« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »

2008年12月

2008年12月31日 (水)

2008年お世話になりました

081230kitahama1

2008年最後の記事です。
今年は、大きなイベントとして、新潟旅行と中国の青島・煙台の旅行があり、書けませんでしたが沖縄にも出かけました。仕事が忙しくなかったこともあり、近場も含めると、よく出かけました。
とくに新潟は、印象深い街でした。

気になっていたものが次にはなくなっていることは今年も数々体験し、改めて機会を大事にしなければいけないと、身にしみて感じます。この経済状況で新規の開発は減るでしょうが、維持する力も弱まりますので、街はどう変わるのか。「文化どころではない」という空気は気がかりです。

日記といいながら、時間差が大きく、更新間隔がまめではないにも関わらず、まめに見に来ていただいた皆さん、思い出して来てくださった皆さん、ありがとうございました。

皆さま、良いお年をお迎えください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

懐かしの土岐

081211toki0
<土岐市駅前の東西の通り>

部屋の片付けもありますが、年内の記事は年内にということで・・・
今年は仕事で何度か岐阜県の土岐・多治見を訪ねる機会がありました。
多治見は名古屋から30分で快速の本数も多いことから、マンションが建ち、名古屋のベッドタウンになっているようです。川を越えるとちょっとレトロな街並みがあります。

土岐は一駅向こうにあるだけなのにずっと静かです。駅前から既に、多治見より一時代古く、懐かしい街並みがあります。住む人には分かりませんが、旅人には魅力的なところです。
出張の前後に土岐の街を歩きました。

081211toki1
駅前からまっすぐ伸びる商店街を歩いていると、右手に古そうな建物が目に入ります。

081211toki2
近づいてみるとお医者さんで、森川歯科と書かれています。
1936年(昭和11年)に建てられたものだそうです。
切妻の角がちょこっと折り込まれているのが洋風です。

081211toki3
壁面はボードのようなものが打ち付けられています。
なんだろう。

081211toki4
住宅の玄関に向かっては、お庭を通ってきっちりした石畳が敷かれています。

081211toki5
一方、医院の入り口は建物よりは新しそうで、全てタイルで仕上げられています。土岐も美濃焼の産地ですので、土岐らしい素材。

日が暮れてからもう一度通りがかったところ、この建物は裏側からも眺めることができ、出窓などがありました。

081211toki6
もう少し歩いていくと、左手にヒマラヤ杉が目に留まり、その下に下見板の和洋折衷の建物が建っています。
左右対称で、両翼に車庫と倉庫が張り出す個性的な構えです。
グレーの色合いは先ほどの森川歯科と同様。

081211toki7
こちらは山森清水商店と書かれていました。
陶器商さんらしいです。今は傷んでいますが、瀟洒な雰囲気があります。

081211toki8
旧道には古い建物が並び、2階には干し柿。

081211toki9
夕暮れの土岐川を南に渡ります。

081211toki10
民家の壁に残る「衛生伍長」のプレート。
電話番号だって3桁しかありません。

081211toki11
県道69号にかかる明楽寺橋。1939年(昭和14年)に架けられた橋です。
欄干のアーチは普通ですが、親柱にくらげのようなインベーダーのようなデザインが付いています。

このあたりに近代建築の土岐津陶磁器工業協同組合の建物があったはず、と思って見ましてみましたが、見つかりません。ようやく気付いたのは、向こう側にコンビニの看板が立っていて、重機が整地をしていること。取り壊されていたんです。2ヵ月前に、ちゃんとあることを確認していたのに!

対面にあったという土岐郵便局も既にありません。
時が止まっているように見えても確実に時間は経過しています。

081211toki12
気を取り直してさらに南へ。
すると下街道にぶつかりました。下街道というのは中山道と名古屋を結ぶ脇街道で、上街道=中山道に対する下街道です。善光寺参拝に使われたため、善光寺道とも呼ばれました。明楽寺橋の上流側に、これも古そうなコンクリート橋が架かっています。欄干のアーチが広く、こちらの方が私好み。残念ながら橋の名前も建設年も分かりません。

081211toki13
欄干は宝石風? 丸い珠を4つの爪が支えています。
大正時代の橋などで時々見かけるデザインです。

081211toki14
下街道に沿って東の方へ歩いてみました。
このあたりは街道沿いの古い集落だと思います。
すぐに遠山医院というお医者さんがありました。
和洋折衷の雰囲気があり、窓にダイヤモンド型の桟が入っているのが変わっています。

