2009年7月10日 (金)

初めての北海道(8)釧路の老舗そば店

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釧路での昼食。
どこか面白いところがないかなと探すと、近代建築好きには(一般の観光客にも?)格好の竹老園東家総本店がありました。
旧市街からは丘を挟んで向こう側の、春採湖近くにあります。
私はバスで富士見まで行き、坂を下りました。

上の写真は、坂を下る途中に見た普通の住宅です。
地元では当たり前でも、大阪から来た私には物珍しい。
煙突というと、近代建築か伊達かという地方から来ると、普通に煙突が付いているだけで新鮮です。
ただ、新しい住宅では電化のためか、煙突のないものも多いようでした。

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木の柵にたんぽぽ。
こういう景色にも心ひかれます。

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竹老園東家総本店はすぐ見つかりました。
一般客向けの店舗部分とは別に、(昭和初期の?)石積の武骨な門が総本店の座敷への入口です。

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正面の唐破風付きの建物が、昭和2年にできた主屋です。
建築家は細貝熊吉とのこと。主屋以外の建物は昭和10年以降の増築だそうです。
当時は建物の前まで春採湖が迫り、人家は少ない風光明媚な場所で、蕎麦屋「東家」の当主・伊藤竹次郎の隠居の場として選ばれたはずが、完成後には蕎麦屋を再開して、総本店となったそうです。
(『道東の建築探訪』、p75)

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主屋前に架かる橋は、欄干に木の枝や竹を摸した柱がはさまって不思議な趣味です。

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お店の方にお願いして、建物の中を見せていただきました。
インパクトがあるのが、増築部の廊下が折れる突き当たりにあるステンドグラスです。

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斜めから見れば分かるでしょうか、皿状に凹んでいます。
この部分が特に凝っています。磨りガラスもそれぞれ、いろいろなものを組み合わせていますね。

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廊下は折れ曲がりながら続き、たくさんのお座敷があります(別料金で、こちらでも食事できます)。

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斜面を生かして建てているので、高低差もあります。

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階段も廊下も長く、かなり広いお店です。

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もちろん食事もいただきました(一般向け店舗で)。
奥がソバ寿司、手前が鶏のスープです。
変わってますでしょう。
緑のソバ寿司はさっぱり、スープはこってりした味でした。

東家自体はチェーンで、市内のあちこちで見かけましたが、建築やお庭も見られますし、時間があれば総本店で食べた方がいいかなと思います。


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2009年7月 7日 (火)

「前衛都市モダニズムの京都展1895-1930」(京都国立近代美術館)

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京都国立近代美術館で開催中の、「前衛都市モダニズムの京都展1895-1930」を見てきました。
前日がいわば「モダニズムの大阪展1937」でしたから、その前の時代になります。

今回の企画展でメインになっていたのは、まさに美術館のある岡崎公園で開催された第四回内国勧業博覧会です。都市建設と美術の関係、伝統美術と西洋美術の関係などが提示されて、また新しい見え方が現れていました。

例えば建築パース。
初めて試みる人にとっては新しい絵画表現なのですね。
樹木が水墨画のようで美しい。
琵琶湖疎水工事を描いた絵画、図解も興味深いものでした。

日本のモチーフを洋画の構図で描いた絵、
逆に洋画の掛け軸なども、言われてみれば、と影響に気付かされます。
今まで見たことのある絵もあるのだけれど、違って見えます。

第四回内国勧業博覧会(1895年)の展示では、とくに平安神宮の紹介に多くを割いていました。
木子清敬・伊東忠太による設計の図面がたくさん出ているのですが、躍動する青龍と白虎をそのまま池の形にした図面には、思わず航空写真を確認してしまいました。残念ながら明確には分かりません。
伊東忠太のアイデアなのでしょうか。

ワグネルが化学面で指導した七宝、陶芸などの展示は、伝統工芸の伝統イメージを変えるものでした。

京都のまちなかに散在する近代建築のイメージにとどまらず、
京都の伝統というイメージをかなり変えてくれる展覧会になっていたと思います。

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最後に1階に戻ってデトロイト号を見ました。
これだけは撮影可能です。
島津製作所社長が通勤に使っていた電気自動車で、島津家の○に十字の家紋入り。
自宅はインターナショナル建築の島津邸(現・日本バプテスト病院)ですのでかなりモダンな生活を体現しています。(旧島津邸は会期をもって解体と書いてあったような)

この展覧会は7月20日(月・祝)まで。
京都・岡崎公園の京都国立近代美術館で開催中です。

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2009年6月27日 (土)

初めての北海道(4)釧路の土着的建築

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今回、釧路で泊まったのは、幣舞橋の南たもとにある釧路キャッスルホテル(HP)でした。
できれば近代建築や古いホテルに泊まれたらと探したのですが見つけられず、なんとなく選んだのがこのホテルです(そういうときはローカルホテルを選びます)。1987年の建築です。
船の形をしたホテルというのは、ふーんと読んでいたものの、毛綱毅曠(もづなきこう。毛綱モン太とも)という建築家の作品というのは後で知りました。
この方は釧路出身で、釧路には多くの作品が残されています。
いつもの近代建築と違って、現代建築を紹介します。

まず釧路キャッスルホテルから。
釧路川を望んで立っています。
船と言えば船ですが、色合いもあって、もっと土でできたような土着的なものに見えます。ちなみに右のモダンな建物は日本銀行の釧路支店です。

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ロビーに入ると、天井には布のドームがあります。
土や布の素材を感じさせて落ち着く空間で、私は気に入りました。

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何段にもなったエレベーターの壁。近代建築にも通じるデザインですね。
「掃除しにくそう〜」というのが最初の印象でした。

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部屋(ツインルーム)はこんな感じです。
2色に塗り分けられています。何でしょう、壁の斜めの段差は。

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天井で2つの色がぶつかる部分に小さな波頭が立っているんです。
芸が細かい。他の部屋はどうなんだろうと気になります。

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幣舞橋をはさんで斜め向かいにある釧路フィッシャーマンズワーフMOO(1989年)も毛綱建築です。
とくに夜、照明が入ると未来的な感じがします。

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丘の上にある釧路市立博物館(1984年)もまたそう。
タンチョウヅルが羽を広げたイメージだそうですが、ここも土を感じさせる(古代的なといってもいいかも)建物です。

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釧路市湿原展望資料館(1984年)も土を感じさせます。
モデルはヤチボウズという植物の塊だそうです。

私は地域に根ざした、個性によらない建物を見て回ることが多いのですが、地元出身の建築家が個性的であったがために、個性的な建物群ができてしまったというのも面白いことだなと今回思いました。

余談ながら、毛綱毅曠氏は丸亀の小学校もつくっていて、さすがバサラの丸亀と感心しました。


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2009年5月24日 (日)

浜寺昭和町5丁の住宅(堺市)

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浜寺住宅地は、堺市の南海本線・浜寺公園駅の東側に広がる別荘的な郊外住宅地です。
大正7年に地元資本主体で設立された浜寺土地(株)により、大正7〜8年に第一期の土地整備が行われました。その後、浜寺土地(株)主導で、昭和5年に浜寺土地区画整理組合が設立され、隣接地が昭和11年、13年、15年と開発施行されました。

以前、堺市の浜寺住宅地のうち、浜寺昭和町1丁〜3丁を紹介しましたが、今回、浜寺昭和町5丁を紹介します。4丁、5丁は、一番最初に開発された地区にあたります。

いくつかの建物は写真で見ていたのですが、なかなかそれが現れませんでした。あせりましたが、結局、歩くルートの関係で、洋風の建物はみな一ヶ所に固まっていたということです。

まず、O家住宅から紹介します。大正時代に建った和館(現存せず)に、昭和3年、洋風接客棟として増築されたスパニッシュの洋館です。

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星形窓と窓の上のイスラム風装飾が目をひきます。
窓の上に緑の点がありますでしょう?

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拡大すると花柄レリーフのプレートです。

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続いて、O家住宅の東隣にある阪之上家住宅。登録文化財なので、名前を出していいでしょう。
こちらは大正11年、表には出てませんが煉瓦造だそうです。
住宅らしからぬインパクトのある外観です。
実現しなかった浜寺ホテルの計画の一部が使われたと解説されています。
(ひろさんのブログで拝見した気もするのですが、見つけられませんでした)

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1・2階の窓の間に装飾が入るのはセセッション風ですね。
石を貼ってみたり、窓に凝った面格子を使ったり、いろいろ装飾を加えています。

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両家を同時に眺めるとこうなります。
左がO家住宅、右が阪之上家住宅。
これだけでなく、さらに・・・

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道のずっと先には、ヴォーリズの近江岸家住宅のスパニッシュ煙突が見えるんです。
狙ったんですか、ヴォーリズさん(何を?)。
小さな写真では拡大しないと分かりませんが、肉眼では見えています。

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続いて、阪之上家住宅の東隣にあるのが、F家住宅です。
昭和8年に建ちましたが、木造です。
丸々の洋風住宅です。

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東側の玄関はこんな風に半円のバルコニーが飛びだしています。

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テラコッタ風装飾は、花の図案でしょうか。

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こうして紹介してくると洋風の町並みかと思うかもしれませんが、それは少数派で、近代和風が主体です。左側は阪之上家住宅の塀で、道路、水路を挟んで右に和風住宅の焼き板塀が続いています。
なお、この水路は排水のためらしく、地区内に逆L字型に引かれています。

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同じ場所でもう少し右を向くとこんな感じ。
どこかの歴史的街並みのようです(浜寺も既に歴史的街並みですが)。

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和風住宅の玄関部分はこうなっています。
玄関は隙なく石畳、側溝は花崗岩の切石2本で挟み、煉瓦が敷かれています。

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ちなみに煉瓦の刻印は五光星でした。
私は見たことがありません。

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同じ五丁の端の方にはこんな住宅も。
きれいすぎるので、新築でしょうか。
実は上の建物を見る前にこちらを先に見つけました。
この頃、昔風の本格的な洋館が新築されていて、分かりにくくて困ります。
街並み景観的には良いことなんですけどね。

○この記事には下記の報告・論文を参考にしました。
 『大阪府の近代化遺産報告書』、2007年
 吉田高子氏「大正7年開発の浜寺住宅地とその屋敷地構成について」(『近畿大学理工学部研究報告』第40号)、2004年
 三浦要一氏・住田昌二氏・多治見左近氏「浜寺地区における郊外住宅地形成過程」(「平成2年度日本建築学会近畿支部研究報告集」)、1990年
 多治見左近氏・三浦要一氏「堺市浜寺地区の郊外住宅地形成」(「日本建築学会計画系論文報告集」第436号)、1992年
 水野佐八香氏・小浦久子氏「歴史的建物資源とその地域環境特性の持続に関する研究その2 —堺市・浜寺地区の景観に現れる地域環境の特性—」(「平成14年度日本建築学会研究報告集」)、2002年
 
○関連記事
 「浜寺昭和町1〜3丁の住宅」
 「浜寺昭和町4丁の住宅」


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2009年5月13日 (水)

明石の中崎公会堂

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網干を歩く前、明石公園にある県立図書館で資料を入手するため、明石に立ち寄りました。明石公園には昨年9月にも訪れています。
「阪神・山陽シーサイド1dayチケット」というのを使いましたので、乗り降りは自由。
せっかくなので、ついでのついでで、古い公園である中崎遊園地を歩くことにしました。

山陽電車の人丸前駅で降ります。
目の前には、明石のシンボル・明石市立天文科学館があります。
(今回こちらには行きません)
 ○関連ブログ記事:ひろの東本西走

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逆に海の方を見ると道の向こうに中崎公会堂、そして海は見えませんが、淡路島が見えます。
まず中崎公会堂を目指します。そのあたりが中崎遊園地(公園)です。

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途中、西国街道が横切っています。
歯抜けにはなっていますが、古い町家が残り、路側には凝灰岩らしい切石が連なっていました。

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西国街道上には「大日本中央標準時子午線通過地識〜」という石柱が立っていました。明治43年に明石小学校の先生が立てたそうです。

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中崎公会堂もほとんど子午線上に建っています。
(子午線でも天文系、日本測地系、世界測地系など複数あるらしいですが)
あえて子午線上を選んで建てたんでしょうか。

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明石市立中崎公会堂は、明治44年、「明石郡公会堂」として、明石町と11か村によって建てられました。奈良・鎌倉の建築様式を取り入れたかなり立派な和風建築です。設計は、のちに拓殖大学本館などを設計した加護谷祐太朗らしい。
昭和58年に改修工事が行われています。

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中に入ると廊下に取り巻かれた大広間があります。
基本的に和風なのですが、廊下との仕切りは洋風の桟をもつ半ガラス戸で、見通しのよい空間になっています。昔は海まで見渡せたのではないでしょうか。

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折上げの格天井には、七宝のような柄の華やかな装飾も。

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海側の廊下から。
黒い桟というのがうまく気配を消して、空間を広く見せています。
かっこいい配色。

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海側の廊下。

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照明器具はオリジナルを踏襲しているのでしょうか、革細工のような不思議なフードです。色は銅をイメージ?

和風の中にも洋風の要素がちりばめられていて、明治建築らしいとも思います。

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2009年5月12日 (火)

網干の町並み(4)ダイセル異人館

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網干の街歩きの最後は、ダイセル異人館です。
もらった観光マップにここの紹介が載っていて、日が暮れかかっていますが、急いで見に行きました。
網干でも集落の外れにあり、工場緑化によって緑の多いところです。

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ダイセル異人館はダイセル化学工業の工場に向かい合うように建っていますが(手前の緑と奥の赤い屋根の建物)、塀もなく、野外住宅博物館のような、もっと雰囲気の良い一角になっています。今もダイセルの所有なのでしょうが、自由に眺められるようになっていて、ありがたい限りです。

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このマップでいうとピンクの2棟がダイセル異人館です。
他はクラブやエンジニアリングセンターなど会社の施設。

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まずは資料館になっている緑の建物=旧図書館から。

ダイセルというと、大阪の私には堺の会社というイメージですが、ダイセル化学工業(株)は、大正8年(1919年)に、セルロイド8社が合併してできた大日本セルロイドを前身とするそうです。その8社の1つが、明治41年に網干で創業した日本セルロイド人造絹糸(三菱系)でした。

明治42年(1909年)に、この地に工場が建設され、技師長にイギリス人のクリーン、他に5名の技師職工がイギリス・ドイツ・スイスから招かれ、翌明治43年に彼らの居宅として洋風住宅が建設されました。その一部がダイセル異人館(ダイセル外国人技士住宅)です。
様式は19世紀末のイギリスのコテージの類似意匠がみられるが、アメリカのコロニアルスタイルとの共通点が多いとのこと。(案内板より)

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南面には大きく庇が張り出しています。

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コロニアルらしいベランダ内部。
開いてなくても、ここまで入れます。

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一方の赤い屋根の建物は、会社のクラブハウスになっていますので、途中までしか近寄れません。
緑の建物同様、角のある屋根が兜のよう。

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洋館付き住宅で真似られているようなデザインです。

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緑豊かな一角で、大きなユーカリの木がそびえています。
ユーカリって大きく成長するんですね。
南側には広い芝生が広がっていました。

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一方、工場の事務所も外からうかがった限りでは、このようにきれいです。

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古い工場も残っています。

このようにいい状態で公開していただいているダイセルさんには感謝です。
機会あれば資料館を見に来たいなと思います。
 →姫路観光コンベンションビューローの案内

網干編はここまで。
次は明石の予定です。

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2009年5月10日 (日)

網干の町並み(3)網干商工会館

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姫路市網干区の街歩きの続きです。
浜田地区を一巡りしたあと、揖保川岸まで戻り、さてどちらに進もうかと対岸の興浜(おきのはま)を見渡しました。そのとき、上流の方に気になる赤い屋根が。壁面は緑に覆われていますが、屋根がなんとなく古そう。

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川を渡って近づいてみると。なんだこれは。

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表に回ってみて、これは近代建築の会館に違いないと分かりました。

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古い字体で網干商工会館。豆タイルの柱、丸窓も期待させます。

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扉が少し開いていたので、思い切ってお邪魔しました。

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さらに期待させる階段。
だめもとで事務所の方に、「中を見せていただけませんか?」とお願いしてみると、個人的な趣味ならと許可していただけました。
おまけに商工会の記念誌と網干のマップまでいただきました。
この建物は昭和15年に竣工したものだそうです。
所有者は網干商工同友会さんです。

1階では小学生が勉強をしているようです。

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2階へと続く階段。

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階段を振り返って。

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階段手すりの透かし窓。

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丸窓にはツタの緑、窓には揖保川。

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ツタの緑が室内に流れ込んだような緑の塗装。なんて素敵な。

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ツタ越しに揖保川がよく見えます。

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さらに驚くのが大会議室。
古いままじゃないですか、これは。

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演台の網干商工同友会の会章。
「A星」=「あぼし」?

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舞台袖の部分。

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ただの木枠ではなくて、こんな風に装飾入りです。

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舞台袖の階段は細工の丁寧さに驚き。
舞台もそうですし、豊かだった網干の建築にかける力を感じさせます。

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この建物がこうして古いまま残ったのは、網干町が、この会館の完成後わずか6年、昭和21年に姫路市に合併されてしまったことも一因かもしれません。

会館の前には網干川の船だまりがあるという絶好のロケーションです。
せっかく残っているのですから、ぜひうまく活用していただきたいなと思います。

事務所の方、いい建物を見せていただきましてありがとうございました。
見てみたいと思われた方、この建物は一般に公開されているわけではありませんので、事務所で尋ねてみられたらと思います。


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2009年5月 6日 (水)

網干の町並み(1)新在家と興浜

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網干(あぼし)(姫路市網干区)の旧中心は、JRの網干駅よりも3kmほど南の山陽電車支線の山陽網干駅が近いのですが、それでも駅からは少し離れているので、知らなければ駅の周りを見渡して引き返してしまいそうです。

駅から南に細い道を入っていくと、向こうに特徴的な円錐屋根が見えてきます。

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商店街に入る前に網干川を渡ります。
モーターボートが何艘も係留されていて、運河のような雰囲気。

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旧網干銀行本店。今はタケダ洋品店です。
現在の建物は、大正10〜12年頃に竣工したそうです。
非常に風格があるので、実物を見ると写真よりも小さく感じられましたが、それでも意外なほど立派な建物です。店とはいえ、婦人服店ですので、ちょっと覗けません。

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角の部分では非常に凝った装飾をしています。
人造石とタイルを貼っていますが、構造は煉瓦造だそうです。

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こういうのもセセッションの一種なのでしょうか、側面は幾何学的なデザイン。

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床下換気口の格子は植物模様のようです。

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あぼしまち交流館前の案内地図>

網干の町は、揖保川河口の町で、大まかに網干川の北の余子浜(よこはま)、南西の興浜(おきのはま)、南東の新在家に分かれています。町名が違うだけでなく、江戸時代の万治元年(1658年)から明治維新まで、興浜と余子浜は丸亀藩領、新在家は龍野藩領に分かれていたようです。それだけ物流の重要拠点だったんでしょうね。

屋敷の構えからみて、江戸時代は興浜が賑わっていたようですが、近代に入って、新在家側に明治41年、三菱が日本セルロイド人造絹糸(株)(のちダイセル化学工業(株))を設立すると、化学工業が発展して、新在家の商店街が賑わったようです。旧網干銀行本店も新在家にあります。

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今は寂れてしまった橋本町商店街のアーケードを抜けると、旧街道にぶつかります。
あぼし一番街という商店街になっています。
ここを西に歩いていきました。

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モダンな店の扉。

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通りには網干片岡庄屋塾という施設がありました。
大庄屋の江戸時代の建物を活用しているようです。

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さらに進むと幅広の道に出て、道の脇に古い橋が残されていました。

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案内板によると、これは「境橋」といって、新在家(龍野藩)と興浜(丸亀藩)の両藩を隔てる堀割に架かっていた橋だそうです。

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橋を渡ると興浜。
高い望楼をもつ民家があります。
明治初期、大正期の山本家住宅です。
大正時代に先ほどの網干銀行の頭取や網干町長を勤めた方の家だそうです。
銀行と家とどちらも町並みから飛び抜けていたことでしょう。

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とにかくこの興浜の町家というのは立派で、この玄関の石組みなどをみても、非常にきっちり作られています。

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金刀比羅神社の隣にある魚屋さんは、元料理旅館などではないでしょうか。格式が高そうです。

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興浜には深入りせず、街道に沿って揖保川を渡り、浜田地区を歩きました(改めて紹介します)。その後、興浜に戻って、網干商工会館(これも改めて紹介)から網干川沿いを歩きました。網干川沿いに近代建築が多いような気がします。

この建物は余子浜にある小林鍼灸整骨院さんです。
かなりきれいに改修されていますが、下見板張りの洋館だったのではと思われます。

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また面白いのが、川北にある新在家の幸町集会所。
赤い瓦屋根で左右対称、とくに両端に入り口を作っているのがユニークに思います。
直感的には昭和15年ぐらいの建物じゃないかと思うのですが、どうでしょう。

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入り口部分に近寄るとこうなっています。

網干銀行にしても、この町に洋風の建物が建ったのは、ダイセルの外国人技師やその住宅に影響された部分もあるのかなと思います。

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2009年4月 1日 (水)

「海岸通建物物語4」赤レンガに会いに行こう! 開催中

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4月1日(水)から大阪・天保山のステムギャラリー
4回目となる、「海岸通建物物語」が開催されています。
今年はサブタイトルが「赤レンガに会いに行こう!」
赤レンガの特集だそうです。

私も行きますが、皆さんもぜひ。
4月4日(土)には、煉瓦に詳しい大阪歴史博物館学芸員の
酒井一光さんの講演があります。

・・・以下、ステムギャラリーさんの告知文より転載。

 「海岸通建物物語4」

 会期:4月1日(水)-5月15日(金)
    日曜・祝日休廊
    (4月25日、5月2日、4日、5日、 9日は休廊)

 時間:午前11時-午後7時 

 料金:入場無料

 会場:ステムギャラリー
    (大阪市港区海岸通1-5-25 商船三井築港ビル1階)
    ※最寄り駅は大阪市営地下鉄・中央線「大阪港」駅

 たてものと歴史を愉しむ「海岸通建物物語」も
 4回目を迎えました。
 今年は、赤レンガに注目。
 松嶋真さん・森田タカシさん・大場典子さん・佐藤啓子さん
 による「赤レンガに会いに行こう!」写真展を開催します。
 天保山の築港赤レンガ倉庫をはじめ、
 日本各地に残る赤レンガのたてものを取り上げました。

[関連企画]
 「針穴の赤レンガに会いに行こう」
  写真展を、同ビル2階ぬきえもんにて(5月15日まで延長)
 「まちかどの近代建築」写真展
  隣の天満屋ビル2階お茶と雑貨のハaハaハaにて開催

 ○イベント

 4月4日(土)3時~
  酒井一光氏講演
  「煉瓦造の訴求力 -建築・遺跡・破片-」
   菓子お茶付き  参加費1000円

 8日(水)7時~
  HAZEL.A氏 「ペーパークラフトを作ってみよう!」
   あんパン飲み物付き  材料費込み、参加費1000円

 15日(水)7時~
  円満字洋介氏 「水上庭園天保山の江戸時代」
   あんパン飲み物付き 参加費1000円

 11日(土)5時~
  夕暮れの赤レンガを見に行こう!ツアー
   ワインおつまみ付き  参加費1000円

 18日(土)6時~
  岡崎紀子&佐藤啓子トークショー
  「近代建築を巡る旅は楽し」
   ワインおつまみ付き  参加費1000円

 ※イベントはすべて要予約です。
  メール、またはお電話(06-6599-2877)で
  お申し込みください。

 なお、ステムギャラリーの佐藤啓子さんが書かれた
 赤レンガ近代建築の本が書店に並び始めました。
 こだわりある素敵な本ですので、
 近代建築や赤レンガの好きな方いかがですか?
 
「赤レンガ近代建築」
 
(紹介文より)
文明発祥とともに造られ、長い歴史を有する煉瓦ですが、
いわゆる赤レンガが登場するのは、幕末、開国の頃。
明治になると、文明開化を象徴する建築材料として脚光を浴び
多くの洋風建造物が各地に建設されました。
重厚でエキゾチックな外観、独特の雰囲気を醸す壁面・・・
本書では、時代の息遣いを今に伝える赤レンガを全国に取材。
豊富な写真を駆使してその魅力を紹介します。

 著者:佐藤啓子

 コラム紹介
 酒井一光 : 「レンガ」と「煉瓦」の謎をとく
 高橋伸一 : 煉瓦と私
 馬場英男 : 舞鶴で赤れんがパーク整備計画進む
 林望    : 赤煉瓦の意味するもの 

 ◆判型:B6判 ◆並製 ◆総頁:160頁 
 ◆定価:1,890円(本体1,800円+消費税)

 →出版社・青幻舎のHP

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2009年3月29日 (日)

中から京都市美術館

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円山公園を訪ねた同日に京都市美術館に入りましたので、それもついでに紹介しておきます。
外観については、岡崎公園を訪問したときに少し紹介しました。

京都市美術館HPによれば、京都市美術館は昭和3年の天皇即位大典記念事業を機に、昭和8年に設立された「大礼記念京都美術館」が前身だそうです。東京都美術館に次ぐ、日本で2番目の大規模公立美術館でした。

美術館本館は、「日本趣味を基調とすること」の条件で公募され、一等に入賞した前田健二郎の設計図案を基に、昭和6年に着工、昭和8年に竣工したそうです。洋風の建物に和風の屋根が載る、いわゆる帝冠様式です。

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門柱には「京都美術館」の古いプレートが残ります(戦後の接収をへて、昭和27年に京都市美術館と改称)。さらにうっすらと「大礼記念」の文字跡が残っているとのこと。

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正面玄関を入ると、天井にはたくさんのレリーフの花が並んでにぎやかです。

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エントランスホールの正面には2階に上がる階段があります。階段は茶色い大理石で、親柱は灯籠のような和風。人が多いので、ホール全体は撮っていません。

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大きな吹き抜けにはなっていませんが、横からは華やかな2階の様子がうかがえます。

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2階の天井は花のステンドグラスで埋め尽くされています。格天井+和風のステンドグラスという組み合わせ。

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1階ホール脇にはモダンな格子のステンドグラスがあります。色合いは落ち着いています。

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1階天井の梁と大型の照明器具。梁や天井周りはけっこう細かく装飾が入っています。

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北側階段ホールの照明器具は少し小ぶり。

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北側階段ホール。カーブを描くゆったりした階段で、普通の建物ならこれが正面でもおかしくないぐらい。

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東側の1室の天井部分。この部屋の柱は黒っぽい大理石が使われています。ちょっとぜいたくなつくりです。

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2階の柱の上の部分を見てみると、雲型など和風をもとにしながらも、かなり幾何学的なデザインが入っていました。セセッション風が入っている?

