2018年12月29日 (土)

公会堂跡のときわ台公園(北海道根室市)

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『ラヂオ塔大百科2017』の情報によれば、根室にもラジオ塔があったという記録があります。
その場所は根室町公会堂前(または公会堂構内)となっています。
公会堂が現在どうなっているか調べると、公会堂跡がときわ台公園として整備されていることが分かりました。
根室まで来る機会もそうそうないので、見に行ってみました。

ときわ台公園のある場所は駅前通りを歩いて右に折れたあたりで、ここから元官庁街が東に続いています。

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落葉しているこの季節は、公園らしさはないですが、捜しものには最適。
公園の南側は林になっています。そこに古そうな石碑が2つ立っていました。

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一つは昭和十年のもの。タイトルに記念碑とだけ書かれていて、内容は根室は発展させてきた先人たちを顕彰しています。

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側面には「粗粒玄武岩 此碑石ハ根室国花咲郡歯舞村大字モシリ島産」と書かれていて、現在は北方領土の歯舞諸島で採れた玄武岩ということが分かります。

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もう一つは行幸記念碑。
昭和11年9月28日に昭和天皇が根室公会堂に行幸されたことを記念して建てられたものです。

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公園の中には案内板があり、ときわ台公園の来歴が説明されています。
大正15年に碓氷勝三郎氏(前回少し触れた酒・缶詰・味噌の製造、タクシー会社運営などをしていた実業家)から土地の寄附を受け、公会堂は昭和6年に完成。解体時期は分かりませんが、昭和52年にこのときわ台公園が整備されています。
公共用地として寄附者の趣意を尊重し、っていい言葉ですね。

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公園の北半分は芝生の広場になっています。
ここは昭和10年の地図を見ると町役場となっています。
年表を見ると根室町役場は明治41年(1908年)にできて、昭和48年(1973年)に市役所が新築されていますので、その間、65年にわたって町役場・市役所があったのでしょうか。

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公園の北の端は崖になっていて、その下に碓氷勝三郎商店の倉庫の屋根が連なっています。
町役場の土地も含めて一体が碓氷氏の土地だったのでしょうか。

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公園の中にはいろんなものが置かれています。
例えば、根室女工節の碑。缶詰工場の女工の労働が歌われています。

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モニュメント「ラクスマン 歴史の然」(1994年)。
1792年、ロシアから根室に来訪したアダム・ラクスマンの記念碑です。日露外交の始まりとして。
制作は池田良二さん。

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今は水がないですが、池と噴水の中にアントワーヌ・ブールデル氏の「力の胸像」(昭和58年(1983年)設置)があります。
アルゼンチンに解放と勝利をもたらしたアルヴェアル将軍の勇者の一人を描いているそうです。
市民と企業の寄附により設置されたとのことです。

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こういう動物の遊具なども。

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いろんな記念碑はあるのですが、結局、ラジオ塔の痕跡らしきものは確認できませんでした。
それでも、ここは根室市民早朝ラジオ体操会の会場になっているようです。歴史のつながりを感じます。

<関連記事>
 日常旅行日記「釧路湿原美術館を訪問」
       「根室の建物」

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2018年12月28日 (金)

根室の建物(北海道根室市)

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釧路湿原美術館を見に行った翌日(もうそれで今回の旅の目的は果たしたのですが)、丸々一日あったので、前回は行かなかった根室まで足を伸ばしました。

外を歩くと寒いだろうし、列車に乗って暖かい車内から景色を眺めるのも良かろうという考えもありました。
実際その通りで、釧路から根室までは列車で約2時間半、途中、小さな谷や湿原、海、丘陵と移り変わる景色、シカや丹頂鶴などの動物など、景色の素晴らしい路線でした。私と地元の人以外に、乗っていたのはほとんど鉄道ファンだったと思います。
あまりいい写真が撮れなかったので、そこの話は思い切ってカットします。
でもかなりお勧めです。

さて、根室駅到着です。
ここで到着した観光客は、駅で記念グッズを買い求めたり、記念写真を撮ったり、納沙布岬行きのバスに乗ったりするのですが、私は街を見に行きます。あとラジオ塔の確認と(それは別記事で)。

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駅前にはさっそく古そうな商店がありました。
サイディングで覆われていますが、たぶん下見板張りだったのではないかと思います。

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訪れた街がイメージしていたものと違うというのはあることで、根室の場合、まさにそうでした。
もう少し暗い街をイメージしていたのですが(すみません)、何より、街が高台にあって、至るところから青い海が見え、さらにその向こうには雪をかぶった知床半島と国後島の山並みが延々と連なるスケール感。建物も思ったより低く、開放感があります。

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大きな通りに面したこちらの建物、Mさんによると元郵便局らしいです。
現在は選挙事務所と天理教教会に使われています。