081211toki15
木製の文字の雰囲気がいいのですが、日も暮れて撮影は限界。

081211toki16
引き返して近くを歩いていると懐かしい感じの蔵がありました。

081211toki17
床下換気口を覗き込むと、繰り返しパターンの面格子がはまっています。明治時代ぐらいのものかもしれません。

今回はここまで。
いずれプライベートで訪ねてもいいなと思います。


| | コメント (2) | トラックバック (0)

五百羅漢跡の福島公園(大阪市福島区)

081207fukushimapark1
下福島公園に続いて、福島公園を紹介します。
福島公園はJR環状線・福島駅の南西にある小さな公園で、大正14年に葬儀場移転跡にできた公園です。福島区では一番古い公園です。葬儀場跡と思って見ると陰鬱に見えてしまいます。

葬儀場跡の公園と書くとタイトルにインパクトがありすぎるのでやめましたが、五百羅漢跡というのも間違いではありません。

地図で確認してみます。

081230fukushima_t13
<大正13年発行 パノラマ地図>

パノラマ地図に五百羅漢と書かれています。
煙突が立っているのは、焼き場の煙突なのでしょう。

081230fukushima_t10
<大正10年測図>

福島公園のだいたいの位置を網掛けしました。

五百羅漢は、黄檗宗の妙徳寺というお寺です。
摂津名所図絵に載るぐらいの名所でしたが、明治42年のキタの大火で焼失、大正6年に一度は再建されますが、南側百数十坪を火事を機に大正元年に開通した市電路線に、北側数百坪を市営葬儀場用地として大阪市に譲渡し、その後、東大阪市の額田に移転していったそうです。

→以上は、井形さんという方が大阪春秋に書かれている内容を参考にしました。
 なにわ福島資料館「五百羅漢寺の後日物語−福島から東大阪額田へ−」

081207fukushimapark2
赤丸を付けたところは、旧川崎貯蓄銀行福島出張所(ミナミ株式会社大阪事務所)です。
妙徳寺の境内だった一角に、昭和9年に竣工しています。
小さいのに映画のセットみたいな貫禄があります。

081207fukushimapark3
妙徳寺の移転理由は、周辺が繁華になったためとのことですが、大正の初めにできた市営葬儀場が大正の終わりにはもう移転してしまったのも、急速な都市化に原因がありそうです。
北斎場(長柄)か佃斎場に統合されたのでしょうか。その経緯は未確認です。

公園には注意をひくものはあまりなく、ただ、円形のコンクリートベンチが設えてあります。

081207fukushimapark4
面白かったのは、公園の門柱の上に盆栽の鉢が置かれていたこと。
花が一輪咲いています。
(ちょっと背景がごちゃごちゃして分かりにくいですね。)
向かいの家の人が置いているのでしょう。
この行為をほめていいものかどうか分かりませんが、うまくはまっています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月30日 (火)

紡績工場跡の公園−下福島公園(大阪市福島区)

081207shimofukushima1
前に大阪市福島区の江成公園を“裏庭的公園”として取り上げましたが、今回紹介する下福島公園もマンションなどに囲まれた中庭的な公園です。ただし、中央を大きく野球グラウンドが占めていますので、開放感があります。
この公園は、紡績工場跡につくられた公園です。


より大きな地図で 近代の公園 を表示

真上から見るとこんな感じ。

081228fukushima_t10
<大正10年測図>

大正10年の地図を見ると、1894年(明治27年)にできた大日本紡績福島工場(のち合併でユニチカ)と大福紡績会社(大阪福島紡績?)が並び立っています。また東側には福島三天神のひとつ、中の天神がありました。

今はいずれもありませんが、昔の名残らしきものが残っています。

081207shimofukushima2
まず、図の1の位置と思われるL字型の低い煉瓦壁があります。中の天神あるいは大福紡績会社の境界になっていたようです。間に細い通路が描かれていますので、いずれか。

081207shimofukushima3_1 081207shimofukushima3_2 081207shimofukushima3_3
煉瓦の刻印を確認すると、日本煉瓦株式会社(堺市)と推定される四弁花の刻印のバリエーションがほとんどです。
でも、他にもいろんな刻印が混ざっています。
081207shimofukushima3_4 081207shimofukushima3_5 081207shimofukushima3_6
<堺煉瓦(推定)>  <岸和田煉瓦>   <大阪窯業か>

