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2008年7月24日 (木)

青島・煙台の旅(11)煙台・海岸街の東側

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再び煙台山の入り口に戻り、今度は海岸街の東側を歩きます。
朝陽街の北口に、旧克利頓飯店と向かい合っているのは、旧順昌商行です。現在は好望角大酒店というレストラン。残念ながら今のところ詳しい情報が分かりません。一等地ですし、角に正面を向けて派手に見せていますので、それなりに格のある会社なのでしょうが。

クリーム色に小豆色という色づかいで、向かいの克利頓飯店に負けていません。

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その隣にあるのは小さいながら、旧フィンランド領事館です。1930年に建てられた木骨煉瓦造2階建ての建物。煙台山に土地を確保できなかった領事館がこのように海岸街などに事務所を構えています。フィンランドは1904年に煙台に代理領事館を置き、ノルウェー領事が代行していましたが、1932年にここに領事館を置きました・・・というとその前は何だったんでしょうね。この建物を旧スウェーデン領事館としている資料も多いのですが、煙台市のプレートがフィンランド領事館なので、そちらを採用しました。

いい意味で素朴ながら、赤い縁取りがおしゃれです。

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その隣も領事館で、旧ノルウェー領事館。
こちらはもっと民族色があります。1904年に建てられた木骨煉瓦造2階建ての建物です。16世紀のヨーロッパ民家建築の様式だそうです。2階の小豆色の家型突出部分が目立っています。独特ですね。

煙台では1864年にノルウェー・スウェーデン領事館が設置され、1906年にノルウェー領事館として独立しました。1909年以前の絵はがきによると、この建物がフランス郵便局であったこともあるようです。1941年にこの建物は日本軍に差し押さえられています。

今は煙台料理のレストラン。2階席があったら入りたい。

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2階部分に注目すると、小窓があって、鳩時計でも仕掛けられてそう。
小窓の周りの色ガラス、窓を幾何学的に分割する桟、軒下の雲形模様などなど、いろいろ細かい見どころがあります。てっぺんから筆のようなものがぶら下がっているのは、日本の明治建築でもあったなあと思ったり。

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ちなみに床下換気口のグリルも覗いてみました。円を多重に重ねたデザインです。あまり国ごとの違いを感じません。

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お隣は由緒不明の建物。山型の飾りが2ヶ所、2階バルコニーも2ヶ所あって、舞台セットのような建物。結構細かく飾ってます。今は貝殻細工などの土産物店2軒に電話屋さん(?)

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2つ飛ばしてこちらは、見た目にはあまり特徴がない建物です。
旧信豊股份有限公司。煉瓦・石造の2階建てです。1910年に建てられました。

信豊股份有限公司は、民族資本の先駆的な貿易会社です。1908年に李明軒・李虹軒兄弟によって創業され、国外に手工芸品や煙台の特産品の輸出を行っていました。煙台の名だたる商人たちが株主として名を連ねていたそうです。1913年までは、主にレースや刺繍、麦わらひもの輸出をしていました。1914年から業務を拡大、ニューヨークやロンドンの商家に向けて、煙台の中国企業としては初めてヘアネットの輸出を始めました。当時4つのヘアネット工場を持ち、梱包・検査要員だけで1000人以上も抱えていたそうです。1916年から24年まで、同社は煙台でラグとじゅうたんの製造工場を経営し、北京・上海・天津などに支社を持つようになりました。

この左の工事囲いの部分には、『中国近代建築総覧・煙台編』掲載の物件があったのが取り壊されたようです。もっとも出版から20年経ってもあまりなくなった建物はありません。

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その向かいにあるのが煙台でも派手な建物といっていい、旧芝罘倶楽部です。英米人の娯楽場所として1865年に創建されました。最初は平屋です。1867年には外国総会がここに置かれました。外国総会は工業製品の輸出入関税の縮小と撤廃、煙台市の都市インフラ建設(例えば防波堤)などに関わりました。