この向かいにかつてラジオ塔があったという、ときわ台公園があります。

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ときわ台公園をめぐった後は、その横の坂を下っていくことにしました。
すると見えてきたのがこちらの立派な赤煉瓦の倉庫。
明治20年創業の酒造メーカー、碓氷勝三郎商店です。ブランド名は「北の勝」。
今は酒造だけですが、昔の地図を見ると建物は缶詰工場や味噌工場などにも分かれています。

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逆光ですが、広がりは分かりますでしょうか。

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倉庫の上部はこのように連続的な装飾になっています。

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さらに下って海辺の段丘のへりに出ます。
大きな倉庫付きの古そうな建物があります。

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さらに段丘の崖をくだって、赤煉瓦の倉庫。
かなり煉瓦の摩耗が進んでいますが、青空に映えてきれいです。
漁業倉庫とかなんでしょうか。

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再び段丘の上へ。
本町の通りにあたります。
このあたり、古そうな建物が固まっています。昔は海産物問屋が軒を連ねていた通りらしいです。

なお、近くの鳴海公園に根室市平和祈念の碑」というものがあり、根室空襲というものがあったことを知りました。
1945年の7月14日・15日に空襲を受け、発生した火災により、市街地の約8割が焼失。現在の北方領土に向かうために停泊していた船を含め、被害者は355人、行方不明者39人という被害だったそうです。

このあたりの建物は火災を免れたのでしょうか。
それともその後の建物なのでしょうか。
この建物は軒下の飾りなど古そうですし、正面の窓や壁面は更新されていますが、側面の窓は縦長の古そうなものです。

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隣にある玄関上がハーフティンバーの住宅。

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こちらはかなり原型を留めているようです。
下見板張りの建物。

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持ち送りのような木製の軒下飾りもあります。

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また隣にモルタルの倉庫・・・と思ったのですが、所々破損した部分から煉瓦が顔を出しているので、煉瓦の倉庫の上からモルタルを塗ったものみたいです。

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この建物、分かりにくいですが、奥の窓に格子がはまっています。

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またこの建物も複雑な屋根の構成で、隣の駐車場に医院の札がかかっていたので、診療所っぽいのかなと思うのですが、どうでしょう。この左手前に、花咲学校跡の碑が立っていました。

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根室市立花咲小学校のドット画のような校門門柱。
花咲小学校は明治9年、道内で3番目にできたという歴史ある小学校らしいです。当初の名称は花咲学校。

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ほとんど下調べなく歩いたのですが、ここは調べていきました。
ここ明治公園には、開拓使根室牧畜場跡のサイロが3基残っています。
中央が第一サイロ(昭和11年)、右が第二サイロ(昭和7年)、左が第三サイロ(昭和11年)だそうです。

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手前の柱の説明文。
このような標柱は根室のあちこちに立っていて、これを読んで回るだけでも、かつての根室の街の様子がイメージできてきます。これは文章だけですが、かつて建っていた建物の古写真も入っています。

明治公園は柵外にももこもこした丘陵が続いていて、とても広々した公園です。

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最後にスケールの大きなY字路。
左のY字路の先にはアイストップに教会、そして遠くに海と知床の山々が見えています。

冬の入口とはいいつつ、昼間は比較的暖かく、見通しがきくので歩いて気持ちの良い街でした。

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 日常旅行日記「釧路湿原美術館を訪問」

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2018年12月23日 (日)

釧路湿原美術館を訪問(北海道釧路市)

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かなり久しぶりの更新になります。

11月の終わりに釧路に行ってきました。
釧路には2009年の6月に訪ねて以来、9年ぶりです。
目的は釧路湿原美術館を訪ねること。その経緯は後ほど触れます。

今年ピーチの関空ー釧路便が就航したのも大きなきっかけで、かなり行きやすくなりました。
本当は9月に行くはずだったのですが、台風の直撃を受けて延期、ようやくこの日を迎えました。

この日の大阪は風がありますがよいお天気。
LCCも初めて、第2ターミナルも初めて。いろいろ初めてです。
連休の初日ということで、ほぼ満席でした。

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大阪から岐阜・長野までは晴れ間がありましたが、そこから先は延々と曇り空で、青森の三沢を過ぎて、ようやく晴れてきました。
北海道の端、襟裳岬をかすめます。岬の先は見えず。

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大樹町のあたり。
一面の雪景色です。

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そして無事、たんちょう釧路空港に到着しました。
前回は列車で来ましたので、この空港は初めてです。
ここで現地のまあちゃんさんが迎えてくださいました。

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目的の釧路湿原美術館は、空港から市街地とは逆方向(阿寒湖の方)に向かいます。
途中、吹雪いてきて、やはり北海道だと感じさせられました。
数日前に初雪が降ったところだそうで、どうせ寒いのなら、雪が降っていた方が良いかもと前向きに考えました。

