2019年1月 2日 (水)

石切場跡の岡公園(和歌山市)

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昨年6月に行った和歌山の岡公園を紹介します。
和歌山の公園といえば、和歌山城のある和歌山公園が有名ですが、その南にそれより古くて見どころも多い公園があるんです(後で知ったのですが)。

灯籠形の門柱の左奥に見えている山は、天妃山と呼ばれているようです。

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この公園、紀州青石(緑色片岩)の露頭があって、それが遊具になっているというもユニークです。

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そしてこちら、割られているのが分かりますでしょうか。
和歌山城築城時の石切場跡です。ここから切り出された紀州青石が天守閣や本丸周辺の石垣に使われているそうです。
ロッククライミング禁止の立て札も立っていました。

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次に触れますが、紀州藩時代には天妃山(弁天山)の周辺を屋敷が取り巻いていたので、その名残でしょう、井戸があります。

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そして岡の登り口の右手に岡公園碑がありました!。明治29年に建てられ、公園開設の経緯が記されています。
まずは原文から。漢文調で書かれているので、文の切れ目もなく、ずらずらと書かれています。


 岡公園記

岡公園辨天山𦾔址也初元和中徳川頼宣封於
紀伊也諸士第宅環繞山麓而辨天
山秀乎其中一登為則城内可俯視也以故藩制
不許登臨維新以降第宅頽敗鞠為
茂艸而辨天山草樹弥茂灌莽弥深終為狐狸蛇
蝎之窟矣明治十三年𦾔藩主徳川
茂承縣令神山郡廉及陸軍大佐岡本兵四郎諸
人憑弔佐賀熊本臺灣西南四役殉
難者為建記念碑於此相地興工艸樹去而奇石
出灌莽除而清泉迸旬是縣民漸有
遊覧於斯者十七年縣令松本鼎等又於山下設
亭榭以為遊息之所及二十七年縣
議始請於官以辨天山為公園併山下亭榭附属
之地在岡山之東國史云
聖武天皇神亀元年幸玉津島造離宮於岡東盖
斯地也命曰岡公園者所以用古名
也然有公園之名而未有公園之實焉去載予又
欲於山巓建我縣討清軍人紀功之
標詢之一縣吏民同聲一辞莫不賛襄者焉於是
園工又大作而公園之實始完矣盖
山勢雖不甚高而樹木蓊然以深導山之餘浸以
為坡池岡山之凸石以為丘阜惟要
去樔翳以就修潔不以人工而破天然老松古栢
有深山之氣奇花異艸有幽谷之美
其廣可以逍遙為其樂可以盤桓焉而前臨古城
則思念封建将士尚武之形況左顧
岡山則敘仰往古 帝王右文之氣象近誦記念
碑碣則知國家三百年養士之有素
則凡遊於斯園者非持花晨月夕俯仰徘徊以養
生也而其於左右顧肇之閒養氣者
亦為不尠焉

明治二十九年夏五月
 和歌山縣知事従四位勲三等沖 守固 撰
          正五位日下部東作書并篆額


 ※不正確かもしれませんので参考程度にご利用下さい。

 これでは意味が分からない人も多いと思うので、私なりに現代語訳してみます。
 ざっくりしてますので、部分的には間違っているかも。
 
 岡公園記

 岡公園は弁天山の旧蹟である。元和年間に徳川頼宣公が紀伊に封ぜられ、武士の邸宅が山を取り巻いた。弁天山に登ると城内を見下ろすことができるので紀州藩時代は山に登ることが禁止されていた。明治維新以降、邸宅は荒廃し、雑草が茂り、弁天山には草木が生い茂り、ついには野生動物の巣窟となってしまった。
 明治13年、旧藩主の徳川茂承、県令の神山郡廉、陸軍大佐の岡本兵四郎らは、佐賀・熊本・台湾・西南の四役の殉難者を弔うため、この地に記念碑を建てた。草木を取り除くと奇石が現れ、雑草を取り除くと清泉が迸った。ここでようやく遊覧する者が来るようになった。
 明治17年、県令の松本鼎らはまた山の下に東屋を設け、遊びや休憩の場所とした。
 明治27年には県が弁天山を正式に公園として請願した。山の下の東屋附属の地は岡山の東にあり、これは国史にいう、聖武天皇が神亀元年に玉津島に行幸し、離宮を岡の東に造営したというのがここであると。岡公園の命名はこの由緒ある名前からとったものである。しかるに公園の名前はついたが公園の実はなく、山上に我が県軍人の日清戦争での功績を称えるモニュメントを県の役人・県民全員が賛同して、公園の工事を大々的に行い、公園の実が初めて成った。山はそれほど高くないとはいえ、樹木の陰は深く、山の湧水を池とし、岡山の突き出た石を丘として、茂みを刈って整えれば、人工によらなくとも天然の老松古柏には深山の雰囲気があり、珍しい草花には幽谷の美がある。広く逍遙して楽しみ、歩き回り古城に向かって封建時代の武士の武を貴ぶ様子を思い、左に岡山を見ては、古を思い、帝王が文章を重んじた気配を記念碑を読むことで思い、国家300年の士を養うもととなる。
 およそこの公園に遊ぶものは、花(春)の朝方、月(秋)の夕暮れでなくとも、見上げ見下ろし、歩き回って養生し、左右の碑文に鋭気を養うものが少なくないはずだ。

