
前に大阪市福島区の江成公園を“裏庭的公園”として取り上げましたが、今回紹介する下福島公園もマンションなどに囲まれた中庭的な公園です。ただし、中央を大きく野球グラウンドが占めていますので、開放感があります。
この公園は、紡績工場跡につくられた公園です。
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真上から見るとこんな感じ。

<大正10年測図>
大正10年の地図を見ると、1894年(明治27年)にできた大日本紡績福島工場(のち合併でユニチカ)と大福紡績会社(大阪福島紡績?)が並び立っています。また東側には福島三天神のひとつ、中の天神がありました。
今はいずれもありませんが、昔の名残らしきものが残っています。

まず、図の1の位置と思われるL字型の低い煉瓦壁があります。中の天神あるいは大福紡績会社の境界になっていたようです。間に細い通路が描かれていますので、いずれか。

煉瓦の刻印を確認すると、日本煉瓦株式会社(堺市)と推定される四弁花の刻印のバリエーションがほとんどです。
でも、他にもいろんな刻印が混ざっています。

<堺煉瓦(推定)> <岸和田煉瓦> <大阪窯業か>
これは何を意味しているのでしょう。
再構築された煉瓦壁なのでしょうか。

一部、通用門の跡もあります。

中の天神は戦災で焼失し、復興の嘆願もかなわず、上の天神(福島天満宮)に合祀されました。今は跡地の一角に、飛地境内地として、この記念碑と狛犬、手水鉢などが置かれています。

もう1つ、図の2の位置らしき場所、民家の裏に3mほどの高さの煉瓦壁が見られます。こちらは大日本紡績の境界壁ではないでしょうか。(状況が分かりにくいですが、引いて撮ると民家の庭が写ってしまうのでご容赦を)

<大正13年発行のパノラマ地図>
おなじみのパノラマ地図では、赤煉瓦の両紡績工場が描かれています。
しかし、第一次大戦景気での過剰投資の反動として大正11年秋以来、綿糸不況となり、小紡績会社が淘汰され、大福紡績も解散しています。(→神戸大学附属図書館の新聞記事文庫)
また右手に描かれているのは曾根崎川(蜆川)ですが、大正13年(1924年)には埋め立てられました。

昭和2年(1927年)以降、数期に分けての莫大小(メリヤス)会館の建設は、曾根崎川の埋め立てが契機なのでしょう。パノラマ地図でいうと、堂島小橋の上のあたりです。なぜここに莫大小会館があるのかなと思っていたのですが、紡績工場との関連がありそうです。

<昭和7年発行の地図>
昭和7年発行の地図を見ると、大福紡績跡は福島球場となっています。
堂島の先端部である、合羽島の地名が残っています。

<昭和16年発行の地図>
昭和16年発行の地図では、大日本紡績もなくなり、昭和17年5月に下福島公園が開園します。
跡地が広大なため、下福島公園は敷地南半分の内側だけで、のちに北側は大阪厚生年金病院(昭和27年〜)、看護学校、大阪日産自動車本社(現在は移転)、玉川小学校(昭和30年〜)などに使われ、周囲はマンションになりました。

随分脇道に逸れましたが、下福島公園の中に入ります。
正面から入ると、この時期の公園に共通して植えられている(時期は分かりません)カナリーヤシが象徴的に立っています。

公園の片隅に「此花区町会勤労奉仕」の記念碑が建っています。
この「此花区」がポイントで、此花区は1925年(大正14年)に誕生、1943年(昭和18年)に福島区を分離しました。戦時中でもあり、下福島公園の整備に、当時の町会が勤労奉仕したということではないでしょうか。昭和16年から防空緑地が整備され始め、防空意識が高まりますので、延焼防止の観点からの公園整備ではないかと推測します。

(追記)前回訪問時は気付かなかったのですが、公園の西口に「下福島公園 昭和十七年四月開園」の文字のある石柱(柵の一部?)がありました。(2009.4.27記)

公園の中には、野田藤で有名だった藤邸の庭が移されています。
でも今は子供たちの格好の遊び場になっています。
子供はこういう場所が好きなんですよね。

青く塗られた鉄パイプがたくさん並んでいます。
これらは全て、殖やされた野田藤の藤棚です。
手前に紙がぶら下げられていますが、これは散歩者への呼びかけで、朝夕の散歩時に藤に水をやってくださいというお願いです。花が咲いたら花見でもしませんかと、うまくいけば、なかなか面白い仕掛けです。

(追記)4月、きれいに咲いた野田藤です。ちょっと花の数は寂しいのですが。(2008.4.27記)

下福島公園に多い木がイチョウです。
ちょうど訪れた時期は、黄葉の盛りでした。
この右手にはプールがあります。
紡績工場の歴史から藤、イチョウまで、意外と見どころの多い下福島公園です。
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