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2010年5月

2010年5月30日 (日)

春の彦根(1)彦根城に登る

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昨年(2009年)末に訪れて回りきれなかった彦根を、ゴールデンウィークに再訪しました。
→昨年末の記事「彦根レトロを探して(1)」

まずは前回、時間の関係でパスした彦根城へ。一つには彦根でお城は外せないため、もう一つは確認したい眺めがあったためです(後で紹介します)。
今回は普通の旅行ブログですが、我慢して(?)お付き合いください。

駅からお城に向かうとお堀端にいい感じの松並木「いろは松」があります。
さすがにゴールデンウィークの彦根城は車でいっぱいです。

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しかし、堀沿いに北に曲がると静かな通りになります。
こちらは柳並木。

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ここに埋木舎(うもれぎのや)というお屋敷があります。
彦根藩主として幕府の大老となり、日米通商条約や英仏露蘭との開港条約を結んだ井伊直弼が、17歳から32歳まで過ごした屋敷だそうです。当時の直弼は将来を約束されておらず、この中級藩士並の屋敷で、ただ学問や武芸に打ち込む日々だったとのこと。そんなに長い下積み時代があったのですね。

壁から突き抜けた梁に小さな屋根が掛けられています。湖北から美濃、北勢にかけて見られる壁面の家型装飾の原型はこういうものかと思いました。梁の腐食防止というのがよく分かります。

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城内に入るとお城の櫓(再現)を使った開国記念館があります。
江戸時代が中心ですが、古代から近代までの彦根の城下町の変遷が展示されていて、私には興味深い展示です。料金は無料。

文化財などは、彦根城博物館に展示されています。
そちらはパスしました。

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館内を一巡しても相変わらず車の列。
高速道路1000円の影響か、北陸方面からの車が多いような。
中央に見えている建物は、重要文化財の馬屋です。

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この日は特別公開されていました。
21頭の馬がつながれていたそうです。
櫓よりこちらの方が好み。

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うまく排水処理が考えられています。

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入場料600円を払って、いよいよお城に登ります。
この日は、ひこ○ゃんに大行列ができていました。
相変わらずの大人気ですね。

お城に登る石段は、歩調が乱れて登りにくいように、意図的に不規則に作られているそうです。
最初はゆるやかな登りが登るにつれて急になったり、踏み幅や踏み高を微妙に違わせたりという、アンチバリアフリーな設計。非常時のためとはいえ、普段上り下りするお侍さんも大変だったでしょうね。
実際、距離の割に疲れました。

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やがて見えてくるのが天秤櫓と廊下橋。
ですが、すんなりとは入れません。

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いったん橋の下をくぐり、階段を登って、橋を渡ります。
かなり防御を考えた設計です。

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さらに進むと最終関門である太鼓門櫓。

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ここの石垣の一部は、元の岩盤を利用しているようです。

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本丸からの眺めはとても良く、とくに着見台(つきみだい)からは北側の眺望が開けています。

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<戦前の絵葉書 近江彦根 城山より楽々園八景亭及琵琶湖を望む>
※クリックすると拡大します

もう一つの目的というのはこの絵葉書の光景を確認すること。
天守閣からの写真なのかもしれませんが、本丸内であることは間違いなさそうです。

左手に松原の集落が見えます。
見比べて明らかに違うのは、昔の写真には内湖(松原内湖)が写っていることです。
松原内湖は昭和19年5月から昭和20年にかけて、食糧増産のために埋め立てられたそうです。

○参考HP
 わたしたちの彦根「地域のはってんにつくした人々」

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着見台からは、庭園の玄宮園も見下ろせます。
今回は時間がなく、訪れませんでした。

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彦根城の天守(国宝)。
彦根城と城下町は慶長9年(1604年)から20年近くかけてつくられたそうです。
天守は大津城の天守を移築した可能性もあるとか。
天守には江戸時代から歴代藩主の甲冑などが収められていたそうですから、元から博物館みたいなものですね。

天守に入るには40分の行列ができていましたのであきらめました。

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天守の石垣はごぼう積みという積み方だそうです。
あまりきっちり積んでなさそうに見えますが、実は奥行きがあって頑丈なんだそうです。

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天守の西側壁面。
美しい。

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昔は御殿があった西の丸も、今は公園のようで、新緑のこの頃はとてもさわやかです。

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最後に西の丸三重櫓(重文)。
西の丸の北西隅にあります。
この建物もこの日は特別公開でした。
こちらは並ばずに入れます。

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城下町の南方向を臨む。遠くに見えるのは荒神山。
ここからは城下町の南側や琵琶湖方面がよく見えます。
櫓の3層からはかなり眺めが良いです。