内部もずいぶんと立派な京都市美術館でした。

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2009年3月28日 (土)

外から長楽館(京都市)

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1月に京都の円山公園に出かけたとき、側にある長楽館も外から眺めました。ひろさんが「関西洋風建築めぐり・長楽館」として内部を紹介されていたのに関連して(かなり前ですが)、外観を紹介しておこうと思います。

長楽館は、明治の煙草王と呼ばれた実業家・村井吉兵衛が、迎賓館として1909年(明治42年)に完成した建物です。長楽館が起工された1904年は、日露戦争の戦費調達のために煙草専売制が敷かれた年で、その後、村井は莫大な補償金をもとに銀行、印刷などに事業を展開して財閥を築いていったそうなので、迎賓館は転機を迎えた彼にとって重要な意味を持っていたのだろうなと想像できます。

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まずは門から。門柱には花瓶のようなものが乗っています。

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門を入って東側の入り口。こちらは四角くてあまり飾り気がありません。

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床下換気口の格子(グリル)は、アールヌーボーっぽいデザイン。植物模様です。

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北面の出窓はゆるやかなカーブを描いています。
足元にはなぜか朝鮮風の?石像が並んでいます。

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2階には列柱、そしてまたアールヌーボー風の格子がはまっています。

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南側から見るとかなり奥行きのあるのが分かります。

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南側にも北側同様のゆるやかな出窓があります。

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疾駆する帆船を描いたステンドグラス。
夕陽に向かって走っているようです。
もうすっかり日が暮れてきました。

これだけ紹介してもあまりかぶらないぐらい、見どころの多い建物です。
次はお茶でもしながら内部を見たいと思います。
繰り返しになりますが、見事な内部については、ひろさんの記事をご覧下さい。

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2009年3月16日 (月)

多治見の昭和町

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多治見の出張最終日。
あいにく雨の日でしたが、仕事が終わる頃に雨も上がり、日も長くなりましたので、少し町を歩きました。

多治見の真ん中を北東-南西に土岐川が流れています。元々の多治見の町は川の南側(写真の右側)で、多治見駅のある川の北側は昭和9年に合併するまで豊岡町という別の町だったようです。

この写真は駅前通の陶都大橋から撮っています。向こうの橋は昭和橋で、右に渡ったところは昭和町です。多治見は面白いことに昭和町、大正町、明治町が揃っています。
今回は旧の多治見町側にある昭和町を紹介します。

右手にこんもりしたヒマラヤ杉が見えますでしょうか。

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近づくとこういう洋館があります。
Reverie(レヴェリ)という、雑貨店、レストラン、ギャラリー、英会話教室の複合施設です。
ホームページによると、元は大正末期から昭和初期にかけて建てられた演劇場らしく、その後、税務署、裁判所、陶器関連の会社事務所などに使われ、空き家になっていたところを活用されているそうです。

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陶器の町・多治見だけあって、タイルがふんだんに使われています。
とくに玄関の柱はびっしりと豆タイル。

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廊下はずっとこの市松模様です。
下にはギャラリーが入っています。
お話でも聞こうと思ったのですが、無人でした。

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2階建てでギャラリーは地下室なのかと思うと、裏から見ると3階建て。違う建物に見えます。
表は土岐川の堤防に面して建てているので、2階が入り口になっているのですね。

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ちなみに、Reverieさんが入られたときに敷かれたのかと思いますが、玄関前には耐火煉瓦が敷かれています。焼き物の窯にたくさんの耐火煉瓦が使われているので、その再利用だと思います。KTK、TRC、STR、YRKなどと刻印がありますが、何という会社の略号なのか分かりません。

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また近くに旧昭和橋郵便局があります。
昭和9年頃の建物らしい。
残念ながら今は使われているふうではありません。

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すごいのがタイルで埋め尽くされているところで、軒裏にもびっしりタイルです。
一部スクラッチタイルも使用。

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昭和町から少し外れます。
町家もまたびっしりとタイルが貼られています。

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こんな感じです。
右端は改築部分のようです。

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上は浴室用タイルのような気がしないでもないですが。

昭和町はその名の通り、昭和レトロの雰囲気ある町でした。


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2009年2月14日 (土)

明治のレンガ建築を買いませんか?

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たまたま堺市を歩いていて、永楽邸(旧丹治商会)を通りがかりました。
明治33年(1900年)に建てられたという丹治商会は民間第1号の煉瓦製造会社とされるだけあって、煉瓦造の美しく整った建物です。

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・・・が驚いたのは「売物件」の文字。
こんな近代建築が売りに出されるとは。

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玄関上部のステンドグラス。
構成主義の美しいデザインです。
レストランや喫茶店などにも使えそうなのですが、ネックは駅から遠いのと駐車場の確保でしょうか。

いい買い手が見つかってほしいものです。
近代建築を活用したお店として求めている人はいると思うのですが。
どなたか買いませんか?

 ◆詳しい物件の情報は、こちらに掲載されています。


(追記)
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念のため、もう一度、丹治商会を見に行きましたが、まだ売れていませんでした。
今回、丹治煉瓦製造所の刻印煉瓦を確認したところ、「丹」の字を変形したデザインだと確認されました。ちょっとかわいい。写真の刻印は線が細いですが、もっと太いタイプもあります。
(2009.4.19記)


<関連ブログ>
「ひろの東本西走!?」で「永楽邸(旧・丹治煉瓦製造所事務所)」として、紹介されています。

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ちなみに倉庫の方は、昆布屋さんになっています。

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2009年1月11日 (日)

東大阪ものづくりの源流−豊浦界隈

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枚岡公園の後の話です。
枚岡公園の入り口、豊浦川の脇には休憩所のようなお店があります。ひと休みして豊浦川沿いに国道308号(これでも国道です)を下りかけ、ふと左の建物を見ると、うっすら墨で「伸線」の文字。もしかしてと、休憩所に戻ってご主人に確認すると、やはり水車工場だったそうです。豊浦川の上流にはさらに3つの水車工場があったとのこと。

枚岡の伸線工業は、天保年間終わり頃(1840年代後半)、行商人の車屋利兵衛が始めたそうです。最初は人力でした。当時、生駒西麓の谷では水車による製粉や搾油などが行われていましたが、幕末からこれに伸線も加わりました。明治10年代から豊浦谷の水車を利用した伸線製造が盛んになっていきました。
大阪商業大学図書館「枚岡の伸線工業」

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見ての通り、高低差があり、向こうには大阪の街が見えます。
水車工場を建てるには適地だったわけです。
大正3年に大阪電気軌道(のち近鉄奈良線)が枚岡経由で奈良まで開通すると、昔の電鉄会社によくあるように周辺に電力が供給され、水車工場は電化されるとともに、より広い土地を求めて扇状地に下っていきました。雨量に左右される水車工場と違い、通年操業できる電力によって伸線工業は発展し、東大阪のものづくり集積へとつながっていきました。

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枚岡の中心である豊浦では、このような下見板の古い工場を見ることができます。

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話が先走ってしまいましたが、豊浦川沿いに下っていきます。
豊浦川はこんなに川幅の狭い川です。古くから開発されていただけあって、あちこちに石橋がかかっています。

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大正8年に枚岡土地が枚岡駅東北の生駒山裾に住宅別荘地を開発した(「大阪府の近代化遺産」p66)そうなのですが、あるいはこのあたりのことなのでしょうか。2階に眺望部屋をもつ近代和風建築らしきものが建っています。

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風流な円窓をもつ家もあります。茶室でしょうか。

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豊浦川は豊浦の集落に入りジグザグに扇状地を下っていきます。ここからは川を離れ、豊浦の集落を歩きました。

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枚岡神社があることから分かるように豊浦は古くから開けていた土地ですが、その後も暗越奈良街道のルートとして要地でした。集落内に枚岡中央公園があります。ここは室町時代以来の豊浦村の有力者・中村氏の屋敷跡。そして、大阪夏の陣でここに家康の本陣が置かれたそうです。なるほどここなら大阪の街が一望できます。

ちなみに右手に見える楠は、大正13年の皇太子殿下ご成婚記念植樹との石碑があります。

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また近くの豊浦公民分館には、昭和30年の産業戦士像が横たわっています。銘板を読むと、この台座は昭和9年のもので、大楠公像が立っていたそうです。戦時の金属供出で撤去されたため、娘さんが改めて寄贈されたのだとか。それぞれの時代の報国の忠臣といえるかもしれません。

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少し上手の小公園には、昭和13年の恐らく国旗掲揚柱がありました。「祈武運長久」と書かれています。

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でもそんな雰囲気と一線を画して、旧枚岡町役場(大阪東信用金庫東大阪営業部豊浦出張所)があります。枚岡村が昭和14年に町制施行して枚岡町になりますが、そのときの建物らしいです。

ぷにょさんが、まちかど逍遥「枚岡公園のサプライズ」で書かれているのを見て訪ねました。

明るいスパニッシュ風。昭和13年に国家総動員法が制定され、既に戦時の物資統制が始まっているのに、そういう時代の雰囲気を感じさせない建物です。眺めるには素敵な建物。それが当時の枚岡町の雰囲気だったということでしょうか。

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豊浦にはこんな建物も。下見板の建物に前面を看板建築的に改築しているようです。シンプルながら、縦3本ラインの桟に統一感と品の良さを感じます。

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豊浦を後に、今度は額田川に沿って再び登っていきます。
これもぷにょさんが紹介されている洋館付き住宅。
白に赤い縁取りの三角形がモダンで、どこか近代建築の写真で見たことのあるデザインなのですが、何だったか思い出せません。

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さらに登っていくと、線路脇に「大師橋」という古そうな石橋が架かっています。
橋板に刻まれた文字を読むとなんと文久4年(1864年)。
江戸時代とは思いませんでした。

坂を登り、大正時代の額田山荘へと向かいます。

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2008年12月21日 (日)

構成主義?の新港貿易会館(神戸市)

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甲子園の後は、神戸に向かいました。
神戸税関が特別公開ということで見に行ったのですが、すぐに終了時間になってしまってあまり見れず。仕方なく、近くの近代建築などを見て回りました。

三宮からフラワーロードをずーっと海に下っていった先の新港地区には、神戸税関(1927年)、旧市立生糸検査所(1927年)、旧国立生糸検査所(1932年)や三井倉庫(1926年)、三菱倉庫(1925、1928年)、住友倉庫(1926、1962年)、川西倉庫(1925年)の大きな4〜5階建て倉庫群などが立ち並んでいます。

その中でも気に入ったのが、この新港貿易会館(旧新港相互館)(1930年)です。貿易関係者の事務所やクラブハウス的な建物だったそうです。試しにこの名前で検索してみるとファンの多い建物です。

遠目には落ち着いたスクラッチタイル張りの、飾り気が多いとはいえない建物ですが、魅力的なのはその細部意匠です。

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まず丸窓とこの格子の模様。
この格子はアール・デコの中でも構成主義の流れを汲んでいるように見えます。
この前、伊勢竹原で見た格子と似たような系統に思えます。

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また玄関上部にはこのような門灯があったり、

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ひさしの間にも同様の格子があります。

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今は使われていない受付にも同様の格子があります。
郵便マークが読み込まれているという説も。歯車を読み込んでみたり、何かを読み込むのはこのパターンの遊びでしょうか。

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さて再び玄関。玄関は角にあるので、内廊下とは斜めに向き合っています。そこがまた変化があってよい感じです。船内のような雰囲気もあるのですが。
玄関上部には3枚組のステンドグラスがはまっています。
中央は、真正面から見た船のようなデザイン。

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突き当たりの部屋のステンドグラス。
これも真正面から見た船のようですね。

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階段は余裕を感じさせる大理石の親柱と手すりです。
もっとも上層階は木の手すりと鉄の柱ですが。
奥に見える丸窓が最初に紹介した構成主義風格子の丸窓です。

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そして4階階段室のステンドグラス。
船というより、プロペラ飛行機を上から見たところのように見えませんでしょうか。

貿易関係者の明るいセンスを感じさせる建物だと思います。

○関連HP
 神戸市都市計画総局
 “神戸建築物語 第1回 海と空・二つの神戸開港物語”

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2008年12月 2日 (火)

陰影ゆたかな旧甲子園ホテル

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武庫川学院甲子園会館=旧甲子園ホテルの特別見学会に参加してきました。
(普段でも予約制で見学できるらしいので、どう特別かよく分かりませんが。)
楠松祭、近代化遺産全国一斉公開に合わせたものです。
すごいとは聞いていたので非常に楽しみにしていました。

集合場所に行くと、15名ぐらいずつグループに分かれ、大学庶務課の方が解説をしながら案内してくださいます。

1枚目の写真は(逆光になっていますが)正面部分の写真です。
これに両翼が張り出しています。2階が低いのは、泊まられた皇族の方が屋上から手を振られることを想定しているとか。それほどの格式です。左右に聳える寺のような塔は煙突。

旧甲子園ホテルは、昭和5年(1930年)に高級リゾートホテルとして建てられました。
武庫川の分流である枝川・申川の廃河川敷を利用した、阪神による甲子園住宅地・リゾート開発の一環として計画されたものです。東には武庫川と松林、南には昭和2年に開通した新阪神国道という立地でした。とてもゆったりした敷地です。

ホテルはフランク・ロイド・ライトの弟子である遠藤新が設計しました。「西の帝国ホテル」と呼ばれ、海外の賓客、国内の政財界要人、軍人、皇族などが宿泊し、阪神間の財界人・文化人らのサロン、結婚式、会食、新婚旅行にも利用されたそうです(『近代日本の郊外住宅地』)

しかしホテル時代はわずか14年で終わります。昭和19年に海軍病院、昭和20年に米軍将校宿舎、昭和32年に大蔵省管理と所有が変わり、昭和40年に武庫川学院が譲り受けて大学施設となっています。そのとき客室は教室に変わりました。

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まず外から見ていくと、壁面には素焼きのボーダータイルが使われています。焼きむらのグラデーションに加え、光線の加減で目地に陰影ができ、美しい表情です。軒下の排水溝にはレリーフで縁取られた日華石(観音下石(かながそいし))、瓦は京都・泰山製陶所の緑釉瓦を二重に。緑釉瓦は周囲の松林と調和させているそうです。

屋根の上には打出の小槌の形をした宝珠が載っています。
打出の小槌はこのホテルのモチーフであちこちに見られます。お隣の芦屋の打出が、打出の小槌伝説由来の地だそうですが。さらに、そこから滴る水(金?)もモチーフなのかもしれません。

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排水溝のアップ。水が滴るようなデザインが施されています。
館内展示などによれば、素材の日華石(観音下石)というのは、石川県小松市観音下町で大正初期から産する凝灰岩で、国会議事堂や遺跡の補修用にも使われているそうです。この甲子園ホテルでは全ての石材部に使われています。白、赤、青があるうち、ここでは赤が使われています。

ただ、補修用には黄竜山石が使われているそうです(1階階段、巾木、床周り、屋上階段笠木など)。

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屋上に上がると、塔屋部分が板を複雑に組み合わせているのが分かります。
バランスの取り方は設計者のセンスですね。
なお、屋上はビアガーデンにも使われたそうです。

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塔屋の壁面などに使われているのが、素焼きのテラコッタタイルです。1枚のデザインは正方形を凹凸を付けてずらしたような複雑なパターンですが、1種類の型を4枚1組で増幅させてさらに複雑な陰影を生み出しています。加えて、粘土の鉄分や焼きむらでさらに表情ゆたかに。

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ホテルの庭側(南側)はこんな感じ。
大きな持ち送りのような石柱が並んでいる奥はラウンジです。その上には6つの打出の小槌。

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左右の壁面には、アールデコの絵画のような石壁があります。その意味するところは? 落ちた水滴が跳ねているように見えますが。

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中に入って、赤じゅうたんの敷かれたメインの廊下と柱です。こんな複雑な柱はなかなかないのでは。右が玄関で、左がラウンジ。
廊下やシャンデリアの照明具はシェル型という、オウム貝を横に割ったような形が基本パターンで、場所によって複数組み合わせています。

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この西ホールは、ダンスホールや宴会場として使われました。結婚式場にもなったそうです。手前は障子を並べたような市松格子の光天井。向こうは金の鍾乳洞かと思うような濃密な天井。打出の小槌から水滴が滴って受け皿に注いでいます。誰の趣味なんでしょう。

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最後に酒場に案内されました。
ここの床には京都・泰山製陶所のタイルの試し焼きが敷き詰められているそうです。見本帳を床にしたようなもの。色合いといい素敵なスペースです。

今回は秋晴れの午後に訪れましたが、これだけ陰影ゆたかなので、季節、時間、天候により、その表情を変えてくることでしょう。また違う光の中で訪ねてみたいと思います。

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2008年11月26日 (水)

彫刻づくしの京都府庁

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翌週また京都へ。
まだ見てなかった京都府庁の秋の一般公開を見に行きました。
府庁前は釜座通りのけやき並木で、ここだけ見たらパリみたい。そこまで見せることにこだわった計画をしています。
京都府庁旧館は、明治37年(1904年)に竣工した100年前の庁舎です。

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正門前には浅い堀があり、石橋を渡って入ります。こんなとこまで、しっかりつくっています。

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近くで見るとますます立派な建物。
柱に車寄せ、三角破風に装飾がふんだんに施されています。
屋根は天然スレートだそうです。

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窓に石柱・石梁を使っているのが面白く思います。

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玄関を入ると正面には立派な階段ホール。
大理石のぜいたくな階段です。

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正面以外の階段手すりは木製ですが、やはり細かい彫刻が施されています。柱頭のアカンサス(ハアザミ)のモチーフは館内あちこちに用いられています。

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特徴的なのがアーチとベランダで、とくにアーチは至るところにありました。こういうところを歩いていると府庁の中という気がしません。

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2階正面は正庁になっています。この日はクラシックコンサートが開かれていました。天井の高い大きなホールです。

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府庁内部は思った以上に見るところが多く、とくに食堂、そしてこの知事執務室がもとの雰囲気で残されています。奥が知事の机です。この2部屋はボランティアらしき方がついて説明してくださっていました。

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知事室の扉の上の飾りです。こんな目立たないところにも細かい彫刻を使っているんですね。

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暖炉ももちろん凝ったものです。
知事室の暖炉は木とタイルと鉄でできています。

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金属の覆いには可憐な植物模様が刻まれています。ひなぎくでしょうか。

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貴賓応接室の暖炉は大理石でできています。
それも彫刻でいっぱい。ためいきが出ます。

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この繊細さです。
なんと手間をかけていることか。

京都府庁旧館は木・石・金属の彫刻がみごとでした。
このような彫刻の数々は、今なら許されないぜいたくでしょうが、100年も使ってまだまだ価値をもつのを見ると、果たして壊しても問題ないものを作るのとどちらが無駄なのかななどとも考えさせられます。

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美しいものを見た後でこういうものも。
昭和3年に設置された知事・部長登退庁表示灯というものだそうです。

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なお、府庁と同じ敷地に京都府警察本部(昭和4年)も立っています。
明治建築と比べると当然ながら装飾は少ないですが、玄関のアーチなどにセセッション風(?)の幾何学模様が入っています。
ここにある限り、ずっと脇役というのが気の毒なような。

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2008年11月24日 (月)

栗原邸(旧鶴巻邸)の見学会(京都市山科区)

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かなり前のことですが・・・
11月8日・9日と、山科にある栗原邸(旧鶴巻邸)の一般公開があり、参加してきました。
(この建物については、ひろさんやぷにょさんも紹介されていますが、伏せ字にされてますのでリンクはやめておきます。)
栗原邸は御陵の駅から坂道を登りつめた先にあります。山科盆地でもかなり高いところといっていいでしょう。すぐ上を琵琶湖疎水が流れています(後述)。

私は旧東海道と疎水に寄り道したので裏からのアプローチでした。
外観からコンクリートブロック積みの建物なのですぐ分かります。
正直なところ裏から見ると魅力は感じにくいのですが・・・

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表に回ると全く違った表情で、半円のポーチと2階サンルームは皆さんが紹介されています。
竣工当時はほとんど庭木がなかったそうですが、今は森に囲まれています。

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事前予約が必要にもかかわらず、たいへん盛況でした。すごいでしょう、この靴。
このときは撮影に関しては何も言われませんでしたし、・・・というよりほとんどの人が写真を撮っていて撮影会の様相でしたので、内部の写真も紹介します。

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まず客間でギャラリートークを聴きました。
講師は京都工芸繊維大学の西村征一郎名誉教授と笠原一人先生、そして配線と照明を担当されたヤマギワの方です。

まずこの建物の概要ですが、昭和4年(1929年)に京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)の校長だった鶴巻鶴一氏の自邸として建てられました。設計者は同校の教授だった本野精吾で、(正面玄関の半円部以外に)中村鎮式コンクリートブロック*を使ったモダニズム建築です。外観はコンクリートがむき出しの斬新なデザインですが、内部はうって変わって木を生かした落ち着いた空間です。染織家であった鶴巻鶴一氏の襖絵などもあります。

この建物はその後、1941年に広告業・萬年社社長であった栗原伸氏に売り渡されます。ところが1945年に終戦で米軍に接収されてしまいました。1957年にようやく返還され、再び栗原家の所有となっています。米軍接収時代にペンキを塗られたり、建物が傷んだようですが、照明や家具などはもともとのものが残っているとのことです。

ギャラリートークの最後にDOCOMOMO Japanから栗原邸が優れたモダニズム建築物として選定されたパネルの授与式が行われました。ご当主の栗原さんは背筋のしゃんとした方です。散会後、奥さんは説明に残られたのですが、建物や調度品について熱心に説明されて人垣が絶えませんでした。

*中村鎮式コンクリートブロック:L字やT字のブロックを組み合わせ、間に鉄筋コンクリートを流し込んで仕上げる、現場で型枠不要の合理的な建築構法。1920年代初めに中村鎮が発明し、関東大震災でその耐震性が実証された。

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ダイニングルームは襖を開けると客間と一続きになります。襖には桜の絵、奥には大理石の暖炉があります。この日はあいにくの曇天で、元のままの照明が非常に暗いので、写真を撮るのはなかなかたいへんでした。よく元のままに使ってきてくださったと思います。

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ダイニングルームのランプシェードは模様入りのステンドグラス風。

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2階の階段。階段も手すりも親柱も床も全て木です。非常にきれいな状態でした。手すり子はそろばん玉状のシンプルなデザインです。

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この家で一番気に入った部屋はここです。谷の向こうに山科盆地を見下ろすことができます。天気のいい日ならもっと気持ちがいいことでしょう。

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2階の寝室。このベッドなども本野精吾のデザインだそうです。なんでもやってしまうんですね。

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2階の照明は非常にシンプルで、何か足りないのかと思ってしまったのですが、もともとこういうものなんだそうです。白い反射板はプラスチックではないですよ。大理石だそうです。

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1階の染色部屋の天井。ところどころ、天井が剥落して、コンクリートブロックや鉄筋などの構造が分かります。この日もカンパが募られていましたが、ご本人だけでは維持していくのはたいへんかなと思います。

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屋上は眺めの良いテラスになっています。裏側からは疎水を眺められます。
ひさしが出ているのが画期的な工夫だそうです。

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栗原邸の裏側です。向こうに水門が見えますが、その向こうが琵琶湖疎水です。
なぜこんな不便なところに家をと思うのですが、当時、鶴巻氏は校長を退任されていますので、水が豊富なこの地で、染色に没頭したいということだったのかも、などと想像しました。染色部屋はダイニングのすぐ脇に置かれています。

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ついでに疎水の構造物を紹介しておきます。
第2トンネル東口。題字は井上馨の「仁者は山を以て悦び、智者は水と為るを歓ぶ」。山を水が流れれば、どちらも喜ぶということか。

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第2トンネル西口。題字は西郷従道の「山に随いて水源に至る」です。

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第3トンネル東口。題字は松方正義の「過色松色を看る」です。
デザインされ、題字が彫られることで、一大国家プロジェクトであることがよく分かりますし、ただの土木構造物以上のものになっています。

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なお、第3トンネルの手前には、日本最初の鉄筋コンクリート橋(明治36年)という、ささやかなアーチ橋がかかっていました。対岸には立派な記念碑まで立っています。鉄筋コンクリートブロック住宅の近くに、最初の鉄筋コンクリート橋、面白い偶然です。

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栗原邸が建った当時、眼下に住宅はなかったそうです。
坂を下りていくと石畳のある和風郊外住宅地がありました。下に行くほど住宅が新しそうで、今では下まで住宅が一続きになっています。
しかし、疎水を背にした静かな環境は今も変わりません。

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2008年11月18日 (火)

近代産業発祥の村(四日市市室山地区)

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四日市市の四郷地区は近代産業発祥の地のひとつだそうです。
四郷の4つの集落の中でも、産業は室山地区に集中しています。
室山地区には小さな集落には不釣り合いなほど大きな酒蔵、工場が建ち並んでいます。

産業の源流は、江戸時代の明和元年(1764年)に味噌・醤油の醸造業を始めた初代伊藤小左衛門にたどれるようです。伊藤家の醸造業から様々な業種が派生しますが、醤油は享和元年(1801年)に創業したヤマコ醤油(旧株式会社伊藤醤油部)に引き継がれて、今も製造されています。

多いのは造り酒屋で、上の写真はその一つ、天保3年(1832年)に創業した合資会社笹野酒造部「白梅」です。道になだれ込んでくるような大屋根が見事です。残念ながら2008年3月31日に廃業されました。近くに「ザ白梅クラシックガーデン」という広い敷地の結婚式場がありますが、関連しているのでしょうか。

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こちらは山手にある神楽酒造で、安政5年(1858年)の創業。清酒「神楽」をつくっています。隣では昭和30年に酒造権を復活させた(株)ナカムラが、清酒「三瀧川」などをつくっています。

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同じ醸造で、田中酢店というお酢屋さんもあります。少なくとも明治にはさかのぼれるようです。

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でもやはり地区で目立つのは製糸業です。
文久2年(1862年)に五世伊藤小左衛門が始めた家内の手繰り製糸は、明治7年(1874年)に工場となり、後を継いだ六世小左衛門と甥の小十郎が器械製糸を完成、明治16年(1883年)に蒸気機関化しました。伊藤製糸場は明治33年に焼失してしまいますが、その後、明治36年(1903年)に建てられたのが上の伊藤製糸場新工場です。のち昭和16年に亀山製絲と合併して亀山製絲(株)室山工場となり、平成7年に操業停止するまで現役でした。壊される計画もありましたが、幸いまだ残されています。白い下見板の擬洋風の工場です。正門も当時のもの。