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釧路湿原美術館に到着。
(指が写っていてすみません)
美術館の高野理事長が迎えてくださいました。

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この釧路湿原美術館、館内を北緯43度線が通っていて、その線に沿って建物が設計されています。
かつて北緯43度美術館として、世界の北緯43度の地域の美術などを紹介していたようですが、閉館後、故佐々木栄松さんの作品を展示する美術館として再出発しています。

佐々木栄松さんは、大正2年、北海道の置戸町に生まれ、釧路で働いていました。
釧路の空襲で奥さんと幼い娘さんを亡くしています。
1960年代、50代の時に釣り竿を持って世界旅行に出かけ、帰国後、独自の作風を開花させたようです。
釣り師としても有名で、釧路湿原に釣りに出かけたり、絵を描き続けました。
開高健さんがイトウ釣りに来られた時に案内されたのも佐々木栄松さんだそうです。
孤高の画家として釧路に住み続け、2012年、98歳で亡くなりました。

晩年、身の回りのお世話をされていたのが理事長の高野範子さんなのですが、この作品群を散逸させてはならないとNPO法人を立ち上げ、2013年に開館したのが現在の釧路湿原美術館です。

美術館開館に当たって募金を募っているという話を、ブログのコメント欄でやりとりしていた、まあちゃんさんから聞き、私も少しだけご協力したことから、一度訪ねないとと思っていました。
開館から5年がたっており、かなり遅くなりました。

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作品を見ないと言葉では分からないと思います。
作品は撮影禁止だったので、代わりにこれを。
釧路湿原国立公園の三十周年で使われた釧路湿原の絵です。

非常に鮮やかで、赤、黒、青、黄、白といった色が入り混じりつつも、濁らない描かれ方をされています。
素直に美しいと思います。

作品を高野さんは丁寧に解説してくださいました。
まず、作品は釧路湿原を観察し尽くした知識(例えば丹頂はどう眠るのか、イトウはいつ浮かんでくるのか、どの季節にどの渡り鳥がいるのか、水辺にはどんな植物が生えているのかなど)をベースにしながらも、心象風景を描いていて、決して現実ではないこと。例えば、あえて丹頂の頭の赤を描かなかったり、いくつかの季節を混在させたり。

また、作品にはたびたび空襲で失った娘さんが、大人になった姿で描かれていたり、海外旅行で出会った人物が描きこまれていたりもします。
そしてどんな絵にもどこかに生き物が描かれているのが特徴だそうです。

ぱっと見た目にもきれいなのですが、解説を伺うことで、描かれているものの奥深さを知ることができました。

作品は大きなものが多く、引き込まれますので、皆さまもぜひ機会を作って見に行っていただければと思います。

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さて、ゆっくり見せていただいた後、外に出ると青空が覗き始めていました。
道東の冬は寒くても青空が続くのが特徴だそうです。

美術館の前にあるこれは、丹頂鶴を寄せるための餌場だそうです。

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館長の高野さん(旦那さん)に、電線の黄色いカバーは、丹頂鶴がぶつからないための目印ということを教えていただきました。

美術館の裏には、阿寒国際ツルセンタータンチョウ観察センターがあり、冬場の給餌場として、このあたりには冬になると多くのタンチョウが飛来します。

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この後、宿泊地の釧路へ。
途中、写真には収められませんでしたが、間近に数羽の丹頂鶴や鹿の群れを見ることができ、印象深い訪問になりました。

高野ご夫妻とまあちゃんさんには大変お世話になりました。

<関連記事>
 日常旅行日記「2006年の北海道旅行目次」

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2017年8月14日 (月)

加賀石の里めぐり(4)大聖寺の近代建築など

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2017年5月の加賀旅行の記事です。
今回は石はあまり関係ありません。

金沢に行く途中に大聖寺という駅があるのは知っていましたが、降りたのは初めてです。
かつてあった大聖寺という白山信仰のお寺が地名の由来であるものの、その存在感はあまりなくて、大聖寺城の城下町という性格が強いようです。江戸時代は加賀藩の支藩・大聖寺藩でした。

大聖寺駅のホームに降りると、古い工場建築が目に付きます。
チェーンを作っている大同工業の大きな工場が駅の南側一帯を占めています。

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このようにノコギリ屋根が連なっているのが壮観です。

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本社事務所も近代建築です。

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町は駅の北側に広がっていて、歩いて行くと塔屋のある建物があります。
現在はヘアーサロンオダです。
あまり古そうに見えないながら、写真に撮って後で確認すると、近代建築総覧にも載っていて、大正4年に建てられた旧物産館となっています。最初は旧八十四銀行としているページもありますが、未確認です。

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明るい色の蔵。
色合いからすると観音下石(日華石)でしょうか。

