2009年7月 1日 (水)

大阪市阿倍野区の2つの小公園

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阿倍野区で2つの小公園を訪ねました。
いずれも天王寺土地区画整理事業の地区内にある公園です。地区では16の公園が計画され、実現しているものもいくつもあります。

地区の西の端は庚申街道です。
天王寺駅で分断されているので分かりにくいのですが、四天王寺の南門から平野区の長吉川辺町まで続く街道です。四天王寺門前の庚申堂にちなむ街道名です。天王寺駅・阿部野橋駅は出口によって多彩な顔を見せますね。近鉄・阿部野橋駅の東口が、ちょうど庚申街道の線上にあり、私もここから歩き始めました。

最初に気になったのが、JRの宿泊所「安倍乃荘」。
石張りの門柱、石垣、路側の切石が古そうでいい感じです。

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旧街道らしく蔵のあるお屋敷などもあります。
ターミナルのすぐ近くなのに。

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街道から東に外れるとすぐに常盤公園に着きます。
昭和5年に大典記念で設置された区画整理公園です。
公園のために土地を提供するには理由がいったようですね。
南に隣接して常盤小学校分校があります。

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公園の北側の道はカーブしています。
ここにあったため池のカーブのようです。
公園の一部はため池の跡です。

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とくに気になるものとしては、国旗掲揚柱がありました。
天王寺町壽町会によるもの。皇紀二千六百年記念なので、昭和15年頃設置されたようです。


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公園の位置関係はこうなっています。
左側を南北にうねりながら通る道が庚申街道です。

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そのまま東へ、あびこ筋を渡り、三明町に入ります。
ここは古い長屋が建ち並んでいました。

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昭和初期と思われる、うろこ状の銅板に覆われた長屋もあります。

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このあたりには前庭をおいて、開放的な門塀を構える長屋が多いようです。見どころと思ったのは、門塀です。
例えば、2色のスクラッチ風タイルを使った洋風の門塀があります。

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三明町北公園という昭和10年にできた公園を見るのが目的だったのですが、いまひとつ見どころを見つけることができませんでした。
向こうに見える高架は近鉄南大阪線です。


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こういう位置関係です。

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むしろ周囲の長屋が魅力的でした。
この長屋は公園の東隣にある長屋で、とても雰囲気があります。

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長屋をバックに植え込みが映えて、人手がかかっている美しさです。
ここは煉瓦の門柱が立っています。

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またすぐ近くにはこんな長屋も。
同じく開放的な門塀があります。
一軒一軒、使うブロック塀、張る石などが違うのが面白いところです。

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同じ並びの長屋。
門柱や幾何学模様の門扉もいい感じです。

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帰りはJR阪和線の美章園駅に向かいました。
高架下建築もまた古そう。

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美章園駅は昭和6年の開業当初から高架だったらしく、ホームを支える鉄骨が独特の景観を見せています。

周辺にはまだ古い小公園や住宅地があり、また訪ねてくる必要がありそうです。

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2009年6月30日 (火)

大阪の区画整理公園第一号・都島公園

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大阪の区画整理公園の第一号という都島公園(当初は都島小公園)を見てきました。
最初は桜ノ宮駅方面から(桜之宮公園探訪のついでで)アプローチしました。
このあたりは、廃線跡あり、廃河川跡ありで、いろいろ気になるものはありますが、それは省略して、一路公園へ。
公園の隣に自動車教習所があって、公園も教習コースに組み込まれているみたいです。

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都島公園の北側入口から。
子供たち、犬のお散歩などに結構利用されています。

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公園は大きく3つの部分に分かれていて、それぞれ道路で隔てられています。
もとは小さかった公園(884坪)が戦後に拡張されました。
都島土地区画整理事業の記念碑が建つ北側部分が一番古いと思われます。

都島土地区画整理事業は、大正14年に認可され、昭和2年に着工、昭和10年に竣工しました。善源寺町・澤上江町・中野町・東野田町の総面積234892.17坪(約77.7ha)が施行区域です。
(以上、記念碑文より)

ほとんどが低湿な水田で排水工事には苦労したようです。

都島土地区画整理事業は、阪南地区に次いで、大阪市で2番目に認可された土地区画整理事業です。
阪南地区には当初、公園の計画がなかったので、大阪では都島小公園が区画整理公園第一号、というわけです。もっとも都島小公園にしても当初から公園用地が確保されていたわけではなく、昭和2年に昭和大典記念と組合の区画整理記念で設定されたそうです。(丸山宏著『近代日本公園史の研究』)
これ以後、区画整理事業に合わせて、計画的に公園が整備されていくことになります。


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公園の全体はこのようになっています。

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さっそく探訪していきましょう。
まず気になったのが、公園の真ん中にある丸い防火水槽。
昔の水路上にあるようです。

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最近、改めて訪れたときに撮った藤棚。

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南北の公園の間の道も、緑に覆われて実質公園化しています。

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南側の公園部分。これも最近のもの。
光の状態によって随分印象が違います。

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西側拡張部分はうっそうとして、ここだけ人気(ひとけ)が少ないのはなぜでしょうか。

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灯籠のパーツのようなものが転がっていて、ますます気になります。

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阪南の土地区画整理地区は、今も長屋が残ることで有名です。
それなら同時期の都島も、と期待するのですが、残念ながら戦災地図などを見ると全地区が真っ赤。恐らく長屋が建ち並んでいたのでしょう。全て焼失してしまったようです。

公園の北西に、戦後間もないと思われる医院がありました(推測ですが)。
せり出すような窓が付いています。
窓枠はスチールサッシ。

しかし。

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個々に見ていくと古そうな家もあります。
この家などは板壁にセメント瓦です。

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そしてインパクトのあったのが、この建物。
大きな空き地の片隅にありました。
家ではないでしょう。事業所でしょうか。

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凄みがありますでしょう?
入口の曲面、町家風の屋根など、戦前からの建物ではないでしょうか。

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なにより腰までスクラッチタイルです。
横縞のスクラッチタイルを縦に貼っていて、少し特殊ですが。

耐火建築なので焼け残ったのでしょうか。(あくまで推測)
戦災地図で赤く塗りつぶされていると、戦前のものは何もないと思ってしまいますが、実際にはひっそり生き残っている建物もあるのでしょうね。
それ目的に探し歩くのは時間がかかりすぎますが、こうしてふいに出会うことができるとうれしく思います。

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2009年6月21日 (日)

毛馬桜之宮公園(2)木と煉瓦(大阪市)

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桜宮橋(銀橋)を越えて、再び大川敷の公園に降りました。
このあたりは大正12年の当初から公園(淀川公園)だったところです。

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傍らに「青湾」という石碑が立っています。
このあたりの淀川の水がきれいだったことから、豊臣秀吉が湾を掘って茶の水を汲ませたことによるそうです。一時よりきれいにはなりましたが、飲めと言われても無理。
これは文久2年(1862年)に立てられた碑です。

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やがて板壁の倉庫が見えてきます。
さて何の倉庫でしょう。

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土台には煉瓦積みが使われているので古いのでしょう。

090509sakurapark25sちなみに刻印は大阪窯業。

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この倉庫は、ボートの艇庫として使われています。
このあたりの大川は、大学ボート部の練習場になっていますので。
元は何のための倉庫だったんでしょうね。

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土手を上がると、このあたりの地名の語源となっている桜宮神社があります。
もともとこの神社は東成郡野田村にあったものが、1620年の洪水で流され、この近くに漂着したのでそこに社殿を建て、宝暦6年(1756年)に高い現在地に移されたそうです。野田村の人はそれで良かったのでしょうか。

静かな参道が確保されていますが、周囲はラブホテル街に囲まれるという特異な場になっています。

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再び公園を歩いていくと、池にぶつかります。
これはただの池ではありません。

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<大阪中部実測図(大正10年測図)>

大正10年(1921年)の地図を見ると、ここは貯木場。
大阪営林局の貯木場があったのだそうです。
(追記)製紙工場の場所を示すため地図を大きくしました(2009.6.23)


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今の地図と比べてみても基本的にはほとんど変わりません。

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このあたりの遊歩道がまた素敵なところです。

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メタセコイヤでしょうか。
マングローブのようなしっかりした根を張っています。
ここってほんとに大阪?というような光景です。

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巨大なユーカリの木もあります。

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源八橋をくぐると向こうに環状線。
環状線の内側とは思えません。

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環状線までくれば今回の探訪はほとんど終わり。
すぐ右手に桜ノ宮駅があります。

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でも最後にひとつお楽しみが残っていました。
環状線の高架の手前に、煉瓦の橋脚が2つあるのが分かりますでしょうか?
恐らく、奥が明治28年(1895年)に大阪鉄道の玉造駅−梅田駅間が開通したときの淀川橋脚、手前が大正3年(1914年)に城東線の玉造駅−天満駅間が複線化されたときの橋脚と思われます。そして現在の橋脚は、昭和8年(1933年)に城東線の桜ノ宮駅−大阪駅間が高架化されたときのものでしょう。

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  <フランス積み>   <イギリス積み>

面白いのが、左の橋脚がフランス積み、右の橋脚がイギリス積みということです。
鉄道のフランス積みはだいたい明治30年代には消えるらしいので、左の方が明治、右の方が大正の橋脚とみていいでしょう。
→小野田滋氏・清水慶一氏・久保田稔男氏
 「鉄道構造物におけるフランス積み煉瓦の地域性とその特徴」

フランス積みとイギリス積みが見比べられるところって珍しいのでは?

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大正3年の橋脚の方は、上に登ってみると刻印が確認できました。
べたべたとほとんどの煉瓦に刻印があります。
「壹」はすぐ分かりますが、その右は何でしょう。

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<四弁花の中に何か><岸和田煉瓦?><○の2ヶ所欠け?>

岸和田煉瓦以外は分かりにくいです。
煉瓦は、刻印が分かってもいつのものなん?ということが多いので、こうやって年代が特定できるのはいいですね。

木と煉瓦の観察できる毛馬桜之宮公園でした。
景色も良くてお勧めできます。
この日の探訪は桜ノ宮駅で終了しましたが、残りの区間についても改めて歩いてみたいと思います。


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毛馬桜之宮公園(1)庭園と銀橋(大阪市)

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毛馬桜之宮公園は、淀川の毛馬閘門から天満橋まで大川両岸に細長く伸びる公園です(都島橋から下流は桜之宮公園とも)。
延長4kmですから両岸で8kmもあります(連続はしてませんが)。
そのうち、下流の左岸、天満橋から桜之宮駅まで歩きました。

公園らしいのは川崎地蔵尊のあたりからです。
かつては川崎の渡しがあり、大阪城の京橋口につながっていたので、もっと人通りが多かったのでしょう。

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このあたりは公園の幅が狭く、気持ちの良い緑道です。
時々ランナーが駆け抜けていきます。

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大川縁まで出てみるとこんな感じ。
遠くにOAPのビルと桜宮橋(銀橋)が見えます

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しばらく歩くと細長い池が現れ、向こうに白い建物が見えます。
大阪市公館です。昭和34年に迎賓館として建てられました。
今は結婚式場としても使われているようです。
その庭と公園は一体化しています。

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池の周りに森があって、なかなかいい雰囲気になっています。
池には釣り人が大勢。

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池の中にちょっと気になるものがありました。
コンクリート製の入母屋民家。
側面には三日月の窓も開いています。
何かの設備だと思うのですが、分かりません。
吐水口などでしょうか。
古そうです。

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赤い橋がかかっていて、まだ池は続きます。

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<大阪市パノラマ地図(大正13年発行)>
※白い文字は私が追加したもの

ここで古い地図を確認してみましょう。
地図では左手に淀川公園が確認できますが、今よりもずっと狭く、この池があるところは川縁まで藤田邸となっています。大阪を代表する実業家の一人、藤田伝三郎男爵邸です(当時既に故人)。敷地は今では大阪市公館、藤田美術館、太閤園などになっていて、一部は毛馬桜之宮公園に取り込まれたように見えます。
別の地図では、藤田邸の庭には逆U字型の池が描かれているので、公園の池はもしかするとその名残なのかもしれません。

ちなみに左手にある淀川橋は、明治35年から桜宮橋(銀橋)が架かる昭和5年頃まで、泉布観の上流に架かっていた橋です。
淀川公園、淀川橋の名前で分かるように、当時の大川はまだ淀川で、今の淀川は新淀川と呼ばれていたようです。


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現状はこうなっています。淀川公園と藤田邸跡の間の水面も埋め立てられていますね。

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さて、藤田邸の庭園の一部は、再整備されて藤田邸跡公園として公開されています。久しぶりに桜之宮公園に来ましたので、こんな公園になっているとは知りませんでした。2004年にオープンしたそうです。

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幽谷というとオーバーですが、まちなかとは思えない谷があります。

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藤田邸跡を通り過ぎると、河川敷に張り出す3階建ての集合住宅があります。
昭和7年のH家貸家です。

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高低差があるので道路側から見ると2階建て+地階です。
赤、黒、白という和風モダンなカラーリングは、のちのものでしょうか。

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斜めに入る窓の格子が古い住宅らしいデザインです。

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桜宮橋(銀橋)のたもとまで来ました。

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親柱はささやかですが、煉瓦風タイルと石で紅白となる凝ったもの。
昭和5年9月竣工と刻まれています。
奥に見えるのが、左が武田五一の桜宮橋(銀橋)で昭和5年、右が安藤忠雄の新桜宮橋(新銀橋)で平成18年。建築家の競演となっています。2つあると思わせないようなデザインですが。

→関連HP
 大阪国道事務所HP「銀橋」

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銀橋の周辺は当初から淀川公園でした。大正12年(1923年)に開園した古い公園です。古い絵葉書で見ると、洋風の庭園であることが分かります。右に銀橋、左奥が造幣局の建物ではないでしょうか。

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橋のたもとの構造物は、地味に今もあります。
絵葉書と同じ構図で撮ろうとしたら、木々で覆われて橋が全く見えませんでした。

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逆に対岸のロマネスク風の昇降塔は存在感を発揮しています。
左岸にあった片割れはなくなってしまいました。
なぜここまでのものを作ったんでしょうね。
銀一色の金属構造物らしい橋とは対照的です。

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階段はらせん階段になっています。

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対岸から見たところ。
橋上から見ると多少控えめです。

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銀橋には「昭和5年 汽車製造株式会社製作」のプレートが打たれていました。
汽車製造株式会社は機関車メーカーで、昭和47年に川崎重工業に吸収されたそうです。
そんなところが橋を造っているというのも面白いですね。

後半に続きます。

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2009年6月 1日 (月)

浪速区の2つの公園

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津守煉瓦跡を見に行ったついでに、浪速区の戦前の公園2つを訪ねました。
まず、浪速西3丁目にある浪速西公園(浪速栄公園)です。
昭和16年に開園しました。

小さな公園で、公園は浪速神社の境内と一体です。

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北側から見ると全てが神社みたい。

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神社の本殿。
浪速神社は、中央区の坐摩神社の境外末社です。
ここは昔の渡辺村にあたり、渡辺村の人たちが、元々の渡辺の地(大阪城の近く)から移ってきたことと関わりがあるようです。天満橋には坐摩神社の旧社地があります。
でも現在地に神社ができたのは、そう古くはないようです。

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<大正10年測図 大阪・中部実測図>

緑で囲んだところが公園です。
大正時代の地図を見ると、ここには学校があったことが分かります。
昔の渡辺村の南側にあたります。

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<大正13年発行 大阪市パノラマ地図>

パノラマ地図では、前に十三間堀川が流れている様子がよく分かります。
学校が移転した後に公園になったのでしょう。


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現状です。

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もう少し公園の中を見てみます。
土俵があるのが戦前の公園らしい気がします。

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その隣には忠魂碑があります。
日清・日露戦争での戦病死者の名前が刻まれているとのこと。
これもどこかから移されたのでしょう。

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境内末社に並んで、空襲犠牲者の供養塔(昭和52年)、無縁仏供養の五輪塔(昭和60年)など。

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その中に橋の親柱がありました。
行書体で読みにくいのですが、芦原橋?
でもこんなに小さい?
大正風デザインに見えます。

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公園北側の東西道路には、「渡辺道」の標柱が立っていました。
昔は渡辺村と大坂の町を結ぶ唯一の道だったそうです。

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また近くには帆掛け船をかたどったモニュメントがあります。
渡辺村は皮革の集積地であり、西日本一帯の皮革の海の玄関口であったことを解説しています。


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次は、久保吉の芦原公園です。
昭和18年に開園しました。
この写真は南側から見たところ。

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あまり人のいない静かな公園です。

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シンプルなデザインの水飲み場。
こういうデザインは好きです。
人造石研ぎ出しのようです。

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<大正13年発行 大阪市パノラマ地図>

この場所は、元々は大日本紡績工場でした(赤で囲んだ範囲)。
その一部を買収して芦原公園になっています。
福島区の下福島公園のケースと似ています。
ちなみに南隣は、新田長次郎の新田帯革製造所(ベルト製造)。


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現在の様子です。

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公園の東の入口。

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公園の中には野球場があるのですが、その周りがジョギングコースになっています。実際、ジョギングをしている人もいました。

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なかなかいい雰囲気のジョギングコースです。

しかし、公園内に記念碑など興味深いものは発見できず。
昭和18年では遅すぎるようです。

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公園の北側には、久保吉水防用具庫がありました。
この辺りも対岸の大正区同様、水害の備えが重要な地域ということでしょう。
水に流されないようにか、外側に擁壁を立てた独特な形です。
味のある建物だと思います。

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2009年5月31日 (日)

六光星を追って津守へ

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このところ気になっている煉瓦の刻印があります。六光星の刻印です。
豊中岡町の住宅地側溝、東淀川の鉄道橋脚、野田の側溝、中之島の阪大医学部跡、住吉の蔵の前など、比較的よく見かけて、私が確認したのは大阪以北だけです。
どこの煉瓦会社の刻印なのでしょうか。
(私が知らないだけかと思いますが。)
ちょっと調べてみました。

形からたどるのは難しいので、煉瓦会社からたどることにしました。
神戸大学の新聞記事文庫に、「煉瓦界独占計画 地方煉瓦業の勁敵」(大阪朝日新聞、大正2年12月9日)という記事が載っています。
それによるとその頃(大正元年頃?)の全国の煉瓦生産量は4億2000万個で、大阪府の煉瓦会社6社の生産量は1億7200万個だったそうです。煉瓦は価格の割に重いので、主には各地域で使われ、まして煉瓦生産の中心である大阪によそから運ばれる煉瓦は少なかったのではと思います。

そこで、大阪の6煉瓦会社とその上記記事での生産量を刻印とともに紹介します。

Osakayogyou1<大阪窯業会社(堺市・岸和田市・貝塚市など)>
年産8000万個
明治21年設立

Kishiwadarenga1<岸和田煉瓦会社(岸和田市)>
年産3500万個
明治5年製造開始

Tanjirenga1<丹治煉瓦(堺市)>
年産1800万個
明治3年製造開始

Nihonrenga1<日本煉瓦会社(堺市)>
年産1800万個
※刻印は推定

Sakairenga1<堺煉瓦会社(堺市)>
年産1200万個
明治26年創業

Tsumorirenga<津守煉瓦(大阪市西成区)>
年産900万個
明治30年創業

津守煉瓦だけ、刻印が分かりません。(私は、ですが)
六光星は、津守煉瓦の刻印では?という仮説に至りました。
この生産量、工場が一番北にあることから、北大阪でしばしば六光星の刻印煉瓦が見られることと対応しているような。

もう少し、大阪の6大煉瓦会社以外の煉瓦会社についても調べてみました。
同じく神戸大学の新聞記事文庫に、「煉瓦減産五千万 五十銭の値上発表[関西煉瓦生産制限 其一]」(大阪朝日新聞、大正3年6月27日)という記事があり、その中で、大阪の6社と讃岐煉瓦(香川県観音寺市、明治30年設立で現存)、三津ヶ浜煉瓦(愛媛県松山市、大正2年設立)の名前が出てきます。

讃岐煉瓦は、大阪の阿倍野区で見たことがあります。

Sanukirenga1<讃岐煉瓦(香川県観音寺市)>

三津浜煉瓦の刻印は不明ですが、そんなに出回っていることはなさそう。

もちろん大正2年以前に消えていった煉瓦会社もあります。
貝塚煉瓦(明治40年に大阪窯業と合併→貝塚工場)、和泉煉瓦(明治40年に大阪窯業と合併→岸和田工場)などです。大正10年に解散し、大阪窯業に吸収された別の和泉煉瓦(株)(→堺東工場)というのもあったようです。他にも明治初頭に小煉瓦会社が2、3年に1つずつ生まれていたと「大阪窯業株式会社五十年史」には記されています。

ただ、最大手・大阪窯業の「五十年史」(昭和10年)で生産量の推移をみると、ピークは大正6年の1億3000万個です。大正以前は官公需中心で、生産量も少ないと思われます。

また、大阪窯業は大正9年にアメリカに技師を派遣して煉瓦舗道を研究、舗道用煉瓦を完成させました。大正10年に「重量物運搬道路なる、大阪市北区田蓑橋北詰、元知事官舎前、及び、兵庫県武庫郡西宮、武庫郡役所に、煉瓦舗道を試む。蓋し、我が国に於ける、舗道煉瓦の嚆矢」(「大阪窯業株式会社五十年史」、p159)という記述がありますから、舗道に敷かれている煉瓦は(再利用という可能性もあるものの)これ以後の煉瓦でしょう。

参考まで、貝塚煉瓦の刻印も紹介します。

Kaizukarenga1<貝塚煉瓦(貝塚市)>
明治27年創業、明治40年大阪窯業と合併

ここで、津守煉瓦製造所について私の知っていることをまとめると、
・明治30年5月創業
・所在地は、西成郡の津守村(現在の大阪市西成区北津守)
・明治43年末の従業員は90人、代表者は林尚五郎氏
・大正2年の新聞記事で年産900万個
・大正7年の新聞記事にも名前が登場
・津守の煉瓦工場は昭和10年頃までは地図に記載
 といったところです。
(余談ですが、西成区には勝間村に尾崎煉瓦製造所というのもあったようです。明治31年創業、従業員34人)

しかし刻印については分からず、津守煉瓦製造所の工場跡に見に行ってみることにしました。
丹治煉瓦の例などを見ると、失敗した?煉瓦を工場周辺で使ったりする場合があるので、周辺で六光星の刻印など手がかりが見つかれば、ということです。

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<大正10年測図>

大正10年頃の工場の様子です。

Tsumorirenga_t13
<大正13年発行パノラマ地図>

パノラマ地図で見る限り、そんなに立派な工場ではないように見えます。


より大きな地図で 煉瓦関連 を表示

現在はこのように、辰野(株)木津川倉庫となっています。
出かけてみました。

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最寄り駅は南海汐見橋線の木津川駅です。(実際には大正から歩きました)
明治33年(1900年)に高野鉄道の駅として開業したので、歴史は古い駅です。

駅前に、煉瓦工場の敷地があります。
駅周辺は多少家もありますが、空き地も多く、寂しい感じ。

木津川倉庫のフェンスに沿って煉瓦がないか見て歩きました。
倉庫の敷地内は金網フェンスなのでよく見えますが、煉瓦はなさそう。周辺も倉庫や工場で、煉瓦などは見られません。

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半周して白木神社。
明治41年に、神祠に白蛇が依憑していたので、「巳の神」として祭られたそうです。
御利益は水難ごとのご加護、船舶航行の守護神、のちに生活保護の神となったそうです。
大正4年8月に現在地へ。

ここは煉瓦工場の外だったようです。
しかし、ここにも煉瓦はありません。

線路を渡って東側に回ると、所々煉瓦は転がっていますが、刻印がありません。


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ほとんど一周して、駅の近くにある古い木造住宅。
その横の通路に煉瓦が埋め込まれていました。

そしてその刻印を確認すると・・・


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六光星!
狙い通りに六光星の刻印煉瓦が見つかりました。
そう思ってみると、失敗した煉瓦にも見えます。
しかし、結局、刻印煉瓦はこれ1つだけです。

仮説を否定はしないけど、確実にするにはちょっと弱いです。
もっとたくさんあれば良かったんですけど。
また資料に当たるなり、別の方法が必要なようです。

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再び、木津川駅へ。
後で、WIKIPEDIAの木津川駅の項を見ていて、気になる記述がありました。

 昔、この駅の北に煉瓦工場があり、そこで生産された煉瓦が、友が島の砲台などに使用された

出典がないので、情報の信頼度が分かりませんが。
次は友が島に行ってみるべきでしょうか?