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旧伊藤製糸場の南側玄関の三角破風には、華やかな植物のような装飾が入っています。

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同じく南面の2階の軒には、ブックエンドのような持ち送りが並び、軒下には透かしなど、工場なのに(?)凝っています。2階屋根から飛び出た部分は通風用でしょうか。

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南側から見ると建て込んで見えるこの工場も、北側から見ると広々した空き地が広がっています。文化財の工場以外が取り壊されてしまったためです。

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一部煉瓦の構造物が残されていました。
旧伊藤製糸場は、おそらく傷みが激しくて大幅に補修しないと中が利用できないのではと推測しますが、せっかく残ったので活用していただければと思います。

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工場はまだあります。集落の遊歩道を歩いている見えてくるノコギリ屋根。

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東洋紡績グループのトーヨーニットの倉庫です。
十世伊藤傳七が明治13年(1880年)に北隣の川島村で始めた三重紡績所(川島紡績)は苦しい経営でしたが、明治19年(1886年)に渋沢栄一の援助を受けて三重紡績(株)として再出発、明治21年に四日市の浜町工場、明治23年に第2工場を立ち上げ、経営が軌道に乗ると周辺の紡績会社を次々買収、大正3年(1914年)には、大阪紡績(株)と合併して東洋紡績(株)になりました。

このトーヨーニットの倉庫は、もとをたどると十世伊藤傳七が創設した伊藤メリヤスの第1工場です。大正12年(1923年)に建てられました。下部は煉瓦で、上部は鉄筋コンクリートという、時代の過渡期を表すような構造です。
名古屋で設立された伊藤メリヤス商会は、明治37年(1904年)にここ室山工場を新設、明治39年にはこちらに本店を移して伊藤メリヤス合資会社となりました。

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隣に立つ第2工場(大正13年(1924年))の下部です。
周辺の民家と同じ川石の石垣が積まれ、花崗岩の切石、煉瓦、そして鉄筋コンクリートが重なっています。地層のようです。

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この道は第1・第2工場から続く構内道路で、右手に古そうな下見板張りの建物が並んでいます。この先にかつて室山駅がありました。明治44年(1910年)に村の有志の出資により軽便鉄道(三重軌道(株))の工事が開始され、翌大正元年に八王子〜室山〜日永間が完成。大正5年には四日市まで線路がつながりました。貨物主体の鉄道だったようです。

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再び西日野駅から帰りの電車に乗り込むと、今度は学校帰りの高校生で賑やかでした。
四日市駅では入れ替わりに四日市の高校生が乗り込んできて、今は高校生がこの電車の主役になっているようでした。

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2008年11月13日 (木)

紡績で建った旧四郷村役場

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四日市で用事を済ませた後、市内の四郷地区に向かいました。
産業遺産の村をみるのが目的です。

近鉄四日市駅で八王子線に乗ります。
高架駅の他の線とは別に、八王子線と内部線だけ地上です。
やってきた電車はおもちゃみたい。軽便鉄道の生き残りなんだそうです。軽便鉄道の名前は郷土史などに出てきますが、ここでは現役。

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もちろん中も狭くて一列ずつの座席しかありません。座席の向きが←−→の三両編成で短い路線を行ったり来たり。ワンマンなので終点に着くと運転手さんがかばんを持って反対端の車両へ。

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のんびり3駅で終点の西日野駅に到着します。
昼の小雨はやんで、空も明るくなってきました。
駅を出たまま、まっすぐ天白川沿いを歩きます。

今は四郷という地名はありませんが、明治22年から昭和18年までは四郷村がありました。天白川沿いに東から東日野、西日野、室山、八王子の四つの集落があるので四郷村です。四郷村は昭和18年に四日市市に合併されます。しかし、今も地区としての一体感を持っているようです。

天白川は低い丘陵地に細長い平地をつくって流れ、旧集落は川の北側に並んでいます。
昔は八王子まで線路が伸びていましたが、昭和49年の豪雨で道床を崩され、短縮されてしまいました。

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途中、丘の上に塔が見えます。
室山地区まで歩いてくると右手(北)に坂道があり、登っていくとこの建物が建っています。
旧四郷村役場の建物で、今は四郷郷土資料館になっています。開館日は土曜日のみ。ここがとりあえずの目標です。

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この役場は大正10年、東洋紡績社長だった第十世伊藤傳七翁が、地元に6万円を寄付して建てました。当時、全国一の村役場ともいわれたそうです。伊藤傳七翁は室山の出身で、四日市で三重紡績を興し、三重紡績と大阪紡績が合併して東洋紡績となったのでした。ちなみに綿業会館建設に多大な寄付をした東洋紡績の岡常夫専務も、三重紡績出身だったようです。寄付に積極的な気風があったのでしょうか。

設計者は野田新作といわれます。

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床下換気口を覗き込むと、ユニークなデザインです。
○に×のマークに意味があるような、ないような。
「四」が5つで「四郷」・・・というのも苦しいか。

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館内に入ると、地元のおじさま方が事務所に詰めておられました。
ボランティアで入っておられるようです。
無料なので記名だけして、「四郷ふるさと史話」という冊子があったので買い求めました。

近代化遺産の日の一斉公開に入っているので、2階にも登れないかなあと淡い期待があったのですが、普段通り1階のみの公開でした。2階は傷んでいて危険があるそうです。「二階にはアールデコ風の装飾が施された天井をもつ村会議場や小会議室」があるそうなので、見れなくて残念です。

階段も眺めるだけ。
踊り場の大きなアーチ窓がポイントになっています。
面白いのは木の階段の手前の部分に、雷紋?の布地が貼ってあることです。もしかして地元の絹でしょうか。

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裏側から眺めると1階は下見板、2階はハーフティンバー(木の骨組みを露出させた様式)の縦長格子に窓がぴったり納まっています。リズムのある壁面。

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展示室はいくつかに分かれていて、展示品がぎっしり。
それも養蚕、製糸、製茶、醸造(酒・醤油・味噌)、農業など、産業関連のものがいっぱい。ここ四郷は、近代産業発祥の地のひとつと言われています。明治の「殖産興業」という言葉が目に見える形であります。

四郷の近代化には、伊藤小左衛門翁(生糸と茶の工場生産)、伊藤傳七翁(紡績)という2人の先覚者の功績が大きかったそうですが、何が彼らを生んだのか、それが気になります。

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吉田初三郎風の鳥瞰図も飾られていました。
もう一枚、さらに大きな鳥瞰図もありました。
村のレベルを超えています。

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旧四郷村役場のある丘からは四日市の工場群を眺めることができます。
この村の人たちは役場の塔の3階から、発展していく四日市の様子を見ながら、自分たちの始めたことを誇りに思っていたかもしれません。

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2008年11月 9日 (日)

諏訪公園と旧四日市市立図書館

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四日市に用事がありましたので、ついでに諏訪公園を見てきました。

近鉄四日市駅の東は繁華街で、幾筋ものアーケードが縦横に走っています。
イオングループの前身・岡田屋の店舗もこの一角にありました。しかしイオンなどの郊外店化でこの四日市駅前も寂しくなり、創業の店も閉鎖されて空き地になっています。

そのアーケードのひとつは旧東海道です。四日市の産土神である諏訪神社が旧東海道沿いにあり、参道として賑わっていたからでしょう、表参道スワマエ商店街となっています。

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こちらが諏訪神社。1202年に信州の諏訪大社から勧請されて創建と伝えられています。


より大きな地図で 近代の公園 を表示
この神社を鍵型に囲むように諏訪公園があります。
日露戦争時の明治37年(1904年)、諏訪神社がつくった「保光苑」という公園が前身のようです。(1905、6年という説も)明治40年(1907年)に四日市市の公園になりました。

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神社側から公園に入ると目に入ったのが大きな石の山。
「富士塚」か?と思ったのですがそうではなく、近寄ってみると「誓之御柱」と書かれています。
石段があって登れますが、登って何をするのでしょう。

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てっぺんには五角柱が建ち、「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ」に始まる「五箇条の御誓文」が刻まれています。よくあるものなんでしょうか。私は初めて見ました。誓之御柱は、琵琶湖の多景島に立つもの(大正14年)が有名のようです。

この御柱は、四日市で肥料・製油・石炭・運送などの事業を手がけた村山清八氏により、市民壇(今は南部丘陵公園に移築)・国旗掲揚塔とともに私財を投じてつくられたもののようです。(『発掘街道の文学四日市・楠編』)市民壇は昭和9年だそうですので、同時期でしょうか。

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公園にはどの方向からも入ることができます。南側部分は1990〜95年に、地下調整池を設置するのに合わせて、中世ヨーロッパ調に改修されています。ただシュロがたくさん植わっているのは元からではないでしょうか。

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その広場に向かって、スクラッチタイルの建物が建っています。
立ち上がる4本の柱が印象的。
旧四日市市立図書館です。昭和4年(1929年)に昭和天皇御大典記念として、地元の実業家・熊澤一衛氏が建設・寄贈したものです。熊澤一衛氏は、昭和6年には四日市銀行(のちの三重銀行)、伊勢電気鉄道など37社もの会社経営に参画、四日市を代表する財界人でした。

この図書館はその後、様々な用途に使われます。
もともと諏訪公園には大正5年に建てられた木造の図書館がありました。しかし、昭和20年の空襲で木造建物は蔵書もろとも焼失、鉄筋建物は空襲負傷者収容のため、市立病院に転用されます。昭和24年に返還されて、昭和48年の新図書館建設まで図書館、昭和51年から児童福祉施設「こどもの家」、平成15年に登録文化財に指定されるとともに大改修を行い、すわ公園交流館として生まれ変わり、今に至ります。

以上、すわ公園交流館の概要を参照しました。

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この建物、結構いろいろと遊び心ある装飾があるんです。正面2階には本の形のレリーフに2588と刻まれています。起工の年である紀元2588年=昭和3年を示しているそうです。
軒下の飾りも装飾的です。

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左の壁にはモチをつくうさぎ。熊澤氏の雅号「月台」に由来するそうです。銅像を建てるより、こっちの方が素敵です。

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右手には藤川勇造作「小児像の噴水」。最初からあったものだとか。藤川勇造はロダンに師事した彫刻家です。
2階バルコニーもいいですね。

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内部はかなりきれいになっていて、昔の様子はよく分かりません。東側の階段室の手すりも真新しいものでしたが、デザインは踏襲されているかもしれません。窓からは公園の緑が目に入ります。この軸線上に誓之御柱があります。

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面白いのは、図書館の裏に1階分の盛り土があり、2階に直接入れるようになっています。のちの改造だとは思いますが。2階では子供たちが卓球で盛り上がっていました。

諏訪公園には、昭和戦前期を物語る寄贈物が並んでいます。時代背景にも関わらず、親しみやすい旧四日市市立図書館は、これからも愛されつづけることと思います。

○関連ブログ記事
 ぷにょさんのまちかど逍遥「近鉄内部線」

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2008年11月 2日 (日)

ぐるまち2008

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今年も、河内長野市の文化財公開事業「ぐるっとまちじゅう博物館」(略してぐるまち)が開かれています。一昨年昨年に続いて参加しました。今年は加賀田地区が対象です。

会期は11月3日(祝)まで。
公式ホームページはこちら

今年も自転車で出かけました。
昨年とほぼ同じルートで加賀田川を遡ります。
まず内見橋(昭和6年)を渡ります。

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親柱に飾りのように猫が座っていました。
欄干はホームベース型の窓がくりぬかれています。
シンプルなコンクリート橋でも歳月を経ると味が出ます。

※槙平橋などの橋は昨年と重なりますので省略。

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最初に見学した公開文化財は伝大江時親邸跡。
大江時親は楠木正成に兵法を教えたとされる人物です。また、安芸の毛利氏の始祖ともされるそうです。

大和棟の民家は江戸時代中期のものとか。内部見学は初めてでしたが、建具や簀の子天井など古いものが使われているのを見ることができました。衝立や屏風などに文化の香りも感じられます。

屋敷の隣に明治35年の顕彰碑も立っています。戦前において、やはり楠木正成関連の史跡は特別です。

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川沿いに走っていくと、製粉工場がいくつもあります。
昔、この川には水車がたくさんあり、水車動力で製粉をした名残です。今は消えてしまいましたが、私も昔、水車が動いているのを見たことがあります。

後で紹介する旧加賀田村役場で、河内長野市の水車についての特集展示をしていました。
かつて河内長野には明治後期から昭和にかけて130余りの水車があり、半分が産業用、半分が精米用だったそうです。産業用というのは、製粉(線香材料の杉葉粉、漢方材料など)、製釘・伸銅、木工、さらしなどです。大阪東部の生駒山系でも同様に、電化前の産業用動力として、水車が大きな役割を果たしていました。のどかなイメージが強い水車ですが、近代化遺産の側面もあるわけです。

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道はどんどん山の中に入っていきます。
間伐作業が行われていて、ヒノキのいい香りが漂ってきました。

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次の会場の岩湧寺は標高500mもあります。昔来たことがあるのですが、そこまで大変だった記憶がなく、かなり消耗しました。

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岩湧寺は深い森の底にあります。
これは樹齢400年以上、高さ20m・幹周り6mというカヤの木。

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本堂と多宝塔。岩湧寺は役行者が大宝年間(701〜703)に開いたと伝えられる、山岳仏教(修験道)の重要な霊場でした。多宝塔は室町時代のものとされています。
この多宝塔の本尊・大日如来像が里帰り展示されていました。

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このような高い木に囲まれて、非常に厳かな雰囲気が漂っています。
疲れた身体に気持ちいい風が吹きます。

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自然公園となっている岩湧の森のすぐ外に、「ちぇるしー」というカフェがありました。土日祝日だけの営業だそうです。こんな山の中にあるとは。食事できるところはここしかありませんので、入ってみました。(すぐ近くにもう1軒、喫茶店があるのですがお休みでした)

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紅茶に力を入れているのが嬉しいところ。
店名になっている甘い香りのチェルシーなどを置いています。
私はスペシャルトーストセットにスコーンをプラスしてみました。水は湧き水を使い、地場野菜のサラダが付くなど、凝ってます。
山の緑を眺めてゆっくりできそうです。(私は先を急ぎましたが)

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延々と下って上東部集会所(旧加賀田村役場)へ。
大正11年に建てられた近代建築です。

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以前に撮った入り口の写真。

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この扉の木目が美しいでしょう?

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内部を見るのは初めてです。一度見てみたかったのでうれしい。
そんなに装飾などはありません。
1階の2部屋を使って加賀田村についての展示と水車についての展示が行われていました。
2階もありますが、非公開です。

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このカウンターは役場時代のものだそうです。
床の高さがかなりあって、「見下ろされるようですねえ」と解説の方がおっしゃってましたが、昔の役場との関係はそんなものなんでしょうか。

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最後に加賀田神社を見学しました。
石の参道・石橋・階段と灯籠に一体感があって美しい。
脇の社務所では、昔の絵図、絵馬を展示していました。

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本殿は元禄時代の建物とされています。
でも彩色は桃山風の派手さ(だと思う。復元すれば)
正面の彫刻をみてください。

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なんだかユーモラスに思える虎、龍、獅子でしょう?
また会いに来たいと思います。


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2008年10月28日 (火)

初瀬街道の近代−榛原

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長谷寺に詣でた後、まだ日暮れまで時間があったので、近鉄・長谷寺駅からもう一駅先の榛原駅に足を伸ばしました。初瀬街道でも長谷寺〜榛原間は国道165号と重なっています。わずかな道のりですが、ここが大和川水系と木津川水系の分水嶺になっています。

榛原に行こうと思ったのは駅の東に、近鉄の車窓から見える気になる建物があったからです。
それが上の建物で、はっきりしたことは分かりませんが、南都銀行の支店だったようです。白い壁面にアーチ窓の並ぶ銀行らしい建物です。石造っぽいデザインですが、土台以外はモルタルに目地を切っているだけのような気も。切り妻屋根なので骨組みは木造かも。軒が妙に幅広なのも気になります。

角には「左あをごえ道(阿保越え道) 右いせ本かい道(伊勢本街道)」と書かれた古い道標が立ち、ここが街道の分岐点だということを示しています。阿保越え道は初瀬街道で、伊勢神宮に向かう新しい道です。この辻は「札の辻」と言われ、ここ萩原の宿場町の中心でした。

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玄関部分に近寄ると、三角破風を載せた柱はくびれや飾りが多く、奈良の寺院っぽいデザインのようにも思います。木と金物で作っても違和感ないぐらい。

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そして、目立ちませんが、榛原町の道路元標も立っていました。これも町の中心である証です。
気になるのは、大正9年の記録で、榛原町の道路元標の設置場所が「郵便局前」とされていること。銀行以前は少なくとも大正9年まで郵便局があったようです。

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T字路の突き当たり、銀行の向かいには古い旅館のあぶらやがあります。

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「明治・大正・昭和初期の古民家を大切にする会」の設置した「登録古民家 中川家住宅」の表示があり、江戸中期の建物であることが示されています。ここ榛原では、独自の古民家の登録制度があるようです。これとは別に本居宣長が宿泊したことを示す看板も掲げられています。

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札の辻に立つと、どちらに行こうか迷います。辻は鍵状になっていて、西に行くと丘の上に榛原福祉会館(大正時代の旧県立蚕業試験所)(→日本建築学会近畿支部による保存要望書)があるようです。見逃しました。

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長谷寺方面の北に向かいます。どんどん引き込まれそうな街並みです。

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引き返して今度は東へ。こちらも古い街並みが続きます。

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石垣で固められた水路が古い民家を巻いて流れています。洗濯場でもあったようです。
この道の先がまた雰囲気が良かったんですが、住民の方がおられたので、写真は控えました。

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2階の手すりが宿屋だったらしいことを示しています。

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こちらも旅館らしき建物。明治初期の奥田家住宅です。

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持ち上げられたランプが看板になっています。

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向かいには染物屋さん。
広く窓を取って、見せる染物屋さんです。
これ以上深入りはせず、引き返しました。

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札の辻を南に行くと神宮の常夜灯があります(振り返ったところ)。

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昭和5年に参宮急行電鉄の榛原駅が開業します。
それ以後、町の中心は札の辻から線路の南側へ移ったようです。
駅の南に昔懐かしい雰囲気のお医者さん「成田医院」がありました。

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下見板の木造にパステルカラーのペンキ。
大正っぽい雰囲気を醸し出しています。

榛原は戦災も受けていますが、街並みは見どころがあります。
旧県立蚕業試験所も見たいことですし、近いうちに再訪したいと思います。

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2008年10月11日 (土)

ビルマニアカフェ2008

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10月11日・12日と2日間開催されたビルマニアカフェ2008に行ってきました。
会場は西谷ビル2号館3階です。

写真の正面は昭和32年建設(4階部分は昭和37年の増築)の本館、左は昭和40年の2号館、その左は昭和28年の1号館、右は昭和40年の3号館です。増築でできた複雑な構造です。
西谷ビルをもつ西谷商事さんは金属関係の商社で、自社ビルを兼ねてテナントビルを経営されてきたそうです。テナントは繊維関係の会社が多かったとおっしゃっていました。このビルができた頃、周囲にビルというと百十四銀行大阪支店と長瀬産業ぐらいしかなかったとのこと。

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このイベントは、戦前建築に比べて評価されにくい1950〜70年代の戦後建築の魅力を伝えてくれるイベントで、大バンさんの企画です。

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私はその中の館内ツアーに参加しました(11日のみ)。
ガイドは高岡伸一さんで、西谷商事の方も同行されました。ツアー参加者は20〜30代の方々のようで皆さん熱心に写真を撮られていましたので、あちこちのブログやホームページに載ったりもするのでしょう。
まずは一番古い、1号館(昭和28年)から。玄関ホールからいい雰囲気が漂っています(ここはコース外)。

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階段室にはガラスブロックのトップライトから自然光が差し込むようになっています。

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そして1号館のみ、中庭があります。
採光に気を使っているようですね。

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次に1番新しい3号館(昭和40年)。それでも手すりは木製です。ねじりが入って、丁寧に作られています。

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参加者から感嘆の声が上がった空室。かなり高い位置に窓があり、明るい雰囲気です。「もっと天井の高い部屋もありますよ」とのこと。

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最後に本館(昭和32年)。ここが一番の見どころです。玄関からして曲線を使った魅力的なデザインです。

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渋い書体のビル名プレート。

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4階から見下ろした変形らせん階段。増築した部分もちゃんとらせん階段を継ぎ足したのですね。このらせん階段は見る位置によっていろいろな表情を見せてくれます。すばらしい。

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ツアーが終わり、2号館(昭和40年)に戻ります。
人造石研ぎ出し(テラゾー)の床が見どころとのこと。品の良い美しさです。

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カフェスペースは結構賑わっていました。
一角では戦後建築のスライドショーが次々と流れ、写真展、資料展などもあります。スライドショーでは、私のなれ親しんでいるビル・リバーセンターが多く取り上げられていて嬉しく思いました。
食べ物、飲み物、関連グッズもいろいろあります。
来場者がもらえる、ビルマニアカフェ2008のパンフレットは、戦後建築の見どころ解説なども付いてよくできています。

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さて、ここまで来たついでに近くの堀江公園を見に行きました。
戦後建築の後は戦後公園。昭和25年の公園です。
60年近くたった公園は木々も大きく育ち(とくにヒマラヤ杉など)、魅力を増しています。雑誌モデルの撮影(たぶん)も行われていました。

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その一角にある堀江会館。戦後建築っぽくないですか? スリット状の窓などが。

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アールの入ったひさし、ブロック状の2階の窓、なかなかいいです。

ビルマニアカフェで戦後建築の魅力を教えていただき、ますます街のいろんなものに反応してしまいそうで危険です。

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2008年10月10日 (金)

中国趣味の藤井有鄰館(京都)

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京都国立近代美術館に「アーツ&クラフツ展」を見に行った日、時間に余裕があったので、ついでに向かいの藤井有鄰館を見学しました。
通常の開館は、「一月、八月を除く毎月第一、第三日曜日の正午~午後三時半まで」なので、後から考えるとタイミングも良かったようです。
表に建つ第一館は、大正15年(1926年)に、滋賀県五個荘(近江商人の町ですね)出身の藤井善助翁により、蒐集品をもって設立された中国文化の私設美術館です。

建物は武田五一の設計によるものです。
屋上の八角塔は実は展示品で、北京・紫禁城の一角にあった建物が道路拡幅で削られると藤井翁が聞き、建設途中で引き受けたものだそうです。北京から京都の屋上に引っ越しとは不思議な縁です。
残念ながら屋上は公開されていません。
公開部分は向かって右側の展示室で、左側も非公開です。
3階角のベランダが気になりますが。

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入り口には中国風の獅子がにらみを効かせています。これも収蔵品なのでは? こちらも目立っています。第一印象を収蔵品に持って行かれて建物の印象が後回しになりますが、2頭の昇竜が宝珠を争うレリーフは迫力があります。(先ほどから入り口と言っていますが、美術館としての入り口は裏です)

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上下の窓の間には伝統的な花模様を挟んでいます。
中国文化の展示にふさわしい装飾といえます。
それでいて、この位置の装飾はセセッション風ともいえるでしょうか。

一通り、表を眺めたら中に入ります。
入館料は第一館だけで1000円となかなかします。収蔵品の質と私設であることを考えるとやむなしでしょうか。残念ながら館内は撮影禁止です。各階の展示室入り口の上部には桃の並ぶ図案のステンドグラスがはまっています。

展示室も広間のようで、時代を感じさせるものです。
収蔵品は仏像や書画、青銅器、陶磁器、文房具、印、古銭など、古い時代のものがごろごろ。全然知識がないので、私には貴重さがよく分かりませんが、すごいものらしいというのは分かります。よくこれだけ集めてきたものだと思います。

建物としての見どころは3階展示室で、天井部分に大きなステンドグラスがはまっています。中之島公会堂の特別室で見たステンドグラスにタイプが似ているように思いました。もう少しパターン化された連続模様です。行きつ戻りつ天井を見上げました。

貴賓室もあるようなのですが、見られませんでした。
いつ公開されるのでしょうね。

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藤井有鄰館には第二館もあります。
明治20年頃にフランス人が設計した、金沢の横山男爵邸の一部を昭和3年に移築したとのことで、ルネッサンス風でアールヌーヴォー様式が見られる木造建築とのことです。
入り口の休憩室はこれも展示品のようですね。
第二館は入館料400円です。

中に入ると木製手すりの階段がゆったりと2階に上がっています。
洋館でありながら、展示品は日本のものというのが不思議です。
展示品よりも古い椅子や家具、暖炉などの方に気が行きました。
そんなにアールヌーヴォーという印象を受けなかったのですが、ドアや窓が曲線でなかったからかもしれません。
1階にはホールがあり、コンサートなどに使われているようです。

かたや中国、かたやフランス+日本、時間限定の不思議空間の美術館です。

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2008年10月 8日 (水)

尼崎近代建築ラリー

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尼崎運河博覧会を見たあとは、元浜の旧集落から阪神武庫川駅へと出ましたが、長くなるのでそれは省略して阪神尼崎駅から始めます。尼崎中心部にある近代建築ラリー(比喩です)をしました。

近代建築巡りの前に、駅の南に少し寄り道しました。老舗のヒノデ阿免(あめ)本舗さんがあります。「何を売ってるんですか?」と聞くほど無知な客でしたが(ヒノデ河虎と読み間違うし・・・)、試食させていただいて説明も聞いて水飴を買って帰りました。商品は水飴と固形飴のみ。とくに水飴は原料がもち米だけというシンプルさ。やさしい味がしました。

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途中、道路に気になるコンクリート柱がありました。
多角形の装飾で金属を巻いてあって、由来が気になります。

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駅からは外堀を兼ねる庄下川を挟んで尼崎城跡の石垣(模擬復元)が見えます。

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渡ったところにはレンガ倉庫があります。
ここから近代建築ラリーをスタート。
明治37年の旧阪神電鉄発電所です。

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道のすぐ脇に立っているので煉瓦をよく味わえます。触ることもできます。

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ひろさんに教えていただいた、うさぎはりの門柱のうさぎ。すぐに分かりました。駅と学校の間なので学生たちの思い出の風景ではないでしょうか。

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地味ながら、尼崎市立城内高校(昭和12年)の裏門です。
両側に溝を切ったシンプルなアーチ。

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一方、旧尼崎警察署(大正15年)の裏門はてっぺんがラジエーターのような角柱。

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大正らしくデコレーションが豊富です。
なんとなくミニミニ大阪府庁という感じがしたのですが。同い年です。

