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2019年1月 3日 (木)

石切場跡の岡公園(和歌山市)

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昨年6月に行った和歌山の岡公園を紹介します。
和歌山の公園といえば、和歌山城のある和歌山公園が有名ですが、その南にそれより古くて見どころも多い公園があるんです(後で知ったのですが)。

灯籠形の門柱の左奥に見えている山は、天妃山と呼ばれているようです。

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この公園、紀州青石(緑色片岩)の露頭があって、それが遊具になっているというもユニークです。

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そしてこちら、割られているのが分かりますでしょうか。
和歌山城築城時の石切場跡です。ここから切り出された紀州青石が天守閣や本丸周辺の石垣に使われているそうです。
ロッククライミング禁止の立て札も立っていました。

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次に触れますが、紀州藩時代には天妃山(弁天山)の周辺を屋敷が取り巻いていたので、その名残でしょう、井戸があります。

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そして岡の登り口の右手に岡公園碑がありました!。明治29年に建てられ、公園開設の経緯が記されています。
まずは原文から。漢文調で書かれているので、文の切れ目もなく、ずらずらと書かれています。


 岡公園記

岡公園辨天山𦾔址也初元和中徳川頼宣封於
紀伊也諸士第宅環繞山麓而辨天
山秀乎其中一登為則城内可俯視也以故藩制
不許登臨維新以降第宅頽敗鞠為
茂艸而辨天山草樹弥茂灌莽弥深終為狐狸蛇
蝎之窟矣明治十三年𦾔藩主徳川
茂承縣令神山郡廉及陸軍大佐岡本兵四郎諸
人憑弔佐賀熊本臺灣西南四役殉
難者為建記念碑於此相地興工艸樹去而奇石
出灌莽除而清泉迸旬是縣民漸有
遊覧於斯者十七年縣令松本鼎等又於山下設
亭榭以為遊息之所及二十七年縣
議始請於官以辨天山為公園併山下亭榭附属
之地在岡山之東國史云
聖武天皇神亀元年幸玉津島造離宮於岡東盖
斯地也命曰岡公園者所以用古名
也然有公園之名而未有公園之實焉去載予又
欲於山巓建我縣討清軍人紀功之
標詢之一縣吏民同聲一辞莫不賛襄者焉於是
園工又大作而公園之實始完矣盖
山勢雖不甚高而樹木蓊然以深導山之餘浸以
為坡池岡山之凸石以為丘阜惟要
去樔翳以就修潔不以人工而破天然老松古栢
有深山之氣奇花異艸有幽谷之美
其廣可以逍遙為其樂可以盤桓焉而前臨古城
則思念封建将士尚武之形況左顧
岡山則敘仰往古 帝王右文之氣象近誦記念
碑碣則知國家三百年養士之有素
則凡遊於斯園者非持花晨月夕俯仰徘徊以養
生也而其於左右顧肇之閒養氣者
亦為不尠焉