 明治29年夏5月 和歌山県知事 従四位勲三等 沖守固 撰
                      正五位 日下部東作 書ならびに篆刻

 最後の方、分かりにくいですが。

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ということで、公園内を見ていきます。
紀州青石の広い階段を上っていきます。

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オブジェのような石の水盤がありました。

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途中、たくさんの記念碑がありましたが、きりがないので省略します。

こちらは岡公園記に出てきた、四役戦亡記念碑(明治12年)。
幸い、解説板がありますので、そこから抜粋します。
四役とは、明治7年から10年の間に起こった佐賀の乱、台湾出兵、熊本神風連の乱、西南戦争のことで、和歌山県出身者では491名が戦死したそうです。

隣には「四役戦亡記念碑側記」(明治16年)が立っています。


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そして一番高いところには、巨大な槍先のモニュメントが空に聳えています。
これが岡公園記に出てきた征清記念標(明治28年)というものです。
大阪砲兵工廠で作られたものです。
運び出せなくて、金属供出を免れたのでしょうか。

登ってみたかったのですが、モニュメントの下は学生のたまり場になっていて、遠慮しました。

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近くにはモニュメントの説明である征清記念標碑(明治28年)があります。

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足元からでも、結構眺めが良いです。

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東側に降りてみます。
古そうな石橋があります。
こちら側に東屋があったとのことでした。

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庭園のような流れが作られていて、弁天さんなどがあります。
弁天山に祀られていた弁天さんなのでしょうね。

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岡の南の池。
石切場跡に水がたまったものかもしれないとのことです。

もともとあったものは以上ですが、昭和になって移築されてきたものもいろいろあります。

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こちらは武徳殿。武道館です。

和歌山県建築士会さんの記事によると、明治38年に和歌山市真砂町に建設された後、昭和36年に現在地に移築されたそうです。

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「大和歌山市街地図」(昭和6年)

昔の地図を見ると、岡公園の西の方に武徳殿と記されています。
岡山の場所もこれで分かりますね。

ここに描かれている公会堂は今はありません。

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また北側には旧大村家住宅 長屋門があります。
解説によると、江戸時代末期、現在の東坂ノ上丁に建てられ、明治30年頃に所有者が変わって堀止東に移築、解体されそうになったところを和歌山市が引き取って、2017年に現在地に移築され、公開されています。

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公園の東には茶室 夜雨荘があります。
江戸時代後期の武家の茶室で、昭和62年に移築されました。

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また建物以外にも蒸気機関車も保存されています。
昭和14年に製造され、大阪、白河、大宮、鹿児島、宇治山田などを回って、最終的に昭和47年まで紀勢線・和歌山線を走って引退したものだそうです。そして昭和48年に岡公園に移されました。

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もう一つ、チンチン電車三二一号というのもあります。
解説によれば、昭和46年に市電が廃止になり、この1台と海南市にある1台を除いて、海底に魚礁として沈められたそうです。

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最後に、大型の滑り台。
随分急角度で、高さも通常の1.5倍ぐらいあるのではないでしょうか。
子供たちに大人気でした。

これ以外にも記念碑など数多くありますし、地形的にも面白く、かなり見応えのある公園でした。

<関連記事>
 日常旅行日記「近代の公園目次」

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2018年12月30日 (日)

紀三井寺を知る(和歌山市)

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このところラジオ塔づいています。
今度は紀三井寺に確認に行きました。
ここは昭和15年にラジオ塔が建てられた記録があるそうです。
紀三井寺の名前は昔からよく聞きますが、大きなお寺なのかなぐらいの認識しかありませんでした。

JRの紀三井寺駅を降りたときの印象は、思ったより静か。
もっと観光地っぽいのかと思っていました。

山沿いの旧道をたどろうと旧道に入ったところ、逆方向に「吉祥水」という案内板が立っていました。
関係ない(と最初は思った)のですが、湧き水などは好きなので、ちょっと寄り道。
階段を上っていきます。

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するとそこには江戸時代1650年に紀州徳川家初代藩主頼宣公が整備させた水槽や銘刻、石樋、敷石等がありました。
知らなかったのですが、紀三井寺の三井は、同じ名草山麓にある吉祥水、清浄水、楊柳水の3つの井戸から来ているのですね。(ちなみに滋賀の三井寺は御井であって、3つではないらしいです)

それもずっとここにあったというものではなく、終戦前後の天災(1944年の昭和東南海地震や1946年の南海地震?)で土砂が崩落して埋没、昭和55年に周辺が宅地開発される際、有志が現地を確認して水槽を発掘、守る会が山内を探索して地下水脈を発見して導水したというドラマチックなことがあったそうです(案内板より)。