六光星の刻印探索はまだ続きます。

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2009年5月29日 (金)

住吉大社で灯籠を楽しむ(大阪市住吉区)

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改めて住吉大社の西側正面です。

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参道には有名な太鼓橋があります。

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住吉大社の本殿は4つあります。
左が第三本宮、右が第四本宮、奥に第二本宮、第一本宮があります。奥の本殿は改修中でした。
現在の本殿は文化7年(1810年)のものだそうで、国宝です。
住吉大社は221年、神功皇后によってこの地に鎮座されました。
 →住吉大社HP(よくできています)

源氏物語にも登場するように、古くから信仰を集めてきた神社ですので、境内・境外に見どころはたくさんありますが、今回は灯籠を楽しんでみました。

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住吉大社には大小600余りの石灯籠が奉納されています。
その多くは江戸時代に海の神様として、全国の廻船業者が寄進したもの、そして様々な業種の同業組合が寄進したものです。広告塔の意味もあったのだとか。

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◇寄進者を楽しむ

 別に石灯籠鑑賞に詳しくはないですけど、楽しみ方のいくつかを。
 石灯籠には寄進者の名前、寄進年などが記されています。
 この灯籠は陸奥の灯籠。廻船業者では、松前、南部、津軽、仙台、越中、江戸、安芸、尾張内海、摂津伝法、紀州、土佐、伊予、日向延岡、肥後、薩摩といったところから、今では埋もれている壱岐勝本、塩飽牛島、讃岐粟島などまで全国です。海だけでなく、伏見の三十石船もあります。

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 こちらは大阪の灰屋株仲間。意外と(?)大きな灯籠です。
 業種別では、大阪の干鰯、魚料理、砂糖、絞油、薪、土砂、堺の茶船、阿波の藍、吉野の材木、北国積の木綿などなど。大きさともうかり具合は比例するのかなどと思ったり。

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◇大きさを楽しむ

 かなり大きな石灯籠も何組もあります。
 これは仙台の石灯籠ですが、隣の普通の大きさの灯籠と比べると大きさが分かります。

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◇細工を楽しむ

 これだけたくさんあるので、石工の細工も見どころです。
 これは堺の呉服古着商。灯籠の裏にまで彫刻されているのがすごいところ。
 商売柄、凝っているのでしょうか。

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 商売柄といえば、大阪の小間物問屋の灯籠は小ぶりながら細工が細かいです。さすが小間物。

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 紅花商の灯籠には花びら付きです。

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 砂糖商の灯籠ですが、まるで屋号の見本帳のようになっています。

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◇素材を楽しむ

 多くの石灯籠は花崗岩だと思いますが、中には「異色」も。
 この2基は白さが目立ってますでしょう?

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 足元を見ると、美濃赤坂山産と書かれています。
 ということは大理石!
 江戸時代の慶応2年(1867年)のもの。
 美濃赤坂の大理石というとカラフルなものを想像しましたが、
 脇水鐡五郎氏の「美濃赤坂大理石に就て」という論文p99では、9種類に分類されています。
 1.鼠(淡灰色緻密フズリナ石灰岩)
 2.霞(灰白色クリノイド石灰岩)
 3.鮫(濃灰色緻密フズリナ石灰岩)
 4.黒(漆黒色炭質シュワゲリナ石灰岩)
 5.白(雪白色微晶質石灰岩)
 6.下部太理(斑色微晶質石灰岩)
 7.花絞(黒色珊瑚シュワゲリナ石灰岩)
 8.上部太理(斑色微晶質石灰岩)
 9.更紗(雑色石灰角礫岩)

 どれに当たるんでしょう。

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 これとは別に、大事に覆いをされている灯籠が2対あって、こちらも同じような質感なので、これも大理石なのかもしれません。

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 石灯籠以外では、他に岡山の備前焼の狛犬もあります。
 明治2年に寄進されたものです。

 今回紹介したものは境内のものだけですが、住吉大社の参道には、住吉公園の方まで、住友家寄進の石灯籠が並び、公園の先にも石灯籠が続いています。
 600基もあれば、これ以外にも、いろいろな楽しみ方ができると思います。

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2009年5月27日 (水)

住吉大社の東(大阪市)

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住吉大社へは阪堺電車か南海本線で表から入るのが普通ですが、反対側の住吉東から入るルートもあります。南海高野線の住吉東駅が起点です。

なかなかいい雰囲気の駅で、手元のデータでは明治33年(1900年)になっているのですが、ベースはそうなんでしょうか。

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駅のすぐそばに洋館付き住宅があります。

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洋館付き住宅や洋風長屋によく使われる持ち送りなどの装飾があります。屋根が二重な上に、ステンドグラスまであって普通の洋館付き住宅より良いものです。

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ステンドグラスはバラのつぼみでしょうか。
割れているのが残念ですが、素敵なデザインです。

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その向かいは、長屋版戦後建築といった感じ。
(関西の)文化住宅と近代長屋の間のようにも見えます。
実際はいつの時代か分かりませんけど。

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また、駅の近くにはこんな新しく改修された土蔵があります。
復元的に整備されたようですが、説明はありませんでした。
一帯は住吉のHOPEゾーンなので、その関連かと思います。
隣との仕切りが煉瓦塀なのにも注目。

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軒下の煉瓦敷きが年を経ていい感じです。
これは元のままかもしれません。

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ちなみに刻印は、先日から気になっている六光星。
相変わらず、その正体を突き止められていません。
(また次の次ぐらいの記事で報告します)

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この土蔵の向かいが「すみよし村ひろば」になっていて、奥の家の通路がそのまま裏庭のようなこの広場に抜けています。なんてぜいたくな。いったい、どんな家なんでしょう。

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と思ったら、家は家でも、大正時代に住吉村の村長を3期勤めた油屋さんの住宅だそうです。古い部分は江戸時代にさかのぼるようで、明治時代に移築されてきたのだとか。
今は住吉福祉会館とすみよし村ギャラリーとして使われています。

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ちなみにこの通りは東西の住吉街道です。
立派な町家が街道の雰囲気をとどめています。

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この町家には鍾馗さんがいらっしゃいました。

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有名な、住乃江味噌の池田屋本舗さん。
住吉大社の高灯籠がトレードマーク。
ここは熊野街道と住吉街道の交差点です。

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池田屋本舗さんのはす向かいには、ハット屋パンさん。
でも売っているのは手作りソフトクリームという不思議なお店。
(大判やきも売っているらしい)

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そのまま住吉街道を歩いていくと、脇に煉瓦敷きの路地がありました。
石畳の路地もあります。

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住吉大社に到着。
裏門から入ると樹齢1000年の大楠のある楠珺社(なんくんしゃ)です。

裏の参道とはいいながら、徒歩の時代にはこちらも賑わっていたのでは思います。今は落ち着いたまち歩きが楽しめる住吉大社の東側でした。

○住吉大社付近の関連記事
 「文化的な文化住宅」
 「細井川に沿って」
 「大阪で最初の住吉公園」←住吉の高灯籠の写真あり

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2009年5月26日 (火)

監獄跡の扇町公園(大阪市)

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扇町公園は環状線の天満駅の近く、関西テレビの隣にある、比較的大きな公園です。(正面が関西テレビ)大正12年(1923年)に開園した古い公園でもあります。

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<大正3年の地図>

明治15年(1882年)以降、公園になる前は、堀川監獄(大阪監獄署)でした。
今の扇町公園よりやや大きいぐらいでしょうか。
ほぼ同じぐらいの規模です。

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<大正13年の地図>

大阪監獄署は大正9年(1920年)に堺に移転、今もある大阪刑務所です。
跡地は大正12年に公園となりますが、地図で見る限り、最初は小さな公園だったみたいです。
周囲はまだ空き地ですね。

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<昭和29年頃の地図>

扇町公園には、昭和25年(1950年)に競技用の大阪プールがつくられました。
しかし、それも平成9年(1997年)に八幡屋公園(港区)に移転、取り壊されました。
平成9年に関西テレビが移ってきています。

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平成8年から平成13年まで大規模リニューアル工事に入り、現在に至ります。
(この地図は南北が逆ですのでご注意)
徹底的にリニューアルされて、歴史の古い公園の割に、昔のものが残っていないようです。

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1月に撮った写真なので寂しいですが、ご紹介します。
リニューアル後の公園は丘の多い起伏に富んだ公園になっています。中でも最高点からは梅田のビル街が見渡せて、こんなにいい眺めです。

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芝生の斜面が広がっていて、遊具も多く、子供が大好きな公園でしょう。

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大阪プールのサブだった扇町プールはリニューアルされながらも、まだあります。

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これらの木々はいくらか古い記憶を持っているでしょうか。

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扇町の駅から梅田へ、公園を横切ってまっすぐ動線が貫いています。
ここも印象的な景色です。

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南側には、昭和9年(1934年)に完成した大阪市水道局扇町庁舎があります。
ほとんど装飾がありませんが、角の曲面、玄関上の壁の曲面がいいアクセントになっています。
内部については以前に紹介したことがあります。
今のうちにご覧下さい。

プールに水道局、水にも縁のある公園です。

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2009年5月24日 (日)

南浜寺と呼ばれた住宅地−2(泉大津市)

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松之浜町の助松住宅地の続きです。

住宅地内の道路は、浜寺住宅地に比べるとかなり狭い道が多いようです。
その分、松林の中を歩くような感じもあります

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松之浜1丁目を歩きまわります。
洋館付き住宅などもあります。

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腰まで茶色い下見板がある住宅。
角の部分が引っ込んだ玄関ポーチになっています。
右奥にも下見板の住宅が続いていました。

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同じ家の勝手口の扉です。
海が似合う気がします

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堤防跡まで来ました。
昔はこの向こうに海水浴場があったのでしょう。
今、この向こうには湾岸道路、高速道路と埋立地があります。堤防は遊歩道になっています。

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堤防脇にお地蔵さんがいらっしゃいました。
祠は煉瓦造です。さすがは泉州。
祠自体は古いものではなさそうです。

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海岸に近いところを歩いていくと、ほんのりスパニッシュの明るい洋風住宅がありました。
南西に玄関があります。
窓の桟が変わっています。

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西北側はこんな感じ。
水路脇の住宅です。

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また洋館付き住宅があります。
海辺の明るい雰囲気。

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どうしても紹介するものが洋風に偏ってしまいますが、近代和風住宅が多いのは浜寺同様です。

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凝った銅板張りの和風住宅もありました。

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北助松駅をめざして歩いていき、助松町3丁目で目に入ったのが、とてもスパニッシュな洋風住宅です。この写真は南から。塀が低いので、南から西はよく見えます。埋立地に向かう産業道路のすぐ脇にあります。

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この写真は南西から。
アーチのある車寄せが張り出して、アーチの回りが装飾で縁取られています。

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北東から。煙突もこちらからは結構目立ちます。
助松町3丁目には、昭和3年に建てられたU家住宅というのがあるらしいので、ひょっとしてこれでしょうか。表札を確認するのを忘れていました。
(追記)U家住宅と確認しました(2009.5.27)

助松の住宅地は、浜寺住宅地に比べると道も入りくみ、敷地規模もばらついていますが、浜寺より海に近かった分、海辺の雰囲気が強く感じられる住宅地でした。
海が遠ざかってしまったのが惜しまれます。

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ついでながら、大きなお屋敷があるのは、紀州街道沿いという理由もあるのでしょう。
紀州街道の街並みも見どころとなっています。
(この写真は助松町のあたり)

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南浜寺と呼ばれた住宅地−1(泉大津市)

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泉大津市に南浜寺と呼ばれた住宅地があったと聞き、しばらく気になっていましたが、ようやく確かめに行くことができました(実は浜寺住宅地を見に行ったのは比較のため)。
2回に分けて、写真多めで紹介します。

「昭和初期には「南濱寺」「松ノ濱」と呼ばれ、松林が続く白砂青松の海岸沿いの地域として海水浴で賑わい、大阪の避暑地として別荘など邸宅が立ち並び、旅館や私立幼稚園も建てられた。」(泉大津市HP・松之浜町の解説)

南浜寺とは、南海本線・松ノ浜駅(旧称・助松駅)の西側、かつての臨海住宅地です。住所でいうと松之浜町にあたります。南浜寺土地建物が大正9年に開発したものを関西土地(株)が引き継いだ「助松住宅地」14,676坪や昭和7年に関西土地(株)が開発した「助松臨海地」、昭和9年に共栄社が開発した「助松住宅地」や「童の里」など、複数の住宅地があったようですが、私にはどこがどこなのか分かりませんので、また分かれば追記で対応したいと思います。

高架の松ノ浜駅で降りて西へ、旧国道26号線(府道204号線)を渡ると、さっそく気になる建物がありました。ここは紀州街道と鋭角にクロスしている場所です。美しい塀の向こうにルリ色の屋根が見えました。

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壁面といい、軒先といい、豆タイルでびっしりと覆われています。
洋館付き住宅だと思うのですが、これ以上うかがえません。
残念ですが、感触は上々です。

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地区内に入ると、さっそく生垣の住宅地が現れました。

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そして、2階建ての洋館付き住宅。
装飾は控えめですが、八角形の窓がいい感じです。

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足元はよく見かける石張りになっています。

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お隣も下見板の住宅。
残念ながら空き家のようです。
この雰囲気は、竣工時には臨海の住宅として素敵だっただろうなと思われます。

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水路を挟んで煉瓦塀がありました。
この後も、歩いていて時々、敷地境界の煉瓦塀を見かけました。

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こちらは診療所だったのでは?と思う建物。
モダンなつくりです。

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玄関脇にステンドグラスもどきの窓があります。
色つきの磨りガラスをはめたものです。

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裏に回ると大きな洋風の大きな建物らしきことが分かりますが、これ以上は近づけません。
街区割りに関しては一部を除いて、浜寺のようには整然としていません。

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こちらも白い下見板の和洋折衷住宅。
瀟洒な雰囲気。

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地区内を水路が流れていて、そこには石橋が架かっています。味があります。

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そして大物が一つ。
大きなお屋敷に洋館が建っていました。T家住宅です。

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拡大するとこんな感じ。
腰折れ屋根に焼き板張りの壁、八角形の窓も見えます。
よく見たくて大きな敷地の回りをぐるぐる回ったのですが、あと少しが近づけません。

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何しろこの右のお屋敷です。すごく長い壁でしょう。
左の生垣も長い。

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左のお宅は門の外に庭があるという。
南浜寺というだけあって、ここでも松がポイントになっています。

(追記)調べていて、この門がなんと膳所城の瀬田口総門を昭和9年に移築したものだと知りました。
 →NATTS NET「細見邸高麗門」
 しかも、この邸宅は、京都の細見美術館で有名な細見氏のお宅です。泉大津の方だったんですね。
 細見亮市(良、古香庵)氏は、兵庫の新温泉町(浜坂町)生まれで、13歳で大阪に出て、23歳で独立、毛布の販売から毛織物の製造で財をなされたそうです。そして、その財で三代にわたって美術品を収集されました。この自邸は昭和5年に建てられたそうです。
 →岩崎正弥氏の「茶道雑誌」掲載記事「細見美術館・古香庵」
 →細見美術館HP
 (2009.5.27)

期待通りに古い住宅が残っていて、うれしく思います。
浜寺に比べると小さな住宅が多いのですが、とんでもなく大きなお屋敷もあって、そのバラエティはかなりのものです。

後半に続きます。


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浜寺昭和町4丁の住宅(堺市)

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浜寺住宅地の続きで、浜寺昭和町4丁も紹介しておきます。
こちらは古い洋館はなさそうですが、近代和風の屋根付きの土塀に石・焼き板貼り、庭木の松という落ち着いた街並みが見られます。

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大阪の富裕層対象に開発されましたので、基本的に蔵がついているそうです。

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洋風の増築部分が付いたお屋敷もあります。

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浜寺昭和町5丁同様、一部に排水路が通っています。4丁では南北方向です。そこに架かる橋も石橋なので雰囲気がよいです。

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お屋敷の壁です。
戦前の壁によく見られるパターンの石張りで、明るい雰囲気を出しています。

住宅地の建て替えは進んでいますが、新しい建物も街の雰囲気を大事にしようという意識が感じられて、好もしく思います。
これで浜寺住宅地(浜寺昭和町)の記事はひとまず終わります。

○関連記事
 「浜寺昭和町1〜3丁の住宅」
 「浜寺昭和町5丁の住宅」

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浜寺昭和町5丁の住宅(堺市)

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浜寺住宅地は、堺市の南海本線・浜寺公園駅の東側に広がる別荘的な郊外住宅地です。
大正7年に地元資本主体で設立された浜寺土地(株)により、大正7〜8年に第一期の土地整備が行われました。その後、浜寺土地(株)主導で、昭和5年に浜寺土地区画整理組合が設立され、隣接地が昭和11年、13年、15年と開発施行されました。

以前、堺市の浜寺住宅地のうち、浜寺昭和町1丁〜3丁を紹介しましたが、今回、浜寺昭和町5丁を紹介します。4丁、5丁は、一番最初に開発された地区にあたります。

いくつかの建物は写真で見ていたのですが、なかなかそれが現れませんでした。あせりましたが、結局、歩くルートの関係で、洋風の建物はみな一ヶ所に固まっていたということです。

まず、O家住宅から紹介します。大正時代に建った和館(現存せず)に、昭和3年、洋風接客棟として増築されたスパニッシュの洋館です。

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星形窓と窓の上のイスラム風装飾が目をひきます。
窓の上に緑の点がありますでしょう?

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拡大すると花柄レリーフのプレートです。

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続いて、O家住宅の東隣にある阪之上家住宅。登録文化財なので、名前を出していいでしょう。
こちらは大正11年、表には出てませんが煉瓦造だそうです。
住宅らしからぬインパクトのある外観です。
実現しなかった浜寺ホテルの計画の一部が使われたと解説されています。
(ひろさんのブログで拝見した気もするのですが、見つけられませんでした)

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1・2階の窓の間に装飾が入るのはセセッション風ですね。
石を貼ってみたり、窓に凝った面格子を使ったり、いろいろ装飾を加えています。

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両家を同時に眺めるとこうなります。
左がO家住宅、右が阪之上家住宅。
これだけでなく、さらに・・・

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道のずっと先には、ヴォーリズの近江岸家住宅のスパニッシュ煙突が見えるんです。
狙ったんですか、ヴォーリズさん(何を?)。
小さな写真では拡大しないと分かりませんが、肉眼では見えています。

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続いて、阪之上家住宅の東隣にあるのが、F家住宅です。
昭和8年に建ちましたが、木造です。
丸々の洋風住宅です。

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東側の玄関はこんな風に半円のバルコニーが飛びだしています。

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テラコッタ風装飾は、花の図案でしょうか。

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こうして紹介してくると洋風の町並みかと思うかもしれませんが、それは少数派で、近代和風が主体です。左側は阪之上家住宅の塀で、道路、水路を挟んで右に和風住宅の焼き板塀が続いています。
なお、この水路は排水のためらしく、地区内に逆L字型に引かれています。

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同じ場所でもう少し右を向くとこんな感じ。
どこかの歴史的街並みのようです(浜寺も既に歴史的街並みですが)。

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和風住宅の玄関部分はこうなっています。
玄関は隙なく石畳、側溝は花崗岩の切石2本で挟み、煉瓦が敷かれています。

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ちなみに煉瓦の刻印は五光星でした。
私は見たことがありません。

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同じ五丁の端の方にはこんな住宅も。
きれいすぎるので、新築でしょうか。
実は上の建物を見る前にこちらを先に見つけました。
この頃、昔風の本格的な洋館が新築されていて、分かりにくくて困ります。
街並み景観的には良いことなんですけどね。

○この記事には下記の報告・論文を参考にしました。
 『大阪府の近代化遺産報告書』、2007年
 吉田高子氏「大正7年開発の浜寺住宅地とその屋敷地構成について」(『近畿大学理工学部研究報告』第40号)、2004年
 三浦要一氏・住田昌二氏・多治見左近氏「浜寺地区における郊外住宅地形成過程」(「平成2年度日本建築学会近畿支部研究報告集」)、1990年
 多治見左近氏・三浦要一氏「堺市浜寺地区の郊外住宅地形成」(「日本建築学会計画系論文報告集」第436号)、1992年
 水野佐八香氏・小浦久子氏「歴史的建物資源とその地域環境特性の持続に関する研究その2 —堺市・浜寺地区の景観に現れる地域環境の特性—」(「平成14年度日本建築学会研究報告集」)、2002年
 
○関連記事
 「浜寺昭和町1〜3丁の住宅」
 「浜寺昭和町4丁の住宅」


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2009年5月14日 (木)

松の堤の中崎遊園地(明石市)

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明石の続きです。
中崎公会堂を見た後は、海を見に、裏手の大倉海岸公園に出ました。
広々した草地に松が点々。右奥には明石海峡大橋が見えています。

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そして松林越しに淡路島が見える、気持ちの良い公園です。

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再び中崎公会堂まで戻って、中崎遊園地を歩き始めました。
遊園地といっても昔の公園ぐらいの意味の遊園地です。
この写真に写っている高いモニュメントは、日露戦争忠君碑。
忠君碑と中崎公会堂のある場所が、現在、中崎遊園地の東端あたり。

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「明石遊園」と書かれた石柱もありました。
中崎海岸は、明治25年頃、明石港の掘削土砂で築堤され、松林になっていました。明治31年に国に召された明石公園の代替として、明治36年、明石町が港湾付属堤塘地1.69haを県から無償借地して「明石中崎遊園地」となりました。昔の写真を見ると、松の堤の裏に船だまりの水面があったようです。

明治44年には中崎公会堂と海水浴場が整備されます。
しかし、大正初期から海岸の浸食が進行し、大正11年にはすっかり浜がなくなってしまったそうです。大正15年には海岸堤防の修繕が行われました。
戦後は海岸用地になっていましたが、地先の埋め立てが進み、昭和60年に公園整備を完了したそうです。
(『神戸からの公園文化』)

海からは離れてしまいましたが、松林の堤は残って、いい散歩道になっています。


より大きな地図で 近代の公園 を表示

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松林の中に皇紀2600年の植樹記念碑が埋もれていました。
昭和15年頃に、改めて松?が植えられたようです。

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大きなシュロの木があるのも、近代の公園らしい風景です。


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ここにはラジオ塔もあります。
これを見るのも目的の一つでした。
明石市が昭和12年に建設したものです。

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裏に「明石市」の文字があります。

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中崎遊園地についてはここまで。
堤を降りると、明るい雰囲気の古そうな住宅がありました。

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隣の家も、洋館付き住宅のようなデザインです。もともと洋館付き住宅が建っていて、建て替えるときに元のデザインを生かしたと思うのですが、どうでしょう。

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海岸沿いに歩いていくと、細長い船だまりに出ました。
中崎遊園地ももともとはこんな地形だったのでしょう。

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明石駅に向かう途中、煉瓦敷きの道の奥に祇園写真室という写真館があるのが目に入りました。

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タイルをふんだんに使った建物です。
花街の写真館といった雰囲気。
今は静かですが、賑わっていたのでしょう。

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有名な魚の棚のアーケード。

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その向かいにある木村書店さんの脇には、スクラッチタイルの壁面が顔を見せていました。
明石は空襲の被害が深刻だったところですが、それでも戦前の建物も残っているようです。

前回の明石公園や明石港とはまた違った明石を見ることができました。

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2009年5月13日 (水)

明石の中崎公会堂

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網干を歩く前、明石公園にある県立図書館で資料を入手するため、明石に立ち寄りました。明石公園には昨年9月にも訪れています。
「阪神・山陽シーサイド1dayチケット」というのを使いましたので、乗り降りは自由。
せっかくなので、ついでのついでで、古い公園である中崎遊園地を歩くことにしました。

山陽電車の人丸前駅で降ります。
目の前には、明石のシンボル・明石市立天文科学館があります。
(今回こちらには行きません)
 ○関連ブログ記事:ひろの東本西走

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逆に海の方を見ると道の向こうに中崎公会堂、そして海は見えませんが、淡路島が見えます。
まず中崎公会堂を目指します。そのあたりが中崎遊園地(公園)です。

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途中、西国街道が横切っています。
歯抜けにはなっていますが、古い町家が残り、路側には凝灰岩らしい切石が連なっていました。

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西国街道上には「大日本中央標準時子午線通過地識〜」という石柱が立っていました。明治43年に明石小学校の先生が立てたそうです。

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中崎公会堂もほとんど子午線上に建っています。
(子午線でも天文系、日本測地系、世界測地系など複数あるらしいですが)
あえて子午線上を選んで建てたんでしょうか。

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明石市立中崎公会堂は、明治44年、「明石郡公会堂」として、明石町と11か村によって建てられました。奈良・鎌倉の建築様式を取り入れたかなり立派な和風建築です。設計は、のちに拓殖大学本館などを設計した加護谷祐太朗らしい。
昭和58年に改修工事が行われています。

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中に入ると廊下に取り巻かれた大広間があります。
基本的に和風なのですが、廊下との仕切りは洋風の桟をもつ半ガラス戸で、見通しのよい空間になっています。昔は海まで見渡せたのではないでしょうか。

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折上げの格天井には、七宝のような柄の華やかな装飾も。

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海側の廊下から。
黒い桟というのがうまく気配を消して、空間を広く見せています。
かっこいい配色。

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海側の廊下。

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照明器具はオリジナルを踏襲しているのでしょうか、革細工のような不思議なフードです。色は銅をイメージ?