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旧尼崎警察署の隣から裏は三の丸公園で味のある雰囲気になっています。
これで警察署が活用されればいうことないのですが。

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向かいには旧尼崎高等女学校(昭和8年・13年)。この日は休日だったのですが、車で入っていく先生(?)がおられたのでその隙に。玄関脇に八角形の窓が見えます。

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城跡をぐるっと回って、尼崎藩主桜井松平家を祀る桜井神社へ。
ここに博愛社(のちの日本赤十字社)記念碑があります。それは西南戦争の際に尼崎藩主桜井忠興が私財を投じて医師・看護夫を派遣し、敵味方の区別なく負傷者を手当てしたことをきっかけとする博愛社設立に深く関わっていたためで、日本赤十字社の事務所は当初東京の桜井邸に置かれたそうです。明治20年のことです。日本赤十字のルーツが尼崎にあったとは初めて知りました。

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また明治22年には尼崎で最初の幼稚園として、桜井神社の中に博愛幼稚園が生まれたそうです。幼稚園に安置された博愛地蔵が神社にあります。(桜井神社自体は国道43号線の建設で移転して現在地に来たそうです)

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庄下川の開明橋を西に渡って、大正6年の大津表具店(旧向井眼科院)。
ほとんど飾り気がありません。壁面に「開明医院」の文字が消え残っていました。

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向かいは船のような旧尼崎市立開明小学校(昭和12年)。今は尼崎市役所の出張所になっています。もとの運動場が公園として開放されていますので、外観をよく見ることができます。

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そのまま西に進んで寺町に入ったところを南へ。
旧尼崎信用組合本店(明治33年頃)のかわいらしいまでに小さなレンガ建築があります。今は尼崎信用金庫記念館です。元の位置からは50m北に移設されているそうです。

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その並びには旧尼崎信用組合新本店(昭和5年)です。角の取れた丸っこい建物。

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そのさらに並びには本町ビル・旧尼崎共立銀行本店(大正12年。プレートにはなぜか大正5年と書かれています)。椿本ビルとも呼ばれていました。
びっくりしました。というのは、ガイドブックに出ていた色と全然違うから。『近代建築散歩 京都・大阪・神戸編』(2007年)に「2階へ直接入るための外部階段や赤い塗装がいただけない・・・将来の美改修に期待」と厳しく書かれているのですが、それに応えたのでしょうか。外部階段は取り払われ、白とグレーの外観に吹き付け塗装をされています。

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玄関上部の装飾。マス目にうずまきの抽象的な模様が入っています。
近代建築巡りはここまで。

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旧中国街道に沿って西に進み、貴布禰(きぶね)神社に立ち寄りました。ルーツは京都の貴船神社で、長洲の貴布禰神社→北城内の尼崎貴布禰宮屋敷→江戸時代に現在地と移って来たようです。尼崎の惣氏神として尼崎藩主に信仰されたような立派なお社です。
その境内に備前焼(伊部焼)の狛犬がありました。備前焼の狛犬を見ると瀬戸内海海運とつながっていたことがイメージできます。

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また寺町の南の筋を戻ってきたところで、この見つけものがありました。
もとはお医者さん? 洋風町家といえましょうか。花のような窓のレリーフに、アーチやバルコニーのようなレリーフ、近代建築ビルのモチーフを貼り付けたような町家です。
どこかで見たような気がするんですけど、何でしょう。山内ビル(外部リンク)でしょうか。他にも見たような。

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ちょっと面白いなと思ったのは1階庇のなみなみが、そのまま2階出窓下のなみなみに続いているようなところ。花のような窓には斜めに格子が入っています。

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窓の木の格子も何かで見たような。家具かな。

この建物があるのは、旧尼崎信用組合本店のすぐ近くです。
最後に予定外のものがあって満足なまち歩きとなりました。

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2008年10月 5日 (日)

青島・煙台の旅(29)青島湖南路から孔子記念館へ

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青島のドイツ式監獄博物館を見た後は、ホテルへの道を引き返します。
もとの道を戻っても仕方ないので、江蘇路を通って、湖南路を歩きました。
まず広西路1号にある総督府学校教学楼が目に付きます。1906年の建築。完全に霧にかすんでますが、石で縁取られた五角形の窓に特徴があります。軍関係の学校らしく、制服を着た学生が歩いていました。

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江蘇路と湖南路の角(湖南路4号)に立つ滙豊銀行(今の香港上海銀行)青島支店の支店長宅。青島支店の開設が1912年らしいので、その頃の建築でしょうか。滙豊銀行はイギリス系の有力銀行なので、イギリス企業との取引が多く、支店長は国際倶楽部、英国商会、英国学校などの理事を兼任したそうで、この家にも来客が多かったといいます。
太平洋戦争勃発後は、逃げ遅れた英米人の臨時強制収容所ともなりました。

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このあたりは邸宅地だったようです。

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湖南路6号にはこの重みのある建物があります。
中国式の灰色煉瓦と石で建てられています。
(こちらは正面ではないのですが)

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裏手には「1899」の文字。1899年というと青島の建物の中では最初期のものです。
これはかつての総督府学務委員会(教育委員会)の建物です。委員会は翌1900年にドイツ人子女向けの総督府小学校を設立したのを皮切りに、中国人向けに26ヶ所の小学校、さらには1909年に徳華大学(上海にある同済大学のルーツの一つ)を設立したそうです。たまたま朝つけたTVで徳華大学の歴史を紹介していました。

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その斜め向かいの湖南路11号には、赤い壁面のインパクトが強い旧黒氏飯店があります。1924年建設のフランス式建築です。その後つぶれて1932年には徳華大学を卒業した姜如心が買い取り、如心医院となったそうです。

今は幼稚園となり、基壇の石積や階段などがカラフルにペイントされてしまっています。案外、幼稚園にも似合う気がします。

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湖南路で見かけた飾りの多い扉。

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総督府の前まで戻ってきました。
これは前日に撮った写真ですが、青島路1号の旧ドイツ領事館、今は南園孔子記念館となっている建物です。木が茂っていてかなり見づらいですね。
この建物はもともと1900年に建てられたドイツ人の住宅だったようです。ドイツ撤退後、日本の第一次占領期をへて青島が中国に返還されるとドイツ人が戻り始め、1926年から1945年までドイツ領事館として使われました。その後、孔子の末裔が住み、1986年に青島市に寄贈されて孔子記念館となりました。

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南園というのは、孔子の末裔がこの住宅に付けた名前です。門は花崗岩で固められています。

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孔子記念館の玄関。
入館料は1元(15円)です。

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中に入ると飾り気は少ないのですが、広い吹き抜けがあります。

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2階への階段。残念ながら孔子記念館は1階の一部だけで、他は事務所として使われています。2階へは上がれません。

記念館には孔子に関する文物がいろいろと展示されています。係の方も丁寧に説明をしてくださいます。実はそんなに関心がないのですが、さすがに建物が目的で来ましたとも言えず、ふんふんと説明を聞いていたのは係の方には内緒です。

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再び広西路に戻ってきました。
オリンピックに向けてか、通常の業務なのか、古い建物の改修工事が行われています。

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このように補修されて、青島では今も古い建物が使い続けられています。

霧のためにまち歩きは少なめ。それでもたくさんの近代建築を見ることができました。名残惜しいのですが、青島の探訪はここまで。
最後に近くの新華書店で資料を買い込み、チェックアウトのためにホテルに戻りました。

○参考資料
 竇世強・李明『画説 青島老建築』、2004年、青島出版社
 魯海『老楼故事』、2003年、青島出版社 
『中国近代建築総覧 青島篇』、1992年、中国建築工業出版社

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2008年10月 2日 (木)

青島・煙台の旅(28)青島ドイツ監獄など

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旅行4日目の朝。最終日です。
前に書きましたが、桟橋・王子飯店に泊まっています。
霧は昨日以上に深く、目の前の壁が霞んでいます。
これではまち歩きどころではありませんので、屋内を見られるところを目指すことにしました。
海岸通りの太平路を東へ。

写真の建物は太平路と江蘇路の角です。
1902年に建設された(山東鉄道会社と)鉱務会社の事務所だそうです。

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江蘇路の対面、太平路23号には旧坂井貞一宅があります。
1929年に建てられたそうですが、坂井貞一という人物については、日本商人であること以外分かりません。(「中国近代建築総覧・青島編」にはM.高橋宅となっていますが、2003年に青島市が設置したプレートが坂井宅になっているのでそちらを採ります)

なかなか素敵な建物ですが、開放されているわけではなさそうなので、門のところから眺めるだけです。

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その隣には青島天后宮。かなり古くて、明の成化3年(1467年)の建物です。航海の神様、媽祖を祀っています。天后宮(あるいは媽祖廟)は中国や台湾などの沿岸部によくあります。日本でいうと住吉神社みたいなものでしょうか。
恥ずかしながら、媽祖が実在の人物だと初めて知りました。宋代(10世紀)に生まれ、病を治すなど奇跡を起こした女性だそうです。

極彩色の伝統建築です。

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そしてこれが目的地の青島ドイツ式監獄博物館です。入場料は25元(375円)(閑散期はなんと5元)。
ここは欧州人の囚人を収容する監獄として、1900年に建てられたようです。
中国人を収容する監獄は公安局の近くにありました。

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これが博物館の配置図です。
仁・義・礼・智・信の5つの監房と工場、浴室、事務棟、裁判所があります。
上の3つの建物はレストランなどに使われているようですが、そこも監獄の一部とは気付きませんでした。

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裏から撮ると素っ気ないこの建物は、旧ドイツ膠澳帝国裁判所です。
内部には「青島司法歴史沿革陳列展(1897-1949)」が展示されていて、ドイツ租借時代、第1次日本占領時代、北洋政府・国民党政府時代、第2次日本占領時代、中華民国時代(アメリカ軍駐留時代)、中華人民共和国時代へと目まぐるしく支配者の入れ替わる青島の司法の歴史が展示されています。

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いよいよ監獄へ。
円錐屋根を載せた丸い塔が印象的な「仁」字監房。

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側面から見たらこんな感じです。
塔の部分が取って付けたような感じでもありますが。

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展示室は上から順に見ていきます。
鉄扉をくぐって囚人房へ。

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囚人房の扉。この博物館の開館は昨年の4月と新しく、のぞき窓からのぞくと、ドイツ人囚人の様子が写し出されるなど映像的な演出があります。

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開放されている囚人房。波打つ天井になっています。
壁は冷たいですが、そんなに居心地が悪そうでもない?

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一部、装飾的な部分も見られます。暖房装置?

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表から見た円筒部分は、らせん階段の階段室です。
ぐるぐる降ります。

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下の階は第二次日本占領時代の展示です。
これは水牢。拷問室もありました。凄みがあります。
つらい展示です。

前にハノイのホアロー務所博物館を見たときもそうでしたが、植民地の監獄というとどうしてもそんな展示になります。

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一通り見ると運動場に出ます。
裏側から眺める監獄。
眉毛のような窓の上部が単調さを救っています。

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右が「義」字監房、左が「礼」字監房。「礼」字監房は1924年に建てられました。
右手前の見張り室は戦後のものです。
実は1995年までこの監獄は現役でした。それはそれですごい。

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手前の赤い花崗岩張りの監房は「智」字監房で、1931年に建てられています。
こちらの方が古いのかと思いました。

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最後に監獄浴室です。
監獄本体と同じ1900年に建てられています。

監獄を見るのは気分のいいものではありませんが、歴史の一面がよく分かる場所ではあります。
霧に包まれて、いっそう厳かな雰囲気が漂っていました。

○参考資料
 竇世強・李明『画説 青島老建築』、2004年、青島出版社
 魯海『老楼故事』、2003年、青島出版社 

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2008年9月29日 (月)

青島・煙台の旅(27)青島駅から中山路

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青島旅行記のつづきです。
八大関を歩き回ったあと、歩き疲れたので東海国際大厦発の214路(系統)のバスに乗りました。終点の雲南路はどこか分からなかったんですが、途中の地名で西に行くことは分かったので深く考えずに乗り込みました。

ここで困ったのがバス料金が分からないこと。
とりあえず乗り込んで他の人が払うのを見よう、と思ったのですが、みなICカードで支払うので分からない・・・。

バスはそう混むこともありません。八大関をひとめぐり、海沿いの道を走り、江蘇路から弧を描くように上海路、小港をへて、結局、青島駅の裏手(西側)にある雲南路に到着しました。ここならホテルから徒歩圏です。
結局、到着すると女性運転手はさっさと出ていってしまうし、適当に払ってバスを降りました。

青島駅はオリンピックに向けて大改修中(この日は5月25日)。上の写真がそうです。
随分大がかりやなあと感心して工事中の写真を撮っていると、地元のおばさんに声を掛けられました。この方、青島駅の拡張工事で立ち退きさせられた方で、工事中の写真を撮っている私も同じ境遇と思われたようです。「せっかく持ち家だったのに移転させられて・・・」とご不満そうでした。
旅行者なんですというと、中山公園と小青島公園を勧めてくださいました。理由は「タダだから」。高い公園料金にやはり市民は不満のようです。時間があったら行くのですが、残りは半日です。「案内しましょうか」ともおっしゃってくださいましたが、お礼を言って辞退しました。

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行きたいところは線路の向こう側です。
幸い、この場所に鉄道をくぐる地下通路がありました。
通路の両側は小商店街になっています。

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線路の東側の通りを歩いていると、お茶屋さんがありました。
青島東泰茶葉有限公司という名前です。
品揃えの半分は地元の嶗山茶、後の半分は鉄観音、ジャスミン茶、龍井茶など全国ブランド。嶗山というのは青島の東にある観光地です。中国の茶産地としてはかなり北の方。もしかしたら青島の霧が茶に良いのかも。嶗山茶の2番目ぐらいのを買いました。50gで36元(540円)。

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新しい青島駅の駅舎はほぼ完成しているようでした。
やはりドイツ風で、かなり長い建物。駅前のホテルも建設中です。
それにしても霧がひどい。全景が分かりません。

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東に向かうと、湖北路にある青島市公安局が霧の向こうに見えてきました。もとは警察署と地方裁判所の建物です。時計塔の目立つ変わった建物。ネオ・ニュルンベルグ派とのこと。1904年から1905年にかけて建てられました。この街区は六角形をしていて、いかにも重要な場所という印象を受けます。警察署以前は清軍の兵営があったそうです。

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河南路と中山路には古い銀行の建物がたくさんあります。
河南路にあるこの建物、右は旧中国実業銀行、大きなアーチのある真ん中は旧青島銀行同業公会、左は旧金城銀行です。青島銀行同業公会とは、1931年に中国系8銀行で成立した同業組織だそうです。1932年に青島市政府は第四公園の土地を売却することを決め、中国系7銀行が共同でこの土地を買い取りました。当時館淘路にあった外国金融区に対抗するため、1934年に中国金融区として中国系7銀行と銀行公会が集まり、青島のウォール街と呼ばれました。それがこのブロックです。

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そのまま中山路側に出ました。
中山路は古い繁華街です。
ここには旧大陸銀行があります。右隣は先ほどの旧金城銀行です。大陸銀行も1934年に建設されました。設計者は中国人の羅邦傑、施工は新慎記営造廠です。角を正面として階段状に高くなる装飾がありますが、全体にシンプルなデザインです。
ちなみに大陸銀行は1919年に天津で設立された銀行で、青島には1923年、最初は天津路に進出したそうです。青島支店は預金・信託・外貨兌換・貸付など商業銀行の一切の機能を持っていました。

さらに大陸銀行の左に旧上海商業貯蓄銀行(1934年)、旧山左銀行(1934年)、旧中国銀行(1932年)と並んでいます。上海商業貯蓄銀行は中低所得者を顧客としていたので、お客さんが入りやすいようにものものしい入り口は避けたそうです(一方で外国大企業の預金獲得にも頑張ったようですが)。左端の旧中国銀行だけ3階建てなのは、当時の建築規制によります。設計者は中国人の陸謙受・呉景奇です。中国銀行青島支店はこう見えて、1936年の預金額第一位の銀行で、貨幣も発行していました。

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同じく中山路にある旧大清銀行(のちの中国銀行)青島支店。今は中信銀行。こちらはもっと古くて、ドイツ時代の1906年から1909年にかけて建設されました。イオニア式石柱、メダリオン、軒蛇腹など装飾はいろいろ付いていますが、小ぶりなので親しみやすい感じがします。

大清銀行青島支店は、関税の一部代収と、公金の出し入れをしていました。大清銀行の消滅後、1928年には預金・貸出・為替業務を主とする義聚合銭荘がここに開業し、1938年には華北臨時政府の中央銀行青島支店となり、戦後、中央銀行に接収されました。

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同じく中山路の旧交通銀行です。今は中国建設銀行になっています。コリント式の列柱が6本並ぶ、いかにも銀行建築という建物。1929年から1931年にかけて建設されました。設計者は庄俊で、中国で最も早期の建築留学生かつ中国建築師学会の創始者・会長だった人だそうです。
交通銀行は紙幣を発行し、膠済鉄道のお金を収納し、一般の預金・貸付業務も行いました。

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中山路には中国電影院(旧山東大戯院)という古い映画館もあります。
青島では映画は最初、ホテルの音楽ホールなどで上映されていましたが、専門の映画館として1921年、中山路に福禄寿電影院、1931年にこの山東大戯院がオープンしました。山東大戯院は中国資本、上海の建築家による設計の映画館で、750〜800席あり、主に国産映画を上映しました。京劇やスペイン歌舞団、上海女子歌舞団も上演されたそうです。
山東大戯院は1938年、日本人により国際劇場と改称され、日本映画専用の上映館となりました。さらに1945年には青島保安隊に接収され、中国劇院となりました。

劇場の上部の装飾はラジエーターを思わせます。
この写真では見えませんが、突起の間や玄関上の半円部には細かな模様が描き込まれています。

せっかくなので、ここで映画を観ることにします。
現在は3スクリーンあり、「功夫之王」(「ドラゴン・キングダム」)が上映中でした。チケットは25元(375円)です。

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上映まで時間があるので周辺を散策しました。
裏手に回ると映画セットのような街並みです。石畳の坂を登ってゆくと、丘の上には霧に霞む双塔の聖ミハエル大教会がそびえ、ぞくぞくするような光景です。

○関連ブログ
 ヨウタロウさんの中国・青島@建築探訪記「チンタオの天主教堂」

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こちらは博山路3号にある旧天主堂医院です。1907年に建設されました。ここでいう天主堂はカトリックの教会ですが、聖ミハエル大教会が完成するのは1934年なので、それより前のものです。
この医院は中国人向けのもので、修道女によって担われました。医薬品はドイツから輸入し、経費は主に教会が出して、医院は無料で診療を行っていたそうです。

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坂のある街はいいものです。
街中でも生活感があります。

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さて「功夫之王」(ドラゴン・キングダム)は、ジャッキー・チェン、リー・リンチェイ、アメリカ人の少年が主演のカンフー映画です。アメリカ映画なんですが、ジャッキー・チェンが酔拳を披露したり、リー・リンチェイが僧の姿で登場したり、カンフー映画に対する愛を感じます。神話時代の中国にタイムスリップしたアメリカ人の少年が、ジャッキー・チェンらの助けを借りながらカンフーの腕を磨き、悪逆非道を尽くす将軍のもとに乗り込んでいくという、分かりやすい映画でした。

しかし、それにしても・・・
観客が私1人だったんです。上映期間の最後だったのかもしれませんけど、そんなので大丈夫かと思いました。第3スクリーンは全席ペアシートで営業努力は感じましたが。

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夜に入ってもまだ霧。
街灯がにじむ幻想的な道をホテルまで歩いて帰りました。

○参考資料
 竇世強・李明『画説 青島老建築』、2004年、青島出版社
 魯海『老楼故事』、2003年、青島出版社
 魯海『老街故事』、2003年、青島出版社

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2008年9月18日 (木)

大阪大学の五角窓

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大阪大学豊中キャンパスに行きましたので、登録文化財の共通教育本館(イ号館)を見てきました。
キャンパスの中でも阪急石橋駅に近い高台にあります。6月に訪れた大阪大学総合学術博物館とは近所です。

近づくと、タイトルにもしましたが、五角形の窓が目に刺さります。ネオ・ゴシックと説明されている資料もありますが、アーチを突き詰めていくと五角形になったということなんでしょうか。

この建物は、1929年(昭和4年)に、旧制府立浪速高等学校の高等科本館として建てられました。

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玄関周りはとくに凝っています。玄関の庇には電波のような模様が入り、門灯はクラゲをロケット化したような形。未来的な雰囲気があります。玄関扉も五角形が組み込まれ、上部にはステンドグラスも。
こういうのはアール・デコではないんでしょうか。

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見上げると立体方向にもとんがっていることが分かります。

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玄関ホールに入ると大きな五角形窓から日差しが差し込みます。ここではどうしても五角形を見せたかったんでしょうね。

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階段の親柱もとんがっていれば、手すりの窓も五角形。

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五角形の内側にはさらに幾何学模様が入っています。

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上層階からは北摂平野を望むことができます。
丘の上にできたばかりの旧制高等学校−−上昇する気分と五角形には関係があるのかな、などと考えました。

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2008年9月15日 (月)

青島・煙台の旅(26)青島八大関をさまよう

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青島の八大関にある花石楼を見た後は、八大関を散歩、というより行き当たりばったり、さまよいました。

八大関の中には、このように美しく整備された池のある公園もあります。そしてそこはやはり撮影スポットです。

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<八大関の街路・建物配置図>
八大関の説明がまだでした。
八大関は1930年代初めから開発された高級別荘地です。1922年から1937年までは、青島が中国に返還されていた時期だったので、領事館関係者や外国企業の支店長などが住んだようです。

八大関という名前は、中国の有名な関所の名にちなんだ8つの道路(例えば函谷関路、山海関路など)があるためです。今は10関に増えているそうです。

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たとえばこんな住宅。塀には青島の花崗岩が使われ、多少の幾何学的装飾もありますが、基本的に直線・曲線で構成されたモダン建築です。

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交差点の角地なども無理に宅地化せず、緑地にされていたりします。ほんとにゆったり。

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松林の中にあるこの建物は、今は療養施設になっています。いくつか療養施設の看板を掲げている建物がありました。レストランになっている建物もあります。『青島と山東半島』によれば、この地区にあるホテル「八大関賓館」が11の建物を運営していて、予約すれば泊まることができるそうです。交通は不便ですが、そういう過ごし方もいいかもしれません。

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この建物は栄成路と武勝関路の角地にあります(栄成路19号(番地))。山小屋みたいでいかにも別荘です。1931年に、王節堯の設計で建てられました。門柱のてっぺんに家が乗ってるのがかわいい。

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先ほどの写真では木に隠れていましたが、ヨーロッパのお城風の石塔が隅に立っています。

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このまま栄成路を海に向かって歩いていきました。
栄成路は「関」が付いていません。1920年代に道が開かれて、1930年代に建築が始まり、八大関開発の端緒となった通りなのだそうです。「建築博覧会」の称号もある通りなのだとか。

同じ並びの住宅です。シンプルで、丸窓があるのが1930年代ぽいかな。

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栄成路33号。鉄の門飾り、テラスが軽やかです。
(ちなみに中国の地番の付け方は道路が基準で、片方が奇数、もう片方が偶数です)

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栄成路34号のこのお宅は、1930年代後半に三菱株式会社青島支社の青山喜一支社長が住んでおられたそうです。窓枠のブルーとくに楕円形の窓と、モダンデザインの門扉が印象的です。

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フェンスのデザインは摩天楼をかたどっているのか、面白いデザインです。

いくつか住宅を紹介しましたが、八大関の代表的な建物というわけではなくて(八大関を外れてそうだし)、むしろもっと他に有名な建物があります。なにしろ樹木に隠れて見通しがきかないので、どこに魅力的な建物があるか分かりにくい状況です。下調べして住所を手がかりに回った方がよさそうです。反省を込めて。

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八大関をさまよったあと、海岸にも出てみました。
海からやってくる霧でほとんど先が見えません。

磯遊びしている中年カップルに思い切って声を掛けてみると、地元青島の人でした。ビニール袋の中の「獲物」は、小魚やカニ、ヤドカリなどでした。童心に帰って楽しそうです。
高級別荘地の八大関も今は気軽な遊び場になっているようでした。
そしてもちろん結婚写真の撮影地にも。

○参考資料
 『青島と山東半島』(旅名人ブックス)、2007年、日経BP企画 
 『中国近代建築総覧 青島篇』、1992年、中国建築工業出版社
 魯海『老楼故事』、2003年、青島出版社

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青島・煙台の旅(25)青島の石の別荘

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青島の別荘地、八大関に入りました。
八大関は岬を利用した海辺の別荘地です。街路樹と庭園の緑、海岸緑地の緑が一帯となり、圧倒的な緑に埋もれています。そのため住宅の姿はよく見えません。

向こうからぞろぞろと歩いてくるのは結婚写真撮影の皆さん。海あり、森あり、洋館ありの八大関は結婚写真のメッカになっているようなのです。(中国や韓国では結婚の際に、新郎新婦の写真アルバムをつくります。撮影には非常に力を入れます)

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まず八大関で一番の観光スポットである花石楼に向かいました。
八大関でも一番端の海沿いに建っています。
花崗岩で固められた姿はヨーロッパの古城のような重々しさです。

花石楼は1930年から1931年にかけて建てられました。設計者は劉耀宸、施工者は王雲飛です。もとはロシア貴族レイビッチの別荘で、1936年頃にレイビッチが亡くなったのち、イギリス人保険商の手に渡りました。イギリス領事も利用したようです。1949年には青島駐留の米軍を頼ってきた蒋介石が一時滞在したこともあります。新中国になってからは接待施設として使われていました。

今は入場料6.5元(約100円)で公開されています。

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裏側はこんな感じ。こちら側にも丸い塔が立っています。

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花石楼の名前は、室内の壁に滑石(ロウ石)が張られていること、外壁に花崗岩が使われていることから、中国語で滑石と同音の花石を当てて、花石楼と呼ばれるそうです。

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暖炉までが石の塊。室内にまで石を使っているとやや重苦しい気がします。

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表の円筒部は階段室になっています。
らせん階段にほっとします。

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階段室の窓には色ガラスが使われています。
階段室だけ妙に明るい。

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階段は途中から、室内に入っていきます。
うねるようなカーブに引きつけられます。

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円筒の塔の最上部は展望室になっています。
まるで見張り塔のよう。ここからは第2海水浴場が見渡せます、が今日はこの霧です。

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第2海水浴場は、磯場へと続いています。
白い点がたくさん見えるのは、結婚撮影のカップルです。幻想的といえば幻想的なんですけど、この霧で写真が撮れるんでしょうか。