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ここからの眺めは良く、和泉山脈まで見えています。
写真が小さいので分からないかもしれませんが、右手奥のボーリング場の左に和歌山城が見えています。

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途中、道脇に巨石がごろごろしている旧道をたどっていくと、紀三井寺の門前に出ます。
急に観光地らしくなりました。
(これは帰りに撮った写真)

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門前の灯籠の足元に紀三井寺村道路元標があります。
まさに中心。

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紀三井寺の入口まではほぼ平坦で、ここから急に参道が立ち上がっています。
楼門が見えています。このあたりから、キョロキョロとラジオ塔の痕跡がないか探し始めます。
ある程度の広さがある広場なども確認。

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楼門をくぐると、ここからいくつかの踊り場をはさみながらまっすぐの階段。
脇には見上げるような紀州青石の石垣です。
実際に見るともっと急な階段に見えます。

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参道脇にあるのが三井の一つ、清浄水です。
もう一つの楊柳水には今回行けませんでした。

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メインの階段は花崗岩かと思いますが、脇に紀州青石の階段もあります。
石垣と一体化して、どこまでも積み上がっていく紀州青石。

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階段を上りきって振り返るとこんな感じ。海が見えます。

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本堂前は舞台状になっていて、ここからは和歌浦が見えます。
ここで初めてこの場所の意味を知りました。
和歌浦が一望できるベストの場所なんですね。
いい水が出て、眺めが良い、場所ありきなのかも。

紀三井寺は、奈良時代の770年、唐僧の為光上人によって開基されたそうです。
西国三十三所観音霊場の第二番札所になっています。

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本堂前の線香立て。
お寺の紋も、三つの井なんですね。
3体の鬼?が支えています。

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100円払って、2002年に出来たばかりの新仏殿の3階廻廊に上がると、さらにさえぎるもののない景色が見られます。こちらは南の方。

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北の本堂の方を見るとこんな感じです。
本堂前が広場になっていますでしょう。
ラジオ塔を置くとしたらこの広場のあたりかな。

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西を向けば、和歌浦の長い砂嘴、片男波が一望できます。

新仏殿の当番をされている女性にラジオ塔のことを尋ねてみたところ、昔から門前に生まれ育った方だそうですが、記憶にないそうです。ただ、門前の土産物屋が並んでいる道で昔からラジオ体操をやっていて、今もやっていると教えていただきました。
ここまで上がってくるのは大変なので、門前の方が可能性が高いような気もします。

さらに土産物店の方々にも聞いてみました。
昭和20年代からここでラジオ体操はしていたけれど、ラジオ塔の記憶はないそうです。
今回も残念ながら見つけることはできませんでした。

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ラジオ塔は置いておいて、さらに周辺を探索。
若宮八幡神社の忠魂碑。
ちょっとアールデコが入っている?

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若宮八幡神社の参道に古そうな橋が架かっていました。
八幡橋という名前です。昭和○年と書かれていますが、肝心の何年かが読み取れません。
見たところ、セメントで補修しながら使い続けられているようです。

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この川は水運に使われていたのか、所々、川に降りていくスロープがあります。
護岸が紀州青石なので、表情に味わいがあります。

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この川に沿って歩いて行くと、JRの線路の向こう側に煉瓦の橋脚が見えます。
後で調べると、南海和歌山軌道線という市電が和歌山駅から和歌浦、紀三井寺、海南を結んでいて、この区間は明治44年にできたらしいので、その頃のものかと思います。今は自転車道になっているようです。

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後で和歌浦まで足を伸ばしました。
正面の山裾に見えているのが紀三井寺です。
思ったほど高くはありません。

和歌浦と一体なのだというのがよく分かります。

和歌浦の方も歩いてみます。

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2016年1月11日 (月)

60年代レストランSun(和歌山県橋本市)

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和歌山県橋本市の紀ノ川沿いに、Sunというレストランがあります。

橋本駅前の通りを下っていくと、紀ノ川沿いを走る国道にぶつかるので、そこを左折してすぐですから、駅から徒歩5分ちょっと。
前からあるのは知っていましたが、あまり気に留めたことはありませんでした。
しかし、初めて入ってみたところ、なかなかいいんです。

まず見ての通り、角丸の窓で60〜70年代の雰囲気を醸し出しています。
観光道路のドライブイン・レストランの風情。

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※クリックすると拡大します

中もまた60年代の雰囲気です。
このテーブルと椅子。
どこかに50周年の文字があったと思います。とすると1965年頃?
スパゲティのナポリタンとか頼みたくなります。

そしてもう一つ特筆すべきはその眺め。
わざわざ2階にレストランを作っているのですが、南側が全面ガラスになっており、紀ノ川の流れが見下ろせるんです。南海電車が鉄橋を越えていくところも眺められます。

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※クリックすると拡大します

記事にしたのはそれだけではありません。
駐車場の下に目を転じると、気になる煉瓦構造物が。
いつの時代のものでしょう。

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刻印も確認できました。
六光星です。加えて、その右にも別な刻印があります。タ?
橋本市では六光星の刻印を見る機会が多いです。