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帰りは北に降りて、黒門から出ました。
桜や紅葉の頃も良いのでしょうが、新緑の彦根城もまた捨てがたい眺めです。


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2010年5月29日 (土)

テーマパーキング(大阪市)

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唐突ですが、パークとパーキングって近いですよね。
(パーキングは和製英語らしいですが)
この頃、銭湯が駐車場になっているとか、建物を壊さずに駐車場にしているのをよく見かけて、それは寂しいことなんですけど、ふとそんな駐車場に「テーマパーキング」という言葉が浮かびました。

最初の写真はそんなテーマパーキング。
運送会社のプラットホームだったようなのですが、コインパーキングになっています。
一部だけ屋根があって、そこは少しお得。本田のあたり。

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ここは建物は使われてなさそうですが、奥の駐車場は生きています。
車が住む建物。これも本田付近。

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こういうのは時々あります。
門だけ残したコインパーキング。
美章園付近です。

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最後はちょっと風格のある赤煉瓦塀パーキング。
これも美章園付近です。

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裏の木戸など、使われていないけどいい感じでしょう?
とくに煉瓦塀パーキングは残してほしいテーマパーキングです。

ちょっと原点回帰で、日常を楽しむ記事を挟んでみました。

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2010年5月28日 (金)

妻鹿は公会堂がいっぱい(姫路市)

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山陽電車で飾磨から一駅、市川の左岸にある妻鹿(めが)にも立ち寄りました。
ステージのような駅です。

妻鹿は江戸時代、姫路の豪商による新田開発で大きくなったそうです。大正時代には鮮魚の集散地として発展、当時は商業を中心とする集落でした。大正12年には鉄道が開通してさらに利便性が増し、昭和2年には妻鹿町となります。

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その昭和2年にできた旧妻鹿町役場の建物が残っています。
現在は妻鹿町自治会館。
今でも目立つ建物です。

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妻鹿の集落を歩いていると、ここにもそこにも、多くの公会堂・公民館があるのに気付きます。
互いに競って建てたのでしょうか。

大西町公会堂は看板建築風の建物。
門脇の柵は近代的なデザインでなかなか良いです。
おなじみ紀元2600年(昭和15年)記念の国旗掲揚台もあります。

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こちらは日之出町公会堂。
公会堂改築記念の国旗掲揚台があります。
昭和14年だったか?

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住吉町公会堂には憲法発布五十周年記念の国旗掲揚台が。
私は耳慣れなかったのですが、昭和13年らしいです。

公会堂と国旗掲揚台がセットのようです。
毎年何かを記念して公会堂を建てていたように見えなくもありません。

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このほか古いものでは、江戸時代末期の備荒貯穀倉「固寧倉」が残っています。
弘化3年(1846年)、姫路藩内288ヶ所に設置されましたが、現在残っているのは、ここと野里・東山・中村(白浜)・刀出の5ヶ所のみだそうです。弘化3年というと、飾磨に湛保が作られた年ですね。社会事業の盛んな時期だったのかも。

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近代では、のこぎり屋根の工場もあります。

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参加者が一様に感心していた床屋の神床三木。
このグルグル、渋いでしょ。

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集落のたたずまいには落ち着きがあります。
この透かし入りの石塀など余裕を感じます。

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勝手口の門。角に丸みをつけて石を削っていることにこだわりを感じます。

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狭い道では手押し車が活躍。

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こんな変わった塀もありました。
多少石臼をはめ込んだ塀はありますが、ここまで徹底しているのはあまり見かけません。

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ここにも引退した手押し車があります。
でも明らかに意識的に用いられていますね。

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そろそろ日も暮れかけて市川沿いを帰ります。

妻鹿は街並みは派手ではないのですが、端々に豊かさが感じられる集落でした。
これで飾磨編は終了です。


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○関連ブログ
 旅ぽた『姫路&妻鹿』〜路地から海へ 2002.02.09

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2010年5月25日 (火)

飾磨の港風景(姫路市)

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<ベースマップは昭和22年修正 2.5万分の1「姫路南部」>
※クリックすると拡大します。位置はおよその位置です。

飾磨の締めくくりに港の風景を紹介します。
その前にごく簡単に飾磨の港の変遷をたどります。

飾磨の古代の港は、思案橋の近く、「津田の細江」と呼ばれる入り江にあったようです。菅原道真公が九州に流された際に立ち寄ったとされるのもこのあたり。

中世を経て、江戸時代の終わり頃までの港は飾磨の町の東側です。
池田輝政が1601年以降、姫路築城とともに港(飾磨津、飾万津)を整備してから、姫路の外港として発展したようです。姫路藩御船役所のあった向島には水軍が置かれていました。

