御蔵跡の公園へ
大正期の公園を訪ねて、日本橋街園に行ってきました。
しかし、「行ってきました」と言うまでもなく、今までに何度も来たことがある場所です。大阪の方なら分かりますでしょうか。日本橋(道頓堀にかかる堺筋の橋)の北側にある、このちょっとした緑地が、大正5年に道路改修で整備された日本橋街園と思われます。
この安井道頓・道トの顕彰碑があるところです。
そこから御蔵跡にある公園へ、廃川跡を歩いていきました。
高津入堀川という、道頓堀川から南に分岐していた川で、享保19年(1734)に掘られ、昭和32年(1962)に埋め立てられたそうです。
写真では分かりにくいかもしれませんが、路面がうねっています。
この屋台は橋のたもとで営業していたのでしょうか。
左側が川筋です。
川は小さくカーブを描いて、直角に東に曲がっています。
ちょっと裏側感のある町並み。
道に面するのは裏口です。今の路面とは段差があり、ブロックなどで調整されています。
川は再び直角に南へ折れてまっすぐ流れていたようです。今は高速道路の高架下になっています。公園になっていますが、囲まれていて通り抜けられませんので、今回はここまでとします。
高津入堀川は、天王寺御蔵(高津御蔵)という幕府の米蔵につながっていたそうです。最初、公園のある御蔵跡を、今のなんばパークスのある難波御蔵の跡だと思ったのですが、1752年から1791年まであった天王寺御蔵という短命の御蔵跡のことでした。古い看板の地名に名残があります。日本橋電気店街の東側のあたりです。
その一部が大正7年に整備された、この御蔵跡小公園。現在は日本橋公園。
ここでは記念碑などは見つけられませんでした。
ただ、そう思ってみると、この4本並び立つシュロの木など、モダンさを感じさせます。
この公園の場合、隣の日本橋小学校の校庭に敷地を提供しているようです。
もう一つ気になったのは、盛り土の山と点在する石です。何かありそうですが、どう使われていたのかは分かりません。
謎解きはこの先の公園に求めるとしましょう。
(期待していただいても申し訳ないので念のため書いておきますが、伏線ではありません)
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コメント
びんみんさん、公園めぐりと称して廃川跡めぐりもしていらっしゃいますね。
私も同じところを歩きましたよ。
http://www.geocities.jp/punyo_osaka/ahare/haikawa/kozuiribori/index.htm
しかし、私も御蔵跡と聞いて難波の方とばかり思ってました。
古い地図に御蔵跡町という名前を見たことはあったのですが、
難波の御蔵に関係する町名だとばかり思っていました。
天王寺御蔵というのがあったとは知りませんでしたよ。
そして高津入堀はそこへ米を運び入れるためのものだったのですか、なるほど!
さきのHPにも書いてますが、中央区内の部分の開削が古く、
それ以南は後から延伸されたというのも理解できました。
おもしろいですね!!
投稿: ぷにょ | 2006年6月28日 (水) 00:41
ぷにょさんもこの廃川跡を歩かれてたんですね。
見せていただきましたが、詳しい!
廃川になった後の利用のされ方が面白いですね。
その喫茶店は覚えがありますが、そんなお得なお店とは気づきませんでした。
御蔵跡はやはり難波だと思いますよね?
(御蔵って何?がもっと普通だというのはともかく)
さらにその前は、
*天王寺村鋳銭所跡
「元文五年(一七四〇)に銀座年寄が幕府の許可を得てこの地に建設した鋳銭所
翌年から操業をはじめ鋳造高は年間二〇万貫に達した
延享二年(一七四五)には廃止され跡地は幕府米蔵である天王寺(高津)御蔵となった。」(大阪市教育委員会HP)
ということで、銅銭の鋳造所があったそうです。
5年で潰れたのは、鋳造を請け負った家が贅沢三昧にふけったことと米相場に手を出して大損害を出したためだとか。結局、幕府に没収です。
しかし、低湿地で米蔵の米が傷みやすいため、米蔵も難波御蔵に統合されてしまったという事情のようです。
調べるほどに面白いです。
高津入堀川の開削後、高津新地が開かれているようなので、今、開発のために道路を通すような感覚で(湿地の排水を兼ねて?)堀川を掘ったのではないでしょうか。
大阪の運河というと江戸時代がピークと思ってしまっていたのですが、実は明治以降も掘り続けられていたのですね。
投稿: びんみん | 2006年6月28日 (水) 21:38
早とちりでした。1734年に高津入堀が開削されているということは、
御蔵への搬入路として開削されたのではありませんね。。。
鋳銭所ができたのも川開削の6年も後だし、やはり新地へのアクセスのためかな?
それとも逆に新開の土地の振興のために新地を作ったのか?
