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2012年2月12日 (日)

加古川の近代を訪ねて(3)ニッケ社宅街

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ニッケの工場を見た後、いよいよ社宅街に向かいました。
国道2号線をくぐる「トロッコ道」を通ります。
昔、トロッコが走っていたそうです。
(今回の写真、逆光がひどいものが多くてすみません)

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トンネルをくぐると目の前に社宅!
この感覚面白いです。これは二軒長屋タイプ。

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社宅なので、このように○区○号という管理をされているようです。全部で何区何号まであるのか知らないのですが。

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二軒長屋タイプの玄関。
長屋であっても板塀で囲われ、踏み石があって、煉瓦敷きがあって、玄関という並びになっています。玄関扉はまとめて更新されたようで、どれも新しいものでした。
玄関の上に角丸の木の表札があるのが面白いです。

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長屋とともに、2つの洋館も目に入ります。
現在はニッケ社宅倶楽部と呼ばれる建物です。

どちらかが明治31年に服部長七の設計で建てられた仮事務所を移築したもの、もう一方が明治44年または大正期に建てられた外国人技師用の住宅らしいのですが、説明がまちまちなので保留です。

→ウィキペディアの「加古川日本毛織社宅建築群」

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東側の建物はシンプルな平面の下見板張りの建物。

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西側の建物は下見板張りで、柱を表に見せています。
1階にはベランダがありますが、今は柵をはめています。
こちらの方が明治っぽいかなあ。

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東側の建物は裏の公園側からも出入りできます。
出入口が公民館風に改造されています。

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一緒にある和風の小さな建物。
これはこれで懐かしい雰囲気です。

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公園では子供たちが遊んでいました。
ここが社宅街の中心という感じがします。

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<ニッケ社宅街の現状(筆者作図)>
※クリックすると拡大します。
 あくまで概念図です。

ここでせっかくなので、現況を図解しておきます。
このように大正時代以降整備された社宅が、まだたくさん残っています。
広場を中心に長屋の社宅が並び、周囲にグレードの高い戸建ての社宅が配されているようです。

ちなみに常住寺は、西国街道沿いにあった由緒あるお寺で、工場建設に伴っていったん駅前に移転した後、昭和59年にここに移転してきたようです。この敷地ももとはニッケの土地だったのではと思います。

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敷地の南端は水路で区切られ、そこに橋が架かっています。

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「かつさきはし」?
別の柱には大正15年の銘が入っています。

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この敷地は2011年5月に老朽化のため解体された社宅が建っていた場所です。
明治32年にニッケ加古川工場のできた頃建てられた和風の木造2階建て住宅で「火垂るの墓」のロケにも使われたそうです。
庭の桜だけが残され、交流広場として整備されるとのこと。
敷地境界の低い煉瓦塀も残っています。
神戸新聞「「火垂るの墓」ロケ地の社宅取り壊し」
     (2011.5.20)

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二階建ての五軒長屋タイプ社宅。
メインの通りは舗装されましたが、未舗装の砂利道が残されています。

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西側の平屋の二軒長屋タイプ社宅。
社宅街の風情が非常によく残されています。

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側溝にあった煉瓦。×印刻印の岸和田煉瓦?

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門柱の保護部材、兼装飾。

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二軒長屋の間の通路。

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南側の五軒長屋と一戸建て住宅。

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一軒の家は洋館付き住宅でした。
アールヌーヴォーっぽいカーブの窓が付いています。

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北側の戸建て住宅群。

以前は関係者以外立入禁止の表示もあったそうなのですが、現在は車の通行に注意を促す表示だけで、桜の時期には多くの人が訪れるようです。
もちろん、まだ人が住んでおられるので、ご迷惑にならないように見せていただかないといけませんが。
各地の社宅街も次々消えていますので、かつての生活を伝える貴重な存在だと思います。


(追加の写真)

 ihatovさんにコメントをいただきましたので、関連しそうな写真を追加しました。

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※クリックすると拡大します。

 4軒並びの長屋(左側)

Nikke1
※クリックすると拡大します

 戸建て住宅

Nikke3
※クリックすると拡大します

 裏の水路

(2013.1.27記)

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コメント

びんみん様
二ッケ社宅にも足を延ばされたのですね。
因みに2つ並ぶ木造洋館のうち、寄せ棟屋根の
シンプルな方が明治31年の仮事務所を移築し
た建物です。(創設時の工場の工事を請け負
ったのが名古屋の服部長七なのです)。
なお、明治40年代以降は設楽建築工務所が
実質的に監理を行い、竹中工務店やその系列
にある神戸の請負が施工していたようです。
アールヌーボー・・・というか、サンルーム
の窓枠のカーブがユーゲントシュティールな
洋館は、1920年代の建設だそうです。時流
から遅れた、しかし完成度の高い造形が社宅
街に出現したのか。。。まだまだ謎は多い
ですね。

投稿: ドクター | 2012年2月12日 (日) 19:09

ドクターフランキーさま
訂正・補足ありがとうございました。
たいへん心強いです。
この場合はアールヌーヴォーより、ユーゲントシュティールなのですね。
またいろいろ教えて下さい。

