栗原邸(旧鶴巻邸)の見学会(京都市山科区)
かなり前のことですが・・・
11月8日・9日と、山科にある栗原邸(旧鶴巻邸)の一般公開があり、参加してきました。
(この建物については、ひろさんやぷにょさんも紹介されていますが、伏せ字にされてますのでリンクはやめておきます。)
栗原邸は御陵の駅から坂道を登りつめた先にあります。山科盆地でもかなり高いところといっていいでしょう。すぐ上を琵琶湖疎水が流れています(後述)。
(追記)
2013年5月25日(土)・26日(日)・6月1日(土)・2日(日)にも一般公開されるようです。
詳しくはこちら →京都発大龍堂通信
(2013.5.15記)
私は旧東海道と疎水に寄り道したので裏からのアプローチでした。外観からコンクリートブロック積みの建物なのですぐ分かります。
正直なところ裏から見ると魅力は感じにくいのですが・・・
表に回ると全く違った表情で、半円のポーチと2階サンルームは皆さんが紹介されています。
竣工当時はほとんど庭木がなかったそうですが、今は森に囲まれています。
事前予約が必要にもかかわらず、たいへん盛況でした。すごいでしょう、この靴。
このときは撮影に関しては何も言われませんでしたし、・・・というよりほとんどの人が写真を撮っていて撮影会の様相でしたので、内部の写真も紹介します。
まず客間でギャラリートークを聴きました。
講師は京都工芸繊維大学の西村征一郎名誉教授と笠原一人先生、そして配線と照明を担当されたヤマギワの方です。
まずこの建物の概要ですが、昭和4年(1929年)に京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)の校長だった鶴巻鶴一氏の自邸として建てられました。設計者は同校の教授だった本野精吾で、(正面玄関の半円部以外に)中村鎮式コンクリートブロック*を使ったモダニズム建築です。外観はコンクリートがむき出しの斬新なデザインですが、内部はうって変わって木を生かした落ち着いた空間です。染織家であった鶴巻鶴一氏の襖絵などもあります。
この建物はその後、1941年に広告業・萬年社社長であった栗原伸氏に売り渡されます。ところが1945年に終戦で米軍に接収されてしまいました。1957年にようやく返還され、再び栗原家の所有となっています。米軍接収時代にペンキを塗られたり、建物が傷んだようですが、照明や家具などはもともとのものが残っているとのことです。
ギャラリートークの最後にDOCOMOMO Japanから栗原邸が優れたモダニズム建築物として選定されたパネルの授与式が行われました。ご当主の栗原さんは背筋のしゃんとした方です。散会後、奥さんは説明に残られたのですが、建物や調度品について熱心に説明されて人垣が絶えませんでした。
*中村鎮式コンクリートブロック:L字やT字のブロックを組み合わせ、間に鉄筋コンクリートを流し込んで仕上げる、現場で型枠不要の合理的な建築構法。1920年代初めに中村鎮が発明し、関東大震災でその耐震性が実証された。
ダイニングルームは襖を開けると客間と一続きになります。襖には桜の絵、奥には大理石の暖炉があります。この日はあいにくの曇天で、元のままの照明が非常に暗いので、写真を撮るのはなかなかたいへんでした。よく元のままに使ってきてくださったと思います。
ダイニングルームのランプシェードは模様入りのステンドグラス風。
2階の階段。階段も手すりも親柱も床も全て木です。非常にきれいな状態でした。手すり子はそろばん玉状のシンプルなデザインです。
この家で一番気に入った部屋はここです。谷の向こうに山科盆地を見下ろすことができます。天気のいい日ならもっと気持ちがいいことでしょう。
2階の寝室。このベッドなども本野精吾のデザインだそうです。なんでもやってしまうんですね。
2階の照明は非常にシンプルで、何か足りないのかと思ってしまったのですが、もともとこういうものなんだそうです。白い反射板はプラスチックではないですよ。大理石だそうです。
1階の染色部屋の天井。ところどころ、天井が剥落して、コンクリートブロックや鉄筋などの構造が分かります。この日もカンパが募られていましたが、ご本人だけでは維持していくのはたいへんかなと思います。
屋上は眺めの良いテラスになっています。裏側からは疎水を眺められます。
ひさしが出ているのが画期的な工夫だそうです。
栗原邸の裏側です。向こうに水門が見えますが、その向こうが琵琶湖疎水です。
なぜこんな不便なところに家をと思うのですが、当時、鶴巻氏は校長を退任されていますので、水が豊富なこの地で、染色に没頭したいということだったのかも、などと想像しました。染色部屋はダイニングのすぐ脇に置かれています。
ついでに疎水の構造物を紹介しておきます。
第2トンネル東口。題字は井上馨の「仁者は山を以て悦び、智者は水と為るを歓ぶ」。山を水が流れれば、どちらも喜ぶということか。
第2トンネル西口。題字は西郷従道の「山に随いて水源に至る」です。
第3トンネル東口。題字は松方正義の「過色松色を看る」です。
デザインされ、題字が彫られることで、一大国家プロジェクトであることがよく分かりますし、ただの土木構造物以上のものになっています。
なお、第3トンネルの手前には、日本最初の鉄筋コンクリート橋(明治36年)という、ささやかなアーチ橋がかかっていました。対岸には立派な記念碑まで立っています。鉄筋コンクリートブロック住宅の近くに、最初の鉄筋コンクリート橋、面白い偶然です。
栗原邸が建った当時、眼下に住宅はなかったそうです。
坂を下りていくと石畳のある和風郊外住宅地がありました。下に行くほど住宅が新しそうで、今では下まで住宅が一続きになっています。
しかし、疎水を背にした静かな環境は今も変わりません。
<関連記事>
「旧ジョネス邸の内覧会に参加(神戸市)」
「旧伊庭家住宅を見学」
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コメント
こんばんは。
栗原邸(旧鶴巻邸)は一見するとこれのどこが素晴らしいの?と思ってしまいそうですが、建築史的な説明を聞き、奥様の愛情ほとばしるお話を伺って建物内部を歩き回ると、その奥深さが次第に分かってくるといった感じでした。
ここの写真はネットではこれまでにも色々公開されていますね。我々のときは個人的なつながりの見学会だったこともあって、写真公開については慎重さが求められたのかもしれません。
いずれにしても、滅多と見られない極上のお宅だと思います。
投稿: ひろ009 | 2008年11月25日 (火) 22:14
ひろさん、こんばんは。
ネットで見る限り、個人宅にも関わらず度々公開していただいていますね。
何より、不便なことも多いでしょうに、お住まいに愛情をもって元の状態を維持されているご夫妻に敬服しました。
投稿: びんみん | 2008年11月25日 (火) 22:45