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駐車場から降りていく煉瓦の階段があって、その先に煉瓦の構造物が見えています。
アーチ型の開口も見えていて、気になりましたが、降りていくのはためらわれました。

気になってレストランの方にもたずねたのですが、とくに情報は得られませんでした。
こちら方面にお越しの方、ぜひレストランで60年代の雰囲気に浸って、紀ノ川の眺めを堪能し、古いかもしれない煉瓦も眺めてみて下さい。

<関連記事>
 「六光星を追って津守へ」

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2009年10月 9日 (金)

加太砲台跡など(和歌山市)

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「友ヶ島第4砲台跡」の続きです。
友ヶ島から加太港へは最終便の1便前に戻りましたので、まだ少し加太を散策する時間がありました。
岬に向かって歩いていくと、紀州青石積みの石塀がありました。荒々しく積んだ方が紀州青石らしいのですが、非常にきれいに加工して積んでいます。

紀州青石というのは和歌山付近で採れる緑泥片岩で、同様の青石は中央構造線に沿って、伊勢、阿波、伊予などでも見られます。

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さらに進むと大きな近代和風旅館の吾妻屋旧本館がありました。
昭和8年の建築だそうです。老朽化のため、残念ながら使われていません。

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その向こうには加太淡嶋神社があります。
友ヶ島のところで、元は神島にあったと書いた神社です。
拝殿の外廊下の上と下に何か見えますか?

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境内に夥しい数の人形。この神社は人形供養で有名な神社です。
ここは招き猫ばかりですが、タヌキばかり、舞妓さんばかり、博多人形ばかり、などなど人形ごとにグルーピングされています。ある意味、博物館です。

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ところで、神社の参道に江戸時代・文政13年(1830年)の千度石がありました。側面に「渡海安穏」とあります。廻船問屋が奉納したのでしょうか。
千度石というのもあるのですね。たいへんな願掛けです。

ちなみに参道にも紀州青石が敷かれています。

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まだ時間があったので、吾妻屋旧本館の脇から、山の上にある和歌山市立加太少年自然の家に登りました。1日の終わりには結構きつい登りです。
その入口前にあったのが、この建物。このシリーズを読まれた方はお分かりですね。便所です。
この手前にも数棟の民家があって、それも元は砲台の附属建物だったそうです。そう、ここも砲台跡なのです。

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「関係ない大人は入るな」という趣旨の警告にひるみつつ門をくぐると、すぐに砲台関連施設がありました。友ヶ島で散々見てきましたのですぐ分かります。
勝手に入るわけにはいかないので、事務室に出向いて見学許可をもらいました。ついでに砲台の位置を尋ねて地図をもらいました。砲台とは書かれていませんが、地図の形にははっきり現れています。

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メインの建物のすぐ脇には加太砲台跡があります。ここが砲座のようです。
加太砲台は明治35〜37年に建設された砲台なので、友ヶ島の砲台よりは10年ほど新しい砲台です。

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中に入れる部分もあります。
ここは観測所だとのこと。

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くぐり抜けて振り返るとこうなっています。

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ここから園内の歩道をさらに登っていった先に家族の広場とアスレチック遊具があります。
ここは同じく明治35〜37年に建設された田倉崎砲台跡だそうです。
アスレチックと一体で冒険心を増しています。

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棲息掩蔽部というそうです。
倉庫に使われている風。

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弾丸置き場のくぼみにはバーベキューの薪がぎっしり。
しっかり活用されています。

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極めつけはこの滑り台。
砲座跡の池と海を眺めながらの絶景滑り台。
すごいレイアウトやなあと思います。
子供がいなかったので、私も一回滑ってみました。

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戻る途中、来るときには気付かなかった遺構がありました。
右翼観測所の跡だそうです。

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この上は、みはらしの丘として紀淡海峡を眺めることができます。
さっき渡ってきた友ヶ島も全景が見えます。
この景色を目に納めて山を下りました。

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加太駅に向かって歩いていると、側溝になにやらゆらゆらするものが。
なんとイソギンチャク! しかし、いくら海が近いと言っても・・・

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不思議に思って川上に目をやると、貝屋さんがあって、海水を掛け流していました。なるほど。

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加太の集落にはこのような旅館風建築もあります。

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落ち着いた町並みがあって、加太の町を歩くのもまたいいと思います。
加太の集落については、このシリーズの最初「加太港へ」でも紹介しました。

肝心の六光星の煉瓦刻印は確認できませんでしたが、多くの砲台跡・附属建物など近代化遺産を見ることができ、とても充実した一日でした。加太・友ヶ島はかなりお勧めできます。
歩くには遠いので訪れませんでしたが、加太の北には深山第1〜3砲台跡などもあります。
こちらも元気がある方はどうぞ。

なお、由良要塞や友ヶ島砲台、加太砲台については、図解入りなど、もっと詳しい解説をされているページがたくさんあります。「由良要塞」、「友ヶ島砲台」などで検索すると見つかりますので、ご覧になってみて下さい。とくに「由良要塞」のHPが分かりやすいです。