これは何を意味しているのでしょう。
再構築された煉瓦壁なのでしょうか。

081207shimofukushima4
一部、通用門の跡もあります。

081207shimofukushima5
中の天神は戦災で焼失し、復興の嘆願もかなわず、上の天神(福島天満宮)に合祀されました。今は跡地の一角に、飛地境内地として、この記念碑と狛犬、手水鉢などが置かれています。

081207shimofukushima6
もう1つ、図の2の位置らしき場所、民家の裏に3mほどの高さの煉瓦壁が見られます。こちらは大日本紡績の境界壁ではないでしょうか。(状況が分かりにくいですが、引いて撮ると民家の庭が写ってしまうのでご容赦を)

081228fukushima_t13
<大正13年発行のパノラマ地図>

おなじみのパノラマ地図では、赤煉瓦の両紡績工場が描かれています。
しかし、第一次大戦景気での過剰投資の反動として大正11年秋以来、綿糸不況となり、小紡績会社が淘汰され、大福紡績も解散しています。(→神戸大学附属図書館の新聞記事文庫
また右手に描かれているのは曾根崎川(蜆川)ですが、大正13年(1924年)には埋め立てられました。

081207shimofukushima7
昭和2年(1927年)以降、数期に分けての莫大小(メリヤス)会館の建設は、曾根崎川の埋め立てが契機なのでしょう。パノラマ地図でいうと、堂島小橋の上のあたりです。なぜここに莫大小会館があるのかなと思っていたのですが、紡績工場との関連がありそうです。

081228fukushima_s07_2
<昭和7年発行の地図>

昭和7年発行の地図を見ると、大福紡績跡は福島球場となっています。
堂島の先端部である、合羽島の地名が残っています。

081228fukushima_s16
<昭和16年発行の地図>

昭和16年発行の地図では、大日本紡績もなくなり、昭和17年5月に下福島公園が開園します。

跡地が広大なため、下福島公園は敷地南半分の内側だけで、のちに北側は大阪厚生年金病院(昭和27年〜)、看護学校、大阪日産自動車本社(現在は移転)、玉川小学校(昭和30年〜)などに使われ、周囲はマンションになりました。

081207shimofukushima8
随分脇道に逸れましたが、下福島公園の中に入ります。
正面から入ると、この時期の公園に共通して植えられている(時期は分かりません)カナリーヤシが象徴的に立っています。

081207shimofukushima9
公園の片隅に「此花区町会勤労奉仕」の記念碑が建っています。
この「此花区」がポイントで、此花区は1925年(大正14年)に誕生、1943年(昭和18年)に福島区を分離しました。戦時中でもあり、下福島公園の整備に、当時の町会が勤労奉仕したということではないでしょうか。昭和16年から防空緑地が整備され始め、防空意識が高まりますので、延焼防止の観点からの公園整備ではないかと推測します。

090426simofuku2
(追記)前回訪問時は気付かなかったのですが、公園の西口に「下福島公園 昭和十七年四月開園」の文字のある石柱(柵の一部?)がありました。(2009.4.27記)

081207shimofukushima10
公園の中には、野田藤で有名だった藤邸の庭が移されています。
でも今は子供たちの格好の遊び場になっています。
子供はこういう場所が好きなんですよね。

081207shimofukushima11
青く塗られた鉄パイプがたくさん並んでいます。
これらは全て、殖やされた野田藤の藤棚です。
手前に紙がぶら下げられていますが、これは散歩者への呼びかけで、朝夕の散歩時に藤に水をやってくださいというお願いです。花が咲いたら花見でもしませんかと、うまくいけば、なかなか面白い仕掛けです。

090426simofuku1
(追記)4月、きれいに咲いた野田藤です。ちょっと花の数は寂しいのですが。(2008.4.27記)

081207shimofukushima12
下福島公園に多い木がイチョウです。
ちょうど訪れた時期は、黄葉の盛りでした。
この右手にはプールがあります。

紡績工場の歴史から藤、イチョウまで、意外と見どころの多い下福島公園です。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008年12月28日 (日)

写真展「魔法の夜」

081227mahounoyoru1
お知らせしました写真展「魔法の夜」を見てきました。
会場のビーツギャラリーは長堀橋の路地の奥、ビルの4階ですが、そこはちゅうちょせずに。