和風の中にも洋風の要素がちりばめられていて、明治建築らしいとも思います。

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2009年5月12日 (火)

網干の町並み(4)ダイセル異人館

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網干の街歩きの最後は、ダイセル異人館です。
もらった観光マップにここの紹介が載っていて、日が暮れかかっていますが、急いで見に行きました。
網干でも集落の外れにあり、工場緑化によって緑の多いところです。

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ダイセル異人館はダイセル化学工業の工場に向かい合うように建っていますが(手前の緑と奥の赤い屋根の建物)、塀もなく、野外住宅博物館のような、もっと雰囲気の良い一角になっています。今もダイセルの所有なのでしょうが、自由に眺められるようになっていて、ありがたい限りです。

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このマップでいうとピンクの2棟がダイセル異人館です。
他はクラブやエンジニアリングセンターなど会社の施設。

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まずは資料館になっている緑の建物=旧図書館から。

ダイセルというと、大阪の私には堺の会社というイメージですが、ダイセル化学工業(株)は、大正8年(1919年)に、セルロイド8社が合併してできた大日本セルロイドを前身とするそうです。その8社の1つが、明治41年に網干で創業した日本セルロイド人造絹糸(三菱系)でした。

明治42年(1909年)に、この地に工場が建設され、技師長にイギリス人のクリーン、他に5名の技師職工がイギリス・ドイツ・スイスから招かれ、翌明治43年に彼らの居宅として洋風住宅が建設されました。その一部がダイセル異人館(ダイセル外国人技士住宅)です。
様式は19世紀末のイギリスのコテージの類似意匠がみられるが、アメリカのコロニアルスタイルとの共通点が多いとのこと。(案内板より)

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南面には大きく庇が張り出しています。

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コロニアルらしいベランダ内部。
開いてなくても、ここまで入れます。

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一方の赤い屋根の建物は、会社のクラブハウスになっていますので、途中までしか近寄れません。
緑の建物同様、角のある屋根が兜のよう。

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洋館付き住宅で真似られているようなデザインです。

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緑豊かな一角で、大きなユーカリの木がそびえています。
ユーカリって大きく成長するんですね。
南側には広い芝生が広がっていました。

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一方、工場の事務所も外からうかがった限りでは、このようにきれいです。

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古い工場も残っています。

このようにいい状態で公開していただいているダイセルさんには感謝です。
機会あれば資料館を見に来たいなと思います。
 →姫路観光コンベンションビューローの案内

網干編はここまで。
次は明石の予定です。

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2009年5月10日 (日)

網干の町並み(3)網干商工会館

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姫路市網干区の街歩きの続きです。
浜田地区を一巡りしたあと、揖保川岸まで戻り、さてどちらに進もうかと対岸の興浜(おきのはま)を見渡しました。そのとき、上流の方に気になる赤い屋根が。壁面は緑に覆われていますが、屋根がなんとなく古そう。

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川を渡って近づいてみると。なんだこれは。

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表に回ってみて、これは近代建築の会館に違いないと分かりました。

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古い字体で網干商工会館。豆タイルの柱、丸窓も期待させます。

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扉が少し開いていたので、思い切ってお邪魔しました。

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さらに期待させる階段。
だめもとで事務所の方に、「中を見せていただけませんか?」とお願いしてみると、個人的な趣味ならと許可していただけました。
おまけに商工会の記念誌と網干のマップまでいただきました。
この建物は昭和15年に竣工したものだそうです。
所有者は網干商工同友会さんです。

1階では小学生が勉強をしているようです。

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2階へと続く階段。

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階段を振り返って。

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階段手すりの透かし窓。

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丸窓にはツタの緑、窓には揖保川。

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ツタの緑が室内に流れ込んだような緑の塗装。なんて素敵な。

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ツタ越しに揖保川がよく見えます。

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さらに驚くのが大会議室。
古いままじゃないですか、これは。

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演台の網干商工同友会の会章。
「A星」=「あぼし」?

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舞台袖の部分。

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ただの木枠ではなくて、こんな風に装飾入りです。

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舞台袖の階段は細工の丁寧さに驚き。
舞台もそうですし、豊かだった網干の建築にかける力を感じさせます。

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この建物がこうして古いまま残ったのは、網干町が、この会館の完成後わずか6年、昭和21年に姫路市に合併されてしまったことも一因かもしれません。

会館の前には網干川の船だまりがあるという絶好のロケーションです。
せっかく残っているのですから、ぜひうまく活用していただきたいなと思います。

事務所の方、いい建物を見せていただきましてありがとうございました。
見てみたいと思われた方、この建物は一般に公開されているわけではありませんので、事務所で尋ねてみられたらと思います。


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2009年5月 8日 (金)

網干の町並み(2)漁師町の浜田

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網干の街道を西にたどっていくと、揖保川にかかる本町橋に出ます。
昭和32年架設の車道橋と歩行者橋が並んでいます。

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揖保川の上流方向。上流には龍野があります。

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揖保川の下流方向。海はすぐそこで、海岸部は工業地帯です。

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橋を渡ると広々した空間で、進むのがためらわれますが、思い切って進むと、再び旧街道と昭和の商店街が現れます。

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ちょっと面白い門柱がありました。

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網干の他の町もそうですが、このように銅板を貼った家がたくさんあります。いずれも亀甲であったり、菱形であったりと、きっちり貼られています。

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浜田の町でひときわ立派なのが屋台庫です。
調べてみると富嶋神社(たつの市御津町)の祭礼で使われるようです。

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町内でもう1ヶ所見かけました。
よほど祭りが盛んなんでしょうね。
屋台庫を見れば分かります。

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近くの小さなお社の玉垣を見ると、「網」の文字があり、漁師町だったことが分かります。浜田は江戸時代末まで漁業が盛んだったようです。

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今はふだんは静かで、こんな落ち着いた町です。

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ただ、渋いものだけでもなくて、近代風のものもあります。
和風の煉瓦塀を見かけました。

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洋館付き住宅風の家も。
屋根が玄関の上までかかっているのが、ちょっと変わっています。

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浜田の集落を街道の端まで歩くと、近代建築らしきものがありました。
陽福工業(株)と書かれています。

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正面はタイルですが、横を覗き込むと下見板張りです。
お隣のおばあちゃんに尋ねると、昭和7、8年頃に建ったおばあちゃんの家よりは後だけれど、戦前の建物ではあるそうです。

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溝付きのクリーム色のタイルに、市松模様に貼られた豆タイルが多少の華やぎを添えています。

このあたりをぐるりと回って、引き返しました。

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2009年5月 6日 (水)

網干の町並み(1)新在家と興浜

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網干(あぼし)(姫路市網干区)の旧中心は、JRの網干駅よりも3kmほど南の山陽電車支線の山陽網干駅が近いのですが、それでも駅からは少し離れているので、知らなければ駅の周りを見渡して引き返してしまいそうです。

駅から南に細い道を入っていくと、向こうに特徴的な円錐屋根が見えてきます。

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商店街に入る前に網干川を渡ります。
モーターボートが何艘も係留されていて、運河のような雰囲気。

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旧網干銀行本店。今はタケダ洋品店です。
現在の建物は、大正10〜12年頃に竣工したそうです。
非常に風格があるので、実物を見ると写真よりも小さく感じられましたが、それでも意外なほど立派な建物です。店とはいえ、婦人服店ですので、ちょっと覗けません。

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角の部分では非常に凝った装飾をしています。
人造石とタイルを貼っていますが、構造は煉瓦造だそうです。

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こういうのもセセッションの一種なのでしょうか、側面は幾何学的なデザイン。

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床下換気口の格子は植物模様のようです。

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あぼしまち交流館前の案内地図>

網干の町は、揖保川河口の町で、大まかに網干川の北の余子浜(よこはま)、南西の興浜(おきのはま)、南東の新在家に分かれています。町名が違うだけでなく、江戸時代の万治元年(1658年)から明治維新まで、興浜と余子浜は丸亀藩領、新在家は龍野藩領に分かれていたようです。それだけ物流の重要拠点だったんでしょうね。

屋敷の構えからみて、江戸時代は興浜が賑わっていたようですが、近代に入って、新在家側に明治41年、三菱が日本セルロイド人造絹糸(株)(のちダイセル化学工業(株))を設立すると、化学工業が発展して、新在家の商店街が賑わったようです。旧網干銀行本店も新在家にあります。

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今は寂れてしまった橋本町商店街のアーケードを抜けると、旧街道にぶつかります。
あぼし一番街という商店街になっています。
ここを西に歩いていきました。

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モダンな店の扉。

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通りには網干片岡庄屋塾という施設がありました。
大庄屋の江戸時代の建物を活用しているようです。

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さらに進むと幅広の道に出て、道の脇に古い橋が残されていました。

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案内板によると、これは「境橋」といって、新在家(龍野藩)と興浜(丸亀藩)の両藩を隔てる堀割に架かっていた橋だそうです。

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橋を渡ると興浜。
高い望楼をもつ民家があります。
明治初期、大正期の山本家住宅です。
大正時代に先ほどの網干銀行の頭取や網干町長を勤めた方の家だそうです。
銀行と家とどちらも町並みから飛び抜けていたことでしょう。

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とにかくこの興浜の町家というのは立派で、この玄関の石組みなどをみても、非常にきっちり作られています。

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金刀比羅神社の隣にある魚屋さんは、元料理旅館などではないでしょうか。格式が高そうです。

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興浜には深入りせず、街道に沿って揖保川を渡り、浜田地区を歩きました(改めて紹介します)。その後、興浜に戻って、網干商工会館(これも改めて紹介)から網干川沿いを歩きました。網干川沿いに近代建築が多いような気がします。

この建物は余子浜にある小林鍼灸整骨院さんです。
かなりきれいに改修されていますが、下見板張りの洋館だったのではと思われます。

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また面白いのが、川北にある新在家の幸町集会所。
赤い瓦屋根で左右対称、とくに両端に入り口を作っているのがユニークに思います。
直感的には昭和15年ぐらいの建物じゃないかと思うのですが、どうでしょう。

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入り口部分に近寄るとこうなっています。

網干銀行にしても、この町に洋風の建物が建ったのは、ダイセルの外国人技師やその住宅に影響された部分もあるのかなと思います。

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2009年5月 5日 (火)

高瀬川の橋めぐり(七条〜五条)

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京都の左京区を歩いた日のことですが、少し早めに出て、京都駅から五条まで、高瀬川沿いを歩きました。京都駅の東には、JRからもよく見える旧柳原銀行(柳原銀行記念資料館)があります。

このあたりは崇仁地区(旧柳原町)という京都最大の同和地区で、柳原銀行は町長だった明石民蔵ら地元有志らが明治32年に設立した銀行です。被差別部落民が地区内に設立した唯一の銀行とのこと。この建物は明治40年竣工です。柳原銀行は、大正期に山城銀行と改称して、昭和2年に閉店するまで営業していたそうです。この建物、元は河原町通・塩小路通の南西角にありましたが、道路拡幅に伴い、平成6年度から現在地に移築されました。

詳しくは柳原銀行記念資料館のHPで。
資料館は土曜日も開いているようなので、また見に行ってみようと思います。

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庭も屋外展示場みたいで、高瀬川の橋の親柱などがあります。
ここから橋めぐりをスタート。

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七条橋は大正元年のもの。さび色に染まるのは花崗岩なのでしょう。

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川幅はこれだけ狭いので、桜の枝は川向こうの道まで懸かっています。

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昭和4年の正面橋。方広寺大仏殿の正面にあたる正面通の橋だから正面橋。
・・・といいながら道が曲がっているので正面には見えません。
鴨川の橋も同名です。

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親柱は角柱を斜めに削った形です。
内側の角がぶつけられて欠けていますが、衝突防止に丸い石を埋めているところが京都らしい気もします。よそだったら自然石を置くところでしょう。

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以上のいわば公式の橋の他に、川幅が狭いので私的な橋も掛かっているのが楽しいところ。ワイルドな木橋は梁材の転用でしょうか。

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上之口橋。コンクリートをふんだんにつかった頑丈そうな橋で、よく見ると凝っています。アーチで支えられた橋です。

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華奢な名もない橋。

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こちらも同様に華奢な橋。銀色に輝いています。

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やがて元遊郭の五条楽園ゾーンへ。
ここに面白い橋がありました。六軒橋です。立派すぎるアーチだなあと思いましたが、昔あった橋の遺構のようです。結果的に随分ユニークな橋になっています。ほれぼれするようなアーチ。

このあたり川辺の雰囲気がよく、桜の季節だったのでカメラを持った観光客もそぞろ歩いていました。

五条楽園もデザイン的に面白いのですが、ささっと見る時間しかありませんでした。ぷにょさんのまちかど逍遥「京都 五条楽園のたてものめぐり」ほかにたくさん紹介されていますので、ぜひご覧下さい。

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最終的に鴨川の五条大橋へ。
ほんとは五条大橋たもとの五条児童公園を見に行く予定だったのですが、ここで時間切れとなってしまいました。

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2009年4月29日 (水)

粋な夜間サービス

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「あれ、こんな照明あったっけ」
岡三証券大阪店の前はいつも通る道ですが、いつの間にか雰囲気のある玄関の照明が付いていました。
ついでに車止めも頭の丸い円柱に変わっています。
前に撮った写真を見ると、そのときは、ない。
これがあるだけで、ちょっと素敵な街角に。
夜は玄関は開かないので、美的な意味で付けたようです。
夜道に助かりますし、粋なサービスだと思います。

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岡三証券大阪店は、同社のHPによると、昭和29年(1954年)10月に竣工し、当時はまだ珍しかったエレベーターが付いていたそうです。

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<部分>

玄関のステンレスの装飾は、同じ戦後建築の鹿児島銀行大阪支店に通じるものを感じさせます。

以下の3枚は、鹿児島銀行大阪支店。昭和27年(1952年)、大阪市中央区安土町2-5-11、設計:渡辺節建築事務所。

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2009年4月25日 (土)

北白川・小倉町住宅地(京都市左京区)

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都文研の京都街歩きの続きです。
間を省略しますが、疎水に沿って北白川まで歩きました。

北白川の小倉町は、大正15年から分譲された古い住宅地です。開発したのは日本土地商事(株)で、藤井善助(美術館「藤井有鄰館」で有名な実業家)が設立し、片岡安を社長に迎えた会社です。
当初、売れ行きは悪かったそうですが、昭和3年から売れ始め、4期に分けた開発で昭和12年まで、最終的に19600坪が分譲されました。
(『近代日本の郊外住宅地』)

住宅地の中でも目立つのが、写真の京都大学人文科学研究所分館。昭和5年に義和団事件の賠償金で建てられた東方文化学院京都研究所です。東畑謙三が設計したスパニッシュ・ロマネスク様式の建物だとのこと。中国文化を研究するのになぜスパニッシュなんでしょうね。

東畑謙三という方は、この建物が最初の作品で、のちに大阪駅前ビル、筑波研究学園都市、インテックス大阪、千里ライフサイエンスセンターなどに関わり、近年まで活躍されています。全然印象が違いますけど。

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照明器具のような装飾の門柱です。
暖かみを感じる材質は凝灰岩でしょうか。

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研究所の近くにある住宅。
大きく育った庭木に埋もれて出窓付きの住宅があります。
このあたりは京大から近いので、京大教授の家などがたくさんあります。

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洛北ほどではありませんが、街路はゆったりと感じられます。

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煙突のある洋風住宅。

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びしっと塀のような生垣の足元には、ころころした生垣。
窓のバランスがちょっと変わった住宅です。

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角地の和風住宅。
苔むした門柱と力強い庭木が風格を増しています。

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車止めの石ですが、柱状節理の石(自然に多角柱に割れ固まった石)ではないでしょうか。
庭石のようです。

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地区の南側に、ちょっと面白いものがありました。
「小倉町 久保田町 西部 公同組合」と書かれています。
公同組合とは、戦時中に全国に広まった町内会のモデルとなったという説もある、京都独自の地域住民組織なんだそうです。

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地区の境を疎水が流れています(この写真は小倉町より南)。
疎水は小倉町を巻くように流れ、その向こうは低くなって京大キャンパスとなっています。

小倉町を歩いていると当時の京大教授クラスのステイタスや文化を感じます。

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2009年4月16日 (木)

洛北土地区画整理地区(京都市左京区)

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京都市左京区の萩児童公園は、洛北土地区画整理組合の施行区域内にあります。
この区画整理は京都でも早い時期のもので、昭和2年に組合が設立され、施行区域は下鴨地区北部の7万1400坪、南を疎水分線で区切られています。工事は昭和3〜5年、昭和9年に祝賀式が行われ、萩児童公園に記念碑が建てられました。それが上の写真です。
(参考:石田潤一郎氏「北白川・下鴨/京都」、『近代日本の郊外住宅地』所収)

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区域内に入って感じるのは非常に街路がゆったりしていること。
最低でも幅員6.5mの道路で、さらに1階部分で1間(1.8m)、2階部分で2間のセットバックがかかっていたそうなので、いっそう空が広くなります。

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改築・増築されている家も多いですが、昔の住宅がよく残っていると思います。
これなどは当初のものでしょう。

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門の周りを見るのも、郊外住宅地の楽しみのひとつ。
高低2段の門柱、モザイク状に貼りながら、岩の塊を残した塀など趣向が凝らされています。

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大和棟風の住宅ながら、どことなくモダン。

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スパニッシュ風(?)の京北教会。
戦前ではないとのことですが、雰囲気はあります。
郊外住宅地には教会が似合います。

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2軒並びの住宅。アーチのある玄関に少しスパニッシュが入っている?