1906年と1914年に増築、1931年にも煙台市キリスト教葡萄山教会の牧師・カーナイト?の設計、徳成営造廠の施工で増築が行われて現在の規模になりました。木骨石造の地上3階・地下1階の建物で、イギリス風の建築です。北側部分(写真では右側)は1階がバーなどの活動室、2・3階が客室等で、娯楽施設にはコリントゲーム室(パチンコに似たゲーム)などがあり、地階にはビリヤード場のほか、中国で初めて(1870年)のボーリング場があったそうです。南側部分はダンスホールでした。倶楽部ではほかにテニス場、海水浴場も備えていたそうです。

芝罘倶楽部は様々な近代外交史の舞台になり、1895年には下関で調印された下関条約がここで交換されました。1941年には日本軍によって差し押さえられたそうです。1945年、煙台に上陸しようとしたアメリカ海軍との交渉もここで行われました。

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海岸街に接する部分が最もモダンなデザインで、ここが1931年の増築部分かなと思います。

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1階にはカーブして広く取られた窓、2階には広いテラス、海を存分に眺められるつくりになっています。

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芝罘倶楽部の目の前はすぐ海です。
非常に開放的なロケーション。

旧芝罘倶楽部は、数年前まで煙台山賓舘一号楼としてホテルに使われていましたが、ホテルが経営破綻したため、今は使われていません。もったいない。今は誰の所有なのかよく分かりませんが、うまく活用してほしいところです。

○参考文献
 「同行網 感受煙台・煙台近代建築掠影」
 「山東省情網」
 「煙台市情網」
 「走進芝罘」
 『中国近代建築総覧・煙台編』ほか

Haianjiee

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コメント

初めまして、煙台在住です。
旧芝罘倶楽部の情報を当地で聞きました。
旧芝罘倶楽部は煙台山賓館の一部として営業をしていた(貴報告同様)。現在もホテルの所有ではあるが、史跡に指定されており改造その他が出来ない。保存管理の責任は負わされている。毎日当直を24時間体制でおいている(外からたまに見えるのですが、この建物の中に椅子を置いて、のんびり外を眺めている人がいます。ある意味贅沢ですね)。
煙台山賓館の一部(不含旧芝罘倶楽部)が金海湾酒店として現在も五つ星ホテルとして営業中。
以上、金海湾酒店銷售経理(セールスマネージャー)からの話でした。

投稿: 642 | 2009年8月18日 (火) 14:44

642さん、初めまして。
煙台にお住まいなんですね!
貴重な情報をありがとうございます。
史跡として保存されていることには安心しましたが、管理責任だけを負わされるホテルには気の毒な状況ですね。

東太平街あたりの改修は終わりましたでしょうか。

投稿: びんみん | 2009年8月18日 (火) 18:36

管理責任と言っても、何をやってるか?ですが、、、。

東太平街あたりの改修は、まだまだ続いています。この辺には煙台の昔がそのまま残っていますから、うまく保存をしながら活用できると良いのですが。今中国はどこも昔の雰囲気で作り直したり(全く時代考証もなくある物を壊してしまって、作ってしまうことが怖いのですが)、改装したりして、観光客を呼び込もうとしていますね。ほんとうにうまくきちんと残してやって欲しいですよね。

しかし、きっちり写真を残され、その後考証されて、すばらしいですね。すんでいて適当に写真は撮ったりしていますが、なかなか出来ないことです。

とろこで、この金海湾酒店では今新型インフルエンザ発症者が出、1人は病院に隔離、2人はホテルの中で隔離となっています。東南亜細亜からの旅行者だそうです。

投稿: 642 | 2009年8月20日 (木) 15:19

642さま
コメントありがとうございます。
要は「壊すなよ」ということだけかもしれませんが。

まだ改修は続いているんですね。
昨年、私の見た印象では、市政府は観光開発しようと一生懸命、改修を進めていますが、地元の商業者は「この街が観光になるの?」とまだ冷めているように感じました。逆に観光客には今が貴重な時期かなと思いました。これが商業開発に火が付くと破壊と創作が始まると思うので。

642さんの現地からのリアルタイムな情報に期待いたします。

煙台では新型インフルエンザ患者の隔離があるのですか。私は大阪に住んでいますが、どうなっているのやら。
最新情報をありがとうございます。

投稿: びんみん | 2009年8月20日 (木) 17:42

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