« 2018年9月 | トップページ | 2019年1月 »

2018年12月

2018年12月31日 (月)

2018年を振り返る

181231hanaten_1
今日は街歩きをするつもりはなかったのですが、確認することができて大阪の放出(はなてん)へ。
いろいろ面白いものがあった中で、この物件、強いていえば車庫です。
このサイズで車が収まっていて、後ろは作業スペースなのでしょうか。
カテゴリに入れにくいものに出会うのも町を歩く楽しさです。

今年を振り返ると、書いた記事はこの記事を入れても9本という最少記録を更新してしまいました。
しかもそのうち、6本はここ一週間ほどで書いているという恥ずかしい状況。

書いてはいないけれど、たくさん出かけて、たくさん写真は撮っています。

このブログ以外では、インスタグラムなどに投稿し、ご縁があって4月には天下茶屋のBar Red Cornerさんで各地の石の風景を取り上げた「石並十色展」と「石のふるさと展」、11月には同じく天下茶屋のカエルハウスで「面格子写真展3」を開催しました。
「散歩なう」というお散歩雑誌にも投稿しています。
そういう意味ではいろんな形で発信はしています。

先日、このブログで取り上げた岸里トライアングルという(勝手に呼んでいる)エリアに、久しぶりに現状確認に行きました。
そして、消えた建物、消えそうな建物を見て儚さを感じました。

要因はいくつか見えていて、
1つには、訪日客の増加で特に大阪ではゲストハウスの建設が盛んです。
2つめには、今年の天災。大阪では北部の地震と9月の台風21号で、住む人のいる家でもいまだ屋根にブルーシートがかかっている所が少なくないですし、まして管理する人のいない空き家などは荒れるに任されています。ふだん空き家も愛でていますが、被害を受けたときのもろさを痛感しました。
そして、今後は万博に向けて各所で建設が進んでいくでしょう。

初めの頃からブログを書く上で意図していることは、消えていく近代の建物などを記録すること、できれば消える前に多くの人に見てもらうことです。

それを考えると、撮ったもの、知ったことは、公開の場に出していかないといけません。
知るきっかけにさえなれば、今は情報の入手方法はたくさんあるので、それぞれの方で調べてもらえるでしょう。
自分で仕上げなくてもいいと考えると、少し肩の力が抜けて、またブログを書きやすくなったような気がします。
それが最近の状況です。来年は恐らく更新は(今年比)かなり増えると思います。

更新の少ないこのブログを見に来ていただいてありがとうございます。

皆さまもそれぞれの世界で、よいお年をお迎えください。


<関連記事>
 「2012年のまとめ」
 「2013年のまとめ」
 「2014年のまとめ」
 「2015年のまとめ」
 「2016年のまとめ」
 「2017年のまとめ」


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年12月30日 (日)

紀三井寺を知る(和歌山市)

181224kimiidera_1_2
このところラジオ塔づいています。
今度は紀三井寺に確認に行きました。
ここは昭和15年にラジオ塔が建てられた記録があるそうです。
紀三井寺の名前は昔からよく聞きますが、大きなお寺なのかなぐらいの認識しかありませんでした。

JRの紀三井寺駅を降りたときの印象は、思ったより静か。
もっと観光地っぽいのかと思っていました。

山沿いの旧道をたどろうと旧道に入ったところ、逆方向に「吉祥水」という案内板が立っていました。
関係ない(と最初は思った)のですが、湧き水などは好きなので、ちょっと寄り道。
階段を上っていきます。

181224kimiidera_1_1
するとそこには江戸時代1650年に紀州徳川家初代藩主頼宣公が整備させた水槽や銘刻、石樋、敷石等がありました。
知らなかったのですが、紀三井寺の三井は、同じ名草山麓にある吉祥水、清浄水、楊柳水の3つの井戸から来ているのですね。(ちなみに滋賀の三井寺は御井であって、3つではないらしいです)

それもずっとここにあったというものではなく、終戦前後の天災(1944年の昭和東南海地震や1946年の南海地震?)で土砂が崩落して埋没、昭和55年に周辺が宅地開発される際、有志が現地を確認して水槽を発掘、守る会が山内を探索して地下水脈を発見して導水したというドラマチックなことがあったそうです(案内板より)。

