戦争遺跡の公園「生玉公園」
仕事帰りに、大阪市天王寺区の生玉公園に寄りました(最寄り駅は谷町九丁目)。
生国魂神社の南〜南西にある公園で、着工は昭和15年(1940年)5月、開園は昭和17年(1942年)5月です。公園は上町台地の上と斜面を利用していて、上町台地の下にも入り口があります。上の写真がその入り口。ただ、この道は後から付けられたものかもしれません。
階段を上がると、コンクリートの壁が見えます。
ただのコンクリート擁壁に見えるこれ、実は防空壕の入り口を塞いだものです。
大阪府・大阪市が設置している説明板によると、「都市防空壕」として大阪市により設置されたそうです。しかも当時一般では入手できなかった資材を利用して建設された特別防空壕で、戦争末期には陸軍の通信施設として使われ、いよいよの時には司令部をここに置くつもりだったといわれます。また建設には朝鮮人が徴用されました。
防空壕の中はうかがえませんが、内部は2階建てで、アーチ状の無筋コンクリート製、本体は幅約9m×高さ約6.5m×長さ約24mで、1階部分の床面積203m2、2階部分は現存せず、と解説されています。
なるほど、戦時中に公園を作るには訳があるわけです。
途中遊歩道があるのですが、林間のテント村になっていましたので、写真は遠慮します。台地上に上がるとテラスになっています。
その一角にこのコンクリート製の煙突(通気塔)が立っています。これも防空壕の施設の一部らしいです。
公園は道路を挟んで東西に分かれています。公園の樹木に覆われています。
公園の中で、もう一つ記念物を見つけました。
ただの自然石に見えますよね?
よく見ると字が刻まれています。
「紀元二千六百年
簡易保険
郵便年金
報國運動記念之杜」
つまり、紀元2600年=昭和15年の植樹記念碑です。
そんなに手間をかけたくなかったのか。
この日が曇り空だったこともありますが、鬱蒼とした森になっています。
この公園ができるまで、ここは何だったんだろうと思って地図を確認してみると、大正13年の大阪市パノラマ地図では、お寺や神社が並んでいます。昭和16年に至るまで神社(北向八幡宮)などが記載されていますので、寺社を移転させて公園にしたのでしょう。北向八幡宮は、今は城方向(きたむき)八幡宮として、生国魂神社境内に祀られています。
公園の森は普通、気持ちの良いものですが、戦争遺跡に加えて、テント群、ホテルの廃墟があり、やや陰鬱な気持ちで公園を後にしました。
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