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曲線のある低い門塀は、2軒でつながっていて、一体感があります。
路肩の石材は、この区域全体で残っています。

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こちらは抽象絵画風の門塀。

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北泉通に面して赤い三角屋根の洋風住宅が建っていました。
ランドマークのように非常に目立ちます。
窓枠もピンクでコーディネート。
生垣の緑に映えます。

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これが北泉通。東西の幹線です。
よくこんな道を付けたものですね。

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洋風住宅だけでなく、近代和風の住宅もあります。
洋風住宅の生垣に対して、和風住宅は屋根付きの板塀。

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北から南に縦断して区域界の疎水まで来ました。
この時は桜の満開までもう一歩という時期。
当時も今も環境のよい住宅地です。

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2009年4月 8日 (水)

萩児童公園とラジオ塔(京都市左京区)

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大阪都市文化研究会(都文研)の例会に参加して、京都市左京区の郊外住宅地を歩きました。
地下鉄の北山駅から歩き始めて、すぐに洛北土地区画整理組合(昭和5年竣成)の施行地に入ります。それについては別に報告しますが、施行地内に、萩児童公園という公園がありました(昭和15年指定)。
入り口は4分の1円弧のしっかりしたコンクリートづくりで、煉瓦タイルを貼った門柱4本が迎えてくれます。

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ジグザグに貼られたタイルはこういうデザインなのでしょうね。
ゆるい四角錐の頂部がかすかにアールデコ。

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公園の隅に、洛北土地区画整理竣工記念碑が建ちます。
記念碑は事務処理が完了して記念式典が行われた昭和9年のものです。

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公園の一角は一段高いテラスになっています(奥の部分)。
東京の震災復興小公園を設計した井下清は、「児童と成人の利用の錯綜を平面的に区画するよりは施設に於て特色づけ、児童の遊戯は成人の鑑賞となるも、成人の休養地は児童には何等感興なきものと為す如き「テレス」は、此目的を達する方策の実現である。」と述べているらしいので、この部分はそういうテラスでないかと思います。
東京の震災復興小公園は、全国の児童公園のモデルになっていました。

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案内役の方が気付かれたのですが、この公園の中にラジオ塔(ラジオ放送普及のために建てられ、ここからラジオが流れた)が残っていました!
JOOK(NHK京都放送局)の文字がありますので間違いありません。
→他のラジオ塔についてはこちら
ラジオ塔については、現存する物をネットで調べたりしましたが、この公園内のラジオ塔については見たことがありません。
今まで見たものは帝冠様式というか和風のものが多かったのに対して、これはシンプルでモダンなデザインです。

(追記)
 タイミングの良いことに、京都新聞にラジオ塔の記事が載りました。
 京都新聞2009年4月9日「ラジオ塔遺構、京に7基現存」
 この記事によると、京都で現存が確認されているのは、
 円山公園(東山区)、萩児童公園(左京区)のほか、船岡山公園(北区)、紫野柳公園(北区)、小松原公園(北区)、橘公園(上京区)、御射山公園(中京区)だとか。
 確認されたのは良いけれど、見つける楽しみがなくなったような・・・
 (2009.4.9記)

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またこの公園にはセセッション風の国旗掲揚柱らしきものもありました。
比較的古いものが残り、思いがけず収穫のある公園でした。

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2009年4月 5日 (日)

南朝史跡の北畠公園(大阪市阿倍野区)

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大阪市阿倍野区王子町3丁目にある北畠公園を紹介します。
(昔の熊野街道と重なる)あべの筋に面する面積1897m2の小さな森です。
最寄り駅は阪堺電車上町線の東天下茶屋駅か北畠駅。阪和線の南田辺駅はちょっと離れています。

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入り口には立派な石の標柱で「史跡 北畠公園」とあります。
昭和14年11月竣工と刻まれていて、公園の開設は昭和15年1月1日です。

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入り口を入ると道がL字に伸びています。
左奥に何かがあるのが見えます。

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奥には「北畠顕家公墓所」がありました。

北畠顕家公は、後醍醐天皇の建武の新政の時代(1333〜1336年)、16歳で陸奥の守として奥州に下ります。1335年、反乱を起こした足利尊氏を討っていったんは九州に敗走させますが、九州から反攻した尊氏に後醍醐天皇は京都を追われ、1338年、再び奥州から出撃した北畠顕家は、堺の石津の戦いで戦死します。享年21歳。

この墓所は、太平記などの伝承により、江戸時代の学者・並川誠所の提唱で、享保年間(1720年頃)に建てられたものだそうです。
説明板が何枚もあって、北畠顕家公の事跡や上奏文が紹介されていました。
ちなみに標柱は大正8年のもの。

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墓所の向かいに公園の由来を記す石碑が立っていました。
内容は次の通りです。





昭和三年七月同志相謀リ北畠卿顕章会ニ集シ墓域拡張
修築ノ為篤志家ノ寄付ヲ勧奨シ其額五千四百余円ヲ得
タリ依テ年次祭典ヲ行ヒ墓域隣楼ノ民屋並宅地ヲ買収
シ以テ浄化拡築ヲ図ラムトセシニ時恰モ大阪市ニ於テ
史跡公園トシテ経営セラルルニ会セリ是ニ於テ其買収
ニ係ル宅地三十二坪八合ト残余金千二百円ヲ以テ事務
所六坪ヲ建設シ之ヲ大阪市ニ寄付セリ而シテ会計事務
ハ副会長田中直藏之ヲ掌理シ是ニ全ク結了ス依テ石ニ
刻シテ大方各位ノ高志ニ酬ユト云□
    昭和十五年五月二十二日
      北畠卿顕章会長正六位勲三等
                武岡充忠誌
                宮川黄石書

 ※旧字体は新字体に変更しました。

 つまり、有志の方々が北畠顕家公の墓域拡張のため、募金を募ってお墓の隣地を買収するとともに、6坪の事務所を建て、大阪市に寄付して公園としたということのようです。

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敷地の隅にあるこの建物が6坪の事務所にあたるものではないでしょうか。

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この施設では、地域の文化教室が開かれているようです。
顕信塾とありますが、北畠顕信(北畠顕家公の次弟)にちなむ勉強会でしょうか。
地域に根付いた施設になっていることが分かります。

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裏門の向こうには路地。
王子町の住宅地へと続いています。

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2009年3月29日 (日)

中から京都市美術館

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円山公園を訪ねた同日に京都市美術館に入りましたので、それもついでに紹介しておきます。
外観については、岡崎公園を訪問したときに少し紹介しました。

京都市美術館HPによれば、京都市美術館は昭和3年の天皇即位大典記念事業を機に、昭和8年に設立された「大礼記念京都美術館」が前身だそうです。東京都美術館に次ぐ、日本で2番目の大規模公立美術館でした。

美術館本館は、「日本趣味を基調とすること」の条件で公募され、一等に入賞した前田健二郎の設計図案を基に、昭和6年に着工、昭和8年に竣工したそうです。洋風の建物に和風の屋根が載る、いわゆる帝冠様式です。

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門柱には「京都美術館」の古いプレートが残ります(戦後の接収をへて、昭和27年に京都市美術館と改称)。さらにうっすらと「大礼記念」の文字跡が残っているとのこと。

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正面玄関を入ると、天井にはたくさんのレリーフの花が並んでにぎやかです。

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エントランスホールの正面には2階に上がる階段があります。階段は茶色い大理石で、親柱は灯籠のような和風。人が多いので、ホール全体は撮っていません。

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大きな吹き抜けにはなっていませんが、横からは華やかな2階の様子がうかがえます。

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2階の天井は花のステンドグラスで埋め尽くされています。格天井+和風のステンドグラスという組み合わせ。

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1階ホール脇にはモダンな格子のステンドグラスがあります。色合いは落ち着いています。

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1階天井の梁と大型の照明器具。梁や天井周りはけっこう細かく装飾が入っています。

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北側階段ホールの照明器具は少し小ぶり。

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北側階段ホール。カーブを描くゆったりした階段で、普通の建物ならこれが正面でもおかしくないぐらい。

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東側の1室の天井部分。この部屋の柱は黒っぽい大理石が使われています。ちょっとぜいたくなつくりです。

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2階の柱の上の部分を見てみると、雲型など和風をもとにしながらも、かなり幾何学的なデザインが入っていました。セセッション風が入っている?

内部もずいぶんと立派な京都市美術館でした。

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2009年3月28日 (土)

外から長楽館(京都市)

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1月に京都の円山公園に出かけたとき、側にある長楽館も外から眺めました。ひろさんが「関西洋風建築めぐり・長楽館」として内部を紹介されていたのに関連して(かなり前ですが)、外観を紹介しておこうと思います。

長楽館は、明治の煙草王と呼ばれた実業家・村井吉兵衛が、迎賓館として1909年(明治42年)に完成した建物です。長楽館が起工された1904年は、日露戦争の戦費調達のために煙草専売制が敷かれた年で、その後、村井は莫大な補償金をもとに銀行、印刷などに事業を展開して財閥を築いていったそうなので、迎賓館は転機を迎えた彼にとって重要な意味を持っていたのだろうなと想像できます。

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まずは門から。門柱には花瓶のようなものが乗っています。

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門を入って東側の入り口。こちらは四角くてあまり飾り気がありません。

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床下換気口の格子(グリル)は、アールヌーボーっぽいデザイン。植物模様です。

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北面の出窓はゆるやかなカーブを描いています。
足元にはなぜか朝鮮風の?石像が並んでいます。

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2階には列柱、そしてまたアールヌーボー風の格子がはまっています。

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南側から見るとかなり奥行きのあるのが分かります。

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南側にも北側同様のゆるやかな出窓があります。

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疾駆する帆船を描いたステンドグラス。
夕陽に向かって走っているようです。
もうすっかり日が暮れてきました。

これだけ紹介してもあまりかぶらないぐらい、見どころの多い建物です。
次はお茶でもしながら内部を見たいと思います。
繰り返しになりますが、見事な内部については、ひろさんの記事をご覧下さい。

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2009年3月15日 (日)

洋風玄関の丸保園(堺市)

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堺の住宅地ミニ探訪のつづきです。
前回の永山園から中央環状線(国道310号線)を挟んで南側に丸保園があります。
上の写真では左が永山園(森は永山古墳)、右が丸保園(森は丸保山古墳)です。
丸保園は、北丸保園、南丸保園があり、永山園と同様、昭和8年からの町名です。

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道を渡ると陵西通でした。ここも和洋折衷住宅が建っています。
遠目には戦後建築でもあるタイプなのですが、

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木製の窓枠や玄関などを見ると戦前のものなのでは?と思わされます。
とくに玄関扉は矢羽根の模様に刻まれています。

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お向かいの門扉も手斧ではつったような仕上げで、きっちり積まれた石塀とレトロな門灯が雰囲気十分です。

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丸保園に入ると、このように見事な生垣があり、上質な郊外住宅の表情です。

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こちらが今回のお気に入りNo.1です。
入母屋の和風住宅に玄関だけが洋風というのがユニーク。
生垣も庭木もきれいに整えられていて、全体として美しいバランスです。

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玄関部分を拡大するとこんな風です。
真ん中にはメダリオンが入っています。

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またこちらは2軒並びの洋風玄関付き住宅。
玄関は洋風ですが、2階の窓手すりなど和風です。
右は歯科医院をされています。看板が昔風でしょう?
玄関のデザインがさっきの家とかなり似ています。

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左の家の玄関に立つ門柱は、上部にスクラッチタイル、残りに波状のタイルを散らした門柱で、たぶんオリジナルでしょう。生垣の陰に隠れて右の門柱も残っています。

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こちらの家も全体的にはそんなに古そうに見えないのですが、

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軒裏が木製で、屋根裏の換気口も木製なので古いものなのでしょう。形もハの字ですし。

これらのほかにも分かりにくいけれど戦前の住宅ではないのだろうか、というものがいくつもありました。案外残っているものです。

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帰りには二条通の洋風長屋を見て帰りました。
改めて一条通〜七条通も歩いてみないとと思います。
洋風長屋のいろいろが見れるはずです。

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2009年3月12日 (木)

洋風付きの永山園(堺市)

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久しぶりに大阪の話題です。
以前から、堺に永山園・丸保園という地名があるのが気になっていました。
名前からしていかにも郊外住宅地です。南海高野線が堺東駅を出て、上町台地から仁徳天皇陵に連なる台地を切り通しで抜けるあたりにあります。以前取り上げた中三国ヶ丘町南三国ヶ丘町の住宅は線路の向こうです。2月の初め、現地を確かめに行きました。

三国ヶ丘駅からスタート。
駅舎は昭和17年?
ほぼ高野街道に沿って歩いていきます。

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永山園に入っても最初はそれほど古い住宅がありません。
左側が東永山園です。期待外れかという気持ちに。

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永山園の中には永山古墳があります。永山園は永山古墳、丸保園は丸保山古墳にちなんだ名称なのでしょう。永山古墳は百済から来日した学者・王仁の墓という伝承もあるそうです。今は、堀が釣り堀になっています。

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中永山園でようやく郊外住宅地らしい住宅が現れました。
杉皮壁の和風住宅です。一体的な生垣もそれらしい。

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赤、青の瓦の取り合わせが美しい住宅。
屋根裏の換気口が木製なので、それなりに古そうです。

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ついに洋風の住宅が現れました。
間違いなく近代の郊外住宅。

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門扉のデザインから、丸窓、腰壁の下見板、木製の玄関扉、軒を支える柱、持ち送りまで、古い意匠を残しているようです。

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洋館部分に派手さはありませんが、洋館付き住宅のタイプでしょう。

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そして思わずぞくっとしたのが、五連の洋風長屋。
右端の家だけ間口が広くて、大家さんなのかもしれません。
一軒一軒デザインが微妙に違うのが面白いところです。

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鮮やかなスカイブルーで縁取られた一軒。
多少高台にあるのですが、さらに盛土されています。
階段に汲み取り口が?

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向かいにもまた洋風の住宅が並んでいます。同様に盛土で石垣が積まれ、階段で出入りする形になっています。

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こちらは蔵のようなブロック積みの建物。
事務所として使われています。

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これも和洋折衷の住宅。
盛土に石垣、石の門柱を立てています。
住宅本体は腰までタイル張り。
残念ながら空き家です。

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立派な洋館付き住宅もありました。
洋館部分は洋風控えめですが。

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この住宅の見どころは階段のカーブ。
美しく仕上がっています。

気になるのは永山園の開発時期ですが、永山園・丸保園の町名ができるのが昭和8年ですので、その頃が開発時期かと思われます。見た目にもそんなところですので。
思った以上に古い住宅が残っていました。

次回は丸保園を紹介します。

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2009年2月14日 (土)

明治のレンガ建築を買いませんか?

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たまたま堺市を歩いていて、永楽邸(旧丹治商会)を通りがかりました。
明治33年(1900年)に建てられたという丹治商会は民間第1号の煉瓦製造会社とされるだけあって、煉瓦造の美しく整った建物です。

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・・・が驚いたのは「売物件」の文字。
こんな近代建築が売りに出されるとは。

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玄関上部のステンドグラス。
構成主義の美しいデザインです。
レストランや喫茶店などにも使えそうなのですが、ネックは駅から遠いのと駐車場の確保でしょうか。

いい買い手が見つかってほしいものです。
近代建築を活用したお店として求めている人はいると思うのですが。
どなたか買いませんか?

 ◆詳しい物件の情報は、こちらに掲載されています。


(追記)
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念のため、もう一度、丹治商会を見に行きましたが、まだ売れていませんでした。
今回、丹治煉瓦製造所の刻印煉瓦を確認したところ、「丹」の字を変形したデザインだと確認されました。ちょっとかわいい。写真の刻印は線が細いですが、もっと太いタイプもあります。
(2009.4.19記)


<関連ブログ>
「ひろの東本西走!?」で「永楽邸(旧・丹治煉瓦製造所事務所)」として、紹介されています。

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ちなみに倉庫の方は、昆布屋さんになっています。

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2009年2月12日 (木)

阪南町の下見板住宅群

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堺の郊外住宅を紹介しようと準備していたのですが、すごいのを見てしまったので先に紹介します。

場所は大阪市阿倍野区の阪南町4丁目。あべの王子商店街のギャラリーに用事があり、JRの南田辺から歩いたのですが、地図を見ていて周囲と違う街区があるのに気付きました。8戸1街区が横3街区×縦4街区整然と並び、間の道が破線(未舗装)で表示されている区画です。
何があるか分からないけれど、確かめに行ってみるとそこには・・・

下見板の郊外戸建住宅群があったのでした。
和洋折衷で、黒い下見板に白い破風と窓手すりが鮮やかです。

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同じようなタイプの住宅が並んでいます。
改築されている住宅も多いですが、かなり原型を留めています。

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一角には「北畠自治会町会」と印された石柱がありました。
昭和13年に建てられた石柱です。

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破風のサイディングを白壁に変えればオリジナルに近いと思われる住宅。
玄関扉のオリジナルはよく分かりません。

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植栽が豊か。

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出窓のある住宅。

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1階窓手すりのある住宅。

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2階窓手すり

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玄関上部のしゃれた門灯が特徴的で、恐らくオリジナル。

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側溝は石材のU字溝です。

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郊外住宅がこれだけ塊で残っているとは。
囲まれるしあわせ。

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こちらの住宅ですが、足元に煉瓦が積んであります。
煉瓦はこの家の方の好みだと思いますが。
煉瓦刻印を確認してみると・・・

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<讃岐煉瓦(株)の刻印>   <六光星?やや不明瞭>
※上下反転しました

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ちょっと毛色の違うモダンな住宅もあります。
戸袋がユニーク。

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<阪南郊外精図・大正10年発行>

さて、阪南町の中でなぜここに異質な郊外住宅があるのか。大正10年の阪南郊外精図を見ると、ヒントがありました。
このあたり、桐山と呼ばれる森だったようなのです。
周辺は田畑なので、この森が「高燥の地」として、先行的に宅地化されたのでしょう。
阪南土地区画整理組合(大正13年〜昭和6年施行)の区域として、周辺もすぐに都市化していきます。

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<昭和4年発行・1万分の1地形図「長居」より>

もう一つ、東天下茶屋駅にある馬車鉄道の説明板に使われていた地図で、ベースに昭和4年の地図が使われています。水色で囲みましたが、この時点で既に宅地化していることが分かります。ということで、この住宅地の開発時期は大正末から遅くとも昭和4年までということになります。

これだけ郊外住宅地の雰囲気が味わえるところも珍しいと思いますので、一見の価値ありです。

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2009年2月10日 (火)

アットホームな東淀川駅

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新幹線を使う出張があったのですが、新大阪駅に早く着きすぎたので、周辺を散歩してみました。すぐ隣の東淀川駅まで。すごく駅間が短くて、わずか700mしか離れていません。

東淀川駅は1940年(昭和15年)からある駅です。
アットホームという表現が適当かどうか分かりませんが、昔懐かしい駅舎というよりは、郊外住宅地に建っていても違和感ないぐらいの駅舎です。新大阪駅開業で廃止されてもおかしくないところ、存続はしたものの建て替えるほどでもなく・・・ということなんでしょう。結果的に街中にこんなかわいらしい駅舎が残っています。

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ちょっと斜めから。
こちらは西側駅舎です。

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東側駅舎も同様の建物。

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ちょっと分かりにくいかもしれませんが、天井の飾りの梁には刻みが入っています。
ますます家みたい。

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線路に沿って、もう少し北まで足を伸ばしてみました。
低い通路があって、線路の土台が煉瓦でした。

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どういう効果があるのか知りませんが、ところどころ石がはめられています。手を掛けている、という感じがします。

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刻印を確認してみると、先日、岡町で見かけたのと同じ、六光星のマークでした。

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このあたり、昔は郊外ですので、農村集落があり、所々にお屋敷があります。
中にはこのように大きな屋敷森をもつものも。

ここは西側ですが、東側には高射砲台住宅があり、共同アパートや文化住宅のあるレトロな街がありそうなので、また改めて歩きにきたいと思います。

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2009年2月 8日 (日)

路地での物干し

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神戸市長田区新長田の路地で。
製麺所なのですが、路地を使ってすだれを器用に干しています。


※3月ぐらいまでしばらく更新間隔が開きがちになると思います。
 ご了承下さい。小さな記事も入れていきます。

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2009年1月25日 (日)

京都で最初の円山公園

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先日、京都で一番古い公園である円山公園に出かけました。
明治6年に江戸時代以来の遊覧の地を公園とすることを定めた太政官布告で、「・・・京都ニ於テハ八坂社、清水ノ境内、嵐山ノ類、総テ社寺境内除地或ハ公有地ノ類・・・」と例示されていたほどですが(八坂社の周囲が円山公園)、開設は明治19年(1886年)12月25日です。

円山公園といえば枝垂桜。
右にあるのが、よくテレビに映る枝垂桜ですが、冬なのでさびしい姿です。
もともと八坂神社が祇園感神院と呼ばれていた頃の坊、宝寿院にあった桜らしいですが、昭和22年に枯死して、現在の木は昭和初年生まれの2代目です。(案内板より)

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今回撮り忘れたので、2000年に撮った八坂神社です。

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<明治22年発行地図>

明治19年に開園した当初は、上のハッチのあたりが公園だったと思われます(正確な地図ではないのでご注意)。現在の公園の範囲には建物も建っています。


より大きな地図で 近代の公園 を表示

明治22年以降の第一次拡張、明治41年の第二次拡張の土地収用によって、円山公園は現在の広さになりました。現在は86600m2です。

なお、明治41年の第二次拡張は、明治12年に外国人用ホテルとして建てられた「也阿弥ホテル」が明治39年に焼失したことをきっかけとしています。当時は今以上に茶屋などで賑わっていたようです。

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拡張された公園の向こうには知恩院が見えます。

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公園の南には、明治のたばこ王・村井吉兵衛が明治42年に建てた長楽館があります。設計はジェームズ・M・ガーディナー。焼失した也阿弥ホテルの後を継いで外国人も宿泊したようです。

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円山公園に隣接して多くの茶屋、料亭などがあります。明治時代の公園は、上野公園や住吉公園などでも料亭などが建っていたようですが、今もその雰囲気を残す円山公園は貴重ではないでしょうか。

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第二次拡張後、京都市は円山公園改良計画案を武田五一に依頼、公園改良工事が大正2年から3年にかけて実施され、京都を中心に数多くの作庭を手がけた小川治兵衛による回遊式庭園が整備されました。
このひょうたん池もそのときのものです。

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(追記)戦前の絵葉書より。大正の改良工事後の姿です。樹木が少なめですが、基本的には今と変わりない風景に見えます。(2009.5.13)

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同じくひょうたん池。
碾き臼のような円柱と長方形の石材の組み合わせは、小川治兵衛の好みなのでしょうか。いろんなところに使われています。

(追記)琵琶湖疎水などについて詳しく調べられている「そすいのさんぽみち」kankanbowさんの記事によると、円山公園には三条大橋・五条大橋の橋桁が多数再利用されているらしいとのことです。三条大橋が解体されたのが大正元年なので、ちょうどタイミングが良かったのですね。そんな由緒あるものとは。
 →山野祥子さんの論文「京都・三条大橋橋脚の築造と「馬淵石工」」(PDF)によれば、三条大橋がつくられたのは天正期(1573〜1592)、秀吉の命によるものだそうです。なんと。
 →国立国会図書館HPの、
   明治の三条大橋の写真
   明治の五条大橋の写真
(2009.3.29記)

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ひょうたん池に注ぐ小川を遡っていきます。
ところどころに石橋がかかります。面白い組み方。

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こちらの石橋は角材を斜めに。

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飛び石にも円柱と自然石を組み合わせて。

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階段の縁にも丸と自然石を使っています。

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小川を逆にたどっていくと小さな滝がありました。

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庭に建っていたむっくりした面白い灯籠。案内板で「善導寺型灯籠」ということを知りました。これって前に羽衣浜神社(高石市)で見た謎の灯籠と同じでは?と帰って確認したら、やはりそう。謎が一つ解けました。京都にある知恩院派の善導寺の灯籠に由来するそうです。火袋に茶道具(茶碗・茶筅、炭斗・ 火箸、茶釜・柄杓、五徳など)が刻まれているのが特徴で、上の写真の場合は、左が炭斗で右が五徳ではないでしょうか。

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園路沿いの柵として薬莢型の石柱が並んでいます。

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ちょっと南に外れて、京都市円山音楽堂がある場所も円山公園です。
音楽堂は昭和2年の開設。音楽堂自体は建て替えられているようですが、「京都市音楽堂」と刻まれている門柱は当時のものではないでしょうか。

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園内に立つ「名勝 圓山公園」の石柱は昭和17年に立てられたもの。
昭和6年の名勝指定を示す石柱です。

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不思議なことに、大きな石の角柱が、公園のあちこちにごろんごろんと置いてあります。

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公園の中にはこんなものもあります。何か分かりますか? ラジオ塔(ラヂオ塔)というものだそうです。前に見たときはただの記念碑と思っていたのですが、NHKがラジオ放送の普及のために各地に立てたもので、ここからラジオが流れるというもの。街頭テレビの前には、街頭ラジオがあったんですね。ちなみに第一号は昭和5年、大阪の天王寺公園に設置されたようです。

このラジオ塔は昭和7年、NHK京都放送局の開局時に設置されたもの。ラジオ体操や野球中継に人が集まったようです。戦時中に資材を供出しましたが(金属部分か)、昭和57年に修復されました。(説明プレートより)NHK京都放送局のJOOKの文字があります。

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そういえば、松江でもラジオ塔を見ていたのでした。
松江放送局開局記念で、昭和7年のもの。

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中之島公園にもあるとのことで、たぶんこれでしょう。
前から何だろうと気になっていました。
今は公園に入れないので外から撮りました。

言われてみれば他にも見ていたことに気付きます。
大阪城公園のラジオ塔
新潟・白山公園のラジオ塔

今まで気になっていた疑問が一気に解けました。
それぞれ似ていますが、形が違うのが面白いですね。
公園にあることが多いようなので、これからもラジオ塔には出会いそうです。

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しかし、また新たな謎が。
円山公園の地下には駐車場があります。
その出入り口はこんな石積になっています。

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この石の山が何カ所もあるのですよ。
換気口といえばそれまでですが、駐車場の設備としてはどうもしっくりこないものがあり、何か別の意味があるのではという気がするのです。昭和10年代の防空壕とかそんな雰囲気が。

どなたかご存じないでしょうか?