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やや行き過ぎて、旧市街に戻ってくると、旧大聖寺川に趣きのある橋が架かっていました。
福田橋という名前で、親柱には昭和11年と書かれています。鋼ボーストリングトラス橋という形で、大聖寺にはもう一つ同じ形の二天橋(昭和6年)があるそうです。私は未確認です。

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真横から見たところ。
美しくて、渡ったり、くぐったり、ぐるぐる回って眺めてしまいました。

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こちらは水口製材所さん。
小さな事務所があって、母屋から渡り廊下でつながっているのが面白いなと思いました。

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西に進むと大聖寺流し舟八間道船乗場。
左に電車が見えますでしょうか。待合室に使われています。
今回、舟には乗っていません。

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また旧大聖寺川を渡った先に、深田久弥山の文化館として使われている、旧山長織物会社の事務所がありました。
新緑の銀杏の大木との取り合わせが絶妙です。樹齢650年とか。

山長織物会社事務所は明治43年に建てられ、昭和50年代半ばに工場が移転した後も、平成10年までは住居として使われていました。その後、加賀市が取得して現在に至っています。

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敷地の端には、生糸保管庫として使われていた石蔵があります。
ここが展示室です。明るい石は観音下石(日華石)? でもちょっと時代が合わないかも。

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蔵の内扉には、打出の小槌の鍵穴隠しが付いていて、チャリンと小判の蓋を動かして鍵を差し込むという遊び心ある仕掛けになっています。

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深田久弥は山長織物会社とは関係なくて、もう少し南に行ったところに深田紙店という実家が残っています。
日本百名山の著者として知られています。
白山を眺めながら育ったのですね。

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大聖寺には立派な商家がたくさんあり、その一例として大野保平商店。
今も現役のようです。

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ちょっと面白い蔵の換気口金物。
泣いているみたいです。

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大聖寺中新道の西野縫製工場も古い工場のようです。

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そして大聖寺に行くなら訪ねて見たかったのが、彫金工房「月」・カフェサロン「銀」となっているこの建物。
昭和10年に建てられた牧野歯科医院をリノベーションしたものだそうです。
インスタグラムなどで見かけていて、ぜひ行ってみたいなと。
帰る日にお茶しに寄りました。

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廊下には長い栗材が使われていて、ほとんど狂いがないそうです。

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シャンデリアの根元の飾りも透かしの入ったモダンなもの。

今は彫金工房とカフェになっていますが、歯科医院時代の道具なども壁にオブジェのように飾っていて、うまく継承されているという印象を受けました。

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最後に帰る間際、たまたま通りがかった旧那谷医院。
小さくてとてもかわいらしい診療所です。
今はなんとタビト學舎という塾になっているそうです。
この時は写真の設定を失敗したので、改めて撮りに行きたいと思います。


大聖寺はゴールデンウィークというのが嘘のように静かでした。
街並みも美しく、もっと評価されていい街のように思いました。


<関連記事>
 「加賀石の里めぐり(1)鵜川石切場跡」
 「加賀石の里めぐり(2)ハニベ巌窟院」
 「加賀石の里めぐり(3)遊泉寺銅山跡」

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2017年7月 3日 (月)

鳴門の石材

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鳴門の記事の(たぶん)最後に鳴門で見かけた石を紹介します。
鳴門を歩いていると、緑がかった石をよく見かけました。
上の写真は撫養町斎田にあるお寺の裏の石垣です。

「和泉砂岩ではないか」と教えていただいて調べてみると、和泉砂岩系の撫養石(むやいし)ということが分かりました。


(日本シームレス地質図より)

凡例が被さってて見にくいですが、
鳴門周辺の地質をみると、グリーンのところが和泉砂岩ということになると思います。
撫養石の産地は大毛島の真ん中辺りにある三ツ石だとのことです。

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撫養石の石垣がよく見られたのが、撫養街道から一本南側の通りです。

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撫養街道側が高くて、裏通りには勝手口から階段を下りる形になります。
昔は水路が流れていたのではないでしょうか?

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こちらも同じく。
石垣が表面がきれいに揃っています。
階段の色が違うのは耐久性重視で花崗岩を使っているのかもしれません。

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同じ並びに市杵島姫神社があって、ここの石垣も撫養石。

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一方、県立の鳴門高校の校門では阿波青石(緑泥片岩)が使われていました。
徳島=阿波青石ということで、地域の素材として使ったのだと思いますが、どのスケールで考えるかですね。現在撫養石は入手しにくいのかもしれませんが。


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他に、撫養川の東側(林崎のあたり)で、こういうカラフルな石垣がありました。
赤い石はチャートでしょうか。

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さらに塩田の町、鳴門町高島に行くとこんな美しい石垣がありました。
絵画作品みたいです。