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2009年10月 7日 (水)

友ヶ島第4砲台跡(和歌山市)

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第3砲台跡を出れば、後は第4砲台跡のみ。
しかし、既にいろいろ紹介しましたように、島には砲台跡だけでなくいろいろな遺構があります。例えば、この穴などやはりわざわざ掘ったものではないでしょうか。ちょっと不気味。

他に探照灯(サーチライト)跡といって、夜間、敵艦を照らし出すための設備の跡があるのですが、入る道を間違えて下まで降りてしまいましたので、今回探訪はあきらめました。

下にはまた芝生のキャンプ場があります。
第4砲台跡は少し離れていて、島の東側の山にあります。
再びゆるやかな道を上っていきます。

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木々の切れ目から神島が間近に見えます。
以前にも書きましたが、加太淡嶋神社がもともとあったとされる島です。

この道は沖ノ島(この島)の東にくっついている虎島まで続く本道で、途中、鋭く切り返すように、第4砲台跡に向かう道がついています。

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歩いていくとすぐ壁が現れました。
昔は建物が建っていたのかもしれませんが壁だけ。

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そこから左に折れると門と、向こうに崩れた建物がありました。
瓦屋根が落ちてしまっているので中には入れません。

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崩れた建物の右横に掘りこまれた道があり、また弾薬支庫らしきものが現れます。
ここは小規模です。明治23年に着工して、明治25年に竣工した砲台だそうです。ただ、終戦まで使われていた他の砲台と違い、大正時代に既に放棄されたという記述も見ました。

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奥まで行って後ろを振り返ったところ。
ここには誰もいないので、遺跡に浸れます。

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またこれも第3砲台跡で見たような構造の地下入口と階段がありました。

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井戸の跡?

090815no4houdai9ここに刻印がありました。
放射状の五本線は堺煉瓦の刻印です。
これで大阪の代表的な煉瓦会社は揃い踏みです。

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井戸から先、道は左回りに台地を回って裏側には井戸のある広場がありました。
草に覆われて砲座の跡などもあるようです。
位置関係をよく把握できないまま撤退しました。

その後も落ちている煉瓦に気はつけていましたが、六光星の刻印はとうとう見つけることはできませんでした。
絶対ないのかというと、ないとも言い切れないのですが。
残念ながら、もう戻らないといけません。

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路側に石を並べて整備された道を歩きます。

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ちなみに路側の石は道路を開くときに出た石らしいというのが、この露頭を見ると分かります。

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ほぼ見るべき所は回りましたので、16時30分の最終便を待たず、15時30分の臨時便で加太に帰りました。

六光星の刻印の煉瓦を確認するという最大の目的は達成できませんでしたが、友ヶ島の砲台跡などの遺構群は非常に見応えがありました。友ヶ島砲台については、たくさんの人が私よりずっと詳しく解説され、美しく写真に撮られていますのでご覧になってみてください。そしてできれば実際に見に行ってみてください。懐中電灯をぜひお持ちになって。

六光星の刻印についてはまた別の手がかりを探そうと思います。

お読みいただきありがとうございました。
この旅はもう少し、加太の話を続けます。

この続きは、「加太砲台など」

(追記)
 2009年11月14日に南海電鉄が主催の友ヶ島ウォークが開催されるのですが、50人の定員が10月中に既に満席。人気が出ているんですね。(2009.11.1)

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2009年10月 2日 (金)

友ヶ島第3砲台跡(和歌山市)

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いよいよ友ヶ島第3砲台跡−最も規模が大きく、整っている砲台−に入ります。
タカノス山から降りてくると、2つの池が目に入ります。
まるで庭園のようですが、池になっているのはたまたまで、ここは大砲の置かれていた砲座の跡です。大砲が撤去されたくぼみに水がたまったという訳です。

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裏側なんですけど、降りてみることにしました。
大砲の据えられていた空間をぐるりと煉瓦の壁が取り巻いています。
向こうにトンネルが見えます。

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興味をひかれてトンネルをくぐってみました。

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トンネルの先にはまた大砲の置かれていた空間があります。
ここは乾いた庭です。

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さらにトンネルをくぐると沼地のような中庭。
映画だったら沼からワニぐらい出てきそうな不気味さです。
もう1つくぐってそれ以上進めなくなり、横の土手を登って表側の通路に降りました。

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表に出てみるとしっかりした案内板が立っていて、ようやくどうなっているのかが分かりました。私は右上のメガネ型の中庭(砲座)に降りて、左端の砲座までくぐったわけです。
こういう配置図があれば非常に分かりやすいのですけど、設置されているのはここだけです。
第3砲台は、明治23年に着工して明治25年に竣工したそうです。

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全体配置が分かったところで先に進みます。
通路は所々掘りこまれて地下に入口が口を開けています。
これは先ほどの砲座につながっていたと思われます。
今はふさがれていますが。