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実は花石楼も、結婚写真の撮影用に道具立てを用意しています。
どんな写真を撮るのか分かります。
新郎新婦のドレスはほとんど白(純白あるいはクリーム色)なのですが、花石楼内では青いドレスの美しい新婦さんが撮影していました。

煙台の煙台山と全く同じ状況です。
人数でいうと煙台以上です。

○参考資料
 竇世強・李明『画説 青島老建築』、2004年、青島出版社
 『青島と山東半島』(旅名人ブックス)、2007年、日経BP企画

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2008年9月10日 (水)

箱木千年家の床(神戸市)

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先日のこと、箱木千年家に連れて行っていただきました。
神戸市などというとかえって誤解を招きそうな、六甲の北側です。

江戸時代から千年家と呼ばれてきましたが、実際は築700年ぐらいらしいです。それでも古い。
元あった場所が呑吐ダム建設で水没するため、1977年から79年にかけて現在地に移築されました。移築の際に、より古い姿(母屋と離れが別々)に復原されています。移転前の周辺の模型を見ると川沿いの丘に建つ家で、その眺めが見られないのは残念です。

かやぶき屋根を深々とかぶっていて、頭をかがめて入ります。

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気に入ったのが、座敷の床。
昔はかんなが使われていなかったので、手斧(ちょうな)で仕上げられています。黒光りする床に行灯の光が反射すると月夜の水面のよう。とても素敵でした。

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2008年9月 9日 (火)

近江今津の十字路

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針江生水の郷を歩いた後は、電車で一駅、近江今津に移動しました。
Oさんの提案で、ひつまぶしを食べようということで、西友(にしとも)というお店の駅前店に入りました。阪神間や泉州のイメージか、無意識のうちに駅の海側が表と思ってしまうのですが、どうもここでは違うみたい。山側の駅前です。危うく間違えそうに。

注文を受けてから焼かれるうなぎはぱりっと香ばしく、のりも同じく、ごはんはもちっと、とても満足な昼ご飯でした。これで1300円台です。

後で歩いていて気付いたのですが、近江今津は川魚の魚屋さんの多いところです。西友も魚屋さん(佃煮屋さんも?)兼営です。うなぎも同じジャンルなんですね。

(そうと意識せず)旧江若鉄道の廃線跡に沿って歩き、江若鉄道の旧近江今津駅舎の前を通って(まさか岩陶浴の店になっているとは)、若狭街道(九里半街道)にぶつかりました。

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若狭街道は琵琶湖から西に、熊川宿を通って若狭に抜ける街道で、このあたりは街道の面影を留めていました。近江今津ではかつて辻川という川が流れていたので「辻川通り」、また中央商店街の名前もある昔の繁華街のようです。

通り沿いに大きな町家があり、裏手の蔵に目が止まりました。ぴったり積まれた石垣から、扉の裏に描かれた白黒の鏝絵までみごと。扉を開け放して画が完成するというのが面白いところです。

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通りがカーブするところには変わった町家がありました。

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JR湖西線の高架をくぐると、ヴォーリズ通りとも呼ばれる通りになります。それは通りに3軒のヴォーリズ建築があるから。それを見るのがとりあえずの目的でした。

まず昭和11年の旧今津郵便局です。倉庫になっていて、痛々しいまでに傷みが目立ちました。
埋め込まれたアーチが特徴的。

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次に日本基督教団今津教会会堂。昭和9年に建てられて、今も教会、幼稚園です。
煉瓦を散らした門柱はヴォーリズ好みですし、3つの建物では、たたずまいが最も美しい、ヴォーリズらしい建物です。庭の手入れも行き届いています。

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3つめは今津ヴォーリズ資料館になっている旧百卅三銀行(今の滋賀銀行)今津支店です。大正12年に建てられました。模型を見ると当時は後ろに和館部分が続いていたようです。昭和54年から町立図書館となりましたが、平成15年に改修されて記念館になりました。記念館内部にはパネルや模型展示と、喫茶コーナーがあります。

ここで休憩中の今津教会の牧師さんにお会いするというハプニングもありました。

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さらに琵琶湖に向かって歩いていくと長い石垣がありました。この形式だと洋風建築が建っていたのではないでしょうか。

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若狭街道は終点(起点)でカーブして、北国海道(西近江路)となります。宿場の名残でしょう。宿屋がありました。もっともこのあたりが栄えたのは明治時代以降のようですが。

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街道の間の路地を抜け、石段を下りると琵琶湖岸です。
静かな湖面をボートが行き来していました。

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表は北国海道に面していますが、裏はどの家にも琵琶湖に降りる階段があります。
湖からは洋館部分をもつ建物を見ることができました。
大正から昭和初期にかけての建物に見えます。
表からは気付かないところ。

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再び琵琶湖岸に平行して走る北国海道に出ます。
こちらも街道の名残があります。
昔はこのあたりに今津桟橋があったようです。
北国海道に、若狭街道、そして琵琶湖航路で十字路になっていたわけです。

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まだ日暮れには時間がありますので、タクシーを拾って、高島市新旭町饗庭にある水鳥観察センターに向かいました。ここにある旅のカフェでお茶をするのが目的です。ここもOさんが下調べされていました。

冷房は使わず、窓は開け放たれています。
ヨシ原や干潟が整備されていて、絵のような風景。
オーガニックのアイスコーヒーを葦のストローでいただき、貸していただいた双眼鏡で水鳥を眺めながらのんびり過ごしました。

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のんびり。

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帰りは湖岸沿いに近江今津まで歩いて戻りました。
二ツ石大明神の鳥居。沖合100mのところに2つの石があって、渇水の時に現れるそうです。

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やがて、北国海道に合流し、湖岸の立派な松並木の道となります。

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やがて、琵琶湖の観光船のりばへ。
竹生島経由で対岸の長浜に渡る現在の十字路です。

私たちは十字路を逆に折れ、近江今津駅から帰途につきました。

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2008年8月31日 (日)

青島・煙台の旅(23)青島の家と海を眺める公園

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再び八大関の別荘地に向かって歩いていきます。
まず魚山路を歩いていきます。

道の左手に大きな建物が見えました。(木が邪魔で見にくいけど)
1934年から1940年にかけて建てられた旧世界紅卍字会青島支部です。世界紅卍字会は、赤十字と似ていますが、道院という宗教の慈善団体だそうです。山東省発祥なので、本拠地に近く、煙台にも支部がありました。

今は青島市美術館ですが、残念ながらこの日は休館日。開いてたら絶対に入ってます。

建物は前後に分かれていて、後方は1933年に建てられた中国宮殿風建築(未確認)、写真が前方に1937年から1940年にかけて建てられた洋風建築部分です。前方部分の建築家は王翰で、施工は公和興営造廠ですので、中国人の手になる建物です。

世界紅卍字会はここを拠点に、救済院、慈善医院、職業学校、女子小学校、救済隊などの慈善活動を行っていました。

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中国風の塀越しに正面を見ることができました。
古典建築+アール・デコという感じ?

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このあたりは小魚山と呼ばれる丘の住宅地で、著名人の住宅がたくさんあるところです。

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やがて、立派すぎる門が見えてきました。
中国海洋大学の門です。

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木々の上から赤い屋根と塔屋が顔を出しています。
実は日本の青島中学校だった建物です。第一次青島占領期の1920年に建てられました。もともとは清の広武中営という兵営があった場所だそうです。
ドイツ風の建築ですが、設計者は日本人の三上貞で、施工は公和興営造廠です。

当時は日本の男子学生だけを受け入れていました。建設費は19万元余りが投じられ、当時の中国の日本人学校では最も設備が良かったそうです。旧制とはいえ、大学の校舎に使えるほどの中学とはすごいものです。

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魚山路を歩いていくと、切り通しで岩盤の露頭を見かけました。上に同じ色の石垣が積まれていて、生えてきたみたいです。やはり赤い石は地元の石材を使っているのですね。煙台で見た花崗岩の毛鼓石にも似ています。

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小さな峠を越え、ふと覗き込んだ敷地の奥に気になる建物が見えました。
左手には入場券売り場があります。この建物を近くで見たくて、小魚山公園の入場料15元(225円)を払って入りました。しかし、実はそこは公園の外なのでした・・・しまった。

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膠海関(税関)所長のエルンスト・オルマー(中国名:阿里文)の邸宅という掲示が出ています。多才な人だったらしく、設計者も本人です。1899年に建てられました。

オルマーは、1847年、ドイツのヒルデスハイム生まれ。1868年に中国で税関の仕事に就きました。1898年に税関設立準備のために青島に来て、1899年から青島の初代税務所長を務めています。1914年の日本による青島占領の直前にドイツに帰国しました。中国文化にも造詣が深く、多くの陶磁器を故郷に持ち帰ったそうです。

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出窓からは海が眺められたでしょう。

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せっかくですので、小魚山公園の中にも入りました。
頂上には中国風の塔の形をした展望台があります。

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この公園も眺めがよく、西にはさっき登った信号山が見えます。

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南にはドイツ風住宅のコンクリートの躯体ができあがろうとしていました。
中身は鉄筋コンクリートの塊なんですね。

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東は海水浴場の砂浜海岸があります。
青島はぼこぼこした半島に広がる街ですが、南海岸はさらに岬と浜辺が交互に繰り返して変化があります。これから向かう八大関は、左右のビルの間にある緑の岬です。

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展望台を降りて、一息ついていたところ、にわかに海霧が来襲してすっかり周りが真っ白になってしまいました。頭も真っ白です・・・

○参考資料
 竇世強・李明『画説 青島老建築』、2004年、青島出版社
 魯海『老楼故事』、2003年、青島出版社

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2008年8月29日 (金)

青島・煙台の旅(21)青島の奇怪な官邸

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<信号山から見た青島迎賓館>
東西の建築を寄せ集めて粘土で固めたような、何とも奇っ怪な建物。

青島迎賓館は、青島を代表するドイツ建築です。
信号山の南山麓に、ドイツ総督官邸として建てられました。
1905年着工で、1908年竣工。設計者はドイツ人のラツァロヴィッツ、建築監督はシュトラッサーです。

1914年に日本が青島を占領すると駐青島守備軍指令官邸となりました。1922年に青島が返還されると膠澳督弁官舎、1934年に国民党が青島を接収すると迎賓館と改称され、日本再占領期の1942年から45年までは国際倶楽部が一時移ってきました。新中国となってからは再び迎賓館として、国家指導者と外国賓客を接待するホテルとして使われました。1999年から博物館として公開されています。目まぐるしい変遷です。

ちなみに入場料は15元(冬の閑散期は10元)でした。

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まずは正面(西面)から。
細部に至るまで、いろんな要素が詰まっています。花崗岩の壁面は生物のようです。
ユーゲント・シュティールの影響を受けているといいますが、ここまで自由奔放とは。
ドイツの総督官邸という権威的な建物がこんなに奇抜な形で中国に残されたというのは時の綾といえるでしょうか。

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中央に見えるちょこっとした出っ張りは、ドラゴンの彫像です。

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北面は食堂の外壁。
ここはまだシンプルな方。

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東面は花崗岩の荒々しさが目立っています。
ある意味、遊園地的です。

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最も整った南面。
ベランダを挟んで塔がいくつも立っているようです。

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一周して東の正面に戻りました。
こちらにも小さなベランダがあって、そこは総督の部屋です。

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外観だけで、もう十分という感じですが、これから中に入ります。
ユーゲント・シュティール風アーチの玄関です。

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中に入ると大ホールに出ます。2階まで吹き抜けの大空間。他の部屋はこの大ホールを囲んで配置されています。そして壁を巻くように2階に上がる階段があります。
1階奥の窓にはマリア様の描かれたステンドグラスがあります。残念ながら近くから撮り忘れていました。

ヨウタロウさんが中国・青島@建築探訪記で紹介されていますので、ご覧ください。

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振り返るとこんな感じ。ふんだんに使われた木と白い壁の落ち着いた空間です。
右下に暖炉が見えますが・・・

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近くで見るとこんな思い切ったデザインです。
緑釉のタイルが渋めの色合い。

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こちらは別の部屋の暖炉で、花の模様が繊細です。

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1957年に毛沢東が滞在したという喫煙室のステンドグラス。
青島の海なのでしょうか。

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ディナールーム。もう一つ小さなダイニングルームもあります。

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東面には温室がつくられています。
打って変わって鉄骨とガラスの空間です。

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1階を1巡したら2階へ。
布でできたような柔らかな表現の階段手すりです。

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2階にはL字型に回廊が巡っています。内にもベランダのアーチ。

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総督夫妻の寝室です。

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北西隅にある林彪の部屋。他の2階の部屋から1段下がっています。

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室内装飾の数々を集めてみました。
左から林彪の部屋の漆喰細工、2階廊下の照明、非公開の部屋の内側出窓です。

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2階の南側ベランダからは広い庭越しに青島の住宅地が見えます。
ベランダに出る部屋は子供部屋というのですからなんともぜいたく。

とことん凝った総督官邸でした。
青島で建物を見るなら、ここは外せません。

○参考資料
 「青島迎賓館解説リーフレット」
 竇世強・李明『画説 青島老建築』、2004年、青島出版社

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2008年8月23日 (土)

中山道・加納宿のあたり(岐阜市)

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岐阜に出張に行ったついで。
仕事が早く終わったので、中山道の加納宿あたりに立ち寄りました。
上の写真は街道筋ではありませんが。

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街中なのにちょっと大きなお屋敷などもあります。
朽ちているようなのが残念。

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加納桜道から江戸に向かう街道に入り、しばらく歩くと唐突にこの建物。旧加納町役場です。武田五一の設計で大正15年に建てられました。
シンメトリーをかなり崩したデザインです。玄関のアーチやディオクレティアヌス窓(半円を2本の柱で分割した窓)にも目が行きますが、それよりも建物全体の発する古び方の凄みに圧されます。

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玄関脇には登録文化財の表示が立っています。

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でも老朽化の問題で立ち入り禁止。あまり近づくこともできません。
建物の無事を祈ります。

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加納は城下町でもあります。
大手前通りで街道は北に折れ、この広井橋で小さな清水川を渡ります。この広井橋は昭和27年の橋で、まだこの頃の橋は味わいがあります。

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中山道と御鮨街道の分岐で、再び中山道は東に折れています。東の中山道を見たところ。
御鮨街道という言葉を私は初めて聞きました。江戸の将軍家に長良川の鮎鮨を運んだルートだそうです。鯖街道と似てますが、こちらは鮨にしてから運んでいたようです。
もっともそんなに頻度のある話ではないでしょう。

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私は御鮨街道を北に逆走します。
名鉄の線路を渡ると花街の名残らしき3階建ての町家。

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銅の戸袋、名前入りの瓦など凝っています。

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加納東広江町のあたりは古い町家が残っていました。
2階建てで、両袖の木の壁が出て、前のめりでという特徴は共通しますが、なぜか高さ、出方がばらばら。今、気付きましたが、菱の穴あきコンクリートブロックが合ってます。

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こちらはゆったりした家。塀に品があります。
このあたりでも石垣は丸石です。

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こんな穴あきコンクリートブロックもあるのかということで。花に雲の図案化でしょうか。

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清水川をたどって岐阜駅に出ました。
自然の河岸を再現した川で、岐阜の街中を流れながら、とてもきれいです。

岐阜駅の表は表で、60〜70年代の建築群に見どころを感じますが、岐阜駅の裏の加納地区も戦前の風情があっていいものです。

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2008年8月19日 (火)

青島・煙台の旅(19)青島ドイツ総督府と邸宅街

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青島租借地のドイツの都市計画で中心に置かれたのが、この旧ドイツ総督府です。
租借当初、総督の公務のほとんどは、街の東にあった私邸で行われていました(総督官邸もまだできていなかった)。

この建物は1904年に着工し、1906年に竣工しました。
外壁には地元の赤みのある花崗岩が使われています。
役所らしい、いかめしい建築です。

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旧ドイツ総督府は少し高台にあり、海を見下ろしています。
総督府の前には広場があり、あらゆる方向に道路が延びています。広場から海の方向へは階段があり、ウィルヘルム通り(不入斗通、青島路)がまっすぐ海に向かっています。この右にプリンツ・ハインリッヒ・ホテル、左に徳華銀行(ドイツ・アジア銀行)、左手前にドイツ領事館がありました。

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旧ドイツ総督府の正面。
1914年に日本が青島を占領したのち、総督府は日本守備軍司令部になりました。1922年に青島が中国に返還されると膠澳商埠督事務所、1929年7月に青島特別市政府の所在地となりました。1938年1月に再び日本が占領して青島特別市政府になり、1945年の終戦後は南京国民政府の青島市政府所在地となりました。

既に市役所は別の所に移転しましたが、現在は青島市人民代表大会常務委員会、中国人民政治協商会議青島市委員会が入っています。一般人の行くところではないですが、周辺を散策する人はたくさん見かけました。

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古典主義を基本としているといいつつも、窓はユーゲント・シュティールの曲線ではないでしょうか。

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総督府の斜め前(沂水路14号)には旧英国領事館があります。
1907年に建てられたそうです。当初は政府役人の住宅だったらしく、住宅っぽく見えます。
領事館となってからもずっと使われていたわけではなく、あちこち引っ越したり、1941年に日本軍に差し押さえられたりしました。1945年に復活しますが、最終的に1951年に中国との外交関係が途絶えて閉館となりました。

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ここから沂水路(旧ディーデリヒッス通り、赤羽町)という道が伸びて、左側がかつての邸宅街となっています。フランスアオギリの並木が続いて、今も緑が豊か。

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賑やかなお屋敷があったので寄り道してみました。
庭が朝市の会場として使われているようです。もう10時で片付けに入っていました。

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このお屋敷の主は、旧ドイツ第三海軍営部です。
実質的なドイツ軍の中枢でした。
所在地は沂水路9号、建築時期は1899年という非常に古いものです。
最初はこのあたり何もなかったみたいです。
沂水路もまだできていませんでした。

1923年には青島診療所が移ってきて、1933年に増築されるとともに青島鉄路医院と改名されました。解放後は鉄道局招待所、今は何でしょう。

いろんな要素を組み合わせた建物のようで、見どころ豊富です。

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たまたま旧ドイツ第三海軍営部は入れましたが、この通りの建物は高い塀にさえぎられて見えにくいものが多いようです。

こちらは沂水路7号のドイツ式住宅。1907年に建てられたディートリッヒ(?)氏別荘です。よく見えません。1933年には中魯銀行の頭取宅になりました。

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沂水路5号のスティック・フォース別荘はよく見えないので飛ばして、こちらは沂水路3号の石垣です。恐らく地元の石材を使って、連続アーチで美しく積んでいます。

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入り口もこんなふうに中が窺えません。
入れそうな雰囲気だったので、ちょっとお邪魔してみました。

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今は幼稚園のようですが、1903年にドイツ人が建てた別荘です。1912年にモンゴルの王族・多羅特(ドロト?)公升允の王邸になりました。升允は、清朝で陝甘総督を務めた人物で、清朝滅亡後、青島に身を寄せ、ドイツや日本の助けを借りて清朝を復活させようとしていたそうです。

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沂水路1号の旧アメリカ領事館の門です。
よく見ると細かい植物模様。
門だけでも見ごたえがあります。
建物は1912年の竣工です。

ここまでで沂水路は終わり。
向かいの青島基督教堂から、日曜礼拝を終えた人たちがぞろぞろと降りてくるところでした。

○参考資料
 『中国近代建築総覧 青島篇』、1992年、中国建築工業出版社
 竇世強・李明『画説 青島老建築』、2004年、青島出版社
 魯海『老楼故事』、2003年、青島出版社
 魯海『老街故事』、2003年、青島出版社

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2008年8月17日 (日)

青島・煙台の旅(18)青島の広西路

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青島の桟橋から中山路を少し北上、広西路を東に入ります。
中山路から青島路まで、西から東に歩きました。

広西路は、ドイツ租借時代はプリンツ・ハインリッヒ通り、日本占領時代は佐賀町と呼ばれていました。青島のドイツ期につくられた街には、結果的に1つの通りに3つの名前がつく場合があります。

まず中山路の角にある建物から。
本などでは見つけられませんが、興味をひかれたので紹介します。
中国的要素を少し加えたモダン建築という感じです。
今は青島市動物衛生監督所などが入っています。

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入り口部分を見上げると、幾何学模様と植物模様のデコレーション。

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面白いなと思ったのは、1段高くなった屋根の部分に、中国風の斗拱(日本でもお寺で使われているような)のデザインが使われていることです。地味な戴冠様式なんでしょうか。

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窓枠には花柄、面格子は中華風です。

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その南東向かいにあるのが、旧マキシムビル(馬克西姆大楼)。
ちなみにドイツ租借時代の都市計画では、この通りは3階建て、高さ18mに規制されていたそうです。
左側の浙江路側には、ドイツ人の経営するマルクスレストランがあり、ステーキやビールを出していました。右側=西側はアパートでした。

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交差点を挟んで斜め向かいの広西路37号は、旧侯爵庭院飯店です。右(東)隣は旧医薬商店。
木に隠れていますが、隅に塔が立っています。
このホテルは1910年に竣工しました。

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近くから撮った写真がこちら。
楽しげな気分になる建築です。
若い娘さんでも住んでいそう。

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でも今は青島市南区公安分局、つまり警察署です。
(造花とはいえ)花を飾ってきれいにしているのに。
1922年に警察署になり、それ以来ずっと警察署です。

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旧侯爵庭院飯店の隣には、赤い建築が3軒並んでいます。
左は既に紹介した旧医薬商店です。青島解放後、旧医薬商店には第一軽工業局が入り、新しい事務所ビルを隣に建てました。それが真ん中のビルです。そして右角は広西路27号の旧プリンツ・ハインリッヒ通り理髪店です。

この理髪店は、1905年以前の建物だそうですが、昔の写真を見ると壁面は白で、角に丸みを帯びた塔が立っています。壁の色については、旧医薬商店の色に染まってしまったようです。

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きれいな配色だと思うんですけどね。
三角破風に花柄などがあしらわれてきれいです。

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階段も古い木製のものが残っていました。

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安徽路を挟んで理髪店の向かいは、旧ドイツ膠州郵政局です。
初めは馮・提帕斯基希(フォン・ティパスキス?)社商業ビルとして建てられました。施工はドイツ・ハンブルグのF.H.シュミット社。(案内板より)
ということは、初めからの郵便局建築ではありません。
いくぶん硬い印象を受けます。

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煙台では文化財のプレートがはまっていましたが、青島では主要な建築には「歴史優秀建築」のプレートがはまっています。

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さらに東に歩いていくと、旧ユダヤ会館の隣(広西路9号甲)に旧カール・ベディガー商会があります。重ね餅型に立ち上がった壁に1903の年号が入っていて、1903年の建築と分かります。ベランダが植民地建築らしい雰囲気を出しています。

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近寄ってみると装飾はシンプル。

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ドアには植物風の模様が鉄棒で表現されていました。
彫刻は素人が彫ったような素朴さです。
壁にはスクラッチ風のタイルが貼られています。

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やがて、旧ドイツ領事館が見えてくると、いよいよドイツ租借地の中枢部。
ドイツ領事館については、翌日再訪しましたので、改めて紹介します。

広西路は特色ある建築の見られる密度の濃い通りです。

○参考資料
 『中国近代建築総覧 青島篇』、1992年、中国建築工業出版社
 竇世強・李明『画説 青島老建築』、2004年、青島出版社
 魯海『老楼故事』、2003年、青島出版社
 魯海『老街故事』、2003年、青島出版社

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青島・煙台の旅(17)青島の桟橋周辺

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青島は海岸の方から歩き始めました。
青島に関しては情報も多いことですので、簡単に紹介していきます(つもりです)。

 例えば、ヨウタロウさんが「中国・青島@建築探訪記」のブログで素敵な写真とともに青島の建築を紹介されています。ぜひご覧ください。

まず桟橋・王子飯店の西隣は、地元新聞社の青島日報社です。これは新しい建物のようです。青島のややこしいのは、ドイツがこの街を去ってからも今に至るまでドイツ風の建物が建てられ続けていることです。景観的には好ましいのですが、古い建物を見たい者には分かりにくいところです。
わずか20年足らずの統治でこの街のあり方を決めてしまったドイツに驚きます。

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青島のシンボルである桟橋は霧にかすんでいます。
当初は1893年に清朝が建設した軍用の埠頭でした。
ドイツ時代には貨物埠頭になり、1901年に拡張されています。1914年の日本による青島占領、1922年の中国返還をへて、1923年には桟橋のたもとに公園が開かれました。1931〜33年に青島市による再拡張工事が行われ、先端に中国風の回瀾閣が建てられたことで、市民憩いの場となって今に至ります。

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ところで海岸を歩いていると、紅いビブスをつけた若い人たちが、新聞を売り歩いていました。「青島早報」の四川大地震特別編集号をボランティアの大学生などが販売しているようです。義捐価格1部10元(150円)というその新聞を私も買ってみました。
100ページにも及ぶ、ほとんどカラーの新聞でかなり力が入っています。

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この写真は別の場所ですが、後で江蘇路キリスト教会の側を通りがかったとき、日曜礼拝を終えた人たちに新聞を売るボランティアの人たちを見ました。あちこちで見かけましたので、かなりのボランティアが参加していたようです。

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さて、同じく海岸通りにある青島音楽ホール。
かつての青島市大礼堂あるいは蘭山路礼堂です。
金融資本家の寄付金で1935年に建てられた青島市の公会堂です。
2006年頃、改修工事が行われて音楽ホールとして再生しました。

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桟橋前の道路は地下を横断するようになっていて、地下には土産物店が並んでいました。貝殻やサンゴ、ハリセンボンなどが売られています。懐かしい気分になります。

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海岸通りの太平路と繁華街・中山路の交差点には旧青島倶楽部の建物があります。
1911年に、クルト・ロートケーゲルの設計で建てられ、当初はドイツ軍人・行政官の倶楽部でした。1922年には青島国際倶楽部となり、各国の名士や中国の上流階級の社交場となりました。
日本の軍施設、国際倶楽部、中ソ友好館をへて、今は青島市の科学技術協会が使用しています。

なお、ロートケーゲルは、前回紹介した旧医薬商店の設計者でもありますが、ドイツ軍俘虜として日本に抑留されていた時期もあったようです。その後、中国に戻り1920年代は北京・天津・瀋陽などで活躍したそうです。

○参考資料
 竇世強・李明『画説 青島老建築』、2004年、青島出版社
 魯海『老楼故事』、2003年、青島出版社

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2008年8月15日 (金)

青島・煙台の旅(16)青島の近代建築に泊まる

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青島で迎える3日目の朝。
青島でももちろん近代建築に泊まりました。
海岸にある「桟橋・王子飯店」です。
ロケーションがよく、海を眺めながら朝食がとれます。