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同じく高島の撫養石の石垣。
塀のカーブがきれいです。

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撫養町小桑島のあたりでしょうか。
石造のお地蔵さんの祠で、これも撫養石だと思います。

地元の石材が使われていると、町の色合いが出て良いですね。


<関連記事>
 「鳴門の近代建築など(1)」
 「鳴門の近代建築など(2)」
 「鳴門の渡船に乗る」
 
「大毛島から高島へ」
 「隠れた名所・小鳴門公園」

 「加賀石の里めぐり(1)鵜川石切場跡」
 「来待石の町」
 「竜山石を訪ねて(1)石切場めぐり」

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2017年6月30日 (金)

鳴門の近代建築など(2)

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近代建築などを中心に、鳴門の記事の続きです。
これも2016年9月11日の記事です。

まずは撫養川に架かる文明橋から。
この橋、昭和13年に架けられたもので、渦潮のデザインが良いです。
この頃から既に渦潮を推してたんですね。

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出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
   「鳴門海峡」USAーM263-23 昭和22年米軍撮影 を加工

位置を確認します。
前回は撫養川の西側を紹介しましたが、今回は撫養川の東側から撫養港まで近代建築などを中心に紹介します。
お遍路さんの通り道である、撫養街道に沿う地域です。

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橋の欄干はアーチの連続です。

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橋の東側はちょっと広がって渦巻く装飾がありました。

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文明橋から撫養川に沿って少し北上すると、美奈登橋があります。こちらは昭和10年。「湊橋」と書けばよいところ、少し気取った漢字を当ててます。

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橋の下には雁木の荷揚場がありました。
左側の岸壁もアールの付いた縁石を使っていて古そうです。
ちなみに対岸右手に見えている丘は、これから向かう方向にある妙見山です。
その向こう側に撫養港があって、港の目印になる山です。

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撫養川を渡って、林崎の集落に入りました。
養老湯の跡を確認するためです。
ここには事前確認して行きました。
2009年末に廃業されたとのことで、緑の侵食を受けつつありました。

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2階の窓には色ガラスが使われています。
洋風の雰囲気です。

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この時はレンタサイクルでの移動なので、寄り道していると、北浜集会所というのがありました。昭和20〜30年代といったところでしょうか。潮風に色あせて味が出ています。

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撫養街道に沿って進んでいくと、モダンな住宅がありました。
古いようなのですが、かなりきれいにしています。

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玄関周り、水平、垂直の線で構成されていて、とてもシュッとしています。

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妙見山が近づいて来ました。
左側から回り込みます。

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港のすぐそばまで来ました。
これは元料亭などでしょうか。

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撫養港の周辺には今も旅館がありますが、関西方面から船でやってくるお遍路さんで賑わった昔は、もっとたくさんの旅館があったのでしょう。朽ちかけています。

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緑に埋もれている建物は、水の旅館の旧館です。
2棟のうち1棟は戦前の建物だそうです。
右に新館が建っています。

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小屋裏の換気口はちょっと変わったデザイン。
中を見学できれば良いのですが。

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水の旅館の前で撮ったパノラマ写真です。
左に大毛島、遠くに淡路島が見えています。
ここが撫養の港です。

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昔は船が着いたのですね。
フェリー待合室が閉め出されてトマソン化しています。

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前に「渡船の記事」で紹介した岡崎渡船
の隣に元幼稚園らしき廃屋がありました。
下見板張りです。

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左側の建物。
下足箱があるので、幼稚園かなと思ったのですがどうでしょう。
気になります。

鳴門で気になった主な建物は以上です。
よほど生育環境が良いのか、植物の強さが印象づけられました。

<関連記事>
 「鳴門の近代建築など(1)」
 「隠れた名所・小鳴門公園」
 「鳴門の渡船に乗る」
 
「大毛島から高島へ」
 「鳴門の石材」

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2017年6月29日 (木)

鳴門の近代建築など(1)

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随分間が空きましたが、鳴門の記事の続きです。
訪問日は2016年の9月11日。
鳴門の近代建築などを紹介します。

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出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
    「鳴門海峡」USAーM263-23 昭和22年米軍撮影 を加工

鳴門を訪ねるにあたって、事前に空中写真で旧市街を確認しました。
写真を見ると東西に延びる市街地と南北に延びる市街地があります。
その交点が上の写真の場所です。
道路元標を置くならここしかないという場所ですが、道路元標は見あたりませんでした。

まず東西の道は撫養街道です。関西方面から船でお遍路さんに来るとまず上陸したのが撫養港で、そこから撫養街道をたどって札所を目指したそうです。
南北の道は渡船場につながっていて、その先は高島です。

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まず南北の道を北上しました。
すぐに現れたのがこのピンクの建物。
とても目立っています。
窓の桟や水平線も主張しています。