181224kimiidera_1_2_2
ここからの眺めは良く、和泉山脈まで見えています。
写真が小さいので分からないかもしれませんが、右手奥のボーリング場の左に和歌山城が見えています。

181224kimiidera_1_4
途中、道脇に巨石がごろごろしている旧道をたどっていくと、紀三井寺の門前に出ます。
急に観光地らしくなりました。
(これは帰りに撮った写真)

181224kimiidera_1_5
門前の灯籠の足元に紀三井寺村道路元標があります。
まさに中心。

181224kimiidera_1_6
紀三井寺の入口まではほぼ平坦で、ここから急に参道が立ち上がっています。
楼門が見えています。このあたりから、キョロキョロとラジオ塔の痕跡がないか探し始めます。
ある程度の広さがある広場なども確認。

181224kimiidera_1_7
楼門をくぐると、ここからいくつかの踊り場をはさみながらまっすぐの階段。
脇には見上げるような紀州青石の石垣です。
実際に見るともっと急な階段に見えます。

181224kimiidera_1_8
参道脇にあるのが三井の一つ、清浄水です。
もう一つの楊柳水には今回行けませんでした。

181224kimiidera_1_9
メインの階段は花崗岩かと思いますが、脇に紀州青石の階段もあります。
石垣と一体化して、どこまでも積み上がっていく紀州青石。

181224kimiidera_1_10
階段を上りきって振り返るとこんな感じ。海が見えます。

181224kimiidera_1_11
本堂前は舞台状になっていて、ここからは和歌浦が見えます。
ここで初めてこの場所の意味を知りました。
和歌浦が一望できるベストの場所なんですね。
いい水が出て、眺めが良い、場所ありきなのかも。

紀三井寺は、奈良時代の770年、唐僧の為光上人によって開基されたそうです。
西国三十三所観音霊場の第二番札所になっています。

181224kimiidera_1_12

本堂前の線香立て。
お寺の紋も、三つの井なんですね。
3体の鬼?が支えています。

181224kimiidera_1_13
100円払って、2002年に出来たばかりの新仏殿の3階廻廊に上がると、さらにさえぎるもののない景色が見られます。こちらは南の方。

181224kimiidera_1_14
北の本堂の方を見るとこんな感じです。
本堂前が広場になっていますでしょう。
ラジオ塔を置くとしたらこの広場のあたりかな。

181224kimiidera_1_15
西を向けば、和歌浦の長い砂嘴、片男波が一望できます。

新仏殿の当番をされている女性にラジオ塔のことを尋ねてみたところ、昔から門前に生まれ育った方だそうですが、記憶にないそうです。ただ、門前の土産物屋が並んでいる道で昔からラジオ体操をやっていて、今もやっていると教えていただきました。
ここまで上がってくるのは大変なので、門前の方が可能性が高いような気もします。

さらに土産物店の方々にも聞いてみました。
昭和20年代からここでラジオ体操はしていたけれど、ラジオ塔の記憶はないそうです。
今回も残念ながら見つけることはできませんでした。

181224kimiidera_1_16
ラジオ塔は置いておいて、さらに周辺を探索。
若宮八幡神社の忠魂碑。
ちょっとアールデコが入っている?

181224kimiidera_1_18
若宮八幡神社の参道に古そうな橋が架かっていました。
八幡橋という名前です。昭和○年と書かれていますが、肝心の何年かが読み取れません。
見たところ、セメントで補修しながら使い続けられているようです。

181224kimiidera_1_19
この川は水運に使われていたのか、所々、川に降りていくスロープがあります。
護岸が紀州青石なので、表情に味わいがあります。

181224kimiidera_1_20
この川に沿って歩いて行くと、JRの線路の向こう側に煉瓦の橋脚が見えます。
後で調べると、南海和歌山軌道線という市電が和歌山駅から和歌浦、紀三井寺、海南を結んでいて、この区間は明治44年にできたらしいので、その頃のものかと思います。今は自転車道になっているようです。

181224kimiidera_1_21
後で和歌浦まで足を伸ばしました。
正面の山裾に見えているのが紀三井寺です。
思ったほど高くはありません。

和歌浦と一体なのだというのがよく分かります。

和歌浦の方も歩いてみます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年12月29日 (土)

公会堂跡のときわ台公園(北海道根室市)