会場に写真家のナイトウヒロシさんがいらっしゃったので、説明を伺いながら、見せていただきました。期待通り、北浜・南船場の近代建築の写真です。
夜間撮影ではありながら、長時間露出のため昼間のようで、でも昼の光より陰影のあるような見たことのない表情です。階段を中心テーマに、どの建物も足下のディテールを撮られていました。

どの建物も見たことはあるんですけど、ディテールだけを示されると、どの建物か分からないものも多々あります。クイズとしての楽しみ方もできます。

このシリーズの出発点は、大阪農林会館の足下の石だったそうで、何の役に立っているか分からないのに存在感があります。多くの人が行き来した階段・入り口の、花崗岩、凝灰岩、タイル、テラコッタ等、それぞれの素材感が夜の魔法の光で表現されていました。

写真好きの方の視点は、また建築好きの人の視点と違うので、新しいことに気付かされる機会にもなります。今後も継続して撮られるそうなので、続きにも期待したいと思います。

明日、12月28日(日)は、12:00〜18:00
ナイトウヒロシさんブログの告知

081208harada1
※これは私のイメージ写真です。念のため。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月24日 (水)

萬福寺のかたち(宇治市)

081123manpukuji1

1ヵ月ほど前、大阪都市文化研究会(都文研)の歩く会で、宇治を歩きました。
今回は万福寺から六地蔵まで。萬福寺のデザインが興味深かったので紹介します。

萬福寺は、江戸時代の1654年に中国から渡来した隠元禅師が、1661年に開創した禅宗(黄檗宗)の大本山です。中国は明末・清初の時期にあたり、萬福寺は明朝の様式で建てられた日本では珍しい伽藍です。(→萬福寺公式HP

最初の写真は、一番表にある総門(1693年再建)です。

081123manpukuji9
この窟門(1768年)など、角の丸い中国風です。

081123manpukuji2
中国っぽさを感じさせるのが、この整然とした石畳です。
正方形の白い石を◇◇◇に並べ、両脇は緑がかった切石(石條)で囲んでいます。緑の石材は、宇治川河床から採れる宇治石(輝緑凝灰岩)という石臼などに使われる材があるそうですが、ちょっと違うかな。

この石畳は龍の背のうろこを表しているそうで、伽藍の軸を貫き、総門前には龍の目として2つの井戸があります。風水的な発想です。

081123manpukuji13
このように至る所に同じ石畳で統一されています。
日本の石畳だと変化を付けたりすると思うのですが、全体を一つの意志で統一するのが中国風かもしれません。

081123manpukuji3
石畳は最後に法堂(1662年建立)まで続いています。

081123manpukuji4
同じく法堂。卍くずしの匂欄が印象的です。

081123manpukuji14
法堂の横にある、格子のはまった丸窓。

081123manpukuji5
東側回廊に開梛(かいぱん)と呼ばれる巨大な木の魚が吊されています。日常の行事や儀式の刻限を知らせる法器だそうです。萬福寺を代表するキャラクターになっていて、お土産物にこのデザインが多く使われていました。

081123manpukuji6
どこから見ても中国風の香炉。

081123manpukuji7
桃の模様が使われているのも特徴です。これは大雄宝殿(1668年建立)の桃戸。
桃は魔除けの意味があるそうです。

081123manpukuji8
開山堂の垂れ幕にも桃が使われています。

081123manpukuji11
境内の西側に石碑がありました。
中国でよく見かけるタイプの石碑です。
今の今まで、これは亀だと思っていたのですが、贔屓(ひいき)といって、龍の九匹の子の一匹なんだそうです。贔屓って動物だったのか・・・
 →wikipediaの贔屓の項

081123manpukuji10
境内の石畳はほとんどが最初に紹介した龍のモチーフの石畳なのですが、一ヶ所だけ違う石畳があります。
氷烈文(氷裂文?)という氷が割れたような不規則な文様です。

081123manpukuji12
開山堂(1675年建立)は、隠元禅師を祀るお堂で、この石畳は開山堂に向かう道に使われています。氷烈文は日本海の波濤を表しているようです。(隠元が渡ったのは東シナ海を長崎までのようですが)

日本のお寺と違うデザインがそこかしこに見られるのが、萬福寺のひとつの楽しみ方かなと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月21日 (日)

