が立ち並んでいます。その中でもこの日通倉庫のたたずまいが気に入りました。一番左の倉庫には「南六号倉庫」の木札が掛かっています。

 

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さらに港に入り込むと新潟西港の記念公園があります。
開港百年記念碑、新潟港開発先覚者・川原乙松翁寿像、スクリューなど様々な展示物があり、さながらミニ野外博物館のようです。

 

新潟は江戸時代、西廻り航路の重要な港町でした。近代の新潟港は開港5港の一つとして、明治元年に開港、明治2年に新潟運上所(税関)が開設されます。ただ、河口港のため水深が浅くて外航船が入れず、改修の連続でした。大正6年に着工した県営埠頭が大正15年に完成、昭和4年に北朝鮮航路が開設されると、大陸への玄関口として栄えました。それが今の新潟西港です。しかし、終戦後は荒廃します。

 

川原乙松翁寿像の碑文によれば、弱冠31歳で川崎汽船の外航船船長となった翁は、昭和4年、37歳の時に新潟県の招きで港務嘱託・初代の水先案内人となったそうです。81歳まで43年間、港一筋に水先業務を行い、多くの水先案内人を育てました。新潟港の改修に超人的精力を注ぎ、とくに終戦後、廃港寸前だった港の復興改修に努め、新潟港が国際貿易港となるのに大きな功績があったそうです。

 

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前回紹介した昭和9年の地図をもう一度。
この時代は鉄道が港まで伸びています。
東京と満州を結ぶルートとして賑わい始めた時代の新潟港が描かれています。

 

大陸への玄関口だった新潟の港を体験するには、船で出港してみるのがいいかもしれません。

 

(追記)
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<絵葉書 満州航路があった頃の新潟港>(2010.3.20記)

 

 

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