181124tokiwadai_1
『ラヂオ塔大百科2017』の情報によれば、根室にもラジオ塔があったという記録があります。
その場所は根室町公会堂前(または公会堂構内)となっています。
公会堂が現在どうなっているか調べると、公会堂跡がときわ台公園として整備されていることが分かりました。
根室まで来る機会もそうそうないので、見に行ってみました。

ときわ台公園のある場所は駅前通りを歩いて右に折れたあたりで、ここから元官庁街が東に続いています。

181124tokiwadai_1_4
落葉しているこの季節は、公園らしさはないですが、捜しものには最適。
公園の南側は林になっています。そこに古そうな石碑が2つ立っていました。

181124tokiwadai_1_2
一つは昭和十年のもの。タイトルに記念碑とだけ書かれていて、内容は根室は発展させてきた先人たちを顕彰しています。

181124tokiwadai_1_3
側面には「粗粒玄武岩 此碑石ハ根室国花咲郡歯舞村大字モシリ島産」と書かれていて、現在は北方領土の歯舞諸島で採れた玄武岩ということが分かります。

181124tokiwadai_1_1
もう一つは行幸記念碑。
昭和11年9月28日に昭和天皇が根室公会堂に行幸されたことを記念して建てられたものです。

181124tokiwadai_1_5
公園の中には案内板があり、ときわ台公園の来歴が説明されています。
大正15年に碓氷勝三郎氏(前回少し触れた酒・缶詰・味噌の製造、タクシー会社運営などをしていた実業家)から土地の寄附を受け、公会堂は昭和6年に完成。解体時期は分かりませんが、昭和52年にこのときわ台公園が整備されています。
公共用地として寄附者の趣意を尊重し、っていい言葉ですね。

181124tokiwadai_1_7
公園の北半分は芝生の広場になっています。
ここは昭和10年の地図を見ると町役場となっています。
年表を見ると根室町役場は明治41年(1908年)にできて、昭和48年(1973年)に市役所が新築されていますので、その間、65年にわたって町役場・市役所があったのでしょうか。

181124tokiwadai_1_8
公園の北の端は崖になっていて、その下に碓氷勝三郎商店の倉庫の屋根が連なっています。
町役場の土地も含めて一体が碓氷氏の土地だったのでしょうか。

181124tokiwadai_1_9
公園の中にはいろんなものが置かれています。
例えば、根室女工節の碑。缶詰工場の女工の労働が歌われています。

181124tokiwadai_1_10
モニュメント「ラクスマン 歴史の然」(1994年)。
1792年、ロシアから根室に来訪したアダム・ラクスマンの記念碑です。日露外交の始まりとして。
制作は池田良二さん。

181124tokiwadai_1_11
今は水がないですが、池と噴水の中にアントワーヌ・ブールデル氏の「力の胸像」(昭和58年(1983年)設置)があります。
アルゼンチンに解放と勝利をもたらしたアルヴェアル将軍の勇者の一人を描いているそうです。
市民と企業の寄附により設置されたとのことです。

181124tokiwadai_1_12
こういう動物の遊具なども。

181124tokiwadai_1_13
いろんな記念碑はあるのですが、結局、ラジオ塔の痕跡らしきものは確認できませんでした。
それでも、ここは根室市民早朝ラジオ体操会の会場になっているようです。歴史のつながりを感じます。

<関連記事>
 日常旅行日記「釧路湿原美術館を訪問」
       「根室の建物」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年12月28日 (金)

根室の建物(北海道根室市)

181124nemuro_1
釧路湿原美術館を見に行った翌日(もうそれで今回の旅の目的は果たしたのですが)、丸々一日あったので、前回は行かなかった根室まで足を伸ばしました。

外を歩くと寒いだろうし、列車に乗って暖かい車内から景色を眺めるのも良かろうという考えもありました。
実際その通りで、釧路から根室までは列車で約2時間半、途中、小さな谷や湿原、海、丘陵と移り変わる景色、シカや丹頂鶴などの動物など、景色の素晴らしい路線でした。私と地元の人以外に、乗っていたのはほとんど鉄道ファンだったと思います。
あまりいい写真が撮れなかったので、そこの話は思い切ってカットします。
でもかなりお勧めです。