予約した時点でよく分かっていませんでしたが、ここはドイツ人地区のまっただなかです。

◇青島のドイツ植民地に関する参考ページ
 鳴門教育大学図書館の特別展「敗者へのいたわり」での
 立岡裕士助教授による解説「ドイツ山東植民地および青島の概要」が、
 ビジュアルで分かりやすく、参考になります。

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とくに青島のシンボルである桟橋を眺めることができるのがいいところです。ただ、今朝はあいにくの霧(霧は青島の名物らしいので、青島らしいともいえるのですが)で、霞んでいます。

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桟橋・王子飯店は、上海のドイツ・マンデル社が投資して、主楼部分が1899年に開業しました。1年余りのち、マンデル社は青島旅館業連合協会にホテルを売りに出し、1910年前後にハリー洋行が権利を取得しました。1905年から1906年にかけて建築家クルト・ロートケーゲル(Curt Rothkegel)がホテル北側にユーゲント・シュティール(ドイツ版アール・ヌーヴォー)様式の音楽ホールを設計し、5年後、今度は建築家のリヒトが同様にユーゲント・シュティール様式で王子飯店の中楼を設計しました(1912年完成という)。この中楼は1914年以前に習慣的に王子飯店旅館部と言われるようになりました。これが現在の桟橋・王子飯店です。

マンデル社が王子飯店主楼を開業して1年後、ハインリッヒ兄弟とユーゴー・クリプエンドーフ(?)は、王子飯店の西100mのところにあらたなホテルを建てました。1908年、アウグスト・パブストがこのホテルを買い、中央旅館と改称しました。1914年(ドイツ撤退)ののち、日本商人が共同で王子飯店と中央旅館を購入し、3つを合わせてグランドホテルと称しました。

この間、王子飯店には、ドイツのハインリッヒ王子を始め、ドイツ総督、貴族、商人、実業家、銀行家、宣教師、弁護士、自由旅行者、スター、政府役人、技術者が泊まり、音楽ホールは青島最初の映画館そして劇場にもなりました。
(桟橋・王子飯店の解説ポスターより)

このホテルはドイツ人にはプリンツ・ハインリッヒ・ホテルと呼ばれていました。もともとの王子飯店主楼は建て替えられて、泛海名人酒店となり、隣で営業しています。西側には1911年に立てられた西洋レストランがあったそうです。

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私の泊まった部屋はこんな感じです。今年、改装されて準5つ星にリニューアルされたらしく、私にはオーバースペックです。この部屋はたぶん下から2番目のレベル。最低レベルは窓のない部屋なので、さすがにそれはいやということで。裏側の建物なので増築部分ではないでしょうか。

私は日本から楽天トラベルで予約して495元(7500円ほど)でしたが、定価は倍ぐらいです。昨日の煙台の宿は30元だったので、15倍以上の格差。海の見える部屋は2万円以上するようです。

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ホテル内はかなりきれいに改装されています。本館の方ですが。

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例によって、他のホテルも見に行きました。 桟橋・王子飯店のある太平路から1本陸側に入った広西路31号(番地)の「紅房子賓館」が非常に気に入りました。王子飯店の音楽ホールを設計したというクルト・ロートケーゲルによるユーゲント・シュティール様式の建築です。もとは1905年に立てられた医薬商店です。

ちなみに1泊220元(3300円)〜。
次の機会にはここに泊まりたい。

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この曲線、そして窓下の格子がユーゲント・シュティール。

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壁面にはこのような植物模様のタイルがはめ込まれています。チョコレートみたい。

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同じ広西路13号にあるのがユダヤ会館の煉瓦建築です。 ユダヤ人協会、ユダヤ会館、ミレフスキー図書館がここにあり、青島ユダヤ人の活動拠点でした。青島のドイツ租借でドイツのユダヤ人が、ロシア革命でロシアのユダヤ人が大勢やってきて、最も多いときで青島に300人のユダヤ人が暮らしていたそうです。

日本は最初、ユダヤ人と友好的でしたが、第2次大戦でドイツと同盟国になってからは、ユダヤ人を圧迫し、ユダヤ会館、図書館は閉鎖されました。

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ここに「海夢賓舎」という旅館が入っています。 旅館だから安いと思います。

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楽器屋さんも入っていて、なかなか渋い広告を出しています。

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こちらにも建物の雰囲気に合わせて抑えた看板を出しています。

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正面にはベランダの空間があってちょっとだけコロニアル。 面取りした柱がちょっと変わってます。

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ベランダの内部。ちょっと面白い空間。ところどころ装飾が入ります。

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昔ながらの木の階段も残っていました。

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何か特別な部屋だったんでしょうか。入り口がものものしいです。 木彫りの玄関ドアには花の模様も。

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柱頭飾りは石で、中国風の陰陽模様も入っていました。

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味のある色合いです。 いろいろ興味深くて、ついたくさん写真を使ってしまいました。

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おまけみたいですが、ここにも旅館があります。 王子飯店から2軒向こう、太平路と青島路の角です。 建物は1899年から1901年にかけて建てられた旧徳華銀行青島支店です。設計者はシルバ。完成時の写真を見ると外側の窓ははめられておらず、ベランダになっています。 1923年から日本領事館が置かれていたこともあるそうです。 中に順華旅館という旅館があります。もしかしたら庭の中かもしれませんが。

煙台に比べると青島にはクラシックホテルもあり、近代建築には泊まりやすいといえます。

○参考資料
 『青島と山東半島』(旅名人ブックス)、2007年、日経BP企画
 『中国近代建築総覧 青島篇』、1992年、中国建築工業出版社
 竇世強・李明『画説 青島老建築』、2004年、青島出版社
 魯海『青島老別墅』、2006年、青島出版社
 魯海『老街故事』、2003年、青島出版社

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2008年7月31日 (木)

青島・煙台の旅(13)煙台の旧繁華街−朝陽街

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煙台の近代建築をいろいろと紹介してきましたが、最後に朝陽街を紹介します。「朝陽」というと「南向き」ということで、煙台山からまっすぐ南に向かう、かつての繁華街です。昨年、きれいに整備され、歩行者街になっています。

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昨年、壁の中から発見されたという「吉卜力街(GIPPERICH Street)」の石板。朝陽街の旧名だそうです。

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朝陽街から少し引っ込んだところにある旧盎斯(オンス)洋行。ドイツ系企業で、1886年に建設された木骨煉瓦造の建物です。煉瓦や屋根が中国風で、入り口や窓が洋風という折衷型です。屋根にぴょこんと出窓があるのがちょっと愛嬌。今は「芝罘画舫」というギャラリーです。

オンス洋行は清の光緒4年(1880)年創業の、煙台でも早期の外国企業かつ近代煙台最大の外国企業の一つでした。主な経営内容は、貿易、保険業、海運などです。貿易では、煙台で初めて西洋薬・医療機器を輸入しました。ドイツのフリードリッヒ、バイエル社の製品を輸入し、主な販売先はフランス・カトリックの開いたフランス医院とアメリカ・プロテスタント長老会派が開いた毓璜頂医院、それに煙台市で西洋薬を扱う薬局でした。19世紀末から1930年代まで、オンス洋行は煙台の西洋薬と医療機器市場を牛耳っていました。日中戦争前には、日本・イギリス・アメリカからも西洋薬が入るようになり、同社の扱う西洋薬は相対的に減少します。

他にドイツからは綿織物を輸入、柞蚕糸の織物、刺繍、レースなど煙台の手工業品、豚の腸皮を輸出していました。特筆すべきことは、オンス洋行は煙台で初めてピーナツの輸出を手がけた外国企業だということです。山東省東部に深く入り込んでピーナツを買い付け、ヨーロッパ各国に輸出し、煙台を世界最大のピーナツ輸出港にしました。

オンス洋行は、煙台で声望のある企業でしたが、1945年の日本降伏後、倒産したそうです。(日本とも関係が深かったのでしょうか)

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朝陽街はかつて繁華街で、とくに西洋薬の薬局が多く集まっていたそうです。オンス洋行があったことと関係があるのかもしれません。どんな商売をしていたのかは分かりませんが、華やかな建物はたくさん残っています。例えば、この建物。灰色煉瓦と赤煉瓦の組み合わせがきれいです。今は土産物店。

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これは阜民街との交差点に立つ建物。昨年、試験的に壁面の復原工事が施されています。灰色基調の壁面に白、小豆色、黒があしらわれてきれいです。現状はネットカフェ。

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2階のバルコニーを拡大してみました。うずまき模様。煙台の街並みで、模様入りの鉄製バルコニーがポイントになっているようで、あちこちで見られました。これがあるとエレガントな感じがします。

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こちらは旧福順徳銀号です。銀号というのは銀行業を兼務する両替商のことです。
簡略ではありますが列柱が並んで銀行っぽい店構えをしていますね。1930年に建てられた鉄筋コンクリート建築で、表には石材が貼られています。施工は徳成営造廠。

福順徳銀号は、1900年(清光緒26年)に梁善堂により創業されました。当初は為替商でした。厳格な商道徳をもち、商売が成功するとともに、預金・貸付業務も始めました。1930年頃が商売のピークで、大連・長春・ハルピンなどにも支店をもち、信用と競争力のある金融機関となりました。

1938年の日本の煙台侵略後は、金融市場に連合準備銀行札が出回るようになり、インフレが起こるようになって金融業は難しくなり、福徳順銀号は各地の支店の営業を停止しました。1943年には株式会社制を実施、経営を近代化し、新制中学や商業専門学校の卒業生を管理人員に採用することで業務を回復し、個人預金を多く集めました。その後、1956年に公私合営化されています。

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ドイツ風の壁を立ち上げた建物。今も医療機器を扱う店が入っています。中央は中国茶荘。

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ちょっとよそ見。これは中国の戦後建築なんでしょうか。壁面が引っ込んだところや、角のカーブなど、日本の戦後建築と共通するものを感じます。

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こちらも中西折衷風の建物。窓の下の植物風の模様が彩りになっています。

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この建物は手前が時計メーカーの旧宝時造鐘廠、奥が旧錦章写真館です。
1934年に徳成営造廠が建設した、木骨煉瓦造の2階建ての建物で、3階はのちの増築です。見た目は飾り気が少なくシンプルです。

宝時造鐘廠(時計工場)は中国初の機械式時計メーカーです。創業者の李東山は1891年、煙台で湯沸かし器の商売を始め、のち東海関の密輸押収品の競売に関わります。1892年には徳順興五金行(金物商)を創業し、金具と外国商品を商いました。1915年にはさらに煙台で同志ガラス工場と宝時造鐘廠を創業しました。宝時造鐘廠については、徳順興五金行で日本の「地球馬」ブランドの置き時計と部品を扱っていたことから、そこに商機を見いだしたものです。

宝時造鐘廠が時計開発に成功したのは、唐志成という人物の功績です。もともと彼は時計とガス灯修理の仕事で徳順興五金行と取引がありました。彼は工場長兼技師として「地球馬」置時計を分解して構造を研究し、李東山は何度も大阪の地球馬時計工場(名古屋の尾張時計株式会社?)に赴きました。李東山は設備購入を名目に、生産現場を視察しては目に焼き付け、工員に飯を食わせて話を聞き出し、鍵となる技術は金で買うなど技術を盗んで唐志成に伝え、1918年に初めて「宝」印の機械時計を製造しました。1920年には「地球馬」時計をモデルにムーブメントの製造に成功します。銅材・鉄板・鋼線・ばねを日本やドイツから輸入する以外は、自社製造するようになりました。また、ヨーロッパの時計をモデルに掛時計の製造も始め、外観は中国風のアレンジを施しました。1928年に始まった日貨排斥・国産奨励の愛国運動に乗り、またコスト削減、品質向上、永久保証により生産・売上を伸ばし、東北市場から日本の「鹿印」、「地球馬」、「地球象」などのブランドを駆逐しました。

1927年には多くの工員が宝時造鐘廠から分かれ、煙台で永康造鐘無限公司(「永」印)を設立しました。永康は南方諸都市や南アジアに販路を求めました。この時点で中国で時計製造をしていたのは煙台だけでした。国民政府のお墨付きを得て、販路は北は東北各省から南はベトナム・ミャンマー・シンガポール・南洋群島まで広がり、宝時・永康両社の年間生産量は3万個に達しました。1931年には宝時造鐘廠は、徳順興五金行と合併、徳順興造鐘工廠となります。この時点が最盛期で工員500余人、年間生産量5万5000個以上。同年、煙台で盛利造鐘工廠(「盛」印)が創業します。

1931年に満州事変が起こり、日本が東北三省を占領すると、徳順興は南方に販路を求めました。1932年には永業造鐘廠(「業」印)、1933年には慈業造鐘廠(「慈」印)が煙台で創業しています。徳順興は業績好調を背景に1934年に朝陽路新工場(この建物)、1935年に金城電影院を相次いで建てます。1936年には全国初の目覚まし時計、14日振り子時計の開発に成功しました。

1937年の盧溝橋事件後は、他の民族工業同様、休業に追い込まれます。1939年に復活したものの、工員は少なく、オンス洋行が煙台を去ったため原料調達にも事欠きました。徳順興の資産は日本傀儡政権に目を付けられ、様々なやり取りの末、1944年、李東山・唐志成は失意のうちに引退、工場を息子の李典章・唐紹祥に譲りました。1945年の日本投降後、唐志成と李典章・唐紹祥は上海に去り、時民鐘廠を創業します。煙台の徳順興は共産党の支持で生産を回復しますが、1946年、李東山は73歳で世を去りました。

宝時−徳順興の中国時計産業に与えた影響は大きく、その出身者が1932年以降、天津、青島、瀋陽、丹東、上海、北京など各地で時計工場を立ち上げました。その始まりが、この朝陽路なのですから、とても意味のある場所です。

なお、錦章写真館は1935年の開業で、コダック社のカメラを扱って好評でした。

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旧宝時造鐘廠の建物のタイルです。皮膚のようなしわのあるタイルが使われています。

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旧宝時造鐘廠の斜め向かい、金城電影院の向かいにある、この立派なマンサード屋根の建物は、1930年に着工、1933年に開業した旧南洋大薬房(薬局)です。これが薬局なの?という感じですが。

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朝陽路の南端、北馬路の交差点に立っているのは、鉄筋コンクリート造の旧金城電影院(映画館)です。最近まで新中国電影院として現役の映画館だったようですが、今はネットカフェになっています。

金城電影院は、当時唯一の外国人経営、外国映画上映の映画館でした。1934年に、上記の徳順興の李東山が投資、徳成営造廠が施工して建設されました。最初は300席だったのが、のち増築して800席にもなっています。3列ソファシート、暖房、扇風機まで備えていました。ハリウッドのパラマウント映画などを上映し、とくに「ターザン」「Rescued by Rover」(名犬もの)が好評だったとか。観客の多くは、外国企業の職員、イギリス・アメリカ居民、アメリカ海軍の避暑中の官兵、税関・銀行職員など。チケットが高くて一般市民には手が届きませんでした。

1938年に日本が煙台を占領するとこの映画館も接収され、中華電影院と名を改め、満州電影株式会社の映画を上映するようになりました。

1945年に煙台が共産党に解放されると「燕台劇団」の劇を公演するようになりますが、1947年の国民党軍の占領で解散、閉鎖。1948年に煙台2度目の解放により「新煙台電影院」と改名されますが、上映のないまま1949年に休業。1950年に映画館職員が自発的に「新光電影院」と改名して復活、さらに「新中国電影院」として1951年に開業してからは近年まで営業が続いていました。・・・という経過をたどるそうです。惜しい。

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旧茂記洋行にも共通する天に伸びゆく摩天楼のようなデザインが特徴的です。今感じる以上に鮮烈な印象だったんでしょうね。

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同じデザインがミニチュアで通用口に繰り返されているのが楽しいです。


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さて、細々と煙台の近代建築を通りごとに紹介してきましたが、今回の旅ではここまで。ただ、紹介したのは中心業務地区だけなので、この他にも住宅や学校、教会などがあります。煙台をお訪ねの際、時間がありましたら、ぜひそちらの地区もご覧ください。

あと2回ぐらい、近代建築以外の煙台の街を紹介します。

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2008年7月27日 (日)

青島・煙台の旅(12)煙台・東太平街

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煙台の海岸街の東の端は海で、そこから南に東太平街が伸びています。
その最初にあるのが旧イタリア領事館です。イタリア領事館のできたのは、煙台の領事館では最も遅く、1906年です。鉄筋コンクリート造の2階建て。
ぽこっと半円の車寄せを4本の円柱で支え、明るくメリハリのある建物です。今はレストランになっています。

ここで煙台の領事館についてまとめると、煙台に領事を置いた16か国のうち、イギリス、ドイツ、デンマーク、アメリカ、日本、ロシア、ノルウェー、スウェーデン(あるいはフィンランド)、イタリアが領事館専用の建物を建て、火災で焼失したドイツ以外の8領事館は現存しています。すごいことですね。ドイツはのちに盎斯洋行に領事館を復活させますが、それは残っています。
また、フランス領事館(1901年〜)は、煙台山のカトリック煙台教区主教府(1960年代に解体)内で、オーストラリアハンガリー帝国領事館(1902年〜)は、張裕公司(ワイン製造業)の中で執務を行いました。
オランダはドイツが代理、ベルギーはフランス・日本が代理、フィンランドはノルウェーが代理、朝鮮はフランス・日本が代理、スペインは朝鮮代理領事が代理・・・していたそうです。

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東太平街はまさに改修の真っ最中。
こちらは旧東太平街カフェー(カフェというよりカフェーと言った方が雰囲気に合います)。
1920年代の初めに建てられ、カフェスペースはもちろん、ダンスフロアも備えていました。

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入り口上部の花のような桟や装飾、2階バルコニーの繊細な模様など、華やかな雰囲気が漂っています。海岸近くの一等地ですので、カフェとして復活することを期待したいところです。

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さらに近くには旧東太平街ダンスホール。
1920年に建てられた鉄筋コンクリート3階建ての建物です。施工は徳成営造廠。壁面は花崗岩で化粧され、アーチ型の窓が並び、2・3階には繊細な金属製フェンスをもつバルコニーが付いています。玄関頂部の家型飾りはちょっと中華風の雰囲気も。
1階はレストラン、2階はダンスホール(ダンスフロアと舞台)、3階は職員宿舎でした。

煙台の賑わいを体現するダンスホールでしたが、その活躍は戦後も続きます。1945年には煙台市政府大礼堂(ホール)となりました。1947年に連合国の米国籍運転手が人力車夫を事故死させた事件では、ここが臨時法廷になり、アメリカ側が罪を認め、治外法権を覆した初めての事件として記憶されています。
1950年に中ソ友好条約が締結されると、同年、煙台市に中ソ友好協会が設立されました。毎週土曜の晩にはここでダンスパーティーが開かれ、煙台に支援に来たソ連の専門家が招かれました。中ソ蜜月時代の一コマです。

なお、東太平街は、太平街とともに妓楼が集中する通りでした。それも外国人向けの最も高級な妓楼が集まっていました。今は寂しい通りですが、往時のカフェーやダンスホールなどから、通りの華やいだ雰囲気を感じることができます。

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さてそこからちょっと裏道を朝陽街の方まで歩いてみました。
裏道に入ると急に中国風の通りが現れます。

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改修中の道で遊ぶ犬たち。なぜか煙台で見かけるのは犬ばかりで、猫は見かけませんでした。

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ここの通りは老電報局街(建徳街)にあたるのかなと思いますが確信がありません。
2階建ての建物が並んでいます。ここの通りも改修中で、工事が終わればかなりきれいになるのではないでしょうか。

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2階部分には華麗な鉄製のバルコニー手すりがあり、昔は華やいだ雰囲気があったことがうかがえます。

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雨戸は青く塗られていて、裏から点描で模様が打ち出されています。
ここも改修に期待したいところです。

朝陽街と東太平街を結ぶこの通りも、昔は人波が絶えなかったのではないでしょうか。

Dongtaipingjie

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2008年7月26日 (土)

キャラバシ園(高石市)

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高石市の伽羅橋に異色の郊外住宅地「キャラバシ園」があると知り、見に行きました。
ぷにょさんが「まちかど逍遥」でレポートされていて、かなり重なってしまうのですが。写真はそちらをご覧ください。

キャラバシ園というのは、伽羅橋の素封家・山川家の山川逸郎が大正後期に開発した住宅地です。
キャラバシとカタカナにすると異国の雰囲気ですが、そのイメージ通り、洋風の街づくりでした。

まずは南海高師浜線の伽羅橋駅を起点にします。この線自体、長兄の山川七左衛門が敷設に努め、大正7年に伽羅橋駅まで開通した線だそうです。上の写真のように小さな駅前広場があり、向かいには高石教会があります。こちらも七左衛門が関わっています。

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左に折れて歩いていくと、すぐに大きな洋館が目に入ります。
登録文化財の赤木家住宅(旧飯井定吉邸:大阪の老舗料理店の家)。大正14年に山川逸郎が設計したコテージスタイルの木造2階建て住宅です。平成17年に修理されたばかりなのできれいです。

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門柱なども石を丁寧に貼り込んで作られています。
広々した玄関ポーチが見事だそうですが、塀が高くて窺えません。

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キャラバシ園の跡自体はすぐに分かりました。
三角形の街区がありますが、ここはもと庭園広場で、周りに十数棟の洋風住宅が建ち並んでいたそうです。庭園広場には噴水、植栽、街灯、ベンチ、それに温室があったそうで、モダンな街並みだったようです。残念ながら今はその面影はうかがえません。

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ただ、こちらの和風住宅のセットバックした前庭に、ガーデンシティの精神の名残をみることができるかなと思います。

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多少、古そうな住宅として、北の方にあるこの赤い屋根の住宅があります。

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あるいはこちらの同じく赤屋根の住宅。
当時の写真にみるコテージスタイルの洋風住宅とはかなり違いますが。

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また古そうな工場の建物もありました。重々しい木の扉です。
ちなみに駅前にはカステラの銀装の工場もあります。
ただの住宅地ではない一面も。

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山川逸郎自邸が残っているという情報があり、探し回ってようやく見つけました。駅前を右に行ったところだったので、分かりにくかったのです。
こちらも非常に状態がよく、きれいです。

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山川逸郎は大正6年に自動車研究のために渡米、大正8年に帰国し、最初に建てたのがこの自邸だったそうです(大正9年竣工)。前面に突き刺したように煙突が立っているのが風変わりに思います。

山川逸郎は続いて、キャラバシ園の計画に入り、大正12年に第一期工事が完了しました。
しかし、昭和に入ってからは彼の住宅への関心は薄れ、キャラバシ園も幻となってしまったのが惜しまれます。

○参考資料
 山形正昭「赤木家住宅と「キャラバシ園」について」

○関連ブログ
 「たかいしかいわい」キャラバシ園
 「まちかど逍遥」伽羅橋〜高師浜の洋館 その3

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2008年7月25日 (金)

浜寺昭和町1〜3丁の住宅(堺市)

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浜寺公園を北に抜けた後、浜寺住宅地の中をぶらぶらと歩いてみました。住所でいうと浜寺昭和町1〜3丁です。浜寺住宅地で最初に開発されたのは、浜寺昭和町4〜5丁の濱寺土地(株)経営地(大正7〜10年)で、1〜3丁はそれより後の開発です。

まず最初に遭遇したのは福音交友会・昭和聖書教会です。
郊外住宅地に教会はよく似合います。この教会は1963年にできたようです。

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その隣にはスクラッチタイルの門柱。これは。
教会関係者の住宅のようです。M家住宅。昭和4年(1929年)に錦華紡績社長の佐藤進自邸として建築されたそうです。木造で施工は竹中工務店。敷地は846坪もあるそうです。全体がよく見えません。
この蔵のような鎧戸は何なんでしょう。あるいは母屋の一部を蔵としていたのでしょうか。
(「大阪府の近代化遺産」参照)

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ほとんど白一色に塗られた建物ですが、ハーフティンバー状の浅い突出部が見られます。元は違った色づかいだったのかもしれません。

福音交友会の記録をみると、1949年に「浜寺昭和町一丁の土地・建物購入、宣教師住居並びに浜寺聖書教会堂として使用」と書かれていますので、一時、教会にも使われていたのではないでしょうか。

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その隣も近代建築です。ジグザグの壁面が印象的なこの建物は大正15年(1926年)のS家住宅。施主は元大丸の社長さん。ヴォーリズ風の木造住宅で、施工は竹中工務店。設計者はヴォーリズかも?と記されています(「大阪府の近代化遺産」)。見た目もさることながら、各室にラジエーターが配され、給湯設備もあって、設備が近代的だったようです。

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門構えは比較的シンプルです。

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裏に回ると、物置風の建物も古そうなものが残っていました。淡いブルーの縁取りも、地面から50cmぐらいスクラッチタイルを貼ってあるのも、建物本体と統一感があります。


(ここから追記)
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浜寺昭和町1丁についてはかなり見落としがあったので、まちかど逍遥の「浜寺公園の洋館めぐり」を参考にまとめて見てきました。
上記の建物の並びなのになぜ見落としたんでしょう・・・

まず南海・阪堺電車からも見えるK家住宅(またはO家住宅)。昭和21年(珍しい)の戦後建築です。
頭の大きな屋根にドーマーウィンドウ(屋根窓)。
この写真は裏の南東側からです。

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その東にあるU家住宅。
旧鶴巻邸を連想させる半円の出窓付き住宅です。
北側の窓という窓にステンドグラスがはまっています。
昭和13年の建物。

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実は同じU家住宅の和館部分らしい。
その洋館付き部分(複雑)。

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昭和聖書教会の隣にある、不思議な形をした住宅。
分厚い本を開いたような。
しかもジグザグの平面です。

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昭和聖書教会の斜め向かいにある住宅。
窓の桟が立木のようで面白いです。

(追記ここまで。2009.5.22)

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さて、住宅地を歩いているとあちこちに古い住宅地の風情を感じます。例えば、これは小さな水路の小さな橋だったのでしょうが、ちゃんと橋名の入った親柱があります。

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窓の格子。木製です。窓枠も木製で、落ち着きがあります。

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側溝は両側とも、2列ずつ石材(たぶん花崗岩)を敷いていました。ちょっとしたことですが、味があります。

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木の表皮を活かした渋い木戸。銅製の金具も、モダンデザインの門柱もかっこいいです。ちなみに表の門も同様の木戸2枚でした。建物にも期待するところですが、生垣が完璧で中をうかがえませんでした。

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そして、こちらが差し当たっての目標物だった、近江岸家住宅。設計はヴォーリズ建築事務所、です。見比べると先ほどのヴォーリズ風とヴォーリズではだいぶん違うようにも思います。3本ラインがクール。

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この建物は三角形の敷地に建っていて、その三角部分が庭で柵が低いので、裏からよく眺めることができます。

近江岸家住宅は、昭和10年(1935年)に建てられた木造住宅で、国の登録有形文化財にも指定されています。
浜寺昭和町3丁で、濱寺土地(株)開発地とは隣接しています。

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とくに側面からはじっくりと眺めることができます。
スパニッシュの明るい雰囲気で、表にも裏にもテラスがあり、のんびり庭を眺めていたら別荘気分が満喫できそうです。なんとも美しい。見飽きない。歩き疲れもとれました。

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(追記)後日、3丁を再訪したときに、東の方(内陸側)で古そうな住宅を見かけました。

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凹んだダイヤモンド型の換気口と鷲(か鷹)のエンブレムが光っています。
この鷲?は車輪に乗っているようにも見えるのですが、どこかの社章でしょうか。(2009.5.24)

この浜寺昭和町1〜3丁では、古い住宅は海岸寄り、線路寄りに多いようでした。
後で電車から気付いた住宅もあります。
見落とした住宅もそうですし、いずれ、浜寺昭和町4〜5丁も探訪しに行ってみようと思います。

○関連記事
 「浜寺昭和町5丁の住宅」
 「浜寺昭和町4丁の住宅」


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2008年7月24日 (木)

青島・煙台の旅(11)煙台・海岸街の東側

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再び煙台山の入り口に戻り、今度は海岸街の東側を歩きます。
朝陽街の北口に、旧克利頓飯店と向かい合っているのは、旧順昌商行です。現在は好望角大酒店というレストラン。残念ながら今のところ詳しい情報が分かりません。一等地ですし、角に正面を向けて派手に見せていますので、それなりに格のある会社なのでしょうが。

クリーム色に小豆色という色づかいで、向かいの克利頓飯店に負けていません。

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その隣にあるのは小さいながら、旧フィンランド領事館です。1930年に建てられた木骨煉瓦造2階建ての建物。煙台山に土地を確保できなかった領事館がこのように海岸街などに事務所を構えています。フィンランドは1904年に煙台に代理領事館を置き、ノルウェー領事が代行していましたが、1932年にここに領事館を置きました・・・というとその前は何だったんでしょうね。この建物を旧スウェーデン領事館としている資料も多いのですが、煙台市のプレートがフィンランド領事館なので、そちらを採用しました。

いい意味で素朴ながら、赤い縁取りがおしゃれです。

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その隣も領事館で、旧ノルウェー領事館。
こちらはもっと民族色があります。1904年に建てられた木骨煉瓦造2階建ての建物です。16世紀のヨーロッパ民家建築の様式だそうです。2階の小豆色の家型突出部分が目立っています。独特ですね。

煙台では1864年にノルウェー・スウェーデン領事館が設置され、1906年にノルウェー領事館として独立しました。1909年以前の絵はがきによると、この建物がフランス郵便局であったこともあるようです。1941年にこの建物は日本軍に差し押さえられています。

今は煙台料理のレストラン。2階席があったら入りたい。

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2階部分に注目すると、小窓があって、鳩時計でも仕掛けられてそう。
小窓の周りの色ガラス、窓を幾何学的に分割する桟、軒下の雲形模様などなど、いろいろ細かい見どころがあります。てっぺんから筆のようなものがぶら下がっているのは、日本の明治建築でもあったなあと思ったり。

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ちなみに床下換気口のグリルも覗いてみました。円を多重に重ねたデザインです。あまり国ごとの違いを感じません。

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お隣は由緒不明の建物。山型の飾りが2ヶ所、2階バルコニーも2ヶ所あって、舞台セットのような建物。結構細かく飾ってます。今は貝殻細工などの土産物店2軒に電話屋さん(?)