しかし、幕末には土砂の堆積で港の機能が低下します。藩に調査を命ぜられた大浜の肥料問屋・藤田祐右衛門は、弘化3年(1846年)、河口に湛保(港)の新設を出願、四国・丸亀港を参考に同年10月、湛保が竣工しました。排水に水車4000台を使い、藤田祐右衛門が私費で数千本の松林(防風林)を植える大工事だったそうです。港が完成すると、船宿と遊女も移ってきました。

明治になると生野銀山の積出港となります。
帆船を主とする港は大正時代に大きく発展しました。
その移出品は主に綿糸(福島紡績設置の翌大正3年から急増)、麺類、薬品。移入品は石炭(大正10年には神戸港をしのぐ)、棉花、肥料、木材、石灰(?)、セメントだったそうです。この地域の工業発展と密接に関係していました。

大正12年にも小規模な改修が行われますが湛保は手狭で、昭和に入って大改修計画が立てられ、沖へ沖へと港が伸びていきました。

<参考>
 神戸又新日報「近き将来を約して大飾磨港の実現」(昭和6年1月1日〜8日)
  →神戸大学新聞記事文庫

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さて、実際に港を巡ります。
まず津田の細江のあたり。向こうに見える赤い橋が思案橋です。
遊郭との境目によくある名前の橋ですが、ここでは菅原道真公がどちらに進むべきか思案したという説もあります。

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江戸時代の港のあたり。
ごく小さな水面です。

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川沿いに歩いて行くと、ボートがたくさん繋船されています。
ちなみに遠くに見える白いドームが、昔の飾磨港駅の跡地です。

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対岸には造船所もあります。

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土砂採取の作業船(ガット船)。

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釣り船。

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小規模な渡船でしょうか。

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廃船になっても、まだ浮き桟橋として利用されています。

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湛保に到着しました。東西120m、南北150m。
こんなにこぢんまりとした港ですが、今も港として立派に役立っています。
海上保安庁や警察の船もここに泊まっています。

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湛保には修築者である藤田祐右衛門翁の顕彰碑がありました。

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湛保のぐるりは雁木のような石段があって、昔の港湾設備の名残ではないでしょうか。いい味を出しています。隅がカーブになっているのがいい。

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「七福神」「福弁財天」という船は何に使われるんでしょうね。

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現代の姫路港からは小豆島や家島群島行きの船も出ています。
「オリーブライン」のフェリー「おりいぶ丸」。もちろん小豆島行きです。

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輸送用の船です。
様々なタイプの船を見るのもまた楽し。

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港にあった姫路港飾磨公共埠頭の案内図。
左端が湛保ですので、ずいぶん長く沖合に伸びています。
ここは公共貨物、旅客の拠点であり、毎年クルーズ船も数回寄港するようです。

古来からの港は、場所を移しながら今も活動し続けています。


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<関連ブログ>
 網干在住日記「飾磨、散策4」津田の細江
       「飾磨、散策8」飾磨港駅
       「飾磨、散策9」湛保・姫路港
       「飾磨、散策10」姫路港

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2010年5月21日 (金)

飾磨の物流風景(姫路市)

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飾磨は古代以来の港で、近代には生野銀山の積出港となり、また海岸部に早くから工場も進出しましたので、物流の近代化遺産をあちこちで見ることができます。
例えば飾磨街道の終点には、浅田化学工業の煉瓦塀・煉瓦倉庫があります。

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煉瓦倉庫の換気口。

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※クリックすると拡大します

「銀の馬車道」の説明板が立っていました。

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水路の名残が今も残っています。

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水路の分岐点には石の護岸があります。
この水路を左(北)に行くと、恵美酒宮の前に出ます。

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農協倉庫は古い建物が多いですね。
姫路藩の米蔵の近くにあるのが面白い。
かつての国鉄飾磨駅の近くです。

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昭和61年に廃止された飾磨港線は、今も部分的に軌道跡が残っています(一部は遊歩道に)。

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この鉄橋は、新日鐵広畑製鉄所につながっていた専用鉄道の跡です。
こちらも昭和61年に廃止されたそうです。

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鉄橋にはバラストが残り、近所の方の散歩道になっています。

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専用鉄道の土手はまだ先まで伸びています。

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飾磨港線の先には赤煉瓦倉庫がありました。
今は横田瀝青興業(株)という会社になっています。