さて、根室駅到着です。
ここで到着した観光客は、駅で記念グッズを買い求めたり、記念写真を撮ったり、納沙布岬行きのバスに乗ったりするのですが、私は街を見に行きます。あとラジオ塔の確認と(それは別記事で)。

181124nemuro_1_1
駅前にはさっそく古そうな商店がありました。
サイディングで覆われていますが、たぶん下見板張りだったのではないかと思います。

181124nemuro_1_17
訪れた街がイメージしていたものと違うというのはあることで、根室の場合、まさにそうでした。
もう少し暗い街をイメージしていたのですが(すみません)、何より、街が高台にあって、至るところから青い海が見え、さらにその向こうには雪をかぶった知床半島と国後島の山並みが延々と連なるスケール感。建物も思ったより低く、開放感があります。

181124nemuro_1_2
大きな通りに面したこちらの建物、Mさんによると元郵便局らしいです。
現在は選挙事務所と天理教教会に使われています。

この向かいにかつてラジオ塔があったという、ときわ台公園があります。

181124nemuro_1_3
ときわ台公園をめぐった後は、その横の坂を下っていくことにしました。
すると見えてきたのがこちらの立派な赤煉瓦の倉庫。
明治20年創業の酒造メーカー、碓氷勝三郎商店です。ブランド名は「北の勝」。
今は酒造だけですが、昔の地図を見ると建物は缶詰工場や味噌工場などにも分かれています。

181124nemuro_1_4
逆光ですが、広がりは分かりますでしょうか。

181124nemuro_1_16
倉庫の上部はこのように連続的な装飾になっています。

181124nemuro_1_5
さらに下って海辺の段丘のへりに出ます。
大きな倉庫付きの古そうな建物があります。

181124nemuro_1_6
さらに段丘の崖をくだって、赤煉瓦の倉庫。
かなり煉瓦の摩耗が進んでいますが、青空に映えてきれいです。
漁業倉庫とかなんでしょうか。

181124nemuro_1_7
再び段丘の上へ。
本町の通りにあたります。
このあたり、古そうな建物が固まっています。昔は海産物問屋が軒を連ねていた通りらしいです。

なお、近くの鳴海公園に根室市平和祈念の碑」というものがあり、根室空襲というものがあったことを知りました。
1945年の7月14日・15日に空襲を受け、発生した火災により、市街地の約8割が焼失。現在の北方領土に向かうために停泊していた船を含め、被害者は355人、行方不明者39人という被害だったそうです。

このあたりの建物は火災を免れたのでしょうか。
それともその後の建物なのでしょうか。
この建物は軒下の飾りなど古そうですし、正面の窓や壁面は更新されていますが、側面の窓は縦長の古そうなものです。

181124nemuro_1_8
隣にある玄関上がハーフティンバーの住宅。

181124nemuro_1_9
こちらはかなり原型を留めているようです。
下見板張りの建物。

181124nemuro_1_19
持ち送りのような木製の軒下飾りもあります。

181124nemuro_1_10
また隣にモルタルの倉庫・・・と思ったのですが、所々破損した部分から煉瓦が顔を出しているので、煉瓦の倉庫の上からモルタルを塗ったものみたいです。

181124nemuro_1_11
この建物、分かりにくいですが、奥の窓に格子がはまっています。

181124nemuro_1_12
またこの建物も複雑な屋根の構成で、隣の駐車場に医院の札がかかっていたので、診療所っぽいのかなと思うのですが、どうでしょう。この左手前に、花咲学校跡の碑が立っていました。

181124nemuro_1_18
根室市立花咲小学校のドット画のような校門門柱。
花咲小学校は明治9年、道内で3番目にできたという歴史ある小学校らしいです。当初の名称は花咲学校。

181124nemuro_1_14
ほとんど下調べなく歩いたのですが、ここは調べていきました。
ここ明治公園には、開拓使根室牧畜場跡のサイロが3基残っています。
中央が第一サイロ(昭和11年)、右が第二サイロ(昭和7年)、左が第三サイロ(昭和11年)だそうです。

181124nemuro_1_20
手前の柱の説明文。
このような標柱は根室のあちこちに立っていて、これを読んで回るだけでも、かつての根室の街の様子がイメージできてきます。これは文章だけですが、かつて建っていた建物の古写真も入っています。

