大正期の公園を求めて
先日から大阪市の公園について、気になっていることがありました。今日の話はマニアックなので、興味ない方は読み飛ばしてくださいね。
それは、
□大阪市公園史
</>
明治6年(1873) | 太政官布達により公園の名称ができる。 |
明治24年(1891) 12月 | 中之島公園が市営第1号公園として開設される。 |
明治42年(1909) 10月 | 天王寺公園が開設される。 |
大正4年(1915) 1月 | 天王寺動物園が開設される。 |
大正6年(1917)〜7年(1918) | 大正天皇大礼記念事業とし、九条公園等6公園の小公園が整備される。 |
(なお、府の公園では明治6年に住吉公園が指定されています)
・・・このあとも記述は続くのですが、唐突に現れるこの九条公園等6公園というのは、どんなものなのかが気になったわけです。しかも検索しても残り5公園はなんなのか分からない・・・
ということで、大阪市立図書館に調べに行ってきました。(その後は細野ビルの話につづく)
まず、丸山宏著『近代日本公園史の研究』
大正天皇の大礼記念事業のため、大正6(1917)年3月5日に大阪市起業による公園として土地収用公告が出されたのが清水谷公園、九条公園、阿波座公園、北野公園、西野田公園。同年4月11日に土地収用公告が出されたのが御蔵跡公園。この6公園ということのようです。他にも木津公園というのがあると紹介されています。
(※所在地は省略)
さらに『明治大正大阪市史第一巻』を見ると、明治大正期公園一覧表というのがあって、上記3+7公園に加え、次の10公園があげられています。
・大正5年 日本橋街園(道路改修に際し除地利用)
・大正6年 築港遊園地(港湾部住宅地経営に伴い施設。港湾部所管)
・大正8年 西九條小公園(芦分倉庫爆発災害跡を岩崎男(爵?)より寄付せるにより施設)
・大正11年 新世界街園(土地会社よりの返却地利用)
・大正12年 桜宮公園(河川改修による洪水敷地の利用)
・大正12年 扇町公園(大阪監獄移転跡の利用)
・大正12年 市立運動場(第6回極東選手権競技大会会場供用のため施設。教育部所管)
・大正12年 恵美須町街園(都市線路の拡張に伴い取得せし除地利用)
・大正13年 大手前遊歩道(陸軍省貸下地利用)
・大正14年 福島公園(葬儀所移転跡の利用)
(※所在地、面積は省略)
これで全て分かった・・・と思ったのはまだ早く、試しに古い地図で現在の九条公園の位置を確認してみるとどうも公園などあった形跡がない。ちょっと混乱してきました。
でも意外とすんなり確かめる方法がありました。復刻版の『大正13年 大阪市パノラマ地図』を見ると、九条公園等6公園、木津公園などには「公園」と表示されているのです。わざわざ書いてあるのは珍しかったからでしょうね。改めて素晴らしい地図だと思います。
そこまで分かれば確かめにいくしかありません。
後日、まずは九条小公園に行ってみました。現在の位置でいうと九条東公園のようです。
ありました!
大正天皇の大典記念碑が!(その瞬間、一線を越えてしまったなという感覚が)
裏側には、「大正七年七月建之 九條有志拾名」というシンプルな文言が刻まれています。
ただ、公園はというと、悲しいかな南は斜めの幹線道路に切られ、北は幼稚園の庭に取られ(?)、かなり狭まっていました。そのうえ、阪神の延伸工事も。そうとうな受難です。記念碑以外に大正を偲ぶものは見つけられませんでした。樹木はどうなんでしょうね。
そのまま足を伸ばして、西九条小公園も見に行ってみました。
ここはそのまま西九条公園。西九条の駅北にあります。こちら、現在は梅の名所のようです。北市民病院に敷地を提供したみたい。左手の祠は波除地蔵尊です。しかし平らな岩が数個あるのが気になった以外は、公園内に記念碑などは見つけられませんでした。あるいは北市民病院の周辺まで歩けば何かあるかもしれませんが。
期待して行った割にはあまり大正を感じることはできませんでしたが、かえってもっと確かめたいという気持ちは強まりました。そんなに数はないので、折りを見て回ってみようと思います。
(すみません、いつもの建築以上にマニアックで)
(追記)西九条小公園は、大正6年に三菱倉庫(東京倉庫(株))で起きた大爆発事故に際して岩崎小弥太男爵より提供された罹災者慰藉金の残金で大正8年に開設されたそうです。(2008.11.3記)
| 固定リンク
「日常旅行(大阪)」カテゴリの記事
- 2022年もよろしくお願いします(2022年初歩き)(2022.01.02)
- トンガリ屋根の市営住宅(東大阪市)(2021.08.02)
- 野里を歩く(大阪市西淀川区)(2021.07.25)
- 姫島を歩く(大阪市西淀川区)(2021.06.13)
- 住吉大社門前の道(大阪市住之江区)(2020.01.03)
「公園」カテゴリの記事
- 元代用公園の耳塚児童公園(京都市東山区)(2024.06.14)
- 元代用公園の松原橋児童公園(京都市東山区)(2024.06.12)
- 高原児童公園の改修前と後(京都市左京区)(2024.05.30)
- 飛鳥井児童公園(京都市左京区)(2024.05.28)
- 明田児童公園と殿田公園(京都市南区)(2024.04.30)
コメント
大正時代に「広場」という概念が日本に入ってきたそうで、関東大震災後の
震災復興事業における公園整備によってそれが定着したということですね。
震災はなくても大阪でも同じ動きがあったのでしょう。
東京では、小学校と公園を隣接することで非難広場としての
機能を持たせる設計が多数なされたようです。
九条の幼稚園、西九条の病院などの公共施設が隣接するのも
意図があるのかもしれませんね。
しかし九条小公園はうちのすぐ近くで、犬の散歩でもよく通ります。
あの碑は何物かと思っていましたが、そういうことだったのですね。
びんみんさんの好奇心→即、文献調査→即、現場調査、という行動力はすごいです。
投稿: ぷにょ | 2006年6月21日 (水) 01:16
ぷにょさん、こんばんは。
なるほど、関東大震災の教訓から生まれているのですね。
話の先取りになりますが、他の公園も小学校や神社などと隣接しています。そういう意図があったのですか。なるほど。必然的な結果か、小学校が大型化して運動場に取り込まれたり、病院を持ってこられたりして公園は縮小するのがパターンのようです。
大正期までは土地収用、または街路整備ついでのほそぼそとした公園整備ですが、昭和に入って土地区画整理の換地による公園整備手法が生まれると急速に普及していくようです。(や、なんか都市計画の勉強みたい)
投稿: びんみん | 2006年6月21日 (水) 02:13