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2つ飛ばしてこちらは、見た目にはあまり特徴がない建物です。
旧信豊股份有限公司。煉瓦・石造の2階建てです。1910年に建てられました。

信豊股份有限公司は、民族資本の先駆的な貿易会社です。1908年に李明軒・李虹軒兄弟によって創業され、国外に手工芸品や煙台の特産品の輸出を行っていました。煙台の名だたる商人たちが株主として名を連ねていたそうです。1913年までは、主にレースや刺繍、麦わらひもの輸出をしていました。1914年から業務を拡大、ニューヨークやロンドンの商家に向けて、煙台の中国企業としては初めてヘアネットの輸出を始めました。当時4つのヘアネット工場を持ち、梱包・検査要員だけで1000人以上も抱えていたそうです。1916年から24年まで、同社は煙台でラグとじゅうたんの製造工場を経営し、北京・上海・天津などに支社を持つようになりました。

この左の工事囲いの部分には、『中国近代建築総覧・煙台編』掲載の物件があったのが取り壊されたようです。もっとも出版から20年経ってもあまりなくなった建物はありません。

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その向かいにあるのが煙台でも派手な建物といっていい、旧芝罘倶楽部です。英米人の娯楽場所として1865年に創建されました。最初は平屋です。1867年には外国総会がここに置かれました。外国総会は工業製品の輸出入関税の縮小と撤廃、煙台市の都市インフラ建設(例えば防波堤)などに関わりました。

1906年と1914年に増築、1931年にも煙台市キリスト教葡萄山教会の牧師・カーナイト?の設計、徳成営造廠の施工で増築が行われて現在の規模になりました。木骨石造の地上3階・地下1階の建物で、イギリス風の建築です。北側部分(写真では右側)は1階がバーなどの活動室、2・3階が客室等で、娯楽施設にはコリントゲーム室(パチンコに似たゲーム)などがあり、地階にはビリヤード場のほか、中国で初めて(1870年)のボーリング場があったそうです。南側部分はダンスホールでした。倶楽部ではほかにテニス場、海水浴場も備えていたそうです。

芝罘倶楽部は様々な近代外交史の舞台になり、1895年には下関で調印された下関条約がここで交換されました。1941年には日本軍によって差し押さえられたそうです。1945年、煙台に上陸しようとしたアメリカ海軍との交渉もここで行われました。

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海岸街に接する部分が最もモダンなデザインで、ここが1931年の増築部分かなと思います。

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1階にはカーブして広く取られた窓、2階には広いテラス、海を存分に眺められるつくりになっています。

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芝罘倶楽部の目の前はすぐ海です。
非常に開放的なロケーション。

旧芝罘倶楽部は、数年前まで煙台山賓舘一号楼としてホテルに使われていましたが、ホテルが経営破綻したため、今は使われていません。もったいない。今は誰の所有なのかよく分かりませんが、うまく活用してほしいところです。

○参考文献
 「同行網 感受煙台・煙台近代建築掠影」
 「山東省情網」
 「煙台市情網」
 「走進芝罘」
 『中国近代建築総覧・煙台編』ほか

Haianjiee

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2008年7月21日 (月)

青島・煙台の旅(10)煙台の旧金融街-海関街

※ご注意
 このブログには、山東省えんたい国際かいうん公司に関する情報は載っておりません。

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煙台山西路の階段を下ってくると、道はそのまま海関街につながっています。海関は税関ですので、「税関通り」ということ。この南北の道の西側は港湾地区で、海関街は銀行の並ぶ金融街の様相です。

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海関街の北端に建つのは旧アメリカ海軍YMCAです。1866年に煙台駐在のアメリカ領事は、ここに海軍基地を置くべきだと進言し、1874年からは夏になると毎年のように米国アジア艦隊がこの煙台に「避暑」にやってきました。このYMCAは、1921年に米兵の娯楽の場として建てられたものです。

構造は木骨煉瓦構造の2階建て。アーチ型の5つの窓がシンメトリーに配されています。今は埋められていますが、元はベランダだったようです。

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このアメリカ海軍YMCAの前から南を見ると映画のセットのような街並みです。
順に正面写真を紹介していきましょう。

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立派な飾りの円柱が並ぶ建物。最上部にはアールデコ風の天に伸びるような飾りも付いています。

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こちらは角柱で、煉瓦色の壁面と白い庇の対比が印象的。
今はバーになっているこの建物、かつての交通銀行煙台支店です。交通銀行は1908年に北京で設立された半官半民の銀行で、各地に支店を持ちました(今もあります)。煙台支店は1910年に設立され、一般の銀行業務以外に、紙幣の発行権を持ち、関税の収納も行っていたそうです。1932年には貯蓄部を開始し、国際為替業務を発展させ、地域の農工業に貸付を行ってきました。1938年の日本の煙台侵略後に差し押さえられ、一度は再開業しますが、1941年に日本の設立した中国連合準備銀行に吸収されたそうです。

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ピンク地に赤の派手な配色。おもちゃの家のよう。今はカラオケ店です。

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こちらは円柱と角柱の組み合わせ。星のマークは新中国になってからでしょう。
これらも雰囲気的に銀行なのかななどと思うのですが何の建物だったのかは分かりません。

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同じ建物の玄関部分。植物模様の面格子がはまっています。

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次の建物は雰囲気が変わって大型の鉄筋コンクリート2階建て建築です。基壇部分には煙台の花崗岩・毛鼓石が使われています。

この建物は旧士美洋行といって、ロシア系企業が1930年に建てたものです。施工は徳成営造廠。士美洋行は1894年の創業で、初期の主要業務は金融業でした。露清銀行(のちロシア・アジア銀行)の煙台での代行業務を行い、のちに船舶、保険、輸出入なども行うようになりました。煙台でも歴史のある外国企業の一つです。1908年からはシルク、ヘアネット、レース、麦わらひもの輸出も手がけました。士美洋行は創業初期から成功を収めていましたが、シベリア行きのクーリー貿易に従事していた負の側面もあります。創業者のスミス亡き後は、夫人が経営を引き継ぎ、ロシア・フラント社の業務や英国火災・生命保険会社の業務を代行したそうです。しかし、1938年には日本軍によって差し押さえられました。

この士美洋行の南に中国銀行煙台支店があります(写真なし)。1913年の建築と推定される鉄筋コンクリート2階建ての建物です。当時の金融業では最新式だったそうです。中国銀行は旧中国四大官僚銀行の一つ(今もあります)で、前身は1905年に設立された戸部銀行、1908年に大清銀行と改められました。煙台の大清銀行は1911年の辛亥革命で襲撃され業務を停止、1912年には大清銀行が北京で官民合弁の中国銀行に改組され、1913年には煙台でも中国銀行煙台支店が成立しました。中国銀行地名兌換券を発行し、国債を取り扱い、約束手形を発行し、山東省東部各県の各種税金を収納していました。1928年からは国際為替も扱い、金銀や各国通貨も売買しました。中国銀行は業務の近代化を推し進めることで、煙台の金融業で首位の座を獲得しました。
しかし1938年、中国銀行煙台支店も日本軍侵攻により接収されました。

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向かいにあるのはコロニアルな旧滙豊銀行芝罘支店です。
滙豊銀行は1921年に英国香港滙豊銀行(今の香港上海銀行)が設置した支店で、煙台の金融市場をコントロールし、関税・塩税両税の特権を持ち、中国向けの貸付を行っていました。中国の賠償金と鉄道租借金の収納も取り扱っていたそうです。通常の貯金、保険、為替業務も行っていました。
この支店も1941年に日本軍により差し押さえられました。

この滙豊銀行芝罘支店の建物は1920年に徳成営造廠によって建設されたとされます。形式的にはもっと古そうなんですが。木骨煉瓦構造の建物で、前面には煉瓦造のアーチのベランダがあります。

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ベランダの中から眺めるとこんな感じです。
海関街のうち、このあたりまでは滋大路という呼び方もされています。

旧滙豊銀行と道をはさんで南側の角は山東商会会館(写真なし)。
1931年に建てられた鉄筋コンクリート3階建ての建物です。

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さらに南に下ると旧英国商・ブルンナー・モンド洋行の建物があります。全面に花崗岩・毛鼓石が貼り付けられている渋い建物です。

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入り口はこんな感じ。
ブルンナー・モンド洋行は煙台では1912年に設立され、ソーダや化学肥料、農薬などを扱っていた会社のようです。ブルンナー・モンドは最近まであって、2005年にインドのタタ・ケミカルに買収されました。

このあたりに旧敦和洋行の建物もあるそうなのですが、特定できませんでした。赤瓦の寄せ棟屋根で2階建て、煉瓦・石造の建物らしいのですが。ひょっとしてこのブルンナー・モンドの建物? 敦和洋行は英国企業で、シルク・レース・刺繍・ヘアネット・くずシルクを輸出し、イギリスの布・革靴底など各種雑貨を輸入していたそうです。火災保険と海上保険の代理店もつとめ、1928年以降は麦わらひもの輸出、ブンタール帽の製造輸出も始めました。

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ブルンナー・モンド洋行の向かいにはこの3階建ての建物。
左右が張り出し、海関街の北の方にあった建物と似ています。

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今は昌鑫茶坊というお茶屋さんですが、元々何だったかは不明です。開いていれば、お茶をしたかったのですが。

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そしてこれが旧東海関税務司公署つまり税関です。これ以上近寄れませんでした。
1862年に莱州から登莱青道署 兼 東海関が移ってきたのが、煙台の開港です。1863年に着任したイギリス人の税務司令官ハンナム?は最初、世昌洋行に間借りしますが、1866年にこの建物を建てて移りました。同時に税関埠頭の建設も行っています。1876年の煙台条約はこの場所で調印されました。1937年まではイギリス人が税関の職務を握っていましたが、1938年には日本軍の手に移りました。

木骨煉瓦造の2階建てで、外観は中国風にも見えますが、内部は洋風だそうです。公開していないのが残念です。

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税関の向かいにあるのは旧岩城商行。日本の会社です。
1910年、順泰街の角に建てられた、煉瓦・石造2階建ての建築です。

岩城商行は、唐津出身で32歳の岩城氏が1902年に煙台で興した会社です。岩城氏は石炭の商売を広げるため煙台にやってきました。彼はまず朝陽街に事務所を置き、ほどなく煙台の石炭貿易の70%を押さえるまでになりました。19世紀末に青島が開港すると、岩城商行はただちに青島に業務を広げ、1906年、青島にも岩城商行を設立しました。5年後には青島での商売が煙台を大きく上回るようになったため、本部を青島に移し、日本の若松、神戸、中国の旅順にも支店を設立しました。また海運と船具業にも進出しました。1913年に煙台岩城商行は3600tの瑞穂丸と4600tの催暁丸の2隻の汽船を買い、6隻の汽船を借りて、煙台−香港、煙台−丹東、煙台−日本の航路を開きます。しかし、第一次大戦後、1919年以降の経済状況は経営に大きな打撃を与えました。

1926年、高見社長のもと経営改革が進められ、これ以後、会社は高見家の手に移りました。経営範囲は広く、海運、保険業を包括し、輸入貨物はセメント・石油・銅・金属製品・砂糖・小麦粉・ガラス・ソーダなどで、岩城商行は煙台の輸入貨物の70%以上を扱っていました。
その岩城商行も、1945年、戦争が終結すると資産を差し押さえられてしまいました。

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順泰街で岩城商行の東隣にあるのが恐らく旧政記輪船公司です。
政記輪船公司は中国人の張本政・張本才兄弟によって1905年に設立された会社で、20世紀初頭の華北地区で最大の海運会社です。建物もこのときのものといいます。

張本政は、日露戦争でロシア人から資産を預かったり、日本軍に協力して物資輸送を行うことで元手を手にし、1000tの汽船1隻を丹東・煙台・大連の間で定期運行することから事業をスタートしました。やがて船と航路を増やし、丹東・大連・龍口に支店を置き、1911年には8隻の汽船を保有するに至りました。1914年に第一次世界大戦が勃発するとヨーロッパ系の船会社が船を引き払った機に乗じて持ち船を増やし、第一次世界大戦が終わる頃には、貨客汽船15隻を持つ華北海運業で首位の会社になっていました。その頃には上海・天津・香港・青島・広州などに支社を設立し、航路も渤海・黄海を出て、日本や東南アジアにまで達しました。

1920年には煙台政記輪船股份有限公司に改組し、さらに飛躍しました。この時期、煙台の電力業・金融業に投資しています。また大連にドックと金物業、船舶修理機械工場を設立、3000t以下の汽船の修理と大型船舶の検査能力を持つようになりました。この頃、3000t以上の大型汽船をシンガポール・サイゴン・ハイフォン(ベトナム)・スマトラ等に航行し、それより小型の船を大連・安東・煙台・威海・青島・龍口・天津・広州・香港の間で運行しました。全て貨物船です。

1923年には会社を大連に移します。汽船21隻を保有。1930年前後には30隻の汽船を全国の沿海で活動させていました。広東沿海では総t数の75%がこの会社の船だったといいます。この時期には貨物の他、客運も手がけるようになり、金融・商工業・不動産・公共事業にも進出しました。

1931年に満州事変が起こり、日本軍の東北侵略が始まると張本政は日本軍の軍事輸送に協力、さらに会社を大きくします。日中戦争でも日本軍の輸送に協力しますが、アメリカの航空機や潜水艦の攻撃で14隻の持ち船を失い、1945年の戦争終結とともに会社は倒産、張本政は漢奸として処刑されました。

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順泰街では街路の改修工事が進行中でした。
この通りの朝陽街との角には、日本の三井洋行も煙台出張所を置いていたといいます。

○参考文献
 「同行網 感受煙台・煙台近代建築掠影」
 「山東省情網」
 「煙台市情網」
 「走進芝罘」
 『中国近代建築総覧・煙台編』
 『旅名人ブックス 青島と山東半島』ほか

Haiguanjie

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旧堺燈台の内部公開

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堺の大浜公園を見に行ったついでに旧堺燈台にも足を伸ばしました。別に狙って行ったわけではないのですが、運の良いことに海の日記念で7月20日(日)・21日(月)と内部公開をしています。詳しくはこちら

西日で見にくいですが、これが堺燈台です。
遠くにシャープ堺工場のクレーンも見えます。

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昔は海に突き出していた燈台も、今は囲われているようです。
基台部分は波を切るためにやや複雑な形をしています。堺港の整備ともども備前の国(岡山県)の石工・継国真吉によるものだそうです。木造の燈台本体の工事は、堺の大工・大眉佐太郎によるそうです。
旧堺燈台は明治10年(1877年)に建設され、昭和43年まで現役でした。
引退後も堺のシンボルとして大事にされてきましたが、老朽化のため、平成13年度から18年度まで保存修理工事が行われました。
(以上、堺市の紹介による)

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明治のデザインらしく飾りがあって、ゆるいカーブの屋根に軒下の飾りと、鬼瓦の位置に花とも孔雀ともつかないものが乗っかっています。燈台全体が小ぶりなこともあって親しみやすい雰囲気です。荒海の燈台ではないのも理由でしょうか。

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1階部分の床は石の基台そのままです。柱は基台に2m刺さって燈台を支えているそうです。

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壁の構造はこうなっています。クロスして太い筋交いが入っています。その下にかわいらしい上げ下げ窓。窓からの風が気持ちよかったですよ。

白いペンキ塗りで、わざわざ木目が描いてあるそうです。私にはよく分かりませんでした。

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天井を見上げたところ。
この2本の柱は、もともとの柱ですが、傷みが激しいために使われなかった柱です。置いてあるだけ。

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入り口の木戸もおしゃれなものが付いています。

中に入れる機会は少ないので、この機会にどうぞ!

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2008年7月19日 (土)

青島・煙台の旅(8)煙台山の建物−3

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煙台山灯台を降りると、煙台山の東側に回ります。
煙台山の東側はイギリス領事館の建物が占めています。煙台山の3分の2はイギリス領事館の敷地でした。

まずは旧イギリス領事館附属建物。1864年に建てられた煉瓦・石造(屋根組は木造)の平屋で、3面をベランダが取り巻いています。このようなベランダはアジアでは初期の例だそうです。赤屋根、白壁に緑の欄間様の飾りが涼しげ。

鍵の博物館なのですが、開いていませんでした。

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裏側に回ると灰色煉瓦が表に現れた壁で、印象が変わります。もちろんイギリス積み。軒の部分まで煉瓦をせり出しながら積んでいます。窓が縦長で小さいので、煉瓦の印象が強いです。

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床下換気口のグリル。やや垢抜けない印象を受けます。

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同じ敷地に建つ、附属建物の附属建物。こちらはアーチ窓なので、柔らかい印象です。

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こちらは旧イギリス領事館領事官邸です。構造は煉瓦・石造(屋根組は木造)の平屋です。1867年に徳成営造廠により建設されました。この建物も一部ベランダがあります。このベランダは先ほどの建物同様、ジョージア式だそうです(アーチ状になるとビクトリア式)。外壁は漆喰塗りの方が鮮やかな気もします。

イギリス領事館は煙台の領事館第一号です。1861年に領事館を設立して以来、1937年に至るまで、イギリス領事が煙台外国領事団の首席領事を務めていました。それにしては、建物は当初のままであっさりしている気もしますが。イギリス領事館は1941年の日米開戦翌日、日本軍に差し押さえられました。

今は黄金石文化会社の看板がかかっています。

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さらにもう一つの旧イギリス領事館附属建物。19世紀半ばの建物です。木骨煉瓦造の建物。同じくベランダがありますが、屋根を支える柱が2本組の細い木柱なので、太い角柱が並ぶ上記の附属建物よりも風通しが良さそうに見えます。「中国近代建築総覧・煙台編」に掲載の写真はベランダに壁がはめられていますので、その後、原状復帰されたようです。T字型の玄関開口部がちょっと変わった感じ。こんなところで洗濯物を干すのはどうなんでしょう。

この建物では煙台の古写真が展示されていました。

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側面からみると寄せ棟屋根であることが分かります。旧領事館関連の3つの建物はどれも同じような色づかいです。

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煙台山の領事館建築については以上です。
お次は旧煙台連合教会。1875年に建てられた木骨煉瓦造・平屋の建物ですが、早くに壊され、最近再建されたものです。当時の煙台では唯一英語で礼拝が行われていた教会だそうです。上に飛び出ているのは鐘楼。

今は映像上映館に使われています。

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遠景はこんな感じ。けっこう大型の建物です。
窓に黒い縁取りのようなアーチが目立っています。

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最後に、これはよく分からないのですが、煙台山にある大型の建物です。
白地に赤のハーフティンバーの三角破風が印象的です。

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同じ建物を南側から。この建物は公開されていなくて、行政関係の機関が入っています。

煙台山はほとんど純粋な外国人居住区で、中国人の住宅は1軒(それももとはドイツ人の邸宅)だけだったそうです。
煙台山はこれ以外に非公開の建物も多く、貴重な建物園になっています。

Yantaishan
※位置などは正確ではありません

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2008年7月12日 (土)

青島・煙台の旅(6)煙台山の建物-2

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さらに煙台山西路を登ります(これは後ろを振り返って)。
両側に長い石塀が続いています。

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石塀(これは石垣ですが)を正面から見るとこんな感じ。日本で見かける積み方とはちょっと違うような気もします。目地を完全に埋めた後、盛り上げた目地をすーっと引いています。細胞のような感じ? 赤っぽい石が目立ちます。

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やがて見えてきた門。スクラッチタイルが貼られています。ん?スクラッチタイル?

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やはり日本の建物でした。旧日本領事館です。本体も鉄筋コンクリートにスクラッチタイル。中国でスクラッチタイルを見るとは。タイル貼りの建築としては煙台で最も早い例だそうです。領事館は最初1901年(明治34年)に建てられたそうですが、1937年に閉館し、1938年(昭和13年)2月に日本が煙台を侵略したときに再開館、旧館をベースに現在の建物が修築されたようです。他国の領事館に比べて、飾り気の少ない建築です。

煙台では1875年に天津副領事の池田寛治氏が煙台の代理領事に就いて以来、領事館は開館、閉館を繰り返しました。

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一見3階建ての建物ですが、斜面を利用して建てられているので、4階建てです。こちらが本当の1階。1階と2階にそれぞれ入り口があり、車寄せがあります。

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1階入り口のドア。中国民間芸術陳列館のはずですが、残念ながら閉まっていて、中には入れませんでした。

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敷地には日本軍兵舎(奥の建物)もあり、これはその附属建物のようです。

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煙台山の北に回り込むとごつごつした石造2階建ての建物があります。
人魚姫がヒント。そう、旧デンマーク領事館です。

1890年に建てられた、ヨーロッパ城塞風の建物です。石材は煙台産の花崗岩で、毛鼓石と呼ばれるものだそうです。

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北側から見るとよく分かります。
爬虫類のウロコのよう。白やピンク、グレーの花崗岩を見慣れているので、茶色い花崗岩というのは随分違って見えます。風化が進んでいるのでしょうか。

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この領事館だけが、領事館として公開されています。デンマークには悪い印象が少ないということなんでしょうね。

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領事の執務室。領事の人形も置いてあります。部屋は飾り気がなく、シンプル。

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2階にあがる階段です。質実な印象を受けます。

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こちらは2階にある食堂。暖炉もあります。

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屋上テラスからは海を眺められます。
このテラスから出入りする船を眺めていたのでしょうね。

Yantaishan
※位置などは正確ではありません

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2008年7月 6日 (日)

青島・煙台の旅(5)煙台山の建物-1

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海岸街の半分を見たあと、建物観光のハイライトともいえる煙台山公園に入りました。煙台山公園は海に張り出した丘で、各国の領事館建築が点在しています。行ったことのある方には、長崎のグラバー園をイメージしていただければ近いと思います。

入場料は大人(身長1.4m以上)30元(約450円)でした。中国の物価水準からして、観光地の入場料は一般的に高めです。ガイドサービスもあり、10人以下なら40元です。英語・韓国語の表記もありますので、英語・韓国語ガイドはあるのではないでしょうか。
公園の開放時間は、夏季は朝6:30から19:30まで。冬季は7:00から17:30です。結構、長い時間開いています。

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まずは目の前にあるこちらの建物から。アメリカ領事館の領事官邸です。20世紀の初めに徳成営造廠により建設された2階建て、東・南2面にベランダ付きのアメリカ式別荘建築です。構造は木骨煉瓦造。

アメリカが煙台に領事館を設立したのは1864年のことですが、当時は宣教師を代理領事として、一切の事務は名誉領事が管理していました。1873年には天津アメリカ領事館の出先となり、1896年にようやく正式の領事館となったようです。

煙台山公園では(全部ではないですが)建物を博物館として開放しています。この建物の場合は、煙台開埠陳列館で、煙台の開港後の歴史を紹介しています。当時の写真なども多く、非常に参考になる展示でした。

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こちらはアメリカ領事館。このデザインは好きです。同じく20世紀初頭に徳成営造廠の建設したアメリカ式別荘建築で、構造も同じく2階建て木骨煉瓦造です。開口部が多くてガラスを多用してますね。煉瓦と漆喰?によるパターンが布地のよう。入り口に一対の獅子がありますが、この入り口は最近付けられたものみたいです。

この建物は切り紙の実演展示館で、要は売店でした。落ち着いて見れないのがちょっと残念です。

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床下の換気口グリルは○の連続模様。あんまり面白みはないです。

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東面にある入り口。こちらの門は洋風で、両脇に尖頭アーチの窓もあります。

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同じく東面の裏口。味わいがあります。

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階段は木製でこんな感じでした。階段の雰囲気はどれも似ています。

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続いてもう一段上にある旧東海関副税務司令官邸へ。税関の副司令官の官邸ですが、その職には長らく外国人が就いていました。中国の税関を外国人が担当するのも変なのですが、当時はそれが一般的だったそうです。

19世紀末に建設された2階建て木骨煉瓦造のベランダ付き英国コロニアル建築です。
京劇芸術館として公開されています。

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東側の1階・2階にベランダが付いています。

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床下換気口。面白みはないです。

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人形のような階段手すりは他の建物も同様ですし、下関のイギリス領事館で見たものも似たような感じでした。

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こちらは東海関の外国人職員アパート。一般の税関職員としても外国人が働いていたようです。木骨煉瓦造で、1864年に徳成営造廠が施工したそうです。徳成営造廠は、外国建築を一手に引き受けていたようですね。

この建物は内部非公開で、アトリエが入っていました。他にいくつもアトリエに活用されている建物があります。

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南側1階には白いベランダがあります。休みの日はここでくつろぐのでしょうか。

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南側の入り口を見上げて。円柱まで煉瓦でつくっているのが面白く思います。

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ここの床下換気口はかなり手抜き(?)