明治公園は柵外にももこもこした丘陵が続いていて、とても広々した公園です。

181124nemuro_1_15
最後にスケールの大きなY字路。
左のY字路の先にはアイストップに教会、そして遠くに海と知床の山々が見えています。

冬の入口とはいいつつ、昼間は比較的暖かく、見通しがきくので歩いて気持ちの良い街でした。

<関連記事>
 日常旅行日記「釧路湿原美術館を訪問」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年12月24日 (月)

淡輪遊園(大阪府岬町)

181216tannnowa_1
先日、大阪の岬町に大正時代に開かれた淡輪遊園(あたご山公園)があると知り、現地を確認しに行きました。
*淡輪は「たんのわ」と読みます。
かつて淡輪にラジオ塔があったという記録があり、その場所を確認したかったのもあります。設置場所として、淡輪遊園の可能性が高いのではないかということで。

淡輪駅に降り立ったのは初めて。
大正14年に建てられた洋風の駅舎で、観光地らしい雰囲気です。

181216tannnowa_1_2
駅前の道を歩いて行くと、海のそばに丘が見えます。
この丘上に淡輪遊園(あたご山公園)はあります。

181216tannnowa_1_3
丘の入口にはあたご山の観光看板。
つつじが咲き誇る季節の公園が描かれています。
この赤い橋は後で出てきます。

181216tannnowa_1_4
丘を登っていくと、木々に隠れて煉瓦造の円形の貯水槽がありました。
いつ頃のものなんでしょう。色むらが少なく、新しめに見えましたが。

181216tannnowa_1_5
また、煉瓦貯水槽の下には愛宕祠がありました。
おそらく、これがあたご山の由来なんでしょう。
この雰囲気、夜は怖そう。

181216tannnowa_1_6
淡輪聖書教会もあります。
1959年にキャンプ場兼教会としてスタートしたそうです。
1980年にキャンプ場は閉鎖されました。


181216tannnowa_1_7
栗本鐵工所の研修センターの横を抜けて、海の方へ歩いて行くと、海に向かって開けた丘に出ました。
至るところにコンクリート製のベンチが置かれていました。
このあたりが淡輪遊園です。
(ベンチの脚がかなり浮き上がっていて、施工時から土が流出したようですね)

南海鉄道の「開通五十周年」(昭和11年)、「南海鉄道株式会社大観」(昭和12年)、「南海沿線厚生施設編」(昭和16年)によれば、淡輪遊園の開発は、明治36年に大阪朝日新聞の西村天囚氏が山内愚僲画伯とともにこの丘に遊び、大阪朝日新聞紙上に「海風」と題して十数日にわたってこの地を賞賛する記事を掲載したことがきっかけだそうです。

有名になり、来訪客が増えたため、翌明治37年に黒崎海岸に海水浴場ができ、村営の案内所を設置、民家を開放(民泊ですね)しました。当初は駅がなく、箱作駅から村営連絡船で客を運んでいたそうです。

明治39年には淡輪の臨時停車場ができ、黒崎館・龍宮館など旅館がオープン、翌明治40・41年には海水を使った人工滝や汽車ホテル、菖蒲園などもできました。明治44年には駅側にスロープを付け、全山が一大遊園地に。また駅舎をスイス風に改築するとともに、上水道を通し、全山に電灯を灯しました。

大正時代、南海は地元とともに海水浴場を改修し、釣り舟料金を統一して釣り客を誘致するなど、積極的に来遊者を増やす取り組みをしていたようです。

また明治43年頃から数千本の桜、大正14年に数万本のツツジを植えて、季節の行楽地となり、休憩所や東屋、ベンチ等を整備しました。
対岸の淡路島の洲本との間には摂陽商船の定期船が毎日2時間で結んでいたそうです。
昭和12年にはたんのわ温泉がオープンしています。

181216tannnowa_1_8
この日はお天気が悪かったのですが、天気が良ければかなりの眺めのはず。
海岸には大阪府立青少年海洋センターが見えています(昔泊まったことがあります)。