写真展「魔法の夜」というのがあるそうです

081221mahounoyoru1

 年末に、ナイトウヒロシさんという方の「魔法の夜」という写真展があるようです。
 夜の大阪のレトロビルがテーマなのでご紹介しておきます。

 ナイトウヒロシ写真展「魔法の夜」
 日時:2008年12月26日(金)18:00〜22:00
          27日(土)13:00〜22:00
          28日(日)13:00〜18:00
 会場:BEATS GALLERY(最寄駅:長堀橋か心斎橋)
 →ナイトウヒロシさんの紹介
 
 ※ナイトウヒロシさんのブログに詳しい説明が載ってました!
  大阪の北浜・南船場のレトロビルを夜間長時間撮影されたそうです。
  →ブログの告知記事

| | コメント (0) | トラックバック (0)

構成主義?の新港貿易会館(神戸市)

081122shinko1
甲子園の後は、神戸に向かいました。
神戸税関が特別公開ということで見に行ったのですが、すぐに終了時間になってしまってあまり見れず。仕方なく、近くの近代建築などを見て回りました。

三宮からフラワーロードをずーっと海に下っていった先の新港地区には、神戸税関(1927年)、旧市立生糸検査所(1927年)、旧国立生糸検査所(1932年)や三井倉庫(1926年)、三菱倉庫(1925、1928年)、住友倉庫(1926、1962年)、川西倉庫(1925年)の大きな4〜5階建て倉庫群などが立ち並んでいます。

その中でも気に入ったのが、この新港貿易会館(旧新港相互館)(1930年)です。貿易関係者の事務所やクラブハウス的な建物だったそうです。試しにこの名前で検索してみるとファンの多い建物です。

遠目には落ち着いたスクラッチタイル張りの、飾り気が多いとはいえない建物ですが、魅力的なのはその細部意匠です。

081122shinko2
まず丸窓とこの格子の模様。
この格子はアール・デコの中でも構成主義の流れを汲んでいるように見えます。
この前、伊勢竹原で見た格子と似たような系統に思えます。

081122shinko3
また玄関上部にはこのような門灯があったり、

081122shinko4
ひさしの間にも同様の格子があります。

081122shinko5
今は使われていない受付にも同様の格子があります。
郵便マークが読み込まれているという説も。歯車を読み込んでみたり、何かを読み込むのはこのパターンの遊びでしょうか。

081122shinko6
さて再び玄関。玄関は角にあるので、内廊下とは斜めに向き合っています。そこがまた変化があってよい感じです。船内のような雰囲気もあるのですが。
玄関上部には3枚組のステンドグラスがはまっています。
中央は、真正面から見た船のようなデザイン。

081122shinko7
突き当たりの部屋のステンドグラス。
これも真正面から見た船のようですね。

081122shinko8
階段は余裕を感じさせる大理石の親柱と手すりです。
もっとも上層階は木の手すりと鉄の柱ですが。
奥に見える丸窓が最初に紹介した構成主義風格子の丸窓です。

081122shinko9
そして4階階段室のステンドグラス。
船というより、プロペラ飛行機を上から見たところのように見えませんでしょうか。

貿易関係者の明るいセンスを感じさせる建物だと思います。

○関連HP
 神戸市都市計画総局
 “神戸建築物語 第1回 海と空・二つの神戸開港物語”

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月18日 (木)

尼崎の段蔵

081206amadankura
段蔵というのは洪水に備えて、階段状につくられた蔵ということで、淀川流域に見られるものだそうです。
たまたま尼崎の道意町を歩いていて、段蔵を見かけました。
3色ストライプがリズムを感じさせます。
ここも淀川文化圏なのでしょうか。

川沿いの低地ですので洪水対策なのでしょうが、近くの尼崎センタープール前駅南に立つ表示柱を見ると、室戸台風の高潮による水位5.10m、ジェーン台風による水位4.30mの位置が示されていますので、この蔵は水没しているはず。

081206amadankura2
反対側から見たところ。門構えや石段も立派です。
尼崎の海岸部には意外に古いお屋敷が残っていて、工場以前の尼崎を見せてくれています。

○関連ブログ
 “まちかど逍遥”
  御領水路を見に行く(大東市の段蔵の例)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月14日 (日)

甲子園住宅地の境目を歩く

ちょっと更新間隔が開きました。
旧甲子園ホテルを見学したあとのことです。
甲子園住宅地を歩きながら阪神甲子園駅まで歩こうと思ったのですが、時間に余裕がなかったので、甲子園住宅地の西の境目を歩いてみることにしました。

