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2008年6月29日 (日)

青島・煙台の旅(3)煙台の近代と建築

Modernbohai

Oldyantai

煙台のまち歩きの前に、煙台の近代と建築について、簡単にまとめておきます。

煙台はもと“芝罘”と呼ばれていました。明朝の1398年、和冦を防ぐため、「奇山守御千戸所」と呼ばれる城壁都市が築かれました。これが煙台の都市の核になっています。城壁はありませんが、今もその区画は「奇山所」という名で残っています。ちなみにこの時、和冦の来襲を知らせる、のろし台(狼煙台)も築かれ、「煙台」の由来となりました。

近代に入り、第二次アヘン戦争(アロー戦争)に敗れた清は、咸豊8年(1858年)にイギリス、フランスとの間で天津条約を結び、登州(蓬莱)を通商港として開放させられました。咸豊12年(1862年)、条約に従って登州を実地検分したイギリス領事は、登州より煙台の方が条件が良いと判断、開港地を煙台に変更します。ここから煙台の近代化が始まりました。1860年の英仏軍による北京侵攻の際、煙台山は租界開設をもくろむフランス軍が占拠しましたが、イギリスの猛反発で1866年にフランス軍は撤退しました。

これより外国の政府役人、商人、宣教師らが次々にやってきて煙台で様々な活動を展開し、土地を購入または永久租借する形で教会、学校、洋行、領事館などを建て始めました。計17の国が領事館を開いたといいます。1861年からの60年間に大量の洋風建築が建設されました。とくに1880年から1900年にかけては北方の他の2つの貿易港ー天津と牛荘(営口)ーよりも大きな貿易額を誇っていたといいます。

しかし、煙台は正式の租界地ではありませんでした。

1897年に芝罘条約が結ばれ、煙台はイギリスの条約港になります。そこでイギリス主導で共同租界設立の動きがおこるのですが、1898年にドイツが青島、イギリスが威海衛を租借した結果、山東半島にこれ以上イギリス勢力が増えることを望まないドイツの反対で共同租界の計画は宙に浮きました。

1899年には日本、イギリス、アメリカが共同租界設立の働きかけを始めます。しかし、今度は1898年に対岸の大連を租借していたロシアが反対、そうこうするうち1904年の日露戦争に突入します。

1910年には煙台に住む外国人と中国人有力者による万国委員会が設立されました。彼らは煙台市街地を「芝罘第一区」と命名、居住者への課税を財源に行政を行うという珍しい統治形態が出現しました。

その後、1917年にイギリスが再び共同租界の設置を提案しますが、今度は日本やアメリカが反対します。日本は1914年に青島を占領、1915年には対華二十一カ条の要求を提出して、山東省のドイツ権益を引き継ごうとしていました。一方、アメリカは煙台をアメリカ海軍アジア艦隊の駐留港にしようとしていました。

結局、各国の思惑の綱引きで、煙台は租界地にならなかったといえます。
1930年に万国委員会は市の行政権を市政府に返還しました。

さて、このようにして成立した、煙台の建物の分布について見てみましょう。
外国人による建築の分布はおよそ、次のようになっていました。
(1)領事館 
 煙台山と朝陽街に多く建てられました。
 とくに煙台山は領事館地区といってもいいほどです。
(2)外国洋行
 海岸街、滋大路(海関街)、朝陽街、大馬路などに多く建てられました。
(3)学校・医院
 毓璜頂と海岸路付近に建てられました。
(4)外国人住宅・別荘
 大馬路・二馬路の東端、東山一帯に多く建てられました。
(5)教会
 分布が広く、煙台山・東山・西山・大馬路・毓璜頂などどこにもありました。
(6)郵便・電話局
 外国の郵便・電話局は海岸街に建てられました。
(7)国際商業組織
 芝罘クラブが煙台山の下に建てられました。

19世紀、煙台の陸上輸送は家畜の牽く車に頼っていました。
1898年に青島と膠州湾がドイツ租借地となり、青島の都市建設が始まって、1904年に膠済鉄道が開通すると、鉄道輸送の安価なコストと時間短縮により、物資は青島を経由するようになり、1910年頃には煙台の繁栄はすっかり青島に奪われてしまいました。結果として、煙台には開港初期の建築が残されたとも言えます。

そして現在。
2007年5月から9月にかけて、煙台山下の朝陽街、海岸街、海関街では、街路を敷き直し、建物を復原する改修工事が行われました。2008年5月から10月にかけては、さらに朝陽街以東の会英街、建徳街、招徳街、東太平街、西太平街の5街路・沿道建物の改修を行っています。地元政府は積極的に地区を保存・活用していく意向のようです。

煙台山一帯の近代建築群は、観光資源であり、愛国教育の拠点でもあります。
近代建築は中国の苦い近代史の証人でもあり、一方では地域の先進性の象徴でもあり、近代建築を眺める視線も複雑なものとならざるを得ないようです。日本では屈託なく近代建築を眺める私ですが、中国の近代建築には堂々と好きですと言えない居心地の悪さを若干感じながら、よく残されている近代建築を眺めていました。

次回から街の建物を見ていきます。

○参考資料
 今回の記事は多く「旅名人ブックス97 青島と山東半島」(日経BP社)を参照しました。
 他に「中国近代建築総覧 煙台編」などを参考にしています。
 最近の動きについては、煙台市HPと水母網のニュースを参照しました。

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