181216tannnowa_1_9
テラスには藤棚も2つありました。

181216tannnowa_1_11
丘上にはこれらいくつもの建物がありますが、以前は何らかの営業をしていた建物ではないかなと思います。

181216tannnowa_1_12
歩いて行くと、谷間に看板で見た朱塗りの橋がありました。この両側がツツジです。

181216tannnowa_1_13
この橋の名前は京橋でしょうか。

181216tannnowa_1_14
下の方にももう一つ朱塗りの橋がありました。

181216tannnowa_1_15
また別の丘に登って、こちらにもベンチが固まって置いてあります。
とにかくたくさんのベンチが散らばっています。

181216tannnowa_1_16
ここちょっと変わっているのが、鉄筋の出たコンクリートの遺構があります。
休憩所か何か、建物が建っていたのではないかと思われます。

181216tannnowa_1_17
歩き回ってもラジオ塔らしきものは見つけられないので、こちらの旅館・龍宮館でお話を聞いてみることにしました。
龍宮館、先ほど名前が出てきましたね。そう明治時代、この地に最初にできた旅館の1つです。
今も営業されています。一度泊まってみたいですね。

さて、最初奧さんが出てこられて、昭和一桁のお生まれのご主人も呼んでいただいたのですが、ラジオ塔は記憶にないそうです。
戦時中にレーダーの研究者がずっと泊まり込んでいたことはあったけれどもという話もあって、それはそれで貴重な話ですね(軍関係者では?)。

どこか近くでラジオ体操をしていた場所はないですか?と尋ねると、今は太陽光発電所になっている下の広場に集まってラジオ体操をしていたとのこと。
そこが可能性が高いのではないでしょうか?

181216tannnowa_1_18
行ってみると、こんな感じ南海電鉄の南海淡輪発電所となっています。

181216tannnowa_1_19
金網の隙間から見てみると、こんな感じ。
石柱がぽつんと立っていて、気になります。


グーグルストリートビューで見ると、2010年の画像しかなくて、その頃の広場の様子が分かります。
来るのが遅すぎました。
さっき見たのと似たような看板と、その右側に石柱があるのが見えますでしょうか。

181223tannnowa
1961年撮影、MKK613-C24-43

また国土地理院の空中写真を見ると、この矢印の先のものが何だろうと思います。
とはいえ、全然違う場所なのかもしれませんが。
場所としては、このあたりにあるのが一番自然に思えます。

181216tannnowa_1_20

今回の探索はここまで。
民家カフェのひろしげ珈琲倶楽部さんというのが気になって入りました。
ここ民家の土間や座敷を使って営業されていて、本格的なコーヒーをハンドドリップで入れてもらうこともできれば、手軽に飲みたい人にはセルフでコーヒーマシンで淹れてもいい(その場合は250円)という融通のきいた運営をされています。お菓子は障害者作業所のクッキーを一袋100円で販売。

私がいる間でも、若い人が来たり、おばあちゃんが土間で話し込んでいたり、子どもが座敷で勉強していたり、東南アジア系の外国人の方が豆を買いに来たりと、人が行き交ういい空間になっていました。
また次も行ってみたいと思います。

今回、淡輪遊園だけで終わってしまったので、集落の方も見てみたいというのと、淡輪遊園もまたツツジの時に見に来たいと思いました。

<関連記事>
 日常旅行日記「近代公園目次」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年12月23日 (日)

釧路湿原美術館を訪問(北海道釧路市)

181123kushiro_1_1
かなり久しぶりの更新になります。

11月の終わりに釧路に行ってきました。
釧路には2009年の6月に訪ねて以来、9年ぶりです。
目的は釧路湿原美術館を訪ねること。その経緯は後ほど触れます。

今年ピーチの関空ー釧路便が就航したのも大きなきっかけで、かなり行きやすくなりました。
本当は9月に行くはずだったのですが、台風の直撃を受けて延期、ようやくこの日を迎えました。

この日の大阪は風がありますがよいお天気。
LCCも初めて、第2ターミナルも初めて。いろいろ初めてです。
連休の初日ということで、ほぼ満席でした。

181123kushiro_1_2
大阪から岐阜・長野までは晴れ間がありましたが、そこから先は延々と曇り空で、青森の三沢を過ぎて、ようやく晴れてきました。
北海道の端、襟裳岬をかすめます。岬の先は見えず。