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階段は石で、角が丸められています。
丁寧に作られていますね。

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先に進むと一段下がって、弾薬支庫が連続する空間です。
友ヶ島の砲台ではここの写真が最もよく紹介されていると思います。
煉瓦の構造物、そして絡まる緑が美しいので。

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私が気に入ったのはこの階段です。
とても美しいカーブ。

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突き当たりは行き止まりのように見えて、左側にトンネルがあります。

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トンネルを抜けて振り返るとこんな感じです。
ルートが逆ですね。

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トンネルを抜けると、屋根の抜けた廃屋があります。
これは発電所の跡らしいです。

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そしてその斜め前には監守衛舎跡、あるいは将校宿舎跡。
煉瓦と木造折衷の住宅です。

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危険なので中には入れませんが、覗き込むことはできます。
ここは炊事場の土間でしょう。一部畳が張ってあったであろう床が分かります。

ここでもやはり煉瓦の確認を忘れてはいけません。
先ほどの煉瓦の弾薬支庫はきちんと残りすぎていて刻印は確認できませんでした。

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地面には住友マークの貝塚煉瓦、住宅脇の壁には×印の岸和田煉瓦。

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ここでは日本煉瓦(堺市)と推定される四弁花の刻印もありました。
しかし、これだけいろんな種類があるのにどうして六光星の刻印はないんでしょう。

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出口は切り通しになっていて、いざとなれば閉じられるようになっています。
いや出口ではなくて、ここが入口なんですね。
全く逆ルートをたどってしまいました。

この第3砲台跡はさすがに見応えがあります。
オンシーズンといってもここまで登ってくる人は少なく(多くは海水浴と磯遊び)、静かに煉瓦建築にひたれました。


*ところでこの記事で500本目の記事となりました。
 ここまで4年ちょっと。記事が1000本を越えるとステージが上がるそうなので、1000本に向けてこつこつ書いていきたいと思います。

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2009年10月 1日 (木)

友ヶ島第5砲台跡と展望台(和歌山市)

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海軍聴音所跡を見た後は本道に引き返し、山道を登ります。
途中、第5砲台跡を見るため、野奈浦の方に下る道をたどりました。
どこまで降りればいいのだろうと不安に感じだしたころ、森の中に煉瓦の門柱が現れました。
奥にはまたしても便所が見えます。

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これは洗い場でしょうか。

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第5砲台跡自体は草木に覆われてどこか東南アジアの遺跡みたい。
この砲台は最も新しく、明治36年着工、翌年竣工だそうです。
津守煉瓦(明治30年創業)が使われたとすれば最も可能性の高い砲台ですが。

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ドーム状の横穴の入口に、煉瓦の壁が立っています。
なんとか煉瓦の刻印を見つけようとしましたが、見つけられませんでした。

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横の山に登って全体を眺めると、ますます密林の遺跡みたいです。

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また本道に戻って山を登ります。
それにしても歩きやすい。軍用車両が通るからでしょう。このように平坦に整備されているので、想像したよりかなり楽に歩けます。
この道の向こうに小さな展望台がありました。

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野奈浦に泊まる定期船とその向こうに神島が見えます。

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道路の話をしましたが、路側はこのように石を組んで側溝がつくられています。すばらしい。

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登っていくと道の脇に便所がありました(もういいですか?)。

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第3砲台跡を横目に見つつ、まずは島の最高点・タカノス山に登ります。
頂上は芝生の広場で大展望台があります。しばし休憩。

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最高点だけあってさすがの眺め。
東の方は隣の地ノ島から紀伊半島につづく山並みが眺められます。

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西は淡路島、四国が眺められます。
さっきいた友ヶ島灯台が小さく見えます。

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最高地点には一等三角点が置かれていました。
標高119.9m。明治18年に設置されたそうです。
この石積は味がありますね。

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なお、このタカノス山の隣には航空用無線標識のVORがあります。
これは関西国際空港の開港時に設置されたそうです。
海だけでなく、空の交通でも要衝になっているのが面白いですね。

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2009年9月30日 (水)

友ヶ島灯台と第1砲台跡(和歌山市)

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第2砲台跡を見た後は友ヶ島灯台のある高台に登りました。
昔は小島だったのがつながったのでは、と思う地形です。
ちょっとした坂道を登ると、ほとんど頂上近くで道の脇にトンネルが現れます。
残念ながら扉が閉じられていますが、これが友ヶ島第1砲台跡の入口です。

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扉の隙間から覗き込むと暗い煉瓦のトンネルの向こうに明るい中庭が見えます。

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階段を登り、中庭を上から覗き込むと、このようにいくつもの窓が中庭に開かれているのが分かります。上からも入ることはできません。
友ヶ島第1砲台は明治22年に着工して翌年竣工した、友ヶ島で最初の砲台だそうです。
(すみません、ピンぼけです)

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砲座だけでなく、両翼に観測所があり、このような装甲掩蓋まで残っています。先ほどの中庭からこの観測所までは浅い通路でつながれているようです。