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玄関脇にはダイヤの窓も。

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途中で裏道に入って、造り酒屋の花乃春酒造さん。
登録有形文化財のプレートを掲げておられました。
創業文化11年(1814年)で、正面に見えている仕込み蔵と左手にある瓶詰め蔵は昭和18年のもの。
お酒の販売もされています。

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撫養小学校の裏門。
元は正門だったのではないかという重量感があります。

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小学校の向かいにある斎田集会所はそこそこ古いのではないでしょうか。
サイディングに覆われていますが、後ろに回ると下見板張りです。

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撫養街道まで戻ってきました。
ダルマヤ薬局の磨りガラス文字。

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医院の建物に隣接してピンクに塗られた下見板張りの建物がありました。
元は医院関係で使われていたのではという気がします。

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またこちらも裏通りにある、住宅にしては立派な建物。

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玄関上の破風部分に亀甲模様が入っていたり、漆喰細工のようなものがあったり、凝っています。

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再び撫養街道に戻って、西に向かいます。
初めて見るとインパクトのあるおたふくさんの鏝絵看板。

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洋風付き町家。
町家で部分的に洋風なのが面白いです。

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これはたぶん銭湯跡でしょう。
屋根が落ちていて残念です。

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西に歩いて行き、三拍子酒造の煙突に誘われていくと、レトロな浜田煙草店がありました。大正9年の建物だそうです。

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玄関脇のこの小窓は何でしょう。
たばこの販売窓口?
このあたりで引き返しました。

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鳴門市街中心部に戻ってレンタサイクルを借りた後、渡船をめぐって、小鳴門海峡の北の入口にある北泊まで走りました。その途中にあった、瀬戸小学校の門柱。左側の門柱には「瀬戸幼稚園」と書かれています。

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堂浦の集落にあるよろず屋。
漁村にしっくりきます。

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玄関上の磨りガラスと桟が凝っていました。

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モダンデザインの塀。
建物がかなり傷んでそうで気がかりです。

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再び市街地に戻ってきて、古い排水施設。

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今では鳴門で唯一の銭湯となってしまった東浜温泉。
1965年の開業だそうです。
私も入りました。たぶん開業時の雰囲気が今も残っています。

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最後にもう一つ。
鳴門市役所の建物がかっこいいなと思ったら、1963年に完成した増田友也設計の建物だそうです。
docomomo Japan選定。
鳴門は増田友也の建築がたくさん残っているそうですが、この時の旅行ではそこまで回る余力はありませんでした。
ご興味のある方はこちらもどうぞ。

「鳴門の近代建築など(2)」に続きます。

<関連記事>
 「隠れた名所・小鳴門公園」
 「鳴門の渡船に乗る」
 
「大毛島から高島へ」
 「鳴門の近代建築など(2)」
 「鳴門の石材」


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2017年6月25日 (日)

加賀石の里めぐり(3)遊泉寺銅山跡

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※クリックすると拡大します(以下同様)

鵜川・遊泉寺地区で3ヶ所目、遊泉寺銅山跡を見に行きました。
ここには江戸時代から銅山もあったんです。
鵜川石切場跡を案内してくださった鵜遊立活性化委員会の方など地元の皆さんがこつこつと遊歩道を整備して、2006年から銅山の遺構を見て回れるようになりました。


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現状はというとこんな感じの森。
まさかここに銅山町があったなんてイメージできません。

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案内板によるとこんなに大きな町があったそうなんです。
大正5年頃には従業員1600人、人口5000人に達していたとか。

江戸時代の安永元年(1772年)に開坑し、盛衰はあったものの、加賀藩の有力な財源だったようです。

明治になると採掘権は、土佐藩の竹内綱のち長男の竹内明太郎氏に渡りました。
竹内明太郎氏は鉱山の近代化につとめ、明治40年には鉱山から小松までの軽便鉄道を敷設、神子清水発電所を建設して機械化を進めました。

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この方が竹内明太郎氏です。
氏はまた機械工業の重要性を認識し、諸外国を視察して、遊泉寺銅山の私設鉄工所として小松鉄工所を設置しました。

鉱脈の不足や第一次世界大戦後の不況を受けて、遊泉寺銅山は大正9年に閉山に追い込まれますが、小松鉄工所は銅山の施設・物資と人員を引き継いで、大正10年に小松製作所として分離独立しました。これが今のコマツにつながっています。
ー以上、遊泉寺銅山跡記念碑より。

あのコマツはここから出発したんですね。
今回初めて知りました。


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銅山跡の入口には立派なトイレが整備されています。
また駐車場もあります。
駐車場はもっと奥にもあります。

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このあたりは公園になっていて、遊泉寺銅山のカラミ石も展示されていました。
ここのは四角柱になっているのが特徴だそうです。
他の鉱山では大型の煉瓦の形だったり、尾小屋鉱山の場合は六角柱だと聞きました。