これらは昔、水路や鉄道でつながっていたわけですが、船は止まり、レールはなくなり、それぞれの場所にひっそりと残っていました。

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<昭和22年修正 2.5万分の1「姫路南部」>

<関連ブログ>
 網干在住日記「飾磨、散策5」廃線跡

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2010年5月16日 (日)

飾磨の天満宮(姫路市)

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<天満神社(恵美酒宮)>

間が開いてしまいましたが飾磨探訪の続きです。
今回は神社を紹介します。タイトルが「天満宮」なのは、飾磨に主な神社が3つあって、全て天満宮だから。つまり菅原道真公を祀っています。しかし、元々そうだったのかというと違うようです。

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<昭和22年測図 2.5万分の1「姫路南部」>

例えば町の北にある天満神社は別名「恵美酒宮」です。
元々は戎さん(漁場の神様)を祀っていました。
津田天満神社は、元々大歳社と呼ばれていたので、年神様(正月にいらっしゃる農耕神)を祀っていたようです。
浜の宮天満宮は10世紀の創建で、もともとかもしれません。

もう一つ特徴的なのはそれぞれ水に関わりが深そうなこと。
恵美酒宮の前には水路が引きこまれています。
津田天満神社は昔は御旅所のある津田の細江という古い港の所にあったそうです。菅原道真公が流された頃の港はここです。
浜の宮天満宮は、元は宮地区にあったものが、池田輝政の港湾整備に合わせて移転しました。名前の通り、浜に面していたのだと思いますが、新田開発で内陸化したようです。港も沖へと移動していきました。

菅原道真公が九州に流された際に立ち寄ったところ、立ち寄った可能性のあるところには、のちに次々に天満宮ができていった(あるいは元あった神社が天満宮になっていった)ようです。飾磨の場合は古くからの港なので当然立ち寄ってもおかしくないでしょう。
(などとあまり知ったかぶりで書くのはいけませんが)

それでは各神社を紹介します。
(津田天満神社は今回行っていません)

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まず恵美酒宮。
これが神社前に引き込まれている水路です。
とても情緒のある一角ですね。
この右手に姫路藩の米蔵のひとつ「飾磨御蔵」があったそうです。

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水路に向かって舞台のようなものが設えてあります。
昭和9年のものですが、どう使われたのでしょうね。

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これは祭りの時に活躍するのでは思うのですが、何でしょう。
ご存じの方、教えてください。

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とても姿勢のいい狛犬。広島に多いという玉乗り狛犬です。
瀬戸内海の港らしいですね。

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厳島神社タイプ(島状)の摂末社。
玉垣が多く、かなり篤く信仰されているようです。

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少し離れて水路沿いに、屋台蔵を見ました。

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次いで浜の宮天満宮です。
海に向かって建っています。

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※クリックすると拡大します

浜の宮天満宮の説明です。

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境内の片隅にあった東屋は「絵馬堂かな?」と思って入ってみたのですが、休憩所のようです。天井に伊達綱が飾られ、写真は祭りの写真ばかりです。祭りの盛んな播州らしさが伝わってきます。

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拝殿前には狛犬のように牛が構えています。

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東側の牛は、説明板にあった、越前・加賀の北前船主が明治11年に奉納したという石像霊牛です。

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浜の宮天満宮にも厳島神社タイプの摂末社があります。
ここには航海の神様である住吉神社と表示されています。

いずれの神社も古くからの港町であった飾磨らしい神社であることがよく分かりました。
ただ、姫路の神社を語るのに祭りは欠かせません。私には祭りを語れないので、ぜひ地元の英ちゃんによる「網干在住日記」をお読みください。

<関連ブログ>
 網干在住日記「飾磨、散策3」津田天満神社
       「飾磨、散策4」津田天満神社、津田の細江
       「飾磨、散策7」浜の宮天満宮
       「飾磨、散策11」恵美酒宮

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庚申堂の三猿(大阪市天王寺区)

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以前、庚申街道を歩いたとき、名前の由来である庚申堂に立ち寄れなかったので、改めて庚申堂を見学してきました。



おさらいすると、庚申堂は四天王寺の真南で、上町台地を横断する人工的な窪地の北斜面にあります。

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朱色の門をくぐるとそこは静かな境内。

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中央にご本尊を守るお堂、周囲にいくつかのお堂や石碑、石像があります。敷地はとてもゆったりしています。
この本堂、大阪万博の休憩所「法輪閣」を移築したものだとか。
後で知ってびっくり。あちこちのブログで紹介されています。

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本堂に今年度の庚申まいりの日程表が貼ってあります。
訪ねた日は5月8日で、翌日の祭りに備えて準備が進んでいました。

庚申堂のご本尊は帝釈天の使いである青面(しょうめん)金剛童子という神様です。
ここは日本で初めて庚申尊が出現した場所で、時は701年正月の庚申の日。当時は疫病が流行っており、青面金剛童子は除災無病の霊験を示されたそうです。それ以降、庚申の日およびその前日(宵庚申)にご本尊に祈れば、必ず一願が叶うとされています。

なお庚申信仰というのは元々道教思想で、60日に1回巡ってくる庚申(かのえさる)の夜、寝ている間に体内に棲む三尸(さんし)の虫が天帝に日頃の悪事を報告に行くので、眠らずに過ごすことで災いを避けるものです。その日は皆で集まって夜明かしします。その風習と四天王寺の庚申堂に関連があるのかはよく分かりません。

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境内で気になったのは百度石に刻まれた三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)の石刻です。猿は青面金剛童子の使いだそうで、いたるところに三猿が刻まれています。三猿というのはそんなに一般的だったんですね(外国にもあるとか)。

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これは裏面の見ざる。
この百度石は天明3年(1783年)のものです。

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境内の西側に石碑が固まっている場所があります。
それぞれに三猿が刻まれています。
この石碑は天和4年(1684年)のもの。

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ここに登場する三猿は、かなり簡略ですね。

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そこへ行くと昭和15年の三猿はユーモラスです。
楽しそうにも見えます。

奈良の庚申堂では、猿と言えば身代わり猿なので、同じ庚申堂でも表現が違います。

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三猿以外にも石像があります。例えば七福神の石像。
昭和11年に奉納されたものです。造形的に面白い。

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隣には大黒さん。そりに乗っているようにしか見えません。たぶん米俵に乗っているのでしょう。

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他にも気になるものが。
庚申堂では、庚申こんにゃくというのが名物だそうです。
「北を向いて無言で」というと、節分の恵方巻を思い浮かべますが、大勢の参拝客が北を向いて無言でというのは気になる光景です。

四天王寺のお堂の一つでありながら、かなり特徴のある庚申堂でした。

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2010年5月13日 (木)

古代の岬の敏馬神社(神戸市)

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「中山岩太展」の後、いつも兵庫県立美術館に来るたび気になっていた敏馬(みぬめ)神社に立ち寄りました。読めないだけでなく、読みにくい。
名前は古いですし、(昔の)海岸に向かう高台で、地形も特徴的。絶対何かあると感じさせる神社です。

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拝殿まではこれぐらいの高低差があります。

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※クリックすると拡大します

由緒を読むとやはり古い神社です。
創建は伝承で201年。神功皇后ゆかりの神社です。
能勢の三草山と縁があるのですね。

また「社殿は、飛鳥・奈良時代「敏馬の埼」と呼ばれた高台にあり、東側は「敏馬の泊」という神戸最初の港」と紹介されています。
アースダイビングでも意味のありそうな場所です。

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ありがたいことに境内の一角に、郷土史研究家による歴史展示コーナーがあります。

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※クリックすると拡大します。

大正時代の境内はこんな環境だったそうです。
目の前がすぐ海です。

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今は目の前にビルが建っていて海は見えませんが、階段上で暫し、かつての光景を想像します。

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「中山岩太展」と神戸

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灘の兵庫県立美術館で開催中の「私は美しいものが好きだ。写真家中山岩太」展を見てきました。
ポスターは美しい女性のモノクロ写真で、内容を知っている知人に教えてもらわなかったら見に行かなかったかもしれません。

中山岩太はモダニズム時代の有名な写真家なのですね。
東京・NY・パリに学び、大正から昭和にかけて芦屋・神戸を拠点に活躍して、昭和24年になくなった方だそうです。

展覧会は2部構成で、第1部は中山岩太のモダンぶりを紹介する展示です。
(詳しくないけど)ブロム・オイルプリントとゼラチンシルバープリントの2種類の写真があり、ブロム・オイルプリントは油絵や銅版画的な印象を受けました(レンブラントっぽい?)。ゼラチンシルバープリントの方はクール。いずれも私から見たら完璧としかいいようがない表現です。

また彼は様々な実験を行っていて、乾板を重ねてコラージュしてみたり、写真というより広告デザインの表現で、実際広告の仕事もしています。中でも福助足袋の福助がリアルにこちらを見ている写真がシュールでした。

第1部もいいですがこのブログで紹介する理由は第2部です。
第2部は「レトロ・モダン 神戸−中山岩太たちが遺した戦前の神戸」。中山岩太は神戸市の観光局に頼まれて神戸のみなと祭りなどを撮影しました。展示は中山岩太に限らず、川西英(版画)、小磯良平(絵画)、今竹七郎(グラフィックデザイン)、丹平写真倶楽部から、鉄道路線図、地図、記録映像に至るまで、多面的に戦前の神戸の街を紹介しています。相当気合いが入った展示です。

中山岩太の写す神戸は、雨に濡れてメタリックに光る街だったり、大きな近景が入ったり、やはりただ風景を写しはしません。

神戸の街の絵や写真では川崎造船所のガントリークレーンや建設が始まった高架軌道が目を引きました。

この写真展は2010年5月30日(日)まで開催されています。
 →公式ホームページ

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なお、この日はたまたま
連続レクチャー「“レトロ・モダン 神戸”を語る」
第2回「変貌する都市風景1930's~50's―昭和期神戸の光と影」
が開催されていました。

建築史家で神戸大学大学院准教授の梅宮弘光先生が講師です。
先生は最初に建築史家という職業への思いを語られました。建築史的にいいもの、美しいものだけを取り上げてきたのではないかと。
(この話を聞いて、近代のかけらを拾い集めている私のやっていることにも意義はあるのかもとも思いました)

その思いを踏まえて、今回紹介されるのが「写真」です。
それも空中写真。いいも悪いもあらゆるものが写っています。
私たちになじみがあるのは、国土地理院が公開している、1947年以降に米軍が撮影した写真ですが、今回紹介されたのは、神戸大学が所蔵する昭和11年(1936年)の神戸市の空中写真です。きちんとした空中写真と違って、低空から斜めに撮られた写真で、その分、街の様子がつぶさに分かります。
今回紹介されたのは40枚。全部で100枚以上あるそうです。

写真は須磨の海岸から東へと進みます。
須磨あたりには海岸沿いに戸建て、山手に長屋が連なっています。やがて長田区から兵庫区にかけて整然とした街区に囲まれた長屋群が画面を埋め尽くし、所々に小学校が浮かんでいます。海岸部の巨大な工場も見られます。ところが中央区の三宮あたりになると旧居留地の北側では非常に雑然とした街並みになります。そして灘区になるとまた整然とした長屋群が登場します。

当たり前ですが、米軍撮影の空中写真は戦災後の姿。
この写真では市街を埋め尽くす長屋の姿が映し出されていました。戦後の写真から想像で補っていた街の姿を初めて目の当たりにした気がします。
何らかの形でこの写真を公開してもらえないものかなと思います。もっとじっくり見てみたい気がしました。

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2010年5月10日 (月)

飾磨の街並み(姫路市)

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大阪都市文化研究会の歩く会に参加して、姫路の飾磨(しかま)に出かけました。
昨年、網干(あぼし)に出かけたときに、ここで乗り換えて以来です。
上の写真は山陽電車の飾磨駅前なのですが、駅前広場をとる余裕はないので、すぐ道に出ます。
ただの道ではなく、旧街道の飾磨街道です。この道をまっすぐ行くと姫路に出ます。

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※クリックすると拡大します。

兵庫県では生野銀山と飾磨港を結んでいた輸送道路を、「銀の馬車道」としてPRしているようです。飾磨街道はその一部に取り込まれています。



飾磨は港として古代から利用され、とくに江戸時代には姫路藩の外港「飾万津」として、役所や米蔵なども置かれていたようです。

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<昭和22年修正測量 1/2.5万「姫路南部」>
※クリックすると拡大します。

明治以降は港とともに、鉄道が通り、大工場が進出しました。鉄道では明治30年に播但鉄道(のちJR飾磨港線、昭和61年廃止)、大正12年に神戸姫路電鉄(今の山陽電鉄)、昭和15年に山陽電鉄網干線が開業しました。工場では明治34年に浅田明バン所(浅田化学工業)、大正初期に福島紡績(シキボウ、跡地がジャスコに)、昭和8年に山陽製鋼所(現山陽特殊製鋼)、昭和14年に日本製鐵(現新日鐵)広畑製鉄所が操業開始します。
工場の最盛期には賑わったことでしょう。

しかしながら、次第に人は直接姫路に流れたのではないでしょうか。

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飾磨街道を港に向かって歩いて行きます。
飾磨駅からでも2kmぐらいあります。

駅前には立派な大衆食堂があります。
現在も営業中。

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駅の北側には味のある自転車預り所がありました。
「商い中」の札がいい感じです。

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駅の西には旅館か料亭らしき建物があります。

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町屋は非常に奥行きがある鰻の寝床です。

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こちらにも旅館。古そうです。

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銭湯もありました。
四角い煉瓦煙突です。

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看板建築の洋品店と理髪店。

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天理教の教会ですが、役所関係の建物っぽくも見えます。

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こんな風に表通りには近代建築、レトロ建築も見られます。
裏手に入るともっと古くて、このような格子戸の街並みがあります。

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ただ、古い街並みは1ヶ所ではなくて、分散しています。
これは宮のあたり。

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これは大浜のあたりで、西方向。

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これも大浜のあたりで、ほぼ同じ位置で北方向。

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これは天神のあたり。
網干街道沿いです。

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天神の裏手の煉瓦塀。

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看板建築らしい建物。
地図で確認するとこれも天理教の教会のようです。

回ってみて、飾磨は中心が分かりにくい気がします。
駅前なのか、神社なのか、港なのか、それとも工場なのか。神社も主なもので3つ、港も時代によって何カ所かに分かれます。さらに外側に姫路があり、街道沿いに伸びる長い町になっているようです。

あと数回に分けて飾磨を紹介します。

○関連ブログ
 網干在住日記「飾磨、散策 6」天神の街並み
       「飾磨、散策11」飾磨街道など

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2010年5月 8日 (土)

美章園の超壁面緑化(大阪市阿倍野区)

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美章園2丁目を歩いていて、存在感のある医院に出会いました。
建物がすっぽり緑に覆われています。

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屋号は植物の上から取り付けられています。
ガス配管も。

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しかも、これはツタではないようです。
壁面仕立てになっています。なんという植物なんでしょう。
ここまで整えるにどれだけ手間と時間がかかっていることか。
桟のデザインを見ると建物もかなり古そうです。

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佃の石畳(大阪市西淀川区)

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佃4丁目を歩いていると、古い長屋が目にとまりました。
ここも古い街並みが残っているんですね。

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四つ辻を曲がるとさらに長屋があります。
2階のベランダをペイントしているお宅は現代的。

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・・・とそこに現れたのは石畳。

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鉢植えの緑も必要な要素です。

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そしてこの曲がり角。
曲がり角の向こうにも石畳が続いているというのがとてもよい感じです。

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角を曲がった先もこの通り。
大阪の街中でL字型の石畳は珍しいかもしれません。

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ちなみに通りの反対側にも石畳があります。
(もう1ヶ所、石畳の路地があったような)

海老江や野田の石畳は有名ですが(有名なのか?)、佃にもあるんですね。
思いがけずいい風景と出会えました。

※ちなみにこのサイズの石畳は、市電に敷かれていた石畳の再利用ではないでしょうか。大阪市電は昭和35年〜44年にかけて廃止され、軌道の敷石の一部は路地の敷石などに転用されたと聞いています。

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2010年5月 6日 (木)

佃の工場風景(大阪市西淀川区)

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話が前後します。
佃を歩くにあたり、私は阪神なんば線の出来島駅から歩き始めました。向こうに見えるのが佃。この鉄橋を渡れば近いんですけど、鉄道専用なので千北橋に回ります。

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千北橋から眺める神崎川は広々しています。
このあたり大和田街道のルートのようです。
いくつか作業船が浮かんでいますね。

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クレーン付きの作業船です。
数年前の写真を見ると、このあたり、作業船のたまり場になっていました。

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千北橋を渡ると佃5丁目の工業地帯に入ります。
左手に1段高い芝生の敷地があって、浄水場かと思ったのですが、実際は工場が建っていた跡のようです。グーグルストリートビューでは工場が写っています。

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この佃5丁目には懐かしい工場風景が残っています。
まず寄せ棟屋根の工場というのがポイントですね。

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木造の工場が並んでいます。

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残念ながら空き家になっています。

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しつこく反対側からも。

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裏からも。

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こちらも同様に木造の工場です。

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こちらもそう。

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名前からして「古くからやってます」という会社があります。
商標もシンプルに「大」だけ。

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街角にトラックの計量証明所がありました。

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「かんかん」と書いてあって、私は隣の自販機の「缶々」かと思ったんですが、帰って調べたら「看貫」つまり計量のことなんですね。

工場の建物はそんなにお金をかけているわけではないけれど、大事に使われていて、最初からスクラップ&ビルドするつもりの建物とは違う愛着を感じます。


なお、佃の歴史的な話はこちらをご覧ください・・・

○関連ブログ
 十三のいま昔を歩こう「佃オリジナル」

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2010年5月 5日 (水)

佃にもあったこだわり貸家(大阪市西淀川区)

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Bassmanさんから、「佃三丁目近辺は、妙に装飾に凝っていたりする変わった文化住宅も多いような気がする」という情報をいただき、佃を見てきました。