明治二十九年夏五月
 和歌山縣知事従四位勲三等沖 守固 撰
          正五位日下部東作書并篆額


 ※不正確かもしれませんので参考程度にご利用下さい。

 これでは意味が分からない人も多いと思うので、私なりに現代語訳してみます。
 ざっくりしてますので、部分的には間違っているかも。
 
 岡公園記

 岡公園は弁天山の旧蹟である。元和年間に徳川頼宣公が紀伊に封ぜられ、武士の邸宅が山を取り巻いた。弁天山に登ると城内を見下ろすことができるので紀州藩時代は山に登ることが禁止されていた。明治維新以降、邸宅は荒廃し、雑草が茂り、弁天山には草木が生い茂り、ついには野生動物の巣窟となってしまった。
 明治13年、旧藩主の徳川茂承、県令の神山郡廉、陸軍大佐の岡本兵四郎らは、佐賀・熊本・台湾・西南の四役の殉難者を弔うため、この地に記念碑を建てた。草木を取り除くと奇石が現れ、雑草を取り除くと清泉が迸った。ここでようやく遊覧する者が来るようになった。
 明治17年、県令の松本鼎らはまた山の下に東屋を設け、遊びや休憩の場所とした。
 明治27年には県が弁天山を正式に公園として請願した。山の下の東屋附属の地は岡山の東にあり、これは国史にいう、聖武天皇が神亀元年に玉津島に行幸し、離宮を岡の東に造営したというのがここであると。岡公園の命名はこの由緒ある名前からとったものである。しかるに公園の名前はついたが公園の実はなく、山上に我が県軍人の日清戦争での功績を称えるモニュメントを県の役人・県民全員が賛同して、公園の工事を大々的に行い、公園の実が初めて成った。山はそれほど高くないとはいえ、樹木の陰は深く、山の湧水を池とし、岡山の突き出た石を丘として、茂みを刈って整えれば、人工によらなくとも天然の老松古柏には深山の雰囲気があり、珍しい草花には幽谷の美がある。広く逍遙して楽しみ、歩き回り古城に向かって封建時代の武士の武を貴ぶ様子を思い、左に岡山を見ては、古を思い、帝王が文章を重んじた気配を記念碑を読むことで思い、国家300年の士を養うもととなる。
 およそこの公園に遊ぶものは、花(春)の朝方、月(秋)の夕暮れでなくとも、見上げ見下ろし、歩き回って養生し、左右の碑文に鋭気を養うものが少なくないはずだ。

 明治29年夏5月 和歌山県知事 従四位勲三等 沖守固 撰
                      正五位 日下部東作 書ならびに篆刻

 最後の方、分かりにくいですが。

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ということで、公園内を見ていきます。
紀州青石の広い階段を上っていきます。

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オブジェのような石の水盤がありました。

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途中、たくさんの記念碑がありましたが、きりがないので省略します。

こちらは岡公園記に出てきた、四役戦亡記念碑(明治12年)。
幸い、解説板がありますので、そこから抜粋します。
四役とは、明治7年から10年の間に起こった佐賀の乱、台湾出兵、熊本神風連の乱、西南戦争のことで、和歌山県出身者では491名が戦死したそうです。

隣には「四役戦亡記念碑側記」(明治16年)が立っています。


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そして一番高いところには、巨大な槍先のモニュメントが空に聳えています。
これが岡公園記に出てきた征清記念標(明治28年)というものです。
大阪砲兵工廠で作られたものです。
運び出せなくて、金属供出を免れたのでしょうか。

登ってみたかったのですが、モニュメントの下は学生のたまり場になっていて、遠慮しました。

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近くにはモニュメントの説明である征清記念標碑(明治28年)があります。

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足元からでも、結構眺めが良いです。

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東側に降りてみます。
古そうな石橋があります。
こちら側に東屋があったとのことでした。

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庭園のような流れが作られていて、弁天さんなどがあります。
弁天山に祀られていた弁天さんなのでしょうね。

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岡の南の池。
石切場跡に水がたまったものかもしれないとのことです。

もともとあったものは以上ですが、昭和になって移築されてきたものもいろいろあります。

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こちらは武徳殿。武道館です。

和歌山県建築士会さんの記事によると、明治38年に和歌山市真砂町に建設された後、昭和36年に現在地に移築されたそうです。

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「大和歌山市街地図」(昭和6年)

昔の地図を見ると、岡公園の西の方に武徳殿と記されています。
岡山の場所もこれで分かりますね。

ここに描かれている公会堂は今はありません。

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また北側には旧大村家住宅 長屋門があります。
解説によると、江戸時代末期、現在の東坂ノ上丁に建てられ、明治30年頃に所有者が変わって堀止東に移築、解体されそうになったところを和歌山市が引き取って、2017年に現在地に移築され、公開されています。

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公園の東には茶室 夜雨荘があります。
江戸時代後期の武家の茶室で、昭和62年に移築されました。

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また建物以外にも蒸気機関車も保存されています。
昭和14年に製造され、大阪、白河、大宮、鹿児島、宇治山田などを回って、最終的に昭和47年まで紀勢線・和歌山線を走って引退したものだそうです。そして昭和48年に岡公園に移されました。

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もう一つ、チンチン電車三二一号というのもあります。
解説によれば、昭和46年に市電が廃止になり、この1台と海南市にある1台を除いて、海底に魚礁として沈められたそうです。

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最後に、大型の滑り台。
随分急角度で、高さも通常の1.5倍ぐらいあるのではないでしょうか。
子供たちに大人気でした。

これ以外にも記念碑など数多くありますし、地形的にも面白く、かなり見応えのある公園でした。

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 日常旅行日記「近代の公園目次」

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