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最初に現れる遺構は真吹炉です。
銅鉱質の分析炉と説明されています。

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周辺にはシャガが群生していて、ちょうど花の季節だったため、写真を撮りに来られている方もいました。

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銅山町の跡は、石垣で階段状になっています。


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次に現れるのは、この銅山跡のシンボルともいえる、巨大煙突と煙道窓です。
煙突は高さ20mあるそうです。

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あちこちに立入禁止看板が立っています。
鉱山跡なのであちこち穴が開いていたりして、危険があるようです。

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例えば、これは分かりにくいですが、窪地になっています。

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遊歩道の足元には煉瓦やカラミ煉瓦が落ちていたりします。


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これは何か分かりにくいですが、鍛冶屋の炉跡です。

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竪坑跡。深さは150mあったそうですが、危険なため、今はコンクリートで覆われています。

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ここから遊歩道は上りになります。
急な登り坂です。

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登り切れば、平坦な尾根道になります。
精錬所から出るノロ(不純物)を引き揚げた巻き上げ装置の台座が残っています。

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尾根筋からは小松市街と海が見えます。

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今度は谷筋を下っていくと、水源地跡があります。
ちょっと分かりにくいでしょうか。
谷が堰堤で堰き止められています。


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解説のないところにも、斜面に穴が開いていたりしましたので、まだ遺構は埋もれているかもしれませんね。

遊歩道は一周1.5kmで、所要時間1時間程度です。

なお、小松市ではこの6月に5000万円の予算を盛り込み、今後5年かけて遊歩道を整備するそうです。
北国新聞社「遊泉寺鉱山跡を整備 小松市、煙突や炉巡る遊歩道」
今でも見て回るのに不都合はないので、こういう森の中の遺跡の雰囲気が好きな方でしたら、今のうちに行っておいた方が良いかも。

<関連記事>
 「加賀石の里めぐり(1)鵜川石切場跡」
 「加賀石の里めぐり(2)ハニベ巌窟院」

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2017年6月24日 (土)

加賀石の里めぐり(2)ハニベ巌窟院

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鵜川石切場跡の案内人の方を紹介していただいたお礼もあり、この地域一番の観光地であるハニベ巌窟院も見学しました。
入口の正面に立つ仏頭のインパクトが大きいです。私は詳しくないのですが、北陸随一の珍スポット、B級スポットとして有名なんだそうです。

ハニベ巌窟院は、昭和26年、鵜川石の石切場跡をアトリエとして、初代院主・都賀田勇馬氏によって開洞され、二代にわたってひたすら作り続けられた仏像などで満たされた空間です。ハニベとは、埴輪を焼く人、彫塑家のことだとか。

入口にある仏頭は二代目によって制作途中の大仏で、完成すると高さ33mになる予定だそうです。

巌窟院自体はここではなくて、右手にあります。

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洞窟に至るまでも彫像などが並んでいます。
これは金沢市金石浜に立つ銭屋五兵衛の銅像の原型で、昭和8年、初代によるものだそうです。

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洞窟は丘の中腹にあるので、階段をあがっていきます。
途中、斜面を利用したかっこいい建物も。

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メインの洞窟の他にも周囲に小さな洞窟があって(こちらも採石場跡)、塑像などが祀られています。

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ここがメインの洞窟の入口です。
仁王様が門番です。

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入ると石切場跡というのがよく分かる通路で、壁や天井など、そのまま使われています。
洞窟の全長は約150mです。

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床に耐火煉瓦が敷き詰められている場所もありました。
窯に使ったものの再利用でしょうね、たぶん。

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洞窟はいくつかのパートに分かれていますが、たぶん一番人気のあるのが地獄を再現したパートでしょう。
この地獄門から始まります。

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鬼たちの食事風景。
食べているのは人間の目玉とか耳とか血とか。
洞窟の中という状況がぴったりですね。

洞窟の様子をレポートしておられる方はたくさんおられますので、そちらをご覧下さい。
悪いことをすると地獄でこうなりますよという教訓で、面白いといえば面白いです。


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こういう通路があちこちにつながっていて、所々、柱として石が残されています。


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最後は切り出された階段を登って地上へ。

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丘の上に上がると広場になっていて、涅槃仏がおられます。
後から来た若い女性が「これが見たかったんです」と駆け寄っていたので、有名なものみたい。

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私はこちらの方が気になりました。
天神牛の台座だけ残っているもの。
上野公園に代表作の天神牛があったとのことなので、そのレプリカなのか、もしかすると金属供出されて台座だけが戻ってきたのか。

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台座の下段はひときわ大きな煉瓦で、半分隠れているので刻印が読めませんが、HASEGAWAと書いてるのかなと推測します。