※ちなみにこの記事で400本目の記事です。
 皆さま、今後ともよろしくお願いします。


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2009年1月20日 (火)

葉っぱの昭和ビル(神戸市)

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神戸元町の栄町通に出かける用事がありました。
栄町通の表通りはかつて金融街だったようですが、海岸通との間にある裏通りに丈の低いレトロビルが散在し、小さな雑貨店・セレクトショップが集まっています。

現在の住所は栄町通や海岸通ですが、昔は「内海岸(通)」、通称「乙仲通」といって、海産物問屋や通関業者があったようですね。→神戸市HP「神戸建築物語 第5回」

そんなビルの一つが昭和ビルです。
名前からして昭和の初めに建ったんだろうなと思いますが、『兵庫県の近代化遺産』によると、やはり昭和10年の建物です。

お店が入っているので、中も見られますが、もう薄暗いので今回は入っていません。

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表から見ると比較的飾り気が少なく、3階のアーチ窓と、面格子にジグザグ・デザインが入るのが目に付くぐらい。

館内の案内に「南側」を分けて表示してあったのでどういうことだろうと回ってみると・・・

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細長いビルで、反対側の細い道にも面しているのでした。
2階にバルコニーまであってこっちの方が面白い。
装飾が多くて、表との統一感がなく、こちらは2階ですし、こちらが先で、表は増築(あるいは改築)なのでは?

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軒蛇腹は葉っぱで、角にも葉っぱ。
ここまでストレートな葉っぱデザインはありそうで少ない気がします。

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とにかく至るところに葉っぱ、葉っぱ。
裏通りの楽しい葉っぱのビルです。

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2009年1月18日 (日)

岡町住宅地の玄関・側溝(豊中市)

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阪急宝塚線の岡町駅の西側には、岡町住宅会社により、大正4年(1915年)に開発された岡町住宅地が広がっています。開発面積は75400坪。このような和風の落ち着いた街並みが今も残ります。

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中にはシンプルな洋館が付くものもあります。

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美しいのが玄関周りで、大きめの花崗岩を橋と入り口に使い、間をカラフルな敷石で埋めています。

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裏に入った通りには一列分、昔の門構えが残っていました。これは壮観。

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また、側溝の底に浅いU字の陶器を敷いている部分があります。その上には煉瓦積み。

090114okamachi6s煉瓦の刻印は六光星。見たことがある気もしますが、どこの会社のでしょう。

足元にもこだわりを感じる住宅地です。

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2009年1月13日 (火)

少しだけ額田山荘(東大阪市)

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豊浦の後、郊外住宅地の額田山荘に向かいました。
額田山荘は、額田駅の東北に昭和7年(1932年)、大阪電気軌道(のち近鉄)が開発した5000坪の住宅地。終戦後の米軍撮影空中写真をみると、緑豊かな住宅地です。

近鉄奈良線の額田駅前にはちっちゃなロータリーがあって、それだけで郊外住宅地気分が高まります。

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でも歩いていても、明らかに古いという住宅は見当たりません。いかにも「洋風建築です!」という住宅は、ということですが。

目立つのは、屋根の傾斜がかなり緩い住宅。大阪の街を見下ろす眺望が売りのこの地域で、互いに視界をさえぎらない工夫かもしれません。

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こんな感じです。

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歩道のない道路に街路樹が植わっていて、近代の住宅地らしくなってきました。今ならこういう植え方はできないですね、たぶん。

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いよいよ額田山荘の中心部へ。
この通りは山荘の名にふさわしい、ロックガーデンのような石垣・生垣です。

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額田山荘会館の前に、山荘自治会の案内板が立っていました。
額田山荘の範囲は分からないのですが、だいたいこの自治会のあたりだと思われます。
「山荘」の名前も生きているものの、住所でいうと東大阪市山手町です。

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ちょっと気になる石積がありました。
暗くて分かりにくいですが、両脇に円筒形の石積があります。何か案内板でも立っていたのでしょうか。

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少し坂を上がって、ようやく洋館付き住宅を1軒見つけました。
眺望のいい位置で、サンルームに仕立てられています。

ここで日没タイムアウト。額田山荘は建て替えが進んでいるのか、半分ほど歩いて、あまり収穫なしでした。

石切方面まで歩こうと思っていましたが、それはまたの機会として、それも含めて、もう少し周辺を歩き回る必要がありそうです。

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2009年1月11日 (日)

東大阪ものづくりの源流−豊浦界隈

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枚岡公園の後の話です。
枚岡公園の入り口、豊浦川の脇には休憩所のようなお店があります。ひと休みして豊浦川沿いに国道308号(これでも国道です)を下りかけ、ふと左の建物を見ると、うっすら墨で「伸線」の文字。もしかしてと、休憩所に戻ってご主人に確認すると、やはり水車工場だったそうです。豊浦川の上流にはさらに3つの水車工場があったとのこと。

枚岡の伸線工業は、天保年間終わり頃(1840年代後半)、行商人の車屋利兵衛が始めたそうです。最初は人力でした。当時、生駒西麓の谷では水車による製粉や搾油などが行われていましたが、幕末からこれに伸線も加わりました。明治10年代から豊浦谷の水車を利用した伸線製造が盛んになっていきました。
大阪商業大学図書館「枚岡の伸線工業」

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見ての通り、高低差があり、向こうには大阪の街が見えます。
水車工場を建てるには適地だったわけです。
大正3年に大阪電気軌道(のち近鉄奈良線)が枚岡経由で奈良まで開通すると、昔の電鉄会社によくあるように周辺に電力が供給され、水車工場は電化されるとともに、より広い土地を求めて扇状地に下っていきました。雨量に左右される水車工場と違い、通年操業できる電力によって伸線工業は発展し、東大阪のものづくり集積へとつながっていきました。

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枚岡の中心である豊浦では、このような下見板の古い工場を見ることができます。

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話が先走ってしまいましたが、豊浦川沿いに下っていきます。
豊浦川はこんなに川幅の狭い川です。古くから開発されていただけあって、あちこちに石橋がかかっています。

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大正8年に枚岡土地が枚岡駅東北の生駒山裾に住宅別荘地を開発した(「大阪府の近代化遺産」p66)そうなのですが、あるいはこのあたりのことなのでしょうか。2階に眺望部屋をもつ近代和風建築らしきものが建っています。

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風流な円窓をもつ家もあります。茶室でしょうか。

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豊浦川は豊浦の集落に入りジグザグに扇状地を下っていきます。ここからは川を離れ、豊浦の集落を歩きました。

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枚岡神社があることから分かるように豊浦は古くから開けていた土地ですが、その後も暗越奈良街道のルートとして要地でした。集落内に枚岡中央公園があります。ここは室町時代以来の豊浦村の有力者・中村氏の屋敷跡。そして、大阪夏の陣でここに家康の本陣が置かれたそうです。なるほどここなら大阪の街が一望できます。

ちなみに右手に見える楠は、大正13年の皇太子殿下ご成婚記念植樹との石碑があります。

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また近くの豊浦公民分館には、昭和30年の産業戦士像が横たわっています。銘板を読むと、この台座は昭和9年のもので、大楠公像が立っていたそうです。戦時の金属供出で撤去されたため、娘さんが改めて寄贈されたのだとか。それぞれの時代の報国の忠臣といえるかもしれません。

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少し上手の小公園には、昭和13年の恐らく国旗掲揚柱がありました。「祈武運長久」と書かれています。

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でもそんな雰囲気と一線を画して、旧枚岡町役場(大阪東信用金庫東大阪営業部豊浦出張所)があります。枚岡村が昭和14年に町制施行して枚岡町になりますが、そのときの建物らしいです。

ぷにょさんが、まちかど逍遥「枚岡公園のサプライズ」で書かれているのを見て訪ねました。

明るいスパニッシュ風。昭和13年に国家総動員法が制定され、既に戦時の物資統制が始まっているのに、そういう時代の雰囲気を感じさせない建物です。眺めるには素敵な建物。それが当時の枚岡町の雰囲気だったということでしょうか。

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豊浦にはこんな建物も。下見板の建物に前面を看板建築的に改築しているようです。シンプルながら、縦3本ラインの桟に統一感と品の良さを感じます。

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豊浦を後に、今度は額田川に沿って再び登っていきます。
これもぷにょさんが紹介されている洋館付き住宅。
白に赤い縁取りの三角形がモダンで、どこか近代建築の写真で見たことのあるデザインなのですが、何だったか思い出せません。

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さらに登っていくと、線路脇に「大師橋」という古そうな石橋が架かっています。
橋板に刻まれた文字を読むとなんと文久4年(1864年)。
江戸時代とは思いませんでした。

坂を登り、大正時代の額田山荘へと向かいます。

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2009年1月 7日 (水)

元演習林の枚岡公園(東大阪市)

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枚岡神社のあと、北隣にある府営枚岡公園を探訪しました。
枚岡公園は、昭和13年(1938年)に当時の枚岡村から寄付された土地と現大阪府立大学の演習林を合わせて、府営公園として開園しました。
公式ホームページ
暗越奈良街道(今は国道308号)が通る豊浦谷とその両側の尾根が森林公園になっています。


より大きな地図で 近代の公園 を表示
まさに山でしょう?

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北側にある正門から入ると、古い門柱が立っていました。
右→左の文字なので戦前でしょうね。
武骨な石積です。

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そこから豊浦谷の方に歩いていくと、あれ?、これは!
昔のものらしい休憩所が残っています。
奥が店舗だったのではないかと思いますが、よく壊さずに残してくれたものです。

手前の丸いテーブルみたいなものは、先ほどの門柱に共通するテイストで、丸石が貼られています。
真ん中にパイプが通っていますから、水飲み場だったようです。

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休憩所の中央には十字のベンチ、四隅にL字のベンチが置かれています。

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縁の部分に柱の基礎が残り、もともとはひさしが差し掛けられていたようです。

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縁の部分は、石が敷かれて煉瓦で縁取られています。

090103hiraokakouen6煉瓦の刻印は、日本煉瓦(株)(推定)の四弁花か。

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西面の換気口は丸に十字。北面、南面は長方形×2のタイプです。

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腰の部分は幾何学的な石張りでこれも色合いがきれい。

この建物だけで来た甲斐があったと満足してしまいました。

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豊浦谷の谷筋にはいくつかお寺があります。
こんなところに塔があると意外性を感じます。

前から生駒の谷筋にたくさんのお寺があるのが気になっていたのですが、最近、「朝鮮寺」というキーワードを知りました。昭和20〜40年代に(意外と新しい)、在日韓国・朝鮮人の人たちが信仰するお寺が、生野区からの便が良く、聖地である生駒の谷に多数作られたそうです。その数、20ほどもあるとか。水車工場から寺院への転換もあったようです。まだまだ知らないことがたくさんあります。
 →wikipedia「朝鮮寺」

誤解を招きそうですが、上の写真の寺は違うようです。
暗越奈良街道沿いということでのお寺ではないでしょうか。

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谷沿いに遊歩道が続き、赤い豊浦橋なども架かっています。

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ちょっとしたハイキングで、南側の枚岡山展望台に登ってみました。
! 大阪平野はもちろん、北摂、六甲、淡路島から泉南の山まで見渡す、非常にいい眺め。私の好きな曇りがちの空で、光の帯がうつろって、いつまでも見飽きません。

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<淡路島から四国>

勢いで、北側の額田山展望台にも登ってしまいました。
額田山の方が視界が開けていますが、足下がなくてベンチのある枚岡山展望台の方が存分に眺めを味わえていいような気がします。

煙突の煙がシルエットになるドラマチックな夕空が見られました。ちょっとこの眺めは私にはうまく表現できません。肉眼ではもっとよく見えますが。

冬なので特に良かったのかも。非常にお勧めできます。

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2009年1月 4日 (日)

枚岡神社に初詣(東大阪市)

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今年の初歩きをどこにしようかと迷い、行ったことがなくて、お正月らしく初詣のできるところということで、枚岡を歩くことにしました。枚岡には枚岡神社のほか、枚岡公園、郊外住宅地などがあり、見どころが揃っています。

生駒山地を目指して走る近鉄奈良線は、東花園駅を出ると徐々に高度を上げ、瓢箪山駅を過ぎると大きくカーブして山麓に取り付きます。ぐんぐん登って枚岡駅。枚岡駅の標高は50mほどで、上の写真のように大阪平野が見下ろせます。

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駅のすぐ西側には山小屋風の元銭湯の建物があります。
何にも使われていないようです。
→ひろさんが「近鉄枚岡駅裏の元銭湯」で書かれていますのでそちらをご覧下さい。

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また駅のすぐ東側には洋館付き住宅が建っています。
駅を降りたとたんに期待を高めてくれます。
手前は交番ですが、この柵なら和洋折衷下見板の交番が似合いそう(想像)。

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傾斜地なので階段は必須ですが、ちょっとした通路にもちゃんとした石段があって、行き先を確かめたくなります。

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堅牢でほれぼれするような階段一体の石垣。年季が渋さを加えています。

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よそ見し出すときりがないので、邪念は抑えて神社にお参りします。
参道は駅のすぐ東側から始まっています。
というより、二の鳥居の場所に駅ができたらしいので、参道を分断して駅があるといった方が正しいのでしょう。

「元春日平岡大社」と書かれた石柱が立ち、下に「左なら」と書かれています。
枚岡神社は河内国一の宮(律令制で各国の序列一位の神社)で、社伝によれば、創建は紀元前3年に神武東征の折り、山上の神津嶽に天児屋根命・比売命の二柱(中臣氏の祖神)が祀られたことに始まり、650年に平岡連(中臣氏の支族=藤原氏系)らが現在地に神殿を建て、祭神を遷座したとされています。その後、768年に奈良の春日大社(藤原氏の氏神)が創建される際に、この神社の二神と鹿島神宮の二神が分霊されたので、「元春日」というわけです。

なお、この場所は難波から奈良に抜ける最短ルートの暗越奈良街道が通っていますので、そういう位置の重要性と無関係ではないのでしょう。

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参道は上り坂と階段で、正月なので両脇に屋台が並んでいます。
しかし、それほど長い参道ではありません。
すぐに拝殿が見えてきました。

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春日大社などと同じく、神の使いとして、鹿の石像が置かれています。

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対で母子の鹿も。
残念ながら(?)、境内に本物の鹿はいません。

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この神社には禊場(みそぎば)もあります。
隣にちゃんとした脱衣場がありましたから、利用頻度も多そうです。

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本殿は4つの社殿が並ぶ春日大社式。
春日大社か鹿島神宮から778年に二柱の神様(藤原氏の守護神)を勧請して、春日大社と同じ神様を祀るようになったそうです。

神社の合祀などによって集まった神社も多く、それほど広くない境内ながら、歴史を感じさせる神社となっています。

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2009年1月 2日 (金)

心斎橋の残りもの

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<心斎橋そごうの東50m>

まだどこにも出かけていませんので、
昨年紹介しきれなかったものから少し。
心斎橋のまちなかにある残りものを紹介します。

まず心斎橋そごうの近くにある石畳の路地です。
植木や水盤があるのがいいですね。
奥には蔵もあります。

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<心斎橋大丸南館の南側>

心斎橋大丸の近くにも石畳。
ここはそれだけが残っています。

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<ビッグステップの南50m>

ビッグステップの近くにある細い通路を入ると蔵があるのが見えました。


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表に回ると「オービットステージⅢロジック」という昨年12月にオープンしたばかりの商業施設でした。横の通路を入っていくと・・・

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蔵自体は、飾りのように、きれいにして残されています。

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<原田産業ビルの向かい>

こちらは南船場ですが、原田産業ビルの向かい側。
ガラスブロックが1個だけ残っています。

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この前まではこれだけ残っていたのですが。
中華料理店ができたときに改装されたようです。

まちなかでも案外、いろんなものが残っています。
上の商業施設のように、アクセントとしてうまく取り込んでもらえるとうれしいのですけど。

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2008年12月31日 (水)

五百羅漢跡の福島公園(大阪市福島区)

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下福島公園に続いて、福島公園を紹介します。
福島公園はJR環状線・福島駅の南西にある小さな公園で、大正14年に葬儀場移転跡にできた公園です。福島区では一番古い公園です。葬儀場跡と思って見ると陰鬱に見えてしまいます。

葬儀場跡の公園と書くとタイトルにインパクトがありすぎるのでやめましたが、五百羅漢跡というのも間違いではありません。

地図で確認してみます。

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<大正13年発行 パノラマ地図>

パノラマ地図に五百羅漢と書かれています。
煙突が立っているのは、焼き場の煙突なのでしょう。

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<大正10年測図>

福島公園のだいたいの位置を網掛けしました。

五百羅漢は、黄檗宗の妙徳寺というお寺です。
摂津名所図絵に載るぐらいの名所でしたが、明治42年のキタの大火で焼失、大正6年に一度は再建されますが、南側百数十坪を火事を機に大正元年に開通した市電路線に、北側数百坪を市営葬儀場用地として大阪市に譲渡し、その後、東大阪市の額田に移転していったそうです。

→以上は、井形さんという方が大阪春秋に書かれている内容を参考にしました。
 なにわ福島資料館「五百羅漢寺の後日物語−福島から東大阪額田へ−」

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赤丸を付けたところは、旧川崎貯蓄銀行福島出張所(ミナミ株式会社大阪事務所)です。
妙徳寺の境内だった一角に、昭和9年に竣工しています。
小さいのに映画のセットみたいな貫禄があります。

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妙徳寺の移転理由は、周辺が繁華になったためとのことですが、大正の初めにできた市営葬儀場が大正の終わりにはもう移転してしまったのも、急速な都市化に原因がありそうです。
北斎場(長柄)か佃斎場に統合されたのでしょうか。その経緯は未確認です。

公園には注意をひくものはあまりなく、ただ、円形のコンクリートベンチが設えてあります。

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面白かったのは、公園の門柱の上に盆栽の鉢が置かれていたこと。
花が一輪咲いています。
(ちょっと背景がごちゃごちゃして分かりにくいですね。)
向かいの家の人が置いているのでしょう。
この行為をほめていいものかどうか分かりませんが、うまくはまっています。

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2008年12月30日 (火)

紡績工場跡の公園−下福島公園(大阪市福島区)

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前に大阪市福島区の江成公園を“裏庭的公園”として取り上げましたが、今回紹介する下福島公園もマンションなどに囲まれた中庭的な公園です。ただし、中央を大きく野球グラウンドが占めていますので、開放感があります。
この公園は、紡績工場跡につくられた公園です。


より大きな地図で 近代の公園 を表示

真上から見るとこんな感じ。

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<大正10年測図>

大正10年の地図を見ると、1894年(明治27年)にできた大日本紡績福島工場(のち合併でユニチカ)と大福紡績会社が並び立っています。また東側には福島三天神のひとつ、中の天神がありました。

今はいずれもありませんが、昔の名残らしきものが残っています。

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まず、図の1の位置と思われるL字型の低い煉瓦壁があります。中の天神あるいは大福紡績会社の境界になっていたようです。間に細い通路が描かれていますので、いずれか。

081207shimofukushima3_1 081207shimofukushima3_2 081207shimofukushima3_3
煉瓦の刻印を確認すると、日本煉瓦株式会社(堺市)と推定される四弁花の刻印のバリエーションがほとんどです。
でも、他にもいろんな刻印が混ざっています。
081207shimofukushima3_4 081207shimofukushima3_5 081207shimofukushima3_6
<堺煉瓦(推定)>  <岸和田煉瓦>   <大阪窯業か>

これは何を意味しているのでしょう。
再構築された煉瓦壁なのでしょうか。

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一部、通用門の跡もあります。

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中の天神は戦災で焼失し、復興の嘆願もかなわず、上の天神(福島天満宮)に合祀されました。今は跡地の一角に、飛地境内地として、この記念碑と狛犬、手水鉢などが置かれています。

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もう1つ、図の2の位置らしき場所、民家の裏に3mほどの高さの煉瓦壁が見られます。こちらは大日本紡績の境界壁ではないでしょうか。(状況が分かりにくいですが、引いて撮ると民家の庭が写ってしまうのでご容赦を)

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<大正13年発行のパノラマ地図>

おなじみのパノラマ地図では、赤煉瓦の両紡績工場が描かれています。
しかし、第一次大戦景気での過剰投資の反動として大正11年秋以来、綿糸不況となり、小紡績会社が淘汰され、大福紡績も解散しています。(→神戸大学附属図書館の新聞記事文庫
また右手に描かれているのは曾根崎川(蜆川)ですが、大正13年(1924年)には埋め立てられました。

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昭和2年(1927年)以降、数期に分けての莫大小(メリヤス)会館の建設は、曾根崎川の埋め立てが契機なのでしょう。パノラマ地図でいうと、堂島小橋の上のあたりです。なぜここに莫大小会館があるのかなと思っていたのですが、紡績工場との関連がありそうです。

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<昭和7年発行の地図>

昭和7年発行の地図を見ると、大福紡績跡は福島球場となっています。
堂島の先端部である、合羽島の地名が残っています。

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<昭和16年発行の地図>

昭和16年発行の地図では、大日本紡績もなくなり、昭和17年5月に下福島公園が開園します。

跡地が広大なため、下福島公園は敷地南半分の内側だけで、のちに北側は大阪厚生年金病院(昭和27年〜)、看護学校、大阪日産自動車本社(現在は移転)、玉川小学校(昭和30年〜)などに使われ、周囲はマンションになりました。

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随分脇道に逸れましたが、下福島公園の中に入ります。
正面から入ると、この時期の公園に共通して植えられている(時期は分かりません)カナリーヤシが象徴的に立っています。

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公園の片隅に「此花区町会勤労奉仕」の記念碑が建っています。
この「此花区」がポイントで、此花区は1925年(大正14年)に誕生、1943年(昭和18年)に福島区を分離しました。戦時中でもあり、下福島公園の整備に、当時の町会が勤労奉仕したということではないでしょうか。昭和16年から防空緑地が整備され始め、防空意識が高まりますので、延焼防止の観点からの公園整備ではないかと推測します。

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(追記)前回訪問時は気付かなかったのですが、公園の西口に「下福島公園 昭和十七年四月開園」の文字のある石柱(柵の一部?)がありました。(2009.4.27記)

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公園の中には、野田藤で有名だった藤邸の庭が移されています。
でも今は子供たちの格好の遊び場になっています。
子供はこういう場所が好きなんですよね。

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青く塗られた鉄パイプがたくさん並んでいます。
これらは全て、殖やされた野田藤の藤棚です。
手前に紙がぶら下げられていますが、これは散歩者への呼びかけで、朝夕の散歩時に藤に水をやってくださいというお願いです。花が咲いたら花見でもしませんかと、うまくいけば、なかなか面白い仕掛けです。

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(追記)4月、きれいに咲いた野田藤です。ちょっと花の数は寂しいのですが。(2008.4.27記)

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下福島公園に多い木がイチョウです。
ちょうど訪れた時期は、黄葉の盛りでした。
この右手にはプールがあります。