しかし解せないのは、なぜあそこでクランク状に曲げる必要があったのか、
ということです。
明治以降に開削されたのは大正区、此花区など比較的周辺部が多いですね。
都心部では中之島・堂島の掘割や梅田入堀などがあるでしょう。
ちょっと意味合いは違いますが新淀川の開削も明治です。
古いものは「川」という名で呼ばれますが、新しいものは
「運河」「水路」と呼ばれるのはどうしてでしょうね。
まぁ、雰囲気的には分かりますが、命名には何か区別があるのでしょうか。
いろいろ疑問が沸いてきます。
投稿: ぷにょ | 2006年6月29日 (木) 01:31
新開の土地の振興のために新地を作る方が自然な気がします。堀川を掘ることで低湿地の水を排水して、乾燥したら土地を開発し、堀川は輸送路に使えば一石二鳥と想像するのですがどうでしょう。最初は誰も住まないから、新地を呼び水にし、工場(鋳銭所)も誘致する。鋳銭所を工場と言ってしまうとちょっと違いますが。
クランク状なのは謎ですね。手元にある江戸時代の地図は1854年のだけなので、開削前の地図を見てみないことには。
明治以降の開削は、そうなんですか。なるほど。
「川」と「運河」「水路」の違い・・・
昔は水の流れるのは川としか言ってなかったのが、英語(かフランス語か何か)に触れて、日本語でも区別するようになったとかどうでしょう?
投稿: びんみん | 2006年6月29日 (木) 02:47
新開の土地の振興策として花街や興行地を作るというのは一般的な手法だったようですね。
しかし高津入堀川はそのルートからも排水路としてだけでなく、
何か最初から目的性があったような気がするのですが・・・。
私も手持ちの地図をいろいろ見てみましたが、
クランクの角部分に特に障害物もなさそうだし、最初堀留だった
堀初橋の南側はまだ開けていない土地みたいだし・・・
江戸時代の地図はほとんどイメージ図でしかないですけどね。
投稿: ぷにょ | 2006年6月30日 (金) 00:45
疑問が残りますね。
ちょっと宿題とさせてください。
投稿: びんみん | 2006年6月30日 (金) 02:34
公園のテーマからはずれたところで突っ込んでゴメンナサイ。。。
投稿: ぷにょ | 2006年7月 1日 (土) 01:19
いえいえ、テーマにこだわっていただかなくて構いませんので。
なぜ東横堀川をまっすぐ伸ばさなかったのかという考え方をすると、堀川に囲まれた街区が何か意味があったのかもしれませんね。想像の範囲で、資料の裏付けは全くありません。
投稿: びんみん | 2006年7月 1日 (土) 03:06
大阪市立図書館で調べてきました。
まず享保9年(1724)に妙知焼という大火があり、大阪の街の7割が焼けてしまったんですね。その教訓で大阪城の北側、京橋北詰のあたりを火除け地として、道頓堀の南側(今の戎橋商店街周辺)に代替地を与えています。そういう時代背景があります。
その次のタイミングとして、享保18年(1733)、福島屋市郎右衛門、備前屋善兵衛が買い入れた西高津村に新市街を作る許可がおろされ、長町以東、下寺町以西の東西208間、南北230間余りの土地開発がスタートします。翌享保19年(1734)、輸送の便のため、長さ439間、幅9間の高津入堀川が開削されます。そして、川の東側を市郎右衛門、西側を善兵衛が持ち、茶屋32株、湯屋2株が許可されました。(→西高津新地)延享2年(1745)に新地は大阪町奉行の管理になったそうです。天王寺御蔵ができるのと同時ですね。
ということで、川が曲がっているのは、川を境界として、それぞれの持ち分で土地を分割したため?でしょうか。
いずれにしても、新地と堀川は一体的に開発されたようで、最初の私の推測は違っていたようです。
投稿: びんみん | 2006年7月 3日 (月) 00:06
なるほど、ひとつひとつ丁寧に調べていくと面白いですね~!
的確な資料を見つけるのはすごいです。
実は私は中央図書館の郷土コーナーへ行くと、興味があちこちに
分散してしまい、これも面白そうあれも面白そう、と立ち読みしながら
たくさん資料を取ってきて、どれもパラパラ見るだけで閉館の時間
となってしまう・・・・いつもこうなのですよね、恥ずかしながら。。。
学者には向いていません。
ところで東横堀川の本町曲がりは、開削当時あったお寺を避けたため、
曲がったものということです。高津入堀も当時お寺か何かが
あったのかも知れませんね。私も課題としておきます。
投稿: ぷにょ | 2006年7月 4日 (火) 00:59
いえいえ、大阪市史を調べただけです。
いろんな本が気になってしまうというのはよく分かります。
今回は急いでいたのがかえって良かったのかもしれません。
本町曲がりはお寺が理由なんですね。
地図で見る限りは高津入堀川にはお寺はなさそうです。
ただ、大きな木を描いてある地図があって、それが気になります。
投稿: びんみん | 2006年7月 4日 (火) 02:14