投稿: びんみん | 2012年2月12日 (日) 19:40

こんばんは。
ニッケ社宅街、凄いですね。
私はまだ社宅街を訪れたことがなく、この風情・佇まいには大いに惹かれます。
ドクターフランキーさんの解説もおおーっ!です。

投稿: ひろ009 | 2012年2月12日 (日) 23:10

ひろさん、こんばんは。
コメントありがとうございます。
ニッケ社宅街は、針穴写真家のOさんに教えていただいて出かけたのですが、非常に良かったです。
実は、ひろさんが訪ねられていた気がして、念のために確認したのですが。
ドクターフランキーさんの解説もさすがですよね。

投稿: びんみん | 2012年2月13日 (月) 00:37

はじめまして、Ihatovと申します。
旧い記事へのコメントで失礼致します。
歓迎と書かれてあったので・・・
ふと、昔住んでいた場所の事を調べていて
こちらを見させて頂きました。
懐かしい写真をありがとうございます。
私は、S43(1968)小学1年~S47(1972)小学5年の5年間この社宅に住んでいました。
最初の写真、これがトロッコ道とは知りませんでした。
社宅に住んでいる人達は「穴門:あなもん」と呼んでおりました。
5~8枚目のニッケ社宅倶楽部は当時もクラブと呼ばれていて
社宅に住む子供たちのクリスマス会や生け花教室をやっていました。
あと、当時はまだ全ての家に電話がありませんでしたので、ここに公衆電話が置かれていました。
最初の一年間は、9枚目の地図にある「常住寺」右側の4件並んだオレンジ色の一番左に住み
二年目以降は「洋館付き住宅」の二軒左の家に住んでおりました。
古いものの贅沢なつくりの家で、トイレ(便所)は二箇所、布団部屋・女中部屋があり
庭に面した部分はすべて廊下がついておりました。また庭には井戸の跡がありました。
裏の加古川西高から水路を越えて何度もボールが飛び込んできました。
子供の私は家の裏塀を越えてこの水路沿いに「探検」しました(へびも多くて怖かった記憶があります)。
因みにこの「洋館付き住宅」は工場長の社宅でした(「こうばちょう」と言っていました)。
またおっしゃる通り、現在常住寺となっている部分も日本毛織の土地で
ここは工場で使用した水を浄化する所だった様です。
レンガで造られた細い溝が無数に広がる場所で、流された水に含まれる原毛が沈殿していました
生ぬるい水でとても臭かった覚えがあります。
子供には異様な景色でした。
~・~
私の記憶の中でとても重要な位置を占めるこの住宅をご紹介頂き、ありがとうございました。
懐かしさに、つい思いつくままだらだらと解説してしまいました。
長文にて失礼致しました。

投稿: ihatov | 2013年1月27日 (日) 19:10

ihatovさま、はじめまして。

貴重なコメントをありがとうございます。
どのように住まわれていたかは想像するしかありませんので、実際に住まれていた方のお話を伺えるのは非常にうれしいですし、ブログで公開して良かったと思います。
ブログに載せる写真は一部ですが、実際にはたくさん撮っていますので、関連しそうな写真を追加しました。
これらがihatovさんの住まわれていたところでしょうか。
ありがとうございました。

投稿: びんみん | 2013年1月27日 (日) 20:23

びんみんさま
 早速お読み頂きありがとうございました。
それから追加された写真、そう、ココです。私が住んでいたのは!
この家の前は当時は空き地で、大きな桜の木が3本生えていました。
桜の木の他は社宅の人が畑をやっていました。
なぜか、隣の家と塀が違うんですよね。
家賃が幾らだったかは知りませんが、相当安かったはずです。また、水道代は無料でした。
一階は二畳の布団部屋、三畳の女中部屋、八畳の応接間、四畳半の居間
台所、六畳の寝室に、二箇所の便所と風呂で二階は四畳半と八畳の二間ありました。
当時は南側には高い建物が無く、とてもよい景色でした。
裏の水路は、私の住んでいた家の所とは(記憶が)異なる様です。
橋の柱があんな古いものだった事を(存在自体も)知りませんでした。
橋を渡るメインの道路を北へ登りきった春日神社で毎年夏祭りがあり
「型抜き」をやったものです。加古川の土手にはなぜか牛が放牧されており
ところどころに大きな牛の糞があり踏むと大変でした。
私は現在名古屋の東に住んでいるのですが子供の頃は父の転勤により
日本毛織の社宅を千葉県の市川~加古川~愛知県の一宮と引越しました。
今日、久し振りに一宮の社宅を見ようと行ったのですが
全て更地になっていて愕然としたのです。
聞けばほんの3ケ月ほど前に全て取り壊したと言う事で、かなりショックだったのです。
加古川はどうなっているのかとあちこちWebをたどっておりました。
社宅住まいは子供には楽しくとも、親には色々とストレスが多かった様です。
出世とか、子供が良い学校へ行ったとか
習い事をさせているとか何か高価なモノを買ったとか・・・
今はその両親も亡くなり、その当時の思いを聞く事もできませんが。
子供の事なので、範囲は狭いですが
何か加古川の事でお話ができる事がありましたらなんでもご協力いたします。
再びとりとめのない話ですみませんでした。
写真のアップありがとうございました。