紡績工場の歴史から藤、イチョウまで、意外と見どころの多い下福島公園です。

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2008年12月24日 (水)

萬福寺のかたち(宇治市)

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1ヵ月ほど前、大阪都市文化研究会(都文研)の歩く会で、宇治を歩きました。
今回は万福寺から六地蔵まで。萬福寺のデザインが興味深かったので紹介します。

萬福寺は、江戸時代の1654年に中国から渡来した隠元禅師が、1661年に開創した禅宗(黄檗宗)の大本山です。中国は明末・清初の時期にあたり、萬福寺は明朝の様式で建てられた日本では珍しい伽藍です。(→萬福寺公式HP

最初の写真は、一番表にある総門(1693年再建)です。

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この窟門(1768年)など、角の丸い中国風です。

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中国っぽさを感じさせるのが、この整然とした石畳です。
正方形の白い石を◇◇◇に並べ、両脇は緑がかった切石(石條)で囲んでいます。緑の石材は、宇治川河床から採れる宇治石(輝緑凝灰岩)という石臼などに使われる材があるそうですが、ちょっと違うかな。

この石畳は龍の背のうろこを表しているそうで、伽藍の軸を貫き、総門前には龍の目として2つの井戸があります。風水的な発想です。

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このように至る所に同じ石畳で統一されています。
日本の石畳だと変化を付けたりすると思うのですが、全体を一つの意志で統一するのが中国風かもしれません。

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石畳は最後に法堂(1662年建立)まで続いています。

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同じく法堂。卍くずしの匂欄が印象的です。

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法堂の横にある、格子のはまった丸窓。

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東側回廊に開梛(かいぱん)と呼ばれる巨大な木の魚が吊されています。日常の行事や儀式の刻限を知らせる法器だそうです。萬福寺を代表するキャラクターになっていて、お土産物にこのデザインが多く使われていました。

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どこから見ても中国風の香炉。

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桃の模様が使われているのも特徴です。これは大雄宝殿(1668年建立)の桃戸。
桃は魔除けの意味があるそうです。

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開山堂の垂れ幕にも桃が使われています。

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境内の西側に石碑がありました。
中国でよく見かけるタイプの石碑です。
今の今まで、これは亀だと思っていたのですが、贔屓(ひいき)といって、龍の九匹の子の一匹なんだそうです。贔屓って動物だったのか・・・
 →wikipediaの贔屓の項

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境内の石畳はほとんどが最初に紹介した龍のモチーフの石畳なのですが、一ヶ所だけ違う石畳があります。
氷烈文(氷裂文?)という氷が割れたような不規則な文様です。

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開山堂(1675年建立)は、隠元禅師を祀るお堂で、この石畳は開山堂に向かう道に使われています。氷烈文は日本海の波濤を表しているようです。(隠元が渡ったのは東シナ海を長崎までのようですが)

日本のお寺と違うデザインがそこかしこに見られるのが、萬福寺のひとつの楽しみ方かなと思います。

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2008年12月21日 (日)

構成主義?の新港貿易会館(神戸市)

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甲子園の後は、神戸に向かいました。
神戸税関が特別公開ということで見に行ったのですが、すぐに終了時間になってしまってあまり見れず。仕方なく、近くの近代建築などを見て回りました。

三宮からフラワーロードをずーっと海に下っていった先の新港地区には、神戸税関(1927年)、旧市立生糸検査所(1927年)、旧国立生糸検査所(1932年)や三井倉庫(1926年)、三菱倉庫(1925、1928年)、住友倉庫(1926、1962年)、川西倉庫(1925年)の大きな4〜5階建て倉庫群などが立ち並んでいます。

その中でも気に入ったのが、この新港貿易会館(旧新港相互館)(1930年)です。貿易関係者の事務所やクラブハウス的な建物だったそうです。試しにこの名前で検索してみるとファンの多い建物です。

遠目には落ち着いたスクラッチタイル張りの、飾り気が多いとはいえない建物ですが、魅力的なのはその細部意匠です。

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まず丸窓とこの格子の模様。
この格子はアール・デコの中でも構成主義の流れを汲んでいるように見えます。
この前、伊勢竹原で見た格子と似たような系統に思えます。

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また玄関上部にはこのような門灯があったり、

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ひさしの間にも同様の格子があります。

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今は使われていない受付にも同様の格子があります。
郵便マークが読み込まれているという説も。歯車を読み込んでみたり、何かを読み込むのはこのパターンの遊びでしょうか。

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さて再び玄関。玄関は角にあるので、内廊下とは斜めに向き合っています。そこがまた変化があってよい感じです。船内のような雰囲気もあるのですが。
玄関上部には3枚組のステンドグラスがはまっています。
中央は、真正面から見た船のようなデザイン。

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突き当たりの部屋のステンドグラス。
これも真正面から見た船のようですね。

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階段は余裕を感じさせる大理石の親柱と手すりです。
もっとも上層階は木の手すりと鉄の柱ですが。
奥に見える丸窓が最初に紹介した構成主義風格子の丸窓です。

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そして4階階段室のステンドグラス。
船というより、プロペラ飛行機を上から見たところのように見えませんでしょうか。

貿易関係者の明るいセンスを感じさせる建物だと思います。

○関連HP
 神戸市都市計画総局
 “神戸建築物語 第1回 海と空・二つの神戸開港物語”

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2008年12月18日 (木)

尼崎の段蔵

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段蔵というのは洪水に備えて、階段状につくられた蔵ということで、淀川流域に見られるものだそうです。
たまたま尼崎の道意町を歩いていて、段蔵を見かけました。
3色ストライプがリズムを感じさせます。
ここも淀川文化圏なのでしょうか。

川沿いの低地ですので洪水対策なのでしょうが、近くの尼崎センタープール前駅南に立つ表示柱を見ると、室戸台風の高潮による水位5.10m、ジェーン台風による水位4.30mの位置が示されていますので、この蔵は水没しているはず。

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反対側から見たところ。門構えや石段も立派です。
尼崎の海岸部には意外に古いお屋敷が残っていて、工場以前の尼崎を見せてくれています。

○関連ブログ
 “まちかど逍遥”
  御領水路を見に行く(大東市の段蔵の例)

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2008年12月14日 (日)

甲子園住宅地の境目を歩く

ちょっと更新間隔が開きました。
旧甲子園ホテルを見学したあとのことです。
甲子園住宅地を歩きながら阪神甲子園駅まで歩こうと思ったのですが、時間に余裕がなかったので、甲子園住宅地の西の境目を歩いてみることにしました。

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<甲子園開発前の状況。ベースマップは明治20年頃>

まず全体の位置関係から説明しておきます。
甲子園口から甲子園の海岸にかけて、かつては武庫川の支流である枝川、申川という川が流れていました。大正11年(1926年)に兵庫県は武庫川の河川改修を決定、枝川・申川は廃川とし、河川改修と新阪神国道(国道2号)の整備費に充てるため、河川敷を民間に売却することにしました。これを買収したのが阪神電鉄で、廃川により生じる80.72haのうち、道路・水路敷を除く73.92haを阪神電鉄が取得し、近郊リゾート・住宅開発が行われました。

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<甲子園開発後の状況>

開発はまず甲子園球場や海水浴場などリゾート開発から始まり、アクセスとして路面電車の甲子園線や阪神国道線、博覧会とその跡地利用の遊園地、昭和3年から中甲子園経営地など順に甲子園住宅経営地の開発が進み、昭和5年にリゾートホテルの甲子園ホテルが建設されました。浜甲子園健康住宅地は廃河川敷ではなく、追加で買収されています。

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今回は、上甲子園経営地・中甲子園経営地の西の境目を歩いていきました。境には新堀川が流れています。「新」とは付きますが、寛永13年(1636年)に新田への用水として武庫川の外側に開削された水路ですから、十分古い川です。

この写真では右が上甲子園経営地、つまり旧枝川で、天井川だったのではないでしょうか。かなり高低差があります。境界には石垣が続き、城跡のよう、新堀川を渡る入り口は城門のようです。
正面の住宅にはステンドグラスがはまっていますが、うまく撮れず。

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反対方向(北→南)から見たところです。
この橋は昔のものが残っているのではないでしょうか。昭和初期の雰囲気があります。ちなみに新堀川は1999年に改修されたようで、それ以前はこちら側に古い桜並木があったようです。

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こちらは石垣に埋め込まれた大樹。
後からそんな植え方をするわけもなく、もともと堤防に生えていたのでは?
堤防に生えていた松はそのまま住宅地に生かされたそうです。

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ちょっと住宅地の中にも入ってみました。
家は建て替えられていますが、アーチ付きの門が残っています。これでも裏門です。

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国道2号線とクロスするところにはちょっとした橋が架かっています。亀甲模様と四角形が彫り込まれ、国道2号線の大きな橋よりはかなり簡略ながら、デザインは意識されています。

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なおも新堀川沿いに歩いていくと、こんな樋門跡がありました。
西宮市文化財のプレートがはまっています。「鳴尾北郷義民 旧樋門跡」で、天正19年(1591年)夏、「大干魃の際、ここ新川から鳴尾村を救うため、25名が犠牲になられた」という説明です。隣の瓦林村の新川から密かに枝川をくぐる水路を導き、それが発覚して水争いとなり、関係者が処罰されたということのようです。

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枝川が阪神をくぐっていたところには、しゃれた橋脚の枝川橋梁があります。
大正14年竣工ですので、枝川が埋められた後に、改めて作り直された橋脚のようです。大正13年にできた甲子園球場が目の前ですので、とくに意識してデザインされたのではないでしょうか。

甲子園住宅地については改めて歩いてみようと思います。

○関連HP
 “Old Map Room”旧版地形図を楽しむサイト。甲子園周辺の変化を地図で追っておられます。
 ・大正時代からある野球場

○関連ブログ
 “まちかど逍遥”
  ・鳴尾〜甲子園を歩く
  ・甲子園口まで歩く

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2008年12月 2日 (火)

陰影ゆたかな旧甲子園ホテル

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武庫川学院甲子園会館=旧甲子園ホテルの特別見学会に参加してきました。
(普段でも予約制で見学できるらしいので、どう特別かよく分かりませんが。)
楠松祭、近代化遺産全国一斉公開に合わせたものです。
すごいとは聞いていたので非常に楽しみにしていました。

集合場所に行くと、15名ぐらいずつグループに分かれ、大学庶務課の方が解説をしながら案内してくださいます。

1枚目の写真は(逆光になっていますが)正面部分の写真です。
これに両翼が張り出しています。2階が低いのは、泊まられた皇族の方が屋上から手を振られることを想定しているとか。それほどの格式です。左右に聳える寺のような塔は煙突。

旧甲子園ホテルは、昭和5年(1930年)に高級リゾートホテルとして建てられました。
武庫川の分流である枝川・申川の廃河川敷を利用した、阪神による甲子園住宅地・リゾート開発の一環として計画されたものです。東には武庫川と松林、南には昭和2年に開通した新阪神国道という立地でした。とてもゆったりした敷地です。

ホテルはフランク・ロイド・ライトの弟子である遠藤新が設計しました。「西の帝国ホテル」と呼ばれ、海外の賓客、国内の政財界要人、軍人、皇族などが宿泊し、阪神間の財界人・文化人らのサロン、結婚式、会食、新婚旅行にも利用されたそうです(『近代日本の郊外住宅地』)

しかしホテル時代はわずか14年で終わります。昭和19年に海軍病院、昭和20年に米軍将校宿舎、昭和32年に大蔵省管理と所有が変わり、昭和40年に武庫川学院が譲り受けて大学施設となっています。そのとき客室は教室に変わりました。

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まず外から見ていくと、壁面には素焼きのボーダータイルが使われています。焼きむらのグラデーションに加え、光線の加減で目地に陰影ができ、美しい表情です。軒下の排水溝にはレリーフで縁取られた日華石(観音下石(かながそいし))、瓦は京都・泰山製陶所の緑釉瓦を二重に。緑釉瓦は周囲の松林と調和させているそうです。

屋根の上には打出の小槌の形をした宝珠が載っています。
打出の小槌はこのホテルのモチーフであちこちに見られます。お隣の芦屋の打出が、打出の小槌伝説由来の地だそうですが。さらに、そこから滴る水(金?)もモチーフなのかもしれません。

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排水溝のアップ。水が滴るようなデザインが施されています。
館内展示などによれば、素材の日華石(観音下石)というのは、石川県小松市観音下町で大正初期から産する凝灰岩で、国会議事堂や遺跡の補修用にも使われているそうです。この甲子園ホテルでは全ての石材部に使われています。白、赤、青があるうち、ここでは赤が使われています。

ただ、補修用には黄竜山石が使われているそうです(1階階段、巾木、床周り、屋上階段笠木など)。

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屋上に上がると、塔屋部分が板を複雑に組み合わせているのが分かります。
バランスの取り方は設計者のセンスですね。
なお、屋上はビアガーデンにも使われたそうです。

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塔屋の壁面などに使われているのが、素焼きのテラコッタタイルです。1枚のデザインは正方形を凹凸を付けてずらしたような複雑なパターンですが、1種類の型を4枚1組で増幅させてさらに複雑な陰影を生み出しています。加えて、粘土の鉄分や焼きむらでさらに表情ゆたかに。

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ホテルの庭側(南側)はこんな感じ。
大きな持ち送りのような石柱が並んでいる奥はラウンジです。その上には6つの打出の小槌。

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左右の壁面には、アールデコの絵画のような石壁があります。その意味するところは? 落ちた水滴が跳ねているように見えますが。

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中に入って、赤じゅうたんの敷かれたメインの廊下と柱です。こんな複雑な柱はなかなかないのでは。右が玄関で、左がラウンジ。
廊下やシャンデリアの照明具はシェル型という、オウム貝を横に割ったような形が基本パターンで、場所によって複数組み合わせています。

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この西ホールは、ダンスホールや宴会場として使われました。結婚式場にもなったそうです。手前は障子を並べたような市松格子の光天井。向こうは金の鍾乳洞かと思うような濃密な天井。打出の小槌から水滴が滴って受け皿に注いでいます。誰の趣味なんでしょう。

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最後に酒場に案内されました。
ここの床には京都・泰山製陶所のタイルの試し焼きが敷き詰められているそうです。見本帳を床にしたようなもの。色合いといい素敵なスペースです。

今回は秋晴れの午後に訪れましたが、これだけ陰影ゆたかなので、季節、時間、天候により、その表情を変えてくることでしょう。また違う光の中で訪ねてみたいと思います。

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2008年11月29日 (土)

国道2号の夙川橋

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以前、玉江橋(尼崎市)の紹介で書きましたが、新阪神国道(昭和2年開通。国道2号の一部)の建設に際して、一斉に多くの橋が架けられています。
西宮市の夙川橋もそのとき、大正15年(1926年)に架けられました。
その名の通り、夙川に架かる橋です。

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赤茶けた親柱はシンプルで、その上に今風にいうと携帯アンテナのような街灯が乗っています。
親柱と欄干の色が違うのは、欄干が改修されているからでしょうか。欄干も形は踏襲されているのではないかと思います。

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橋の4隅はセットバックして、さらに柱が立っています。デザインは親柱と同様ですが、何も乗っていません。

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玉江橋と関連性を感じるのは柵の鉄格子のデザインです。似ているけど違う。そこが見比べる面白さになっています。このデザイン、打ち出の小槌じゃあないでしょうね。

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2008年11月26日 (水)

彫刻づくしの京都府庁

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翌週また京都へ。
まだ見てなかった京都府庁の秋の一般公開を見に行きました。
府庁前は釜座通りのけやき並木で、ここだけ見たらパリみたい。そこまで見せることにこだわった計画をしています。
京都府庁旧館は、明治37年(1904年)に竣工した100年前の庁舎です。

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正門前には浅い堀があり、石橋を渡って入ります。こんなとこまで、しっかりつくっています。

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近くで見るとますます立派な建物。
柱に車寄せ、三角破風に装飾がふんだんに施されています。
屋根は天然スレートだそうです。

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窓に石柱・石梁を使っているのが面白く思います。

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玄関を入ると正面には立派な階段ホール。
大理石のぜいたくな階段です。

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正面以外の階段手すりは木製ですが、やはり細かい彫刻が施されています。柱頭のアカンサス(ハアザミ)のモチーフは館内あちこちに用いられています。

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特徴的なのがアーチとベランダで、とくにアーチは至るところにありました。こういうところを歩いていると府庁の中という気がしません。

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2階正面は正庁になっています。この日はクラシックコンサートが開かれていました。天井の高い大きなホールです。

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府庁内部は思った以上に見るところが多く、とくに食堂、そしてこの知事執務室がもとの雰囲気で残されています。奥が知事の机です。この2部屋はボランティアらしき方がついて説明してくださっていました。

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知事室の扉の上の飾りです。こんな目立たないところにも細かい彫刻を使っているんですね。

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暖炉ももちろん凝ったものです。
知事室の暖炉は木とタイルと鉄でできています。

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金属の覆いには可憐な植物模様が刻まれています。ひなぎくでしょうか。

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貴賓応接室の暖炉は大理石でできています。
それも彫刻でいっぱい。ためいきが出ます。

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この繊細さです。
なんと手間をかけていることか。

京都府庁旧館は木・石・金属の彫刻がみごとでした。
このような彫刻の数々は、今なら許されないぜいたくでしょうが、100年も使ってまだまだ価値をもつのを見ると、果たして壊しても問題ないものを作るのとどちらが無駄なのかななどとも考えさせられます。

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美しいものを見た後でこういうものも。
昭和3年に設置された知事・部長登退庁表示灯というものだそうです。

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なお、府庁と同じ敷地に京都府警察本部(昭和4年)も立っています。
明治建築と比べると当然ながら装飾は少ないですが、玄関のアーチなどにセセッション風(?)の幾何学模様が入っています。
ここにある限り、ずっと脇役というのが気の毒なような。

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2008年11月24日 (月)

栗原邸(旧鶴巻邸)の見学会(京都市山科区)

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かなり前のことですが・・・
11月8日・9日と、山科にある栗原邸(旧鶴巻邸)の一般公開があり、参加してきました。
(この建物については、ひろさんやぷにょさんも紹介されていますが、伏せ字にされてますのでリンクはやめておきます。)
栗原邸は御陵の駅から坂道を登りつめた先にあります。山科盆地でもかなり高いところといっていいでしょう。すぐ上を琵琶湖疎水が流れています(後述)。

私は旧東海道と疎水に寄り道したので裏からのアプローチでした。
外観からコンクリートブロック積みの建物なのですぐ分かります。
正直なところ裏から見ると魅力は感じにくいのですが・・・

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表に回ると全く違った表情で、半円のポーチと2階サンルームは皆さんが紹介されています。
竣工当時はほとんど庭木がなかったそうですが、今は森に囲まれています。

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事前予約が必要にもかかわらず、たいへん盛況でした。すごいでしょう、この靴。
このときは撮影に関しては何も言われませんでしたし、・・・というよりほとんどの人が写真を撮っていて撮影会の様相でしたので、内部の写真も紹介します。

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まず客間でギャラリートークを聴きました。
講師は京都工芸繊維大学の西村征一郎名誉教授と笠原一人先生、そして配線と照明を担当されたヤマギワの方です。

まずこの建物の概要ですが、昭和4年(1929年)に京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)の校長だった鶴巻鶴一氏の自邸として建てられました。設計者は同校の教授だった本野精吾で、(正面玄関の半円部以外に)中村鎮式コンクリートブロック*を使ったモダニズム建築です。外観はコンクリートがむき出しの斬新なデザインですが、内部はうって変わって木を生かした落ち着いた空間です。染織家であった鶴巻鶴一氏の襖絵などもあります。

この建物はその後、1941年に広告業・萬年社社長であった栗原伸氏に売り渡されます。ところが1945年に終戦で米軍に接収されてしまいました。1957年にようやく返還され、再び栗原家の所有となっています。米軍接収時代にペンキを塗られたり、建物が傷んだようですが、照明や家具などはもともとのものが残っているとのことです。

ギャラリートークの最後にDOCOMOMO Japanから栗原邸が優れたモダニズム建築物として選定されたパネルの授与式が行われました。ご当主の栗原さんは背筋のしゃんとした方です。散会後、奥さんは説明に残られたのですが、建物や調度品について熱心に説明されて人垣が絶えませんでした。

*中村鎮式コンクリートブロック:L字やT字のブロックを組み合わせ、間に鉄筋コンクリートを流し込んで仕上げる、現場で型枠不要の合理的な建築構法。1920年代初めに中村鎮が発明し、関東大震災でその耐震性が実証された。

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ダイニングルームは襖を開けると客間と一続きになります。襖には桜の絵、奥には大理石の暖炉があります。この日はあいにくの曇天で、元のままの照明が非常に暗いので、写真を撮るのはなかなかたいへんでした。よく元のままに使ってきてくださったと思います。

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ダイニングルームのランプシェードは模様入りのステンドグラス風。

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2階の階段。階段も手すりも親柱も床も全て木です。非常にきれいな状態でした。手すり子はそろばん玉状のシンプルなデザインです。

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この家で一番気に入った部屋はここです。谷の向こうに山科盆地を見下ろすことができます。天気のいい日ならもっと気持ちがいいことでしょう。

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2階の寝室。このベッドなども本野精吾のデザインだそうです。なんでもやってしまうんですね。

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2階の照明は非常にシンプルで、何か足りないのかと思ってしまったのですが、もともとこういうものなんだそうです。白い反射板はプラスチックではないですよ。大理石だそうです。

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1階の染色部屋の天井。ところどころ、天井が剥落して、コンクリートブロックや鉄筋などの構造が分かります。この日もカンパが募られていましたが、ご本人だけでは維持していくのはたいへんかなと思います。

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屋上は眺めの良いテラスになっています。裏側からは疎水を眺められます。
ひさしが出ているのが画期的な工夫だそうです。

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栗原邸の裏側です。向こうに水門が見えますが、その向こうが琵琶湖疎水です。
なぜこんな不便なところに家をと思うのですが、当時、鶴巻氏は校長を退任されていますので、水が豊富なこの地で、染色に没頭したいということだったのかも、などと想像しました。染色部屋はダイニングのすぐ脇に置かれています。

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ついでに疎水の構造物を紹介しておきます。
第2トンネル東口。題字は井上馨の「仁者は山を以て悦び、智者は水と為るを歓ぶ」。山を水が流れれば、どちらも喜ぶということか。

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第2トンネル西口。題字は西郷従道の「山に随いて水源に至る」です。

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第3トンネル東口。題字は松方正義の「過色松色を看る」です。
デザインされ、題字が彫られることで、一大国家プロジェクトであることがよく分かりますし、ただの土木構造物以上のものになっています。

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なお、第3トンネルの手前には、日本最初の鉄筋コンクリート橋(明治36年)という、ささやかなアーチ橋がかかっていました。対岸には立派な記念碑まで立っています。鉄筋コンクリートブロック住宅の近くに、最初の鉄筋コンクリート橋、面白い偶然です。

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栗原邸が建った当時、眼下に住宅はなかったそうです。
坂を下りていくと石畳のある和風郊外住宅地がありました。下に行くほど住宅が新しそうで、今では下まで住宅が一続きになっています。
しかし、疎水を背にした静かな環境は今も変わりません。

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2008年11月 8日 (土)

国道2号の玉江橋(尼崎市)