181123kushiro_1_3
大樹町のあたり。
一面の雪景色です。

181123kushiro_1_4
そして無事、たんちょう釧路空港に到着しました。
前回は列車で来ましたので、この空港は初めてです。
ここで現地のまあちゃんさんが迎えてくださいました。

181123kushiro_1_5
目的の釧路湿原美術館は、空港から市街地とは逆方向(阿寒湖の方)に向かいます。
途中、吹雪いてきて、やはり北海道だと感じさせられました。
数日前に初雪が降ったところだそうで、どうせ寒いのなら、雪が降っていた方が良いかもと前向きに考えました。

181123kushiro_1_6
釧路湿原美術館に到着。
(指が写っていてすみません)
美術館の高野理事長が迎えてくださいました。

181123kushiro_1_7
この釧路湿原美術館、館内を北緯43度線が通っていて、その線に沿って建物が設計されています。
かつて北緯43度美術館として、世界の北緯43度の地域の美術などを紹介していたようですが、閉館後、故佐々木栄松さんの作品を展示する美術館として再出発しています。

佐々木栄松さんは、大正2年、北海道の置戸町に生まれ、釧路で働いていました。
釧路の空襲で奥さんと幼い娘さんを亡くしています。
1960年代、50代の時に釣り竿を持って世界旅行に出かけ、帰国後、独自の作風を開花させたようです。
釣り師としても有名で、釧路湿原に釣りに出かけたり、絵を描き続けました。
開高健さんがイトウ釣りに来られた時に案内されたのも佐々木栄松さんだそうです。
孤高の画家として釧路に住み続け、2012年、98歳で亡くなりました。

晩年、身の回りのお世話をされていたのが理事長の高野範子さんなのですが、この作品群を散逸させてはならないとNPO法人を立ち上げ、2013年に開館したのが現在の釧路湿原美術館です。

美術館開館に当たって募金を募っているという話を、ブログのコメント欄でやりとりしていた、まあちゃんさんから聞き、私も少しだけご協力したことから、一度訪ねないとと思っていました。
開館から5年がたっており、かなり遅くなりました。

181123kushiro_1_8
作品を見ないと言葉では分からないと思います。
作品は撮影禁止だったので、代わりにこれを。
釧路湿原国立公園の三十周年で使われた釧路湿原の絵です。

非常に鮮やかで、赤、黒、青、黄、白といった色が入り混じりつつも、濁らない描かれ方をされています。
素直に美しいと思います。

作品を高野さんは丁寧に解説してくださいました。
まず、作品は釧路湿原を観察し尽くした知識(例えば丹頂はどう眠るのか、イトウはいつ浮かんでくるのか、どの季節にどの渡り鳥がいるのか、水辺にはどんな植物が生えているのかなど)をベースにしながらも、心象風景を描いていて、決して現実ではないこと。例えば、あえて丹頂の頭の赤を描かなかったり、いくつかの季節を混在させたり。

また、作品にはたびたび空襲で失った娘さんが、大人になった姿で描かれていたり、海外旅行で出会った人物が描きこまれていたりもします。
そしてどんな絵にもどこかに生き物が描かれているのが特徴だそうです。

ぱっと見た目にもきれいなのですが、解説を伺うことで、描かれているものの奥深さを知ることができました。

作品は大きなものが多く、引き込まれますので、皆さまもぜひ機会を作って見に行っていただければと思います。

181123kushiro_1_9
さて、ゆっくり見せていただいた後、外に出ると青空が覗き始めていました。
道東の冬は寒くても青空が続くのが特徴だそうです。

美術館の前にあるこれは、丹頂鶴を寄せるための餌場だそうです。

181123kushiro_1_10
館長の高野さん(旦那さん)に、電線の黄色いカバーは、丹頂鶴がぶつからないための目印ということを教えていただきました。

美術館の裏には、阿寒国際ツルセンタータンチョウ観察センターがあり、冬場の給餌場として、このあたりには冬になると多くのタンチョウが飛来します。

181123kushiro_1_11
この後、宿泊地の釧路へ。
途中、写真には収められませんでしたが、間近に数羽の丹頂鶴や鹿の群れを見ることができ、印象深い訪問になりました。

高野ご夫妻とまあちゃんさんには大変お世話になりました。

<関連記事>
 日常旅行日記「2006年の北海道旅行目次」

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2018年9月 | トップページ | 2019年1月 »