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第1砲台跡の隣には友ヶ島灯台と旧吏員退息所があります。
この灯台は英国人技師ブラントンの設計で明治5年に建設され、明治23年に第1砲台の建設に伴って東に移設されたものです。

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高さ12.2mで、近くで見ても大きな灯台ではありませんが、
石造(花崗岩)の貴重な灯台です。
毎年5月と11月に一般公開されるようですよ。

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灯台にはプレートがはまっていて、

 明治五季六月廿七日初点灯於旧台
 明治廿三季八月五日再点灯於新台

とあります。先ほどの移転の記録です。

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旧吏員退息所は明治3年に建設され、昭和55年に改修されているそうです。
明るい石積みの建物。

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灯台の先は眺めの良い芝生になっています。向こうは崖。
この灯台にはもう一つ特徴があって、ほとんど東経135度上にあります。つまり明石の真南。東経135度・日本標準子午線の標識が近くに立っていました。また、東経135度が通る日本の陸地としては最南端なんだそうです。本州でも四国でもなく、ここ友ヶ島を通っているのも不思議で、いっそう特別な場所という感じがします。

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ところで、灯台のそばの地面を見ていて、刻印煉瓦が落ちているのを見つけました。
この刻印は丸に3本線の最大手・大阪窯業です。またしても六光星ではない。しかし、第2砲台跡では岸和田煉瓦でしたので、使われた煉瓦は1種類だけではないということですね。

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頂上を一回りして、別のルートで丘を下りました。
坂の途中の脇道に廃墟があったので寄り道をしました。
煉瓦の積み方からして便所かもしれません。

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丘の下は池尻浜のキャンプ場になっています。
池の脇に建物跡がありました。
住宅だったのでしょうか。基礎と便所らしき建物(またか)だけが残っています。

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島にはあちこち井戸が掘ってあります。
こんな風に年代物のポンプが今も現役です。
キャンプ場にはぴったり。

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ここからが本格的な山道(といっても知れていますが)です。
島の最高点に続く遊歩道を上っていくと、途中に分岐があって「海軍聴音所跡」の矢印があります。
興味をひかれる名称なので、もちろん寄り道します。
途中、唐突に上の写真のような貯水槽が現れました。
島なので水が貴重だったのでしょう。

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そして岬の先に海軍聴音所跡はありました。
いかにも軍事施設然としています。
昭和16年頃といいますので、砲台の作られた時期から50年ほど下ります。
島で唯一の海軍関連施設で、砲台はみな陸軍の施設とのこと。
なんと2002年に「発見」されたらしい。

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荒廃していてちょっと怖い雰囲気。
全く注意書きがなかったので、ずんずん入っていきましたが、もう少し注意を払うべきだったかもしれません。

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海が見渡せる部屋。なぜか壁の煉瓦はところどころ抜いてあります。節約のため?
海軍聴音所とは、紀伊水道に進入してくる潜水艦のスクリュー音を聴いて発見するための施設だそうです。実際に入ってきた潜水艦はなかったようですが。

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外から見ると目立たぬようになっています。
壁に石を積んでみたり、工夫をしています。

090815todai19海軍聴音所の前に赤煉瓦が落ちていました。刻印は、私は初めて見る分銅型です。東京の小菅集治監(監獄)製の煉瓦には、桜とともに分銅型があるそうです。海軍は調達先が違うのでしょうか。

刻印はいろいろ見つかるのに、肝心の六光星の刻印はありません。
ここである考えが浮かびました。砲台ごとに使われている煉瓦が違うのでは、という。
期待しつつ、第5砲台跡に向かいました。

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2009年9月27日 (日)

友ヶ島第2砲台跡(和歌山市)

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友ヶ島の話の続きです。
いよいよ遺跡めぐりに出発します。
砲台の遺跡は島に散らばっているので、まずは行きやすいところから、海岸沿いに歩いていける第2砲台をめざしました。

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歩き始めてすぐに神社がありました。
明治の中頃、陸軍による要塞工事に送り込まれた人たちが工事の無事を祈願して建てた神社だそうです。神社もまた近代化遺産です。

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道の脇を見ていると排水溝なども石できっちり組んであって感心します。

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用途不明の煉瓦建築がありました。
窓が小さいので倉庫でしょうか。

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道は非常に歩きやすい道です。
例えば、ここなど小さな入り江を突っ切って土手道がつくられています。軍用道路を踏襲しているのでしょうか。

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小さな岬を回ると淡路島との海峡が目に入ります。
左側の岬の先端に破壊された第2砲台跡があります。
タンカーの大きさと比べれば、海峡の狭さが分かるでしょう。

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岬の手前に旅館と食堂があります。

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第2砲台跡に到着。
当たり前ながら、どの砲台も目立ちません。

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間近まで近づいてようやくその様子が分かります。
友ヶ島第2砲台は明治31年に竣工したそうです。紀淡海峡防衛のために設置されたのですが、第2次大戦では船より飛行機が主体になったため、戦闘には関わらないまま終戦を迎えました。しかし、終戦直後に爆破されています。物騒だからでしょうね。