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尼崎に行ったついでに玉江橋を眺めてきました。
尼崎の国道2号線にかかる橋です。
国道2号線の阪神間部分は、昭和2年に開通した軌道併用の新阪神国道を踏襲しています。
長さ十間(18m)以上の橋が51もあったそうで、この玉江橋も大正15年ですから、そのときに架けられた橋です。

玉江橋はスマートな親柱が目立ちます。てっぺんにはラジエーターのような飾り、ピラミッド型の照明?、足下には格子模様が入って、大正時代らしくモダンで装飾的。

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落下防止が後から追加された以外はよく原型をとどめているそうです。

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親柱から、柵、欄干の柱まで、格子模様が連続するのが見どころのように思います。

電車から見ていても、国道2号線の橋は見どころが多いので、一度、自転車で2号線の橋巡りをしたいと思っています。

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2008年11月 3日 (月)

裏庭的公園−江成公園(大阪市福島区)

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大阪市福島区吉野にある江成公園に出かけました。
江成(町)というのは、かつてのこのあたりの地名です。
この公園は戦時中の昭和17年にできました。

東から公園に入るとツタの絡まる白い壁がどどーんと。福島区民センターです。右手には消防署、左手には西野田幼稚園(昭和4年開設)、向こうには旧福島区役所がある福島区の行政中心。もっとも福島区ができるのは昭和18年なので、公園のできた当時は此花区でした。
公園のできた経緯を知りたかったのですが、今のところ分かりません。分かりましたら追記したいと思います。大正時代の地図では市街地なので何か理由があったはず。

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公園の中には象徴的にカナリーヤシ(フェニックス)が植えられています。新森中央公園でもそうですが、カナリーヤシはここぞというポイントにアイストップ的に単独で使われるようです。

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木々がよく成長して、うっそうとした木陰をつくっています。

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公園の端には八角形の藤棚。
福島区なので野田フジではないでしょうか。


より大きな地図で 近代の公園 を表示

ここで江成公園を上から見てみましょう。
北の一辺で、線で道路に接していますが、あとはぐるりと建物に取り巻かれている奥ゆかしい公園です。こういう形は珍しいのではないでしょうか。

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でも閉鎖的かというとそんなことはなくて、出入り口はたくさんあります。
この入り口はそのまま路地につながっています。

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こちらもお屋敷と西野田幼稚園に挟まれた通路の形で、道につながっています。

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そして、こういう子供が一番好きそうな裏口もあります。
形も不整形で、閉じたようで開かれている不思議な公園でした。

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ちなみに周辺は福島区らしい古い住宅地です。
このT字路の連続模様。福島区は路地の魅力にあふれています。
この公園はそんな町の裏庭といえるかもしれません。

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2008年11月 2日 (日)

ぐるまち2008

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今年も、河内長野市の文化財公開事業「ぐるっとまちじゅう博物館」(略してぐるまち)が開かれています。一昨年昨年に続いて参加しました。今年は加賀田地区が対象です。

会期は11月3日(祝)まで。
公式ホームページはこちら

今年も自転車で出かけました。
昨年とほぼ同じルートで加賀田川を遡ります。
まず内見橋(昭和6年)を渡ります。

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親柱に飾りのように猫が座っていました。
欄干はホームベース型の窓がくりぬかれています。
シンプルなコンクリート橋でも歳月を経ると味が出ます。

※槙平橋などの橋は昨年と重なりますので省略。

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最初に見学した公開文化財は伝大江時親邸跡。
大江時親は楠木正成に兵法を教えたとされる人物です。また、安芸の毛利氏の始祖ともされるそうです。

大和棟の民家は江戸時代中期のものとか。内部見学は初めてでしたが、建具や簀の子天井など古いものが使われているのを見ることができました。衝立や屏風などに文化の香りも感じられます。

屋敷の隣に明治35年の顕彰碑も立っています。戦前において、やはり楠木正成関連の史跡は特別です。

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川沿いに走っていくと、製粉工場がいくつもあります。
昔、この川には水車がたくさんあり、水車動力で製粉をした名残です。今は消えてしまいましたが、私も昔、水車が動いているのを見たことがあります。

後で紹介する旧加賀田村役場で、河内長野市の水車についての特集展示をしていました。
かつて河内長野には明治後期から昭和にかけて130余りの水車があり、半分が産業用、半分が精米用だったそうです。産業用というのは、製粉(線香材料の杉葉粉、漢方材料など)、製釘・伸銅、木工、さらしなどです。大阪東部の生駒山系でも同様に、電化前の産業用動力として、水車が大きな役割を果たしていました。のどかなイメージが強い水車ですが、近代化遺産の側面もあるわけです。

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道はどんどん山の中に入っていきます。
間伐作業が行われていて、ヒノキのいい香りが漂ってきました。

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次の会場の岩湧寺は標高500mもあります。昔来たことがあるのですが、そこまで大変だった記憶がなく、かなり消耗しました。

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岩湧寺は深い森の底にあります。
これは樹齢400年以上、高さ20m・幹周り6mというカヤの木。

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本堂と多宝塔。岩湧寺は役行者が大宝年間(701〜703)に開いたと伝えられる、山岳仏教(修験道)の重要な霊場でした。多宝塔は室町時代のものとされています。
この多宝塔の本尊・大日如来像が里帰り展示されていました。

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このような高い木に囲まれて、非常に厳かな雰囲気が漂っています。
疲れた身体に気持ちいい風が吹きます。

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自然公園となっている岩湧の森のすぐ外に、「ちぇるしー」というカフェがありました。土日祝日だけの営業だそうです。こんな山の中にあるとは。食事できるところはここしかありませんので、入ってみました。(すぐ近くにもう1軒、喫茶店があるのですがお休みでした)

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紅茶に力を入れているのが嬉しいところ。
店名になっている甘い香りのチェルシーなどを置いています。
私はスペシャルトーストセットにスコーンをプラスしてみました。水は湧き水を使い、地場野菜のサラダが付くなど、凝ってます。
山の緑を眺めてゆっくりできそうです。(私は先を急ぎましたが)

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延々と下って上東部集会所(旧加賀田村役場)へ。
大正11年に建てられた近代建築です。

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以前に撮った入り口の写真。

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この扉の木目が美しいでしょう?

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内部を見るのは初めてです。一度見てみたかったのでうれしい。
そんなに装飾などはありません。
1階の2部屋を使って加賀田村についての展示と水車についての展示が行われていました。
2階もありますが、非公開です。

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このカウンターは役場時代のものだそうです。
床の高さがかなりあって、「見下ろされるようですねえ」と解説の方がおっしゃってましたが、昔の役場との関係はそんなものなんでしょうか。

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最後に加賀田神社を見学しました。
石の参道・石橋・階段と灯籠に一体感があって美しい。
脇の社務所では、昔の絵図、絵馬を展示していました。

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本殿は元禄時代の建物とされています。
でも彩色は桃山風の派手さ(だと思う。復元すれば)
正面の彫刻をみてください。

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なんだかユーモラスに思える虎、龍、獅子でしょう?
また会いに来たいと思います。


続きを読む "ぐるまち2008"

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2008年10月29日 (水)

ひねりのある蔵

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豊中市の岡町のあたり、能勢街道脇に大きなお屋敷があります。
ちょっとまちなかとは思えない雰囲気。

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そこに、ひねりのある蔵がありました。
丸窓2つの蔵は見たことがありますが、ひねっている装飾は初めてです。
ひさしの瓦までひねりが入っています。
水の表現でしょうか、どんな意味が込められているのか知りたいところです。

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2008年10月28日 (火)

初瀬街道の近代−榛原

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長谷寺に詣でた後、まだ日暮れまで時間があったので、近鉄・長谷寺駅からもう一駅先の榛原駅に足を伸ばしました。初瀬街道でも長谷寺〜榛原間は国道165号と重なっています。わずかな道のりですが、ここが大和川水系と木津川水系の分水嶺になっています。

榛原に行こうと思ったのは駅の東に、近鉄の車窓から見える気になる建物があったからです。
それが上の建物で、はっきりしたことは分かりませんが、南都銀行の支店だったようです。白い壁面にアーチ窓の並ぶ銀行らしい建物です。石造っぽいデザインですが、土台以外はモルタルに目地を切っているだけのような気も。切り妻屋根なので骨組みは木造かも。軒が妙に幅広なのも気になります。

角には「左あをごえ道(阿保越え道) 右いせ本かい道(伊勢本街道)」と書かれた古い道標が立ち、ここが街道の分岐点だということを示しています。阿保越え道は初瀬街道で、伊勢神宮に向かう新しい道です。この辻は「札の辻」と言われ、ここ萩原の宿場町の中心でした。

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玄関部分に近寄ると、三角破風を載せた柱はくびれや飾りが多く、奈良の寺院っぽいデザインのようにも思います。木と金物で作っても違和感ないぐらい。

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そして、目立ちませんが、榛原町の道路元標も立っていました。これも町の中心である証です。
気になるのは、大正9年の記録で、榛原町の道路元標の設置場所が「郵便局前」とされていること。銀行以前は少なくとも大正9年まで郵便局があったようです。

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T字路の突き当たり、銀行の向かいには古い旅館のあぶらやがあります。

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「明治・大正・昭和初期の古民家を大切にする会」の設置した「登録古民家 中川家住宅」の表示があり、江戸中期の建物であることが示されています。ここ榛原では、独自の古民家の登録制度があるようです。これとは別に本居宣長が宿泊したことを示す看板も掲げられています。

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札の辻に立つと、どちらに行こうか迷います。辻は鍵状になっていて、西に行くと丘の上に榛原福祉会館(大正時代の旧県立蚕業試験所)(→日本建築学会近畿支部による保存要望書)があるようです。見逃しました。

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長谷寺方面の北に向かいます。どんどん引き込まれそうな街並みです。

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引き返して今度は東へ。こちらも古い街並みが続きます。

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石垣で固められた水路が古い民家を巻いて流れています。洗濯場でもあったようです。
この道の先がまた雰囲気が良かったんですが、住民の方がおられたので、写真は控えました。

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2階の手すりが宿屋だったらしいことを示しています。

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こちらも旅館らしき建物。明治初期の奥田家住宅です。

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持ち上げられたランプが看板になっています。

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向かいには染物屋さん。
広く窓を取って、見せる染物屋さんです。
これ以上深入りはせず、引き返しました。

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札の辻を南に行くと神宮の常夜灯があります(振り返ったところ)。

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昭和5年に参宮急行電鉄の榛原駅が開業します。
それ以後、町の中心は札の辻から線路の南側へ移ったようです。
駅の南に昔懐かしい雰囲気のお医者さん「成田医院」がありました。

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下見板の木造にパステルカラーのペンキ。
大正っぽい雰囲気を醸し出しています。

榛原は戦災も受けていますが、街並みは見どころがあります。
旧県立蚕業試験所も見たいことですし、近いうちに再訪したいと思います。

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2008年10月26日 (日)

初瀬街道の近代−長谷寺

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長谷寺門前町の門をくぐると(長谷寺の門ではありません)、旅館、旅館風の建物が連なり、長谷寺に着いた気分が強く感じられました。参道は結構、距離があります(1kmほど)。国道ではサイクリングの自転車と多くすれ違いましたが、ここでは徒歩の参拝客・観光客が多く行き交っています。意外と一人旅の人も多いようでした。

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歩いていくと、右手、川向こうの尾根上に長谷山口坐神社があります。長谷山の鎭(しずめ)の神社で、大山祇の神をまつり、また元伊勢(伊勢神宮が現在地に落ち着くまでに転々と遷座したという伝承の地)の磯城伊豆加志(厳橿)本宮伝承地域の碑も立っています。仏教以前の歴史の重なりを感じさせます。

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参道の左手に、茶房長谷路という和風喫茶店がありました。山田酒店という古い酒屋さんの併設です。
門を覗き込むとそこは池のある和風庭園。その向こうに登録有形文化財の茶房座敷(大正初期)などがあり、そこで食事やお茶をいただくことができます。

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池の飛び石をぴょんぴょん渡りながらのアプローチが素敵です。お客さんはお庭を眺めているので、注目されてちょっと恥ずかしいんですけどね。縁側には猫も座っています。

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道はだんだん坂道になり、側溝の水は走るように流れています。門の脇に洗い場が残っていて、こんなしつらえが私は好きです。

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やがて、伊勢街道との分岐に差し掛かりました。
古い道標が立っています。伊勢街道はここで初めて山越えに入ります。

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伊勢街道が大和川を渡るところには、伊勢辻橋が架かっています。重量感がありつつ細やかさも感じさせる装飾は昭和10〜20年代ではないでしょうか。あくまで印象ですが。

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再び参道に戻ります。左手に今度は白髭神社が見えます。白髭神社は猿田彦神をまつり、やはり伊勢とのつながりを感じます。白髭神社は渡来人との関係も言われています。

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参道は川の流れに合わせてほぼ直角に左折するのですが、左折せずまっすぐ行くと、天神山のふもとにある與喜(よき)天満神社に至ります。初瀬の地主神であった滝蔵権現が天神に社地を譲ったという伝承があります。聖地として様々な信仰が重層する場であることが分かります。

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参道が曲がると草餅などを売る土産物屋が増え、ゴールが近いことを感じさせます。
ふと目に入った高い石垣をもつ蔵。

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長谷寺が見えてきました(右上山中が本堂)。
ずっとお寺が視界に入らず歩いてきて、角を曲がると上空にぱっと見えるというのがいいです。平安時代の人がここまで来たときの喜びは相当なものと思います。

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上りの最後には、有名な399段の登楼があります。

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登り切ると本堂(右)、鐘楼(左)があります。
本堂にある本尊十一面観世音菩薩立像(観音様)はたいそう大きなものでした。

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本堂のすぐ前には礼堂があり、舞台が張り出しています。
ここからはさっき登ってきた参道と境内、周囲の山並みが見渡せます。
長谷寺はなぜこの場所なのだろうと考えて、答えは出ませんが、大和川を遡った奥まったところというのが、鍵なのかななどと考えていました。
舞台は、とても気分の良い場所です。

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2008年10月22日 (水)

初瀬街道の近代−大和朝倉〜長谷寺門前

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桜井〜長谷寺の街道歩きの続きです。
国道165号に沿って歩き、近鉄をくぐると大和川にぶつかります。
そこに昭和14年の新佐野渡橋が架かっています。時代相応のシンプルなデザイン。
このあたりを走っていた大阪電気軌道初瀬線(旧初瀬鉄道)が昭和13年に廃止されていますので、その後に道路橋に仕立て直されたのでしょうか。

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旧初瀬街道は国道を分かれ、趣きある佐野渡橋を越えます。
橋の架かる前は渡しがあったのでしょうか。

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橋の欄干には尖頭アーチのまどが開いています。
年代は分かりませんが、昭和初期のデザインに見えます。

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慈恩寺・追分の集落には再び古い街並みが登場します。
2階の虫籠窓、格子、水槽、軒下の犬矢来ときれいに整っています。

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パステル色のレトロな理髪店と美容室が並んでいます。
ご夫婦でされてるんでしょうね。

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集会所のような雰囲気の建物。少し荒れています。

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街道筋に小さな橋が架かっていました。

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築紫原橋です。大正5年(1916年)の橋。
親柱だけが古いようです。玉を載せたようなデザインがかわいらしい。

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黒崎のあたりに旧朝倉村の小さな道路元標(かつての道路里程の基準点)がありました。
このあたりが旧朝倉村の中心だったのでしょう。
この小さな道路元標を追い求める人もいます。

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玄関先を見ているとよく「八十八」と書かれたしゃもじが貼られています。
米寿のお祝いのしゃもじを玄関に貼る風習があるようです。
数が多いのはいろんな人にもらうから?

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蔵のような重厚なお宅もありました。
石造の門柱が近代風です。

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黒崎の白山神社。雄略天皇泊瀬朝倉宮伝承地の解説板と歌碑が設置されています。

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ちょっと脇道にそれて、コスモスの咲く橋がありました。
自然に生えたのなら素敵だし、植えたのならなかなかのセンスです。

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旧街道は再び国道165号線と重なります。
しばらくは国道を歩かないといけません。交通量が多くて落ち着きませんが、周りの田んぼを見るとのどかな田園風景です。
このあたりは美しい谷です。

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出雲の集落には十二柱神社があります。その名の通り、十二柱の神様をまつる神社。相撲の野見宿禰にちなんだ伝承もあるようです。出雲という地名といい、古代色の強いところです。

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出雲を抜けると長谷寺参道の門が見えてきました。
いよいよ長谷寺です。

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2008年10月16日 (木)

初瀬街道の近代−桜井

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以前、「初瀬街道の近代」として白山町(今は津市)の榊原温泉口駅から大三駅まで歩いたり、初瀬街道の宿場町・名張の町を歩いたりしましたが、今回は近鉄大阪線・桜井駅から街道の目的地である長谷寺まで約7kmの道を歩きました。(なお初瀬街道は伊勢街道でもあります)長谷寺に行くだけなら近鉄大阪線・長谷寺駅で降りれば近いのですが、旧街道歩きが主なので。

近鉄からJR線を越えて南側に出ると、すぐにこの洋館の離れらしきものが。
非常に状態はいいのですが、スタイルから見ると古そう。
後で気付いたのですが、ぷにょさんも取り上げておられます

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ポーチのゆるやかな曲線がいいです。
窓辺を飾ったりされていましたが、どう使われているのでしょう。

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すぐに本町通商店街の入り口があります。この通りが初瀬街道です。
初瀬街道=伊勢街道は、もともと奈良から山辺の道を南下して三輪の山裾を巻いていきますので桜井は通っていませんでした。三輪の方が賑わっていたようです。桜井は江戸時代、津藩領の宿場町でした。桜井の発展には明治26年の大阪鉄道開通が大きかったようです。山と都市を結ぶ桜井は木材の集散地として発展しました。また大阪方面から来る人の長谷寺の玄関口ともなりました。

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商店街を歩きながらふと横を覗き込むと古い銀行らしい側面が。表はトタンで覆われているので、見過ごしそうです。こちらもぷにょさんが取り上げておられます

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軒蛇腹は植物風の凝った模様の下に歯形もあり。

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窓には木製の格子がはまっています。
ここにもデザインが施されています。
雰囲気的に大正時代でしょうか。

昼時でもあり、斜め向かいのお好み焼き・焼きそばの「ときわ」さんでブタ玉を食べながら、若い2代目ご主人に聞き込みしました。この銀行は20年ほど前から閉まったままで、倉庫になっているそうです。「最初は聞いたこともないような名前の銀行で、何度か名前が変わって、最終的には京都相互銀行だった」とのことです。京都相互銀行は、昭和産業無尽→昭和産業相互銀行→1964年に京都相互銀行と商号変更しているらしいので、その関係か別の銀行か。

30年ほど前までは、宇陀・榛原方面からのお客さんが多く、本町通は土日は肩をぶつけ合うぐらいの賑わいだったこと、築地のルーツになったとも言われる歴史ある魚市場があり、クジラの解体ショーが行われていたことなど、貴重なお話を伺えました。こんな内陸で魚市場というのに驚きます。

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今はところどころ空き地もあります。
ボーリングのピンも寂しげです。

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商店街の途中では中央通商店街の道がクランク状に交差し、このあたりが賑わいの中心だったと思われます。この道は南の多武峰に続いています(写真は北向き)。

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このように広く街道に面して構える古い店もあります。

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アーケードが切れてからは、昔ながらの街並みが増えます。
こちらは山本五平薬局。雨樋はふつう両端にあるように思うのですが、この店は中央に立派な銅の雨樋が鎮座しています。看板代わりなのかも。

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「県下で一番古い 創業1845年 松田タンス店」という看板。江戸時代ですね。残念ながら閉まっているようです。木材の町らしい業種です。

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貯水槽などもちょくちょく見られました。
町を歩いていても車などは通らず、スーパーカブが一台通ったぐらい。
心おきなく町歩きを楽しめます。町としてはもっと賑わってほしいでしょうが。

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花模様の入った鉄の手すり。なかなかいいです。
脇道にも街並みは続き、際限なく吸い込まれそうなので、寄り道したい気持ちを抑えてまっすぐ歩きました。(でも改めて桜井の町を見に来よう)

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街並みがとぎれるところに現役の製材屋さんがありました。
「米松 梁(平角)専門」の文字が見え、専門分化が進んでいたようです。

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ここで交通量の多い国道165号と交差します。
国道には城山橋が架かっています。欄干をハシゴのような鉄パイプが串刺しにしていたり、親柱は円筒型にスリットが入っていたり、面白い形の橋です。昭和初期ぐらいじゃないでしょうか。

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国道165号との交差点は、宇陀が辻と呼ばれて、宇陀方面に通じる道が分かれています。途中に舒明天皇陵があり、右の石柱には舒明天皇御陵道と書かれているようです。
真ん中の立派な石碑は、碑文が漢文調で難しいのですが、武村彌七という人が、長年、粟原山の入会権でもめてきた集落間の調停を行った記念の明治36年の記念碑のようです。試しに「武村彌七」で検索してみたら、博徒として名前が挙がっていました。古き時代の情景が浮かびます。

ここまでで行程の3分の1ぐらいでしょうか。
楽しみながらあっという間です。

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2008年10月14日 (火)

博覧会跡の岡崎公園(京都)

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京都国立近代美術館で「アーツ&クラフツ展」を見た日のこと、この機会に岡崎公園を歩いてみました。岡崎公園には京都国立近代美術館をはじめ、大きな建物が建ち並んでいますので、公園というイメージは薄いかもしれません。でも明治に始まる古い公園なんです。

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<明治22年陸地測量部発行・京都中部実測図より>
公園ができたきっかけは、明治28年にこの場所で開かれた第4回内国勧業博覧会と平安遷都千百年紀年祭です。平安神宮もこの年に竣工しました。博覧会開催に合わせて日本最初の市街電車として京都電気鉄道会社が開業、会場までの路線もできました。ちなみに琵琶湖疎水は明治23年で、明治24年にできた蹴上の発電所が電気を供給しました。

その直前の様子を示すこの地図を見ても分かるように、用地買収をした当時は田んぼや空き地の広がる土地でした。もっともそれ以前、加賀前田藩の屋敷があった場所なので、不便な場所だったわけではありません。

博覧会場の跡地を整備して、明治37年に岡崎公園となりました。
現在の面積は10万2688㎡。
緑の枠で囲んだのが公園の位置です。

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<大正13年・京都衛戌地図より>
大正末にもなると建物が建ち並び、周辺も都市化しています。
しかし、よく見ると動物園は今と同じですが、図書館は今よりゆったりと建ち、京都市美術館は商品陳列場ですし、桜馬場があります。なにより、今は野球場になっている場所が博覧会場と書かれています。

岡崎公園では、大正時代に2つの大きな博覧会が開かれています。
大正4年の大正天皇即位大礼記念の「大典記念京都博覧会」と大正13年の「東宮殿下(昭和天皇)御成婚奉祝万国博覧会参加50年記念博覧会」です。この後者の建物ではないでしょうか。

以上、博覧会についてはこちらを参考にしました。


より大きな地図で 近代の公園 を表示
岡崎公園の現在の様子です。
今では初めに紹介した建物に加え、京都会館、京都市美術館別館(旧京都市公会堂東館、昭和5年)、京都市勧業館(みやこめっせ)などが立ち並んでいます。