他にもたくさん紹介記事があるので、簡単にはしょりましたが、多くの彫像・塑像があって、見応えがある施設です。
石切場跡の見学としても良いと思います。

<関連記事>
 「加賀石の里めぐり(1)鵜川石切場跡」

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2017年6月22日 (木)

加賀石の里めぐり(1)鵜川石切場跡

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ゴールデンウィークの3日間、石川県の小松市・加賀市を、石をメインテーマ、北前船の里をサブテーマに巡ってきました。
どれだけ紹介できるか分かりませんが、ランダムに紹介します。

今回訪問した先は、
小松市の東酒造(神泉)、遊泉寺町・鵜川町、観音下、尾小屋、那谷寺、滝ヶ原、
加賀市の大聖寺、吉崎、塩屋町、瀬越、橋立、片山津温泉、動橋などです。

今回の旅行では一日だけ珍しくレンタカーを使いました。
回る場所が散在していたためです。

石切場跡や鉱山跡が集まる鵜川・遊泉寺・立明寺地区(鵜遊立地区)をめざして、その中でも観光地になっているハニベ巌窟院に車を停めました。
そこで目にしたのが、上の看板。
「珠玉と歩む物語」小松 〜時の流れの中で磨き上げた石の文化〜というストーリーで、平成28年度に日本遺産の認定を受けています。

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※クリックすると拡大します

その右側には、鵜川・遊泉寺・立明寺地区の真新しい案内板があります。
この鵜川石切場跡を見てみたいなと思って、ハニベ巌窟院の売店のお姉さんに「ここを見学できませんか?」と聞いてみました。すると案内人の方に連絡を取って下さって、すぐに来ていただけました。急にお呼び立てすることになってしまって申し訳なかったのですが、せっかく来てくれたのだからと歓迎して下さいました。
鵜遊立地区の活性化委員をされている方だそうです。

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ヘルメットと懐中電灯を用意したら、軽トラに乗せていただいて、数百m東にある近くの石切場跡へ。
この擁壁の向こう、森の中にあります。ぱっと見には分かりません。

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上に上がるとこのこの坑口。
冒険活劇映画のシーンのような。
案内者の方は子供の頃によく遊びに来たそうです。
松明をたいて洞窟探検をしたり、この崖にロープをかけて登ったり、地下水でスイカを冷やして食べたり。
夏は涼しく、冬は暖かいようですし、私がここの子でも絶対入り浸ります。


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入口付近の空間。人工の洞窟なので、広々としています。

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※クリックすると拡大します

何よりいいのが、採石跡の四角い穴に澄んだブルーの水が湛えられていること。
ほんときれいです。

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こちらは土砂が流れ込んでいます。
ぐるっと一回りしたのですが、未整備なので、足を滑らせたら水没です。
どきどきしながら、進みました。

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※クリックすると拡大します

水中に没していく石の階段。
どこから水中なのかよく分からないぐらいで、底まではっきり見えています。
ここが一番気に入りました。

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あと洞窟にはコウモリがいます。
固まってぶら下がっているので、シャンデリアみたいです。
昼間なので全く動きません。

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ここの湧き水は飲めるぐらいきれいな水らしくて、ここから水道が引かれています。
また、水を引いてワサビの栽培などもしていたそうです。

鵜川で採れる石材は鵜川石という角礫凝灰岩で、飛鳥時代の古墳の石室から小松城の石垣、近代建築に至るまで、長い期間にわたって利用されてきました。
この石切場が現役だった時代には、集落の中まで長いスロープが作ってあって、切り出した石を引っ張り降ろしたそうです。

昔の様子や遊んだ思い出なども語っていただいて、とても興味深い見学になりました。
大変お世話になり、ありがとうございました。
一般の観光利用のためには転落防止対策をしたり、照明をつけたりしないといけませんが、やりすぎるとつまらなくなるので、どの程度にするか考えておられるところだそうです。

ぜひ宣伝してくださいとのことでしたので宣伝します。
何といっても地下水のプールがきれいです。

直接ハニベ巌窟院に来てもらっても、空いていたら案内するけれど、できれば小松市の観光交流課に「鵜川の石切場跡が見たい」と申し込んでください、とのことでした。

なお、鵜川の集落の下にも坑道が走っていて、何度か小学校のグラウンドが陥没したことがあるそうです。
ハニベ巌窟院も石切場跡ですし、向かいの山には遊泉寺の石切場跡といって、戦時中は中島飛行機が地下工場として使っていた総延長10kmに及ぶ坑道があるそうで、そちらも見てみたかったのですが、天井が崩落している場所などもあり、危険なので観光客には勧められないとのことでした。(ネットではいくつかレポートなども上がっています)

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※クリックすると拡大します

鵜川の集落内にも石の蔵がありました。
地元だから鵜川石なんでしょうか。よく分かりません。

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