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さらに近づくと地下にもう1層あることが分かります。
明治の煉瓦建築は美しいですね。
残念ながら立ち入り禁止です。

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反対側に回ってみると、破壊されてごとごと崩れた様子が分かります。
廃墟の美を感じます。
私はイギリスの海岸のお城をイメージしました(要塞はフランス式らしいですが)。

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岬には芝生が張られていて気持ちの良い公園になっています。
ここでのんびり海峡を通る船を眺めるのも良さそう。

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さて、私の今回の目的は砲台を見ることではありません。
煉瓦の刻印を確認する(六光星の刻印*を探す)ことなので、もう一度戻ります。
一番崩れているところで確認します。
煉瓦の刻印はたいがい「平」の面にあって、きっちり積んであれば隠れて確認できません。だから崩れている場所がチャンスなのです。

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あちこち眺めてようやく1つ見つけました。


・・・が、×印の岸和田煉瓦・・・

落胆しつつ次の砲台を目指します。
今さらですが、津守煉瓦の創設は明治30年。第1・3・4砲台はそれ以前なので、明治27〜31年に建設された第2砲台、明治36年に建設された第5砲台しか該当しないのですよね。

*:これまでの経緯
 大阪で時々見かける六光星の刻印がどこの煉瓦会社なのか知りたくなった私は、消去法で津守煉瓦ではないかと推測しました。大阪の津守煉瓦工場跡では決定的な証拠を見つけることはできず、津守煉瓦が友ヶ島の要塞建設に使われたという噂をもとに友ヶ島に向かいました。
 →詳しくはこちら


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2009年9月23日 (水)

友ヶ島上陸(和歌山市)

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前回の続きです。
終戦記念日の8月15日、要塞のあった友ヶ島を訪れました。
目的は煉瓦の刻印を確認するためです。(→「六光星を追って津守へ」からの流れ)

友ヶ島は紀伊半島と淡路島の間、紀淡海峡に浮かぶ4つの島(沖ノ島、地ノ島、虎島、神島)の総称です。上の写真で左が沖ノ島、右が地ノ島です(奥が淡路島)。船が大阪湾に入る交通・防衛の要衝のため、明治22年以降、友ヶ島には紀伊半島側、淡路島側とともに砲台が設けられました。その砲台が煉瓦でできているわけです。以後、友ヶ島は第2次大戦の終結まで一般人の立ち入りが厳しく制限された要塞の島でした。

今回訪れたのは沖ノ島です。
今は海水浴とキャンプの島になっています。
(他の島には公共交通はありません)

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交通手段は友ヶ島汽船(株)の船のみ。
通常期は1日4往復、GWと夏場は7往復に増便されます。
(冬場は2往復のみ。火・水は運休)

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運賃は往復2000円でした。
戻ってくるしかないので往復で買います。
やや高めですが、やむなし。

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この日は夏休みなので50人ぐらい乗っていたでしょうか。
結局、弁当を買うことができず、港の売店でスナックを買って乗り込みました。
加太の漁港を後にします。

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船は地ノ島と小さな虎島の間を抜けます。この写真は虎島。
虎島は満潮時に水没する道でかろうじて沖ノ島とつながっています。
今回は訪ねませんでしたが、虎島にも保塁跡があります。

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沖ノ島の北側に浮かぶ小さな神島。
加太の淡嶋神社はもともとここに祭られていたそうです。
加太淡嶋神社はできれば後日紹介します。

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船は20分ほどで北岸にある野奈浦の桟橋に到着しました。
港はここだけです。先に到着している人たちもいて賑わっています。

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ここで地図を確認。左下が北なのでご注意を。
曲線の先が現在地・野奈浦です。

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さっそく砲弾がお出迎えです。
友ヶ島の第3・第4砲台に配備されていた8インチ砲の弾丸と説明されています。

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ここ野奈浦には民宿・友ヶ荘が冬季を除いて営業しています。
実は食堂があって、ここで昼食を食べることはできるのでした。
灯台の近くにもう1軒、冨士屋という民宿・食堂もあります。
島には何もないと思いこんでいました。
もちろん自販機もありますし、缶ビールすら売っています。

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あと、もう1つの思いこみは、見るべきものは5つの砲台だけだと思っていたことです。実際には他にも様々な建物・遺構が残っているんです。
例えば野奈浦の奥にもこのような建物群があります。
奥に煉瓦の煙突なども見えますでしょう。兵舎だったのでしょうか。

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近づくとこのようになっています。
当然ながら立ち入りは禁止です。
今はどう使われているのでしょう。

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この建物は恐らく便所。
島のあちこちで見かけました。
片側だけ腰まで煉瓦を積んでいるのが特徴です。

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広場の奥にある縦板の木造建築。

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押し縁下見板の木造建築。

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桟橋を振り返ると、ちょっとした芝生の広場が広がります。
この広場も軍事用に使われていたのでしょうね。
あるいはもっと建物があったのかもしれませんが。

一休みしたら島内の探索に出発します。

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