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公園の南と西は疎水に囲まれています。

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京都市美術館から順に見ていきましょう。
京都市美術館は、昭和3年の昭和天皇即位の大典(大礼記念京都大博覧会を開催)を契機に、昭和8年「大礼記念京都美術館」として完成しました。
洋風の建物に和風の屋根が載る帝冠様式です。
正面の門はずしっと重量感があります。

 >内部についてはこちらの記事をどうぞ

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裏側に回ると和風庭園があります。
この美術館、4面ともに入り口があり、隙がありません。

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裏手には同じ配色の事務所(昭和8年)も建っています。

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裏門には表門と違ってこぢんまりした石柱が立っています。
気になっていたら、建築探偵つきのたぬきさんによれば、武田五一設計の京都陳列館の門柱だそうです。なんと。

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クローズアップで確認してみてください。

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京都市美術館が長くなりましたが、向かいは京都府立図書館です。
明治42年に武田五一設計で建てられた図書館を一部保存しています。
やわらかいアーチがやさしい印象。

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さて、公園は平安神宮の参道としての役目も果たしています。
そこにそびえる大鳥居は昭和4年の完成なのでこれも大典記念なのでは。

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参道を歩いていくと、右手に煉瓦と石の柱があります。
意味ありげなのに何の説明もありません。
この柱についても、建築探偵つきのたぬきさんが説明しておられます。すごい推理。
大正4年の「大典記念京都博覧会」の会場ゲートの門柱なのだそうです。それならプレートでも設置したらいいのに。

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参道の左側が一番、「公園」らしい場所かもしれません。
緑に覆われ、木が並ぶスペースです。

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最後に京都市動物園についても。
動物園は明治36年(1903年)開園です。
写真は昭和2年のカバ舎を外から見たところ。塀は煉瓦壁でしょうか。
他に大正12年のゾウ舎もありますし、また中にも入ってみたいと思います。

このように数多くの博覧会が開かれてきた岡崎公園には、様々な博覧会、記念事業の痕跡が残っています。

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2008年10月11日 (土)

ビルマニアカフェ2008

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10月11日・12日と2日間開催されたビルマニアカフェ2008に行ってきました。
会場は西谷ビル2号館3階です。

写真の正面は昭和32年建設(4階部分は昭和37年の増築)の本館、左は昭和40年の2号館、その左は昭和28年の1号館、右は昭和40年の3号館です。増築でできた複雑な構造です。
西谷ビルをもつ西谷商事さんは金属関係の商社で、自社ビルを兼ねてテナントビルを経営されてきたそうです。テナントは繊維関係の会社が多かったとおっしゃっていました。このビルができた頃、周囲にビルというと百十四銀行大阪支店と長瀬産業ぐらいしかなかったとのこと。

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このイベントは、戦前建築に比べて評価されにくい1950〜70年代の戦後建築の魅力を伝えてくれるイベントで、大バンさんの企画です。

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私はその中の館内ツアーに参加しました(11日のみ)。
ガイドは高岡伸一さんで、西谷商事の方も同行されました。ツアー参加者は20〜30代の方々のようで皆さん熱心に写真を撮られていましたので、あちこちのブログやホームページに載ったりもするのでしょう。
まずは一番古い、1号館(昭和28年)から。玄関ホールからいい雰囲気が漂っています(ここはコース外)。

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階段室にはガラスブロックのトップライトから自然光が差し込むようになっています。

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そして1号館のみ、中庭があります。
採光に気を使っているようですね。

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次に1番新しい3号館(昭和40年)。それでも手すりは木製です。ねじりが入って、丁寧に作られています。

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参加者から感嘆の声が上がった空室。かなり高い位置に窓があり、明るい雰囲気です。「もっと天井の高い部屋もありますよ」とのこと。

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最後に本館(昭和32年)。ここが一番の見どころです。玄関からして曲線を使った魅力的なデザインです。

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渋い書体のビル名プレート。

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4階から見下ろした変形らせん階段。増築した部分もちゃんとらせん階段を継ぎ足したのですね。このらせん階段は見る位置によっていろいろな表情を見せてくれます。すばらしい。

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ツアーが終わり、2号館(昭和40年)に戻ります。
人造石研ぎ出し(テラゾー)の床が見どころとのこと。品の良い美しさです。

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カフェスペースは結構賑わっていました。
一角では戦後建築のスライドショーが次々と流れ、写真展、資料展などもあります。スライドショーでは、私のなれ親しんでいるビル・リバーセンターが多く取り上げられていて嬉しく思いました。
食べ物、飲み物、関連グッズもいろいろあります。
来場者がもらえる、ビルマニアカフェ2008のパンフレットは、戦後建築の見どころ解説なども付いてよくできています。

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さて、ここまで来たついでに近くの堀江公園を見に行きました。
戦後建築の後は戦後公園。昭和25年の公園です。
60年近くたった公園は木々も大きく育ち(とくにヒマラヤ杉など)、魅力を増しています。雑誌モデルの撮影(たぶん)も行われていました。

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その一角にある堀江会館。戦後建築っぽくないですか? スリット状の窓などが。

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アールの入ったひさし、ブロック状の2階の窓、なかなかいいです。

ビルマニアカフェで戦後建築の魅力を教えていただき、ますます街のいろんなものに反応してしまいそうで危険です。

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2008年10月10日 (金)

中国趣味の藤井有鄰館(京都)

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京都国立近代美術館に「アーツ&クラフツ展」を見に行った日、時間に余裕があったので、ついでに向かいの藤井有鄰館を見学しました。
通常の開館は、「一月、八月を除く毎月第一、第三日曜日の正午~午後三時半まで」なので、後から考えるとタイミングも良かったようです。
表に建つ第一館は、大正15年(1926年)に、滋賀県五個荘(近江商人の町ですね)出身の藤井善助翁により、蒐集品をもって設立された中国文化の私設美術館です。

建物は武田五一の設計によるものです。
屋上の八角塔は実は展示品で、北京・紫禁城の一角にあった建物が道路拡幅で削られると藤井翁が聞き、建設途中で引き受けたものだそうです。北京から京都の屋上に引っ越しとは不思議な縁です。
残念ながら屋上は公開されていません。
公開部分は向かって右側の展示室で、左側も非公開です。
3階角のベランダが気になりますが。

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入り口には中国風の獅子がにらみを効かせています。これも収蔵品なのでは? こちらも目立っています。第一印象を収蔵品に持って行かれて建物の印象が後回しになりますが、2頭の昇竜が宝珠を争うレリーフは迫力があります。(先ほどから入り口と言っていますが、美術館としての入り口は裏です)

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上下の窓の間には伝統的な花模様を挟んでいます。
中国文化の展示にふさわしい装飾といえます。
それでいて、この位置の装飾はセセッション風ともいえるでしょうか。

一通り、表を眺めたら中に入ります。
入館料は第一館だけで1000円となかなかします。収蔵品の質と私設であることを考えるとやむなしでしょうか。残念ながら館内は撮影禁止です。各階の展示室入り口の上部には桃の並ぶ図案のステンドグラスがはまっています。

展示室も広間のようで、時代を感じさせるものです。
収蔵品は仏像や書画、青銅器、陶磁器、文房具、印、古銭など、古い時代のものがごろごろ。全然知識がないので、私には貴重さがよく分かりませんが、すごいものらしいというのは分かります。よくこれだけ集めてきたものだと思います。

建物としての見どころは3階展示室で、天井部分に大きなステンドグラスがはまっています。中之島公会堂の特別室で見たステンドグラスにタイプが似ているように思いました。もう少しパターン化された連続模様です。行きつ戻りつ天井を見上げました。

貴賓室もあるようなのですが、見られませんでした。
いつ公開されるのでしょうね。

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藤井有鄰館には第二館もあります。
明治20年頃にフランス人が設計した、金沢の横山男爵邸の一部を昭和3年に移築したとのことで、ルネッサンス風でアールヌーヴォー様式が見られる木造建築とのことです。
入り口の休憩室はこれも展示品のようですね。
第二館は入館料400円です。

中に入ると木製手すりの階段がゆったりと2階に上がっています。
洋館でありながら、展示品は日本のものというのが不思議です。
展示品よりも古い椅子や家具、暖炉などの方に気が行きました。
そんなにアールヌーヴォーという印象を受けなかったのですが、ドアや窓が曲線でなかったからかもしれません。
1階にはホールがあり、コンサートなどに使われているようです。

かたや中国、かたやフランス+日本、時間限定の不思議空間の美術館です。

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2008年10月 8日 (水)

尼崎近代建築ラリー

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尼崎運河博覧会を見たあとは、元浜の旧集落から阪神武庫川駅へと出ましたが、長くなるのでそれは省略して阪神尼崎駅から始めます。尼崎中心部にある近代建築ラリー(比喩です)をしました。

近代建築巡りの前に、駅の南に少し寄り道しました。老舗のヒノデ阿免(あめ)本舗さんがあります。「何を売ってるんですか?」と聞くほど無知な客でしたが(ヒノデ河虎と読み間違うし・・・)、試食させていただいて説明も聞いて水飴を買って帰りました。商品は水飴と固形飴のみ。とくに水飴は原料がもち米だけというシンプルさ。やさしい味がしました。

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途中、道路に気になるコンクリート柱がありました。
多角形の装飾で金属を巻いてあって、由来が気になります。

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駅からは外堀を兼ねる庄下川を挟んで尼崎城跡の石垣(模擬復元)が見えます。

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渡ったところにはレンガ倉庫があります。
ここから近代建築ラリーをスタート。
明治37年の旧阪神電鉄発電所です。

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道のすぐ脇に立っているので煉瓦をよく味わえます。触ることもできます。

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ひろさんに教えていただいた、うさぎはりの門柱のうさぎ。すぐに分かりました。駅と学校の間なので学生たちの思い出の風景ではないでしょうか。

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地味ながら、尼崎市立城内高校(昭和12年)の裏門です。
両側に溝を切ったシンプルなアーチ。

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一方、旧尼崎警察署(大正15年)の裏門はてっぺんがラジエーターのような角柱。

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大正らしくデコレーションが豊富です。
なんとなくミニミニ大阪府庁という感じがしたのですが。同い年です。

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旧尼崎警察署の隣から裏は三の丸公園で味のある雰囲気になっています。
これで警察署が活用されればいうことないのですが。

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向かいには旧尼崎高等女学校(昭和8年・13年)。この日は休日だったのですが、車で入っていく先生(?)がおられたのでその隙に。玄関脇に八角形の窓が見えます。

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城跡をぐるっと回って、尼崎藩主桜井松平家を祀る桜井神社へ。
ここに博愛社(のちの日本赤十字社)記念碑があります。それは西南戦争の際に尼崎藩主桜井忠興が私財を投じて医師・看護夫を派遣し、敵味方の区別なく負傷者を手当てしたことをきっかけとする博愛社設立に深く関わっていたためで、日本赤十字社の事務所は当初東京の桜井邸に置かれたそうです。明治20年のことです。日本赤十字のルーツが尼崎にあったとは初めて知りました。

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また明治22年には尼崎で最初の幼稚園として、桜井神社の中に博愛幼稚園が生まれたそうです。幼稚園に安置された博愛地蔵が神社にあります。(桜井神社自体は国道43号線の建設で移転して現在地に来たそうです)

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庄下川の開明橋を西に渡って、大正6年の大津表具店(旧向井眼科院)。
ほとんど飾り気がありません。壁面に「開明医院」の文字が消え残っていました。

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向かいは船のような旧尼崎市立開明小学校(昭和12年)。今は尼崎市役所の出張所になっています。もとの運動場が公園として開放されていますので、外観をよく見ることができます。

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そのまま西に進んで寺町に入ったところを南へ。
旧尼崎信用組合本店(明治33年頃)のかわいらしいまでに小さなレンガ建築があります。今は尼崎信用金庫記念館です。元の位置からは50m北に移設されているそうです。

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その並びには旧尼崎信用組合新本店(昭和5年)です。角の取れた丸っこい建物。

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そのさらに並びには本町ビル・旧尼崎共立銀行本店(大正12年。プレートにはなぜか大正5年と書かれています)。椿本ビルとも呼ばれていました。
びっくりしました。というのは、ガイドブックに出ていた色と全然違うから。『近代建築散歩 京都・大阪・神戸編』(2007年)に「2階へ直接入るための外部階段や赤い塗装がいただけない・・・将来の美改修に期待」と厳しく書かれているのですが、それに応えたのでしょうか。外部階段は取り払われ、白とグレーの外観に吹き付け塗装をされています。

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玄関上部の装飾。マス目にうずまきの抽象的な模様が入っています。
近代建築巡りはここまで。

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旧中国街道に沿って西に進み、貴布禰(きぶね)神社に立ち寄りました。ルーツは京都の貴船神社で、長洲の貴布禰神社→北城内の尼崎貴布禰宮屋敷→江戸時代に現在地と移って来たようです。尼崎の惣氏神として尼崎藩主に信仰されたような立派なお社です。
その境内に備前焼(伊部焼)の狛犬がありました。備前焼の狛犬を見ると瀬戸内海海運とつながっていたことがイメージできます。

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また寺町の南の筋を戻ってきたところで、この見つけものがありました。
もとはお医者さん? 洋風町家といえましょうか。花のような窓のレリーフに、アーチやバルコニーのようなレリーフ、近代建築ビルのモチーフを貼り付けたような町家です。
どこかで見たような気がするんですけど、何でしょう。山内ビル(外部リンク)でしょうか。他にも見たような。

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ちょっと面白いなと思ったのは1階庇のなみなみが、そのまま2階出窓下のなみなみに続いているようなところ。花のような窓には斜めに格子が入っています。

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窓の木の格子も何かで見たような。家具かな。

この建物があるのは、旧尼崎信用組合本店のすぐ近くです。
最後に予定外のものがあって満足なまち歩きとなりました。

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2008年10月 5日 (日)

うんぱく2008の運河クルージング

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昨年につづき、今年も尼崎運河博覧会2008(うんぱく2008)に出かけました。
今年は規模を縮小して開催しているようです。
写真は会場の様子で、漕いでいるのはEボート。

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昨年は蓬川の運河バスを利用して、次々に橋をくぐる体験をしましたが、今回は運河クルージングが目当て。北堀運河の港橋を乗り場として、北堀運河〜蓬川〜旧左門殿川を往復する30分コースです。
船は2隻あって、こちらの4人乗りボートと、

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こちらの7人乗り(+船長)のボートです。
1時間ほど並んで、私はこちらのボートの順番に当たりました。

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さあ、出発。ガイド兼操船は、あまけんのTさんです。
ライフジャケットを着込んで乗り込みます。
お客さんは小さな子供連れの方が多いようでした。

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北堀運河を振り返って。
重い空模様です。

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蓬川で積み込み作業中の台船。

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荷物の上げ下ろしをする装置ですが、間近で見ると巨大です。
表からは単調な塀が続く工場ですが、裏の顔はとてもダイナミックです。

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やがて見えてくるのは尼ロック(尼崎閘門)。高潮防止のため湾内の水位を低く保ちつつ、船が出入りするための装置です。水面からではよく分かりません。
このあたり、広い水面が広がって開放感があります。

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ここから旧左門殿川へ。
可動橋(跳ね橋)の東高洲橋が見えます。
背景と重なってちょっと分かりにくいでしょうか。
手前の緑と赤の橋ですよ。

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川の上までせり出す工場も。

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大きな工場が次々と現れます。
工場好き向きの景色です。

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旧左門殿川が東に折れるところで折り返しとなります。
この左手はもう尼崎の旧市街地です。

大きな工場を眺めつつ広い水面を走る今回のクルージングは、昨年とはまた違った運河の顔でした。

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2008年9月23日 (火)

池田室町住宅地の周辺

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池田室町住宅地は前回紹介したとおりですが、その周辺にも古い住宅などが残っています。池田室町住宅地は明治43年に開発が始まりましたので、その周辺に大正や昭和の町があっても不思議ではありません。今回は周辺を紹介します。

まず池田室町住宅地と一体的にあるのが、このダイハツのアヤハクラブ。純和風の落ち着いた門構えです。広い庭のある和風建築のようです。ダイハツ(当時は発動機製造(株))は戦前から池田市で操業しています。

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住宅地の南側は少し低くなり、小川が流れています。

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その南には落ち着いたお屋敷がありました。整形の室町住宅地と違って、屈曲する道を生かしながら建物を建てています。

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奥のお屋敷はどっしりした洋館付き住宅です。

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一方、室町住宅地の東側(池田駅側)には、こんなにいい感じの一角が残っています。室町住宅地に啓発されたのかなと思える住宅地です。

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どっしりした和風住宅の洋館付き住宅。

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向かいにある、こちらも洋館付き住宅。

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建物は古そうに見えないけど、丸窓の残る住宅もあります。この格子のデザインは槍でしょうか。洋風長屋で丸窓にプロテクターのような格子をはめている家がありますが、もしかしてこういうのが原型かも(根拠はありません)。

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南にはアパート群もあり、銭湯もあります。
シュロがすっくと立つ、明るい雰囲気の池田温泉。足下はスクラッチタイルです。銭湯好きには知られた温泉だったようですが、残念ながら2005年に廃業されたようです。「池田」の文字が落ち、煙突は安全上の理由か途中で切断されています。いい字体なので取っておいたらいいのになあ。

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南に抜けると急に視界が広がって、広々したダイハツ本社工場第一地区があります。昭和14年(1939年)にここに工場を構えました。周辺には従業員の方も住んでおられたのでしょうね。

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駅に戻る途中、ひっそりと残る3棟続きの洋風長屋を見つけました。
とくに手前のものは屋根瓦(セメント瓦?)も古そう。

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近くにもう少し原型が分かりやすい形で残っているものがありました。
コンパクトながらなかなかきれいです。
洋館付き住宅の洋館部分を取りだしたようにも見えます。

池田室町住宅地は和風住宅ですけど、周辺にも様々に影響を与えていたんじゃないかなと思います。
周辺部も歩いて楽しい池田室町でした。

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池田室町住宅地

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池田に用事があり、少し早く出かけて、日本初の郊外分譲住宅地として知られる池田室町住宅地を歩いてきました。箕面有馬電気軌道(のちの阪急)の小林一三氏が、明治43年(1910年)、大阪梅田と宝塚・箕面を結ぶ鉄道開通に合わせて開発した住宅地で、鉄道会社による住宅開発、住宅の月賦販売の先駆けでもあります。(この記事は吉田高子さんの「池田室町/池田 小林一三の住宅地経営と模範的郊外生活」(『近代日本の郊外住宅地』所収)に依っています)

住宅地の場所は阪急宝塚線・池田駅のすぐ西側で、線路沿いに歩くルートもありますが、私はこの池田中央市場の左を抜けて中央大通りにつながる道を入りました。

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この道が中央大通りです。右手にさっそく洋館付き住宅があって、期待が高まります。

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住宅地の中心には室町会館があります。住宅地開発の翌年、明治44年(1911年)に建てられた和風の室町倶楽部が前身で、昭和11年(1936年)に外観を洋風に大改造し、現在に至っています。ぴょこんと飛び出た屋根や焼き板張りの壁は和風の名残でしょうし、直線的なモダンデザインに玄関脇のアールが昭和10年代らしく、一風変わった建築になっています。

室町倶楽部の建物には、購買組合も入り、米穀・薪炭・酒・醤油・味噌などを販売していました。倶楽部・購買組合ともうまくいかなかったようですが、住民組織の室町委員会(のち室町会)は機能しています。

なお、玉子を縦割りにしたような石碑は池田室町住民憲章の碑(平成17年)です。

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室町会館には社団法人室町会が入っていて、池田室町住民憲章の碑の説明板が掲げられています。そのまま紹介します。

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私たちの町池田室町は 明治43年阪急電鉄(株)創設者小林一三氏の発想により わが国最初の郊外住宅地として「建売分譲」「長期割賦」方式により販売せられ 開発以来90有余年の歴史を持っています

 そして私たちの先輩は このまちづくりの精神と理想に則り「自分たちのまちは自分たちの手で」をモットーに社団法人「室町会」を設立し 自主的に平和で安全なまちづくりに取り組んできました

 整然とした町並みと 五月山の緑 猪名川の清流に囲まれ 呉服神社の森 家々の樹木や生垣は 四季を通じて私たちの目を楽しませ 温かく迎えてくれるまちでもあります

 今後も常に 緑化と美化に心がけ住宅環境の保全に努めると共に隣人や町の人々との交わりを大切にして 明るく仲むつまじい豊かなまちづくりに努めます

 この度 住民の合意による住民憲章の制定を記念して「池田室町住民憲章」の碑を建立します

 平成17年5月吉日

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 住民意識の高さが窺えます。

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床下換気口のグリルもチェック。シンプルですが、若干のデザイン心が入っています。

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室町会館周辺はこんな感じです。離れてみると呉服(くれは)神社の森を背負って会館が建ち、和風住宅が並ぶ当時の雰囲気が少し感じられます。

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この呉服神社は機織・裁縫・染色の技術を伝えた渡来人・呉服媛にちなむ神社で、仁徳天皇の時代に創建されたとされる由緒ある神社です。住宅地開発前、神社の森は田園に浮かぶ島のようでしたが、池田室町住宅地に取り込まれて、公園の役目も担っています。

右手にある室町幼稚園は大正11年にできた「家なき幼稚園」をルーツとするもので、昭和25年から室町会の事業となりました。


大きな地図で見る
住宅地の環境はこのようになっています。
呉服神社を中心に北東を阪急の線路、北西を猪名川に囲まれています。線路の北側には池田の旧市街が広がっています。
住宅はみな北東から南西に向かう道に沿って建っています。

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初期の開発は全て和風2階建ての住宅地でした。
207区画のうち83区画がまず分譲され、うち77区画は基本4タイプの住宅だったそうです。1区画は約100坪の正方形、建坪は約20坪です。

焼き板塀の町並みが初期の風景ではないでしょうか。
池田室町住宅地は100年近くたっているので建て替えも進んでいますが、「焼き板塀」、「杉皮張りの和風2階建て住宅」、「2階建ての蔵」、「洋館付き住宅」が印象的です。順に紹介します。

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この建物の門塀はモダンなので、時代は少し下りそう。
杉皮張りの壁は明治の住宅地の雰囲気です。

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蔵をもつ家がたくさんあるのも古い住宅地ならではでしょう。

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そのなかに煉瓦の蔵もありました。
(逆光で見にくいですが)

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例によって床下換気口を覗き込みます。
これはどこかで見覚えが・・・と思ったら新潟の鍋茶屋の蔵で見たものと同じデザインでした!ちょっと感激。

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また足下に煉瓦を敷いていたので刻印煉瓦もチェック。日本煉瓦株式会社(堺)と推定される四弁花の刻印がいくつかと十字(?)の刻印が1つありました。

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続いて洋館付き住宅です。当初の和風住宅に増設したんでしょうね。

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屋根裏換気口が尖頭アーチを組み合わせたような変わった形です。ハート型の植物模様の鬼瓦はよく見かけます。

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これも洋館付き住宅。白い洋館はハーフティンバーで、黒い和館はどっしりと、かなりギャップがありながら美しく建っています。

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こちらの洋館部分はかなり傾斜の緩い屋根です。屋根の持ち送りがS字カーブで変わっています。

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2階建ての洋館いくつかに改造が加わって独特な姿に。
なお、この通りは中央の大通りで、左に街路樹が1本立っています。アオギリかな? 昔は街路樹があったそうですが、今はこれだけです。大通りといっても広くはないので、車の通行の邪魔になったのかもしれません。