投稿: ihatov | 2013年1月27日 (日) 22:03

ihatovさま、さらに詳しいエピソードをありがとうございます。
生活されていた様子が具体的になりました。
牛が放牧されていたというお話もおもしろいです。
いくら設備が良くても社宅のストレスはたしかにそうかもしれませんね。
ありがとうございます。
一宮の社宅は取り壊されてしまったのですね。
加古川はまだ大丈夫だと思いますので、ぜひ今のうちにお出かけいただればと思います。

あと質問させていただけるとしたら、
1)小学校はニッケ関係者の方が多かったと思いますが、何か特別なことがありましたでしょうか?
2)また、最初の家など、長屋の皆さんはお風呂はどうされていたでしょうか?

よろしければお願いします。

投稿: びんみん | 2013年1月27日 (日) 23:39

びんみんさま
 追加写真の一枚目、見落としていました(早く返信しなくてはとアセっておりました)。そうです、この追加一枚目の左側の家が最初の家です。手前の空き地に木が植わっていますが、当時から同種の木が生えており、この空き地で野球をやっていました。
小学校は加古川小学校でしたが、今と比べると当時はとても生徒数が多く、当時は全校生徒が1,500人おりました。従いまして学校に行ってしまうと社宅の子供の密度は低いもので、特に学校で別扱いされる事もなくまた、子供自身も、自然に学校では別の友達と遊んでいました。これは、加古川とは比較にならない程「織物の町」の一宮でも同様でした。
「お風呂」はどの社宅にも付いています。当然五右衛門風呂で、レンガの焚き口が台所脇にあります。
しかし、実際に焚くのは当時はもう薪ではなく、灯油のバーナーでした。灯油を使うキャンプ用コンロの火力を強くしたもので手動ポンプで圧力を掛けてガス化した灯油に火をつけ、五右衛門風呂を沸かしていました。常に家には200Lのドラム缶があり灯油を蓄えていました。S46頃にガス風呂になり、五右衛門風呂を壊し、真新しいヒノキの四角い風呂桶になりました。すばらしい匂いでした。加古川以前に住んでいた千葉県市川市の社宅では、石炭かコークス主体で風呂を沸かしていたと言う気がします(石炭バケツ~ご存知ですか?があった記憶があります)。しかしいきなり火はつかないので、点火用の薪を用意していたと思います。当時使用していた斧がまだありますから。
また、今思い出しましたが、追加二枚目の写真の家の四畳半の居間は掘り炬燵でした。
あと、追加一枚目の写真の3本写っている木の真ん中の木の辺りと、追加二枚目の写真の左側電信柱の辺りには、消火栓がありました。社宅の敷地の全てに消火栓が作られておりました。
いやぁ、こう書いているとますます懐かしくなります。
そうですね加古川、久しぶりに本当に行って見たくなりました。

投稿: ihatov | 2013年1月28日 (月) 09:00

ihatovさま、こんばんは。
またまた詳しいご説明をありがとうございます。
とくに返事をお急ぎにならなくても良いですよ。
小学校は変わったということはなかったのですね。場所からいうと商売をされている方が多そう。
そして社宅はお風呂完備だったのですね。
私はihatovさんよりたぶん数年下ぐらいですが、五右衛門風呂は田舎のおばさんの家で入ったぐらいで、自分の家はガス風呂でした。石炭に至っては見かけることなく、石炭バケツも見たことはありません。
敷地全てに消火栓というと、かなり設備が整っていたのですね。同じ長屋でも賃貸住宅と社宅ではかなり違うと感じます。
貴重なエピソードをありがとうございました。

投稿: びんみん | 2013年1月28日 (月) 18:58

びんみんさま
 「場所からいうと商売をされている方が多そう。」とありますが、何故そうなるのですか?よくわからないので教えてください。実際そうでした。同じクラスに喫茶店・酒屋・文房具店の息子がいました。Googleの地図で見ると全てまだ営業されているので、少々驚くとともにホッとしました。あと、私は一切気がつく事の無かった煉瓦の刻印についても解説いただけませんか?
また、さらに古い記事へのコメントで恐縮ですが(1)にもコメントしました。

投稿: ihatov | 2013年1月31日 (木) 16:55

ihatovさま、こんばんは。
コメントありがとうございます。
そんなに難しく考えたわけではなく、校区に商店街を含んでいそうだったからです。まだ営業されていて良かったですね。
レンガの刻印ですが、古いレンガには製造会社を示す刻印が数個〜数十個に一個の割合で押されています。関西の場合は大阪の泉州で製造されたレンガが多く、主な刻印の種類も限られます。その一つが×印刻印の岸和田煉瓦です。

○手前味噌ですが、煉瓦刻印についてまとめた記事です。
 「六光星を追って津守へ」

投稿: びんみん | 2013年2月 1日 (金) 01:18

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