1989年に調査の行われた「中国近代建築総覧・煙台編」では、現況利用が軍関係の招待所などとなっているものが多いので、その間、観光向けに開放が進んだことが分かります。

Yantaishan
※位置などは正確ではありません

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2008年7月 3日 (木)

青島・煙台の旅(4)煙台・海岸街の西側

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さて、煙台のまち歩きです。
旅館の前の海岸街から歩き始めました。
上の写真が海岸街の西側の現況です。
海岸街は東西わずか143mの通りですが、領事館あり、郵便局あり、洋行(外国企業)ありの(かつては)外国人地区でした。
海岸街には郵便局が5つあって、郵便局通りのようです。

旧ドイツ郵便局と旧茂記洋行は前に紹介しましたので、他の建物について紹介します。

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旧ドイツ郵便局の隣にも同じような建物が建っていて、その間の通路にアーチの門が立っています。

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上部には「法商永興洋行」と書かれています。つまりフランス商人の永興洋行。永興洋行というのはフランス企業では中国最大の貿易商だったようです。
この文字は、2007年の改修工事の際、壁の下から「掘り出された」そうです。

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旧茂記洋行の東隣にあるのが、旧山東煙台一等郵政局。1925年の建築です。煙台は、清政府が1878年に建設した五大郵政機構(北京・天津・上海・牛荘・煙台)所在地の一つで、1887年に煙台郵政総局が設立され、山東省内の郵政分局を統括、1910年には副総局、1913年には一等郵政局に改められ、1937年まで続きました。
今も郵便局として使われています。

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同じく旧山東煙台一等郵政局の正面です。
フランス古典主義の建築で、構造は煉瓦・石造。折り上げられた三角の破風?が変わっています。
はす向かいのドイツ郵便局など他国の郵便局に対抗する意図もあったでしょうか。

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海岸街と朝陽街の交差点、煙台山の正面という一等地にあるのが、旧美孚洋行です。美孚洋行は1899年に設立されたロックフェラーグループのアメリカ企業で、自動車、ディーゼルオイル、灯油などの貿易の他、中国人労働者の海外送り出しも行っていました。1902年には芝罘島東口村に石油貯蔵庫と小さな埠頭を建設し、煙台との間で持ち船が行き来していたそうです。石油貯蔵庫3棟は90万ガロン(3407m3)の容量があり、東北地方まで供給されていました。労働者の送り出しは、約3万5千人に達したといいます。

市場開拓のため、美孚洋行は無料で灯油と街灯を提供し、市民に歓迎されたそうです。こうして、煙台と農村の市場を押さえ、のちに大きな利益を得ました。

1941年12月8日の日米開戦翌日、美孚洋行は日本軍に差し押さえられました。

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建物も設立時の1899年のもので、木骨煉瓦構造の平屋です。
3面に入り口があり、ゆったりした建物に見えます。

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同じく朝陽路の交差点で、美孚洋行の向かいにあるのが、旧克利頓飯店あるいは旧ロシア郵便局です。
プレートによれば1910年建設の木骨煉瓦構造の建物です(鉄筋コンクリートとする文献も)。
克利頓飯店は、ロシア商人が1910年に開業したレストラン兼ホテルで、とくにロシア料理で知られていました。1912年に、袁世凱に招かれた孫文が煙台に立ち寄った際、この2階手前角の部屋に泊まり、煙台で講演も行ったそうです。
克利頓飯店の前はここにロシア郵便局がありました。

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裏側にあたる西側もなかなか装飾が豊富で美しい。
灰色煉瓦に赤煉瓦と赤い木製窓枠の線が映えています。

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旧ドイツ郵便局にもありましたが、窓の下に、灰色煉瓦と赤煉瓦を使った意匠がはめこまれています。表現は洋風でありながら、素材は中国らしい意匠という気がします。

ちなみに煙台の郵便局について触れますと、1876年に日本、1892年にドイツ、1896年にロシア、1898年にフランス、1903年にイギリスが郵便局を開設しています。

Haianjiew

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2008年6月29日 (日)

青島・煙台の旅(3)煙台の近代と建築

Modernbohai

Oldyantai

煙台のまち歩きの前に、煙台の近代と建築について、簡単にまとめておきます。

煙台はもと“芝罘”と呼ばれていました。明朝の1398年、和冦を防ぐため、「奇山守御千戸所」と呼ばれる城壁都市が築かれました。これが煙台の都市の核になっています。城壁はありませんが、今もその区画は「奇山所」という名で残っています。ちなみにこの時、和冦の来襲を知らせる、のろし台(狼煙台)も築かれ、「煙台」の由来となりました。

近代に入り、第二次アヘン戦争(アロー戦争)に敗れた清は、咸豊8年(1858年)にイギリス、フランスとの間で天津条約を結び、登州(蓬莱)を通商港として開放させられました。咸豊12年(1862年)、条約に従って登州を実地検分したイギリス領事は、登州より煙台の方が条件が良いと判断、開港地を煙台に変更します。ここから煙台の近代化が始まりました。1860年の英仏軍による北京侵攻の際、煙台山は租界開設をもくろむフランス軍が占拠しましたが、イギリスの猛反発で1866年にフランス軍は撤退しました。

これより外国の政府役人、商人、宣教師らが次々にやってきて煙台で様々な活動を展開し、土地を購入または永久租借する形で教会、学校、洋行、領事館などを建て始めました。計17の国が領事館を開いたといいます。1861年からの60年間に大量の洋風建築が建設されました。とくに1880年から1900年にかけては北方の他の2つの貿易港ー天津と牛荘(営口)ーよりも大きな貿易額を誇っていたといいます。

しかし、煙台は正式の租界地ではありませんでした。

1897年に芝罘条約が結ばれ、煙台はイギリスの条約港になります。そこでイギリス主導で共同租界設立の動きがおこるのですが、1898年にドイツが青島、イギリスが威海衛を租借した結果、山東半島にこれ以上イギリス勢力が増えることを望まないドイツの反対で共同租界の計画は宙に浮きました。

1899年には日本、イギリス、アメリカが共同租界設立の働きかけを始めます。しかし、今度は1898年に対岸の大連を租借していたロシアが反対、そうこうするうち1904年の日露戦争に突入します。

1910年には煙台に住む外国人と中国人有力者による万国委員会が設立されました。彼らは煙台市街地を「芝罘第一区」と命名、居住者への課税を財源に行政を行うという珍しい統治形態が出現しました。

その後、1917年にイギリスが再び共同租界の設置を提案しますが、今度は日本やアメリカが反対します。日本は1914年に青島を占領、1915年には対華二十一カ条の要求を提出して、山東省のドイツ権益を引き継ごうとしていました。一方、アメリカは煙台をアメリカ海軍アジア艦隊の駐留港にしようとしていました。

結局、各国の思惑の綱引きで、煙台は租界地にならなかったといえます。
1930年に万国委員会は市の行政権を市政府に返還しました。

さて、このようにして成立した、煙台の建物の分布について見てみましょう。
外国人による建築の分布はおよそ、次のようになっていました。
(1)領事館 
 煙台山と朝陽街に多く建てられました。
 とくに煙台山は領事館地区といってもいいほどです。
(2)外国洋行
 海岸街、滋大路(海関街)、朝陽街、大馬路などに多く建てられました。
(3)学校・医院
 毓璜頂と海岸路付近に建てられました。
(4)外国人住宅・別荘
 大馬路・二馬路の東端、東山一帯に多く建てられました。
(5)教会
 分布が広く、煙台山・東山・西山・大馬路・毓璜頂などどこにもありました。
(6)郵便・電話局
 外国の郵便・電話局は海岸街に建てられました。
(7)国際商業組織
 芝罘クラブが煙台山の下に建てられました。

19世紀、煙台の陸上輸送は家畜の牽く車に頼っていました。
1898年に青島と膠州湾がドイツ租借地となり、青島の都市建設が始まって、1904年に膠済鉄道が開通すると、鉄道輸送の安価なコストと時間短縮により、物資は青島を経由するようになり、1910年頃には煙台の繁栄はすっかり青島に奪われてしまいました。結果として、煙台には開港初期の建築が残されたとも言えます。

そして現在。
2007年5月から9月にかけて、煙台山下の朝陽街、海岸街、海関街では、街路を敷き直し、建物を復原する改修工事が行われました。2008年5月から10月にかけては、さらに朝陽街以東の会英街、建徳街、招徳街、東太平街、西太平街の5街路・沿道建物の改修を行っています。地元政府は積極的に地区を保存・活用していく意向のようです。

煙台山一帯の近代建築群は、観光資源であり、愛国教育の拠点でもあります。
近代建築は中国の苦い近代史の証人でもあり、一方では地域の先進性の象徴でもあり、近代建築を眺める視線も複雑なものとならざるを得ないようです。日本では屈託なく近代建築を眺める私ですが、中国の近代建築には堂々と好きですと言えない居心地の悪さを若干感じながら、よく残されている近代建築を眺めていました。

次回から街の建物を見ていきます。

○参考資料
 今回の記事は多く「旅名人ブックス97 青島と山東半島」(日経BP社)を参照しました。
 他に「中国近代建築総覧 煙台編」などを参考にしています。
 最近の動きについては、煙台市HPと水母網のニュースを参照しました。

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2008年6月11日 (水)

青島・煙台の旅(2)煙台の近代建築に泊まる

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煙台で迎える朝。
ベッドからすぐ通り(海岸街)を眺めることができます。

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外に出てみて、びっくり。これが今回泊まった便民角旅館です。こんなところに泊まっていたのかと。
昨夜は暗くてよく分からなかったのです。

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市の文化財のプレートまではまっていました。
旧ドイツ郵便局とのことです。

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主だった建築物には、文化財のプレートと簡単な説明板がペアではめ込まれています。このドイツ郵便局の場合は、木造+煉瓦造で、1892年に郵便局が置かれ、第一次大戦後の1917年に撤退したそうです。『中国近代建築総覧・煙台編』によれば、施工は徳成営造廠。

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上部の山型飾り。「Kaiserlich Deutsches Post Amt」と書かれています。ドイツ郵便局とでも書かれているのでしょうか。ドイツ語は全く分かりません。
赤煉瓦と中国風の灰色煉瓦を組み合わせて使っています。

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壁の飾りを、赤煉瓦と灰色煉瓦の組み合わせで入れています。

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ちょっと中も覗いてみました。写真がよくなくてすみません。改修工事中のようでしたが、床も階段も木のものが使われていました。昔のままなのでしょう。

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でも泊まるなら向かいの海鮮暇日酒店の方が良いかもしれません。外から見た感じ、部屋をそのまま使ってそうですので。標準で1泊58元となっています。海鮮レストランの兼営です。

この建物は、かつてイギリスの茂記洋行のオフィスでした。1934年に建てられた鉄筋コンクリート?建築で、施工は徳成営造廠です。

茂記洋行の前身は1864年(清同治3年)創業の商社「和記洋行」で、煙台が開港して最も早く進出した外国企業の一つだそうです。業務範囲は、海運、陸運、綿糸・手工芸品・ピーナツなど特産品の輸出などで、特に海運(外輪船)に力があったようです。その繁栄は太平洋戦争の日本軍の進入まで続きました。(水母ネット記事より)

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1階から3階まで突き抜けている角柱が印象的です。対して、水平方向には薄い庇が巡らされています。ツタの絡まり具合もいい感じ。

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次に来たときのために、他のホテルも見ておきました。
ほかにめぼしいところでは、東太平街の楓合賓館があります。周辺の道路を整備中ですが、終わればきれいになるのではないでしょうか。

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順泰街から少し入った良貴軒旅館。町家といってもいいでしょうか。

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順泰街の福源招待所。さすがにここまで来ると・・・
でも案外、古い部屋のままではないかと期待(笑)。

あくまで近代建築に泊まるならということですので、ちゃんとしたホテルは金海湾酒店、黄金大酒店、太平洋大酒店はじめ、いろいろあります。

回ってみて思うのは、外国勢力が入ってきて初期の建築ですので、2階建て程度の建物が多く、規模が小さいため、ホテルに活用しても「旅館」レベルにしかならないということではないかと思います。
そこが大型のクラシックホテルがある上海とは違うところです。

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2008年6月 8日 (日)

「東洋のマンチェスター」から「大大阪」へ

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石橋の大阪大学総合学術博物館「待兼山修学館」で、『「東洋のマンチェスター」から「大大阪」へ』と題した企画展が開かれています。豊中で用事があったついでに見てきました。

○開催概要
 「東洋のマンチェスター」から「大大阪」へ 
  ー経済でたどる近代大阪のあゆみー

 開催期間:2008年5月1日(木)〜7月5日(土)
      (日祝休館)
 開館時間:10:00〜16:30
 料金:無料

 江戸時代の商都から明治維新での停滞、五代友厚による殖産興業、金融機関の近代化、重工業の発展、生産効率化、技術者教育、企業メセナ、そして大大阪の時代などの展示内容になっています。長者番付など様々なリストが掲げられていますので、じっくり見れば面白いのではないでしょうか。ビジュアルでは銀行や化粧品など企業広告が楽しめました。

 この博物館を訪ねるのは初めてで、この企画展以外に思った以上に展示スペースが広いのに驚きました。待兼山の自然や教育に関する展示もあります。1階にはミュージアムカフェまであります。

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さて、総合学術博物館は建物自体も近代建築です。
昭和6年に大阪帝国大学附属病院石橋分院として建てられました。つまりは病院。
待兼山の坂を少し上がり、緑に囲まれた良好な立地です。(だから全景は撮りにくい)

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外観はとてもシンプルです。病院らしいといえばらしい。

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1階のカフェには屋外席もあり、洗い場から移設された壁泉が据えられています。

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エントランスホールに入ると正面に階段があります。階段と柱、手すりが柔らかな曲線を描いています。人研ぎの壁・階段に、角のみ褐色タイルが使われています。補修で色の違うタイルがはめられているのが、かえって表情になっています。

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踊り場にはそれぞれ工夫してデザインされたステンドグラスがはまっています。ポイントで使われる曲線が面白い感じ。

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屋上にはウッドデッキがあり、池田の街が見下ろせます。
ベースの近代建築を生かしつつ、気持ちの良い建物に改修されていました。

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石橋駅の東には洋館付き住宅などもあるようです。
展示を見るだけで時間がなくなってしまったので、後日再訪したいと思います。

○関連ホームページ
 ひろの東本西走「東洋のマンチェスター」から「大大阪」へ-1

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2008年6月 3日 (火)

新潟まち歩き(20)丘の上の近代建築

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新津記念館を出た後は、さらに丘の上を歩きました。
新潟の丘というのは、かつての砂丘ということになります。

まずは新潟大学内にある、あさひまち展示館(旧新潟師範学校記念館)です。昭和4年に同校の創立50周年記念に建てられました。スクラッチタイル貼りの鉄筋コンクリート建築です。設計施工は清水組。1階は児童教育のための陳列室、2階は集会室だったそうです。(案内板より)
登録有形文化財。火・木・土は、資料館として公開されていますが、この日はお休みでした。

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側面も正面も同じようなデザインです。
実際以上に柱がたくさんあるように見えて、縦の線が強調されています。
これで完結しているように見えるんですが、この右側(奥)に木造部分のついた和洋折衷の建物だったそうです。その方がむしろ不思議。

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新潟大学医学部には、新潟医科専門学校時代の明治44年につくられた煉瓦塀と大正3年につくられた講堂正門が残されています。これも登録有形文化財。

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(追記)昔は門の向こうにこのようなこぢんまりと、でも立派な校舎が建っていました。のちに門の間隔を広げたようですね。(2009.5.13)

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右側の門柱です。煉瓦と花崗岩の、赤白の対比が美しい。
定番の組み合わせですね。古い写真で見るとさらに両側に一組、一回り小さな門柱が立っています。

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古い煉瓦塀も移築しつつ、新たに煉瓦塀がつながれています。
煉瓦にツタもお似合いの取り合わせ。

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招魂坂(ワルツ坂)の上には出窓のある洋館が建っていました。
新津記念館もそうですが、洋館はこういうロケーションが似合います。

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壁は1階、2階で塗り分けられています。
格子など直線的ですっきりしたデザインです。

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シンプルな洋館付き住宅もあります。

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ドッペリ坂。ドッペリはダブルのドイツ語だそうです。坂の上に旧制新潟高校の寮があり、学生がこの坂を下って町に遊びに行くと落第するという意味で名付けられたとか。正面にNEXT21が見え、町の中軸線上にあることが分かります。

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雨脚が強まり、逃げ込むように砂丘館に入りました。
旧日本銀行新潟支店長役宅で、昭和8年に建てられました。元々は丘の下にあったそうですが、移築されて残っています。今は新潟市が買い取って、ギャラリーやレンタルスペースに使われています。夜9時までオープンしていて、利用しやすいのではないでしょうか。

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和室より。この家の魅力はいろんなところからお庭を眺められることだと思います。

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2階からもこんな具合に、木々の緑が広がります。
コーヒーも提供していて、応接室でも、和室で庭を眺めながらでもいただけます。
雨降りでも、庭を眺めている限りはいいものです。

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さて、雨は降り止みませんが、また歩き始めます。
砂丘館の並びに洋風の建築がありました。随分細かく縦の線が入っています。窓は上げ下げ窓のよう。
今は何に使われているのか分かりませんが、エイボックという人材派遣会社の看板がかかっていました。

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大きく張り出した玄関の庇と、直線デザインの持ち送りが特徴的です。

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さらに坂を下りかけて、これは新潟市長公舎だと思うのですが。
新潟市長公舎は、大正11年に建てられた和洋折衷の中廊下式住宅だそうです。今も新潟市の所有で活用が検討されているようですが・・・どうなっているんでしょう。

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ドッペリ坂の下まで下ってきました。
この地区のシンボル的な新潟カトリック教会の双塔があります。昭和2年にスイス人建築家ヒンデルの設計で建てられました。木造だそうです。この日の天気はあいにくでしたが、どこかメルヘンチックな印象を受けます。晴れていればなおさらでしょう。

日も暮れて、雨脚もさらに強まり、今回の探訪はここまでとしました。かなりたくさんの地域を見残してしまいました。いずれ続きはここからスタートしようと思います。


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2008年6月 1日 (日)

新潟まち歩き(19)石油王の迎賓館

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新潟の町の西には丘があって、大学や住宅などが建っています。
その一角にある新津記念館は、新潟の「出雲崎町出身の石油王・新津恒吉が、外国人用迎賓館として昭和13年に建てた西洋館」(パンフレットより)だそうです。「石油王」というのが新潟らしいところ。設計は大友弘、施工は清水組。鉄筋コンクリート造で地下室もあります。

この写真は庭園からで、右側が正面です。

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立派な車寄せです。
下から粗い石張り、タイル、テラコッタ。

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テラコッタ部分を拡大してみました。
かなり凝っています。

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玄関部分。ゆるく優雅なカーブを描いています。
玄関上部にはこれまた繊細な金属装飾。
内部は推して知るべし。

内部撮影は禁止なので、内部の様子は新津記念館のHPに一部紹介されているものか、『日本の洋館 第六巻 昭和編Ⅱ』のp134〜141をご覧ください。

1階はジャコビアン様式のイギリスの間、2階はロココ調のフランスの間、3階はシンプルなドイツの間(非公開)と呼ばれる部屋があり、暖炉・階段柱など木には彫刻、天井には漆喰細工、床には絨毯、窓にはステンドグラスで、これでもかという装飾密度です。私などはあまりの濃密さに「うっ」となってしまいました。もう少しシンプルな方が好みなのですが。

ただ、アメリカ製だという2階のステンドグラスは、泰山木にブルージェイがとまっている伸びやかな図案でとても気に入りました。(鳥の名前まで特定しているのは、ネットで調べていて、川越にある山崎家別邸の小川三知作のステンドグラスが全く同じモチーフだと分かったからです。この組み合わせは梅にウグイスみたいなお決まりなんでしょうか)

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また外に出て、床下換気口のグリルを見ます。
植物をモチーフにした、ここも細かい装飾です。

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庭園の方に出てみます。

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ヴェランダから見た庭園。
広々した庭の向こうに新潟の町が見下ろせます。

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ヴェランダ部分に上がるところの踏み石。
龍が彫刻されています。

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ヴェランダの側面部分。
こんなところにもタイルを使っています。

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こちらは屋敷全体の入り口のよう。
昭和初期っぽい直線的なデザインです。

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すぐ隣には和館も建っていて、こちらは今もお住まいなので当然非公開です。でも和館のお庭は公開されています。

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記念館の方にいろいろと庭の解説をしていただきました。
この庭石は「佐渡の赤玉」という石(チャート)だそうです。今は採掘できません。ほんとに赤いですね。

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石臼に木が生えてますが、ただの石臼ではなく、金山の石臼だそうです。説明してもらわないと分かりません。とことん凝ってます。

私の想像を超えるようなこてこてな世界でした。
これぞ石油王の迎賓館、といえるでしょうか。

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2008年5月29日 (木)

新潟まち歩き(16)ハンノキ島を歩く

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新潟の古町と信濃川の間に礎町通、下大川前通などのある緩い山型の街区があります。ここは江戸時代には榛島(はんのきじま)や梨島と呼ばれた信濃川の州で、明治以後、街区が割られて都市化した地域のようです。運河が埋め立てられて、今は完全に町の中です。

そこに木揚場教会があります。
以下、説明は新潟のDaaさんの紹介されている記事によります。
「木揚場」という言葉を私は、ここが材木置き場になっていたのかな、ぐらいに思っていたのですが、実はもっと特定の意味を持つ言葉だと後で知りました。つまり、明治の10年代、京都東本願寺の両堂を再建するために全国30ヶ所に設けられた用材の集積地=木揚場の一つだったということです。新潟の木揚場は明治14年に開場し、その作業を手伝いに来た方の説教場として教会が置かれたのが始まりなのだそうです。

新潟の木揚場は明治23年に閉鎖されますが、教会は残りました。現在の教会は大正14〜15年に再建されたものだそうです。洋風の教会といっても真宗大谷派の教会なのです。国の登録有形文化財でもあります。

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斜めから見ると、車寄せのように玄関部分が出ているのが分かります。

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玄関正面から。3本ずつの円柱が立ち、柱頭はデザイン化されています。玄関上部には石でアーチが組んであります。正面から見るとまるきり洋風なのですが・・・

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後ろから見ると真宗寺院らしい大屋根です。面白い折衷の仕方。

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さて、ハンノキ島を歩いていると、旅館、料理屋などが目に付きます。今は空き地も多いのですが、そこから昔の雰囲気が伺えます。

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こちらも旅館っぽい建物。

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石垣の彩りが美しいです。

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石垣ついでに、この黒い屋敷と白い蔵の対比が目立つお宅。

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木材のような縞模様の石を貼ってあるのが特徴的で、きれい。調べてみると、群馬の多胡石(砂岩)に近いようです。

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倉庫もまた港町・新潟らしい建物ではないでしょうか。
ツタの絡まる塀は、煉瓦塀です。

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最後に近代建築をひとつ。
ハンノキ島には風流な雪月花を冠した雪町、月町、花町があるのですが、その花町にある、ひらの理容です。

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妻部分の装飾が洋風で、何か意味が込められているのかと気になりますが、この日はご旅行とのことで不在でした。

通りなどに雰囲気のあるハンノキ島です。
(新潟の方がこの地域を何と呼んでおられるか分からないのですが。ハンノキ島ではないでしょうね。)

「新潟まち歩き(17)信濃川クルーズ」につづく

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2008年5月18日 (日)

新潟まち歩き(12)擬洋風の議事堂

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白山公園の一角に新潟県議会旧議事堂があります。
明治16年(1883年)に建てられた擬洋風の木造建築で、設計・監督は新潟県巻町出身の星野総四郎という方です。星野氏は鉄道関係の橋や建築の専門家として活躍されましたが、この建物が現存唯一だそうです。設計にあたっては旧大阪駅や東京の明治会堂を参考にしたそうですよ。

県会議事堂は各地に建てられましたが、これが府県議会開設期のものでは唯一の遺構とのことです。
今は新潟県政記念館として無料公開されています。
彩度を抑えた落ち着いた配色で、仏教風と洋風が混ざったような装飾が個性的です。堂々たる明治建築。

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門の前から。
正門は煉瓦の柱に屋根みたいな石が乗っています。

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玄関部分を斜めから。
中心には八角形の尖塔が乗っています。
なお、玄関前の敷石は、もともと県庁玄関前と県議会前の階段に使われていた花崗岩(倉橋島石・議院石)を再利用しているそうです。

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玄関軒下の拡大。
細かい透かし模様の板、軒下にも飾りが連続して擬洋風らしい装飾です。

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中に入る前にちょっと外観を見ておきます。
窓は上下窓。窓の周りには窓枠石が貼られています。解説によれば、津川産の谷沢石。でも谷沢石が何ものかは検索しても分かりませんでした。緑がかった柔らかそうな石で、緑色凝灰岩のようなんですが。渋い緑の色合いが落ち着きを与えています。