« 2009年4月 | トップページ | 2009年6月 »

2009年5月

2009年5月31日 (日)

六光星を追って津守へ

090429tsumorirenga0
このところ気になっている煉瓦の刻印があります。六光星の刻印です。
豊中岡町の住宅地側溝、東淀川の鉄道橋脚、野田の側溝、中之島の阪大医学部跡、住吉の蔵の前など、比較的よく見かけて、私が確認したのは大阪以北だけです。
どこの煉瓦会社の刻印なのでしょうか。
(私が知らないだけかと思いますが。)
ちょっと調べてみました。

形からたどるのは難しいので、煉瓦会社からたどることにしました。
神戸大学の新聞記事文庫に、「煉瓦界独占計画 地方煉瓦業の勁敵」(大阪朝日新聞、大正2年12月9日)という記事が載っています。
それによるとその頃(大正元年頃?)の全国の煉瓦生産量は4億2000万個で、大阪府の煉瓦会社6社の生産量は1億7200万個だったそうです。煉瓦は価格の割に重いので、主には各地域で使われ、まして煉瓦生産の中心である大阪によそから運ばれる煉瓦は少なかったのではと思います。

そこで、大阪の6煉瓦会社とその上記記事での生産量を刻印とともに紹介します。

Osakayogyou1<大阪窯業会社(堺市・岸和田市・貝塚市など)>
年産8000万個
明治21年設立

Kishiwadarenga1<岸和田煉瓦会社(岸和田市)>
年産3500万個
明治5年製造開始

Tanjirenga1<丹治煉瓦(堺市)>
年産1800万個
明治3年製造開始

Nihonrenga1<日本煉瓦会社(堺市)>
年産1800万個
※刻印は推定

Sakairenga1<堺煉瓦会社(堺市)>
年産1200万個
明治26年創業

Tsumorirenga<津守煉瓦(大阪市西成区)>
年産900万個
明治30年創業

津守煉瓦だけ、刻印が分かりません。(私は、ですが)
六光星は、津守煉瓦の刻印では?という仮説に至りました。
この生産量、工場が一番北にあることから、北大阪でしばしば六光星の刻印煉瓦が見られることと対応しているような。

もう少し、大阪の6大煉瓦会社以外の煉瓦会社についても調べてみました。
同じく神戸大学の新聞記事文庫に、「煉瓦減産五千万 五十銭の値上発表[関西煉瓦生産制限 其一]」(大阪朝日新聞、大正3年6月27日)という記事があり、その中で、大阪の6社と讃岐煉瓦(香川県観音寺市、明治30年設立で現存)、三津ヶ浜煉瓦(愛媛県松山市、大正2年設立)の名前が出てきます。

讃岐煉瓦は、大阪の阿倍野区で見たことがあります。

Sanukirenga1<讃岐煉瓦(香川県観音寺市)>

三津浜煉瓦の刻印は不明ですが、そんなに出回っていることはなさそう。

もちろん大正2年以前に消えていった煉瓦会社もあります。
貝塚煉瓦(明治40年に大阪窯業と合併→貝塚工場)、和泉煉瓦(明治40年に大阪窯業と合併→岸和田工場)などです。大正10年に解散し、大阪窯業に吸収された別の和泉煉瓦(株)(→堺東工場)というのもあったようです。他にも明治初頭に小煉瓦会社が2、3年に1つずつ生まれていたと「大阪窯業株式会社五十年史」には記されています。

ただ、最大手・大阪窯業の「五十年史」(昭和10年)で生産量の推移をみると、ピークは大正6年の1億3000万個です。大正以前は官公需中心で、生産量も少ないと思われます。

また、大阪窯業は大正9年にアメリカに技師を派遣して煉瓦舗道を研究、舗道用煉瓦を完成させました。大正10年に「重量物運搬道路なる、大阪市北区田蓑橋北詰、元知事官舎前、及び、兵庫県武庫郡西宮、武庫郡役所に、煉瓦舗道を試む。蓋し、我が国に於ける、舗道煉瓦の嚆矢」(「大阪窯業株式会社五十年史」、p159)という記述がありますから、舗道に敷かれている煉瓦は(再利用という可能性もあるものの)これ以後の煉瓦でしょう。

参考まで、貝塚煉瓦の刻印も紹介します。

Kaizukarenga1<貝塚煉瓦(貝塚市)>
明治27年創業、明治40年大阪窯業と合併

ここで、津守煉瓦製造所について私の知っていることをまとめると、
・明治30年5月創業
・所在地は、西成郡の津守村(現在の大阪市西成区北津守)
・明治43年末の従業員は90人、代表者は林尚五郎氏
・大正2年の新聞記事で年産900万個
・大正7年の新聞記事にも名前が登場
・津守の煉瓦工場は昭和10年頃までは地図に記載
 といったところです。
(余談ですが、西成区には勝間村に尾崎煉瓦製造所というのもあったようです。明治31年創業、従業員34人)

しかし刻印については分からず、津守煉瓦製造所の工場跡に見に行ってみることにしました。
丹治煉瓦の例などを見ると、失敗した?煉瓦を工場周辺で使ったりする場合があるので、周辺で六光星の刻印など手がかりが見つかれば、ということです。

Tsumorirenga_t10
<大正10年測図>

大正10年頃の工場の様子です。

Tsumorirenga_t13
<大正13年発行パノラマ地図>

パノラマ地図で見る限り、そんなに立派な工場ではないように見えます。


より大きな地図で 煉瓦関連 を表示

現在はこのように、辰野(株)木津川倉庫となっています。
出かけてみました。

090429tsumorirenga1
最寄り駅は南海汐見橋線の木津川駅です。(実際には大正から歩きました)
明治33年(1900年)に高野鉄道の駅として開業したので、歴史は古い駅です。

駅前に、煉瓦工場の敷地があります。
駅周辺は多少家もありますが、空き地も多く、寂しい感じ。

木津川倉庫のフェンスに沿って煉瓦がないか見て歩きました。
倉庫の敷地内は金網フェンスなのでよく見えますが、煉瓦はなさそう。周辺も倉庫や工場で、煉瓦などは見られません。

090429tsumorirenga2

半周して白木神社。
明治41年に、神祠に白蛇が依憑していたので、「巳の神」として祭られたそうです。
御利益は水難ごとのご加護、船舶航行の守護神、のちに生活保護の神となったそうです。
大正4年8月に現在地へ。

ここは煉瓦工場の外だったようです。
しかし、ここにも煉瓦はありません。

線路を渡って東側に回ると、所々煉瓦は転がっていますが、刻印がありません。


090429tsumorirenga3

ほとんど一周して、駅の近くにある古い木造住宅。
その横の通路に煉瓦が埋め込まれていました。

そしてその刻印を確認すると・・・


090429tsumorirenga4

六光星!
狙い通りに六光星の刻印煉瓦が見つかりました。
そう思ってみると、失敗した煉瓦にも見えます。
しかし、結局、刻印煉瓦はこれ1つだけです。

仮説を否定はしないけど、確実にするにはちょっと弱いです。
もっとたくさんあれば良かったんですけど。
また資料に当たるなり、別の方法が必要なようです。

090429tsumorirenga5

再び、木津川駅へ。
後で、WIKIPEDIAの木津川駅の項を見ていて、気になる記述がありました。

 昔、この駅の北に煉瓦工場があり、そこで生産された煉瓦が、友が島の砲台などに使用された

出典がないので、情報の信頼度が分かりませんが。
次は友が島に行ってみるべきでしょうか?