そこにあったものは・・・
前に西九条で見た文化住宅にそっくり!
なこだわり貸家でした。

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<西九条の文化住宅>

こちらが西九条のもの。
「他人の空似」とはいわせません。

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しかし、佃の方がすごいのは、もう一棟の方です。

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このテラコッタのような植物装飾!
これは八角形で枠も二重ですし、格が上のようです。

どんな人がこの建物を建てたのか、まだ他にもあるのか、ますます気になりました。

○関連記事
 「文化的な文化住宅」
 「朝潮橋のこだわり貸家」

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2010年5月 4日 (火)

楽しい庚申街道(大阪市天王寺区)

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四天王寺の古本市の後、南大門から庚申街道を歩いてみました。庚申街道とは、四天王寺の南にある庚申堂への参道です。四天王寺への参道のひとつでもあるのでしょう。南大門から出発します。

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南大門の手前に何かあります。「熊野権現礼拝石」というものでした。熊野詣に出発する人がまずここで熊野権現を遙拝したそうです。こういう空間演出は面白いですね。ここから先、道は下っていますので、昔はずっと先まで眺望できたことと思います。旅立ちの気分が高まったことでしょう。熊野街道は庚申街道より西側(右側)を通っています。

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庚申街道を下っていくと庚申堂のところで坂がさらに急になり、底に谷の清水(清水の井戸)があります。(庚申街道の話なのに庚申堂が登場しなくてすみません。この日は閉まっていたので改めて見てきます)

このあたりは和気清麻呂が788年に上町台地を横断する大和川排水路の開削に失敗した跡とされていて、実際、天王寺公園の河底池まで窪地が続いています。
庚申堂がこの窪地の北斜面に位置するのは意味ありげです。

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さて、谷の清水は、石畳に地蔵堂があり、屋根がかけられています。線香のにおいが漂っていました。
この井戸水は西南の崖上の噴井から引かれていたそうです(戦後止まる)。

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清水の注ぎ口には石の器が埋め込まれています。


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谷の清水の斜め向かいに渋い建物がありました。
千寿荘という名前からは、アパートとも高齢者施設ともとれます。

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※クリックすると拡大します。

かっこいいです、これは。
これだけで記事にしようかと思ったぐらい。
壁を塗り替えたためか、玄関部の大谷石(?)と色彩がアンバランスになったようなのが惜しい。

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建物は左側だけが張り出しています。
真ん中の窓のみ、バルコニー風にゆるい曲面を描きボーダーのタイルが貼られています。
木製建具の格子デザインなどから見て、昭和初期の建物でしょうか。

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庚申街道をさらに進むとJR阪和線にぶつかる・・・と見せかけて抜け道があります。

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地下通路をくぐります。

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地上に出たと思うと、今度は「くの字」の陸橋で環状線・関西本線を渡ります。これは楽しい。

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建て替えが始まった近鉄百貨店の横に出ます。

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ここで終わりかと思ったら、ちゃんとビルをくぐる通路が用意されています。
ゆるい階段で自転車もOK。

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反対側もゆるい階段になっています。

この先は以前、「大阪市阿倍野区の2つの小公園」で紹介した道へとつながっています。

前に西国街道を歩いたときにも感じましたが、旧街道は大きな道で分断されてもルートは確保される場合があるのですね。
庚申街道は歴史ある道ですが、抜け道としても歩いて楽しい道になっています。


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2010年5月 3日 (月)

四天王寺を守る消防署(大阪市天王寺区)

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四天王寺の古本市に初めて出かけました。
四天王寺は住吉公園と並ぶ、大阪で初めての公園(明治6年に天王寺公園として指定)なので、いずれ公園関連の記事にしたいとは思っていますが、今回は関連する話題を簡単に。

四天王寺の南西に、溝の深い帯模様が印象的な消防署があります。天王寺消防署元町出張所(元南消防署元町出張所)で、明治43年〜大正15年の間昭和12年に建てられた近代建築だそうです。シンプルな割にかなり癖のあるデザインですね。これもセセッションのうちなのでしょうか。

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ユニークなのは、裏側、つまり四天王寺の境内側にも出口があること。
これなら夜中に境内で火事があってもすぐに出動できます。頼もしい存在です。

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この帯模様はぐるりと裏まで回っているのでした。

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裏側は四天王寺の西門の前です。
西の鳥居よりは内側。

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こんな感じで古本市が開かれていました。
私の場合は主に古い地図を買いますが、結構いい買い物ができました。

○関連ブログ
 ひろの東本西走「心光寺本堂と四天王寺八角堂」
 十三のいま昔を歩こう「桜の季節に四天王寺」

 四天王寺の歴史については、「十三のいま昔を歩こう」の新之介さんが書いてくださることを密かに期待しています。


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