青島・煙台の旅(17)青島の桟橋周辺
青島は海岸の方から歩き始めました。
青島に関しては情報も多いことですので、簡単に紹介していきます(つもりです)。
例えば、ヨウタロウさんが「中国・青島@建築探訪記」のブログで素敵な写真とともに青島の建築を紹介されています。ぜひご覧ください。
まず桟橋・王子飯店の西隣は、地元新聞社の青島日報社です。これは新しい建物のようです。青島のややこしいのは、ドイツがこの街を去ってからも今に至るまでドイツ風の建物が建てられ続けていることです。景観的には好ましいのですが、古い建物を見たい者には分かりにくいところです。
わずか20年足らずの統治でこの街のあり方を決めてしまったドイツに驚きます。
青島のシンボルである桟橋は霧にかすんでいます。
当初は1893年に清朝が建設した軍用の埠頭でした。
ドイツ時代には貨物埠頭になり、1901年に拡張されています。1914年の日本による青島占領、1922年の中国返還をへて、1923年には桟橋のたもとに公園が開かれました。1931〜33年に青島市による再拡張工事が行われ、先端に中国風の回瀾閣が建てられたことで、市民憩いの場となって今に至ります。
ところで海岸を歩いていると、紅いビブスをつけた若い人たちが、新聞を売り歩いていました。「青島早報」の四川大地震特別編集号をボランティアの大学生などが販売しているようです。義捐価格1部10元(150円)というその新聞を私も買ってみました。
100ページにも及ぶ、ほとんどカラーの新聞でかなり力が入っています。
この写真は別の場所ですが、後で江蘇路キリスト教会の側を通りがかったとき、日曜礼拝を終えた人たちに新聞を売るボランティアの人たちを見ました。あちこちで見かけましたので、かなりのボランティアが参加していたようです。
さて、同じく海岸通りにある青島音楽ホール。
かつての青島市大礼堂あるいは蘭山路礼堂です。
金融資本家の寄付金で1935年に建てられた青島市の公会堂です。
2006年頃、改修工事が行われて音楽ホールとして再生しました。
桟橋前の道路は地下を横断するようになっていて、地下には土産物店が並んでいました。貝殻やサンゴ、ハリセンボンなどが売られています。懐かしい気分になります。
海岸通りの太平路と繁華街・中山路の交差点には旧青島倶楽部の建物があります。
1911年に、クルト・ロートケーゲルの設計で建てられ、当初はドイツ軍人・行政官の倶楽部でした。1922年には青島国際倶楽部となり、各国の名士や中国の上流階級の社交場となりました。
日本の軍施設、国際倶楽部、中ソ友好館をへて、今は青島市の科学技術協会が使用しています。
なお、ロートケーゲルは、前回紹介した旧医薬商店の設計者でもありますが、ドイツ軍俘虜として日本に抑留されていた時期もあったようです。その後、中国に戻り1920年代は北京・天津・瀋陽などで活躍したそうです。
○参考資料
竇世強・李明『画説 青島老建築』、2004年、青島出版社
魯海『老楼故事』、2003年、青島出版社
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