六光星の刻印探索はまだ続きます。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年5月29日 (金)

住吉大社で灯籠を楽しむ(大阪市住吉区)

090419sumiyoshitourou0

改めて住吉大社の西側正面です。

090419sumiyoshitourou1

参道には有名な太鼓橋があります。

090419sumiyoshitourou2

住吉大社の本殿は4つあります。
左が第三本宮、右が第四本宮、奥に第二本宮、第一本宮があります。奥の本殿は改修中でした。
現在の本殿は文化7年(1810年)のものだそうで、国宝です。
住吉大社は211年、神功皇后によってこの地に鎮座されました。
 →住吉大社HP(よくできています)

源氏物語にも登場するように、古くから信仰を集めてきた神社ですので、境内・境外に見どころはたくさんありますが、今回は灯籠を楽しんでみました。

090419sumiyoshitourou3

090419sumiyoshitourou4

住吉大社には大小600余りの石灯籠が奉納されています。
その多くは江戸時代に海の神様として、全国の廻船業者が寄進したもの、そして様々な業種の同業組合が寄進したものです。広告塔の意味もあったのだとか。

090419sumiyoshitourou5

◇寄進者を楽しむ

 別に石灯籠鑑賞に詳しくはないですけど、楽しみ方のいくつかを。
 石灯籠には寄進者の名前、寄進年などが記されています。
 この灯籠は陸奥の灯籠。廻船業者では、松前、南部、津軽、仙台、越中、江戸、安芸、尾張内海、摂津伝法、紀州、土佐、伊予、日向延岡、肥後、薩摩といったところから、今では埋もれている壱岐勝本、塩飽牛島、讃岐粟島などまで全国です。海だけでなく、伏見の三十石船もあります。

090419sumiyoshitourou6

 こちらは大阪の灰屋株仲間。意外と(?)大きな灯籠です。
 業種別では、大阪の干鰯、魚料理、砂糖、絞油、薪、土砂、堺の茶船、阿波の藍、吉野の材木、北国積の木綿などなど。大きさともうかり具合は比例するのかなどと思ったり。

090419sumiyoshitourou7

◇大きさを楽しむ

 かなり大きな石灯籠も何組もあります。
 これは仙台の石灯籠ですが、隣の普通の大きさの灯籠と比べると大きさが分かります。

090419sumiyoshitourou8

◇細工を楽しむ

 これだけたくさんあるので、石工の細工も見どころです。
 これは堺の呉服古着商。灯籠の裏にまで彫刻されているのがすごいところ。
 商売柄、凝っているのでしょうか。

090419sumiyoshitourou9

 商売柄といえば、大阪の小間物問屋の灯籠は小ぶりながら細工が細かいです。さすが小間物。

090419sumiyoshitourou10

 紅花商の灯籠には花びら付きです。

090419sumiyoshitourou11

 砂糖商の灯籠ですが、まるで屋号の見本帳のようになっています。

090419sumiyoshitourou12

◇素材を楽しむ

 多くの石灯籠は花崗岩だと思いますが、中には「異色」も。
 この2基は白さが目立ってますでしょう?

090419sumiyoshitourou13

 足元を見ると、美濃赤坂山産と書かれています。
 ということは大理石!
 江戸時代の慶応2年(1867年)のもの。
 美濃赤坂の大理石というとカラフルなものを想像しましたが、
 脇水鐡五郎氏の「美濃赤坂大理石に就て」という論文p99では、9種類に分類されています。
 1.鼠(淡灰色緻密フズリナ石灰岩)
 2.霞(灰白色クリノイド石灰岩)
 3.鮫(濃灰色緻密フズリナ石灰岩)
 4.黒(漆黒色炭質シュワゲリナ石灰岩)
 5.白(雪白色微晶質石灰岩)
 6.下部太理(斑色微晶質石灰岩)
 7.花絞(黒色珊瑚シュワゲリナ石灰岩)
 8.上部太理(斑色微晶質石灰岩)
 9.更紗(雑色石灰角礫岩)

 どれに当たるんでしょう。

090419sumiyoshitourou14

 これとは別に、大事に覆いをされている灯籠が2対あって、こちらも同じような質感なので、これも大理石なのかもしれません。

090419sumiyoshitourou15

 石灯籠以外では、他に岡山の備前焼の狛犬もあります。
 明治2年に寄進されたものです。

 今回紹介したものは境内のものだけですが、住吉大社の参道には、住吉公園の方まで、住友家寄進の石灯籠が並び、公園の先にも石灯籠が続いています。
 600基もあれば、これ以外にも、いろいろな楽しみ方ができると思います。

| | コメント (6) | トラックバック (1)

2009年5月27日 (水)

住吉大社の東(大阪市)

090419sumiyoshie1
住吉大社へは阪堺電車か南海本線で表から入るのが普通ですが、反対側の住吉東から入るルートもあります。南海高野線の住吉東駅が起点です。

なかなかいい雰囲気の駅で、手元のデータでは明治33年(1900年)になっているのですが、ベースはそうなんでしょうか。

090419sumiyoshie2
駅のすぐそばに洋館付き住宅があります。

090419sumiyoshie3
洋館付き住宅や洋風長屋によく使われる持ち送りなどの装飾があります。屋根が二重な上に、ステンドグラスまであって普通の洋館付き住宅より良いものです。

090419sumiyoshie4
ステンドグラスはバラのつぼみでしょうか。
割れているのが残念ですが、素敵なデザインです。

090419sumiyoshie5
その向かいは、長屋版戦後建築といった感じ。
(関西の)文化住宅と近代長屋の間のようにも見えます。
実際はいつの時代か分かりませんけど。

090419sumiyoshie6
また、駅の近くにはこんな新しく改修された土蔵があります。
復元的に整備されたようですが、説明はありませんでした。
一帯は住吉のHOPEゾーンなので、その関連かと思います。
隣との仕切りが煉瓦塀なのにも注目。

090419sumiyoshie7
軒下の煉瓦敷きが年を経ていい感じです。
これは元のままかもしれません。

090419sumiyoshie8
ちなみに刻印は、先日から気になっている六光星。
相変わらず、その正体を突き止められていません。
(また次の次ぐらいの記事で報告します)

090419sumiyoshie9_3
この土蔵の向かいが「すみよし村ひろば」になっていて、奥の家の通路がそのまま裏庭のようなこの広場に抜けています。なんてぜいたくな。いったい、どんな家なんでしょう。

090419sumiyoshie10
と思ったら、家は家でも、大正時代に住吉村の村長を3期勤めた油屋さんの住宅だそうです。古い部分は江戸時代にさかのぼるようで、明治時代に移築されてきたのだとか。
今は住吉福祉会館とすみよし村ギャラリーとして使われています。

090419sumiyoshie12
ちなみにこの通りは東西の住吉街道です。
立派な町家が街道の雰囲気をとどめています。

090419sumiyoshie11
この町家には鍾馗さんがいらっしゃいました。

090419sumiyoshie13
有名な、住乃江味噌の池田屋本舗さん。
住吉大社の高灯籠がトレードマーク。
ここは熊野街道と住吉街道の交差点です。

090419sumiyoshie14
池田屋本舗さんのはす向かいには、ハット屋パンさん。
でも売っているのは手作りソフトクリームという不思議なお店。
(大判やきも売っているらしい)

090419sumiyoshie15
そのまま住吉街道を歩いていくと、脇に煉瓦敷きの路地がありました。
石畳の路地もあります。

090419sumiyoshie16
住吉大社に到着。
裏門から入ると樹齢1000年の大楠のある楠珺社(なんくんしゃ)です。

裏の参道とはいいながら、徒歩の時代にはこちらも賑わっていたのでは思います。今は落ち着いたまち歩きが楽しめる住吉大社の東側でした。

○住吉大社付近の関連記事
 「文化的な文化住宅」
 「細井川に沿って」
 「大阪で最初の住吉公園」←住吉の高灯籠の写真あり

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2009年5月26日 (火)

監獄跡の扇町公園(大阪市)

090118ogimachi1
扇町公園は環状線の天満駅の近く、関西テレビの隣にある、比較的大きな公園です。(正面が関西テレビ)大正12年(1923年)に開園した古い公園でもあります。

Ogimachi_t03
<大正3年の地図>

明治15年(1882年)以降、公園になる前は、堀川監獄(大阪監獄署)でした。
今の扇町公園よりやや大きいぐらいでしょうか。
ほぼ同じぐらいの規模です。

Ogimachimap_t13
<大正13年の地図>

大阪監獄署は大正9年(1920年)に堺に移転、今もある大阪刑務所です。
跡地は大正12年に公園となりますが、地図で見る限り、最初は小さな公園だったみたいです。
周囲はまだ空き地ですね。

Ogimachi_s29
<昭和29年頃の地図>

扇町公園には、昭和25年(1950年)に競技用の大阪プールがつくられました。
しかし、それも平成9年(1997年)に八幡屋公園(港区)に移転、取り壊されました。
平成9年に関西テレビが移ってきています。

090118ogimachi_map
平成8年から平成13年まで大規模リニューアル工事に入り、現在に至ります。
(この地図は南北が逆ですのでご注意)
徹底的にリニューアルされて、歴史の古い公園の割に、昔のものが残っていないようです。

090118ogimachi2_2
1月に撮った写真なので寂しいですが、ご紹介します。
リニューアル後の公園は丘の多い起伏に富んだ公園になっています。中でも最高点からは梅田のビル街が見渡せて、こんなにいい眺めです。

090118ogimachi3
芝生の斜面が広がっていて、遊具も多く、子供が大好きな公園でしょう。

090118ogimachi4
大阪プールのサブだった扇町プールはリニューアルされながらも、まだあります。

090118ogimachi5
これらの木々はいくらか古い記憶を持っているでしょうか。

090118ogimachi6
扇町の駅から梅田へ、公園を横切ってまっすぐ動線が貫いています。
ここも印象的な景色です。

090118ogimachi7
南側には、昭和9年(1934年)に完成した大阪市水道局扇町庁舎があります。
ほとんど装飾がありませんが、角の曲面、玄関上の壁の曲面がいいアクセントになっています。
内部については以前に紹介したことがあります。
今のうちにご覧下さい。

(追記)水道局扇町庁舎は、とうとう解体されたようです。(2011.9.17記)

プールに水道局、水にも縁のある公園です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月24日 (日)

南浜寺と呼ばれた住宅地−2(泉大津市)

090510sukematsu17
松之浜町の助松住宅地の続きです。

住宅地内の道路は、浜寺住宅地に比べるとかなり狭い道が多いようです。
その分、松林の中を歩くような感じもあります

090510sukematsu18
松之浜1丁目を歩きまわります。
洋館付き住宅などもあります。

090510sukematsu19
腰まで茶色い下見板がある住宅。
角の部分が引っ込んだ玄関ポーチになっています。
右奥にも下見板の住宅が続いていました。

090510sukematsu20
同じ家の勝手口の扉です。
海が似合う気がします

090510sukematsu21
堤防跡まで来ました。
昔はこの向こうに海水浴場があったのでしょう。
今、この向こうには湾岸道路、高速道路と埋立地があります。堤防は遊歩道になっています。

090510sukematsu22
堤防脇にお地蔵さんがいらっしゃいました。
祠は煉瓦造です。さすがは泉州。
祠自体は古いものではなさそうです。

090510sukematsu23
海岸に近いところを歩いていくと、ほんのりスパニッシュの明るい洋風住宅がありました。
南西に玄関があります。
窓の桟が変わっています。

090510sukematsu24
西北側はこんな感じ。
水路脇の住宅です。

090510sukematsu25
また洋館付き住宅があります。
海辺の明るい雰囲気。

090510sukematsu26
どうしても紹介するものが洋風に偏ってしまいますが、近代和風住宅が多いのは浜寺同様です。

090510sukematsu27
凝った銅板張りの和風住宅もありました。

090510sukematsu28
北助松駅をめざして歩いていき、助松町3丁目で目に入ったのが、とてもスパニッシュな洋風住宅です。この写真は南から。塀が低いので、南から西はよく見えます。埋立地に向かう産業道路のすぐ脇にあります。

090510sukematsu29
この写真は南西から。
アーチのある車寄せが張り出して、アーチの回りが装飾で縁取られています。

090510sukematsu30
北東から。煙突もこちらからは結構目立ちます。
助松町3丁目には、昭和3年に建てられたU家住宅というのがあるらしいので、ひょっとしてこれでしょうか。表札を確認するのを忘れていました。
(追記)U家住宅と確認しました(2009.5.27)

助松の住宅地は、浜寺住宅地に比べると道も入りくみ、敷地規模もばらついていますが、浜寺より海に近かった分、海辺の雰囲気が強く感じられる住宅地でした。
海が遠ざかってしまったのが惜しまれます。

090510sukematsu31
ついでながら、大きなお屋敷があるのは、紀州街道沿いという理由もあるのでしょう。
紀州街道の街並みも見どころとなっています。
(この写真は助松町のあたり)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

南浜寺と呼ばれた住宅地−1(泉大津市)

090510sukematsu1
泉大津市に南浜寺と呼ばれた住宅地があったと聞き、しばらく気になっていましたが、ようやく確かめに行くことができました(実は浜寺住宅地を見に行ったのは比較のため)。
2回に分けて、写真多めで紹介します。

「昭和初期には「南濱寺」「松ノ濱」と呼ばれ、松林が続く白砂青松の海岸沿いの地域として海水浴で賑わい、大阪の避暑地として別荘など邸宅が立ち並び、旅館や私立幼稚園も建てられた。」(泉大津市HP・松之浜町の解説)

南浜寺とは、南海本線・松ノ浜駅(旧称・助松駅)の西側、かつての臨海住宅地です。住所でいうと松之浜町にあたります。南浜寺土地建物が大正9年に開発したものを関西土地(株)が引き継いだ「助松住宅地」14,676坪や昭和7年に関西土地(株)が開発した「助松臨海地」、昭和9年に共栄社が開発した「助松住宅地」や「童の里」など、複数の住宅地があったようですが、私にはどこがどこなのか分かりませんので、また分かれば追記で対応したいと思います。

高架の松ノ浜駅で降りて西へ、旧国道26号線(府道204号線)を渡ると、さっそく気になる建物がありました。ここは紀州街道と鋭角にクロスしている場所です。美しい塀の向こうにルリ色の屋根が見えました。

090510sukematsu2
壁面といい、軒先といい、豆タイルでびっしりと覆われています。
洋館付き住宅だと思うのですが、これ以上うかがえません。
残念ですが、感触は上々です。

090510sukematsu3
地区内に入ると、さっそく生垣の住宅地が現れました。

090510sukematsu4
そして、2階建ての洋館付き住宅。
装飾は控えめですが、八角形の窓がいい感じです。

090510sukematsu5
足元はよく見かける石張りになっています。

090510sukematsu6
お隣も下見板の住宅。
残念ながら空き家のようです。
この雰囲気は、竣工時には臨海の住宅として素敵だっただろうなと思われます。

090510sukematsu7
水路を挟んで煉瓦塀がありました。
この後も、歩いていて時々、敷地境界の煉瓦塀を見かけました。

090510sukematsu8
こちらは診療所だったのでは?と思う建物。
モダンなつくりです。

090510sukematsu9
玄関脇にステンドグラスもどきの窓があります。
色つきの磨りガラスをはめたものです。

090510sukematsu10
裏に回ると大きな洋風の大きな建物らしきことが分かりますが、これ以上は近づけません。
街区割りに関しては一部を除いて、浜寺のようには整然としていません。

090510sukematsu11
こちらも白い下見板の和洋折衷住宅。
瀟洒な雰囲気。

090510sukematsu12
地区内を水路が流れていて、そこには石橋が架かっています。味があります。

090510sukematsu13
そして大物が一つ。
大きなお屋敷に洋館が建っていました。T家住宅です。

090510sukematsu14
拡大するとこんな感じ。
腰折れ屋根に焼き板張りの壁、八角形の窓も見えます。
よく見たくて大きな敷地の回りをぐるぐる回ったのですが、あと少しが近づけません。

090510sukematsu15
何しろこの右のお屋敷です。すごく長い壁でしょう。
左の生垣も長い。

090510sukematsu16
左のお宅は門の外に庭があるという。
南浜寺というだけあって、ここでも松がポイントになっています。

(追記)調べていて、この門がなんと膳所城の瀬田口総門を昭和9年に移築したものだと知りました。
 しかも、この邸宅は、京都の細見美術館で有名な細見氏のお宅です。泉大津の方だったんですね。
 細見亮市(良、古香庵)氏は、兵庫の新温泉町(浜坂町)生まれで、13歳で大阪に出て、23歳で独立、毛布の販売から毛織物の製造で財をなされたそうです。そして、その財で三代にわたって美術品を収集されました。この自邸は昭和5年に建てられたそうです。
 →岩崎正弥氏の「茶道雑誌」掲載記事「細見美術館・古香庵」
 →細見美術館HP
 (2009.5.27)

期待通りに古い住宅が残っていて、うれしく思います。
浜寺に比べると小さな住宅が多いのですが、とんでもなく大きなお屋敷もあって、そのバラエティはかなりのものです。

後半に続きます。

<関連記事> 他の郊外住宅地のインデックスはこちらです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

浜寺昭和町4丁の住宅(堺市)

090510hamadera4_1
浜寺住宅地の続きで、浜寺昭和町4丁も紹介しておきます。
こちらは古い洋館はなさそうですが、近代和風の屋根付きの土塀に石・焼き板貼り、庭木の松という落ち着いた街並みが見られます。

090510hamadera4_3
大阪の富裕層対象に開発されましたので、基本的に蔵がついているそうです。

090510hamadera4_2
洋風の増築部分が付いたお屋敷もあります。

090510hamadera4_4
浜寺昭和町5丁同様、一部に排水路が通っています。4丁では南北方向です。そこに架かる橋も石橋なので雰囲気がよいです。

090510hamadera4_5
お屋敷の壁です。
戦前の壁によく見られるパターンの石張りで、明るい雰囲気を出しています。

住宅地の建て替えは進んでいますが、新しい建物も街の雰囲気を大事にしようという意識が感じられて、好もしく思います。
これで浜寺住宅地(浜寺昭和町)の記事はひとまず終わります。

○関連記事
 「浜寺昭和町1〜3丁の住宅」
 「浜寺昭和町5丁の住宅」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

浜寺昭和町5丁の住宅(堺市)

090510hamadera5_1
浜寺住宅地は、堺市の南海本線・浜寺公園駅の東側に広がる別荘的な郊外住宅地です。
大正7年に地元資本主体で設立された浜寺土地(株)により、大正7〜8年に第一期の土地整備が行われました。その後、浜寺土地(株)主導で、昭和5年に浜寺土地区画整理組合が設立され、隣接地が昭和11年、13年、15年と開発施行されました。

以前、堺市の浜寺住宅地のうち、浜寺昭和町1丁〜3丁を紹介しましたが、今回、浜寺昭和町5丁を紹介します。4丁、5丁は、一番最初に開発された地区にあたります。

いくつかの建物は写真で見ていたのですが、なかなかそれが現れませんでした。あせりましたが、結局、歩くルートの関係で、洋風の建物はみな一ヶ所に固まっていたということです。

まず、O家住宅から紹介します。大正時代に建った和館(現存せず)に、昭和3年、洋風接客棟として増築されたスパニッシュの洋館です。

090510hamadera5_2
星形窓と窓の上のイスラム風装飾が目をひきます。
窓の上に緑の点がありますでしょう?

090510hamadera5_3
拡大すると花柄レリーフのプレートです。

090510hamadera5_4
続いて、O家住宅の東隣にある阪之上家住宅。登録文化財なので、名前を出していいでしょう。
こちらは大正11年、表には出てませんが煉瓦造だそうです。
住宅らしからぬインパクトのある外観です。
実現しなかった浜寺ホテルの計画の一部が使われたと解説されています。
(ひろさんのブログで拝見した気もするのですが、見つけられませんでした)

090510hamadera5_5
1・2階の窓の間に装飾が入るのはセセッション風ですね。
石を貼ってみたり、窓に凝った面格子を使ったり、いろいろ装飾を加えています。

090510hamadera5_6
両家を同時に眺めるとこうなります。
左がO家住宅、右が阪之上家住宅。
これだけでなく、さらに・・・

090510hamadera5_7
道のずっと先には、ヴォーリズの近江岸家住宅のスパニッシュ煙突が見えるんです。
狙ったんですか、ヴォーリズさん(何を?)。
小さな写真では拡大しないと分かりませんが、肉眼では見えています。

090510hamadera5_8
続いて、阪之上家住宅の東隣にあるのが、F家住宅です。
昭和8年に建ちましたが、木造です。
丸々の洋風住宅です。

090510hamadera5_9
東側の玄関はこんな風に半円のバルコニーが飛びだしています。

090510hamadera5_10
テラコッタ風装飾は、花の図案でしょうか。

090510hamadera5_11
こうして紹介してくると洋風の町並みかと思うかもしれませんが、それは少数派で、近代和風が主体です。左側は阪之上家住宅の塀で、道路、水路を挟んで右に和風住宅の焼き板塀が続いています。
なお、この水路は排水のためらしく、地区内に逆L字型に引かれています。

090510hamadera5_12
同じ場所でもう少し右を向くとこんな感じ。
どこかの歴史的街並みのようです(浜寺も既に歴史的街並みですが)。

090510hamadera5_13
和風住宅の玄関部分はこうなっています。
玄関は隙なく石畳、側溝は花崗岩の切石2本で挟み、煉瓦が敷かれています。

090510hamadera5_14
ちなみに煉瓦の刻印は五光星でした。
私は見たことがありません。

090510hamadera5_15
同じ五丁の端の方にはこんな住宅も。
きれいすぎるので、新築でしょうか。
実は上の建物を見る前にこちらを先に見つけました。
この頃、昔風の本格的な洋館が新築されていて、分かりにくくて困ります。
街並み景観的には良いことなんですけどね。

○この記事には下記の報告・論文を参考にしました。
 『大阪府の近代化遺産報告書』、2007年
 吉田高子氏「大正7年開発の浜寺住宅地とその屋敷地構成について」(『近畿大学理工学部研究報告』第40号)、2004年
 三浦要一氏・住田昌二氏・多治見左近氏「浜寺地区における郊外住宅地形成過程」(「平成2年度日本建築学会近畿支部研究報告集」)、1990年
 多治見左近氏・三浦要一氏「堺市浜寺地区の郊外住宅地形成」(「日本建築学会計画系論文報告集」第436号)、1992年
 水野佐八香氏・小浦久子氏「歴史的建物資源とその地域環境特性の持続に関する研究その2 —堺市・浜寺地区の景観に現れる地域環境の特性—」(「平成14年度日本建築学会研究報告集」)、2002年
 
○関連記事
 「浜寺昭和町1〜3丁の住宅」
 「浜寺昭和町4丁の住宅」

  他の郊外住宅地のインデックスはこちらです。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年5月23日 (土)

潮騒の神島(鳥羽市)

090412kamishima13
答志島から船で20分、さらに先の神島に向かいました。
神島は、「歌島は人口千四百、周囲一里に充たない小島である。」で始まる三島由紀夫の小説「潮騒」の舞台として知られています。

島の大きさは変わりませんが、今は人口500人ほど。
海の向こうに渥美半島・知多半島が見える三重県の端の島です。名古屋港や四日市港に出入りする船が目の前を行き交っているので、寂しい離島ではありません。
(カメラの電池がなくなったので、携帯で撮った写真も混じってます。しかも携帯カメラの調子が悪い)

090412kamishima11
神島という名前から聖なる印象を受けますが、実際、このように祭られている石の神様を見ると、古い信仰が息づいているのを感じます。

090412kamishima1
神島の集落は一ヶ所に密集しています。
島の斜面にへばりつくようにぎゅうぎゅうと家が建っています。

090412kamishima2
ですから集落の中でも階段が非常に多くみられます。
車の走れるような道は海沿いの1本だけでしょうか。
自転車やバイクですらほとんど入れないところです。
街あるきの旅人には魅力的な階段ですが。

090412kamishima3
非常に狭い路地に下見板の住宅が建っています。
自転車は島の裏側にある小中学校に通うためでしょうか。

090412kamishima4
味のある店構えの商店。
ここも狭い路地にあります。

090412kamishima5
店の裏側。

090412kamishima6
このような下見板の建物がたくさんあります。
もう一つ特徴はカラフルにペイントされていること。
こちらはライトグリーン。

090412kamishima7
こちらは青・青・青。

090412kamishima9
この島でも鍾馗さんを見かけました。
京都文化はここまで及んでいます。

090412kamishima8
多くの離島同様、神島でも水が貴重で、こんなに立派な六角形の煉瓦の井戸がありました。

090412kamishima10
この階段は眺めの良い八代神社まで続いています。
残念ながら集落内だけで携帯の電池もなくなりました。

この日はいいお天気で、神島灯台や観的哨(かんてきしょう)から眺める伊良湖水道は、観光パンフレットのようだったのですが、写真には収められませんでした。観的哨(監的哨)は、対岸の伊良湖岬の向こうから試射した砲弾の着水点を観測するために陸軍が昭和4年に建てた建物で、「潮騒」の重要な舞台です。
 →伊勢志摩きらり千選「監的哨」

090412kamishima12
集落内にあるユニークな形の時計台跡は、観的哨の完成記念に、同じ昭和4年、建てられたものだそうです。もしかして砲弾の形?

狭い島ですが、絵になる光景がたくさん見られる島です。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年5月17日 (日)

答志島・答志の路地(鳥羽市)

090411toushi1
4月、とあるツアーで、三重県鳥羽市の答志島に出かけました。
答志島というのは、鳥羽の沖合2.5kmに浮かぶ周囲26.3km、面積約7平方kmの細長い離島です。島には答志、和具、桃取の3つの集落があり、鳥羽港から市営の定期船で、近い桃取・和具なら15分、今回出かけた答志でも30分の手軽な船旅です。
この日は天気に恵まれ穏やかな旅でした。

090411toushi3
答志の港に入ると、小高い丘と松が目に入ります。
こんなに小さくても、もとは離れ島だったようです。
昭和初期に島を訪れた砂田代議士がこの松を惜しんだことで残され、「砂田松」と呼ばれています。規模は違いますが、浜寺の松は大久保利通が惜しんで残されましたので、そういう時代もあったのですね。

090411toushi4
そして、この丘には港を見つめる石像があります。
観音様でしょうか。いい風景だなと思います。

090411toushi5
答志島は漁業の島です。観光の島でもあります。

090411toushi6
答志地区の中心部。
答志島の人口は約3000人で、そのうち半分は答志地区に住んでおられます。
平地は少ないので密集して暮らすことになります。
この日は春霞がかかっていますが、お天気はよく、遠くに神島が見えていました。

090411toushi7
近づいてみると密集具合がよく分かります。

090411toushi8
このような狭い路地が縦横に。
旅人には魅力的です。
路地裏を「島の旅社」のガイドさんに案内していただきました。


090411toushi9
狭い路地で活躍するのがこの手押し車。
「じんじろ車」というそうです。ほんとにたくさん見かけます。
鉄工所のオーダーメイドなので、1台3万円ぐらいするそうですよ。
収納スペースにぴったりサイズ。

090411toushi10
答志島は伊勢と同じく注連縄を1年中飾るそうです。

090411toushi11
集落には銭湯もありました。
旅館にはもちろんお風呂がありますが、こういうところで入るのもいいかもしれません。

090411toushi13
お風呂屋さんの戸の脇に炭で書かれた丸八の印。
これは答志の風習で、八幡神社の祭りで炭を奪い合い、その炭を使って家などに丸八の印を書いて魔除けにするそうです。至る所にあります。

090411toushi12
玄関の両脇に木製の部材が取り付けてあります。
これは省スペースのために、門松を取り付ける器具だそうです。
いろいろ工夫されていますね。

ちなみに上の旗立てからぴょこんと飛びだしているのは2本のめざし。
これも魔除けで、窓の数に応じて立てておくそうです。
古い慣習がいろいろと残っています。

090411toushi14
離島で切実なのが水の確保です。
今は鳥羽市から海底の水道管で送水されているようですが、以前は水が貴重でした。

090411toushi16
ですから、あちこちに井戸が掘られています。
面白いのが陶器製の井戸枠。
どこで作られているんでしょうね。

090411toushi15
煉瓦製の井戸枠もあります。

090411toushi17
また歩いていて気になったのが、青石の石積です。
地図で確認すると答志島は中央構造線のすぐ南で、青石を産するようです。

090411toushi19
路地裏ツアーの後は漁港の方へ。
ワカメ漁の季節で、ワカメやメカブ(ワカメの付け根)がたくさん干されていました。

090411toushi20
奥にある青い小屋は、海女小屋だそうです。
海女さんが休憩などに使うスペースです。
今は観光用の海女小屋なども作られていて、ツアーに参加すれば中で食事ができるようになっています。

090411toushi21
こちらは、天日干しのひじき。

090411toushi18
港に並んだタコ壺。
タコ壺漁は年中行われているそうです。

生業が活き活きと行われているのを見るのはうれしいものです。
とくに答志島は漁業がまだ元気なようで、季節ごとに多様な漁が見られます。
いつもは「昔、○○が盛んだった」という過去の記憶を追う旅が多いので、今回はその意味でも新鮮でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月14日 (木)

松の堤の中崎遊園地(明石市)

090502nakazaki1
明石の続きです。
中崎公会堂を見た後は、海を見に、裏手の大倉海岸公園に出ました。
広々した草地に松が点々。右奥には明石海峡大橋が見えています。

090502nakazaki2
そして松林越しに淡路島が見える、気持ちの良い公園です。

090502nakazaki3
再び中崎公会堂まで戻って、中崎遊園地を歩き始めました。
遊園地といっても昔の公園ぐらいの意味の遊園地です。
この写真に写っている高いモニュメントは、日露戦争忠君碑。
忠君碑と中崎公会堂のある場所が、現在、中崎遊園地の東端あたり。

090502nakazaki4
「明石遊園」と書かれた石柱もありました。
中崎海岸は、明治25年頃、明石港の掘削土砂で築堤され、松林になっていました。明治31年に国に召された明石公園の代替として、明治36年、明石町が港湾付属堤塘地1.69haを県から無償借地して「明石中崎遊園地」となりました。昔の写真を見ると、松の堤の裏に船だまりの水面があったようです。

明治44年には中崎公会堂と海水浴場が整備されます。
しかし、大正初期から海岸の浸食が進行し、大正11年にはすっかり浜がなくなってしまったそうです。大正15年には海岸堤防の修繕が行われました。
戦後は海岸用地になっていましたが、地先の埋め立てが進み、昭和60年に公園整備を完了したそうです。
(『神戸からの公園文化』)

海からは離れてしまいましたが、松林の堤は残って、いい散歩道になっています。


より大きな地図で 近代の公園 を表示

090502nakazaki5
松林の中に皇紀2600年の植樹記念碑が埋もれていました。
昭和15年頃に、改めて松?が植えられたようです。

090502nakazaki6
大きなシュロの木があるのも、近代の公園らしい風景です。


090502nakazaki7
ここにはラジオ塔もあります。
これを見るのも目的の一つでした。
明石市が昭和12年に建設したものです。

090502nakazaki8
裏に「明石市」の文字があります。

090502nakazaki9
中崎遊園地についてはここまで。
堤を降りると、明るい雰囲気の古そうな住宅がありました。

090502nakazaki10
隣の家も、洋館付き住宅のようなデザインです。もともと洋館付き住宅が建っていて、建て替えるときに元のデザインを生かしたと思うのですが、どうでしょう。

090502nakazaki11
海岸沿いに歩いていくと、細長い船だまりに出ました。
中崎遊園地ももともとはこんな地形だったのでしょう。

090502nakazaki12
明石駅に向かう途中、煉瓦敷きの道の奥に祇園写真室という写真館があるのが目に入りました。

090502nakazaki13
タイルをふんだんに使った建物です。
花街の写真館といった雰囲気。
今は静かですが、賑わっていたのでしょう。

090502nakazaki14
有名な魚の棚のアーケード。

090502nakazaki15
その向かいにある木村書店さんの脇には、スクラッチタイルの壁面が顔を見せていました。
明石は空襲の被害が深刻だったところですが、それでも戦前の建物も残っているようです。

前回の明石公園や明石港とはまた違った明石を見ることができました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月13日 (水)

明石の中崎公会堂

090502akashi1
網干を歩く前、明石公園にある県立図書館で資料を入手するため、明石に立ち寄りました。明石公園には昨年9月にも訪れています。
「阪神・山陽シーサイド1dayチケット」というのを使いましたので、乗り降りは自由。
せっかくなので、ついでのついでで、古い公園である中崎遊園地を歩くことにしました。

山陽電車の人丸前駅で降ります。
目の前には、明石のシンボル・明石市立天文科学館があります。
(今回こちらには行きません)
 ○関連ブログ記事:ひろの東本西走

090502akashi2
逆に海の方を見ると道の向こうに中崎公会堂、そして海は見えませんが、淡路島が見えます。
まず中崎公会堂を目指します。そのあたりが中崎遊園地(公園)です。

090502akashi3
途中、西国街道が横切っています。
歯抜けにはなっていますが、古い町家が残り、路側には凝灰岩らしい切石が連なっていました。

090502akashi4
西国街道上には「大日本中央標準時子午線通過地識〜」という石柱が立っていました。明治43年に明石小学校の先生が立てたそうです。

090502akashi5
中崎公会堂もほとんど子午線上に建っています。
(子午線でも天文系、日本測地系、世界測地系など複数あるらしいですが)
あえて子午線上を選んで建てたんでしょうか。

090502akashi6
明石市立中崎公会堂は、明治44年、「明石郡公会堂」として、明石町と11か村によって建てられました。奈良・鎌倉の建築様式を取り入れたかなり立派な和風建築です。設計は、のちに拓殖大学本館などを設計した加護谷祐太朗らしい。
昭和58年に改修工事が行われています。

090502akashi7
中に入ると廊下に取り巻かれた大広間があります。
基本的に和風なのですが、廊下との仕切りは洋風の桟をもつ半ガラス戸で、見通しのよい空間になっています。昔は海まで見渡せたのではないでしょうか。

090502akashi8
折上げの格天井には、七宝のような柄の華やかな装飾も。

090502akashi9
海側の廊下から。
黒い桟というのがうまく気配を消して、空間を広く見せています。
かっこいい配色。

090502akashi10
海側の廊下。

090502akashi11
照明器具はオリジナルを踏襲しているのでしょうか、革細工のような不思議なフードです。色は銅をイメージ?

和風の中にも洋風の要素がちりばめられていて、明治建築らしいとも思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月12日 (火)

網干の町並み(4)ダイセル異人館

090502daicell1
網干の街歩きの最後は、ダイセル異人館です。
もらった観光マップにここの紹介が載っていて、日が暮れかかっていますが、急いで見に行きました。
網干でも集落の外れにあり、工場緑化によって緑の多いところです。

090502daicell2
ダイセル異人館はダイセル化学工業の工場に向かい合うように建っていますが(手前の緑と奥の赤い屋根の建物)、塀もなく、野外住宅博物館のような、もっと雰囲気の良い一角になっています。今もダイセルの所有なのでしょうが、自由に眺められるようになっていて、ありがたい限りです。

090502daicellmap
このマップでいうとピンクの2棟がダイセル異人館です。
他はクラブやエンジニアリングセンターなど会社の施設。

090502daicell3
まずは資料館になっている緑の建物=旧図書館から。

ダイセルというと、大阪の私には堺の会社というイメージですが、ダイセル化学工業(株)は、大正8年(1919年)に、セルロイド8社が合併してできた大日本セルロイドを前身とするそうです。その8社の1つが、明治41年に網干で創業した日本セルロイド人造絹糸(三菱系)でした。

明治42年(1909年)に、この地に工場が建設され、技師長にイギリス人のクリーン、他に5名の技師職工がイギリス・ドイツ・スイスから招かれ、翌明治43年に彼らの居宅として洋風住宅が建設されました。その一部がダイセル異人館(ダイセル外国人技士住宅)です。
様式は19世紀末のイギリスのコテージの類似意匠がみられるが、アメリカのコロニアルスタイルとの共通点が多いとのこと。(案内板より)

090502daicell4
南面には大きく庇が張り出しています。

090502daicell5
コロニアルらしいベランダ内部。
開いてなくても、ここまで入れます。

090502daicell6
一方の赤い屋根の建物は、会社のクラブハウスになっていますので、途中までしか近寄れません。
緑の建物同様、角のある屋根が兜のよう。

090502daicell7
洋館付き住宅で真似られているようなデザインです。

090502daicell8
緑豊かな一角で、大きなユーカリの木がそびえています。
ユーカリって大きく成長するんですね。
南側には広い芝生が広がっていました。

090502daicell9
一方、工場の事務所も外からうかがった限りでは、このようにきれいです。

090502daicell10
古い工場も残っています。

このようにいい状態で公開していただいているダイセルさんには感謝です。
機会あれば資料館を見に来たいなと思います。
 →姫路観光コンベンションビューローの案内

網干編はここまで。
次は明石の予定です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月10日 (日)

網干の町並み(3)網干商工会館

090502aboshishoukou
姫路市網干区の街歩きの続きです。
浜田地区を一巡りしたあと、揖保川岸まで戻り、さてどちらに進もうかと対岸の興浜(おきのはま)を見渡しました。そのとき、上流の方に気になる赤い屋根が。壁面は緑に覆われていますが、屋根がなんとなく古そう。

090502aboshishoukoukai2
川を渡って近づいてみると。なんだこれは。

090502aboshishoukoukai3
表に回ってみて、これは近代建築の会館に違いないと分かりました。

090502aboshishoukoukai4
古い字体で網干商工会館。豆タイルの柱、丸窓も期待させます。

090502aboshishoukoukai5
扉が少し開いていたので、思い切ってお邪魔しました。

090502aboshishoukoukai6
さらに期待させる階段。
だめもとで事務所の方に、「中を見せていただけませんか?」とお願いしてみると、個人的な趣味ならと許可していただけました。
おまけに商工会の記念誌と網干のマップまでいただきました。
この建物は昭和15年に竣工したものだそうです。
所有者は網干商工同友会さんです。

1階では小学生が勉強をしているようです。

090502aboshishoukoukai7
2階へと続く階段。

090502aboshishoukoukai8
階段を振り返って。

090502aboshishoukoukai9
階段手すりの透かし窓。

090502aboshishoukoukai10
丸窓にはツタの緑、窓には揖保川。

090502aboshishoukoukai11
ツタの緑が室内に流れ込んだような緑の塗装。なんて素敵な。

090502aboshishoukoukai12
ツタ越しに揖保川がよく見えます。

090502aboshishoukoukai13
さらに驚くのが大会議室。
古いままじゃないですか、これは。

090502aboshishoukoukai14
演台の網干商工同友会の会章。
「A星」=「あぼし」?

090502aboshishoukoukai15
舞台袖の部分。

090502aboshishoukoukai16
ただの木枠ではなくて、こんな風に装飾入りです。

090502aboshishoukoukai17
舞台袖の階段は細工の丁寧さに驚き。
舞台もそうですし、豊かだった網干の建築にかける力を感じさせます。

090502aboshishoukoukai18
この建物がこうして古いまま残ったのは、網干町が、この会館の完成後わずか6年、昭和21年に姫路市に合併されてしまったことも一因かもしれません。

会館の前には網干川の船だまりがあるという絶好のロケーションです。
せっかく残っているのですから、ぜひうまく活用していただきたいなと思います。

事務所の方、いい建物を見せていただきましてありがとうございました。
見てみたいと思われた方、この建物は一般に公開されているわけではありませんので、事務所で尋ねてみられたらと思います。


| | コメント (8) | トラックバック (0)

2009年5月 8日 (金)

網干の町並み(2)漁師町の浜田

090502hamada1
網干の街道を西にたどっていくと、揖保川にかかる本町橋に出ます。
昭和32年架設の車道橋と歩行者橋が並んでいます。

090502hamada2
揖保川の上流方向。上流には龍野があります。

090502hamada3
揖保川の下流方向。海はすぐそこで、海岸部は工業地帯です。

090502hamada4
橋を渡ると広々した空間で、進むのがためらわれますが、思い切って進むと、再び旧街道と昭和の商店街が現れます。

090502hamada5
ちょっと面白い門柱がありました。

090502hamada6
網干の他の町もそうですが、このように銅板を貼った家がたくさんあります。いずれも亀甲であったり、菱形であったりと、きっちり貼られています。

090502hamada7
浜田の町でひときわ立派なのが屋台庫です。
調べてみると富嶋神社(たつの市御津町)の祭礼で使われるようです。

090502hamada8
町内でもう1ヶ所見かけました。
よほど祭りが盛んなんでしょうね。
屋台庫を見れば分かります。

090502hamada9
近くの小さなお社の玉垣を見ると、「網」の文字があり、漁師町だったことが分かります。浜田は江戸時代末まで漁業が盛んだったようです。

090502hamada10
今はふだんは静かで、こんな落ち着いた町です。

090502hamada11
ただ、渋いものだけでもなくて、近代風のものもあります。
和風の煉瓦塀を見かけました。

090502hamada12
洋館付き住宅風の家も。
屋根が玄関の上までかかっているのが、ちょっと変わっています。

090502hamada13
浜田の集落を街道の端まで歩くと、近代建築らしきものがありました。
陽福工業(株)と書かれています。

090502hamada14
正面はタイルですが、横を覗き込むと下見板張りです。
お隣のおばあちゃんに尋ねると、昭和7、8年頃に建ったおばあちゃんの家よりは後だけれど、戦前の建物ではあるそうです。

090502hamada15
溝付きのクリーム色のタイルに、市松模様に貼られた豆タイルが多少の華やぎを添えています。

このあたりをぐるりと回って、引き返しました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月 6日 (水)

網干の町並み(1)新在家と興浜

090502aboshi1
網干(あぼし)(姫路市網干区)の旧中心は、JRの網干駅よりも3kmほど南の山陽電車支線の山陽網干駅が近いのですが、それでも駅からは少し離れているので、知らなければ駅の周りを見渡して引き返してしまいそうです。

駅から南に細い道を入っていくと、向こうに特徴的な円錐屋根が見えてきます。

090502aboshi2
商店街に入る前に網干川を渡ります。
モーターボートが何艘も係留されていて、運河のような雰囲気。

090502aboshi3
旧網干銀行本店。今はタケダ洋品店です。
現在の建物は、大正10〜12年頃に竣工したそうです。
非常に風格があるので、実物を見ると写真よりも小さく感じられましたが、それでも意外なほど立派な建物です。店とはいえ、婦人服店ですので、ちょっと覗けません。

090502aboshi4
角の部分では非常に凝った装飾をしています。
人造石とタイルを貼っていますが、構造は煉瓦造だそうです。

090502aboshi5
こういうのもセセッションの一種なのでしょうか、側面は幾何学的なデザイン。

090502aboshi6
床下換気口の格子は植物模様のようです。

090502aboshi0
あぼしまち交流館前の案内地図>

網干の町は、揖保川河口の町で、大まかに網干川の北の余子浜(よこはま)、南西の興浜(おきのはま)、南東の新在家に分かれています。町名が違うだけでなく、江戸時代の万治元年(1658年)から明治維新まで、興浜と余子浜は丸亀藩領、新在家は龍野藩領に分かれていたようです。それだけ物流の重要拠点だったんでしょうね。

屋敷の構えからみて、江戸時代は興浜が賑わっていたようですが、近代に入って、新在家側に明治41年、三菱が日本セルロイド人造絹糸(株)(のちダイセル化学工業(株))を設立すると、化学工業が発展して、新在家の商店街が賑わったようです。旧網干銀行本店も新在家にあります。

090502aboshi7
今は寂れてしまった橋本町商店街のアーケードを抜けると、旧街道にぶつかります。
あぼし一番街という商店街になっています。
ここを西に歩いていきました。

090502aboshi8
モダンな店の扉。

090502aboshi9
通りには網干片岡庄屋塾という施設がありました。
大庄屋の江戸時代の建物を活用しているようです。

090502aboshi10
さらに進むと幅広の道に出て、道の脇に古い橋が残されていました。

090502aboshi11
案内板によると、これは「境橋」といって、新在家(龍野藩)と興浜(丸亀藩)の両藩を隔てる堀割に架かっていた橋だそうです。

090502aboshi12
橋を渡ると興浜。
高い望楼をもつ民家があります。
明治初期、大正期の山本家住宅です。
大正時代に先ほどの網干銀行の頭取や網干町長を勤めた方の家だそうです。
銀行と家とどちらも町並みから飛び抜けていたことでしょう。

090502aboshi13
とにかくこの興浜の町家というのは立派で、この玄関の石組みなどをみても、非常にきっちり作られています。

090502aboshi14
金刀比羅神社の隣にある魚屋さんは、元料理旅館などではないでしょうか。格式が高そうです。

090502aboshi15
興浜には深入りせず、街道に沿って揖保川を渡り、浜田地区を歩きました(改めて紹介します)。その後、興浜に戻って、網干商工会館(これも改めて紹介)から網干川沿いを歩きました。網干川沿いに近代建築が多いような気がします。

この建物は余子浜にある小林鍼灸整骨院さんです。
かなりきれいに改修されていますが、下見板張りの洋館だったのではと思われます。
(追記)
旧長久医院であると教えていただきました。
『兵庫県の近代化遺産』にも載っているのでした。昭和3〜5年の建物で、設計・施工は永岡組となっています。(2010.3.15記)

090502aboshi16
また面白いのが、川北にある新在家の幸町集会所。
赤い瓦屋根で左右対称、とくに両端に入り口を作っているのがユニークに思います。
直感的には昭和15年ぐらいの建物じゃないかと思うのですが、どうでしょう。

090502aboshi17
入り口部分に近寄るとこうなっています。

網干銀行にしても、この町に洋風の建物が建ったのは、ダイセルの外国人技師やその住宅に影響された部分もあるのかなと思います。

<追記:関連HP・ブログ>
 旅ぽた『網干&室津&+相生』2002年
 道草画日記「網干<1>のすたるじぃ」〜 2005年
 道草画日記「山陽網干・飾磨ポタ<1>巨大お百度石」〜 2007年
 (2010.1.23記)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

ページ分割を設定しました

ココログの仕様なのですが、カテゴリー別に表示すると全ての記事が表示されるため、画像の多い私のブログは非常に重くなります(とくにカテゴリー「日常旅行」など)。

そこで、風柳亭さんの「アーカイブページに目次とページングを付加するJavaScript」を導入させていただきました。なにぶん詳しくないものですので、不具合が出ましたら、対応できるかは分かりませんが、お知らせいただければと思います。

今後ともよろしくお願いいたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月 5日 (火)

高瀬川の橋めぐり(七条〜五条)

090430takasegawa1
京都の左京区を歩いた日のことですが、少し早めに出て、京都駅から五条まで、高瀬川沿いを歩きました。京都駅の東には、JRからもよく見える旧柳原銀行(柳原銀行記念資料館)があります。

このあたりは崇仁地区(旧柳原町)という京都最大の同和地区で、柳原銀行は町長だった明石民蔵ら地元有志らが明治32年に設立した銀行です。被差別部落民が地区内に設立した唯一の銀行とのこと。この建物は明治40年竣工です。柳原銀行は、大正期に山城銀行と改称して、昭和2年に閉店するまで営業していたそうです。この建物、元は河原町通・塩小路通の南西角にありましたが、道路拡幅に伴い、平成6年度から現在地に移築されました。

詳しくは柳原銀行記念資料館のHPで。
資料館は土曜日も開いているようなので、また見に行ってみようと思います。

090430takasegawa2
庭も屋外展示場みたいで、高瀬川の橋の親柱などがあります。
ここから橋めぐりをスタート。

090430takasegawa3
七条橋は大正元年のもの。さび色に染まるのは花崗岩なのでしょう。

090430takasegawa4
川幅はこれだけ狭いので、桜の枝は川向こうの道まで懸かっています。

090430takasegawa5
昭和4年の正面橋。方広寺大仏殿の正面にあたる正面通の橋だから正面橋。
・・・といいながら道が曲がっているので正面には見えません。
鴨川の橋も同名です。

090430takasegawa6
親柱は角柱を斜めに削った形です。
内側の角がぶつけられて欠けていますが、衝突防止に丸い石を埋めているところが京都らしい気もします。よそだったら自然石を置くところでしょう。

090430takasegawa7
以上のいわば公式の橋の他に、川幅が狭いので私的な橋も掛かっているのが楽しいところ。ワイルドな木橋は梁材の転用でしょうか。

090430takasegawa8
上之口橋。コンクリートをふんだんにつかった頑丈そうな橋で、よく見ると凝っています。アーチで支えられた橋です。

090430takasegawa9
華奢な名もない橋。

090430takasegawa10
こちらも同様に華奢な橋。銀色に輝いています。

090430takasegawa11
やがて元遊郭の五条楽園ゾーンへ。
ここに面白い橋がありました。六軒橋です。立派すぎるアーチだなあと思いましたが、昔あった橋の遺構のようです。結果的に随分ユニークな橋になっています。ほれぼれするようなアーチ。

このあたり川辺の雰囲気がよく、桜の季節だったのでカメラを持った観光客もそぞろ歩いていました。

五条楽園もデザイン的に面白いのですが、ささっと見る時間しかありませんでした。ぷにょさんのまちかど逍遥「京都 五条楽園のたてものめぐり」ほかにたくさん紹介されていますので、ぜひご覧下さい。

090430takasegawa12
最終的に鴨川の五条大橋へ。
ほんとは五条大橋たもとの五条児童公園を見に行く予定だったのですが、ここで時間切れとなってしまいました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月 4日 (月)

5月5日に網干で街歩きイベント

090502hanamatsuri1
兵庫県の網干に行ってきました。
本当は室津に行こうとしたのが、寄り道が過ぎて時間がなくなったのですが、網干も見どころの多い町です。

街中のあちこちにポスターが貼ってあって、
2009年5月5日に、「第5回 はなまつり in あぼし」(網干まちなかあるき)というイベントが開催されることを知りました。(←全然下調べしてなかった)

仏教の花祭りなので、お寺中心のイベントですが、町家の一般公開もあります。
旧神戸銀行=旧網干銀行本店(現タケダ洋品店)も一般公開と書いてあって期待したのですが、ポスターには内部非公開と書いてあって、内部非公開の一般公開ってなんだろう??

お時間のある方、いかがですか。

詳しい報告は改めてしますが、網干の雰囲気をダイジェスト版でお届けします。

090502hanamatsuri2
<旧網干銀行本店(現タケダ洋品店)>
 ひろさんのご報告で見てすごいなあと思っていた建物。
 ほんとに唐突にあります。
 大正10年の建物です。

090502hanamatsuri3
<網干川の船溜まり>

090502hanamatsuri4
<網干商工会館>
 お願いして中を見せていただきました。
 昭和15年の建築。

090502hanamatsuri5
<揖保川の本町橋>
 室津へと続く街道筋です。

090502hanamatsuri6
<旧街道の町家>

090502hanamatsuri7
<ダイセル異人館>
 平日は資料館として公開。明治43年の建築。
 外国人技師のために建てられました。

090502hanamatsuri8
<ダイセル異人館>
 こちらは非公開。同じく明治43年の建築。


 続きはこちら
 「網干の町並み(1)新在家と興浜」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年4月 | トップページ | 2009年6月 »