Koushien1
<甲子園開発前の状況。ベースマップは明治20年頃>

まず全体の位置関係から説明しておきます。
甲子園口から甲子園の海岸にかけて、かつては武庫川の支流である枝川、申川という川が流れていました。大正11年(1926年)に兵庫県は武庫川の河川改修を決定、枝川・申川は廃川とし、河川改修と新阪神国道(国道2号)の整備費に充てるため、河川敷を民間に売却することにしました。これを買収したのが阪神電鉄で、廃川により生じる80.72haのうち、道路・水路敷を除く73.92haを阪神電鉄が取得し、近郊リゾート・住宅開発が行われました。

Koushien2
<甲子園開発後の状況>

開発はまず甲子園球場や海水浴場などリゾート開発から始まり、アクセスとして路面電車の甲子園線や阪神国道線、博覧会とその跡地利用の遊園地、昭和3年から中甲子園経営地など順に甲子園住宅経営地の開発が進み、昭和5年にリゾートホテルの甲子園ホテルが建設されました。浜甲子園健康住宅地は廃河川敷ではなく、追加で買収されています。

081122shinhorikawa1
今回は、上甲子園経営地・中甲子園経営地の西の境目を歩いていきました。境には新堀川が流れています。「新」とは付きますが、寛永13年(1636年)に新田への用水として武庫川の外側に開削された水路ですから、十分古い川です。

この写真では右が上甲子園経営地、つまり旧枝川で、天井川だったのではないでしょうか。かなり高低差があります。境界には石垣が続き、城跡のよう、新堀川を渡る入り口は城門のようです。
正面の住宅にはステンドグラスがはまっていますが、うまく撮れず。

081122shinhorikawa3
反対方向(北→南)から見たところです。
この橋は昔のものが残っているのではないでしょうか。昭和初期の雰囲気があります。ちなみに新堀川は1999年に改修されたようで、それ以前はこちら側に古い桜並木があったようです。

081122shinhorikawa2
こちらは石垣に埋め込まれた大樹。
後からそんな植え方をするわけもなく、もともと堤防に生えていたのでは?
堤防に生えていた松はそのまま住宅地に生かされたそうです。

081122shinhorikawa5
ちょっと住宅地の中にも入ってみました。
家は建て替えられていますが、アーチ付きの門が残っています。これでも裏門です。

081122shinhorikawa7
国道2号線とクロスするところにはちょっとした橋が架かっています。亀甲模様と四角形が彫り込まれ、国道2号線の大きな橋よりはかなり簡略ながら、デザインは意識されています。

081122shinhorikawa8
なおも新堀川沿いに歩いていくと、こんな樋門跡がありました。
西宮市文化財のプレートがはまっています。「鳴尾北郷義民 旧樋門跡」で、天正19年(1591年)夏、「大干魃の際、ここ新川から鳴尾村を救うため、25名が犠牲になられた」という説明です。隣の瓦林村の新川から密かに枝川をくぐる水路を導き、それが発覚して水争いとなり、関係者が処罰されたということのようです。

081122shinhorikawa9
枝川が阪神をくぐっていたところには、しゃれた橋脚の枝川橋梁があります。
大正14年竣工ですので、枝川が埋められた後に、改めて作り直された橋脚のようです。大正13年にできた甲子園球場が目の前ですので、とくに意識してデザインされたのではないでしょうか。

甲子園住宅地については改めて歩いてみようと思います。

○関連HP
 “Old Map Room”旧版地形図を楽しむサイト。甲子園周辺の変化を地図で追っておられます。
 ・大正時代からある野球場

○関連ブログ
 “まちかど逍遥”
  ・鳴尾〜甲子園を歩く
  ・甲子園口まで歩く

| | コメント (4)

2008年12月 2日 (火)

陰影ゆたかな旧甲子園ホテル

081122koshienhotel1
武庫川学院甲子園会館=旧甲子園ホテルの特別見学会に参加してきました。
(普段でも予約制で見学できるらしいので、どう特別かよく分かりませんが。)
楠松祭、近代化遺産全国一斉公開に合わせたものです。
すごいとは聞いていたので非常に楽しみにしていました。

集合場所に行くと、15名ぐらいずつグループに分かれ、大学庶務課の方が解説をしながら案内してくださいます。

1枚目の写真は(逆光になっていますが)正面部分の写真です。
これに両翼が張り出しています。2階が低いのは、泊まられた皇族の方が屋上から手を振られることを想定しているとか。それほどの格式です。左右に聳える寺のような塔は煙突。

旧甲子園ホテルは、昭和5年(1930年)に高級リゾートホテルとして建てられました。
武庫川の分流である枝川・申川の廃河川敷を利用した、阪神による甲子園住宅地・リゾート開発の一環として計画されたものです。東には武庫川と松林、南には昭和2年に開通した新阪神国道という立地でした。とてもゆったりした敷地です。

ホテルはフランク・ロイド・ライトの弟子である遠藤新が設計しました。「西の帝国ホテル」と呼ばれ、海外の賓客、国内の政財界要人、軍人、皇族などが宿泊し、阪神間の財界人・文化人らのサロン、結婚式、会食、新婚旅行にも利用されたそうです(『近代日本の郊外住宅地』)

しかしホテル時代はわずか14年で終わります。昭和19年に海軍病院、昭和20年に米軍将校宿舎、昭和32年に大蔵省管理と所有が変わり、昭和40年に武庫川学院が譲り受けて大学施設となっています。そのとき客室は教室に変わりました。

081122koshienhotel6
まず外から見ていくと、壁面には素焼きのボーダータイルが使われています。焼きむらのグラデーションに加え、光線の加減で目地に陰影ができ、美しい表情です。軒下の排水溝にはレリーフで縁取られた日華石(観音下石(かながそいし))、瓦は京都・泰山製陶所の緑釉瓦を二重に。緑釉瓦は周囲の松林と調和させているそうです。

屋根の上には打出の小槌の形をした宝珠が載っています。
打出の小槌はこのホテルのモチーフであちこちに見られます。お隣の芦屋の打出が、打出の小槌伝説由来の地だそうですが。さらに、そこから滴る水(金?)もモチーフなのかもしれません。

081122koshienhotel5
排水溝のアップ。水が滴るようなデザインが施されています。
館内展示などによれば、素材の日華石(観音下石)というのは、石川県小松市観音下町で大正初期から産する凝灰岩で、国会議事堂や遺跡の補修用にも使われているそうです。この甲子園ホテルでは全ての石材部に使われています。白、赤、青があるうち、ここでは赤が使われています。

ただ、補修用には黄竜山石が使われているそうです(1階階段、巾木、床周り、屋上階段笠木など)。

081122koshienhotel3
屋上に上がると、塔屋部分が板を複雑に組み合わせているのが分かります。
バランスの取り方は設計者のセンスですね。
なお、屋上はビアガーデンにも使われたそうです。

081122koshienhotel4
塔屋の壁面などに使われているのが、素焼きのテラコッタタイルです。1枚のデザインは正方形を凹凸を付けてずらしたような複雑なパターンですが、1種類の型を4枚1組で増幅させてさらに複雑な陰影を生み出しています。加えて、粘土の鉄分や焼きむらでさらに表情ゆたかに。

081122koshienhotel7
ホテルの庭側(南側)はこんな感じ。
大きな持ち送りのような石柱が並んでいる奥はラウンジです。その上には6つの打出の小槌。

081122koshienhotel8
左右の壁面には、アールデコの絵画のような石壁があります。その意味するところは? 落ちた水滴が跳ねているように見えますが。

081122koshienhotel2
中に入って、赤じゅうたんの敷かれたメインの廊下と柱です。こんな複雑な柱はなかなかないのでは。右が玄関で、左がラウンジ。
廊下やシャンデリアの照明具はシェル型という、オウム貝を横に割ったような形が基本パターンで、場所によって複数組み合わせています。

081122koshienhotel9
この西ホールは、ダンスホールや宴会場として使われました。結婚式場にもなったそうです。手前は障子を並べたような市松格子の光天井。向こうは金の鍾乳洞かと思うような濃密な天井。打出の小槌から水滴が滴って受け皿に注いでいます。誰の趣味なんでしょう。

081122koshienhotel10
最後に酒場に案内されました。
ここの床には京都・泰山製陶所のタイルの試し焼きが敷き詰められているそうです。見本帳を床にしたようなもの。色合いといい素敵なスペースです。

今回は秋晴れの午後に訪れましたが、これだけ陰影ゆたかなので、季節、時間、天候により、その表情を変えてくることでしょう。また違う光の中で訪ねてみたいと思います。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »